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リドゥは平和の塔のなかに突入した。彼を出迎えたのは数えきれないほどの無脳生物たちだった。彼らは自動小銃の照準をリドゥに向け、弾丸を発射する。しかし狙いをつけるための赤外線照準器はリドゥの光学擬態外套によってごまかされ、わずかに侵入者の体を外す。リドゥは無数の弾丸を潜り抜けながら、右手の『QUIT』と左手の『EXIT』の狙いを定めた。
ギンッ! という金属的な高音と、空気が焦げる臭いがした。それと同時に一度に五体の無脳生物を直径一粍の重金属粒子が貫通し、強力な衝撃波によってその体を内部から破裂させる。爆発が起こった。
銃声と轟音を聞きながら、リドゥは転げまわった。二丁の拳銃はその反動で彼の動きを邪魔することも、狙いを外させることもなかった。リドゥは転げながら何発もの重金属粒子を発射する。そのたびに十数体の殺人機械どもが倒れ、爆発し、金属片をぶちまける。液晶画面の残弾表示がひとつ減ると、その十倍の数の無脳生物が破壊される。圧倒的な戦力差は見た目とは逆だった。
リドゥは柱の陰に転がり込み、呼吸を整えた。攻撃がとぎれた今が絶好の機会と、無脳生物たちが銃を乱射する。毎秒二十発の高速連射が柱を削り取っていく。しかしリドゥは冷静だった。なぜなら彼はこの拳銃の機能を知っていたからだ。
「拡散形態」リドゥが唱える。
「Spread Shooting Mode,ready.」拳銃が応え、銃身が扇状に変形した。
リドゥは腕と拳銃だけを柱の陰から出し、相手も見ずに射撃した。すると独特の銃声と同時に何発もの重金属粒子が放射線状に発射された。逃げ場はなかった。広間に集まっていたすべての無脳生物たちは一瞬で爆散した。
「Compulsory Cooling.」二丁の拳銃がもとの形に戻り、引き金が強制的に固定される。 リドゥはゆっくりと柱の陰から出た。彼が目にしたのは、広間中に、床が見えないほどに散らばった屑鉄の山だった。
「さすが伝説の拳銃……」リドゥは改めて手元の二丁拳銃を見た。それぞれ『QUIT』と『EXIT』の刻印が刻まれた拳銃は、銃身から飛び出した放熱板から水蒸気を立ち昇らせていたが、しばらくすると「Cooling Completed.」の音声とともにまた引き金が軽くなった。広間にほかに敵の気配はない。リドゥは奥の扉に向かって歩く。
「ひどい……めちゃくちゃじゃない……」リトル・シスターがリドゥと並んで歩く。
「どこへ行くつもり?」
「教えるもんか」リドゥは鼻を鳴らした。
「警備室でしょ、出がけに横目で地図を確認してたの、私知ってるよ」
「だったら黙ってろよ」無邪気を装った語りにリドゥは苛ついた。彼女の言うとおり彼が向かっているのは警備室だった。義捐都市の重要人物たるキャンディを監禁するのに、監視装置無しの部屋に閉じこめるというのは考えにくい。ならば警備室に行けば監視装置越しにキャンディのいる部屋を見つけられるのではないかと考えたのだ。
「しかたないなぁ」リトル・シスターは残念そうに言った。
「これはあまりやりたくなかったけど……」扉に手をかけるリドゥの背に彼女は言う。リドゥは無視して扉を開けた。
「……死ね」リトル・シスターが冷たく呟いた次の瞬間、信じられないことが起こった。
リドゥが開いた扉の向こう側から、得体の知れない化物が飛び出してきたのだ。それは無数の触手を持ち、虹色の粘液を分泌した、形容し難い緑色の巨大な怪物だった。怪物は体中に並んだ無数の目玉でリドゥを見下ろすと、いかにも凶悪な牙の生え揃った口を大きく開いて咆哮した。怪物の咆哮は広間の硝子を震わせ、悪臭は鼻をつまませる。触手はリドゥの手足に絡みつき、彼の体を締めつけた。しかしあまりに現実離れした光景は、かえってリドゥを冷静にさせた。
「おまえの見せる仮想現実だろ、リトル・シスター!」
「あら、バレた?」リトル・シスターが化物の上に現れた。
「無駄だ! こんなもので僕を止められるものか!」リドゥはいとも簡単に怪物の触手をすり抜けた。体を締めつけられる感覚はあるが、脳の錯覚だと割り切ってしまえば、動けないわけではない。
「そう? じゃあやめる」リトル・シスターが指を鳴らすと化物はかき消えた。化物だけでなく、化物が出てきた扉もかき消え、扉のあった壁もかき消えた。柱も、床も、天井も、平和の塔内のありとあらゆるものが輪郭を失い、リドゥは虚空に投げ出された。全身の皮膚が粟立つおぞましい緊張が這い上がってきた。
「う……うわ……!」
「どうやらこっちのほうが好みみたいね」目の前に、逆さまになったリトル・シスターが浮かんでいた。彼女の体は奇妙に歪み、片目が太陽のように大きくなったかと思えば、手足が蟻のように小さくなった。笑い声は反響し、すぐ耳元で囁かれているようにも、遥か彼方からかすかに聞こえるようにも聞こえた。平衡感覚が消滅し、リドゥの全身を浮遊感が包んだ。暗黒の昼とまばゆい夜が頭の周りをぐるぐる回った。無数の過去とひとつの未来が体を串刺しにした。天地が逆転し、散り散りになって、宇宙の創世と崩壊をわいせつなダンサーの秘部から溢れ出た銃弾と神と自分自身の電脳の中身はカエルとナメクジと蛇の互いに喰らい合い乱交し無数の剣がキャンディを貫き先端から白い液体が噴水のように吹き出してなにもかもを同一に食い散らかし乳房の三つある女との滞在は二週間です地獄で会おうぜベイビー2D 2D or not 2D宇宙生命その他すべての答え42さようなら今まで魚をありがとう妹への愛は世界を混沌の秩序に――リドゥは声にならない叫びを上げた。
統一性の無い無数の情報が仮想現実となってリドゥを襲っていた。それらは彼をさほど時間をかけずに発狂させるにたるものだった。リドゥはもがいた。
(考えろ――考えろ――これは仮想現実――すべて嘘――リンゴは関係ない――これだけの情報はどこからきた――ネジの頭もだ――これは電脳の見せる幻覚――電脳は僕だ――悪いのはリトル・シスター――リトル・シスターは僕だ――僕の腕は四万キロ米も無い――腰の小刀を抜いて――そう、小刀を頭に――もう少し後ろだ――!)
「ぐあぁっ!」リドゥは悲鳴を上げた。直後、彼は全身から滝のような汗を流して平和の塔の床に這いつくばっていた。リドゥの後頭部が小刀の刃により一糎ほど抉られて、大量の血が溢れ出ている。純脳人なら致命傷だが、電脳人のリドゥは血管を一部閉鎖し、出血と痛みを抑えた。
「がっ……はぁ……っ!」今まで経験したことがないほどの気持ち悪さにまだ目がくらんでいたが、徐々に正常な感覚を取り戻しつつあった。深く息を吸い、力なく立ちあがる。傍らでは、リトル・シスターがひどく驚いた顔をしていた。
「そんな、なんで!?」彼女は無表情でうろたえていた。
「おぇ……吐きそう……」リドゥは口元を拭う。
「せっかく仮想現実を見せられるんだから、もっとさり気なく妨害したほうがよかったんじゃないか?」リドゥは傷口を押さえつつ、してやったりといった顔で笑った。
「……そうね、説明して」リトル・シスターの画像は乱れている。情報の読み込みが上手くいっていないのだ。
「リトル・シスター、あんたは独立していない。でも僕は独立している。だったら増設した送受信機がどこかにある。僕の電脳の増設口は後頭部だ。以上」
「わぉ、簡潔ぅ」リトル・シスターは肩をすくめた。
頭が爆発しそうなほどの情報を流しこまれ、発狂寸前まで追い込まれたリドゥが雑音だらけの頭で思考したのは『これらの情報はどこから来ているのか?』ということだった。
リトル・シスターが仮想現実なのは知っている。しかしめまぐるしく変化する日常のなかで、見せたいものを見せ、見せたくないものを見せないためには、リドゥの視覚に介入し、常に映像情報を改ざんし続ける必要がある。その処理はどこでやっているのか?
リドゥの電脳内を間借りして処理をするというのはやや無理がある。もともと電脳というのはわざと見間違いや聞き違いをするような処理のためにはできていないのだ。もしそんな電脳内で無理やり処理を行えば、電脳自体の性能も落ちる。リドゥは、自己診断の結果からそれはないと確信していた。
処理装置を増設されているという可能性もあったが、それだと日々増え続ける膨大な合成素材の情報をどこに保存しておくのかという問題が生じる。リドゥは義捐都市で暮らしてまだ二日だが、義捐都市には最大七十歳まで暮らせるのだ。それに合成素材を蓄える方式だと、さっきのリドゥのようにまず普通は使わないであろう怪物の情報を保管しておく意味がない。必要に応じて外部から持ってくるほうが合理的だ。そこまで考えてリドゥが思い出したのは、リトル・シスターの『すべての妹は情報を共有している』というひと言だった。それはつまりリトル・シスターは常に電波通信網につながっているということだ。
リドゥを含めた電脳人や改脳人は、普通は外部の通信網にはつながっていない独立状態で稼働している。なぜならば、下手に外部につなげて病気に感染でもしたならば、脳が犯されて即死だからだ。だから通常、電脳や義脳には無線の送受信機はついていない。この矛盾に気づいたリドゥは、リトル・シスターが自分の電脳に送受信機を増設し、改ざん処理自体は電波通信を介した別の場所でやっているのだと看破したのだった。
「それにしても、すごいね」リトル・シスターの画像と音声は飛び飛びだ。
「普通の電脳人や改脳人なら、目の前の情報を処理しようとするはずなのに、それを無視して別のことを考えるなんて」
「そうかい」リドゥは扉を開け、警備室へと急いだ。
「これも『心』のなせる業かな」
「……見た目がこわれておもしろいことになってるよ」リドゥが指摘したとおり、リトル・シスターの可愛らしい姿は今では不気味な昆虫のように手足がでたらめな方向に伸びていた。
「もう僕は君の支配を受けない。君の負けだ」
「そうね」リトル・シスターはぎこちなく笑う。
「私は義捐都市の秩序そのもの。私が打ち倒されたということは、あなたは義捐都市の秩序を乱す者じゃなく、義捐都市に変革をもたらす者かもしれない」リドゥは足をとめ、リトル・シスターを見た。彼女の見た目はもとに戻り、まともな人間になっていた。彼女はにっこり笑った。胸がしめつけられるような笑顔だった。
「短い間だけど、楽しかったよ。ばいばい、お兄ちゃん!」妹は消えた。リドゥはなぜだかとても悲しくなって、ふたたび歩きだした。
幻想は打倒された。
不穏な気配を感じて数十分前から息を殺していたキャンディは、窓から飛び込んできた爆発音に飛び上がった。小さな窓にすがりつくと、強い焦げ臭さが鼻をつき、町なかから黒煙が立ち上っているのを見た。直後、廊下を慌ただしくかけていく複数の足音が聞こえてきて、キャンディは、今度は扉に飛びついて耳をすました。扉の向こう側からは「早く逃げてください」だとか「避難してください」だとかの声が聞こえてくる。キャンディはそこで平和の塔内の人間すら避難が必要な、何か重大なできごとが起こったのだと察した。次に彼女は、避難のために誰かがもうすぐ自分を迎えにくると予想した。
彼女は慌てて行動にうつった。机の上の紙を何枚かひっつかみ、服の中に突っ込んだ。そして次に本棚から分厚く重い本を引っ張り出すと、その角で洗面所の小さな鏡を割った。鋭いかたちの破片を拾い、これもやはり服の下に挟む。ひと通りの準備を終えた直後だった、扉が激しく叩かれたのは。キャンディは振り向いて何食わぬ顔をする。扉が開いて、ウィンストンとひとりの兵士が部屋の中に入ってきた。
「キャンディ、いきなりですまないが一緒に来なさい」ウィンストンはけわしい顔で手をさしのべた。
「事故があった。瓦斯爆発だ。少し離れた場所だがここも危ない。避難するんだ」キャンディにはすぐに彼の言葉が嘘だとわかった。なぜなら爆発の少し前、自分のいる建物のすぐ近くで銃声がしたのを聞いていたからだ。そしてウィンストンが嘘をついたという事実がキャンディの脳裏にある考えを閃かせ、驚愕させた。
(あの銃声と爆発音は私に関係があることだ。銃声がしたということは、誰かを殺そうとしたんだ。私に関係があって、義捐都市に命を狙われるような人……まさか――)キャンディが最後に彼を見たのは、砂漠の真ん中、長髪の女改脳人に締め上げられている場面だった。嫌な予想ばかりが浮かぶのでその後彼がどうなったのかは与えられた課題に懸命に取り組むことでなるべく考えないようにしていた。しかしそれらの残酷な予想は外れていたのだ。キャンディは胸が高鳴るのを感じた。目頭が熱くなった。
(――リドゥ! 生きていたんだ!)だがこの喜びを今目の前の老人にさとられるわけにはいかない。キャンディは精いっぱいの怯えた表情を作った。
「怖いのはわかる。だから避難するんだ。屋上の回転翼機で別の義捐都市に行くんだよ」ウィンストンはやさしい声で言った。キャンディはおそるおそる彼の手をとった。老人は彼女の手を引き、そばに寄せる。横の兵士が手錠を取り出したが、ウィンストンは手を上げて制した。
「彼女を怯えさせるな。大丈夫、私たちは君の味方だ」兵士は手錠をしまった。
「さ、行こう」
キャンディはウィンストンに連れられて部屋を出る。早足で廊下を歩き、昇降機前までやってきた。キャンディは昇降機の横の壁に掲示されているこの階の地図をちらりと見た。そこには『四十階案内図』と書かれている。複数台並んだ昇降機は他の職員たちが逃げるのに使ったせいで、すべて最下階まで下がりきっていた。ウィンストンとキャンディと兵士は扉の前で待つ。その間にキャンディは後方の天井に監視装置があることを確認すると、ウィンストンの袖を引っ張った。
「なんだね?」彼が振り向く。キャンディは服の下から紙を取り出し、ものを書くしぐさをした。ウィンストンはうなずいて、上着の内側から万年筆をキャンディに手渡した。
キャンディは感謝を笑顔で示し、紙を床に広げて筆を走らせた。彼女が書いたのは文字ではなく、絵だった。フチのかけたどんぶりの中に麺のようなものが入った料理の絵だ。少し間を開けて、箸の絵まで描いてある。それはなぜかほぼ十字に近いかたちに描かれていた。
「なんだね、それは?」ウィンストンが訊いた。するとキャンディは彼をふりかえり、にっこり笑う。直後、キャンディは手に持った万年筆をウィンストンの顔に投げつけた! 驚いたウィンストンはのけぞってキャンディから離れる。彼女はすばやく立ち上がり、踵を返して廊下を走り出した。
「追え!」ウィンストンの怒声が響く前に、兵士はすでにキャンディを追って駆けだしていた。だがいくら全力で走っても少女の足では成人男性には勝てない。距離はすぐに詰められ、兵士はキャンディの背中に手を伸ばす。鋭い痛みに兵士が怯んだ。キャンディが隠し持っていた鏡の破片で彼の手を斬りつけたのだった。
「逃げ場はないぞ!」ウィンストンが小さくなっていくキャンディの影に叫ぶ。
「昇降機はここだけだ! 非常階段には別の兵士がいる! 逃げられはしない!」
「ねぇねぇ、ウィンストン」突然リトル・シスターがひょっこりと現れ、ウィンストンの顔を覗いた。老人は苛立たしげな口調で応えた。
「なんだ!」
「リドゥさんの妹だけど、やられちゃった。もう足止めはできないよ」あっけらかんと言う。
「なんだと……自力で君を倒したのか!?」彼女はうなずく。
「それともうひとつ、もうすぐ彼はここに来る」
「なに……なぜこの階だとわかった!」
リトル・シスターは首をふり、肩をすくめた。ウィンストンが床に落ちている一枚の紙切れに気がついたのはそのときだった。紙には見覚えがある。それはさっきキャンディが書いていたものだった。老人の視線は吸い寄せられるように天井に向かう。監視装置があった。
「まさか……」ウィンストンはなるべく監視装置と同じ視点から紙が見える位置に移動した。そこからは紙に描かれた絵がよく見えた。
「……これか!」彼女が書いた料理と箸の絵には、何か別の意味があるように思えた。なぜならば、十字に描かれた二本の箸は、まさにそのまま数字の『十』に見えたからだった。
(となれば、この料理の絵は、ある特定の仲間にしか伝わらない暗号のようなもので、意味は『四』だ!)ウィンストンはここが四十階であることを思い出していた。彼は少なからず戦慄していた。このような暗号を残したということは、あの少女は爆発から今までのわずかな時間に、誰が、何のためにこの平和の塔を襲撃したのかを推理し的中させたのだ。まるで魔法のようでウィンストンは背筋が寒くなるような感覚を覚えつつも、その常人離れした知能がもたらすであろう『CANDO計画』の成功を予感し、歓喜に身を震わせた。
「ウィンストン、ねぇウィンストン!」リトル・シスターがしつこく呼びかけるので、ウィンストンは喜びに水をさされたような気分になった。
「なんだ」
「はやくここから逃げて!」彼女は必死な表情をしていた。そのとき、ウィンストンは昇降機の階数表示がすぐ下の階まで迫っていることに気がつく。
「はやく、昇降機には彼が――」到着音が鳴った。金属の扉が左右に開き、中の人物がゆっくりと、重い軍靴の音を響かせて出てくる。ウィンストンは彼を見た。彼もウィンストンを見た。青空のような瞳が老人を射抜いた。
「やぁ……」彼はウィンストンに呼びかけた。そして片手の銃を向ける。
「キャンディを出してもらおうか!」リドゥが、ウィンストンを恫喝した。老人の額に冷や汗が浮かんだ。
リドゥは片手で銃を突きつけたまま、目の前に立つ老人を睨んだ。ウィンストンは落ち着きはらった表情で、ただそこに立っている。もう一度、リドゥは言った。
「キャンディはどこだ」
「それを聞いてどうする?」老人は出来の悪い生徒を見る教師のように言った。
「仮に彼女の居場所を教えたとして、義捐都市は全力で君を殺そうとするよ。この地上に義捐都市の手の届かない場所はどこにもない。我々の手から逃れようとした人々がどうなったか知っているだろう?」ウィンストンはちらりとリドゥを見た。リドゥには彼が穴ぐらの町のことを言っているのだとわかった。それがリドゥの怒りに触れた。彼は『EXIT』の銃身でウィンストンの頬をなぐりつけた。
「ぐぅっ!」老人は悲鳴をあげて、片膝をつく。
「キャンディはどこだ」また訊いた。
「私を殺しても何も変わらない。私は――」銃声が廊下に響く。リドゥが天井にむけて威嚇射撃をしたのだ。
「次が最後だ」リドゥは冷たく言い放つ。
「キャンディはどこだ」直後、昇降機前からまっすぐにのびる長い廊下の向こう側に動くものの気配がして、リドゥはもう片方の銃をそっちに向けた。彼は驚いた。
キャンディだった。見間違えるはずもなかった。彼女は両手に手錠をはめられて、兵士に銃を突きつけられていた。リドゥの銃声を聞いた兵士が異常を察知し、彼女を人質にとったのだ。キャンディも長い廊下の向こうにリドゥの姿を見て、恐怖と喜びに泣きそうな表情になっていた。
「キャンディ!」リドゥは叫んだ。
「すぐにほかの兵士がここにくる」ウィンストンが額に汗を浮べて言った。
「おとなしく投降するなら――」リドゥはまた銃で老人の頭を殴りつけた。老人は失神し、その場にくずれた。
目の前でおこった衝撃的な出来事に、ほんの一瞬だけ兵士の力が緩んだ。その隙をキャンディは逃さない。兵士の腕に噛みつき、ひるんだすきに彼の拘束から抜け出して、彼女はリドゥに向かって走った。
「伏せろ!」『QUIT』を構えてリドゥは叫んだ。キャンディはすばやく床に伏せた。
独特な銃声が廊下に響き、電磁力で加速された重金属粒子が半ば電離気体化しつつ兵士の体を貫いた。兵士は赤黒い霧と化し、つきあたりの壁に大きな赤熱する穴がうがたれた。
キャンディが立ち上がり、廊下を駆け出す。リドゥも走り出した。ふたりは長い廊下の真ん中で力強くお互いの体を抱きとめた。
「キャンディッ!」リドゥは彼女の名前を叫んだ。キャンディも彼を力強く抱きしめかえした。
「ごめん……遅くなって」キャンディは首を振る。
「もう離さない。一緒に逃げよう!」リドゥはキャンディから離れた。彼女は涙目でうなずいた。
キャンディの手錠を壊し、ふたりは昇降機に向かって歩きだした。ぐずぐずしているとほかの兵士が殺到してくるに違いない。ガマやトカゲだって永遠に戦い続けられるわけではないのだ。リドゥはどうやって逃げるべきかを考えながら歩いた。
また誰かが呼んだのか、すべての昇降機は下の階に行ってしまっていた。離れていく階数表示を見上げたリドゥは、嫌な予感がしてうしろをふりかえった。するとキャンディが廊下の途中で立ち止まり、なにかを見上げているのに気がついた。
「どうしたの?」リドゥはかけよって、彼女が見ているものを見た。キャンディの前にあったのは扉だった。表札には『電脳調整室』と書かれている。電子頭脳専門の整備室のようなものだろうかとリドゥは思った。
いきなりキャンディは扉を開け、中に滑りこんだ。リドゥもあわてて後を追った。部屋の電気は点いていた。中には電脳や義脳をいじくるための様々な機材が並んでいる。彼女は慣れない手つきながら、次々とそれらの電源を入れていった。
「なにしてるの、キャンディ?」リドゥは入り口に突っ立ったまま訊いた。キャンディは彼を一瞥し、改脳人用の脳内走査装置を被った。機材の液晶画面が発光し、何かの無形装置が立ち上がる。リドゥは、彼女がやろうとしていることを唐突に理解した。
「まさか、自分で自分の脳にかかってる制限を解くつもり!?」キャンディはリドゥを見てうなずいた。
「自殺行為だ!」リドゥは悲痛な声をあげた。
「自分で自分の脳をいじるなんて、危険すぎる! 時間もない! 逃げ切ってからゆっくりやろうよ!」だがキャンディは首を振る。その目には力強い光があった。リドゥは彼女の眼差しに口をつぐんだ。彼女が何の考えも無しにこんなことをしようとする人間ではないことはわかっていた。リドゥは廊下に顔を出して人影がないことを確認すると、部屋の角にあった監視装置を射撃して破壊した。
「時間がかかってもいい。慎重にね」リドゥはそう言い残し、扉を開け放したまま廊下に陣取った。キャンディはゆっくりと頷き、深呼吸をして装置をいじりだす。
義脳などの改脳人技術が一般的になり、個人でも電子部品と脳の調整が容易になったとはいえ、専門知識と経験なしに脳をいじることが危険極まりないことには変わりない。だがキャンディはあの独房にあった専門書によって、充分な知識をすでに得ていた。電脳走査装置内部から飛び出した極小の電極が皮膚を貫通し、頭蓋骨に埋め込まれた義体部品に接続される。痛みはなく、かすかなむず痒さと、ときおり電流による反射で指が意に反した動きをするだけだ。
キャンディは慎重に、しかし最短の手順で、自分の脳の言語機能の制限を外そうと試みる。かつてないほどの緊張感が、彼女をおそろしく集中させた。
一方、廊下に出て周囲を警戒し続けているリドゥは気が気ではなかった。
まもなく敵の増援がこの階までやってくるだろう。そうなったらどれくらいまで持ちこたえられるかわからない。幸いにも残弾はたっぷりあるし、装備も万全だ。だが長く真っ直ぐな廊下という場所は、敵の攻撃に対して非常に不利だ。
(でも、それは敵も同じだ)リドゥは思った。
(この完全無反動重金属粒子連続高速射出拳銃さえあれば、どんな敵だって打ち倒せる――)リドゥは光学擬態を起動して周囲の風景に溶けこんだ。廊下の向こうで、昇降機の階数表示が迫ってきていた。
(来るなら来い! 扉が開いた瞬間、弾丸をぶち込んでやる)昇降機の到着音が鳴った。わずかに開いた扉の隙間から兵士の制服が垣間見え、扉が開ききる前にリドゥは両手の銃を乱射した。耳をつんざく銃声の嵐が廊下を反響し、昇降機の扉にいくつもの赤熱した穴がうがたれる。ひとしきり撃って、リドゥは巻き上がった埃を透かし見た。昇降機の扉は歪み、中途半端なところで止まっている。異常を知らせる耳障りな警告音が神経を逆なでする。いきなり、昇降機の扉が廊下に吹き飛んで大きな音をたてた。強烈な殺気にリドゥはやや驚きつつも、『QUIT & EXIT』の射撃を受けてなおあれほどの力を発揮する敵の正体を見極めようと目を凝らした。巻き上がった埃の向こうから、ゆったりとした足取りで現れたのは、ひどい猫背の、焦げてぼろぼろの上着を羽織った、長身の改脳人だった。
「アンドレア……!」リドゥは目を見開いた。彼女は顔をあげ、リドゥを見据えると残忍に口端を吊り上げた。女改脳人は首をかしげながらゆっくりと周囲を見渡した。そしてすぐそばに気絶しているウィンストンが転がっているのを見つけると、リドゥを一瞥し、悲しそうに首を振った。
「あらぁ……? ウィンストンさん、残念です……いい人だったのに」
まだ死んでないと訂正したい気持ちをおさえ、リドゥは手遅れになる前に、さらに彼女を射撃した。だがいくつもの重金属粒子をアンドレアは最小限の動きですべて避ける。床のウィンストンを吹き飛ばすほどの衝撃波も、おそらくかなり重い体重をしているであろう彼女にはきいていないらしかった。
「今日は残念なことがたくさんですねぇ……リドゥさん」彼女はまるでそよ風にでも吹かれたような態度でリドゥを見た。表情は長い髪に隠れてうかがい知れない。
「私、あなたのことが好きだったんですよぉ? 少なくとも、いいお友達になれると……そう思ったんですけどねぇ」
「おあいにくさま! 僕はそんなこと思ってなかったよ!」リドゥは彼女と会話して少しでも時間を稼ぐことにした。キャンディの作業さえ終われば、逃げられるかもしれない。
「僕はたしかに『REDO』だ。だけど、自由だ! そのように生まれたからといって、そのように生きる必要はない! そうだろう?」リドゥは昨夜アンドレアが言った言葉を口にした。
「アンドレアさんも、どうして義捐都市に執着するんだ! あなたには他にも道はある! あなた自身もそう言っていた!」
「リドゥさぁん……」リドゥには、アンドレアが微笑んだように見えた。
「あなたは勘違いしてますよぉ……」
「え?」
「私は、別に義捐都市のことなんてどうでもいいんです……」アンドレアはうっとりとした口調で語る。
「私にとって大切なのは、妹だけなんですよぉ……あの子がいるから、あの子のために、私は生きているんですぅ……」
リドゥはアンドレアの姿に戦慄した。陶酔した様子で妹への愛を語る彼女の姿に、ウィンストンが語った計画の理想を見た気がしたのだ。リドゥは恐怖すると同時に、彼女がひどく哀れに見えた。
「その『妹』は――」リドゥは口にせずにはいられなかった。
「――アンドレアさん、あなたに何をしてくれた? 要求するばかりで、何も与えてくれなかったんじゃないのか? それが奴らの、義捐都市の手口だ! 僕たちに無数のおこないを命令しておきながら、報酬はゼロ! これが義捐都市だ!」
「妹は私に名前をくれた!」突然、アンドレアは叫んだ。
「妹は私に名前と、人生をくれた! だから私はあの子に人生を捧げるんだ! あの子を幸せにするために! あの子の幸せが私の幸せなの!」
「『妹』は実在しない! あれはリトル・シスターという監視無形装置が――」
「そんなこと、知ってますよぉ!」リドゥは彼女の言葉に驚いた。アンドレアは叫び続ける。
「だけど物理的な体が無いことがなんだっていうんですかぁ? 私たちの世界はしょせん脳の灰白質内の電気信号によって構成される壮大な幻にすぎないでしょ! その電気信号の出どころが頭蓋骨の中でも外でも違いなんてない! この建物の床が、壁が、天井が、義捐都市そのものが、あなたが撃った死体が、あなたの恋人が、現実であることの確証だってどこにもないし、見つけたところで意味もない! あなたは自分の脳みそを見たことがあるんですか!?」アンドレアは頭を抱え、髪を振り乱した。リドゥには、彼女を撃てなかった。
「だから、私は自分の信じたいものを信じるんです……ねぇ? 私は狂ってますかぁ? 私の頭はおかしくないですよねぇ? 私は心身ともにすこぶる健康! 今日も明日も義捐都市的! 自由と平等と愛と平和こそ、人類が総力をあげて守るべき美徳です!」アンドレアはげらげらと笑う。狂気じみた笑い声にふたたびリドゥの人差し指に力がこもった。そのときリドゥはやっと、アンドレアが左手に何か太い棒のようなものを持ってぶらぶらさせていることに気がついた。見覚えがあるような、ないような、不思議な感じのするものだった。やがてその正体がわかったとき、リドゥは息を呑んだ。人間の腕だった。二の腕のところから強い力でもぎとったような断面からは、未だに血が滴っている。それが誰のものか、リドゥはわかった。
「おまえっ……トカゲをッ!」リドゥは激高した。アンドレアは今まで持っていたのを忘れていたかのように腕を掲げた。
「建物の前で邪魔してきたんで、やっちゃいましたぁ」
(それじゃ……まさか、ガマも)リドゥの脳裏に最悪の想像が浮かぶ。
「あれぇ……? まさか……」アンドレアが侮蔑的に目を細めたのが、遠目からでもはっきりわかった。
「お仲間がやられないだなんて、根拠のないことを信じてたわけじゃないですよねぇ……?」
「アアアアアアアアアッ!」リドゥは吠えた。
二丁の拳銃が重金属粒子を連射する。高速で放たれたそれらは何もかもを吹き飛ばす衝撃波を放ちながら、いっせいにアンドレアへと襲いかかった。だが彼女はある種優雅さすら感じられるほどの素早い動きで避ける。後ろの壁に赤熱した穴が開き、分厚い建材がバラバラになって吹き飛ぶ。
(いくら彼女が自身の時間感覚を大幅に拡張していようとも――それがどの程度かはわからないが――電磁力によって加速された重金属粒子の速さは目にも留まらないはずだ)リドゥは思った。それなのに、アンドレアは弾丸を避け続けている……たんなる体と脳味噌の性能にまかせた動きじゃない! 彼女は間違いなく一流の戦士だ!)リドゥは不思議な高揚感を感じていた。
アンドレアは射撃の隙をつき、身をかがめて廊下を走った。彼女の頭のすぐ横を、白熱した重金属粒子がかすめる。灰色の髪が焦げつく。彼女はあっという間に距離をつめてきた。
(間合いに入られる!)リドゥは恐怖し、『QUIT』を拡散射撃形態に変形させた。引き金を引く。扇状に変形した銃身から重金属粒子が飛び出した。それは確実にアンドレアをとらえるはずだった。
アンドレアは左手に握ったままのトカゲの腕を、リドゥが引き金を引く瞬間、前方に突き出した彼の銃に向けて投げつけたのだった。左手の『QUIT』ははじかれて、あらぬ方向に狙いがそれる。
(しまっ――)リドゥが右腕の『EXIT』でアンドレアを狙うには遅すぎた。彼の首をもぎ取ろうと、アンドレアは右腕を振り上げた。とっさに左腕で防御するリドゥ。アンドレアはその腕を掴み、そのまま彼の金属骨格と人工筋肉を握りつぶした。水風船を潰したときのように、赤い血が弾ける。
「ぐぁっ!?」異常を検知した体が組織の閉鎖で出血を抑え、部分的な痛覚を遮断するが、それでもリドゥは悲鳴をあげた。アンドレアはそのままリドゥの体を軽々と振り回し、通路の壁に叩きつける。交通事故のように重い音がして、背中のかたちに壁がへこんだ。
「がっは……!」リドゥは喘いだ。背骨に強い衝撃を与えられたせいで、全身がしびれて呼吸ができない。アンドレアはリドゥがぐったりして動けなくなったのを見ると、彼の腕をもちあげ、自分の目の前にリドゥをぶら下げた。
「痛いですかぁ……?」アンドレアは静かにいった。リドゥは体の痺れで答えることすらできない。彼女はリドゥの顔を覗きこんだ。鼻先が触れ合いそうなほどの距離で、アンドレアは口元を歪める。
「今度は、確実に殺します……」
「……馬鹿野郎」弱弱しい声がした。
「敵を目の前にして、グダグダ喋ってんじゃないよ!」リドゥは右腕の『EXIT』を持ち上げ、至近距離からアンドレアの腹を撃ちぬいた。間近で起こった衝撃波に、ふたりは真反対の方向に弾き飛ばされ、ともに床に転げた。
(やったか!?)リドゥは左腕をおさえつつ立ち上がった。長い廊下の果て、巻き上がった埃と瓦礫のむこうに、アンドレアが倒れているのが見えた。
「……よ、よし! やった」歓声を上げた直後だった。いきなりアンドレアが不自然な姿勢で床からとびあがると、その場に着地した。動きは機敏で、何も消耗しているようには見えない。実際、顔をあげたアンドレアはまるでうっかり道で蹴躓いてしまっただけのような顔をしていた。
「ああー……びっくりしました」彼女はぶつけたらしい鼻をすすった。
「そ、そんな……」リドゥは愕然とし、足から力が抜けそうになるのをすんででこらえた。
「重金属粒子射出拳銃ですか、懐かしいですねぇ……」アンドレアはにやりと笑った。
リドゥはほんの数分前、昇降機の中から彼女が出てきたときのことを思い出した。てっきり、リドゥは昇降機の箱のなかで彼女が重金属粒子をすべて避けたものだと思っていたが、それは違っていた。彼女は、すべての弾丸を真正面から受け止めていたのだ。
「そんな、無敵か……」
「はい。私、無敵なんです。びっくりですよねぇ」リドゥの言葉に、アンドレアはなぜか自嘲するように笑った。リドゥは強制冷却が終了した『QUIT』と『EXIT』を体の前でかまえる。左腕はまだなんとか動いた。アンドレアはその様子を見て立ち止まり、両腕をひろげて肩をすくめた。「どうぞ」とでも言いたげなしぐさだった。リドゥはそれでも、二丁の拳銃の引き金を引けなかった。引いたところで絶望が深くなるだけだというのがわかっていたからだ。
「どうすれば……」そうつぶやいたときだった。
「Propotition to kill enemy.」完全無反動重金属粒子連続高速射出拳銃がしゃべりだした。
「I proposing the Forced terminate――」
「旧高水準言語じゃわからない。僕の言語に変更」
「――敵を打倒するための提案があります」拳銃が言った。
「『強制終了射撃』を提案します」
「『強制終了』?」リドゥはちいさく訊きかえしながらアンドレアの様子をうかがった。彼女はリドゥが射撃しないのが不思議なようで、首をかしげている。あまり時間はない。
「非常に強力な射撃です。ただし電力を大量消費するため――」
「かまわない、やる!」
「承知しました。『QUIT』を『EXIT』に合体させてください」リドゥはすばやく『QUIT』を『EXIT』の尻に出現した穴に差し込んだ。二丁の銃身が変形して組み合わさり、一本の長い銃身となる。内部からあふれ出した電気が周囲ではじける、
アンドレアの顔色が変わった。腕をおろして地面を蹴った。ふたたびリドゥに迫る。
合体した拳銃は喋り続ける。「――制御回路接続完了。電圧限界突破。重金属弾形成完了。目標補足。強制終了を実行するには引き金を引いてください」間に合った。
「――とまれぇえええええ!」リドゥは引き金を引いた。核爆発とも見紛うほどの光と轟音と衝撃波と磁気嵐が巻き起こった。廊下の壁が吹き飛び、周囲を暴れまわった。光が目を焼き、頭がくらくらした。衝撃波で吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。轟音が耳をぶん殴り、人工鼓膜が慌てて可聴域を制限した。巻きおこった磁気嵐があらゆる感覚器官をくるわせた。
「が……は……」吐血しながら、リドゥはよろよろと立ち上がった。二丁拳銃はふたたび分離し、強制冷却に入っている。もはやそれを握っていることすらできず、リドゥは『QUIT』と『EXIT』を床に落とした。
(今度こそ……やった……?)しかし希望は打ち砕かれた。厚い埃の壁の向こうに人影が見えた。
「……嘘、だろ……」
アンドレアが立っていた。しかも彼女は左腕を吹き飛ばされただけで、それ以外はほぼ無傷だったのだ。
「いやぁ……さすがにこたえますねぇ……だから嫌だったんですが」アンドレアは平然とそう言い、吹き飛ばされた腕の傷口を抑えている。痛みを感じているようには見えない。
「馬鹿な! 外したのか!」
「いいえ、ちゃんと当たりましたよぉ。ただ私がそれより丈夫だっただけですよお」彼女はこともなげに言った。リドゥは戦慄した。慌てて銃を拾った。しかしその動きは全身の痛みのために緩慢だった。拾った銃も、引き金を引いても何も反応がない。『電力不足 発射不可』の表示が残弾表示の液晶画面に出ていた。
「……撃てないんでしょう? 知ってますよぉ」リドゥはぎくりとした。
「な、なんで――」
「その銃、もともと私のなんですよぉ」リドゥは耳を疑った。
「なん……だって」
「ずいぶん前に失くしたと思ってましたけど、まさかこんなところで見つかるなんてねぇ。ありがとうございますぅ」彼女はそう言いながらゆらゆらと廊下を歩き、リドゥに近づいてくる。
リドゥの膝が折れ、床についた。もはや立ち上がることはできなかった。圧倒的な無力感が背中にのしかかっていた。
(そんな……こんなのって……)もう自分には打つ手がない。逆転の目も何もない。そうして視線を落としたとき、目の前に一丁の市民拳銃が転がっているのをリドゥは見つけた。自分がついさっき撃ち殺した兵士のものだろう。リドゥはわらにもすがる気持ちでそれを手に取り、床にへたり込んだまま、震える手でアンドレアを撃った。九粍の弾丸はいともたやすく防がれた。
「無駄ですよぉ……これでおしまいです」アンドレアは邪悪な笑みを浮かべた。紛れもない殺意だった。リドゥにはもう抗う気力も無かった。とうとうアンドレアがリドゥの目の前に立ち、リドゥを見下ろした。「立ってください」と彼女が言うので、リドゥはガクガク震える足でなんとか立ち上がった。
「あなたは友達ですから……一瞬で楽にしてあげますよお」アンドレアはそう言って体をひねり『貫手』の構えをとる。その目はリドゥの目をまっすぐにとらえている。
(ああ……僕は、死ぬのか……)冷え切った頭の芯で、そう思った。
「いずれあの娘も、あとを追わせてあげますからねぇ……」
はっとした。冷え切った頭が一気に熱くなり、電子回路がまたたいた。頭がいきなりすっきりとして、活発に活動しはじめた。
(そうだ! 僕はなにをやっているんだ! 今僕が死んだら、キャンディが――)そう考えた瞬間、時間が圧縮されたような感覚がリドゥを包み込んだ。アンドレアの動きが異常にゆっくりに見え、しかし頭は冴えわたっていた。原因はどうでもよかった。それよりも考えるべきことがあった。
(必ずある! アンドレアを倒す方法が! 考えろ! よく思い返せ――今までの出来事を! この女は飛んでるハエ一匹叩き落とせなかったんだぞ!)
リドゥはアンドレアとの夕食の席で、彼女が目の前を飛ぶハエを叩き落とせず、逃がしてしまったのを思い出していた。つまり彼女と最初に相対したときに立てた、彼女が常時時間感覚を拡張しているわけではないという仮説は正しかったのだ。また同時に、彼女が自らの意思で自由自在に時間感覚の拡張を行えるわけではないということもわかる。そしてもうひとつわかるのは、彼女の時間感覚の拡張は、『何か』に反応して自動的に行われるということだ。そうでなければ、ハエを叩き落とすくらい容易だったはずだ。
直後、リドゥは砂漠の真ん中で、アンドレアに締め上げられたときのことを思い出した。あのときリドゥはアンドレアに小刀を突き立てた。その刃は結局皮膚のすぐ下で止まったが、彼女がなぜ避けなかったのか、リドゥは唐突に理解した。アンドレアは避けなかったのではなく、避けられなかったのだ。
(銃弾にはあって、小刀には無いものが、アンドレアの時間感覚拡張起動のカギ!)それは少なくとも音ではない。弾丸は音よりも断然速いのだ。ならば熱だろうか。飛んでいる弾丸の温度は多めに見積もっても約250度。揚げ物料理の油程度だ。そんな温度でいちいち起動しているはずがない。もし起動していたら、彼女は銃が撃てなくなってしまう。それは戦闘改脳人として致命的な欠陥だし、彼女は自分と一緒に自動小銃の射撃訓練に参加していたのだ。ならば、残るはひとつだけ――
(――『速さ』か!)自身に向けて接近してくる、ある程度以上高速の物体を感知したとき、アンドレアの時間の感覚は常人の百倍程度まで拡張されるのだ。ということは、アンドレアを攻撃するには弾丸より遅く、小銃よりも貫通力のある攻撃をすれば良い。
(そんなの――いや、ある!)リドゥはとうとう思い出した、彼女が『銃で自殺しようと考えたこともある』と言ったことを。
(つまりそれは、アンドレアにも銃は効くということだ! そして、銃で自殺するには――)リドゥの瞳に炎が宿った。手足に力が戻ってきた。埃っぽい空気がろ過され、さわやかなものとなって肺を満たし、心臓に力をみなぎらせた。リドゥは眼前のアンドレアを見た。急速に周囲の時間が戻ってきた。にやりと笑った。
「さようなら……」アンドレアが体をひねって貫手を放とうとしている。リドゥは頭をのけぞらし、思いっきり下げた! 彼女の顔は目の前にあった。だからリドゥは、額の片角で彼女の左目を刺し貫くことができたのだった。
「ぎゃああっ!?」予想外の激痛に、アンドレアは悲鳴をあげた。この反射的な反応が決定打だった。アンドレアは悲鳴をあげたために、ほんの一瞬だが口を大きく開いた。リドゥの右腕に握られたままだった市民拳銃の先が素早くそのなかに押しこまれて、引き金が引かれた。
銃口から飛び出した弾丸がアンドレアの喉奥に直撃し、自らをぐしゃぐしゃに変形させながら、骨を砕き、柔らかい肉に食い込んでいく。弾丸は小さな金属の花になり、アンドレアの後頭部から飛び出した。
だがリドゥは恐怖した。アンドレアは後頭部の一部を弾き飛ばされてもなお攻撃の姿勢を崩さなかったのだ。彼女は全身をバネのようにして貫手を放つ。リドゥはとっさに体をひねった。高速の剛体が金属に弾かれたときの甲高い音がして、リドゥの左胸から火花が散った。増設した心臓を収める金属板が、間一髪、貫手を弾いたのだ。アンドレアはそのままリドゥを押しつぶすように倒れこんだ。挟まれるかたちになったリドゥは、床に倒れる刹那、彼女の囁くような声を聞いた。
「あとは……妹を……たのみます」それが彼女の最期の言葉だった。
ふたりはともに床に倒れ込む。むせ返るような血の臭いが、鼻の奥にからみついた。