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砂上二輪に乗って町を出たリドゥは、そのときにはすでに自分のあとをつけている三人の兵士たちに気がついていた。そのため彼はまっすぐ住処に帰ることはせず、むしろ反対の方角の砂丘へと砂上二輪を走らせていた。
三人の兵士たちはそれぞれリドゥと同様に砂上二輪に跨り、身を隠すそぶりも見せずに追ってきている。リドゥは彼らをまくことは最初から諦めていた。なぜならば彼らが何かしらの確信をもって自分を追ってきているのだということは、あの場にいた三人全員が自分を追跡していることから容易に判断がついたし、この間の砂上車両の護衛のような練度の低い兵士ではないことも、装備と服装の上等さから知ることができたからだ。
リドゥは彼らを迎え撃つことに決めた。ガマに助けを求めたら、彼らを殺すことは避けられないだろう。
(どうにか殺さずに済みますように!)三台の砂上二輪の灯火に照らされながら、リドゥは夜の砂丘をゆく。町の灯りがすっかり遠くなったころ、不意に夜闇に銃声が響いた。威嚇射撃だ。直後、兵士の「停まりなさい!」という声があった。
月と星に照らされた砂丘のてっぺんで、リドゥは砂上二輪を急停車させる。兵士たちは丘の下にそれぞれ砂上二輪を停め、並んでリドゥを見上げた。
「『リトル・シスター』の名において、あなたを逮捕します! 砂上二輪の動力装置を切り、両手を頭の上に当て、地面に伏せなさい!」真ん中の兵士が叫び、左右の兵士たちが自動小銃の銃口をリドゥに向けた。
リドゥは砂上二輪に跨ったまま、防砂眼鏡越しに彼らを冷ややかに見下ろしていたが、すぐに観念したように砂上二輪の動力を切り、砂丘の上に降りる。ゆっくりと両手をあげるのを見て、右の兵士が自動小銃を構えたまま、じりじりと近づいてくる。
「僕は銃を何丁も隠し持っているぞ!」いきなりリドゥが大声で言った。近づいていた兵士が足を止めた。
「では、それらを捨てなさい」真ん中の兵士が言う。
「そう言って、腕を下げた途端に撃つんでしょ!」
「私が武装解除します」近づいてきていた兵士がそう言い、また歩き出した。
兵士がリドゥのすぐそばに立つ。外套の端に手をかけ、留金を外した。防寒用の外套が砂の上に落ち、リドゥの装備があらわになった。ツギのめだつ薄手の上着に、作業着のような厚手の細袴を履いている。腰には軍用の帯を巻いていて、自動拳銃が腰の左右にひとつずつと、大ぶりの小刀が一本前にさがっている。後ろには後盒もついていた。靴も軍用で、つま先に鉄板が使われた厳つい見た目をしている。
「帯を外します。不自然な動きには発砲します」兵士がそう言いながらリドゥのそばに片膝をつき、小刀の鞘の下にある帯の留金へ両手を伸ばす。その直後、バチッという弾けるような音とともに電光の火花が散って、兵士の体が大きくのけぞる!
リドゥの留金にしこまれていた、触れたものに高電圧の電気を流す罠によって、兵士は視覚端末の下、白目をむいて気絶していた。リドゥは素早くその兵士の襟首を掴み、体を引き上げて背後にまわると、彼の体を盾にして残りの兵士に向き合った。
「今すぐ消えないとコイツを殺すぞ!」リドゥは恫喝した。
残りの兵士たちは相変わらず無表情のまま、少しだけお互いに顔を見合わせると、リドゥに向けて自動小銃を発砲する。
(躊躇なしなの!?)リドゥはとっさに兵士から離れ、砂丘の反対側へと転がりこむ。放り出された兵士は銃弾に蜂の巣にされて崩れ落ちた。
リドゥは砂丘の斜面をゴロゴロと転がり落ちながら、腰の左右の二丁拳銃を抜き放つ。彼が斜面の一番下まで到達して立ち上がるのと、ふたりの兵士たちが砂丘の上から自動小銃を構えるのは同時だった。
最悪の状況だった。ふたりの敵は見晴らしの良い砂丘の上に陣取り、しかも射程の長い自動小銃を持っている。義捐都市兵士用の視覚端末によって夜闇は障害にはならない。対するリドゥは射程の短い拳銃二丁と小刀のみ。弾薬も豊富ではない。薄着で、さっきの銃撃のときにかすった弾丸のせいで肩や腕には血が滲んでいた。リドゥがとっさにとった行動は常軌を逸していた。彼は片手に握った拳銃を一丁、兵士たちの頭上へ向けて放り投げた。
自動小銃の引き金に指までかけていた兵士たちは、手りゅう弾を警戒し、ほんの一瞬だけ視線をリドゥから飛来物へ向ける。視覚端末が夜闇に紛れるそれの輪郭を明らかにし、ただの拳銃だと断じるまでに一秒。すかさずリドゥがもう一方の拳銃から放った弾丸が空中の拳銃の弾倉を撃ち抜くまでさらに二分の一秒。弾倉が爆発して、飛び散った破片が兵士たちを襲うまでさらに二分の一秒。
「ぐあぁっ!」兵士たちは頭部と体に食いこんだ鉄の破片に、悲鳴をあげて苦しんだ。あまりの苦痛に自動小銃の引き金が意図せず引かれて、周囲に弾をばらまく。そんななか、リドゥは砂丘を駆け上がった。
「どおりゃっ!」リドゥは苦しむ兵士の背後をとると、背中に飛びついて両腕を首にまわした。頸動脈が圧迫され、血流を妨げられた兵士は数十秒で気を失う。仮に改脳人であっても、脳の機能さえ一時的に止められれば殺す必要はないのだ。気絶した兵士がその場に倒れたころには、最後の兵士が苦痛から立ち直りかけていた。彼は頭部から血を流し、苦々しげに口元を歪めながら、ブツブツと同じことをつぶやいている。
「ありえない……反義捐都市的だ……ありえない……反義捐都市的だ……ありえない……」
リドゥはふたたび自動小銃を構えようとした兵士の懐に潜りこむと、強烈な拳を彼の下顎に叩き込んだ。衝撃は兵士の脳をもろに揺さぶり、彼の脳機能に一時的な障害を引き起こした。
最後の兵士が口から泡を吹きながら倒れた。リドゥは二、三度周囲を見渡し、ほかに敵がいないかを確かめる。安全を確認したリドゥは外套を拾い上げ、ふたたび羽織う。彼は砂上二輪にまたがり、砂丘から離れた。やがて義捐都市の人間が彼らを発見するだろう。リドゥはひとりだけ助けられなかった兵士のことをくやんだ。
(彼らがあんな簡単に命を捨てるのは、リトル・シスターのためなのか、義捐都市のためなのか、それとも……?)頭を振った。
夜の冷たい風が、彼を震え上がらせた。
リドゥが外側の町を経由して隠れ家の建物に戻ってきたのは、もうすぐで真夜中になろうという時間だった。夜空に月は高く、隠れ家の周りはしんと静まりかえっている。すべての窓には中がうかがえないように廃材を打ちつけてあるので、中で人が生活している痕跡は、そばに停まっている砂上車両だけだった。
リドゥは砂上二輪を砂上車両のわきで降り、荷物を背負いこんだ。それから最後にもう一度だけ尾行者がいないことを確認し、外套と服の砂を手ではたき落としてから建物の中へ入る。防砂眼鏡と面を外して首にかけた。
真っ暗闇の廊下のむこうに、灯りのついた部屋があった。
「ただいま」
「オゥ、遅かったな」中ではガマが作業机に向かって、なにかこまごまとした作業をしていた。彼は肩越しにリドゥを見、その薄汚れた格好からなにか事件があったのだということを察すると、眉根を寄せて椅子ごと体をリドゥに向けた。
「キャンディ絡みだな?」
「さっすがガマ」リドゥはおどけて肩をすくめた。
「何があった」
「義捐都市の兵士を三人、追跡されたからやっつけてきた」
「しっかり殺してきたか?」
「不可抗力でひとりだけだよ」
「またかよ。いつも言ってるだろ、そういうときはあと腐れないようキチンと始末をつけろ。そんでできれば解体しろって」ガマは不満げにリドゥを睨む。
「解体はともかく、人殺しは嫌いだよ」
「あいかわらず義捐都市市民みたいなことを言いやがる。まぁいい、それで?」
「念のため隠れ家を移したほうがいいかもって」
「仕方ねぇな」ガマは舌打ちする。彼は椅子から立ち上がると、作業机の上に広げていたものを片付けはじめた。
「砂四はお前が乗って行け。俺は町で何か調達する」
「じゃあ、キャンディは僕が?」リドゥの質問に、ガマの手がはたと止まる。
「顔を見られたのか?」
リドゥは首を振った。「これ着けてたから、たぶん平気」首の防砂眼鏡と防塵面を指した。
「じゃあお前が引き受けろ。お前が持ち込んだんだからな」
「……ガマだって了承したくせに」リドゥがつぶやく。
「なんか言ったか?」ガマが睨んだ。
「なんでもないよっ!」唇を尖らせ、そっぽを向いた。
「そんじゃあとっとと準備しな。変更先は……『穴ぐら』だ」
「わかった。それじゃ、またあとで」リドゥはガマに小さく手を振って廊下を歩きだし、自分の部屋へと向かう。入り口に下げられた目隠しのボロ布をくぐって照明をつけると、狭苦しい部屋が照らしだされた。ここがリドゥの部屋だった。
もとは物置かなにかだったらしいこの部屋は、床材と壁材がむき出しで、窓は奥の壁についた小さなものしかない。しかもそこにも廃材が打ちつけられているので、息のつまるような閉塞感に満ちている。家具はつぎはぎの毛布が乗った、発条の壊れた寝台と作業台のみで、その他の荷物はほとんどがすぐに持ち出せるよう、常にいくつかの袋にまとめられていた。リドゥは部屋の端に積まれたそれら荷物の中から大きめの鞄を引っ張り出す。床に座り込み、それを開いた。中におさまっていたのは二丁の自動拳銃と、整備用の工具だった。拳銃は二丁とも同じものだったが、ただ排莢のための穴だけが左右で違っている。これはリドゥがガマに改造してもらったものだった。これらの拳銃の正式な名前は『市民拳銃』といい、義捐都市で広く使われているものだった。無骨で古風な見た目をしていて、装弾数は弾倉内に七発と薬室内の一発で計八発とやや少ない。可動部の噛み合わせが非常に強く頑丈で、砂に覆われた義捐都市周辺で用いるのに適している。使用する弾丸はごく一般的な九粍弾で、調達には困らない。やや細めで握りやすい持ち手部分には、通常、使用者の義体部品から義捐都市の市民番号を読み取って安全装置を解除し、誰が何を撃ったのかを記録する機械が組み込まれているが、もちろんリドゥは市民番号なんか持っていないのでその機械を外し、代わりに市民番号を感知すると爆発する小型の爆弾を仕込んである。そのおかげで、さっきの砂丘での戦いを切り抜けることができたのだった。
リドゥは外套を脱ぎ、兵士たちとの戦いで一丁だけになってしまった拳銃を抜いた。これも市民拳銃だった。そのとき、リドゥは部屋の入り口に何者かの気配を感じて、反射的に片膝立ちの姿勢になる。廊下の暗闇に目をこらすと、目隠しのボロ布の隙間から白い服の裾が見えて、リドゥはホッとした。
「入っておいでよ」ふたたび床に座り込みながら、リドゥは優しく声をかけた。布の向こうから顔を出したのはキャンディだった。彼女は恐る恐る部屋に足を踏み入れる。
「眠れないんだね」市民拳銃に詰まった砂をこそぎ落としながらリドゥが言うと、キャンディは少し恥ずかしそうに頷く。彼女はリドゥの寝台に腰かけた。
「ちょうど良かった、呼びに行こうと思ってたんだよ」
キャンディは不思議そうに目をぱちぱちさせ、首をかしげる。
「隠れ家を変えることになった。あと三十分くらいで出発するから、キャンディも準備してね」
彼女は驚いて目を丸くし、そのあとすぐに悲しそうな顔をする。リドゥは苦笑した。
「君のせいじゃないよ」リドゥはふと視線を感じて顔を上げた。すると、キャンディが今にも泣き出しそうな表情で、リドゥの腕や肩の傷を見ていることに気がついた。
「かすり傷さ、よくあること!」リドゥはにっかり笑ったが、キャンディは静かに首をふって寝台から下り、彼の隣に寄り添うように座り込む。彼女はその傷にそっと手を添えた。温かかった。リドゥは少し恥ずかしい気持ちになって、作業に集中することにした。
「ゲ、けっこう奥まで砂が入りこんでる……転げ回ったからかな」市民拳銃の作動音を確かめていたリドゥは苦々しい表情をした。いくら市民拳銃が砂漠に適しているといっても、砂が中に入りこむのを完全に防げるわけではない。内部に入り込んだ砂は動作不良の原因になるのだ。ため息をつく。
「あとでゆっくり分解するしかないか……」リドゥはひとりごとを言った。そのとき、横からキャンディがそっと手をのばし、リドゥの持つ市民拳銃に触れた。見ると、キャンディが赤い瞳を輝かせ、興味しんしんといった様子で拳銃を見ている。
リドゥはもう一度弾倉が抜いてあることと、薬室内に弾丸が無いのと、爆弾が取り外されていることを確認すると、キャンディに市民拳銃を差し出した。
「あげるよ」
キャンディは両手でそれを受けとると、ずっしりとした重さにびっくりした顔をした。それから天井の灯りにかざしてしげしげと眺めたり、銃身を覗いたりする。
「拳銃を持つのははじめて?」リドゥが微笑んで訊くと、キャンディはうなずいた。
「今度撃ち方を教えてあげる。人を殺せる力だけど、自分を守る力だ」そう言うとキャンディは神妙な顔になる。自分の持っているものがいきなり恐ろしくなったのだろうか、とリドゥは思う。
キャンディはおもむろに市民拳銃の上部をずらして中途半端な位置で止めた。そしてそうしなければ抜くことのできない棒状の部品を横から引き抜く。可動部を前方にずらして抜き取った。発条を取り外し、それからなんの迷いもなく鞄内のしかるべき工具を手にとり、銃身止めを取り外すと、銃身を引き抜く。
「ちょ、ちょっと待って!」絶句してキャンディが拳銃を分解するのを眺めていたリドゥは、我にかえってようやく彼女の手を掴んだ。キャンディはハッとしたような表情をし、それからひどく不安そうにリドゥを見る。リドゥは首を振り、手を離した。
「怒ってるわけじゃない……君、軍人なの?」言いながら、リドゥは馬鹿な質問をしたと感じていた。キャンディが拳銃を受けとったときの様子や取り扱い方はあきらかに素人のそれだった。彼女自身も拳銃を持つのははじめてだとうなずいていた。だがそれだとあんなになめらかな手順で拳銃を分解しはじめたことの説明がつかない。拳銃の分解は簡単にできることではないのだ。リドゥ自身も説明書なしに分解と組み立てができるようになるまでかつてひと月ほど練習したのだ。だがきっとあのまま放っておいたら、彼女は拳銃を部品単位まで完全に分解していただろう。リドゥは彼女の相反するふたつの顔にそら恐ろしいものを感じた。
キャンディは首をふり、自分が分解した拳銃の部品を手にとって不思議そうに眺める。その表情は幼い子どものようだった。
「……キャンディ、そろそろ準備しよう」リドゥは鞄の中の二丁拳銃を腰におさめ、立ち上がった。キャンディもリドゥに続いて立ち上がる。彼女が困惑した顔で足元に散らばる拳銃の部品を見ているので、リドゥは笑顔を浮かべて言った。
「そのままでいいよ。やっぱり、キャンディに拳銃は似合わないから」
探照灯の強烈な光が、町はずれの砂丘を照らした。
ふたりの兵士たちは頭上から飛来した回転翼機の強い風と飛び散る砂に晒されながらも直立不動の姿勢を崩さない。彼らの隣にはもうひとりの兵士の死体が横たわっていた。
回転翼機はやがて兵士たちの前に着陸する。回転翼の回転が徐々に弱まっていき、静かになったころ、機体側面の扉が開いた。中から砂丘に降り立ったのは奇妙な雰囲気の女性だった。
まず目を引くのは義捐都市市民であるにも関わらず、だらしなく伸ばされた灰色の長髪だった。ひどい猫背なので、髪が前に垂れ下がってしまっていて表情は見えない。服装こそ義捐都市兵士の白い軍服だったが、やはり前を大きく開け、だらしなく着崩されている。首筋には義体部品の一部が露出していて、彼女が改脳人であることをうかがわせていた。
「あー……君たちが……そうなの?」女性はおよそ市民らしくない口調で兵士たちを睨めまわした。髪の向こうに透けて見える瞳は暗く濁っているが、緑色に発光している。眼球も義体部品だった。
「はい、アンドレア様」兵士のひとりが言った。
「報告は……聞いた」アンドレアはぼそぼそとした口調で喋る。
「それで……?」問いかけられて、兵士たちは困惑した。
「申し訳ありませんが、質問の意味がわかりかねます」
「なんで……君たちはすぐに敵を追わず、私の救援を待ったの?」
「はい、ご説明いたします」兵士の片方が発言する。
「我々は敵と交戦し、一名が死亡、残った我々も今から四十分ほど前まで気絶しておりました。そのために追跡が不可能でした」
「ふぅーん……負けたんだ」アンドレアが冷たく言った。兵士たちは「申し訳ありません」と頭を下げた。
「それはいいんだけど……」彼女は首を鳴らす。
「どうして、妹のお願いを聞いてくれなかったの?」
兵士たちの体がこわばった。アンドレアは頭をもたげ、背を伸ばし、蛇のように彼らを見下ろす。彼女は異様に背が高い。
「妹は今日中に奪われたものをとりかえして、義捐都市に届けるようにお願いしていたのに……ねぇ、どうして? なんで気絶なんかしちゃったの?」
「そ、それは――」
「妹のことが嫌いなんでしょ」
「そんなことはございません! 我々はリトル・シスターのために――」
「反義捐都市的だね」アンドレアがそう言った直後、彼女の腕が目にもとまらない速さで動き、ふたりならんだ兵士の頭が消失した。首の断面から血が噴水のように噴き出し、崩れ落ちる。アンドレアの片手には髪の毛をつかまれた兵士たちの頭部があった。アンドレアはそれらを無造作に地面に落とすと、また猫背になって、自分の肩を抱く。
「ああ……私のかわいい妹……悪いやつはおねぇちゃんがやっつけるよ……」血にまみれた彼女の表情は恍惚としていた。
「さぁ、取り戻しにいこうか」アンドレアはふたたび回転翼機に戻った。回転翼機の操縦席には無脳生物の操縦士が座っていたが、彼女はそれをむりやりどかす。床に倒れた無脳生物の頭がとれ、電子回路が煙をあげる。
「手がかりはある……夜中に引っ越しするやつだ……あんなことがあって、逃げ出さずにいられるものか……片端からやっつけてやる……待っててね、私のかわいい妹……」ぶつぶつとアンドレアはつぶやき続ける。
回転翼機はふたたび離陸した。巻き上げられた大量の砂が、三人の死体を覆い隠した。
一台の砂上車両が深夜の砂漠を走行している。無限軌道の履帯が後方に砂煙を巻き上げながら、砂の地面に轍を残していく。ガタガタと揺れる車内にはリドゥとキャンディが居た。
操縦輪を握っているのはリドゥ。彼はなるべく揺れの少ないよう、砂丘と砂丘のあいだをすり抜けるように砂上車両を走らせている。車内に暖房はついていたが、なぜか彼は白い頭巾付外套を頭からかぶっている。
となりの助手席に座って、外の風景を飽きもせず眺めているのはキャンディだ。彼女は砂に薄汚れた窓硝子越し、遠方に見える外側の町の灯りを複雑な表情で眺めている。退屈に思ったリドゥが彼女の視線を追った。
「綺麗だよね」
言われたキャンディはリドゥを見、それから微笑んでうなずいた。
「遠くから見るとキラキラと輝いて、まるで宝石だ」
キャンディはもう一度窓の外へと視線をやった。外側の町には大きさも色も様々な光が溢れ、星空が地面に落ちてきたかのようだ。それだけに、光の向こう側に周囲を睥睨するようにそびえ立つ義捐都市の平和の塔の影がいっそう恐ろしく見えた。
「ねぇ、キャンディは義捐都市市民なんだよね?」リドゥが訊くと、キャンディは少し首をかしげる。
「どういう気分? いつも『リトル・シスター』に……その、見られているって」
キャンディは答えに困ったようだった。「ごめん、答えにくいね」リドゥは謝る。キャンディは静かに首を振った。
「じゃあ……こう訊こう。義捐都市にいたときと、今、どっちが楽?」するとキャンディは片手を持ち上げ、静かにリドゥを指さした。彼女は微笑んでいた。
「……ありがとう」リドゥの頬が緩む。
「実を言うと、不安だったんだ」彼は窓の外を見やった。リドゥ側の窓から見える風景には外側の町の灯りは無い。ただただどこまでも広い夜の砂漠と、吸いこまれてしまいそうな宵闇が地平の果てまで広がっているだけだ。一見、このまま地平の先まで進めば義捐都市の支配から脱して自由な世界へ辿り着けそうな感覚をおぼえるが、それは錯覚にすぎない。地平の先ではまた別の義捐都市が待ち構えているのだ。
この世界に『リトル・シスター』の目の届かない場所は無い。全人類共通の『妹』は、いつも自分たちのそばにいる。だがそのおかげで、人々は――少なくとも義捐都市市民たちは――資源が不足し、人が人を喰らいあうこの世界でも、戦前の秩序を失わずに生きることができるのだ。
「もしかしたら義捐都市のほうが居心地が良いんじゃないかって」リドゥはそう言った。するとキャンディは憤慨したように頬を膨らませ、肩をいからせて腕を組んだ。その様子がおかしくってリドゥは笑い、笑うリドゥを見てキャンディも笑顔になった。
「キャンディって、明るいね」
キャンディは否定するように首を振ったが、そのときにはリドゥは彼女を見てはいなかった。
キャンディはそのとき、窓の外を眺めるリドゥの横顔に、今までにない複雑な感情が浮かんでいることに気がついた。彼はどこか遠いところを見ていて、空色の瞳には深い悲しみの色が浮かんでいる。はかりしれない彼の心の一端に触れた気がして、キャンディはふと、自分はリドゥのことを何も知らないのだと気がついた。
キャンディがポケットから手帳と万年筆を取り出した。リドゥは、彼女に「字が書けるの?」と声をかける。首を振った。キャンディは万年筆をさらさらと動かす。ガタガタと揺れる車内でもその動きは驚くほどに正確で、黒い線の集合体はやがてひとつの形になった。彼女はその頁をリドゥに見せつける。リドゥは見、感嘆の声をあげた。
「すごい! 上手いじゃん!」
キャンディが描いたのはリドゥの素描だった。まるで写真のようによく似ている。描かれたリドゥは砂上車両の操縦輪を握って運転している姿で、表情は笑顔だった。キャンディはその頁を破り、リドゥに差し出した。彼は笑ってうけとる。
「ありがとう、すごい嬉しいよ」リドゥはその素描を天井の日避けに挟んだ。
彼女は褒められたのが嬉しいのか得意げに胸をはると、また新たな頁に筆を走らせる。今度はガマの似顔絵だった。こちらも写真のようによく似ている。
「へぇ、本当にすごいね!」リドゥが心の底からそう褒めると、キャンディもまた心の底から嬉しそうにした。彼女が喜びに大きな目を細めるたび、リドゥの胸もふるえ、あたたかい気持ちになるのを感じた。
リドゥの耳が不吉な音を聞きつけたのはそのときだった。
無限軌道の履帯の騒がしい音と、振動を伴う重苦しい動力音の向こうから、異質な連続音が近づいてくる。それはあっという間に、周囲を蹂躙した。
リドゥは扉の窓を全開にし、外へ大きく身を乗り出した。音の聞こえるほうを見上げると、一機の回転翼機がリドゥたちの直上から、まるで獲物を睨みつける蛇のように見下ろしている。点灯された探照灯の閃光に目がくらみ、リドゥは身を引っ込めるとともに車両を急停車させた。助手席でキャンディがころんで、手帳と万年筆が車内を暴れた。
「ごめん、キャンディ。体を丸めて物音を立てないで!」リドゥがそう言ったのと、砂上車両の前方に何かが着地するのは同時だった。
砂上車両の照明に照らし出されたのは、異様な風体の人間だった。リドゥは硝子越しにそれを見た。異常なほどにひどく丸まった背中をした、長身の人物だった。手足は長く、まるで亡霊のように脱力している。腰まで届きそうな長髪は頭の前から垂らされて顔を覆い隠していたが、ゆっくりとこちらをふりむいたその人物の目が緑色に発光しているのが、照明の強い光の中でもはっきりと見えた。その人物の後方、いくつかの砂丘を越えた先に、制御を失ったらしい回転翼機が、自動操縦によって乱暴に着陸していた。
謎の人物はゆっくりと体を揺らめかせながら運転席に近づいてくる。
リドゥは充分に警戒しながら扉を開けた。回転翼機に乗ってきたということは義捐都市の兵隊にまず間違いないだろう。しかし彼らは問答無用で襲いかかってくるような集団ではない。
(上手くやればごまかせるはずだ)リドゥはつばを呑み込み、緊張した面持ちで車の外へ出た。
「どうも……こんばんはぁ……」そう挨拶してきた怪人物の声を聞いて、リドゥはやや驚いた。柔らかい印象の、女性の声だったのだ。
「なにかご用ですか?」リドゥは平静を装いながら彼女に話しかける。怪人はリドゥの前で立ち止まった。
「はじめましてぇ……私、アンドレアっていいます……義捐都市の兵隊です……よろしくぅ……」アンドレアの喋る調子は遅く、口調も義捐都市市民らしくない。きっとこれも相手に気を抜かせる作戦のうちなのだろうとリドゥは思う。彼女の表情はうかがいしれず、不気味だった。
「あのですねぇ、今日の昼……砂漠でですねぇ、迷子になっちゃった子がいましてぇ、探してるんですよぉ……」
(やっぱりか)リドゥは思った。
「砂漠ねぇ、なんか見た目の特徴とかあります?」
「えぇと、白い髪に、白い服を着た純脳人の女の子です」
「悪いけど、見覚えないね」
「そうですかぁ……? あなたなら知ってると思ったんですけどねぇ」髪の向こうでアンドレアがにやりと笑うのが判った。だがリドゥは眉をひそめるだけにとどめた。彼にはアンドレアのその言葉がはったりだとわかっていた。今の時点ではリドゥとキャンディを結ぶ証拠はどこにもない。
「運転席……見せていただいてもいいですか?」実質的な命令だった。リドゥは扉の前に立ち、威圧するように腕を組む。
「嫌だよ。さっさと荷物を運ばないと、どやされちゃうんだから」
「時間は取らせませんよぉ……」アンドレアはそう言うと、いきなりリドゥの肩をつかみ、信じられないほど強い力で押しのけた。予想外の力にリドゥは砂の地面に転げた。アンドレアはそんな彼に目もくれず、運転席の扉に手をかける。
「ちょ、ちょっと待っ――!」リドゥの叫びはとどかなかった。
アンドレアは扉を開け放ち、運転席の中を覗きこんだ。そして言う。
「……なんだ、何もないじゃないか……」彼女はがっかりしたような声をあげた。
運転席と助手席には誰も座っていなかった。空っぽの座席だけが室内灯の橙色の光にもの寂しく照らされていた。
リドゥは立ち上がり、アンドレアに詰め寄る。
「あんまりジロジロ見ないでよ! 恥ずかしいなぁ、もう!」
「……ああ……すいません……」アンドレアは扉を閉めた。
「僕みたいな運び屋には、運転席は自分の部屋みたいなものだって、わかるでしょ!?」憤慨してみせるリドゥに、アンドレアは申し訳なさげに縮こまった。
「すいません……こっちも仕事なんですよ……」
「っていうか、普通見るなら貨物からでしょ! まったく……貨物も見るんでしょ?」
「はい……まぁ」
「ほら、開けてあげるから」
「どうも……」
リドゥは身ぶりでアンドレアについてくるよう促した。彼女が自分のあとを歩くのを見て、手の甲で冷や汗をぬぐう。そのとき、助手席の上でリドゥの光学擬態外套を頭からかぶって姿を消していたキャンディは、アンドレアが去っていく足音にほっと息をついた。
リドゥとアンドレアは砂上車両の真後ろにたどり着く。
「じゃあ……おねがいします」アンドレアに言われ、リドゥは貨物の扉の施錠を外しにかかる。
そのときほんの一瞬だが、リドゥは完全にアンドレアに背を向けた――直後、頭上をかすめる豪腕!
アンドレアが不意をつき、片手でリドゥの頭部をもぎとりにきたのだった。その尋常ではない速度と腕力は人間の反応速度をゆうに超えていたが、リドゥが最初の一撃を避けることができたのは、背を向けた瞬間に感じとった、背筋も凍るような恐ろしい殺気に反射的に身を屈めたゆえの、ある種幸運だった。
リドゥは体をねじりながら左右の市民拳銃を抜き放つ。地面を蹴って砂地を転がり、距離をとった。
アンドレアは首をかしげていた。自分の不意うちが避けられたのが不思議らしく、その場に棒立ちのまま手のひらを眺め、指を閉じたり開いたりしている。
リドゥは銃口を彼女に向けて叫んだ。
「今すぐ消えないと撃つぞ!」その声が聞こえたのか、隠れているキャンディが恐ろしさに身をすくめたらしく、砂上車両の運転席が少しだけ揺れた。アンドレアは気がついた。
「あー……やっぱりかぁ……」彼女が笑ったのが、なぜかリドゥにはわかった。
「おかしいと思ったんですよねぇ……あなたひとりしか乗っていないはずなのに、あなたが運転しているところの素描が床に落ちてるんだもの……」アンドレアの言葉にリドゥは歯噛みした。日避けに挟んでいたキャンディの素描が、急停車したときの衝撃で落ちていたのだ。
「それだけのことで僕を殺そうとしたのか!」リドゥは叫んだ。叫びながら直感していた。
(こいつはイカれてる――)もう甘いことは言ってられる状況ではなかった。リドゥはアンドレアに向かって左右で二回発砲した。だが直後、さらにゾッとすることが起こった。
発砲とほぼ同時に、アンドレアはその場で腕を振った。彼女が痛がる様子も何も見せないので、リドゥは弾丸を外したのかと思ったが、違った。アンドレアが握りこぶしをゆっくりと開くと、そこからふたつの小さな金属がぽろぽろと落ちたのだった。
「お前、まさか!」リドゥはおののいた。アンドレアは頷く。
「私は……そう。その通り」強い夜風がサッと吹き、アンドレアの髪を浮かせる。素顔が見えた。彼女の口端はつり上がっていた。
「私は軍用改脳人。生身の君に勝ち目は無い……大丈夫だよ。抵抗しなければ、即死させてあげるから……ひひひ、ひひっ!」引きつったように笑いだす。リドゥの頬を冷や汗がつたった。
「まさか、まだ残っているなんて思わなかったよ!」大声が夜の砂漠に響く。
「軍用改脳人なんて初めて見た! 戦争で全員死んだと思っていた!」
アンドレアはゆらゆらと力なく立ったまま。銃口を向けているリドゥをまるで警戒していない。その態度が、自分と相手との実力差を正確に把握しているゆえのものだということが、リドゥには悔しかった。
「そうだね……私以外はみんな死んだ……頭がおかしくなったんだ」どこか寂しげに彼女は言う。
リドゥはいつだったか、ガマに聞いたことを思い出していた。先の大戦で盛んに用いられた身体機能拡張型の軍用改脳人は、本人の体感時間を拡大できることが特徴らしかった。しかし生身の脳の処理能力を越えた外部刺激に対応するために、脳が義体部品だらけの薬品漬けにされた結果、精神に異常をきたす者が続出したのだ。そのため戦争が無くなった今では、義捐都市は軍用改脳人の生産をしていないはずだった。
「私が……多分最後の軍用改脳人……頭もシャッキリとした、最後の……」
リドゥは鼻で笑った。
「何を根拠にそう思うんだ?」挑発的にそう言うと、アンドレアは首をかしげ、思案するようなしぐさをする。
リドゥは内心、かなり焦っていた。
軍用改脳人と一対一で戦って生還できたという話は聞いたことがない。そのためにリドゥは会話を引き伸ばしながら、なんとか生きのびる方法はないかと頭を回転させていた。
アンドレアと名乗ったあの女改脳人は少なくとも約二十米離れた場所から発射された複数の銃弾をつかめる程度の運動能力と時間感覚の拡張を行っているらしい。
市民拳銃の弾丸の速度は約秒速三百八十米。二十米を約二十分の一秒で到達する計算だ。通常、純脳人が何かを知覚して行動に起こすまでは約二分の一秒ほどかかるので、アンドレアの知覚速度は最低でも純脳人の十倍まで拡大されているはずだ。実際に腕を振り上げて弾丸を掴むという行為を行うならば、少なくとも百倍の速度はほしいところだろう。しかも恐るべきは、実際にその脳内速度に対応した速さを持ち、また飛来する銃弾の運動力を完全に受け止めた彼女の肉体の頑強さだった。このことは、拳銃の弾がかすった程度では何の意味もないということを暗に示していた。そんな怪物とも言うべき改造純脳人を打ち倒すには――?
(――やばい、何も思いつかない)リドゥは冷や汗をダラダラと流していた。
当のアンドレアは未だに自分が狂っていない根拠を棒立ちのままのんびりと考えている。唯一の救いは、アンドレアがリドゥの命に対してなんの興味も抱いていないらしいことだった。彼女はリドゥのことなんて虫けらほどにも気にかけていない。その証拠に、彼女がリドゥを殺そうと思えばすぐできるのに、アンドレアはそうしない。彼女が興味あるのはキャンディだけなのだ。(つけ入る隙があるなら、そこだ)リドゥはそう思った。
「お前が誰を探しているかはしらないけど、そんな人はいない! さっさと行ってくれ!」リドゥはそう叫んだ。
「えぇー……でもぉ……今、あなた撃ってきたじゃないですかぁ」
「先に殺そうとしたのはそっちでしょ!」
「それもそうですねぇ……すいません」アンドレアは体を揺らめかせた。
「じゃあ、とりあえず……あなたと一緒にいるのが誰なのか、それを確かめさせてくださぁい……」すると彼女はフラフラとした足どりで、ふたたび運転席へと向かって歩きだした。
(やってしまった……!)額に、さらに冷や汗が浮かんだ。
(このままアンドレアがキャンディを見つけてしまったらおしまいだ)そうなったらアンドレアは躊躇なくリドゥを殺し、キャンディを義捐都市へつれていくだろう。
(アンドレアを止めるには、ここが最後の機会だ――!)
アンドレアはのろのろと砂上車両の側面をまわる。リドゥも銃で彼女の背中を狙いながら慎重についていく。
(……待てよ)アンドレアの背中を見ながら、リドゥはふと考えた。もし予想通りアンドレアが自身の時間感覚を百倍程度まで拡大しているのならば、なぜ彼女は普通に会話できるのか? ゆっくりとした歩調なのか?
(もしかしたら、常時時間感覚を拡大しているわけではない?)しかしそう考えると、今度はさっきリドゥがアンドレアを撃ったときに、彼女が弾丸を受けとめたことへの説明がつかない。弾丸がアンドレアに到達する速度は通常の人間の知覚速度をはるかに越えているからだ。時間感覚の拡大は、リドゥが弾丸を発射する前から行なっていないと間に合わない。
考えれば考えるほどわけがわからなくなっていく。そもそもこれはリドゥの勝手な予想であり、正しい根拠はどこにもないのだ。ガマから聞いた話が間違っている可能性もある。そして今は、それらの正誤をたしかめている時間はない。
アンドレアがふたたび運転席の扉に手をかける。リドゥは意を決し、拳銃の引き金に指をかける――!
いきなりの爆発音が轟いたのはそのときだった。リドゥもアンドレアも、突然の轟音に驚いて手を止め、聞こえた方を見る。
「ひゃああああああっ!?」絶叫したのはアンドレアだった。彼女は髪を振り乱して、黒煙のたつ方向へ駆け出す。彼女の向かう方向に、リドゥは今しがたの音がアンドレアの乗ってきた回転翼機の爆発によるものだと知った。
「妹から! 妹からもらった回転翼機が!」アンドレアは半狂乱になって、砂丘の向こうに消えていく。リドゥには何がなんだかよくわからなかったが、とにかく今が最大の機会だということはわかった。
「キャンディ!」運転席の扉を開ける。中には誰もいなかった。一瞬、リドゥは彼女がまだ光学擬態を使って隠れているのかと思ったが、反対側の扉が開け放しになっているのを見て、彼女がもう助手席にいないことに気づいた。リドゥとアンドレアが砂上車両の後方でやりとりしているうちに、彼女はこっそり逃げ出していたのだ。
リドゥは急いで砂上車両の反対側にまわり、キャンディの足あとを探す。それらはすぐに見つかったが、リドゥは足あとが向かっている方向を見て寒気がした。足あとは爆発の起こった方角に向かっていたのだ。
「ちょっと、まさか……!」
リドゥがなんとかその場に崩れ落ちずに済んだのは、砂丘の向こう側から、ひと組の足あとが主もなしに近づいてきているのを見たからだった。不気味な足あとの主はリドゥのやや前方でその正体を現した。
「キャンディ!」
キャンディは外套の光学擬態を解除し、リドゥの胸に飛び込んだ。キャンディはリドゥを強く抱きしめ、またリドゥも片手で彼女をしっかり抱き寄せる。
「あの爆発は君が?」リドゥが訊くとキャンディは彼の体から離れ、興奮した面持ちでなにやら小さなものを見せた。それは砂上車両の引き出しに入っていた、ガマの燐寸箱だった。
「……まさか、燃料槽に放り込んできたの!?」
キャンディは誇らしげな笑顔でうなずいた。
あまりにも大胆すぎる彼女の行動にリドゥは変な笑い声が出そうになったが、今はそんなことをしている場合ではなかった。リドゥは急いでキャンディを砂上車両に乗るように促す。それから自分も急いで運転席に飛び乗り、すかさず発車した。
無限軌道が砂をかみしめ、砂煙が舞いあがる。砂上車両は全速でその場から逃げ出した。助手席のキャンディが勢いに転げた。
あとに残されたのは黒煙をあげて燃え続ける回転翼機と、その前で膝をつき、号泣し続けるアンドレアだけだった。
東の地平から太陽が顔を出し、横殴りの光線で義捐都市と外側の町を叩き起こす。夜のあいだに冷え切っていた大気が、徐々に本来の熱を取り戻していく。
義捐都市市民の起床時間は午前五時三十分と定められている。正当な理由無しにこれ以上長く眠ると反義捐都市的とみなされて処罰されるが、老人は産まれてから六十六年のあいだ、一度だって処罰をされたことがなかった。しかし毎朝午前五時四十五分から義捐都市中の音響装置から流れ出る音楽とともに始まる『市民健康体操』には、加齢とともに少しずつ苦痛を感じはじめていた。それでも老人は、腰の激しい痛みを無視して前屈を行えるほどに義捐都市的な精神の持ち主だった。
午前六時ちょうどに市民健康体操は終了し、義捐都市市民はそれぞれ出勤の準備をはじめる。老人も寝間着から仕事着に着替え、朝食の準備をすることにした。彼は冷蔵庫から天然牛肉の缶詰をひとつ取り出して焼く。立方体の牛肉を皿に移し、食卓の上でそれらをくちゃくちゃと食べる。床に零れ落ちた肉片は踏みつぶす。
朝食を終えたころに通信機器を介して『義捐都市活動報告』が配信される。老人は食後の珈琲を味わいながら、網膜に浮かぶ仮想立体映像の新聞記事に目を通す。まず彼の目を引いたのは『勇敢なる兵士三名、殺害さる』という見出しだった。
『本日午前二時ころ、義捐都市の外側、座標甲・丁・四十二・二五○一において、我らが勇敢なる義捐都市の兵士三名が野蛮なる非市民に惨殺された。兵士たちは全員首を切断され、体内の義体部品をすべてえぐり出されたのち、合成肥料とするために分解されていた。
我らが愛しきリトル・シスターはこの凄惨な出来事に大いに悲しんだが、彼女は我ら義捐都市市民に、非市民たちを憎まないよう求めている。自業自得とはいえ、彼らも貧困に苦しんでいるのだ。リトル・シスターのはかりしれない慈愛の心に、善良な義捐都市市民ならば感涙を禁じ得ないだろう。兵士たちはそれぞれ名誉市民として登録される。
なお、犯人の非市民たちの公開処刑は本日午後一時より平和の塔前広場にて行われる。時間のある市民は必ず参加すること』
(今回はこのようになったか)老人は思った。
老人はこの兵士たちの死んだ理由を知っている。アンドレアのせいだ。
彼女を被験体捜索の任に割り当てたのはこの老人の仕業だった。『妹』こと『リトル・シスター』に異常な執着を見せるあの精神不安定な改脳人こそこのような任務に最適だと考えたのだが、まさか彼女が勝手に兵士まで殺してしまうとは思い至らなかった。しかも彼女はそれを義捐都市的な行動だと確信しているのだから、処罰もできない。結局、死んだ兵士のために外側の人間が何人か公開処刑されるはめになってしまった。そしてその公開処刑も、非市民への敵対心を市民たちへ植えつけるという目的において義捐都市的な行動であることに間違いはない。
義捐都市の求めるところに従い、リトル・シスターの秩序ために行うあらゆる行為こそが『義捐都市的』と形容され、奨励されなければならないのだ。
「どうしたの、ウィンストン? 難しい顔をして……」不意にすぐそばで声がして、ウィンストンは新聞記事を消した。見ると、自分のとなりにひとりの少女が立っている。細やかな刺繍のある清潔な衣服を着た子供だ。ふわふわとした金髪に、大きな翡翠色の瞳をしている。鼻筋はまっすぐ。頬にはそばかすがあったが、それがかえって素朴な愛らしさを感じさせた。
「なんでもないよ、私の妹」ウィンストンは微笑んで彼女に手をのばした。愛情をこめて少女の頭をやさしく撫でると、彼女はくすぐったそうに目を細める。柔らかい感触と高めの体温が、たしかに手のひらから伝わってきた。だが老人は知っている、目の前の少女が実在しないことを。すべては義捐都市市民の義脳が見せる幻影であり、また真実でもあるのだ。
彼女の外見が存在するという情報は後頭葉の視覚野に、彼女に触れた感触と彼女の心地よい声は頭頂葉に、陶酔感のある甘い匂いは大脳新皮質の嗅覚野に与えられる義体部品からの刺激によって構成される。そのため実在せずとも、義捐都市市民は彼女――『リトル・シスター』の存在を常に身近に感じられるのだ。
義捐都市市民は皆、幼少からこの可愛らしい妹とともに成長し、人生を送る。市民は皆彼女を愛し、また『リトル・シスター』もその人が求める種類の愛を最高の精度をもって応える。そうして、市民は自発的に義捐都市を存続させようとする。
ウィンストンは体をリトル・シスターに向け、彼女を膝に抱き上げる。彼の目尻は垂れ下がり、頬はだらしなく緩んでいた。
「少しお仕事で難しいことがあってね。それを考えていただけさ」
リトル・シスターはウィンストンを見上げた。翡翠色の大きな瞳はキラキラと輝いて、まっすぐに彼の目を見つめてくる。
「もうひとりの私のことね?」
「ああ、そうだよ」
「お願いした、アンドレアさんはどうしたの?」
「彼女の妹からもらった回転翼機を壊されて、砂漠の中で一晩中泣いていたらしい。今はもう保護されて戻っているようだが」
「そう……かわいそう。アンドレアさんは怒られちゃうの?」リトル・シスターの顔が曇った。ウィンストンは彼女の背中をやさしく叩く。
「安心しなさい。彼女は貴重な人材だ、そんなことはしない」
「本当!? よかった!」彼女はぱぁと明るい表情になった。その様子にウィンストンはこの上ない喜びを感じる。
「もう一度機会を与えるさ……さて、私もそろそろ行かねばならない。おりてくれるかな?」
「ウィンストンが下ろしてよ!」
「はは、わかったよ」ウィンストンはリトル・シスターを両手で抱えて立ち上がり、そのままの勢いで彼女を高く持ち上げた。リトル・シスターは楽しそうに笑う。ひとしきり遊んだのち、ウィンストンは彼女をそっと床に下ろした。
「あとで無脳生物の女中に食事の片付けをするよう、言っておいてくれるかな」
ウィンストンは上着を着て、鞄と帽子を手にとり、玄関に向かう。
「うん、わかった! ウィンストンも気をつけて!」元気に頷くリトル・シスター。
「ああ。じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい! お仕事がんばってね!」ウィンストンは部屋を出ていった。扉を閉め、電子施錠がかかると同時に、部屋の照明が自動で切れる。
薄暗い部屋に、生き物の気配はどこにもなかった。
「見えてきたよ」やっとリドゥがそう言ったので、扉によりかかってぼんやりとしていたキャンディは、待ちきれずに頭を持ち上げた。
すでに周囲はすっかり明るく、砂漠は本来の灼熱の大地に戻っている。冷房のきいた車内では、六時間以上もの旅にすっかり疲れ切ったリドゥとキャンディが、また義捐都市の追手がくるのではないかという緊張と空腹に耐えていた。そのため遠方のひときわ大きな砂丘の上にずらりと並んだ風力発電の風車と太陽光発電装置が見えたとき、ふたりはすっかり安心して、ぐぅ~、とお腹を一緒に鳴らしてしまったのだった。
「着いたら、ご飯を食べにいこう。あそこには屋台がたくさん出てる」笑いながらリドゥが言う。そこで彼はいまだ顔が赤いままのキャンディの表情に、まだ目的地がどういう場所か説明していなかったことを思い出した。
「『穴ぐら』はね、町なんだよ。義捐都市にも外側にも居場所のない、ならず者たちの町なんだ」