1-10 『激情』
朝露が木の葉を濡らし、昨晩の雨の残滓をぽたりと落とした。
雨の止んだ朝の空気は冷たくて気持ちがいい。太陽が昇り始めると、空気中に漂う細かい水が光を反射して、幻想的な光景を生み出す。
さすがに一日では乾かなかった服だけど、これしか持っていないので、僕は仕方なく冷たく濡れたままの服を着て、師匠の下へ行くことにした。
昨日拾った少女はまだ眠っていたのだが、昨日よりは顔色はいい。呼吸も落ち着いているように見えた。よかった。
僕は安心して、息をついた。
できれば見ず知らずの場所で目を覚ますかもしれないから、今日は師匠のところへは行きたくなかったけれど、このまま少女をここへおいておいても僕にできることは限られている。
ここは、この街のことをよく知っている師匠に話すべきだろう。あまり長い間、こんなところにいさせるわけにもいかないけれど、師匠だってわかってくれるはずだ。少し早く帰らせてもらおう。
バイトをしている間は、師匠に託せたらいいな。面倒くさがりだけど、頼れるのは師匠だけだからね。それに人のために働く騎士なのだから、請け負ってくれるはずだ。
師匠に託せなかったら、仕方がないけれど。
エーレンティカさんに任せようなんて、誰も思わないでしょ?
比べる相手があの二人だからどうかと思うけどね、うん。
僕は少女にかけていた毛布を掛けなおすと、テントを出た。街へ向かう道へ出て、足早に師匠のところへ向かった。
師匠の住むマンションの部屋の前まで来ると、扉をノックした。少しして扉を開けたパズリィは、僕の姿を見て、ふっと微笑んだ。
「やぁっと来たのぉ? じゃぁあ、今日はいきなりぃはじめてぇみよっかぁ」
「ま、待ってください。少し話が……」
「うん。却下!」
ああ、即答された。
たぶん、この後も話は聞いてもらえないだろう。
それも仕方ないことだけど、このまま話せず、もしあの少女に何かあったら……って心配になる。
ここは、無理矢理でも聞いてもらうしか……。
覚悟を決めて、僕は一息で言った!
「あの! 実は昨日……僕、女の子を拾って――」
「ゆぅかい? そぉんなことしちゃぁだめぇだよぉ」
「違います、断じて!」
僕は昨日瞑想をした部屋に向かいながら、師匠に昨日、エーレンティカさんのところからの帰り道にあったことを話した。
師匠は話し終えてもにこにことほほ笑んでいた。
何を考えているのか、全く読めない……少なくとも、あの少女のことを心配しているわけではないことは確かだ。
「ふぅん。まぁ、今はぁ、自分のことにぃ集中ぅしないとねぇ」
「で、でも……」
「だぁいじょうぶ。今日の朝、何ともぉなかったならぁ、大丈夫よぉ。オオカミだってぇ、昼間は出てこなぁいからねぇ……たぶん」
「たぶんじゃダメでしょ!?」
この人の適当さには、ほとほと呆れる。
あんな場所に、小さな子を一人で寝かさせられるわけもないけれど、この様子だと、ここにいる間は帰れそうにない。
途中で抜け出して、少女の様子を見に行くことも、もちろんできない。
仕方ない。大人しく修行しよう。
僕が意見することじゃないんだ。僕は所詮、パズリィに頼み込んで修行をさせてもらっている身なんだ。だから彼女の命令に従わなければならない。
早く強くなりたいんだ。
少女のことは心配でも、今は冷静になって、目の前のことに集中するべきなんだ。
師匠だって言っていたじゃないか。
いつ何があるかわからないって……だから昨日は、ここにきてから待たされた。焦ってはいけないことを教わった。
だけど、僕はまったく集中できなかった。
昨日と同じように、瞑想をしていたけど……雑念に振り回されて、パズリィに止めさせられた。
今の状態でやっていても全く身に着かないことは、僕にも分かっていた……けど、集中しようしようと思うほどに、集中は出来なくなっていた。
「……はぁ。仕方なぁいなぁ……きょぉうは、これでぇおしまいねぇ」
「い、いえ……まだ日が昇ったばかりだし、やります! 集中しますから!!」
「だめぇ。頭の中でぇ、無駄なことをぉ考えているのにぃ、やっていてもぉ時間が無駄にたつぅだけだよぉ? ゆっくり、ゆっくりやっていけばいいのよぉ」
「ゆ、ゆっくり……」
いや。
ゆっくりじゃ、ダメなんだ。
ゆっくりやっていっても、僕の妹はもう死んだんだ。妹には、もう謝れないんだ。
だから、一刻の無駄もなく、早く神を倒したい……焦っている?
違う。ゆっくりして、その結果、目的を完遂できないことが僕は許せないんだ!
「集中しますから! どうか……どうか……」
「……なぁんで、そんなにあせぇるのかなぁ?」
「焦っていません。でも、ゆっくりすることは嫌なんです」
「焦ってるよぉ」
僕は首を振って、言う。
「……早く神を殺さないと……死んだ妹に申し訳ないから……もう、僕は謝れないから……だからこうして、神を殺して謝罪の代わりをしようとしているのに、ゆっくり、のんびりするなんて、なにか違うような気がするんです」
「……神を殺してもぉ、謝罪にはぁならないと思うけぇどねぇ……」
「いや。妹は自分の中にあった、存在した、あの神がいたせいで死んだんだ! だからきっと恨んでる……でも、妹はもう死んでるから、自分でそれを表せられない! だから、代わりに僕が……今まで妹を傷つけていた僕が、代わりに神にそれをぶつけるんだ! 僕は間違っていないッ!」
ダンッ!
壁を殴りつけた拳が痛い。
師匠は僕を無表情で見ていた。何も言わない彼女の視線が恐ろしくて、僕は目をそらした。
目をそらして、僕はうめくように。
「だから……早く神を殺したい……!」
「……そう」
師匠は瞑目する。僕の言葉を頭の中で反芻しているようだった。
そして、師匠は口を開いた。
「……タグってさぁ、自分のことしかぁ、見えていないんだねぇ」
「え……」
自分のことしか見えていない?
い、いやだって……これは、神を殺すことは、妹のためにやってることだぞ? それが、自分のことしか見えていないって……違うだろ。
僕は妹のためにやろうとしていることを恥じないし、間違っているとも思っていない。
間違っているのは、道徳心とか、倫理だとか、世間体だとかで動けなくなる奴らだ!
誰かのためにやることが、間違っているなんてありえない!
妹には、もう謝れないんだ。
死んだ後で、その大切さを知った、あの妹にはもう会えないんだ!
謝れないんだ……ごめんって、目の前にいれば、簡単に言えるその三文字が、僕は口にできないんだ。口にしたって、虚無の空気に溶け込んで消えて行ってしまう……なら、態度に示すべきだろ!
自分のことしか考えていないわけじゃない! ちゃんと、妹のことを考えて、今ここにいるんだ!
僕は拳を強く握りしめた。
所詮、赤の他人には、僕の気持ちなんて知りようがないんだ。妹に会えないこの辛さ、妹にしたことの罪悪感、妹に謝れないというもどかしさ……なあ、僕の気持ちが分かるか!?
分からないだろ!?
なあっ!!
大切なものを失った辛さが、その大切なものを大事にできなかった後悔が、この体をむしばんでいく不快感が、誰に分かるものか……ッ!!
お前は僕じゃないんだ。
僕じゃないと、僕の気持ちなんて誰にも知りようがないんだ!
叫びたかった。
だけど、師匠にそんなことを言っても意味がないことだった。
彼女は剣を教えてくれるだけでいい。
僕の内情に、これ以上入り込まなくていいんだ。
だから、あえて反抗しない。
彼女との信頼関係を作らない。信頼することは、相手に隙を見せることなんだ。僕の気持ちを、彼女にだけは知られてほしくなかった。
隠そうとしている気持ちは、もしかすると筒抜けになっていたのかもしれない。
師匠はため息をつくと、あきらめた風につぶやいた。
「……まぁ、ねぇ。タグにはぁ、まだ早い話かもぉしれないけどねぇ」
「早い話って……?」
「そのうちぃ、分かるときがぁ来ればぁいいわねぇ」
とにかくぅ今日はお終いぃ! パズリィはそう言って、部屋を出て行った。
結局、今日の修行はそこまでだった。
早く……強くなりたい。
その思いだけが、心に蟠って残る。




