2-22 『狂気』
「あぅ――ッ!」
「おいっ!」
油断した少女が、背後で立ち上がったクイムに気づかず、捕まってしまった。喉元を腕で絞められ、少女は苦しそうにうめいた。今度は慟哭すらあげられず、びくびくと痙攣したのち、少女は気を失った。
今度はクイムの攻撃が効いている?
クイムは血走った眼で僕を睨み付けると、豪快に笑った。肩が上下する度に、斜めに斬られた傷口から鮮血があふれ、ビチビチと地面に流れ落ちた。
「ぐあははははっ! 殺す! 殺す! こいつさえいなければ……わが主は! ぐあはははは! 死ね! 【舌壊断んんんん】! 貴様に生きる価値などなぁぁぁぁっぁああああい!」
「ふざけるな! お前にそれを言われたくないんだよ! 平気で仲間を裏切って、他人の大切なものを傷つけるお前を、僕は許せない! ……ぐっ」
僕は少女を助けるために立ち上がる。しかし、身体が言うことを聞いてくれない!
立ち上がれなかった。クイムと戦った傷の痛み、疲労感、血を流しすぎて生じた倦怠感……そのすべてが一気に押し寄せてきた。立ち上がろうとした僕は、立ち上がることが出来ずに前のめりに倒れた。
視界が渦巻いて、グルグルと回った。焦点があわない。くそ……せっかく守ったと思ったのに!
クイムは僕の醜態を見下ろして、嗤った。なんでこいつは、ここまでの傷を負ってもまだ立ち上がれるんだ!?
それは体格の差かもしれない。しかし、クイムもクイムとて、万全の状態ではないことに変わりない。クイムも同じように、ふらふらしていた。
しかし、殺されかけたクイムは完全に狂っていた。自分の怪我に気づいていないかのように、クイムは大声で笑い続けていた。
「ぐああはははははは! 貴様も限界だな! 殺してやるぞ、貴様ら全員! 主のために! オデは主の敵となる者共すべて地に貶めてやるのだぁああああ!」
「ぐっ……ぁあ……」
クイムが僕に近づき、倒れた僕の背中を踏みつけた。ボキボキ、ベギベギと骨が軋む&折れる不快な音が、身体の内側から聞こえた。
痛みに呻く僕を嬲って、面白がっているんだ! 街で見たクイムと今のクイムは、まるで別人だ。本当に別人ならよかったのに、と思うけれど。
「タグよ! タグよ! 背反者よ! 貴様が守りたかったこの【舌壊断】! オデが殺す! 後悔して死ね! むせび泣いて、己の弱さを恨み、世界を憎み、運命を呪い、そして、竜を崇めた自分を馬鹿だと罵りながら死ねえええええええっ!!」
「ぎゃああああああああああああああああ!!」
クイムの重さがどんどん増してって、僕は潰される。細胞がブチブチと潰されていくのが聞こえた。耳の中で、パンッと鼓膜が破れて、何も聞こえなくなったはずなのに。生暖かい自分の血が気持ち悪くて、ぬぐいたかった。しかし、その腕も伸ばせないほどの痛みに襲われて、僕はなされるがままに成るしかなかった。
――殺される。
それが間近にやってきていた。殺される恐怖が。そして、大切なものを失う喪失感が。
歯を食いしばった。背中にのしかかるクイムに負けぬよう、潰されかけた肺に空気を入れて、僕は哭く!
「僕は! これ以上大切なものを失いたくないんだあああああっ!」
「負け犬が! 遠吠えするなら、オデの耳の届かぬところでしろ! 貴様は死ぬ! 【舌壊断】も死ぬ! 死ね。死ね! 神を信じぬ者共は、全て死んでしまええええええええっ!!」
「守らせろ! 僕は負けたくない! 僕は、助けなくちゃいけないんだあああぁあぁぁああぁッ!」
しかし、無力な僕は、叫ぶことしかできなかった。潰されていくのは身体だけではなく、精神も……意識も……次第に潰されていって……。
それが来た時、僕はついに死んだのかと思った。
「グォオォォオオオオオオォォオォォォッッ!!」
「ぐおっ!」
突風が吹きすさび、思わずクイムは僕から離れた。少女を手放して両手で顔をおおい、飛んでくる砂塵から目を守ると、クイムは叫ぶように訴える。
「誰だああああ! 背反者の処刑の邪魔をする者はああぁぁああ!?」
突風を巻き起こした張本人は、クイムを見下ろして、ふんと鼻で笑った。鋭い眼光が、クイムを射すくめさせ、僕は失いかけの意識が覚醒するほどの恐怖に、身の毛がよだつのを感じた。
殺気だ。
クイムに向けた、本気の殺気が、圧倒的なまでに強い殺気が、意識を失いかけた僕にまで届いてくる。それどころか意識が覚醒した。
竜が、怒り猛った咆哮を上げた。
「グオオォォォォオオオォォッッ! わたしの友を傷つける者は、貴様かッ! わたしの、大切な子どもたちを奪い去ろうとしたのは、貴様だったのかああぁ!!」
「なんで竜がいるのだぁぁあっ!? 我が同胞が、我が同胞が! 貴様を殺したのではないのかああ!」
「ふん。わたしがあの程度の巨人にやられてたまりますか。雑魚を集めても脅すことしかできませんよ。小さな魚が、天敵に対して自分たちを大きく見せようとするように、お前たち巨人は集まって、わいわい騒いでいたにすぎません。雑魚が。雑魚雑魚」
巨人は人間の中で大きな種族なのに、竜はそう言いのけた。それは、巨人たちを挑発すると同時に、屈辱的な気分にさせられる言葉だった。だけど、狂ったクイムは、そんなことを気にしてはいられなかった。
「くっ……本当に使えないやつらが! ああ、主よ! 主よ! なぜ我らにこの醜き竜を、背反者どもを! 殺させてくれないのですかああああ! うあああああん」
「くははははっ! 最後は神頼みですか? そうすることしかできない雑魚に、わたしが殺されるわけないでしょう!? 何より、私の大切な子どもたち、そして、わたしの友たちを、こうして傷つけておきながら、のうのうと生きていられるわけがないでしょうがッ!!」
竜がその大きな翼を広げた。瞬間、竜から威圧感が漂ってきて、クイムは立ち上がれなくなって膝をついた。
「ぐあ……」
呻くが、竜の威圧が彼を立ち上がらせない。神の信者としては、敵である竜に跪くなんて、考えられないほどの屈辱だろうが、彼は抵抗できないまま、額を地面につけて跪いた。
跪くクイムを見下ろし、竜は一つ翼を打った。森がざわめき、途端に木々がクイムに向かって伸び始めた。クイムの両手両足を縛り付け、クイムの巨体が宙へ浮かぶ。
「ぐ……ああぁッ!」
「苦しいですか! 辛いですか! ですが、これはあなたが傷つけた者共より、あなたが見下してきた者どもの苦しさ、辛さより、断然小さなものです! あなたは彼らに懺悔し、そして――死にゆくがいい」
ブチブチッ!
クイムの両手両足が木々に引っ張られ、彼の四肢がバラバラに引きちぎられようとした。
「がぁぁぁああああぁっっ!」
叫ぶクイムを、なお静かに、そして冷たく見下ろして、竜は呟く。
「わたしの大切なものたちを傷つけたことは、代えがたい大罪です。苦しみなさい。苦しまず逝くことができると、そう思わないほうがいいです。そのほうが、多少なりとも希望を抱けますから」
「オデは! 間違ったことなど、何一つしておらぬわあああがはははははああ! 背反者どもよ! 最後に勝つのは、オデら神の信者だあぁぁァァぁぁぁあああああぐぎゃあああああああああああああああああ!!」
――ギキッ……グギッ……
クイムの関節が外れ、手足が身体と別れていく。苦痛にクイムは泣き叫ぶけれど、その大きな声は、こんな山奥では、ただ響くだけだ。苦しみの声が反響して、その声に怯えた動物たちが離れていくのが分かる。
聞くに絶えない叫びは、やがて静まって……そのころにはクイムはバラバラになっていた。全身の血がずるずると形を崩した屍体に蟠って、異臭を漂わせた。
クイムの死肉の上で、竜はふぅと息を吐くと着地。ズンと地面を揺らしながら、彼女は疲れ切ったようにふらふら近づいてきた。
「大丈夫でしょうか? どこか痛いところだとか、苦しいだとか、そういうことはありませんか?」
「…………」
「そうですか……」
僕は意識を失っていた。
己の弱さをかみしめ、滂沱と涙を流しながら――。




