心の水底と、心性の暖炉
清祥は沈んだ意識の中で、一つの悪夢を見た。忘れ去ろうとしていたはずの記憶がよみがえった。
コンプレックスは誰もが一つぐらい、抱えているものだ。自分は屑だ、自分は優しくない、そういった精神的なものから、体型などの肉体的なものまで多岐に渡る。その中でも、清祥の悩みは肉体的なものに属する部類だった。
清祥の顎は少し突き出ていた。顎の矯正を五年以上続けており、今日ではそこまで目立つこともなかった。とはいえ、手術の必要があるんじゃないかと、先生からは言われていた。このコンプレックスが特に刺激されたのは、自我の芽生えが薄い、小学生のときであった。その頃の清祥は、愛をただ漫然と受容し、引っ込み思案なだけの子供だった。
しかし、ある日のこと、校庭を見つめていた時に、目をつけられてしまった。清祥は昔から運動が苦手で、わいわいと友達と騒ぐのは好きなのに、ボールを取りこぼしたり、足が追いつかなかったりで、申し訳なくなり、外の遊びからは自然と距離をとっていた。
校庭を眺めていると、清祥と一人の少年との視線が直結した。清祥はそのまま見つめられ続けたため、何となくいたたまれない気持ちになって、校庭を見るのを止めた。特に訳もなく、偶然に目が合っただけだった。それ以来、たまに鉢合わせると「お前、顎星人だな」と、小学生らしい、安直なあだ名で呼ばれるようになった。
決定的な出来事は、ある日の放課後に起こった。その子と仲の良い、彼の子分である少年と口論になってしまったことだ。件の少年と同じ丸坊主で、清祥よりも小柄だった。清祥はその小柄な少年が、自分をいじめる少年の子分であることから、少し拒絶的な対応をしてしまった。それが癪に障ったのだろう。その子分は親分に告げ口し、清祥を始末しようとした。
必死で夢中になって階段を駆け下りたが、清祥はとうとう、少年らの魔の手に捕まってしまった。壁際に追い詰められ、襟首を掴まれ、親分の少年は拳を振りかぶった。
しかし、いつまでたっても殴られることはなかった。
「お前、嘘に決まっているだろう。馬鹿だな、本当にキモッ!」
と、高らかに嘲笑しながら、二人の少年は帰って行った。彼らは殴ることで面倒が起こることを、人生の経験が短い若輩の身で知っていたのだった。内気な清祥は、今までに殴る蹴るなどの行為をしたことは、幼稚園の年少組み以来のことだった。しかも、一方的に絡まれるようなことは一切なかった。
そうして、この事件は清祥の心に、歪な人格を産むほどの、確実なトラウマとなって刻まれた……。
そこまで記憶が奥底から出てきたところで、清祥の悪夢は再び心の奥底へと帰って行った。
目を覚ました清祥が最初に気がついたことは、両頬に伝っている雫だった。ゆっくりと上体を起こし、大きく息を吐き出した。嫌悪感で溢れる夢を見たことで、寝覚めは最悪の状態だった。寒くはないのに小刻みに身震いし、喉が詰まったかのように、呼吸が重苦しかった。
清祥は指先で目元をぬぐい、制服で水滴をふき取った。爆ぜた硝子の破片が圧縮され、一点に凝縮されたような心持ちで、辺りを見回した。清祥が今まで寝ていたのは、柔らかい布団のしかれた、太陽の匂いを感じるベッドだった。枕の側の横には、大きな本棚が置かれていた。ベッドからすぐに手の届きそうな下段には、分厚い本が何冊もあった。小ぢんまりとしたテーブルがベッドの傍に置かれており、その上にはページを開いたままの本があった。ここの住人はどうやら、寝転びながら本を読む習慣があるらしかった。
部屋の内装を見渡す内に、だんだんと昨日の出来事を思い出して来た。自分が見知らぬ土地に移動していたこと、おぞましい怪物に襲われたこと、そして、あの紅紫色の髪を持つ美女が助けてくれたことを、順番に思い出して行った。
「そうだ、今あの人はどこに」
と、清祥は布団から出て、あの女性を探そうとした。その時、部屋のドアが内側に開いて美女が登場した。彼女はドアを後ろ手に閉めると、微笑みながら清祥に近付いた。昨日は月光と星明りだけだったために把握できなかった全身が、今は窓から差し込む日光に部屋の全体を照らされ、彼女の姿が良く見えた。薄暗い色と称されるマゼンタだが、格調の高い気風を放つ彼女と、うまく調和が取れているように見えた。長身で無駄のないプロポージョンは、鍛え抜かれた精神の気高さを表しているようだった。凡人とは確然とした違いがあり、自然から寵愛を受けているような女性だった。ゆったりとしたローブにはシワがほとんど寄っておらず、魔法使いのような神秘さと、武人のような気迫を兼ね備えていた。
思わず見とれかけたが、お礼を言わねば、と清祥は口を開いた。
「あの、先日はありがとうございました!」
と、頭を下げた清祥だったが、顔を上げると、女性は驚いているようだった。もしかすると、日本人の容姿とはかけ離れているから、言語が通じていないのかもしれない、と清祥は今更にして思い至った。すぐさま英語で思いを伝えようと、再び口を開いたと同時に、何かが入った小瓶を突っ込まれた。
くぐもった声を出したが、突然のことだったので、一気に中身を飲み干した。ゴホゴホと咳き込んだが、その液体を飲ませた張本人が、柔らかい手つきで背中をさすってくれた。どうやら毒ではないようだった。
咳が収まると、女性は手を離して話を始めた。
「やあ、私の言葉は通じるかな?」
凛々しくて張りのある声だったが、可憐で優しい声色も含んでいた。何よりも、明らかに言葉が通じないと思ったのに、突然会話が可能になったことに、清祥は驚いた。
「え、いや、なぜ言葉が通じているんでしょうか?」
「うん、まあ、市場には流していないからね。私が開発したものなんだ。一応は完成したんだが、ちゃんとした他人への実証をしていなかったから、これ幸いにと思ったんだよ。この魔法式を創るのは、苦労したなあ」
清祥はそんな効果がある薬を知らなかった。そもそも、現代の地球の科学力をもってしても、電子機器の使用が必須とされている翻訳機能を、薬で実現したことは信じられなかった。しかし実際に目の当たりにすると、これはいよいよ信じざるを得なかった。
未だに清祥が頓狂な顔をさらしていると、「こちらに来るといい」と女性が部屋を後にした。清祥は慌てて彼女の後ろに引っ付いていった。廊下に出て少し歩き、左側の格式あるドアを開くと、広いダイニングの部屋だった。美女に促されて、清祥は椅子に腰掛け、彼女と向かい合う形になった。
「さて、まずは自己紹介だ。私からだが、私の名前はカッツァコと言う。よろしく頼むよ」
と、謎めいた美女ことカッツァコは、右の手の平を清祥に差し出した。握手をすると考えた彼は、自分の右手を彼女の手に乗せて、きゅっと握った。しかしカッツァコは、少し戸惑った顔で笑った。
「君の国では挨拶の時に、手を握るのかい? けどここらでは、やり方が違うんだ」
文化の相違を指摘したカッツァコは、清祥の右の手首を左手で掴み、裏返して自分の中指と彼の中指とを軽くつけた。
「これが、ここの挨拶の一つさ。掌を見せることで敵意がない、自分の内をさらけ出すと示し、中指を付けることで繋がりができた証とする。握手と言うのは、そちらではどのような意図でするんだい?」
清祥との文化の違いを説明したカッツァコは、今度はそちらの文化を教えてくれと、清祥に言った。しかし、彼が明るい知識は少しばかりの文学と音楽だけであり、細部の文化にまでは知識が及んでいなかった。それを告げると、彼女はあっさりと引き下がり、次の話を始めた。
「君の名前は? 君は何であそこに倒れていたんだい? この森に人が入るなんて久々だよ?」
興味深いと言う風に質問されたが、清祥は少しだけ迷った後、正直に語った。
名前は小雲月清祥といい、自分がここにいた理由は不明であり、この森が見えたので駆けたこと、この小屋の家主に助けを請おうとしたことなど、じっくりと説明するように心がけた。話しが終わると、カッツァコは腕を組んでしばらく思案した。それも当然だと、清祥は感じた。こんな突拍子もない話、自分であったら不真面目に耳を傾けるだけだろうと思った。
しかし、丹念に説明したのが通じたのか、カッツァコは一度大きく頷いて、
「よし、信じよう」
と言って、立ち上がった。
そして清祥を連れて部屋を出ると、彼が寝ていた部屋の本棚から、いくつかの本を取り出した。それぞれが別々の言語で書かれており、清祥の知らないものばかりだった。しかしその中の一冊に、日本語が含まれていることに気がついた。
清祥はそれを手にとって、目を見開き上ずった声で、
「これ、俺の国の言語です。日本語ですよ」
最後のほうのページを開くと、出版された日にちも書いてあった。
「それも少し古い、昭和中期に出版された物ですね」
ベージュの表紙の赤い大事を読むと、「日本文学全集・太宰治集」と書かれていた。
「なるほど」
清祥の驚きようを見て、カッツァコは真剣な表情で語り始めた。
「それらの様々な言語で書かれた本は、たまに時空の境界線からこぼれ落ち、特にこの森に落ちてくる。そういうのを見つけて、私は家に持ち帰っている。どれも私の呼んだことがないものだ。しかしだ!」
と、清祥は両肩をぐっと掴まれて、カッツァコの目と合った。彼女の目はらんらんと輝いていた。
「ここに、君と言う翻訳できるものが現れた。これはまさしく運命だと、私は思うんだ。一つでもいいから解読したいと、常々考えていたんだよ。薬を飲んでも、字の音や意味は分からなかった」
饒舌に乗るに連れてカッツァコの顔が近付いて来て、清祥はどぎまぎとしてしまった。何しろ快活さに溢れ、その熱意がひしひしと伝わって来たからだった。
「君、私の下で働くといい。帰還する方法も探すから、それまで頼めないか?」
清祥は別に必ずしも帰りたいとは思わないが、彼女の頼みを無碍にするのも、御恩がある身では断れそうになかった。二つ返事で了承すると、カッツァコは清祥の体を引き寄せて抱きしめた。
「いやあ、嬉しいよ。ようこそ、我が家へ! 私は君を歓迎する!」
人肌の暖かみに触れて久しく忘れていた情愛に包み込まれ、清祥の顔は知らず知らず暖色に紅潮していた。




