桜の妖精
それはちょうど出勤途中の出来事だった。いつものように桜並木の通りを歩いていたら、この世のものとは思えないほど綺麗な女性とすれ違う。はっとなって僕は思わず振り向いたのだが、向こうは我関せずとばかりに歩き去ってしまった。
まあそれも当然のことではあるかもしれない。なんたって僕は昔からぱっとしない凡庸な男で、彼女の気を惹けるような何かを持ち合わせてはいないのだから。
だけどどこかで残念に思っている自分もいて。彼女が僕に気づいてくれたら良かったのになんて願望をつい抱いてしまったのだ。
僕が高校生の頃、とある噂が流れていた。それは通称『桜の妖精』と呼ばれるお話だった。
何でも学校の桜の木、その木の下にたまに『妖精』が現れるという話で。その『妖精』に気に入られると何でも願いを一つ叶えてくれるのだそう。
それを当時の悪友から聞いた時はそんな馬鹿なと思った。かく言う友人もやはり半笑いだったのできっと信じてはいなかったのだろう。
そう、あの出来事が起こるまでは……。
あれは僕が『桜の妖精』の噂を聞いた数日後のことだった。その日はちょうど雨が降っていて、僕は傘を差しながらごみ袋を捨てにいくところであったのだ。
ごみ捨て場に行くちょうど中間地点に件の桜の木は存在している。その根元に佇む人影がふと目に入った。
「……」
その女性はこの雨の中、傘も差さずにじっと桜の木を見つめていて。この雨の中でも美しさは全く損なわれず、いやむしろ今にも消えてしまいそうなほどの儚い印象を僕に抱かせた。そう、それこそまさに『妖精』のような……。
僕は思わず見惚れてしまって、手に持ったごみ袋のことなど忘れてしまい、気付いたら片腕から力が抜けていた。
どさっとものの落ちる音が響く。その音に反応して『妖精』が振り向いた。
「あ……」
やってしまった。見つめていたことがばれた。見知らぬ男性にそんなことをされて、きっと彼女もいい心地はしないに違いない。僕は内心慌てふためく。
「……」
しかし彼女は一瞬その瞳に僕を映すと、すぐに興味なさそうに前に向き直ってしまった。今彼女の目の前にあるのはやはり堂々とそびえ立つ桜の木だけ。
結局あの後、僕は話しかける勇気が出ずにその場を立ち去った。彼女とはそれっきり、出会うこともなく。
僕は自身の凡庸さを呪った。だけどこればかりは生まれ持った性質なのだから仕方がない。
せめて彼女のような美しい外見をしていたのなら、彼女も僕のことを認知してくれたかもしれないな、などと頭の片隅で思ったりもした。
今日すれ違った時に、彼女からも何かしら反応が得られたのかもしれないなあなんて。
いや、そんなことより。
「……元気そうで良かった」
呟いた。その声は朝の喧騒に紛れて消える。あの時ちらりと見せた彼女の泣き顔がずっと気がかりだったのだ。だから今日彼女が堂々としている様を見て勝手に安心した。
そこで僕はふと気が付く。あの時も桜の木があって、ここにも桜並木があって。これはもしかしなくても……。
「僕は『妖精』に気に入られてはいたのかもしれないな」
笑みが溢れる。うん、今日はいい日になりそうだ。