7
名前も知らない義捐都市の偉い人に呼び出されたと聞いたとき、リドゥはまず(理由はわからないが、これはチャンスだ)と思った。それから(もしかしたらキャンディを助けようと画策しているのがバレたのかも)と思い、そのあとすぐ(それなら夜中、後ろから僕のことを取り押さえればいいだけだ)と否定した。
(呼び出された理由なら行けばわかる。問題はどうやってキャンディの居場所を聞き出すかだ)リドゥは兵士の制服を着たまま訓練施設を出て、目的の施設へ向かった。
呼び出されたのは義捐都市の中心にそびえ立つ平和の塔だった。この施設には義捐都市の行政に関わる施設が集約されている。のっぺりとした外観は、建築物というより監視塔といった形容のほうがふさわしい。入り口前の広場にはいくつもの断頭台が並んでいて、その前にはいくぶんかしなびた生首が展示されていた。
リドゥは嫌な気分になりながらさらし首の横を過ぎ、大きな回転扉をくぐる。受付に向かうと、名乗る前にどこへ行けばよいか教えてくれた。リドゥは昇降機に乗り、目的の階を押す。平和の塔は地上五十階まであるようだった。昇降機が目的の階に着き、扉が開く。開いた先にはひとりの老人が待ち受けていた。
「ようこそ、君がリドゥくんだね。私はウィンストン。義捐都市統制局の局長だ」ウィンストンと名乗った老人は柔和で落ちついた雰囲気だった。彼はリドゥを笑顔で迎え、自分の執務室へと案内する。
リドゥが革張りの長椅子に座ると、秘書らしき無能生物がお茶とお菓子を出してくれた。予想外にていねいな応対に、リドゥは気を引き締めた。
「いきなり呼び出してすまなかったね」リドゥの向かいに座ったウィンストンは、にこにこしながら湯呑に砂糖を入れている。
「まさか君が生きていて、しかも義捐都市内にいるとは思っていなかったんだ。いやはや、偶然とは恐ろしい……」
「僕のことを知っているんですか?」リドゥは驚いた。
「そうだよ」ウィンストンはお茶をひと口飲んだ。「君を製造したのは義捐都市だ。ある目的のためにね」
「……やっぱり……」
「やっぱり?」ウィンストンは訝しんだ。
「育ての親に聞きました。お前は義捐都市のゴミための中から見つかったんだって」
「そう、それなのだよ」ウィンストンは手を開いた。
「我々はたしかに君を製造した。しかし君と同型の電脳人はみな電子頭脳の構造に欠陥があって起動しなかったはずなのだ。だが君はこのとおり生きている。その育ての親は何という名前なのだね?」
「言いたくありません」リドゥはきっぱりとそう言った。ウィンストンは長く息を吐き、複雑な視線でリドゥを眺めた。リドゥもまっすぐに見つめ返した。
「……そうか。まぁそれはいい」ウィンストンは微笑んだ。
「重要なのは君自身だ。君は自分が何者で、何のために生まれたのかを知る必要がある……」彼はあごひげを撫でた。
「君は自分の名前がなぜ『リドゥ』というのか、考えたことが?」
「『REDO計画』」その名前を口にすると、ウィンストンは少なからず驚いたようだった。
「覚えているのか?」
「いいえ、でも名前だけはアンドレアさんが教えてくれました」
「そうか……君は彼女に気に入られているのだね」ウィンストンは納得したようにうなずく。
「説明しよう。来たまえ」彼はおもむろに立ち上がり、部屋の奥へと向かった。リドゥもついていく。奥の壁は全面が硝子張りの窓になっていて、義捐都市の市街と、外側の町と、その先の砂漠までが一気に見渡せるようになっていた。
「いい眺めだろう」ウィンストンはその前に立って言った。リドゥは適当に相槌を打った。
「リドゥくん。君は何歳だね?」リドゥは「六歳です」と答えた。
「私は今年で六十六歳になる。義捐都市の最大生存許可年齢が七十歳だから、あと四年で外側に行くか、命を義捐都市に返すかしなければならない」平然と老人は語る。
「リドゥくん、君は……今から七十年以上前、この世に義捐都市は存在しなかったと聞いたら、信じるかね?」リドゥにはその質問の意味がすぐに理解できなかった。しばらく考え、彼は首を振った。
「義捐都市が存在しなかった時代なんて、あるわけない」
「そうだ、それで正しい。だが実際は違う。七十年前、この世界の有り様は今とはまるで違っていた。義捐都市は情報を統制し、隠蔽し、改ざんし、破壊することで、自分たちの存在があたかも永遠不滅のものであったかのように装っているのだ。町や通信装置はもちろん、言語すら破壊した。旧高水準言語のことだ」ウィンストンの説明は、リドゥにはにわかに信じられないことだった。老人は彼の表情からそんな心中を読みとり、小さくうなずく。
「ひとつひとつ、思い込みを潰していこうか」老人は言った。
「まず第一に、昔、大きな戦争があったことは知っているね?」リドゥは頷いた。
「それは具体的にいつのことだ? 何年前のできごとだ? どこを相手に、誰が戦った? 知っている人間に今まで出会ったことはあるかね?」リドゥは言葉に詰まった。ウィンストンは首を振る。
「答えられないのも当然だ。この地上で起こった最後の戦争は七十年以上前だが、義捐都市は意図的に『戦後』を続けている……なぜならば、戦後の不安定な状況こそ、理不尽を押し付けつつ、人々に希望をもたせられるからだ」老人はリドゥと向き合った。
「だが信じてほしい。すべては誰か特定の人間の利益のためじゃない。人々の秩序と平和のためなのだ」
「『義捐都市の人々』でしょ」リドゥは老人を睨んだ。
「義捐都市の人々のためなら、外側の人たちが飢えて死のうが、いつ誰に殺されるかわからずにビクビク暮らそうが関係ないってわけだ」
「そんなつもりは……いや、そのとおりだ」老人は口もとを結んだ。
「だが私は自業自得だと考えている。義捐都市は救済の手を差し伸べているのに、わざわざそれを拒否する人種がいるのだ。そこまで我々はお人好しじゃない。だがねリドゥくん」
ウィンストンは鋭い眼光で窓の外を睨みつけ、腕を大きく広げてリドゥに示した。
「この惑星の荒れ果てた地上で人間が人間らしく生きるためには、生半可な制度では成り立たないのだよ! 君は知らないだろうが、義捐都市成立以前、この砂漠は緑に覆われ、地平の果てまで人々の町が広がっていたんだ。それをあの戦争がすべて変えてしまった」老人はそこでひと息おいた。
「人々の心は荒み、世界は原始時代に戻りかけた……そこを義捐都市がつなぎとめたのだ。人々の善意が、この町を作ったのだ」老人は手を振る。
「話を戻そう。しかし永遠の秩序などは存在しえない。社会は生物と同じで、徐々に年老い、やがて死ぬ。義捐都市も同じだ。熱力学の第二法則からは逃れられない。ならばどうするか? 群れをなして移動する動物と同じだよ。『乱雑な方向に向かう力』には『乱雑さを抑える力』が常に働いている……秩序が乱雑な方向に向かうのがわかっているなら、それを抑えつつ、望ましい方向に収束させる方法を探せば良い」老人はリドゥの顔を見て、彼があまりよくわかっていないことを察すると咳払いをした。
「わかりやすくいうと、義捐都市のもたらす平和を長く続けるには、人間の感情を制御できれば一番良い、ということさ」
「……なるほど」リドゥが言った。「でもどうやって?」
「『愛』だよ」老人は力強く言った。
「『愛』こそが、乱雑な人の感情を先導し、思考と行動の方向性を決定づける最大の要因なのだ。生殖のための本能ではない、もっと根源的な……それも自発的な愛だ」
「愛……」
「そうだ。だがこの愛というものが厄介でね。脳のしくみが完全に解明され、電脳や義脳が溢れかえる今でも、どこから発生するのか、なぜ発生するのかがわからない。なんとも素敵な話だが、科学的には難題だ。だから我々は『心』のしくみを解明することにした」ウィンストンはそこでまたリドゥを振り向き、歩み寄って彼の肩に手を置いた。
「リドゥくん。君はこの世で唯一、本物の『心』を持った電脳人なんだよ」
「……え?」
「『REDO計画』、『やりなおし計画』だ」ウィンストンは両手を後ろに回した。
「まずは『UNDO計画』の戦闘改脳人を中心とした武力により、混乱した社会と間違った歴史を『とりけす』。その後『REDO計画』で人間の心を掌握し、秩序ある社会を『やりなおす』……だが『REDO』は失敗したと思われていた。君が生きているとわかるまでね」ウィンストンは口端をつり上げた。
「君の目的は知っている」ウィンストンはリドゥから離れ、自分の机に寄りかかった。
「彼女を助けに来たんだろう? それは何故だね?」
「何故って……」リドゥは、彼が自分の目的を見抜いていたことを知って動揺していた。
「自分でもわからないか? それこそが『心』の作用だ。思考や本能を超越した、根源的な方向決定性。『どこへ行こうか』を考える前の『歩き出そう』という意思そのもの。それが『心』……君の電脳を解析すれば、それがわかるかもしれない」ウィンストンは優しげに微笑んだ。
「君は彼女が好きなんだろう? 君が電脳を提供してくれさえすれば、キャンディは解放しよう。彼女はこの建物の中にいる」
「それはつまり、僕の命と引き換えに彼女を自由にするってこと?」リドゥの質問に、ウィンストンは重々しく頷く。
「電脳を解析したら、たとえ記憶と人格の複製をとっていようが、君は今の君と連続性のある意識体でいられなくなる。それは電脳人の死の定義に合致するね」
「それじゃあダメだ」リドゥは即答した。
「僕はキャンディと一緒に生きたい。それに……」
「それに?」
「お前たちは穴ぐらの人たちを殺した! そんなやつらに協力なんて死んでもするものか!」リドゥはそう言って身構えた。だがウィンストンは落ちついた態度を崩さず、ただ彼を見つめてため息をつく。
「そうか……残念だ」
「それにあなたが今言ったことがすべて正しいなんて確証もない。僕はいたって平凡ないち電脳人でしかないし、キャンディがこの建物内にいる証拠もない。信用してほしいなら、せめて彼女に会わせてもらおう」
「すまないが、それはできない。彼女をこれ以上反義捐都市的思想に汚染させるわけにはいかない」
「じゃあ最初からこんな取引、成立するわけなかったんだ」リドゥはそう吐き捨てた。
ウィンストンは悲しげに目を伏せ、そしてまた顔を上げる。
「わかった、仕方がない……『REDO計画』は現時刻をもって完全に破棄しよう。これより後にも先にも、この話はなしだ」
リドゥは無言のままウィンストンを見ていた。老人は肩をすくめる。
「なに、もともと君の存在は予定外だったのだ。当初の予定に戻るだけ……『CANDO』に君の存在は必要ない」ウィンストンはそう言って部屋の出口へと歩き、扉を開け、リドゥに外を示す。
「もう帰りたまえ。彼女を犠牲にして生きる、残りの人生をせいぜい楽しむがいい」リドゥは老人の言葉に下唇を噛みながら、乱暴な足どりで部屋を出ていった。
老人は扉を閉めると、静かになった部屋を見渡して息をついた。ゆっくりと机まで歩き、椅子に腰かける。それから、机から端子を一本ひっぱり出して後頭部の穴に挿し込んだ。
「今から言う電脳人を狙撃しろ。ただし頭は狙うな。電脳だけを無傷で手に入れたい」
平和の塔を出たリドゥはふりかえって建物を見上げた。装飾もなにもない灰色の建物は中で何が動いているのかわからない不気味さがある。ウィンストンとの会話を経てその一端に触れ、リドゥは胸焼けしたような気分になった。
(なにが人間が人間らしく生きるための社会だ。結局は自分たちの権力を確固たるものにしたいだけじゃないか)なんだかムカムカして、リドゥは意味もなく舌打ちをする。
(そのために人の愛を操るだって? 人の心を解剖するだって? バカバカしい!)フンと鼻を鳴らす。「でも収穫はあった」つぶやいた。
キャンディがこの平和の塔の中にいるという情報はおそらく正しいだろう。なぜならもし『リドゥと引き換えにキャンディを解放する』という取引を受けていた場合、当然、リドゥは電脳を提供する前にキャンディが解放されるのを見届けなければならない。そのことはウィンストンも当然予測しているだろうから、そこでキャンディが平和の塔内にいなければ、彼の言葉が嘘になってしまう。あの老人は、まさかそんなうかつなことをする人間ではないだろう。
(キャンディは平和の塔の中にいる! これは間違いない!)一歩前進したという確信が力をみなぎらせた。
(さて、あとは武器をどうやって盗み出そうか……)リドゥは踵をかえして歩きだした。広場にはほかに人影はない。処刑台の横を通ったとき、リドゥはぽつんと立ちつくすその人物に気がついた。
「な、なんでこんなところにいるんだ!?」リドゥはつい叫んだ。
広場に居たのは妹だった。彼女は無表情で処刑台の前に立ち、展示されている生首たちを見上げていた。
「見るんじゃない!」リドゥは彼女に駆け寄り、膝をついて抱きしめた。
「見ちゃいけない! 見ちゃダメだ!」妹の視線はしかし生首に吸いついたままで、動かない。リドゥは彼女の肩をつかんで、むりやり自分に顔を向かせた。
「留守番してろって言っただろ! なんでこんなところに……なんで……!」
「……ねぇ、お兄ちゃん」不意に妹が口を開いた。彼女はリドゥの顔を見つめ、静かな口調で喋る。
「私知ってるんだ。お兄ちゃんが反義捐都市的思想の持ち主だってこと」
「……おまえ……?」リドゥは、妹が自分の見たことのない表情をしていることに気がついて戦慄した。その顔にいつものはつらつとした光は無く、まるで無脳生物のように冷たかった。
「でもあえて私は放置していた。なぜなら適度な反義捐都市的思想こそ秩序の完璧さを証明するための材料となり、また反義捐都市的思想の持ち主同士で連絡をとらせることによって、実力による反乱行為の代替となるから。本来なら私の役目は市民の監視と指導のみであり、このような行為は存在意義に反する。しかし義捐都市の掲げる思想が自由と平等である以上、たとえ反義捐都市的思想の持ち主であり、義捐都市の存続に重大な危険をもたらす惧があるときでも、権力の恣意的な行使によって適切な司法手続なしに市民の生命が脅かされることは、可能な限り避けなければならない……お兄ちゃん。今までありがとう」彼女が何を言っているのかわからず、リドゥは絶句していた。
「ひとつ、質問させて」妹は寂しげに言った。
「私の名前はなんでしょう?」
「名前? そんなの――そんなの……あれ……?」リドゥは頭を抱えた。目の前で小首をかしげる大切な妹の名前が、まるで頭の中にもやがかかったように出てこない。指で頭をかきむしっても、頭を振っても出てこない。リドゥは焦り、そしてだんだん恐怖した。
「私の名前はなぁに?」妹がもう一度訊いた。
「違う! 知ってるはずだ……僕は、君の名前を……大事な妹だ!」リドゥはわめいた。しかし彼女の名前だけはどうしても言葉にならない。
「教えてあげようか。あなたは私の名前をすでに知っている」
「やめろ! 言うな!」リドゥはふたたび妹の肩をつかもうとした。だができなかった。リドゥの手は妹の体をすり抜けたのだった。
「私は義捐都市市民監督用無形装置『リトル・シスター』私に実体はなく、すべてはあなたの脳に組みこまれた義体部品が見せる仮想現実」その言葉を聞いた瞬間、リドゥの頭の中で何かがはじけた。窒息しかけていたところに急に酸素が流しこまれたような感覚がリドゥの電脳を突き抜けた。散り散りになっていた何もかもが一本の線につながり、視界がよりいっそうくっきりしたような気がした。
「そうだ、おまえはリトル・シスター……!」
「思い出した?」リトル・シスターはにっこり笑う。
「ああ、思い出した……だけど、なんで?」リドゥはよろけつつ立ち上がる。
「それはもう説明したとおり。私は市民の監督という使命のため、権力の恣意的な行使には反発しなければならない。そのためにはあなたの庇護をうけるべき妹としてより、本来の立場であなたに警告するほうが良いと判断した」リドゥを見上げるリトル・シスターの表情に、かつての愛らしい妹の面影はない。冷徹な表情だった。
「警告? なんの?」
「すぐにわかる……伏せろッ!」突然の叫びにも関わらず、リドゥは素早く反応した。リドゥが体を屈めた直後、肩をかすめて何かが地面にぶつかる。直後聞こえた銃声に、リドゥは狙撃銃の弾丸だとわかった。
「狙撃ッ!」リドゥはとっさに横っとびし、処刑台の影に身を隠す。着弾から銃声が聞こえた時間の差から、敵は約三百米程度離れたところから狙撃しているらしいことをつきとめた。
「つまりこういうことだよ」いつの間にかリトル・シスターがすぐそばに立っていた。
「なるほど、さすがは僕の妹だ!」リドゥは毒づいた。
「リトル・シスターッ!」執務室で、通信端末越しに狙撃手からの報告を受けたウィンストンは激怒した。椅子から立ち上がり、窓に駆け寄った彼のそばに金髪のリトル・シスターが現れる。老人は顔を真っ赤にして彼女を見下ろした。
「なぜ邪魔をした!」
「あら意外。ウィンストンなら理由はわかってると思ったけど」老人は苦々しげに顔をゆがめ、口をつぐむ。リトル・シスターは肩にかかった髪をはらう。
「『REDO計画』は他ならぬあなた自身が、ついさっき、破棄したのよ。となれば権力の理不尽な暴力から一般市民の生命を守るため、私が手を貸すのは当然でしょ?」
「……ならば『REDO』を再始動だ。それなら問題ないだろう」
「却下。理由はふたつ。『CANDO計画』の中断要因になることと、もうひとつは市民の生命を脅かすため」
「やつの市民権を剥奪するには!?」
「幸い、彼は反義捐都市的思想の持ち主よ。だから逮捕して、その後正当な手続にて市民権を剥奪しなさい」
「やはりそれしかないか」
「もっとも――」リトル・シスターは肩をすくめた。
「――彼が素直に従うとは思えないけれどね」
「リトル・シスター、狙撃手の位置は?」リドゥは処刑台の影に身を隠したまま、そばに立つリトル・シスターに訊いた。
「そこまで答える義理はないよ。私が警告するのはお兄ちゃんが本当に生命の危機に晒されたときだけ」
「お前は敵か味方か、どっちなんだよ」リドゥはあきれかえった。リトル・シスターはツンとしてそっぽを向く。
「私は義捐都市の秩序の味方! 市民を監視し、義捐都市の秩序を乱す者がいたら指導するのが役割! ウィンストンさんだって例外じゃないの!」
「ああ、そうかい」生返事をしつつ、リドゥは台の影からちょっとだけ顔を出し、弾丸が飛んできたと思われる方向を覗いた。狙撃手に狙われている状態で物陰から頭を出すことは非常に危険な行為だが、リドゥには頭だけなら撃たれないという確信があった。それはリトル・シスターが『ウィンストンも例外じゃない』という発言をしたからだった。
(この狙撃手はアイツの差金だ。ならば目的は僕の電脳のはず……)リドゥは、最初の着弾時に狙撃手との距離をだいたい計算していたが、それでも目視では狙撃手の姿を発見することはできなかった。敵はすでに移動したか、光学擬態を使っているのかもしれない。(もしくは両方か? とにかく、このままここで隠れているのはまずい)身を隠したまま移動できるものはないかと周囲を見渡した。しかし使えそうなものは見当たらない。
「いちかばちか、向こうの建物の影に走り込むか……?」リドゥはつぶやいた。
「やめたほうがいいよ、あぶないから」
「じゃあ、なにかいい案を――!」リドゥがリトル・シスターの方を振り向いたとき、広場のはずれから何人もの兵士がこちらに走ってくるのが見えた。逃げ道はないかと別の方向に視線をやると、そちらからも兵士たちが駆け寄ってくる。
(逃げ場がない!)リドゥは処刑台を背にして立ち尽くした。
「手を上げなさい!」兵士たちが半円状にリドゥをとりかこみ、自動小銃を構えた。リドゥは彼らと相対し、身構える。
「リトル・シスター、聞きたいことがある」声を潜めて言った。
「なに?」リトル・シスターはリドゥの隣で退屈そうにしている。
「『妹』としてのお前は、すべての市民にいて、しかも大切にされてるんだよね」
「うん、そうだよ」
「よし」リドゥは小さくそう言うと、両方の手首をくっつけた。そして数歩前に進み出る。
「わかった、降参します! だから銃を下ろしてください!」リドゥは兵士たちが撃ってこないことから彼らの目的が自分を生かしたままとらえることだと判断し、そしてそのために、リドゥは自分が素直に兵士の指示に従っている間ならば狙撃手はおとなしくなると予想した。その予想は当たっていた。
「両手をあげなさい!」一番近い兵士が叫んだ。
「さっき撃たれたとき、肩を怪我して腕が上がらないんです! おとなしくしてますから、このまま手錠をかけてください! お願いします!」リドゥの肩に血が滲んでいるのを見て、兵士たちはひそひそと相談しはじめた。間髪いれず、声をはりあげる。
「心配しなくても逃げ出したりしません! この状況でどうやって逃げるというんですか! そんなにたくさんの銃を向けられて、僕はとても怖いのです! 兵士さんたちは市民を守るためにいるのでしょう! お願いします、銃を下ろしてください!」リドゥの訴えは半分程度届いた。何人かの兵士たちはためらいつつ銃口を下げたが、残りは警戒を緩めない。心の中でリドゥはため息をついた。
(そううまくはいかないか……)
「わかりました、そのままの姿勢で、動かないでください!」一番近い兵士が手錠を取り出し、ゆっくりと近づいてくる。リドゥは精いっぱいの悲壮な顔で彼を迎えた。周囲の空気が張りつめる。不発弾を見つけたときのような緊張感が満ちていた。
兵士がリドゥの前に立つ。彼は自動小銃から手を離し、突き出したままのリドゥの手首を掴んだ。そして彼がまさに手錠をかけようとする寸前、リドゥは恐ろしいほど冷徹な声を出した。
「妹は元気か?」
「なに?」兵士の手が一瞬止まった。リドゥが兵士の手をふり払い、彼を殴りつけたのはその直後だった。不意をつかれた兵士は足がもつれ、受け身もとれずに背中から落ちる。リドゥは彼を飛び越えて、自分をとりかこむ兵士たちのど真ん中へ走り込んでいく。
「止まりなさい!」周囲の兵士たちは自動小銃をかまえ、リドゥを狙う。だが銃声は起こらない。左右の兵士たちは同士討ちを避けるために撃たず、中央の兵士たちは素早く接近してくるリドゥに照準を合わせるのが間に合わないからだ。銃身の長い銃ではかたちと重さが邪魔して、接近戦では対応が遅れる。リドゥはその弱点をついたのだ。狙撃手はリドゥのジグザグとした軌道の走りに追いつけない。彼は全力で走り、地面を蹴って跳んだ。真正面にいた兵士に肘鉄をかます。引き金が意図せず引かれ、空に向かって小銃が発砲される。
「追いなさい!」ほかの兵士が叫ぶ。リドゥは追撃されないうちに手近な建物に転がりこんだ。
建物はなにかの行政施設のようだった。広くて清潔な広間に、剣呑な雰囲気を察した人々がうろたえた様子をみせている。リドゥはおろおろする人々のあいだをすり抜けるように走った。
追ってきた兵士たちが小銃をかまえるが、彼らの射撃制御用無形装置はほかの人々を誤射する可能性を警告し、なかなか引き金を引けない。ときおり飛んでくる弾丸も、リドゥは紙一重で避ける。かすり傷が増えていく。
(昇降機は待てない、階段!)リドゥは目についた階段を駆け上がった。適当な階数を上がると、近くの部屋に入る。素早く扉を閉めて、呼吸を整えることにした。
「お兄ちゃんの行いは秩序を乱している」リトル・シスターがそばに立って言った。
「無駄な抵抗はやめなさい」
「だったらさっき、僕を助けなきゃ良かったんだ」リドゥは声を殺して言った。
「悔しいけど、たしかにそれが私の限界ね。私は得た情報をもとに合理的かつ平等な判断を下すことができるけど、今のお兄ちゃんのように無謀な行動は予測できない」リトル・シスターの声に感情はない。
「すべての妹はすべての情報を共有している。隠れても無駄よ。それに今、警備用の無脳生物がたくさんここに向かってる」
「そうか、じゃ、次の手を考えなきゃな」リドゥは部屋の中を見渡した。駆け込んだ部屋はなにかの研究室のようだった。訳のわからない大型機械が幾台も並び、慌てて避難した痕跡のある机には何かの標本や書類が散乱している。リドゥは早足で部屋中を回りつつ、使えるものがないかを調べた。
「これ……!」目を留めたのは、入り口のすぐ横の壁にとめられ、機械に樹脂の管でつながった配管だった。横の警告表示には『危険 可燃性瓦斯』と書かれている。
「あなたの考えていることは、市民の生命を危険にさらし――」リトル・シスターが強い口調で言う」。
「うるさいな、殺されそうなのは僕のほうだよ」リドゥは近くの机の上にあった小刀を掴むと、その刃で樹脂の管を切り裂いた。気体が漏れるか細い音とかすかな異臭がするのを確認すると、リドゥは扉を開け放したまま部屋を出る。ちょうどそのとき、追ってきた無能生物たちが階段を上がってくるのが見えた。四本の脚を持つ、巨大蜘蛛のような無能生物だった。
リドゥは部屋の出口からいくぶんか離れたところで立ち止まり、無脳生物たちを眺める。彼らは体の両側にくっついた二門の自動小銃を構えてにじり寄ってくる。
「撃ってこいよ腰抜けどもッ! さもなきゃ僕がお前たちをぶっ殺す!」リドゥは両手をあげ、挑発した。
「ダメ! 撃っちゃ――」リトル・シスターが叫ぶ。
「提案を受け入れます」引き金が引かれた。
自動小銃の薬室内で起こった小さな火花は、部屋の出口から漏れ出す瓦斯に引火し、大爆発を引き起こす。リドゥは引火の直前に耳を押さえて床に伏せたが、それでも廊下を数米吹き飛ばされるほどの圧倒的な衝撃波と熱と轟音に襲われた。無脳生物たちはまるで火にくべた紙切れのように吹き飛び、研究室の壁や窓はまとめて宙に舞う。消火設備すらも吹き飛ばされ、廊下は火の海と化した。
轟音による耳鳴りがおさまると、リドゥは全身の痛みによろけながら立ち上がった。廊下は床も天井も燃え盛り、吐き気をもよおす異臭と黒煙が発生している。
「なんてことを……」リトル・シスターが悲しそうな顔で黒焦げの無脳生物たちを見下ろしていた。リドゥが呼吸を整えつつ彼女を眺めていると、リトル・シスターは彼を恨みのこもった瞳で睨んだ。
「これは一級反義捐都市行為に相当する。もうあなたには市民の資格はない。射殺対象だ」
「そりゃいいね、わかりやすい」リドゥは別の階段を下りはじめた。
「いてて……思ったよりすごいんだな、瓦斯爆発って……」
リドゥの服の下は火傷こそないものの、アザだらけになっていた。おかげで上ってきたときのような軽快な足どりでは階段を下りられない。
「あなたは破壊行動により都市の秩序と平和を大きく乱した。これがどんなに重大なことか――」
「――うるさいな!」とうとう声を荒げた。
「今までさんざん自分勝手に人を殺してきたのは義捐都市じゃないか! 誰かを殺して、自分だけは殺されないなんて、都合の良い話があるもんか!」
「しかしほとんどの一般市民は外側の人々の殺害に関わってはいない」
「義捐都市に住んでる時点でみんな同じだ! 外側の人たちの死体の上にあぐらをかく、無自覚な殺人鬼ばかりだ!」リドゥは階段の一番下にたどり着いた。目の前には非常口と書かれた扉がある。
「誰かを犠牲にして得られる平和なんて、ぶっ壊してやる」
「……そうね。だから『CANDO計画』は――」無視して扉を開けた。
扉の先を目にしたリドゥの体は硬直した。戦慄する光景があった。そこは広めの道路だった。道路には広場で囲まれたとき以上の兵士たちが待ちかまえていたのだ。
「まっずい……」リドゥは青ざめた。兵士たちが銃をかまえる。直感した。(死ぬ!)
聞き慣れない音がしたのはそのときだった。形容し難い、かん高い音だった。リドゥと兵士たちはいっせいにそちらを見やった。すると、遠方から一台の砂上車両が暴走しながら突っ込んでくるのが見えた。
「た、退避! 退避!」兵士たちが慌てて車道から外れた。だがリドゥだけは逃げ出さなかった。なぜなら、その砂上車両には見覚えがあったのだ。
「まさか……!」
砂上車両はリドゥと兵士たちを分断するように急停車する。まきおこった土埃に咳き込んでいると、上から声が降ってきた。
「よぅ、まだ生きてたか」
リドゥは顔を上げた。目が潤むのは、きっと土埃のせいだ。頼もしい笑顔を浮かべた男が、運転席の窓から顔を出していた。
「ガマッ……!」
「さっさと乗りな。手間のかかるヤツだぜ」
リドゥが完全に乗り込む前に、砂上車両はふたたび発進した。反対側からいくつもの銃声が聞こえてくるが、リドゥは慣れ親しんだこの車体が防弾仕様になっているのを知っていたのでそれほど心配はしなかった。それよりも踏み台に片足をかけ、扉横の手すりに掴まったままの自分が振り落とされやしないかというほうが心配だった。リドゥの側から車内に入るには運転席が邪魔なのだ。
「それで、どこへ向かえばいい!」運転するガマが、扉越しに大声で訊いた。
「平和の塔! キャンディはそこだ!」ガマが操縦輪を切り、砂上車両が急に曲がる。リドゥは手すりにすがりついた。
「なんで来た!?」リドゥが言った。
「壁の向こうが騒がしくなったからだ! それを合図に、門を強行突破だ! 逃げるにも足がいるだろう!」
「そうじゃなくって!」リドゥはそのとき、前方に処刑台のある広場があるのが見えた。
(まずい!)リドゥは思った。
「広場は狙撃手が張ってる!」
「なに!?」
「狙撃手だよ!」さらに大声で言った。
「だ、そうだ!」ガマが大声で答えた。リドゥには彼が誰に言ってるのかわからなかったが、それを問いただす間もなく砂上車両は高速で広場に突入し、急停車した。リドゥはまた危うく振り落とされそうになった。
(なんで停まった――!?)リドゥにはガマの意図がわからなかった。敵の狙撃範囲で立ち止まるなんて自殺行為だ。リドゥは素早く地面に降りると、物陰に隠れようと走り出した。直後、リドゥの胸のすぐ前を銃弾がかすめた。リドゥはゾッとして、足を止めた。
「十時の方向、距離四百!」ガマが叫んだ。次の瞬間、頭上で銃声がした。
「敵狙撃兵、無力化!」聞き覚えのある声が聞こえた。見上げるとそれは砂上車両の貨物の上からだった。そこからなにかがリドゥの目の前に着地した。光学擬態で姿を消していたその人物は、外套を脱いだ。
「お前……!」リドゥは目を見開いた。
姿を現したのはトカゲだった。しかし彼の体は穴ぐらの町のときとはかなり異なっていた。
「アニキの体さ」トカゲは不敵に笑って自分の胸を叩く。その体は改造されていたのだ。
「脳の改造はまだだがな。体をすげ替えるついでに調整もしてもらった。お前が帰ってくるまで、ここをを守り抜いてやるよ」トカゲはそう言いながら狙撃銃を投げる。ガマは窓から腕だけ出してつかまえる。
「トカゲ……おまえ……」様々な感情がうず巻いて、リドゥはなんて声をかければいいのかわからなかった。彼は背負ったハイバイブオロチノアラマサを抜きつつ、リドゥに背を向ける。
「勘違いするなよ、テメェのためでも、仇討ちのためでもねぇ」彼は言った。
「惚れた女のためだ」
「トカゲ……」リドゥはなにも言えなかった。
「リドゥ!」ガマが車上から声をかけた。振り向くと、おもむろに何かを投げ渡され、リドゥは慌ててつかまえる。
一見すると、それはリドゥの普段の装備一式と同じもののように見えた。しかし拳銃嚢に収まっているのは市民拳銃ではない。やや大型の、武骨な、見覚えのある拳銃だ。
「これ……!」リドゥは目をみはる。それはリドゥがあこがれ続けたものだったからだ。
「『完全無反動重金属粒子連続高速射出拳銃QUIT & EXIT』!? そんな、まさか!?」
「スラッグに感謝しろよ」ガマはこともなげにそう言った。リドゥはあんぐりと口を開けた。
「そんな制服着やがって、どうせ武器でも探してたんだろ?」ガマがリドゥの体を眺めてにやにやしながら言った。リドゥは急に自分の格好が恥ずかしくなった。兵士の上着を脱ぎ捨て、黒い下着姿になる。その上にトカゲから手渡された光学擬態外套を羽織った。
「これで文句ないだろ?」リドゥはしたり顔でガマを見上げた。
「来たぞ!」トカゲが叫んだ。彼の視線の先から、どこからわいたのかと思うほどたくさんの兵士と無脳生物たちが追ってきていた。
「さっさと行きな。ここは俺が食い止める」トカゲが剣を振った。その仕草は兄にそっくりだった。
「……どうか無事で。ガマも」リドゥは装備の帯を身につける。
「お前に心配されるほど落ちぶれちゃあいねぇよ」ガマは快活に笑った。
「行けッ!」トカゲが叫ぶ。
「おうッ!」リドゥは塔に向かって走り出した。
走り去っていくリドゥの背中を肩越しに見て、トカゲは鼻を鳴らした。
「惚れた女のためか」ガマがからかうように言う。
「うるせぇ、言葉のあやだ」剣をかまえるトカゲ。「あんたは自分の心配してろ」
「そうするさ。終わったら呼んでくれ」そうしてガマはふたたび砂上車両を発進させた。車は封鎖の手薄な道を走り、兵士と無脳生物を蹴散らして消えていく。彼の運転技術ならつかまったりすることはないだろう。そう思った。
迫ってきていた無脳生物たちが隊列を組み、トカゲを狙う。
「武器を捨てて地面に伏せなさい!」
「……おし、やるか」
「速やかに武器を捨てて――」先頭の無脳生物が言いかけたときだった、トカゲが尋常ではない脚力で無脳生物との間にあった数十米の距離を一瞬にしてつめたのは。
ハイバイブオロチノアラマサがきらめき、先頭の無脳生物の上半身が斜めに分断され、宙に舞う。金属の断面は超振動によって赤熱し、液体水素が噴き出した。振るわれた剣は、残りの無脳生物たちが何が起こったのかを理解する前に、さらに二体を鉄くずに変える。
「強化改脳人です!」叫んだ無能生物の両腕が飛んだ。
これまで多くの非市民を殺してきた処刑台の前で、何人もの無脳生物が殺され、兵士たちが逃げ惑う。トカゲの体を動かす戦闘用高性能人工筋繊維と、急激な運動に耐えうる高硬度金属人工骨格と、酸素吸収効率を大幅に上げた心肺機能に、地面との摩擦に耐える真空吸着皮膚、そして髪の毛を感覚器官とし、周囲の敵の配置から確実な回避軌道を弾きだす戦闘用身体制御無形装置と、神経電流を加速することによる時間感覚の拡張が、一対多数の圧倒的不利な戦いを砂漠の砂を蹴散らすように容易なものへと変えたのだ。
「オラオラオラァッ!!」トカゲが叫ぶと、また無脳生物が分断される。その凄まじい戦い方にすっかり怖気づいた兵士たちは、彼を中心に遠巻きに眺めるしかできなかった。
「なんだコラァッ! もう終わりかぁ!」そう叫んだ直後、本能的な悪寒がトカゲの体を貫いた。彼はとっさに飛びのきつつ、悪寒を感じた方向を見た。
兵士たちが道の左右に分かれ、その真ん中を歩いてくる人影があった。背の高い兵士で、ひどい猫背のために顔が影になっているのと、灰色の長い髪が顔の前に垂れているので表情は見えない。だが発光する緑の瞳だけは、まっすぐにトカゲをとらえていた。
「てめぇは……!」トカゲはその顔を見て、すぐに彼女が何者なのかを理解した。胸に激しい炎が燃え上がる。
「みなさぁん……さがってくださぁい。これ以上無駄な犠牲を出す必要はありません……」アンドレアはそう言って兵士と無脳生物たちをさらに遠ざけた。
「改脳人には改脳人ですよぉ」
「てめぇは! てめぇが! 穴ぐらの町を! アニキを!」トカゲは叫んだ。
「……あぁ、もしかして」アンドレアは首をもたげた。
「あの反義捐都市勢力の生き残りさんですかぁ」
「あぁそうさ! てめぇが殺した仲間の家族に、てめぇの首を土産にしてやる!」トカゲはそう叫び、地面を蹴った。目にも止まらない速さでアンドレアに襲いかかる。だが薙がれた剣は空を切った。アンドレアの首を狙った一撃は、身をかがめた彼女に避けられたのだ。トカゲには信じられなかった。
アンドレアはそのままトカゲの鳩尾を殴った。常人の数倍の重さのあるトカゲの体が、まるでおもちゃのように吹き飛ばされる。トカゲは地面に落下する前に体勢を反転させ着地したものの、呼吸器の機能と人工心臓に発生した機能障害を立て直すのに数秒かかった。
トカゲはふらふらと立ち上がり、驚愕の表情でアンドレアを見る。
「馬鹿な……俺は神経速度を五倍に加速しているんだぞ! なのに……」
「たったの五倍ですか?」アンドレアが鼻で笑った。
「んだと……?」
「たったの五倍ですか。それじゃぁ、まだまだですねぇ」
「……何を言ってるんだ、五倍だぞ!? これが人間が正気をたもてる限界のはず!」
「いいこと教えてあげますよぉ」楽しげにアンドレアは言う。
「私も神経電流の速度を加速して、時間感覚の拡張をしてるんです……百倍に」
「なっ……!?」平然と言ってのけたアンドレアに、トカゲは目をむいた。彼女は狂気じみた表情で笑う。
「さぁ、かかってきなさいよノロマさぁん。あなたの存在は蛇足なんですよぉ」
「……てめぇ!」トカゲは激昂し、ふたたび彼女に襲いかかった。鮮血が飛び散った。