高嶺の花
崎山 綾の腹が鳴った。
自宅アパートの居間に据えられたソファーに座っている。
今日からゴールデンウィークだが、何処かへ出かける予定もない。
「綾さん、お腹減った? 何か昼ご飯、食べに行く?」
同じソファーに座る高谷 真佑が声を掛けた。二人は三月から付き合い始めている。会社の同僚。
ソファーに座る二人の間には人ひとり分の隙間がある。真佑は、いつも綾と隙間を空けて座る。
「うるさいわね。私がダイエット中なの知ってるでしょ?」
「知ってるけど……。綾さん、全然太ってないと思うよ」
おずおずと真佑は応える。
「その油断が贅肉になるのよ」
ため息をついて、綾は真佑の方を向いた。
――私、なんでこんな地味なヤツと付き合ってんだろ?
綾は勤め先では「きれいどころ」として重宝されている。会社にとって重要なクライアントの訪問がある度に駆り出された。もちろん、製品に関する知識や海外のクライアントへも対応出来る英語力も評価されているが、やはり「外見」が最たる理由だった。
二十七才になり、綾は自分の体型維持などに今まで以上に気を付けるようになっていた。自分の「武器」を簡単に失う訳にはいかない。
綾は目の前に座っている真佑の外見を「普通」だと思う。
齢は三才下の二十四才。
収入は私の方がいいだろう。
一緒にいて楽。全然、気を使わないでいい。お腹が鳴った音を聞かれても恥ずかしくないほど。
――私、なんでこんな地味なヤツと付き合ってんだろ?
また同じ事を考えた。
前回の恋が終わったのは二月。街中を二人で並んで歩く事は一度もなかったが、外見も収入も真佑より遥か上の男だった。もちろん、それだけの理由でその男と付き合った訳ではない。
その男は優しかった。ズルいと感じるほど優しかった。
そんな恋も終わった。
三月に真佑から告白されたときは驚いた。
仕事で必要な会話しかしなかった真佑。
その少ない会話でも、分かりやすく顔を赤くしていた真佑。
「ただのおとなしい男」としか見ていなかった真佑が告白してきた。
その意外な度胸に驚いた。
「いいわ」と応えた自分にも驚いた。
「でも……、やっぱり綾さんは痩せていると思うよ」
真佑が小さな声で言ってきた。
この真佑の妙に頑固なところを、綾は「いいな」と思っている。なんとなく気恥ずかしくて真佑には伝えていない。
つい、意地悪を口にしてしまう。
「それは真佑の基準でしょ? 私がぶくぶく太ってさ、いつか真佑と別れた後、私はどうなるの?」
「そんな……、別れる前提で付き合わないでよ」
真佑の声は更に小さくなっていた。
「じゃあ、私とずうっと一緒にいるつもり? 私も年取っていくんだよ?」
「……」
「ほら、答えられない」
真佑は無言で下を向く。
真佑の「居心地の良さ」に甘えて言いたい放題の自分に、綾は嫌悪感を抱く。
本当は「ああ、もちろんずっと一緒にいるさ」などと簡単に即答しないところも「いいな」と思っている。
――――歯がゆい。すごく歯がゆい。
ひねくれている私が。
壊れ物を扱うように私と接する真佑が。
私の方から誘わないと私を抱けない真佑が。
しばらく、二人とも無言だった。壁の時計の秒針がやけに響く。
「……もし」
先に口を開いたのは真佑だった。
「もし、綾さんがたくさん食べるようになって……。すごく太って……」
綾は真佑の顔を覗きこんだ。真佑も顔を上げ、真っ直ぐ綾の目を見た。
「もし……、事故かなんかで無人島に二人きりになってしまったら……」
「なってしまったら?」
話はおかしな方向へ進んでいるが、綾は真佑を促した。真佑が真剣に話しているのは伝わってくるから。
「僕を殺して食べてよ」
綾は吹き出しそうになった。「笑い」ではなく「驚き」が理由だった。
「なっ! ……何よ、その訳が分からない話は!?」
「プロポーズ……かな?」
今度は我慢出来ず、綾は吹き出した。
「どこがっ!?」
綾は大きくため息をついた。再び、無言の時間が流れる。
もう一度ため息をつき、綾は立ち上がって冷蔵庫へ向かった。冷凍庫からリボンが付けられた高級板チョコを取り出す。
ソファーに戻り、真佑のすぐ隣に座る。
真佑のように「人ひとり分の隙間」など作らなかった。
リボンも包装紙も乱暴に外し、綾はバキバキとチョコレートをかじり始めた。
「綾さん……?」
「わ……、私と山村課長との噂、聞いてるよね?」
「……うん」
外見も収入もよく、「ズルいほど」優しい山村。たった一つの問題は妻帯者だったことだけ。
四月に本社へ栄転することが決まるとあっさり別れを告げられた。
綾もあっさり受け入れた。
忘れたい二月の記憶。
しばらく無言だった真佑が口を開く。
「ごめん。噂を聞いて『今ならチャンスあるかも』と思ったんだ。ズルいよね」
「いいわよ、別に。そんなことまで正直に話すとこも好きだから」
綾は隠さずに言ってしまった。
「これはバレンタインに買ったのよ。渡せなかったけど。私が全部食べる。こんな物、全部私が食べなきゃいけないの」
「綾さん……」
バキバキバキバキ……。
飲み物も飲まず、無理矢理チョコレートを綾は食べ切った。
「ふうっ……。ねえ、駅前にとんかつ屋さんがオープンしたよね? 今から行くわよ」
「ちょっ……。綾さん、どうしたの?」
綾はバッグを取りに行くため、ソファーから立ち上がった。真佑を見下ろす。
「もう、好き勝手に食べるわよ。太ったっていいわ。だから……」
「だから?」
今度は真佑が綾を促した。綾が真剣に話しているのが伝わってくるから。
「……だから無人島で二人きりになったら、真佑が私を食べなさいよ。そっちがいいわ」
真佑も立ち上がった。
身体は小さく震えていたが、強く綾を抱きしめた。
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