不動さん(2)
見上げるほどの仁王門を通り抜け、僕は不動尊金剛寺の境内に踏み入った。
時刻は正午。
真上の太陽はここぞとばかりに輝いて、往来する人々からやる気と体力を根こそぎ奪ってゆく。
滲み出てきた額の汗をハンカチで拭い、僕は自動販売機で炭酸飲料を購入する。
プルタブを開けると、しゅわしゅわ、と缶の口から爽やかな炭酸の音色が抜ける。
その音に耳を傾けながら、僕は炭酸の演奏を指揮しているかのような気分で手元の缶をゆらゆらと振り動かす。泡たちは缶の口から勢いよく飛び出して、均一化された音色をしゅわしゅわと空へと飛ばす。
1分ほど演奏に聴き入ってから、僕は缶に口を付け、気の抜けた甘い液体を喉へと通した。
炭酸飲料をこよなく愛する友人が、僕のこの飲み方を初めて見たときには、
『そんなことをしてしまったら、炭酸を味わうことができないではないか!』
と烈火のごとく怒りをぶちまけ、炭酸飲料の正しい味わい方を語ったものである。
彼が言うには、炭酸飲料は炭酸こそが命であり、ちくちくと口内を刺す炭酸の刺激を味わい、一息に喉へと流し込むのが醍醐味であるらしい。
僕のような愚劣な飲み方をするものは、非人道的で人間性を疑うとまで言い、さらに、今後一切の炭酸飲料摂取を僕に禁じ、加えて『炭酸』という言葉を発することでさえも禁じたのである。
僕は禁じられたはずの炭酸飲料をぐびぐびと飲み下し、今頃大学で授業を受けている彼に反駁する。
僕に言わせれば、その醍醐味だという炭酸の刺激とやらは苦痛でしかない。
口中を刺激する炭酸の小爆発は、針を一本ずつ全身に突き立てられる拷問に等しく、いっそのこと爆発してくれた方がまだ心地よいとさえ思うのである。
誰が好き好んでその拷問を受けるだろう?
僕には、彼の自虐的嗜好の方が人間性を疑う。
『それなら飲まなければいいではないか!』
と彼なら言うのだろう。
それはもっともなのだが、甚だ残念なことに僕はこの炭酸の抜けた飲料が大好きなのである。
舌を滑る爽快な甘みと、喉を優しくなでる超微炭酸。
これ以上の飲料水があるだろうか?
恐らくはないだろう。
よって、今日も僕は缶を振って炭酸を抜き、禁じられたこの飲料水に舌鼓を鳴らすのである。
「ふぅ」と、炭酸抜き炭酸飲料で倦怠感を吹き飛ばす。
空になった缶をゴミ箱に捨て、僕は考える。
子どもの時分から何度もここを訪れている僕が、その噂となっている老人を一度も見たことがないのはどうしてだろうか?
様々な憶測を飛ばしながら、僕は五重塔を目指して歩き出した。
勇ましい副長像の前を通過して30段ほどの階段を上がると、まどろむ午後の空を裂かんばかりに伸び上がる五重塔が出現する。
いつみても清々しく神々しい居住まいに感激を顕わにし、僕はぐると周囲を見回した。
たしか、五重塔を四方から眺められるよう、それぞれの辺に古臭いベンチがあるはずなのだが、ここから見える3カ所のベンチには誰も腰掛けてはいなかった。ならば、塔の陰になっているベンチに例の老人がいるのだろうと当たりをつけて、五重塔を迂回して裏側へと回ってみる。
「あれ?」
そこには、お爺さんはおろかベンチの姿さえも存在していなかった。
僕の記憶ではここの木陰にベンチがあったはず――と迷子の子どもを探すかのような心境で見渡すのだが、どこを探してもベンチはないのである。
これは、どういうことだろう?
4カ所に設置されたベンチの記憶は、はっきりと残っているので僕の勘違いという線は薄い。
誰かが持ち出したのだろうか?
そう考えて、一体誰が重いベンチを担いで持ち去る必要があるのだ、と苦笑して首を振る。
組み木が腐り、直接腰を掛けることすら断りたくなる汚らしいベンチだ。それを盗むものがいる訳がない。
僕はもう一度頭を整理する。
ここにベンチはたしかにあった。僕の記憶のたしかさを立証するかのように、ベンチがあった位置は辺りと少しだけ色合いが異なっていて、ここにあったことをはっきりと形にして残している。となると、誰かが持って行ったことになるのだが、あのベンチを誰かが持ち出すとは考えにくい。
ならば――
突然、視界が白く霞み、僕は慌てて足を地面に強く押し付けて眩暈を堪える。
どうやら太陽光で頭が火照って血が上り過ぎたらしい。
くらくらとする頭が涼しさを求め、ベンチが据えてあったはずの木陰へと足を運んだとき、口の中へと氷の破片を放りこんだかのように、僕の脳みそが気付いた。
ここにあったはずの古臭いベンチ。
座りたくもないほど老朽化したベンチ。
そう、ベンチは老朽化していたのだ。
どうしてこんな簡単なことに気付けなかったのだろう。
老朽化したベンチは何かの拍子に壊れたのだ。それを修繕するためか新しいものに入れ替えるためかは知らないけれど、一時的にベンチはここから取り払われた。
これが、ここにベンチがない理由。
自分の推理を満足げに噛み締めていると、ふと、僕は重大なことを思い出した。
「なら、お爺さんはどこにいるんだ?」
その場から何十年も動いていないお爺さん。
他の三カ所に誰も座っていなかったことから、取り払われたベンチにいたとしか思えないのだけれど……お爺さんはどこへ行ってしまったのだ?
それに、ベンチがなくなったということは、何十年も動かなかったお爺さんがついに移動したということではないのか?
――いや、待て。
そんなことはどうでもいい。
そもそもだ。
そのようなお爺さんなんて存在していなかいのではないか?
僕は身も蓋もない噂話に翻弄されただけなのではないか?
そう思い始めると、唐突に自分のしていたことが馬鹿らしくなってくる。
「あの主婦たちめ。噂話なんか触れ回りやがって……」
その所為で彼女の行方がますます手詰まりになってしまったではないか。くそっ、その老人だけが彼女の行方の手掛かりだったというのに。
ぶつくさと悪態を吐き始めた僕の横を、やけに冷たい風が吹き抜けていった。
それは選定に選定をし尽くした玲瓏たる珠玉が、風に乗って運ばれてきたかのような神秘さで、荒んでいた僕の心底をすっぱりと浚っていった。
そして。
自分以外誰もいなかったはずの木陰の端に、白いハットを頭に乗せ、ステッキを片手に持ち、優しい笑みを湛えたお爺さんがいつの間にやら現れたのであった。
僕は風にかき乱せれて散在する髪をなでつけながら、瞳をぱちくりと瞬いてその老人を眺めた。
いつの間に現れたのだろう?
心中で主婦への罵詈を吐き出しているときだろうか?
火のないところに立った煙を見ているかのような僕の反応を見て、お爺さんは口元の皺をククッと上げ、口からしわがれた声を吐き出した。
「なにか私に用かね?」
やすりにかけたかのような擦れた声なのだが、芯の部分はしっかりと残っている声音だった。すっかり気圧されてしまった僕はしどろもどろになりながら、
「あ、あなたは、誰ですか?」
年上の方には失礼極まりないことを訊ねてしまったと口にしてから後悔する。
お爺さんの意志の強そうな瞳の上にある白眉がぴくり動き、怒られるのではないかと身を竦めた僕に平坦な声音を返してきた。
「私はね、カミサマだよ」
絶句した。
目前にいるカミサマにどのような対応を取ればいいのか、それよりも、さきほどの無礼を平伏して泣き詫びなければ、天罰を受けるのではないだろうか?
そのようなことを懸念していたのではなく、自分のことをカミサマだとのたまう耄碌爺さんをどのようにやり過ごすのが良策なのだろうか、と真剣に頭を悩ませたのであった。
そんな僕を尻目に、自称カミサマは老人とは思えないしっかりとした足取りで木陰から出、片側のベンチに向かって行った。
その後ろ姿から、一言で人民の心を奪うことができる偉人のような求心力を幻視した僕は、導かれるようにしてお爺さんの後を追ってベンチに着いたのだった。
隣に座った僕は、蒼天の太陽を眩しそうに見上げる老人に不躾な視線を向ける。この爺さんは一体何者なのだと心奥で疑問を反復させる。
僕の視線に気付いたのか、お爺さんは上空に顔を固定したまま小声で「暑いねぇ」と四方山話でもするかのように呟いた。
その言葉は僕に向けられたものだと思ったのだが、違った。
お爺さんが言葉を発したと同時に、青空が早送りのように右から左へと流れていった。
渓流のように流れる空の青を、僕はぽかんと口をおっぴろげ唖然と見上げる。
右方の地平から灰色の雲海がやって来て、燦然と輝いている太陽もろとも厚い雲で空を覆う。初夏の空から灰色の空へ移り変わり、それに伴って気温が、寒くもなく暑くもない、という素晴らしい塩梅へと調節されたのであった。
まるで、暑がっていたお爺さんのご機嫌をとろうと、空が急ごしらえで雲を製造したかのようだった。
神秘的な光景に背筋を震わせていた僕に、お爺さんはしたり顔をして先ほどとまったく変わらない抑揚で同じセリフを口にした。
「私はね、カミサマだよ」
これは、もう認めなければならないのだろうか?
天災のように出没し、その場にいるだけで人の関心を引く底知れない求心性。極めつけは、一言で天候をも操る神まがいな舌。
結論――このお爺さんはカミサマである。
だからと言って、畏怖するようなものでもないだろう。
僕が隷従するのはこの世でただ一人、彼女だけだから。なので、恐れ多くも毅然とした態度でカミサマにのぞむことにした。
「3日前に白い女性があなたを訪ねて来ませんでしたか?」
ミシッ――
とステッキを握ったカミサマの手から鈍い音が響いた。
穏やかだった顔は渋面に変わり、まるで思い出したくもない過去をほじくり返されているかのような苦悶に満ちた表情となっていた。
僕の態度に腹を立てているのかと思いきや、どうやらそれは違うようで、ややあって、カミサマは唇をわなわなと震わせながら言った。
「君は、彼女の知り合いかい?」
カミサマの握力に耐えられなくなり、粉々となって足元へと落ちていく杖の木片を見据えながら、僕はやはり毅然とした姿勢で返答した。
「彼女は僕の彼女です」
僕の返答を受けたカミサマは、不動明王のような憤怒の形相を勢いよくこちらへと向けた。
その背から後光が射したかと思えば、強烈な突風が吹き荒び、辺りをたちまち嵐へと変えた。
吹き乱れる風に体を揉まれながら、僕はベンチの背もたれを掴んでのけ反る体を必死に支え、薄く開けた目でそっとカミサマをのぞき見る。
カミサマは、怒りながら泣いていた。
ただでさえ皺くちゃの顔を歪ませ、入れ歯をきつく噛み合わせて、小豆のようにつぶらな瞳からほろほろと涙の雫を流していた。
涙が風に乗って、僕の顔面へとぶつかる。
その一つが、唇の間を抜けて口へと入って来る。
僕は無意識にその涙を舌に絡めて味わっていた。
甘く、滑らかな。
優しくて、少し厳しい。
そんな僕の大好きな飲料とよく似た味がした――
しばらくして風の勢いが衰え、まぶたを開けた先にいたのは弱弱しくベンチに腰かけた老人だった。
乱れた着流しから痩せ細った腿がはみ出、俯きがちなその姿からは自分のことをカミサマと呼んでいたときの威厳は微塵も感じ取れない。
何だか分からないが気落ちしているカミサマに少しだけ同情しながら訊ねた。
「なにか、あったのですか?」
顔を覆った指の隙間から目をのぞかせ、カミサマは嗚咽交じりの声で答える。
「聞いて、くれるかね?」
「聞きますとも」
「ありがとう」
「どういたしまして」
そんな涙ぐましいやり取りをしてから、カミサマはぐしぐしと語り始めた。
「3日前だ。いつも通り、私は木陰のベンチに座りながら参拝する人たちの顔を眺めていたのだ。それが私の役割でもあり、生きがいでもあるのだ」
「あなたは、この不動尊のカミサマなのですか?」
僕は気になってついつい口を挟んでしまう。
「違う。私はこの寺とは一切関係ない」
言いながらカミサマはどこからか取り出した手ぬぐいで顔を拭いて続ける。
「私はこの土地自体を見守るカミなのだ」
「なるほど」と相槌を打ち、手の平を差し出して先を話してくれるように促す。
「ちょうど今と同時刻くらいであったか、ベンチに座っている私のもとへ真っ白な女子が全速力で駆けて来、出し抜けにこう言ったのだ。
『あなたが何十年もその場から動かないお爺さんですか?』
私は訝りながらもその女子がたいそう美しいことに気付き、悪い気がしなくてな、いつもは話しかけられても頷くだけなのだが彼女の質問に答えたのだ。
『ああ、そうだとも。そして、私はカミサマだ』
カミであることを自慢しようと思った訳ではないのだ。ただ、美しい女性を前にしてついつい口が滑ってしまっただけなのだ」
カミサマはカミサマらしくない言い訳めいたことを口走り、大きな咳を一つした。
「私の言葉を聞いて、彼女の大きな瞳が綺麗に開くのだよ。それで気を良くしたのが運の尽きであった。その女子は、私の言葉を咀嚼してから小さく笑ったのだ。偉大なる天上のものとの邂逅を喜んでいるにしては、やや嘲笑めいていて、かと言えば、惚けた爺さんに呆れて零した笑みにも見えなかったのだ。だから、その笑みの正体を探ろうと私は聞いたのだ。
『何故笑う』
とね。そう聞いたのだよ」
僕には、彼女が何と言ったのか分かってしまった。なので、続きを聞かなくてもよかったのだけれど、カミサマは、ここからが本番だと言わんばかりに乾燥した唇を湿らせたので、大人しく拝聴することにした。
「その女子はこう言うのだ。
『だってあなた、カミサマの癖に偉そうなんだもの』
私は驚愕したよ。驚きのあまり天を裂こうかと思ったくらいだよ」
カミサマの鼻息が荒くなり、捲くし立てるように口早になる。
「カミサマは偉い。それは天地が引っくり返ろうとも太古の昔から不変なのに、この女子はまるでカミがヒトよりも劣っているかのような物言いをするのだ。その筋では温厚で有名な私ですら、怒りで前が見えなくなったほどだ!」
膝の上で石のように硬く握られたカミサマの拳が、暴れんばかりに震えだした。僕は被害を被らないよう静かにベンチの端による。
「それでも私はカミサマだ。愚かなヒトに教え諭すのも私の仕事だと、大らかに、ただし厳しい口調で彼女にその訳を質したのだ。
『カミサマは偉いものだろう? 違うかい?』
彼女は悪気もなさそうにこう返した。
『なにを言っているのですか。カミサマはヒトよりも劣った存在ですよ』
再び怒りが湧き上がってきたよ」
血走った目で自分の震える手を眺めるカミサマの姿は、それはもう、精神に異常をきたしたものにしか見えなかった。
「そうだ、天罰しかない。言っても分からぬ愚か者には、罰を与えて体に教え込むしかないのだ。そう決めた私の機先を制するように、彼女は断定的な口調で喋り出したのだ。
『カミサマ、あなたは疑問には思わないのですか? どうしてあなたたちは、ヒトに個性を与えたのかと』
私には、彼女が持って行こうとする話の指針が、どの方角を示しているのか分からなかった。ヒトに個性を与えたことで、どうして私たちがヒトよりも劣っていることになるのだろう?
彼女の真意を汲もうと沈思黙考していた私を彼女はどのように感じたのか、美しく嘲弄を籠めて笑ったのだ。
『あなたたちは、ヒトそれぞれに個性を与えた。それはなんの為ですか?』
『そんなもの、気紛れだよ。カミサマとは気紛れなものなのだ』
カミサマの私が言うのだからそれは真実であるはずなのに彼女は、
『それは違います』
と、ヒトが誕生したその瞬間に自分も居合わせていたかのように、さも知った風に語るのだ。
『あなたたちは同じヒトを作ることができなかったのですよ。だって、生み出したものを管理するには、できるだけイレギュラーは少ない方がいいでしょう? それなのにあなたたちは、個性という変則的な要素を私たちに組み込んだ。そうしないとヒトを作り出せなかった』
そうですよね? と言いたげな笑みで彼女は小首を傾げたのだ。
木目細かい絹ごし豆腐のような頬に垂れた一束の髪の毛に心を奪われながら、私は返した。
『それで、どうして私たちが君たちより劣っていることになるんだい?』
『このような話を知っていますか?』
彼女は白い日傘を肩にあてがい、くるくると回転させながら語り始めた。
『陸上競技に砲丸投げという種目があります。その競技に用いる砲丸は、職人が時間をかけ球を研磨し、ほとんど同じ重量のものを幾つも作り出すのです。球の重さは限りなく近似していて、誤差がないといってもいいほどの代物です。砲丸の重さが少しでも違えば、他の選手から不平が出てしまいますからね、職人も全神経を砲丸の研磨につぎ込むのです』
そこで彼女はこれ見よがしに微笑んだのだよ。悔しながら、私はその笑顔に魅入られてしまい、反論を加えることすらも忘れていた。
『ヒトは同じものを作り出せるのです。作ろうとするものの差異はあれど、あなたたちができなかったことを、ヒトは行えるのです』
私は頭を振って笑顔の誘惑に打ち勝ち、無心になって言ったのだ。
『ヒトと砲丸は違うだろう? 同量の物質を作りだせようとも、同質の精神を作り出すことは、ヒトにもできない』
私がそう言うと、彼女は嬉しそうにその場でくるくると回り始めたのだ。
白百合の蕾のように白いスカートを膨らませるその姿は、足元を駆け回る子犬とじゃれ合っているかのように優雅であった。
彼女は5回転目で蕾を閉じ、その日一番であろう笑顔でこう言ったのだ。
『ヒトにも! 今あなたは、ヒトにもできないと言いましたねっ?! それはつまりカミサマにもできないということですねっ!?』
彼女に指摘されて、私はようやく失言に気付いた。
彼女は私に鎌をかけていたのだ。
ヒトの内面がまったく異なっているのは何故か?
換言すれば、ヒトがそれぞれ別個体であると明示する個性というものは、何故存在しているのか?
それを彼女はこう説明するのだ。
――カミが未熟であったから。
私がカミと名乗ったその一瞬から、その自身の哲学を裏付けるために彼女は、綿密に言葉を練り、会話を構築し、私を罠へと誘導したのだ。愚かにも私はその罠にかかった」
カミサマは口惜しそうに下唇を噛んでから、話を続行した。
「彼女が述べたことは真実である。
つまり、カミはヒトの外面を同一に作ることはできたが、内面を均一にすることはできなかった、という彼女の言い分は的確であるということである」
カミサマがそう言うのだから、そうなのだろう。
「苦々しい面持ちの私と対照的な表情を浮かべる彼女に、カミの矜持が燃え上がった。私は一矢報いようと、爛々と嬉々する彼女にこう言ったのだ。
『君は、自分の個性を恨んでいるのだね』
カミである私には分かっていた。
彼女は自身の個性を恨んでいる。
だからそのような考え、個性はカミの未熟さ故に存在する、という思想を持つに至ったのだ。そうすれば、個性の所為で味わってきた過去の苦汁を、すべてカミにぶつけることができるのだから……
その私の指摘によって、明朗だった彼女の表情が、崩れた。
白い洗いたてのシーツをびりびりと引き裂いたかのように、見渡すほどの銀世界が瞬く間に爆散したかのように、彼女から白が消え去った」
そのときの場景を思い出したのかカミサマは、はっと息を呑んだ。
「どこか黒めいた表情で、彼女は出し抜けに言った。
『あなたは、本当にそこから動かないのですか?』
私はまたもや彼女の意図を図りかねながら神妙に答えた。
『ああ。ここから動かなくなって、かれこれ一〇〇〇年以上はここにいるよ』
そう述べ、私はベンチの表面を軽く叩いた。
このベンチが設置される遥か昔から、私はこの場所でヒトを見つめ続けているのだ。
『どうして、動かないのですか?』
彼女の唇が月面のように綺麗な弧を描いた。それはよく覚えている。
彼女の狡猾さをさきほど味わったばかりだというのに、私はその純白の笑みにまたもや心を奪取され、気を緩めてしまったのだ。
『動けないのだ。動いてしまったら、私はカミではなくなる』
迂闊だったとしか言いようがない。
それを聞いた彼女がどのような行動をとるのか、分かり切っていたはずなのに」
淀みなく動いていたカミサマの口から長々とため息が零れた。心なしか、さきほどよりもやつれているようにも見えた。
「それから、彼女はどうしたんですか?」
その後、彼女がどのような行動をとったかなんて聞かずとも分かるのに、僕はそう質問した。
カミサマがゲッソリとした顔を上げ、虚ろな瞳を向ける。覇気のないカミサマの目も死んだ魚のような目になるのか、とその発見を僕はこっそりと喜ぶ。
「私が座っていたベンチを粉砕して、どこかへ去って行ったよ」
カミサマはそう言って灰色の空を振り仰ぐ。つられて僕も見上げた。
途切れることなく密集する灰色の雲の中に、小さな青空が点になってのぞいていた。
その雲間の青を見付けた途端――
穴から青が溢れ出し、灰色の空をたちまち青空へと変えた。
排水溝に流れて行ったはずの水が、配管のトラブルによって水を吹き返してきたかのようなその不可解な光景を、僕は白昼夢でも見ているかのようにぼんやりする頭で眺めていた。
「暑いねぇ」
僕の隣に腰かけていたお爺さんがそう呟いて、蒼天に輝く太陽を眩しそうに見据えた。
「そうですね」
僕も目をすぼめながら、青空に煌めく太陽を眺めた。
太陽を描くときは決まって暖色なのに、空に浮く実物のそれは真っ白だ。
そんなことを思っていると、お爺さんがゆっくりと腰を上げ、ひん曲がった腰でよぼよぼと歩きながら仁王門の方向へと歩いて行った。
その背を見送る僕のポケットが、唐突に振動をした。
慌てて携帯電話を引っ張り出し、通話ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし、私ですよ」
電話の先から届いてきた3日ぶりの声を聞いて、僕は胸を撫で下ろした。
「今、どこにいるの?」
僕が訊ねても、彼女はくすくすと悪戯を企てた子どものように笑うだけだった。
「私、新しい日傘が欲しいわ」
何時もながら突拍子もない彼女の物言い。僕はその理由をいつも通りに訊ねる。
「どうして?」
「ぽっきりと折れてしまったの」
僕は苦笑交じりに言う。
「傘ってそう簡単に折れるものなのかな?」
「仕方ないのよ。気に食わないことがあったのだから」
「気に食わないことがあると傘が折れるの?」
「日によってわね」
くすっと、彼女が笑った。
それだけで、僕は幸せだった。
「分かった。今度、買って上げるよ」
「ありがとう。大好きよ」
日傘のことだけが言いたかったのか、彼女は早々に電話を切った。
ぽつねんと残された僕は、五重塔を仰ぎ見てこんなことを思った。
噂は、ヒトを介することでひどく歪曲する。
休憩のためにほんの短い間だけベンチに座っていただけなのに、何十年もその場にいるかのような拍が付く。
そうして誇張されて、噂は人々の間に伝播する。
だからこそ、噂話は楽しいのかもしれない。
僕はそう思いながら、自分がカミサマになった妄想をして静かに笑った。
ひと夏の不思議な体験、みたいなジュブナイルが大好きだったりします。
あの摩訶不思議な夏の記憶は現実だったのだろうか? 夢だったのだろうか?
その答えはなくて、現実であろうと夢であろうと、その記憶は大切なものに違いないはずです。
そんなこんなで、書いてみた『不動さん』でした。
感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。