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10円チョコの行方(1)

 散々、長い長いと言っていた夏休みは、まるで100メートル走のように無呼吸の一瞬で走り去っていった。

 そう思う原因は、夏休みのほとんどをアルバイトに費やしたからだろう。


 世間の大学生たちが海で泳ぎ、山を登り、街で遊んでいるその最中、僕は密閉された工場でせっせとアルバイトをしていた。

 この際だからその内容を語っておこう。僕が真夏の間ずっとしていたアルバイトとは、チョコレートの上にガムを乗せる仕事だ。

 これだけでは言葉足りず過ぎるだろうか。でも本当にこれだけなのだ。僕は一夏のほぼすべてをその作業に捧げたのだ。我ながら気が狂っているとしか思えない。


 全方位を分厚い灰色壁によって囲まれた工場の外観は閉塞的だが、その内部は平野のように広大であり、生き物たちの食物連鎖に似た規則的な進行に従って物事が流れていた。僕はその流形の一部となり、先がかすんで見えないほど長いベルトコンベアの前に立ち、右から流れてくる5センチ四方のチョコレートの上にそれと同サイズにカットされたチューイングガムを乗せていた。ただそれだけだった。それだけを朝9時から1時間の休憩を挟んで夕方5時まで行っていた。我ながら気が狂っているとしか思えない。本当に。

 発狂せんばかりの単純な作業だからといって気を抜いてはいけない。少しでもミスや手抜かりがあると現場管理を担当している戸塚さん(推定57歳、確実に小太り、たぶん女性、絶対に未婚)に口汚く罵られるからだ。

 そのため現場には、一間の油断も予断も許されない、緊々迫々とした手に汗と血と涙を握る雰囲気が重く、深く、厚く、沈殿していた。

 一夏の間に脱落者は何人も目にした。

 同時期に仕事に就いた男性(自称34歳、中肉中背、元引きこもり)は、執拗なほど繰り返される戸塚さんの罵倒に耐え切れず、眼球から血の涙を噴き出して作業着のまま逃走した。それ以来、彼は消息不明であるらしい。

 四年間、工場での仕事に従事していた女性(年齢不詳、やや痩せ気味、元OL)は、戸塚さんと一緒に食事をするほどの仲だったが、ちょっとした私情のもつれから仲違いしたことが契機となって罵りの餌食になった。彼女は全身から血の汗を噴き出して作業着のまま失神した。それ以来、戸塚という名前を耳にするだけで慟哭するようになったらしい。

 この他にも両手では数え切れないほどの事例があるが、それらを微に入り細を穿って語っていては、話の本筋からますます反れてしまうのでここでは割愛する。


 僕が前述したような過酷なアルバイトから解放されて、かれこれ5日の日時が経っている。悪魔的とも思われた酷暑は何処へと消え失せ、季節は秋へと移りゆこうとしていた。

 が、僕の耳には今でもベルトコンベアのローラーが回転する音が離れない。戸塚さんが監視する目がまだ僕を見ているような気がする。それにもまして頭から離れないのは、僕の斜向かいで同作業をしていた大河内さん(42歳、痩せ型、男性、未婚)がローラーの回転に巻き込まれて失った左手の薬指を労わるようにしてチョコレートにガムを乗せている涙ぐましい姿である。

 アルバイトの給料とともにそんな後遺症も頂戴してしまった僕は、昨日から大学が始まったというのに自宅に引きこもり、鳴り止まないローラーの幻聴と戸塚さんの視線、ぎこちない動きをする大河内さんの幻影と対峙していた。


「ぼくはね、もう結婚できないんだ。みてくれよ。この指。ないんだぜ、左手の薬指が。これじゃあ、ティファニーの前で待っているお嫁さんに顔向けできないよ。ああ、みなまで言わなくても分かっているよ。悪いのはぼくだ。ぼくが不注意だったからだ。でも聞いてくれないか。チョコレートに脚が生えていたんだ。なまっ白い2本の脚だ。そのホワイトチョコレート色の脚でやつらはベルトの上をチョコマカと歩き回っていたんだぜ? それも1つや2つじゃない。流れてくるチョコレートすべてがだ。ベルトの上はまるで空港なんかにある動く歩道みたいなありさまだよ。いくつものチョコレートがチョコマカチョコマカ歩き回ってね、僕はその1つ1つに帽子を被せる要領でガムを乗せるわけだ。大方のチョコはガムを乗せられると大人しくなって流れていくんだけどね、なかには利かん坊みたいなチョコもいて、ベルトから飛び出して床やローラーの隙間に入り込むんだ。ぼくはそいつらを全部捕まえにゃならんのだよ。まったく、手を焼かせるよ。まぁ、手は焼けずに指がもげたんだけどね! はははッ!」


 休憩室での大河内さんとのやり取りが脳裏に映写される。にかっと口の周りに波形状のシワをつくって笑った大河内さん。乾燥した唇からのぞくのは、まるで溶解したチョコレートのようにどろどろした虫歯に侵された前歯。その子どものように邪気のない顔が網膜に焼き付いて離れない。


 少しでも早く現実に目覚めるため、水道水で顔でも洗おうと台所へと向かったそのときだった。

 部屋のどこかから、ローラーとは違う音が聞こえた。

 数ヶ月ぶりに聞いたその音は、幼い頃に耳にした童謡の旋律に秘められていた寓意のように、理解するまでに時間を要した。

 30秒ほど経ってから、携帯電話が鳴っているのだと知った。そして電話が鳴っているということは、誰かが僕を呼んでいることでもある。

 ということを思い出した。

 室内から音の出所を探す。それは机上に散乱した種々の書籍の下から聞こえて来ていた。書籍に埋もれた着信音は、まるで雪崩に巻き込まれた遭難者の救援の声のように悲痛で投げやりだった。どんなに大声で喚こうともこの厚い雪の層を突破することはできない。そう知りながらも叫ばずにはいられない。どうせ死んでしまうのなら、歌でも歌うように助けを呼ぼう。そんな音だった。

 聴き手のいないその歌を聴いていた僕は、書籍の紙に埋没した歌い主に救いの手を差し伸べる。


「久しぶりね」

「そうだね」

「最近、なにかあった」

「なにも」

「そう。こっちもなにもないわ」

「そうなんだ。一緒だね」

「そう。一緒なの」


 どんなに久しかろうと蛋白質より淡白な、それが僕たちにとっての会話だった。


「学校がもう始まっていることは、さすがに気付いているわよね」

「うん」

「ならいいわ。そんなことよりもうすぐ秋ね」

「うん」

「もう少しで紅葉の季節ね」

「うん」

「紅葉の季節がきたら、キャンパスにあるメタセコイアというメタセコイアから紅い葉を微塵の容赦なく徹底的にむしり取ってやりましょうね」

「……うん」


 素直に頷けなかったのは、僕と彼女の距離が昔よりも確実に離れているからだろうか?

 そんな思いが頭を過ぎるようになったのは、あの山中での戦闘から数日経ったときだった。


 その日、僕と彼女は大学の最寄り駅にあるコーヒーショップにいた。


「途方に暮れるほど、ほろ苦いコーヒーを」


 彼女はカウンターに置かれたメニュー表をまったく無視してそう注文した。連日の熱気で頭がおかしくなったのかもしれないこの客をどう処すべきか困惑している女性店員を気の毒に思った僕は、アイスコーヒーを2つと助け舟を出した。


「この薄汚い泥水様の液体が、本当に私を途方に暮れさせてくれるほどの力を持っているのかしら?」


 精算を済ませて注文品を受け取り、店の前の大通りを一望できる窓側のカウンター席に腰掛けた彼女はそう口にし、僕が渡したアイスコーヒーのグラスに付着していた水滴を指で軽く弾いた。正面の窓ガラスに付着した水滴は、しばらくの間形状を維持しようと踏ん張っていたが、ガラスを透過してきた夏光の勢いに負かされ、涙のような筋を引いて落下していった。

 その日も彼女は真っ白なワンピースを身に着けていた。それはすれ違った人々が思わず振り返ってしまうほどの白さだった。そこからのぞく彼女の肌も装いの白さに負けず劣らず白かった。白を通り過ぎて透明と形容しても遜色ないくらい、白かった。

 彼女が白ければ白いほど、その内部にあるものの黒さがちょっとした言動で透けて見え、浮き彫りになるのは当然だった。だから白のコーティングは功を奏していないように思えた。けれど、そのことについて彼女はあまり気にしていない。どうやら彼女は、自身の内部にある黒さを隠すために白を装っているわけではないらしい。そう感じ始めたのは、ここ最近のことだ。

 彼女の隣に座った僕は、目前の往来を行き来する多くの人々に漫然と目をやる。絶賛夏休み中ということで、通行しているのは若者が多い。私服姿なので見分けはつかないが、ほとんどが中学生や高校生、もしくは大学生だ。

 そう思いながら、傍から見れば自分もまだそちらに分類されることをぼんやりと思い出す。思い出さなければ忘れてしまうほど、山中で子どもたちに紛れて遊んで以来、僕は痛感させられていた。

 僕はもう、子どもには戻れないのだと。

 子どもから大人への移行は不可逆的である。

 そのことに気付いてしまったからには、僕はもう、どうしようもなく、大人なのだ。

 だから忘れていた。

 僕はまだ、大学生という社会から見ればまだ子どもの範疇にいることを。

 ふと横をうかがうと、シロップをたっぷり入れたアイスコーヒーにストローを差した彼女が、まるで花の蜜を啜る蝶のようにちゅーちゅーと音を立ててコーヒーを吸っていた。

 その様子を見て、少しだけ羨ましく、ほんの少しだけ彼女のことを妬ましく思った。そしてそれ以上に、周囲の目線を気にして恥ずかしくなった。

 そう思ってしまったことがまるで彼女への裏切り行為のようで後ろめたくなった僕は、自分も店内に響き渡るほど思いっきりコーヒーを吸ってやろうと意気込んでストローに口を付けた。

 僕のストローの音は、彼女の音にかき消されてしまい僕の耳にすら聞こえなかった。

 彼女の音だけが僕に届いていた。

 僕の音はおそらく彼女には届いていないと思った。


「紅葉を山のように集めて燃やしましょうね」

「うん」

「その炎で大量の焼き芋を作りましょうね」

 うん。

「大量の焼き芋を1個500円で学生たちに売りさばいて大儲けしましょうね」うん「稼いだお金はなに使いましょうか」うん「そうね」うん「お菓子を大人買いしましょうね」

 うん。

 うん。うん。

 うん。うん。うん。




約2年ぶりに続編を投稿……

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