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不動さん(1)



「その場から何十年も動いていないお爺さんがいるらしいの」


 電話越しなのに涼風のようなイメージを抱かせる声でそう言った彼女と、連絡が途絶えてから早3日が経った。

 このような彼女の奇行には慣れたものだと思っていたが、何の通知もないのはさすがに心配になるものである。おもむろに取り出した携帯電話で、本日3回目の彼女への電話をかけるも、もちろん電話は繋がらなくて、僕は嘆息しながらアパートを出たのだった。



 さて、どうしようか。

 燦々と降り落ちる陽光に身を晒し、大きな欠伸を一つして僕は首を傾けて思案する。

 彼女の手掛かり――その場から何十年も動いていないお爺さん。


「なんだそれ」


 思わず聞き返したくなるほど意味が分からない。

 その場とはどこで、何十年とは正確には何年で、お爺さんとは一体何者なのか。

 まったくと言っていいほど、手掛かりとして成立していない。

 地を揺るがすような唸り声を上げ、一先ずその辺を歩いてみることにした。

 もしかしたらその『お爺さん』のことを知っている殊勝な人に会えるかもしれないと、一抹の期待を胸に僕はせっせと足を動かした。



 閑散とした団地の影に隠れていた三毛猫が前を横切り、やたら滅多ら植えられた樹木の影へと移動する。そのあとを追うようにして、僕も木々の中を突き進む。

 傾斜のきつい丘に行き当たり、そこを汗だくだくといった風に上ると、丘の上に屹立するだいだら法師のような給水塔に出迎えられ、僕は一息つきながら我が愛すべき街並みを遠望する。

 初夏の空には白いちぎれ雲が数個浮き、その間を縫うようにして飛行機雲が伸びている。牧歌的な空模様の下には、どうお世辞を積み立てても囚人監獄のようにしか見えない、無機質な塗装に仕立て上げられた団地の棟々。その異様さを笑うように、近隣の小学校から無垢の毛玉に包まれた声が響いてくる。色とりどりの屋根瓦が遥か下方まで続き、遠くに見える繁華街から、届くはずのない喧騒が聞こえてくるような気がした。



 この景色のどこかに、彼女がいる。

 そう思うといても立ってもいられなくなって、僕は丘の向こう側の坂道を速足になって下りて行く。下りて行く速度はぐんぐんと沈み込むように増していき、しまいには全力で坂を下っていた。僕はそれだけ彼女のことを渇望しているということだろう。

 彼女への恋慕を募らせていた矢先――

 駆け下りる僕の直線上に、井戸端会議に花を咲かせる恰幅のよい主婦たちを発見した。

 彼女たちは、速度が増し過ぎて宙を射抜く一本の矢と化した僕に目を向けることもなく、街の風説を語らい流布する行為に勤しんでいる。


「あ、あ――」


 と叫んで危険を通知しようと試みたものの、急な運動に悲鳴を上げ、もはやその機能をなしていない肺からは喘ぐような吐息が零れるだけで、彼女たちのとの距離は見る見る内に狭まっていき――

 僕は出発寸前の電車に駆け込むような勢いで、彼女たちに衝突していったのだった。


 

 幸か不幸か、故意か不故意か。

 運動不足になりがちな主婦特有のふっくらとした体躯の連なりにぶつかった僕は、まるでコンクリートの壁に投げつけたスーパーボールのように、その肉の壁から反作用を受けて、ぶつかっていった方向とは逆向きに吹き飛んだのであった。

 路面に吹き飛ばされ、強かに全身を打ち据えた惨めな僕に、主婦たちの好奇な視線がぐさぐさと突き刺さった。

 どうしてあの勢いでぶつかっていったのに、彼女たちは痛がりもせず、ましてや身動ぎもしなかったのだろう? と至極当然の疑問を持った。

 僕は緩慢な動作で体を起こし、きっと母なる海のように聖母的な包容力が痛覚や衝撃力すらも包み込んだのだろうと結論付けながら、奇異な目を向ける聖母たちに恭しく謝罪を述べた。


「す、すみません。お怪我は、ない……ですよね?」


 子犬のようにびくびくとうかがう僕を、快活な笑いが出迎える。


「最近の若い子は元気がいいのね!」

「さすがね!」

「若いっていいわね!」

「私もあの頃に戻りたいわ!」


 次々と繰り出された言葉の散弾に怒りの色が籠められた様子はなく、全速力で主婦にぶつかって来たけったいな若者がいた、と街中に言い触らされ、この街から追放されるような展開を回避したことに僕は胸に手を当てて安堵した。

 しかしそれも束の間のことで、主婦たちは剥き出しの好奇心を僕に向け始めた。


「どうしてあんなに急いでいたの?」

「きっと何かあったのね?」

「一体何があったの?」

「さあ、私たちに話して!」


 僕は戸惑いながらも、噂に敏感な主婦たちなら彼女の手掛かり、または、『動かないお爺さん』について何か知っているかもしれないと思い至り、訊ねてみることにした。


「あの、最近この辺りで、白い洋服を着て、白い日傘を差した白い肌の20代くらいの女性を見ませんでしたか?」



 彼女の見た目を話すのはとても簡単だ。

 白い。

 この言葉だけで済んでしまう。

 僕の彼女はとにかく白を愛する人である。

 買い物に出かけたときに選ぶ服は必ず白を基調としたもので、身に着ける装飾の類いも決まって真っ白なものだ。肌を焼くことを何よりも嫌い、外出する際には全身に日焼け止めを塗りたくり、お気に入りの白い日傘を忘れることなく持参する。

 ――どうして白が好きなの?

 彼女と付き合うこととなった当初に、一度だけそう訊ねたことがある。彼女は薄らと笑みを浮かべて言った。

 ――その方が綺麗に見えるでしょう。

 白は綺麗。

 そう結び付けて考えることは、一般的であると僕は思う。白いシーツには清潔な印象しか抱かないし、新雪の銀世界には美しさしか見いだせない。

 白は綺麗。

 今までの経験上、自身の美を追求することは、女性にとって遺伝子に刷り込まれたかのような欲求であると僕は考えていた。だから、彼女の答えはもっともなものに思えた。

 自分を美しく見せるために、彼女は白を求める。

 そのときは、そう思った。

 彼女と過ごす日々が長くなるにつれ、僕のその考えは少しだけ変わった。

 白く綺麗な彼女の内面に潜む、黒く貪婪な探究心を垣間見てしまったからだ。

 それは周囲の人の意思すらも捻じ曲げることを厭わない、身勝手なものであった。

 僕も彼女の奇行には何度も苦汁を飲まされた。

 あるときは、『樹海の中心で愛を叫んでみたいわ』と深夜に電話をかけてきて、そのまま樹海へと同行させられたり、またあるときは、『厳粛な図書館で、アンプに繋いだエレキギターをかき鳴らしたらどうなるのかしら?』と可愛らしく装って、僕にそれをするよう強要してきたり。

 その度に、誠実に応える僕も異常なのかもしれない――この話は置いておこう。

 彼女が白を愛するのは、自身を美しく見せるためではなく、自身の中にどす黒く渦巻く探求意欲を隠すためであった。

 白を纏い綺麗にコーティングすることで、願望の権化のような自分を少しでも美しく見せようと思ってのことだったのだ。



 僕が語る彼女の容貌を聞いた主婦たちの口から、立て続けに言葉が吐き出された。


「その子のことを知っているわ!」

「とても綺麗な子だったわ!」

「一緒にお話しをしたわ!」

「たしか3日前のことよ!」


 僕は驚いて、さらに彼女たちから情報を得ようとそのときのことを訊ねた。


「あのときも私たちは噂話の定期連絡をしていたのよ!」

「そうしたら、さっきのあなたみたいにその子が坂から走ってきたのよ!」

「そうして、あなたみたいに私たちにぶつかったのよ!」

「彼女は私たちにぶつかって5メートルくらい吹き飛んだわ!」


 5メートルは言い過ぎだろうと言い挟もうとしたが、主婦たちの怒涛の剣幕はそれを軽く押し流した。


「吹き飛んだ彼女は、自分からぶつかって来たくせにぷりぷりと怒ってきたわ!」

「それはもうぷりぷりとね!」

「そして私たちにこう言ってきたの!」

「許して欲しかったら私の欲求を満たせるほどの噂話を教えてください、ってね!」


 僕は確信した。彼女はわざとこの主婦たちにぶつかったのだ。主婦たちから自身の探求心を満足させる何かを聞き出そうとしたのだ。


「私たち嬉しかったわ!」

「だって噂話をする仲間が増えたんですもの!」

「だからとっておきの噂話を教えてあげたの!」

「その場から何十年も動いていないお爺さんがいる、って噂話を教えてあげたの!」


 ああ、これですべてに得心がいく。

 彼女は3日前この主婦たちから『動かないお爺さん』の話を聞き、僕に連絡を寄越してきた。僕は彼女のこういったところが好きだ。どんな奇行に及ぼうとも、必ず僕に一報をくれる。そんな彼女のことが――と、話を戻そう。

 『動かないお爺さん』の話は、彼女の探求心をそそったのだろう。

 さすが、街中の噂話を把握しているだけのことはある、と目の前に主婦たちを内心で称賛してやった。

 彼女はその『動かないお爺さん』の真偽をたしかめに行った。そうして、3日の時日が経ったということだろう。

 何にしても、だ。

 彼女の行方を探すには、僕も『動かないお爺さん』の話を聞かねばならないだろう。


「僕にも、その話をしてもらってもいいですか?」


 低頭するような態度で僕が言うと、主婦たちの顔に喜色が溢れた。僕も彼女たちの仲間だと見なされたのだろう。


「これであなたも私たちの仲間ね!」

「よく、耳の穴を開けて聞くのよ!」

「あなた! 耳掃除はちゃんとしているの?!」

「ちょっと見せてみなさい!」


 主婦の一人が僕の耳たぶを掴んで穴の中をのぞき込もうとするのを、やんわりと、しかし頑なに拒みながら、「毎日掃除をしているので綺麗です」と慇懃に述べて、例の噂話をしてくれるように頼んだ。主婦たちは渋々といった感じで、『動かないお爺さん』について語り始めた。


 

 この街を一言で表すと、『山の街』である。

 本当は、山ではなく高めな丘なのであるが、山と形容しても差し支えないくらいの勾配と溢れんばかりの木々や緑地を有しているので、これ以後は『山』と呼ばせてもらう。

 山の頂には監獄のような団地と、だいだら法師のような給水塔。そしてこの地域の子供たちが通う学校がある。山腹部分には、一軒家の住宅が坂を駆け上がるように立ち並び住宅地となっている。山頂の監獄団地に住むものと山腹の住宅街に住むものには、ちょっとした軋轢があるのだが、そのことについてはまたの機会に。

 最後になったが、山の麓は繁華街となっており、この街唯一の電車の駅がある。

 僕の住み家があるところ、つまり今僕が主婦たちと話をしているところは山頂部に当たる。

 さて、街の概要を話すにはもう少し時間が必要だ。

 この街には観光名所がいくつか存在するのだが、そのもっとも有名で代表的なものが麓の駅から一〇〇メートルほど離れた個所にある『不動尊金剛寺』である。

 仏教について明るくない僕が、この不動尊について意気揚々と誤った知識をひけらかし、その道に詳しい方々に小馬鹿にされるのも癪であるし、たとえそうならなくとも、鼻高々に言説をし、僕が高慢な人物であるかのような印象を与えてしまうのも、いささか不本意ではあるので、事細かな言及は避けてざっと様相を陳述しようと思う。



 入り口には見上げるほどの仁王門が構え、内部には荘厳を感じさせる総本堂、不動堂や五重塔といった建造物がどっしりとその歴史の重みを迸らせながら身を据えているのである。また、幕末の京を騒がせた某組織の副長の記念碑なんぞもあったりするのである。


 

 ここで話は『動かないお爺さん』に戻る。

 スズメのようにけたたましく鳴く主婦たちが語るには、先述した五重塔の付近にあるベンチに、そのお爺さんは必ず座っているのだという。

 彼の身なりは小ざっぱりとしたもので、着流しをさらりと着こなし手には木製のステッキ、頭には若者が身に着けるような白いハットを被り、何をするのでもなく柔和な顔で訪れた人々を眺めているらしい。


「なにを話しかけても頷くだけなのよ!」

「深夜にお不動さんに忍び込んだ不届き者が、夜中でもそのお爺さんはいたと言っていたわ!」

「雨の日も傘を差しながらそのベンチに座っているのを見たことがある、ってお隣の明石さんが言っていたわ!」

「私の父が子供の頃にも、そのお爺さんがそこにいたって言っていたわ!」


 という伝言ゲームのような話を聞き終え、僕は主婦たちに礼を述べてその場を辞した。



 麓へと向かう長い坂を、うんうんと唸りながら腕組みを下りて行く。

 そのようなお爺さんが本当にいるのだろうか?

 昼夜も天候もとわず、挙句の果てには年代すらも凌駕して、そのお爺さんはそこで何をしているのだろうか? 一体何を見つめて、朗らかな表情を浮かべているのだろうか?

 積み重なる疑問の中で、ただ一つ僕が答えられるもの。

 それは、彼女がその『動かないお爺さん』の話を聞いたら、白い服を翻し、韋駄天のように走りながら不動尊に向かったことだろう、ということだけだ。

 彼女からかかってきた電話からも、彼女はそのお爺さんに興味を示していたことが裏付けされている。



 僕は彼女の安否をたしかめるため、『動かないお爺さん』が年中動かずにいるという不動尊へと足を延ばしてみることにした。



 前回、「今後どうなるかまったく分かりません」と言いつつも、何となくこの物語の行く末が見えて来たので、これからもちまちまと上げていく予定です。

 とは言っても、まとまった時間が取れないこともあるので、一つのお話を二分割くらいにして上げていく予定です。

 この続き、『不動さん(2)』は来週くらいにでも。


 感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。

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