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10円チョコの行方(2)

 ずっと昔――。

 いや、たかだか10年ほど前のことを、まるで昔話のような出だしで語る必要はないだろう。僕にとっては昔話でも、長い歴史にとっては僕の10年など昔話に値しない数秒の出来事だ。思い出されもしない些末な一瞬だ。

 だから言い直そうと思う。

 約10年前、9歳から10歳という子どもにとっては大きな桁の壁を越えた僕の心境は、未来を見据えて希望にあふれていたとか、反対に絶望の縁に佇立していたとか、そんなことはなかった。

 しかし、そのとき僕は劇的な出会いを果たしていた。

 僕が出会ったのは、子どもの手の平でも隠せてしまうほど小さなチョコだった。1枚の10円玉で買えるその小さなチョコは、僕のみならず僕の友人たちを病的に熱中させていた。

 その理由の1つは、バリエーションの豊富さだ。

 普通のチョコレート味のものもあれば、ミルクチョコを使用した甘味を重視したもの、コーヒーの味がする変化球や、ビスケットを乗せたもの、アーモンドを含んだものなど様々だった。

 それぞれ特徴的な味わいであり、そのどれも美味しいということが僕たちを熱狂させた一因だろうが、僕はそれだけじゃなかった。

 僕にとってチョコの種類よりも、10円玉さえあれば好きなチョコを選択することができる権利を得られることの方が重要だった。つまり僕は、チョコによって選択の余地を手に入れられることに惹かれていたのだ。そんな些細な自由に魅惑されてしまうほど、当時の僕は自身の生活に対して拘束感を覚えていたということなのかもしれない。

 2つ目の理由はもっと単純だ。その10円チョコを包装するパッケージのデザインや色づかいが他のお菓子とは一線を画しており、それが子どもたちの収集欲をくすぐったことだ。

 全種類をあますことなくコンプリートするものや、自分が最も好きなものばかりを購入し、その偏執ぶりの成果を披歴するもの。楽しみ方はそれぞれだったが、それぞれの胸に秘めていた野望はおそらく同一だった。

 今は一度に買える個数は少ないが、大人になったら1万円札で店にあるあのチョコを買い占めてやろう。

 僕たちはどこかで聞きかじった大人買いという言葉に魅了され、憧れているうちにいつの間にか大人になりかかっていた。


 家にある食料が尽きたので近所のコンビニエンスストアーに赴いた僕は、お菓子コーナーの片隅にある懐かしいチョコを見て、そんなことを思い出していた。

 そのチョコの外観は昔と変わっていなかった。しかし、初めて見るパッケージがいくつかあり、見知っているものもデザインがやや変更されていた。

 何気なく1つ手に取ってみた。記憶よりも小さくなっている気がしたけれど、それはチョコが小さくなったのではなく僕が大きくなったことを伝えているに過ぎなかった。

 僕は財布のなかにある紙貨幣の数を頭のなかで勘定してみた。おそらく3470円あった。全額つぎ込めば347個買える計算だった。

 もし彼女が僕の立場なら、棚にあるチョコをすべてカゴに入れ、レジにいる店員にまだ在庫はありますか、ありませんか、どちらですか? と涼やかな声で訊ねるのだろう。

 僕は彼女ではないのではそんなことはせず、子どもの頃大好きだったミルク味のチョコと、新製品らしいイチゴ味の計20円分を、コンビニ弁当と一緒にレジへと持っていった。


「やぁっ、久しぶりぃ!」


 やけに親近感たっぷりの「いらっしゃいませ」を口にしたその店員は誰かと思えば大河内さんだった。

 また幻覚ではないかと目を疑って瞬きを数回繰り返してみたが、大河内さんは消えずにそこに居続け、チョコのように融けた前歯を見せながら、


「あれ、もしかしてぼくのこと忘れちゃった? あんなにお喋りした仲じゃん、ヒドイよ。え、え。もしかして本当に忘れた? ほら、ぼくだって、お・お・こ・う・ち。ほら、一緒に。お・お・こ・う・ち。思い出した? え、いやいや。嘘つかないでよ。思い出したって顔してんじゃん。え、嘘だぁ。絶対に人違いじゃないって。ぼくはきみのことよく覚えているよ」


 そう話し続けていたが、なにを言っても無反応に徹している僕の様子を見て、


「あ、もしかして本当に人違いだったかな?」


 と失態を取り繕うように照れ笑いをし、左手の薬指をわざとらしくかばいながらバーコードを読み取り始めた。


「お弁当は温めますか?」


 という問いはさすがに無視することができなかったので、僕は頭を上下に振って真意を伝える。僕から反応を引き出せたことが嬉しかったのか、大河内さんは無邪気な笑顔を振りまきながら背後の電子レンジへと弁当を入れた。その合間に大河内さんは会計の金額を告げ、僕は大目にお金を出してお釣りを受け取った。

 大河内さんの後ろでは、電子レンジが蚊のように唸りながら橙色の光を発していた。その様子に違和感を覚え、なかをよくよく観察すると弁当箱の上にチョコが2つ乗っていた。そして、ぐずぐずと包装もろとも溶け出しているところだった。


「あっ」


 と僕が言うと、


「えっ」


 と大河内さんが驚きの声を出した。僕は目顔で電子レンジを見るように促し、大河内さんはそれに従った。

 夕日色に染まったレンジのなかでは、弁当だけが鎮座していた。

 チョコの姿はどこにもなかった。

 疲れていて見間違いをしてしまったのだろうか、と首をひねりながら大河内さんから温まった弁当を受け取ってコンビニを後にする。

 外の景色は稼動中のレンジ内部のような温かみあふれた色合い。この風景のどこかに消えたチョコは存在するのだろうか、とか、そんなことを考えながら歩いているうちにアパートに到着する。

 机を埋め尽くす書籍を手早く片付けて食事をするスペースをつくり、台所で手を洗って引き返す。弁当は帰宅中に多少冷めてしまったようだが、まだ人肌程度には温かい。

 それよりももっと重大な事柄に僕は気が付く。割り箸を求めていくら袋のなかを漁ってもその尻尾すらつかめないのだ。袋の口を大きく開いてまじまじとなかを改めてみた。袋のなかにはやはりなにもない。箸も、買ったはずのチョコも。

 ふと僕は、机に置いた弁当が斜めに傾いでいることに気付く。

 もしやと思い、弁当の下をのぞき込む。予想した通り、弁当箱の裏面に割り箸がテープで引っ付いていた。歩いている途中に移動してそうなったのだろうか。面白味もない偶然に憤りを感じながら、もしやと思い、弁当を持ち上げて裏をのぞき見た。今度の予想は外れ、裏側に買ったはずのチョコが付着しているようなことはなかった。

 チョコはどこにいったのだろう?

 パキッ、と割り箸を半分にして弁当を食べながらチョコの行方を考える。買ったつもりになっていただけだろうか。買ったはいいが無意識のうちにどこかへ置き忘れてしまったのか。

 そうだレシートを見ればいい。そう思ってレシートを捜してみたが、どこにも見当たらない。そういえば貰った覚えもない。弁当から唐揚げを取り上げながらも、僕の目は部屋の何処かにチョコが落ちていないか落ち着きなく捜している。

 たった20円だ。失ったとしても惜しくはない。しかし、いくら割り切ろうとも頭からチョコが離れない。まるで頭蓋骨の裏側と脳みその隙間にチョコがぎっしりと詰まっているようだ。

 どうして僕はここまでチョコに執着しているのだろう。

 なにか物事の切欠、始動点として、この些細な出来事は日常的すぎると思った。だからこそ僕は、所得したはずのものが消え失せているこのワンシーンこそ、ここ最近の僕が抱いている感情に対して重要な意味合いを持つと思った。そして、喪失の対象物がチョコであること、チョコが象徴している観念も重要な意味を含んでいると直感していた。

 その直感は、完食した弁当の空箱を眺めていると確信に変わった。

 一度なくしてしまったチョコは、もう二度と返ってこないのだ。


「いいや、そんなことはないよ」


 いつの間にか机を挟んだ対面に座っていた大河内さんがそう言った。


「なぜですか?」


 僕がすぐさまそう切り返すと、大河内さんはあの融けたチョコのような前歯を唇の間からのぞかせ、それを舐め取るかのように上唇を舐め上げて不敵に笑った。


「なぜ? なぜだって? そんなことは決まっているじゃあないか。なくなったのなら捜せばいい。執念深く捜せば、捜し物はいつか見付かる。ちょー簡単な答えだろ? そう思わない? え、思わない? いやいや、よぉく、よくよく考えてみなって」

「散々、捜しましたよ。でも見付からないんです」

「諦めるのが早いんだって。本当にちゃんと捜した?」

「はい」

「本当に? コンビニから家までの道のりを、目を皿にして地面に這いつくばってちゃんと捜した?」

「そこまではしてないです」

「そこまでしなくちゃ、駄目だって。ほらっ!」


 大河内さんはロケットのように勢いよく立ち上がり、机を迂回して僕の腕を取ってぐいぐい引っ張り上げる。


「ほら、ほら。捜しにいくよ。ぼくが手伝ってあげるって。ねぇ、チョコを捜そうよ。見付けないとダメだって」


 あまりのしぶとさに折れて腰を上げると、大河内さんは曳船のように僕を玄関へと引っ張っていき、外へと連れ出した。

 日没間近の外の景色は、ひときわ鮮やかな橙色だった。

 街全体を焦がすかのようなその明るさに、思わず僕は目を眇める。橙の光はそんな僕に遠慮することなく舗道脇に立つ電柱を干し、枯れ木のような影を落とさせる。路面には枯れ並木が連なる。枯れ木同士は細い蜘蛛の糸のような電線の影で繋がれ、それはまるで古ぼけた路面電車のレールのように街を廻っている。

 童謡を口ずさむ親子がそのレールをたどりながらアパートの前を通り過ぎた。さらにその前を牛柄のノラ猫が横切り、自分の何倍も高いブロック塀に軽々と飛び乗った。どこかから漂ってきた焼き魚の香りがノラ猫の鼻先をさらに横切った。その匂いに陶酔した表情を浮かべたノラ猫は、牛のように涎を垂らしながら塀の向こう側へと飛び下りて姿を消した。その代わりに特徴のない3人の子どもたちが路地から現れたが、脇目もふらずまた別の路地へと走り去っていった。

 夜はまだやって来ない。

 しばらくすると、3人の子どもたちが路地からまた現れ、先ほどと同じようにすぐに姿を隠した。塀と塀の間から一瞬だけ見えた彼らの表情は、鬼ごっこの鬼から逃げているかのように鬼気迫っているようだった。

 彼らはなにから逃げているのだろうか?

 光に慣れてきた目を開けながらぼんやりと考えてみた。


「子どもは時間に関係なく元気だ。羨ましい限りだね」


 穏やかにそう言った大河内さんは、隙を衝いて僕が家に戻らないようにしっかりと腕を掴んできた。


「そうですね。元気ですね、子どもは、いつでも」

「大人の元気が出るのは夜だけだからね。――ははっ、これはちょっと下品なジョークだったかなっ!」

「大河内さんも元気そうですね」

「ぼくは元気だよ。いつだってね。君は元気かい?」

「僕は――」


 子どもたちが大きな足音を立てながら路地から現れ、必死の形相でアパートの前を駆け抜けていく。

 その後ろから夜がやって来て、街の日が暮れた。

 夜の訪れと同時に鼓膜を失ったかのように音が途切れた。網膜を剥がされたかのように色が解けた。つい先ほどまで鮮やかな橙色だった街は、白黒でなんの細工もない単調な景色になった。


「さぁ、チョコを捜そう!」


 大河内さんは街路灯が灯った夜道へと僕を引っ張り出した。


「こんなに暗いんですから、もう見つかりませんって」

「そんなことないって見付かるよ」

「無理です。時間の無駄です」

「時間は無駄にするためにあるんだろう?」

「そんなこましゃくれた子どもの屁理屈みたいなことを言っても、僕は捜しませんよ。やるなら一人でやってください」


 下らない押し問答につい嫌気が差した僕は、大河内さんの手を振り払って冷たく言い放つ。大河内さんはまるで同志に裏切られたかのように眉を下げ、哀しげな表情をつくって僕を見返した。


「もしもチョコを見付けたら、もらってもいいかな?」

「いいですよ」

「ありがとう」


 大河内さんは涙声でそう言い残して夜の街に消えていった。

 玄関先に取り残された僕はなんだか無性にイライラし、やけ酒でもしたい気分になったので再びコンビニへと向かうことにした。

 点々と路面に落ちた街路灯の光から光へと渡り歩き、板塀の反対側から届いてくる団欒の笑い声を流し聞きする。やがて太陽よりも明るいコンビニの光が道の先に現れる。その駐車場には見分けのつかない3人の若者が地べたに座り込み、如何わしい書物をにたにた笑いながら回し読みしていた。

 コンビニの光に照らされる彼らの顔は少しばかり赤く染まり、風呂上がりのように上気していた。本のなかにそこまで興奮を催すものがあるのだろうかと、彼らをよく観察してみた。彼らの手元には缶チューハイがあった。

 僕は彼らから目を逸らし、コンビニに入った。


「いらっしゃいませぇ!」


 元気よく声を張り上げた店員はやはり大河内さんだった。

 僕は店内をしばらく物色した後、奥部にある飲酒コーナーに赴いて500ミリリットルの梅酒パックを手に取りレジに向かった。


「いらっしゃいませぇ! 身分証明書はお持ちですか?」


 僕は財布から原付きの免許書を取り出そうとして、一旦、手を止めた。


「どうかしましたか?」


 怪訝そうに大河内さんが訊ねた。

 僕は数秒の間、指先で免許書を摘まんだまま停止していたが、店の前でたむろしていた若者たちが入店してきた騒ぎ声によって、その硬直は緩やかに解け出した。

 僕から免許書を受け取った大河内さんは、なぜだか哀しそうな顔をしていた。




 次の話で完結させると思います。なるべく早く上げたいです。

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