昔から隣にいたアイツが、最後のイベントで一番可愛くなるなんて聞いてない
丑尾悠馬。
この名前を桜高校で知らない奴はいないだろう。
全国模試、中1から五年連続一位。しかも一度も塾に通ったことはなく、模試対策すらしたことがない。
自分で言うのもなんだけど──まあ、天才ってやつだ。
高校受験のときは、教師陣から海外の名門校や偏差値70超えの進学校を猛プッシュされた。
「お前ならハーバードも視野に入る」だの、「東大進学率ここは№1だぞ」だの、うるさいったらない。
でも、オレは全部断った。
理由は単純。
──幼馴染の日向あさひが、桜高校に行くって決めてたから。
あさひは、昔からオレの隣にいる存在だった。
小学校も中学も同じで、家も近所。親同士も仲がいい。
ランドセルを並べて歩いたあの頃と、変わったようでいて、何も変わっていない気がする。
ただひとつ違うのは――
あいつがどんどん可愛くなっていって、オレがそれに気づいてしまったこと。
そして気づいた時にはもう、目で追っていた。
心まで、追いかけるようになっていた。
だから、あさひと並んで歩くこの高校生活を、オレはずっと、当たり前だと思ってた。
教師にも親にも猛反対されたけど、最終的に折れたのはあっち。オレの意志は、それくらい揺るがなかった。
あさひとは、昔からよく喧嘩する。
つい余計なひと言を言って怒らせてしまうのが原因だ。
すぐにツッコんでくるし、腕を組んで説教もしてくる。
でもまあ、それも含めて“いつも通り”。もう慣れっこだ。
高校に入ってもその関係は変わらず、クラスメイトには「また夫婦喧嘩かよ」なんて茶化される始末。
まったく、恥ずかしい。
──でも、あいつが隣にいない日常なんて、考えたこともなかった。
そんな桜高校には、毎年三月、ある意味伝統ともいえるイベントがある。
その名も──『ミスブロッサム・コンテスト』。
全校生徒の投票で、“最も華やかな存在”が選ばれるという、一見ゆるふわイベントだ。
ただし、対象になるのは二年生限定。しかも、強制参加。進学校のくせに、受験目前のこの時期に何やってんだって話だが、「これが最後の思い出作り」と言い、生徒会と教師陣が謎の熱意でゴリ押してくる。
生徒もノリノリな奴が多く、何が楽しいんだか…とオレは内心呆れている。
投票は二月いっぱい。三年生も参加できるが、選ばれるのはあくまで二年生。立候補者に投票するのだが、受験を控えている二年生にパフォーマンスやアピールなんてしている時間はないので、生徒はポスターを見て投票する。
投開票と当日の発表はすべて生徒会が仕切り、終業式の最後に「今年のミス&ミスター」が紹介される──というわけだ。
そう、“ミスブロッサム”だけじゃない。
数年前から“ミスター”も選出されるようになった。
つまり、選ばれるのは男女一人ずつ。「ミスブロッサム」と「ミスターブロッサム」。
……恥ずかしすぎるだろ。
何がって、選ばれた二人は最後に「ダンス」を披露させられる。
女子はたぶん嬉しいんだろうな。生徒会が用意するふわっふわのドレスで、お姫様になれるんだから。
でも男子は?
ビシッとした王子様衣装を着せられ、わけのわからんフォークダンス的なアレを踊らされて、しかも見てるのは、普通の制服姿の全校生徒。
公開処刑以外の何ものでもない。絶対無理。
一方、女子のほうは盛り上がっている。中には自分から立候補する子もいれば、付き合ってる彼氏に「一緒にダンスしようよ」なんて夢を語って、巻き込もうとしてるやつもいる。
──でも、そんなうまくいくわけがない。
去年も、一昨年も、カップルで出場したはずが、最終的に“別の誰か”と踊る羽目になって、
その後、どっちもあっさり破局したらしい。おそらくそれ以前も同じパターンだ。
そう──このイベント、見た目は華やかだけど、受験直前の魔の催しなんだよ。
だからこそ、聞いたときは耳を疑った。
──あさひが、立候補した?
「はぁっ?何でだよ!?」
イベント好きなのは知ってた。去年なんて、発表のタイミングに一人で実況中継までしてたくらいはしゃいでいた。今回も「どうせ騒ぐ側だろ」と思ってたのに……まさか、出る側になるなんて。
つーか、選ばれるわけない。あさひに入る票は、せいぜいオレが情けで入れる1票ぐらいだろ。
「まーったく、どうせ最下位になって恥さらすだけだっつーの」
「別にいーじゃん。思い出にはなるもん」
……そんなにお姫様のコスプレがしたいのか。
理解不能だ。
「悠馬は立候補しなかったの?」
「するわけねーだろ。男にとっちゃ、あんなのただの罰ゲームだ。それに、どうせミスターは学年一のイケメン・陽太で決まりだろ?」
アイツが自分から出るタイプには見えないけど、女子連中が勝手に担ぎ上げそうだ。それを「仕方ないな〜」とか言いながら、内心めっちゃ嬉しそうな顔して、ちゃっかりエントリーしてくるに違いない。
そんなことを言ったら、あさひは「そうかな〜」とだけ、ぼそっとつぶやいた。
***
次の日の放課後。
校舎の前で待っていると、生徒会室からあさひが出てきた。
「おっそいぞ」
べつに、わざわざ約束なんかしなくてもいい。
小学校の頃から、オレとあさひはいつも一緒に帰ってきた。
家が近いし、どうせ途中で合流するのも分かってる。
だから、こうして待ってるのも、もう習慣みたいなもんだ。
あさひは、ミスブロッサムの投票用写真を撮っていたらしい。候補者がやることなんて、実質これだけだ。
でも、この写真――つまりポスターの出来が、票を左右する。
***
数日後。
生徒会室に続く廊下に、候補者のポスターが一斉に掲示された。
A2サイズの写真がずらりと並ぶ。女子は10人。男子は6人。
男子側の顔ぶれを見ると、ほぼ全員彼女が出場しているやつらばかりだった。
そして、やっぱり陽太もいる。
あいつが候補に入ってる時点で、もう勝負は決まったようなもんだ。票が割れる可能性は低いし、女子の人気も圧倒的。あとはミスの争いか。
あさひは……。
ポスターを見て、一瞬、言葉が詰まった。
――なんだよ、けっこう可愛く撮れてんじゃん。
柔らかく笑ったあさひの写真。その横に、丸っこい字体で「日向あさひ」と書かれている。
あさひらしい、どこかあたたかくて素朴なデザイン。センスも悪くない。
というか、やたら完成度高いじゃねーか。
……まあ、良くできてると思う。客観的にな。
けど、これを見た馬の骨どもがあさひに票入れてくるのは正直、面白くない。
オレは近くの教室から油性ペンを持って戻ってくると、あさひのポスターの前で立ち止まった。
にこりと笑った、よくできた写真の頬にぐるぐるの渦巻きを描き、ついでに鼻も真っ黒にしてやろうとペンを構えたその瞬間――
「ちょ、ちょっと!何してるんですか!!」
生徒会室の扉がバン!と開いて、声が飛んできた。
見ると、見覚えのない一年生の生徒会役員が眉をつり上げて立っていた。
「あー、悪い悪い。ちょっと遊んでただけ」
オレがあっさりキャップを閉めてそう答えると、彼はぶつぶつ文句を言いながらポスターを見つめた。
「も〜、他の候補者を蹴落とそうとして落書きなんて、ルール違反ですからねっ!」
いや、違ぇよ。誰の味方でもねぇし、他の誰かを応援してるわけでもない。
「それ、どうすんの?」
「片づけて、新しいのに張り直します……って、やば、会長に呼ばれてるんだった!体育館行かなきゃ!」
ポスターを剥がそうとした彼を、オレは軽く呼び止めた。
「よかったら、オレが剥がして中に置いとくよ」
「え!?ほんとですか、ありがとうございます、丑尾先輩!」
初対面だけど、どうやら名前は知られてるらしい。
さすが全国模試一位の有名人ってか。ま、当然だな。
ポスターを丁寧に丸めて持ち帰り、教室へ戻るとちょうどあさひがいた。
「それ、何?」
「間抜けなトナカイのポスター」
「は?何それ?」
怪訝そうに首をかしげるあさひに、オレはそっけなく答えて、それ以上は言わなかった。
***
家に帰って、ポスターをそっと広げる。
頬に渦巻き、鼻は塗りかけ。でも――それでも笑ってるあさひは、やっぱり可愛くて。
……思わず、にやけてしまった。
部屋に飾るには照れくさい。けど、捨てるなんてできない。仕方なく、引き出しの奥にしまい込んだ。
…こんなにも、好きなのに。目の前にすると、素直になれない。いつだって言葉より先に、憎まれ口が出てしまう。
でも、いつかは――この気持ちに、ピリオドを打たなきゃならない。
……あいつが、他の誰かの“お姫様”になる前に。
***
卒業式が終わり、次は終業式。
一年生は春休みを目前に浮足立っているけど、二年生はそうもいかない。
この時期から受験の足音が本格的に聞こえはじめる。
例年なら、春に少し遠出して花見をしていたけど、今年は難しそうだ。
オレも、あさひも受験生だからな。
ただ、オレはもちろん、あさひも成績はいい方だ。
このまま普通に勉強してれば、有名どころの大学には受かるはず。だから、一日くらい息抜きしても大丈夫だと思うんだけど――「どっか行かね?」って誘おうとしても、なかなかタイミングが掴めず、結局何も言えないまま日が過ぎていく。
***
『ミスブロッサム』の当選者は、終業式の前日に生徒会だけが静かに把握する。
衣装のサイズ調整や式の段取りがあるから、事前に知っておく必要があるらしい。
正式な発表は、あくまで本番の式中。
けど、いままで情報が漏れたことは一度もない。
生徒会って、案外口が堅いんだよな。
そして、いよいよ迎えた終業式当日。誰が選ばれたのか、今年も分からないまま体育館に整列する。候補に名を連ねていた女子の中には、ほんのりメイクをしてきている子もいた。
たぶん、自信があるんだろう。あるいは、願掛けか――。
校歌斉唱が淡々と流れ、校長の挨拶も例年通りの退屈さ。
教務主任の話になるころには、もう体育館の空気が明らかにざわついていた。
ざわざわ、ひそひそ、落ち着かない。
ステージの袖では、生徒会メンバーがせわしなく準備をしているのが見える。
もうすぐか。……ダルい。早く終われよ。思わずあくびが漏れる。
その瞬間――
「それでは、『ミス・ブロッサム』および『ミスター・ブロッサム』の発表です!」
生徒会長の声が響くと同時に、体育館内がパッと沸いた。歓声が上がり、空気が一変する。
生徒会長が少しだけ芝居がかった動きで、カードを掲げ、一拍の間を置き口を開いた。
しかし、その口から出た名前を聞いた瞬間――
オレの中で何かが、ぐらりと音を立てた。
「第36回『ミス・ブロッサム』は――日向あさひさんです!」
その瞬間、体育館が揺れた。割れんばかりの拍手と歓声が四方から降り注ぎ、まるで誰かの優勝を祝うパレードのようだ。
名前を呼ばれたあさひは、目を丸くして硬直していた。
放送係が「それでは、日向さんにはさっそくお着替えをしていただきましょう!」とマイク越しに元気よく言うと、生徒会メンバーが手際よくあさひのもとへ向かう。
戸惑いながらも、あさひはそのままステージ袖へと連れていかれた。
オレは――それをただ、呆然と見ていた。
(……ウソだろ?何であさひなんだ)
もっと“それっぽい”女子は他にもいた。
派手な見た目の子、クラスで人気の子、目立つ子。
でも、選ばれたのはあさひだった。
その事実が、頭に染み込んでいくより早く、オレの思考は次の展開に飲み込まれていた。
……そうだ、ミスター・ブロッサムとペアになって、ダンスを踊るんだ。
みんなの前で、例の衣装で、ワルツを。
男が、あさひの腰に手を回して。笑って、踊って――。
頭の中でその光景が鮮明に浮かぶ。
胸の奥がチリチリと焼けるように熱くなる。
(そんなの、嫌だ)
どうせミスターは陽太だ。あいつが他の男子に負けるわけがない。
その陽太が、あさひの手を取るなんて。「仕方ないな~」とか言いながら、しれっと踊るに決まってる。
たかが学校のイベント。
そう思っていたはずなのに、心がまるで言うことを聞かない。モヤモヤが、腹の底で渦を巻く。
(くそっ、立候補しておけばよかった…)
オレも、顔にはそれなりに自信がある。
今年のバレンタインだって、チョコは10個以上もらった。
だから、もし出ていれば、陽太といい勝負ができたかもしれない――いや、さすがにあいつには敵わないか……?
…なんて、今さら後悔したってもう遅い。何も変わりはしない。
ならせめて――ダンスが始まるタイミングで、壇上に向かって大声でも出して妨害してやろうか。そんなアホみたいな考えが、ほんの一瞬、頭をかすめる。
ステージを睨んでいると、今度は副会長がマイクを握った。会場が再び静まり返る。
「続いて、『ミスター・ブロッサム』の発表です!」
――来た。どうせ陽太だろう?分かってる。
何の落ち度もないのに、オレは今、あいつに喧嘩を売られたような気分になっている。
「続きまして――『ミスター・ブロッサム』は……もちろん、丑尾悠馬さん!」
……は?
一瞬、聞き間違いかと思った。
けれど、次の瞬間には体育館がさっきの倍の歓声で包まれていた。
女子たちの黄色い声が響き、男子も混じって拍手を送り、陽太も笑顔で拍手している。
(……いやいやいや、待てって!)
「オレ、立候補してねーから!!」
そう叫んだけれど、誰にも届かない。
拍手と歓声にかき消されて、生徒会役員に「はいはい、行きますよー!」と腕を引かれ、そのまま放送室へ連れていかれた。
(なんでだよ!?てか、“もちろん”って何だよ!?)
ドアを開けて放り込まれると、目に飛び込んできたのは――黄色のドレスに身を包んだ、あさひの姿だった。
ふわっと広がるスカート、生まれて初めて見るくらい本気のメイク、少し緊張したような、でもうれしそうな表情。
……か、カワイイ。
「わぁ、悠馬だぁ!」
あさひがこちらに気づいて、ぱっと顔を明るくした。
その笑顔を見て、少しだけ混乱が収まる。
「…なあ、オレ、エントリーしてねーんだけど。どうなってんだこれ。間違いじゃね?」
言いながらも、どこかで「誰が相手でも譲るつもりはない」と思っている自分がいる。
間違いだったとしても、この瞬間は手放したくない。
「自薦・他薦問わず、好きな人の名前を書いていいんだよ?毎年そうでしょ、知らなかったの?」
「いや、知らねーし……」
「でも、名前がひとりに集中することって、まずないの。ほとんどがバラけちゃうから。でも今年は、例外だったみたい」
そう言いながら、あさひは少しだけ照れたように視線を逸らした。
(……え、もしかして。マジで?)
誰かが勝手に入れた――なんてレベルじゃない。たくさんの誰かが、オレの名前を書いたってことだ。こんな“ふざけたイベント”だと思っていたのに、今はもう……頭がついていかない。
ただ一つ、ハッキリしていることがある。
あさひの隣に立てるのが、オレでよかった。
なんてことないやり取りのはずなのに、ドレス姿のせいか、あさひの笑みがどこか優雅に見える。
こんなやわらかな表情を、今からオレ以外の誰かにも見せるのかと思うと、ちょっとだけ胸がざわつく。
――とはいえ。それにしても、オレが一位ってどういうことなんだ。
「はーい、丑尾くん、こっちで急いで着替えてくださーい!」
カーテンの向こうから、生徒会役員の呼び声。
そうだ、選ばれたってことは、これから王子様コスプレをするってことだ。
ひなたと踊るには、ドレスとタキシード。これがセットなんだっけ。
……もういい。開き直ってやる。
「なるほどね……こりゃあ、派手な王子様衣装だな」
渡された衣装は、紺を基調に金の刺しゅうがきらめくタキシード。思った以上に作り込まれていて、ちょっと驚く。
(……こんなの、いつ用意してたんだよ)
ぶつぶつ言いながらも、言われるがまま袖を通し、鏡で確認してからカーテンを開ける。
あさひがこちらを見て、ふっと頬を染めた。
「……似合ってるよ」
その言葉に、思わず胸の奥がふわっとなる。あさひが、そう言ってくれるなら。もう、それだけでいい。そのとき、ステージの外から生徒たちのコールが聞こえてきた。
「ひゅ〜! 日向〜!」「丑尾〜! がんばれ〜!」
「いよいよ、ミス・ミスターブロッサムのご登場です!」
生徒会長の声が響き、体育館が歓声に包まれていく。
さあ、行くか――と前に出ようとするあさひに、そっと手を差し出す。
「エスコートさせてください。……お姫様」
一瞬、あさひの目が驚いたように見開かれ、すぐにふにゃりと笑みがこぼれた。
「……う、うん」
ぎこちなく、それでも嬉しそうにオレの手を取るあさひ。
触れた手が、少し震えていた。
「悠馬……ほんとに、本物の王子様みたい」
「――まあな」
照れ隠しのように軽く返しながら、そっと手に力を込めた。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに――
そう思いながら、オレたちはステージへと歩き出した。
ステージに姿を現すと、体育館がひときわ大きな歓声に包まれた。
名前を呼ぶ声、ひゅーっと茶化す声、拍手の渦。まるでスター気分だ。
その中で、あさひは照れくさそうに微笑んでいた。
(どうだ。これがあさひの可愛さだ。思い知れ)
そんな誇らしさと、その笑顔を自分以外の誰かに見せていることへの、ちょっとした悔しさが胸の奥でせめぎ合う。
(くそ、かわいすぎるだろ……)
「それでは、お二人によるダンスタイムです!」
生徒会長の声が高らかに響いた。
あさひがくるっとこちらを向き、笑顔で言う。
「踊ろ、悠馬!」
まぶしいほどの笑みだった。一瞬、時間が止まったように感じた。
あさひが、こんなふうに笑うなんて。
ワルツのイントロが体育館に流れ始める。
オレはあさひの手を取り、階段をゆっくりと降りた。
すると、まるで映画のワンシーンみたいに、中央の通路がすっと開ける。
生徒も先生も、みんなが見てる。去年は退屈で途中で抜けたこのイベント。
まさか今回、自分がその“見せ場”のど真ん中に立ってるとは思わなかった。
だけど――
(……悪くない。いや、むしろすげぇ楽しいかも)
「ワルツ、ちゃんと踊れるかな」
あさひが小さな声で言った。
どうやら、さっき着替えの際に急ぎで三拍子のステップを教わったらしい。
「こっちは、そんなレクチャーすらなかったけどな」
苦笑しつつも、内心は落ち着いていた。
なぜなら、オレは昔――毎週、おじいちゃんが踊る社交ダンスを見て育ったのだ。たまにおじいちゃんに誘われてやることもあった。
ステップは何度も見た。リズムも覚えている。
……たぶん踊れるはずだ。
「大丈夫。オレに任せとけ」
そっと手を握り直すと、あさひの瞳がふわりと和らいだ。
「オレの動きに合わせて。力抜いてりゃ大丈夫だから」
そう言って、左手であさひの手を取り、右手はそっと彼女の腰へ添える。
ワン、トゥー、スリー……
ドレスの裾がふわりと広がり、通路に美しい弧を描いた。
舞うようにターンすると、ざわついていた体育館がしんと静まった。みんなが息をのんで見ている。
(……見惚れるのも無理ないか)
そのまま大きく一歩、もう一歩と進みながら、オレはぽつりと呟いた。
「ってかさ、何でオレ、選ばれたんだよ」
ステップを刻みながら問いかけると、あさひがふっと笑った。
「悠馬ったら……知らなかったの?」
「知らねーよ。てっきり、美男美女コンテストだと」
「ふふ、違うんだよ。このイベントはね、“四月からこの人の運にあやかりたい”って思う人を選ぶの」
「運……?」
「そう。一年を良い年にしたいって人たちが、ゲン担ぎで票を入れるの。だから、顔だけじゃ選ばれないんだよ」
(……マジかよ。そんな意味があったのか)
思い返してみれば去年のミスターは陸上部のインターハイ選手、その前は東大理Ⅲに合格した秀才と聞いている。去年の奴がイケメンだったから、てっきり見た目だと思ってたけど、そういうことだったのか。てことは、去年のミスの方も何かしら選ばれる要素があったってことか。
「だから絶対、今回は悠馬だと思ったんだよね」
「なんで?」
「悠馬から、学業成就のパワーもらいたいじゃない」
そう言って、あさひがにこっと笑う。
「受験を控えてる二年生はもちろん、一年生もご利益ほしいって。悠馬、模試ずっと一位だし」
そういうことか…。
そう言えば今回の女子の出場者で一番頭がいいのはあさひだな。模試でいつもいい点数だし、試験の校内順位もTOP10の常連だ。
(……オレは言わずもがな、全国模試五年連続一位だしな)
「オレはもはや神の領域ってことか」
「うん、拝まれてるかもね」
ワン、トゥー、スリー──
繰り返されたリズムが、ふわりと終わりを告げた。
最後のステップを踏み終えると、オレたちは足をそろえて四方にお辞儀をする。
大きな拍手が体育館に響き、あさひがほっとしたように笑った。うまく踊れたらしい。嬉しそうな顔がかわいくて、ちょっと胸が熱くなる。
「受験勉強がんばれよー!」
オレがそう叫ぶと、「お前も受験生だろー!」というツッコミが返ってきて場がどっと笑いに包まれた。
***
終業式が終わり、生徒たちはざわめきながら教室へと戻っていく。放送室で着替え終えて外に出ると、さっきまでの賑わいが嘘みたいに、体育館は静まり返っていた。
ガランとした空間を見渡しながら、あさひがぽつりと呟いた。
「……楽しかった」
その横顔は穏やかで、ちょっと名残惜しそうだった。
「みんな、喜んでたね」
「拝んで合格できたら、誰も苦労しねーけどな」
つい、口が悪くなる。
素直に「そうだな」って言えないのが、オレの悪いところだ。
(……あーあ、まただ。せっかくいい雰囲気だったのに)
ちょっと気まずくなった沈黙の中、あさひが「ねえ」と小さく声をかけてきた。
「今年はね、絶対に悠馬が選ばれると思ったの。だから……立候補したんだ」
「なんで?」
「だって……悠馬とダンス、踊りたいなぁって……思ったから」
その瞬間、あさひの頬がぱあっと赤く染まる。
ずるいな、そんな顔。そんな言葉。同じ気持ちだと勘違いしそうになるじゃんか。
「ん……あー、そっか。だったら……念願叶って、よかったな」
こういう時、素直に「オレもダンス踊れて楽しかったよ」って言えたらいいんだけどな。
あーあ。…でもせっかくの二人っきりで、しかもいい雰囲気…。こんな時くらい素直にならないとな…。
そう決めると、教室に戻ろうとした足をふと止め、振り返ってあさひに声をかけた。
「なあ、なんか願い事とかある?」
「願い事?」
「今日のお前はお姫様だろ?だったら、王子としてわがまま聞いてやるよ」
……ちょっとクサかったか?けど、今くらいはいいよな。
誰もいない、この静かな体育館の中で、二人きりなんだから。
「えっと、じゃあ……」
少し迷ったあと、あさひはそっと目をそらしながら言った。
「一緒に、お花見……行きたいな」
「それだけ?」とオレは苦笑いを浮かべる。
だってそれ、オレが言おうとしてたやつだ。……先に言われちまった。なんか、悔しい。
「他には?」
「そしたら……勉強、教えて?」
「そんなの、頼まれなくてもしてやるって」
ちょっと呆れたように言うけど、口元はきっと、ニヤけてる。オレの顔、今どんなふうに見えてんだろうな。
「他には?」とまた聞くと、あさひはふっと笑って、少し真剣な顔でこう言った。
「……悠馬と同じ大学に行けるように、って。お祈りしてて」
「オレが勉強見てやるんだから、心配すんな。絶対一緒に受かるって。――で、他には?」
あさひは本当に、もう願い事がなさそうだった。
あさひらしいな。欲がなくて、控えめで、でも芯があって。そういうところが――やっぱり好きなんだよな。
校舎に続く渡り廊下を歩いていると、あさひがぽつりと何か言ったけど、声が小さすぎて聞き取れなかった。
「ん?なんか言った?」
振り返ると、あさひの顔はさっきよりもっと真っ赤になっていた。
目を伏せて、指先をいじって、しぼり出すような声で言った。
「だから、その……さっきのドレス……可愛かったって、言ってほしい」
「……えっ、あ?ああ、アレね」
なんでこういうときに限って、言葉がすんなり出てこないんだ。『世界一可愛かった』って、思ってるのに。
もじもじしてる自分が情けない。
「そりゃ、もちろん……その、似合ってた、と思うよ」
「……うん、ありがとう」
そうじゃないだろ、オレ。ありがとうって言ってくれたのは、嬉しいけど。
あさひが言ってほしい言葉は今のじゃない。
――さっき、自分で言ったじゃないか。こんな時くらい、素直になろうって。
「……誰にも見せたくないくらい、可愛かった」
言った瞬間、あさひの目がまん丸になった。
……やっべ、言いすぎたか?でも、嘘じゃない。本気だ。
「ほら、行くぞ」
恥ずかしさを隠すように前を向く。顔を見られるのが嫌で、早足になったそのとき――
背中から、そっと手のぬくもりが重なる。
あさひが、オレの手に自分の手を乗せてきた。
──ミスとミスターがくっついたことは、これまで一度もなかったらしい。
でも、そんなジンクスなんて、今日から変えればいい。
「なあ、お姫様。今度は、オレのわがままも聞いてくれる?」
「なに?」
このまま、彼女になってくれ――
…なんて。
王子のわがままに、優しいお姫様が真っ赤になってうなずく瞬間は、もうすぐそこだ。