5
唐突に目の前に閃光が広がった。眼球が痛くなるほどの強烈な光は徐々に弱まり、周囲の輪郭と色彩がその向こうから現れる。同時に、大きな音が遥か彼方から急速におしよせてきた。自分の名を呼ぶ声だ――
「――……ドゥ! おい、リドゥッ!」
リドゥが覚醒したとき目の前にあったのは、見慣れた男の必死な顔だった。ガマだ。
リドゥは目だけで彼を見る。意識を取り戻したのがわかって、ガマは安堵したようだった。
「よし、なんとか間に合ったな……」ガマは首にかけたタオルで額の汗を拭いた。リドゥの体は台の上に寝かされていた。
「ここは……?」起き上がろうとして、リドゥは強烈な違和感をおぼえた。全身が樹脂になってしまったかのような、麻痺したような感覚に包まれているのだ。ひどい倦怠感もある。
「まだ動くな。応急処置だ。じっとしてろ」ガマはそう言いながらリドゥのまわりに置かれた機材をいじくっている。リドゥは目だけを動かして周囲を見回す。あたりの光景には見覚えがあった。まだちゃんと働かない頭で、リドゥはここが自分たちの砂上車両の貨物内だと判断した。あたりにこもる鉄錆の臭いに顔をわずかにしかめて左を向いたとき、リドゥはそこにあったものを見てひどく驚いた。
「これ……!?」リドゥの声を聞きつけて、ガマが彼を一瞥した。
「ああ……マムシだ」
リドゥの左側に並んで寝かされていたのは、顎から上が大きく欠けたマムシの死体だった。それを目にして、リドゥは自分がどうしてここにいるのか、何が起こったのかを一気に思い出した。全身から汗が吹き出す。強い衝動に、彼は叫んだ。
「キャンディッ!」はね起きようとして上体を起こしたときだった。リドゥは左胸がいやに重たいことに気がついた。見下ろすと、左胸の前面が完全に開放されていた。むき出しになった体内からは電脳人用体液にまみれた管や銅線がいくつも外に飛び出している。そのうちの何本かは周囲の機材へ、残りはリドゥの左側へと伸び、あろうことか、マムシの死体の大きく切り開かれた左胸へと突き刺さっていた。
「動くんじゃねぇっつったろ!」ガマが恐ろしい顔で怒鳴った。呆然としていたリドゥはその声で我にかえった。ガマに両肩を掴まれてゆっくりと寝そべる。あまりのことに呼吸が荒くなり、また気が遠くなりそうだった。
「ガ、ガマ……僕は……!」
「おまえの左胸の中身は完全に吹き飛んでいた」ガマは淡々と言った。
「応急処置として、無傷だったマムシの人工臓器を流用している。あいつが全身改脳人でよかった……」
「ガマ、僕は――」
「何も言うなッ!」ガマは大声をあげた。表情はけわしかった。
「事情はトカゲから聞いた。あいつはマムシが義捐都市とつながっていることを知っていたんだ。町の安全を保証してもらう代わり、公開処刑用の人間を提供したりしていることをな。おまえたちが出ていったあと、すぐに教えてくれた」彼は早口だった。
「だから間に合った。リドゥ、気に病むな。俺は気にしていない。仕方なかったんだ」リドゥは、彼の語りは自分に向けたものではない気がした。
「これからマムシの人工臓器とおまえの体を調整して、なんとか体のなかに納めてみる。肺は片方無くなっているし、痛覚を切ってあるから全身がしびれたような感覚があると思うが、我慢しろ」ガマはそうしてマムシの死体の傍らに立ち、新たに配線をつなぎ始める。自分を生かすためとはいえ、親友の死体をもてあそばざるをえない彼の心境はどのようなものだろう。複雑な想いにリドゥの胸はつよく締めつけられた。
「……キャンディは?」
「いない」短い返答だった。
リドゥは意識して呼吸を抑えようとした。今、胸の中に渦巻く激しい感情を爆発させてもどうにもならないのはわかっている。
「血流が加速してるな。気持ちはわかるが感情を抑えろ。改脳人と電脳人の臓器をむりやり繋げてるんだ、安定させたい……強制終了は嫌だろ」ガマが機材を睨んで言った。
「……ガマは強いね」リドゥはつぶやく。
「皮肉か?」ガマはぎこちなく笑った。
「大人は泣く場面を弁えてるんだ」そのとき、車体が横に大きく揺れた。リドゥは全身の麻痺のせいで気がつかなかったのだが、どうやらこの砂上車両は走行しているようだった。無限軌道の履帯のたてるやかましい音がさっきから貨物内に反響していることに、今まで気がつかなかったのが不思議だった。
「誰が運転してるの?」
「トカゲだ。あいつが俺を案内したんだ。今、穴ぐらの町へ戻るところだ」
「トカゲが……どうして?」リドゥには彼がガマに事態を知らせたり、今こうして自分たちを助けてくれていることがなんだかとても意外だった。
「どうしてだと思う?」リドゥはさっぱり見当がつかず、小さく首を振る。
「俺やおまえと同じさ。あの娘――キャンディに一目惚れしたんだとよ」
「――よし、納まった。体を起こせるか?」手についた体液を手ぬぐいで拭きながら、ガマが言った。リドゥは鈍麻している身体感覚の猛烈な違和感に耐えながら上体を起こした。見下ろした胸には、包帯がさらしのように巻かれている。この中にマムシの人工心臓と各種調整機材が半ば強引に詰められ、そのおかげでかろうじて自分が生きていられているのかと思うと、とても不思議な気持ちだった。
ガマはマムシの死体に布をかぶせつつリドゥを見る。
「詰めこんだもののせいで、肺を入れる余地が無かった。しばらく片肺だから激しい動きはするな。言うまでもないが砂の中を転げるのも禁止だ。普通の食事も禁止。ほかにもいろいろあるが、要はじっとしてろってこった」
リドゥは胸の大穴へ手を当てた。包帯ごしに鼓動が伝わってくるのが、今まで経験したことがない感覚だった。
「……あそこで僕が拾われてから、何分経った?」リドゥの質問に、ガマは機械の箱に腰を下ろして腕時計を見た。
「ちょうど二時間くらいだ。もうすぐ町に――」ガマの言葉は、急停車した砂上車両の大きな揺れに遮られた。リドゥは寝かされていた台から床に転げおちた。体に刺さっていたいくつかの端子に引っ張られ、計測機器がいくつか床にぶつかった。ガマは間一髪、近くの機材にしがみついてこらえた。
「大丈夫か!?」ガマがリドゥのそばにかけより、体をあらためた。リドゥは台の足にすがりついて、やっと体を起こす。彼が無事なことを確認すると、ガマはリドゥの肩を優しく叩いた。
「待ってろ」ガマが貨物の扉を開き、外へ出た。大きな車体の横を走って運転席の扉を叩く。反応が無いので、ガマは扉を開けて中を覗いた。運転席では操縦輪を握ったままのトカゲが恐ろしいものでも見たかのように固まっていた。
「おい、どうした!?」声をかけられて、トカゲはガマを見る。
「ヤベェ……ヤベェよ」彼はわなわなと震えている。
「落ち着け。どうしたんだ?」トカゲは無言で前方を指さした。見ると、遠方にひとすじの黒煙が上がっているのが見える。ガマは目を凝らした。そして黒煙が上がっているところのすぐそばの砂丘に、見覚えのある風車と太陽光発電装置があることに気がつき、ハッとした。
「助けねぇと!」トカゲがいきなりそう叫んで車両を発進させようとした。しかしその前にガマによって突き飛ばされ、助手席に転げる。
「落ち着け! 俺たちが行ってなんになる!? 死ぬだけだ!」ガマは声を荒げながら空いた運転席に乗りこんだ。
「見殺しにしろっつーのか!」トカゲは助手席側の扉を開けた。
「違う! いまさら行っても無駄死にだというんだ!」
「行ってみなきゃわかんねぇだろ!」
「待て! トカゲ!」制止をふりきって、トカゲは車を降りて砂漠を走り去っていく。遠ざかっていく彼の背中を眺めていたガマは、おもむろに操縦輪を殴りつけた。拳には怒りがこもっていた。
「俺だって今すぐ行きたいに決まっているだろがッ!」ガマは叫んで、手で顔を覆った。
遠方に見える黒煙は、紛れもなく、穴ぐらの町の中から立ちのぼっていたのだった。
慎重に周囲を警戒しながら、そろそろと砂上車両を穴ぐらの町に近づけていくと、入り口の周囲にたくさんの人間が集まっているのが見えてきた。町の住民たちだった。どうやら脅威はすでに過ぎ去っているらしい。ガマは砂上車両を彼らのそばに停車させた。
ガマは車の後ろにまわり、貨物の扉を開けた。中のリドゥがよろよろと立ち上がる。ガマは彼が車を降りるのを手伝った。体を支えられながら、リドゥは周囲を見渡した。
穴ぐらの町の入り口からは空まで届く黒煙がもうもうと立ちのぼり、猛烈な焦げ臭さと複雑な異臭、焼けるような熱気が溢れていた。頭上からは高く舞い上がったなにかの燃えカスがひらひらと降りそそいできている。それらは黒煙の根本を中心として幾体も折り重なった、無数の死体の上に積もっていた。
町の人々は失意の表情で、それでもこの地獄の大穴からは離れたくないようだった。あるものは魂の抜けたような表情でじっと煙の柱を見つめ、またあるものは膝を抱えて泣いていた。あるものは大声で運命への憎悪を吐き出し続け、またあるものは黒こげになったなにか人型のものにぶつぶつと語り続けている。
リドゥは絶句していた。ガマも黙ったままだった。そのとき、ふたりに近づいてくる人物がいた。トカゲだった。
「義捐都市の連中が来たんだってよ」トカゲは落ちついているように見えた。
「髪の長い不気味な女改脳人が率いていたらしい。そいつらが火炎放射器で町を焼き尽くしたんだと」彼は力なく笑った。
「地下の街はまるごと燻製箱。なんとか逃げ出した連中も、待ちかまえていたヤツらに一人ずつやられたってさ、女も子供も……みんな。ここにいる連中は、運良く外へ出ていたり、死体の中に埋もれて見逃されたやつばっか」トカゲは鼻から大きく息を吸い、肩をすくめる。
「不思議だぜ。まだこれっぽっちも現実感がねぇ。アニキが死んだのも、町が燃やされたのも――」彼は深く息を吐いた。
「よくツルんでいたカメが死んだのも。喫茶店でいつも珈琲を淹れてくれたスズメが死んだのも。厳しく叱ってくれたうどん屋台のオヤジが死んだのも。いつもイジメていたコオロギが死んだのも。よくたむろした店の気のいいおっちゃんが死んだのも――」
「トカゲ」ガマが口を開いた。
「――イイなって思っていたリンゴが死んだのも。よく一緒に悪さをしたミミズが死んだのも。ガキのころから世話になったサクラばぁちゃんが死んだのも――」
「――トカゲ」静かだが力強い声に、トカゲは感情のない目でガマを見た。ガマはその目をまっすぐに見つめかえす。
「今すぐすべてを受けいれる必要は無い。ただひとつだけ言わせてくれ」彼は言った。
「バカなことだけは考えるな。俺はおまえのことを過去形で思い出したくない」
「……バカなこと。バカなこと、ね」トカゲは鼻で笑った。
「すまねぇが、少しひとりにさせてくれ」そう言って彼は静かに立ち去った。
リドゥはガマの横顔を見上げた。彼はけわしい顔をしていたが、瞳には深い悲しみの色があった。リドゥには彼の心中を想像することしかできない。
「ガマ、もういいよ。ひとりで立てる」リドゥは彼から離れようとしたが、ガマはリドゥの腕を握ったままだった。リドゥが見ると、彼は目を伏せる。
「たのむ……支えさせてくれ」
リドゥは静かにうなずいた。
地下ではまだ炎が燃えているらしい。消火設備は破壊されてしまったのだろう。厚い黒煙の向こう、入り口の奥に、赤い炎がときどき蛇の舌のようにちらつく。
「……いい人たちばかりだったね」リドゥがガマに言った。
「ああ……そうだな」
「親切で、気のいい人たちばかりだった」
「そうだな……」
「そんな彼らを、彼らのために差し出さなきゃいけないなんて、僕にはとてもできないよ」
「だが差し出さなければ、もっとはやくにこの結末が訪れていた」ガマの言葉に、リドゥはうなずく。
「俺のせいだ。気づいてやれなかった、友達だったのに」
「ガマ、違うよ」リドゥは強引にガマの腕から離れた。そして数歩前に進み出て、黒煙を睨みつける。
「悪いのは義捐都市の連中だッ! キャンディが苦しんでいるのも、このありさまもヤツらのせいだ! 僕がヤツらを倒してやる!」
「リドゥ……」ガマからはリドゥがどんな表情をしているのかはわからない。だがその背に激しい怒りと憎しみがたぎっているのを、彼はつよく感じ取った。
「キャンディを助けて、みんなの仇も討つ! 手伝ってくれるよね、ガマ!」そう言いながらリドゥはガマをふりかえった。
「ダメだ」ガマは首を振った。リドゥは裏切られたような気持ちになった。
「なんでさ!」
「おまえは義捐都市について何も知らなさすぎる」
「よく知ってるよ! ヤツらは僕たちをイジメて、自分たちだけで何もかもをかこっているんだ! そのせいで、見てよ! 何人が死んだッ! 数えてみてよ!」リドゥは腕を振って、周りの人々を示した。あたりに渦巻く息が詰まりそうなほどの悲しみを、リドゥは吹き飛ばしてしまいたかった。
「リドゥ、俺は――」
「――元義捐都市市民だからか」
「――なに?」
「元義捐都市市民だから、しょせんは逆らえないんだろ!」
「リドゥ……」
「お別れだよ、ガマ」リドゥはそうして歩きだした。体は痺れていたし、一歩踏み出すごとに体がぐらぐらと揺れたが、それでも歩いた。
「砂上二輪と装備だけもらっていく。今までありがとう」すれ違いざま、リドゥはガマにそう言った。ガマは何も言わなかった。
リドゥはひとり歩きながら、胸に張り裂けそうな痛みを感じていた。
「――それで、こんな夜遅くに女性の部屋にのりこんできたってわけかい」小さな照明が照らす薄暗い部屋のなか、安楽椅子に腰かけて話を聞いていたスラッグは、思案げな表情でリドゥを見た。リドゥは防寒用の外套を着たまま、憮然とした顔で壁に寄りかかっている。壁の時計からからくりじかけの鳩が飛び出した。頭をもたげると、文字盤の針は真夜中を指している。
「いいだろう? 義捐都市製の鳩時計さ。鳴き声が可愛らしくてね、衝動買いだった」
「人体技師さえ紹介してもらえたら、すぐに出ていくよ」リドゥは片手で胸を押さえていた。スラッグは彼の胸元をちらりと見た。
「それにしてもリドゥ、アンタ、電脳人だったんだね。知らなかったよ」
「隠してたわけじゃない」
「その頭と皮膚のせいで六年も気がつかなかった。代謝や発毛はもちろん、発汗も、体臭機能まであるなんて上等な皮膚だ。培養して増やせばそれなりの値段で売れるのに」値踏みするような視線に、リドゥはつい銃に手をかけそうになる。
「その頭蓋骨は拾われたときからのものかい? 義捐都市にバレたらしょっぴかれるね」スラッグは自分の額にある二本の角を弾いた。
「カネならあるんだ、紹介してよ」
「なんでアタシが?」
「えっ……」リドゥは面食らった。スラッグは大きな胸をそらし、威圧するように少年を見た。
「アタシが今までアンタによくしてやってたのは、ガマへの義理があったからさ。今のアンタはガマと手を切ったんだろう? それじゃあ、信頼できる人体技師を紹介してやることはできないね」
「カネならある」
「カネの問題じゃない、信用の問題さ。ひとりで生きるってのはそういうことさ」スラッグは椅子に背を預け、膝の上で指を組んだ。安楽椅子がゆらゆらと揺れる。リドゥはうつむき、感覚のない下唇を噛みしめた。
「ただまぁ、アタシも鬼じゃない……角はあるけど」スラッグの声に顔を上げると、燃えるような眼光の彼女と目があった。
「中身がほとんどむき出しのままここまで来た根性は認めるし、なんだかんだでアタシはアンタのことが気に入ってる。それに今アンタの胸の大穴におさまってる心臓のもとの持ち主はアタシの大切な仲間だったんだ」
「スラッグさん……」
「だから機会をやる。アタシを納得させてみな。アンタの体を修理するに足る理由を言ってみろ。それができなきゃ、皮膚でも売るんだね」
リドゥは目を閉じた。
(僕は義捐都市が憎い。その想いはスラッグさんも同じはず……)
「僕は――ゔっ!?」言いかけたとき、左胸から頭頂部まで電撃のような激痛がかけぬけ、リドゥは思わず体を丸めた。スラッグは眉をひそめる。
「死ぬなら静かに死んどくれ、やかましいのは嫌いだよ」彼女の非情な言葉も今のリドゥの耳にはほとんど届いていなかった。全身から汗が吹き出て、呼吸も荒い。足からも力がぬけそうだったが、すんでのところでこらえた。人工心臓が激しく脈をうっている。唐突に激しくなった動悸に、目が眩んで痛んだ。
「……胸が……痛い……」自分で言いながら、リドゥはその言葉をおかしいと思った。
今、リドゥの電脳は痛覚を遮断している。なのに痛みを感じるなんてありえないのだ。現に胸に走った痛みは一瞬で、今はうそのように鈍麻している――どうして、急に痛んだのだろう。
(まるで……マムシさんが僕をとめたみたいだ)そう考えたとき、脳裏に自分と戦ったときのマムシの姿が浮かんだ。記憶のなかで、彼は涙を流しながら剣を振るっていた。
(どうして泣いていたんだっけ……)ハッとした。
(……そうだ……これじゃ、同じじゃないか!)リドゥは驚き、そして恥ずかしくなった。
今の自分はまるでマムシのようだ。辛い現実から逃れようと、無意識のうちに自ら命を断とうとしていたのかもしれない。義捐都市に真正面から戦いを挑んでも勝てるわけがないのだ。火を見るよりも明らかな事実からすら、知らず知らずのうちに目をそらしていた。
(……だけどそれでも、僕は義捐都市に立ち向かわなきゃならないんだ)リドゥは深く息を吸った。肺が片方しかないためにとりこめる酸素量は少ないが、深呼吸をしたという事実だけで楽になる気がした。
「……助けたい人がいるんだ」リドゥはスラッグを見すえて言う。
「名前はキャンディ。その娘は義捐都市に捕まっていて、今も助けを求めてるんだ。頭がよくて、ときどき信じられないくらい大胆なこともする。不思議な雰囲気の女の子だ。喋れないけれど、代わりに表情が豊かで、笑顔がとっても眩しいんだ。僕は彼女に約束したんだ」
リドゥは物見櫓の上でキャンディに言った言葉をもう一度口にした。
「『絶対に守る』って」
リドゥの語りを黙って聞いていたスラッグは、とうとう吹き出した。彼女は顔を伏せて肩をふるわせ、必死に笑いが爆発するのをこらえている。リドゥは口をへの字に曲げた。
「なんだよ、何がおかしいんだ?」
「……ひひっ……いやぁ、すまんね」目じりについた涙の粒を指先で弾きながらスラッグは顔をあげる。
「まさかそんな恥ずかしいセリフを真顔で言うなんて。いやぁ、若いっていいわぁ」
「こっちは真剣なんだ」
「いやぁ、ごめんごめん」スラッグは自分の頬をぴしゃりと叩く。それでも笑いは完全には消えない。
「初恋ってやつ? やっぱりリドゥ、アンタ変わってるよ」
「知ってるでしょ、電脳人は恋をしない。生殖しないから……」
「でも、いま現にアンタは恋してる。それを恋と言わずになんと言うッ!」スラッグは立ち上がった。主を失った安楽椅子が大きく揺れる。
「これほどキュンキュンする話を聞かされて、ひと肌ぬがなきゃ女がすたる! ホレ、カネを出しな!」スラッグの快活な表情に、リドゥは安堵しつつも苦笑した。
「しっかりおカネはとるんだね……」後盒から丸めた札束を取り出し、投げわたす。スラッグは枚数をあらためはじめる。
「あったり前さ。世の中にタダ以上に高いものは無いよ、おカネ以外のものを支払うってことだからね……ってチョイと待ちなよ。これだけかい?」スラッグが訝しんだ。
「足りない?」リドゥは首を鳴らす。
「今日の夕方ごろ、大量に怪我人が出たのさ。そのせいで皮膚や臓器、人件費も高騰してる……よく思い返せば、ありゃ穴ぐらの町の生き残りに違いないね。安い臓器にはロクなもんがないし……」言いながらスラッグは紙幣を指でもてあそぶ。
「それは困るな。全財産だし、何よりも時間がない。キャンディがどんなひどい目にあわされるか……」
「少し黙りな。こうやかましいと出る知恵も出やしない」リドゥは口をつぐんだ。
スラッグは思案げな表情で部屋を歩き回る。花瓶の花に水をやったり、棚に飾られたやじろべえを指でつついたり、本棚の漫画本を適当にぺらぺらめくったりしながら部屋を一周し、リドゥの前で立ち止まった。
「リドゥ、こういうのはどうだい」スラッグはリドゥに話しかけた。リドゥも彼女を見た。
「アタシのこの角を一本やるよ。切断と溶接だけならできるヤツは腐るほどいる。これをアンタのおでこにくっつけるんだ」彼女は額の角を片方、指で弾いた。リドゥは目を丸くする。
「それで……どうするの?」
「義捐都市市民になれ」スラッグは真剣な表情で言った。あんまりな言葉に、リドゥは眉をひそめる。
「……笑えないよ」
「まぁ聞きなさいな。いい? 義捐都市は市民の身体維持費が無料だ。審査があるが、その怪我ならまず通るだろうね。実際、そのために義捐都市市民になるヤツも珍しくない」
リドゥは黙ったままだった。スラッグは続ける。
「だからアタシの角を一本やろうってんだ。外見が純脳人と同じ電脳人は義捐都市の法律では射殺ものだが、逆に言えば見た目さえ純脳人と違えばいいんだ。市民になるための試験は簡単な読み書き計算と心理試験だから、賢いアンタなら受かるだろうさ」
「……でも、市民になったら」
スラッグはうなずいた。
「『リトル・シスター』を電脳にうけいれなきゃいけない」
「そうなったら、キャンディを助けるどころじゃない。行動も思考も監視される」
「アンタは義捐都市のことをなんもわかっちゃいないね」ガマに言われたような言葉に、リドゥは少しカチンときた。スラッグは安楽椅子に戻り、教師のようにリドゥを見る。
「リドゥ、義捐都市は思想と良心の自由を保証してるんだ。ヤツらはたしかにリトル・シスターを通じて市民の思考や行動を監視している。だけどね、それだけで何かをするってことはないんだ。一般に言われる反義捐都市的思想すら、ヤツらは暴動とかの実害が出るまで放置する」
「な、なんで? そんなのおかしいじゃないか」
「そこが奴らの巧妙なとこさ……正義の体現だ。まぁ、そのあたりは市民になればイヤでもわかるよ。とりあえず、アンタが自宅を武器庫に改造して市民を皆殺しにしようと画策しようが、リトル・シスターはアンタが実際に誰かを撃つまで放っておく。絶対にこれは間違いないね」
「信じられないな……」リドゥは困惑した。
「さて、どうする? アタシはこれが最上の策だと思うけどね」スラッグは頬杖をついて微笑んだ。
目を覚ましたキャンディは、自分が知らない部屋のなか、毛布をかけられて寝台に寝かされているのを発見した。体を起こすと頭が重く、全身がだるい。寝台からおりて周りを見渡した。
質素な内装の部屋だった。壁も床も全体は白で統一されている。空調がきいていて快適な室温をしていた。家具は壁に固定された寝台に、同様に固定された机と椅子。壁に埋め込まれた本棚には様々な分野の学術書がぎっちり並んでいる。受像機もあった。部屋の角には衝立があり、その影が小さな鏡のある洗面所と便所になっている。便所が唯一の死角となる位置の天井に、監視装置が一台あった。
部屋の扉は覗き窓がついた金属製で、外側からしか開かないようになっている。向かいの壁にはすべり出しの窓がひとつあった。窓を開けると強烈な風が吹き込んでくる。視界を遮るものは何もない。唯一の窓は、周囲の建物をみな見下ろせるほど地上から高い位置にあったのだ。
キャンディはクラクラとする頭をおさえて、扉の覗き窓から外を窺う。通路を挟んだ反対側の壁には同じような扉が並んでいて、この施設が監獄かなにかだということをうかがわせた。扉から離れ、監視装置を見上げる。どうやら自分の動きを追随しているらしい。落ちつかない気分だった。
やることもないので寝台に腰かけてぼんやりとしていると、廊下からこちらに近づいてくる複数人の足音がした。足音の主たちは部屋の前で立ち止まり、扉の鍵を開ける。
最初に入ってきたのは兵士だった。彼はすぐに横に退き、あとから入る人物を迎え入れる。禿頭の老人だった。趣味の良い服を着た、品のいい男だ。彼はキャンディの前に立つと丁寧なおじぎをした。戸惑いつつも、キャンディもおじぎをかえす。
「やっと会えたね。『CAN DO計画』。私はウィンストンだ」老人は言った。キャンディは口をぱくぱくとさせた。質問をしたいが声が出ない。その様子を見てとって、ウィンストンは申し訳なさそうに頭を小さく振った。
「すまないが、もう少しだけ我慢してくれないか。キミの声は少々……特別なんだ」言葉の意味がわからず、キャンディは首をかしげる。
「それにしても、無事で良かった」老人はキャンディの前に跪き、手をとった。キャンディは驚きつつも老人を見る。
「心配したよ、キミがあの粗野でがさつな人々にひどい目にあわされていないかと。本当に無事で良かった」ウィンストンは優しげに微笑んだ。あたたかい表情に、キャンディはもしかしたらこの人は悪い人ではないのかもしれないと思った。
「だけど『CAN DO』。申し訳ないが、キミにはもう少しだけここにいてもらわなければならない。キミの心が、思想が、汚染されていないか調べなければならないんだ」老人の後ろの兵士が進み出て、小さな鞄のようなものを差し出す。キャンディはそれを受け取った。
「開けたまえ」ウィンストンの声に従い、キャンディは膝の上で鞄を開ける。中には紙束と何本かの鉛筆、そして何冊もの高度な問題集が入っていた。
「実はキミが眠っているあいだに、キミの行動に関する制限を少しだけ緩めた。これでキミは文章を書き記すことができるようになったはずだ」ウィンストンにそう言われて、キャンディはおっかなびっくり鉛筆をとる。紙の上に走らせると、自分の思ったことが書き記せるので、とても驚いた。
「どうだね?」ウィンストンが立ち上がり、キャンディの手もとを覗きこむ。そこには『私はキャンディ』とだけ書いてあった。
「キャンディ? 飴玉が欲しいのかね?」ウィンストンの言葉にキャンディは首を振る。そして自分を指さし、『私はキャンディ』と書いた紙を持ち上げ、見せつけた。
キャンディの行動を見たウィンストンはひどく驚いていたようだったが、すぐにまた柔和な笑顔に戻る。
「そうか……キミは『キャンディ』か」ウィンストンはキャンディの頭を撫でようとそっと手を伸ばす。彼女は反射的にその手をはらった。直後、ウィンストンがひどく険しい顔になったように見え、キャンディはぞっとした。だがそれもほんの一瞬だった。彼は手を引っ込める。
「いや……悪かった。これから長い検査になる。暇つぶしにその問題集でもやりなさい。キミには簡単なはずだ」そう言って入り口のほうを向いた。
「それじゃあまた会おう、キャンディ」老人は兵士とともに部屋を出ていく。残されたキャンディはしばらくして、物憂げな表情をうかべて鞄の中の問題集の一冊を手にとった。表紙には『数学の難問集』とだけある。適当な頁を開くと、そこには『3以上の自然数nについて、xのn乗+yのn乗= zのn乗となる0でない自然数(x,y,z) の組が存在しないことを証明せよ』とあった。
「しばらくは監視だ。あれが義捐都市にふさわしくない思想に染まっていないか、注意深く観察しろ」ウィンストンは廊下を歩きながら部下の兵士に指示を出す。
「まったく、これほど科学が進歩しても、人の思想を分析するには統計学にたよらなくてはならないとは……」そうひとりごちながら昇降機に乗り、上階にあがる。上がった先の階で、彼は自分の執務室の扉を開けた。
部屋の中には先客がいた。応接用の長椅子に座っていたのは不気味な雰囲気をまとう長髪の女改脳人だった。彼女はウィンストンを見るとのそのそと立ち上がり、礼をする。
「どうも……お呼びで」
「アンドレア、そこに立ちなさい」ウィンストンは自分の席についた。壁一面の巨大受像機の電源を落とし、真剣な表情で彼女に向き合う。
「まずはご苦労だった、アンドレア。キャンディ、いや、『CANDO』を『予定通り』連れてきてくれて」
「どうもぉ……」アンドレアは頭を下げた。
「だがキミはやり過ぎだ」ウィンストンは腹立たしげに机を指で叩く。
「リトル・シスターはキミに被験体の確保だけをお願いしたはずだ。あの町の住人を――口に出すのも不快だが、虐殺――することまでは要求していなかった」
「えぇ? でもぉ……」
「『でも』じゃない。キミはたしかに優秀な『姉』だが、いつもやりすぎる。あの町にはまだ利用価値があった……それが潰えた。義捐都市が非市民をわざわざ放置し、しかも適度にエサをやっている理由がわからないのか」
アンドレアはうつむいたまま、なにやらぶつぶつと呟いている。ウィンストンはその態度にますます腹立たしくなった。
「やはり『UNDO』シリーズはすべて廃棄すべき――!?」言いかけたとき、アンドレアの体が目にも止まらない速さで動き、机を挟んで伸ばした腕で彼の口元を抑えた。顎が砕けるギリギリの力を下顎にくわえつつ、彼女は怒気をはらんだ声で言う。
「私をその名で呼ぶな! 私はアンドレアだ!」アンドレアの緑色に光る目が、灰色の長髪を透かしてウィンストンを睨みつける。老人は恐ろしさに震えながら何度もうなずいた。アンドレアは手を離した。咳き込む彼を、彼女は見下ろす。
「私はアンドレアだ……ただの兵器じゃない……アンドレア……妹がくれた名前……」
「ああ、わかったよ、アンドレア」ウィンストンは口元を拭う。
「だがキミがやりすぎなのは変わらない。だからキミにはしばらくのあいだ、訓練施設に戻ってもらう」
アンドレアは無言だった。
「返事は?」ウィンストンが睨む。
「……了解しましたぁ」
「さがりなさい」指示に従い、アンドレアは部屋を出ていった。ウィンストンは椅子に背を預け、長く息を吐く。壁の巨大受像機を点けると、キャンディの独房の監視装置の映像につながる。彼女は机に向かって問題集をひたすら解いているようだった。
(知的好奇心は旺盛。知能も問題ないようだ)ウィンストンの頬が緩んだ。
(あと数日のうちに、計画の実行ができるかどうか決まるだろう。そうなれば彼女は脳味噌以外不要になる。すべては順調……なにもかも予定通り。これこそ、リトル・シスターの望む世界だ)