第三十九話 愛は人を救うことだってある1
朝の数分は貴重だ。
冬の朝は特にギリギリまで寝ていたい。
一人暮らしなら、数分毎のアラーム設定にスヌーズ機能を限界まで使ってやっと起きるところだが、姉がいるのでそうはいかない。
本間 続はアラームを止めて、ベッドから起き上がった。
パンにマヨネーズでふちを作り、そこに生卵を落とす。オーブントースターでパンを焼いている間に、コーヒーメーカーに粉を入れてスイッチを押す。
朝食が和食だろうがなんだろうが、コーヒーを飲まないと朝が始まらない。
姉がまだぼんやりした顔をして起きてきた。
「おはよう、姉さん」
いつもはストレートな髪が一部分だけ勢いよく跳ねている。思わず、笑みがこぼれた。
「おはよう。早いのね」
「昨日は出張だったからね。仕事がきっと溜まっている」
部下たちは遠慮なくファイルを机の上に積み上げているだろう。容易に想像できる。早めに処理しないと。
「あと、今日は大学の友人らと食事会なんだ。ごめん、遅くなるから夕飯は自分でお願いな」
チンという音がトースターから聞こえる。香ばしく焼けた目玉焼きパンを皿に盛りつけ、胡椒をかけてテーブルに出す。
コーヒーも二つのカップに注いだ。
「ありがとう」
姉がテーブルについた。
「どういたしまして」
恭しく返答する。
「その食事会って女性の人いるの?」
「そりゃあ、いる」
というより、それがメインというか。異種職業交流会というやつだ。ストレートに言えば合コン。
この年にもなると、ストレートに言うのが恥ずかしくもある。
「お持ち帰りされないようにね」
「へ?」
される?
いや、たぶん聞き違いだろう。するの方だろう。
「姉さんがいるのに、それはない」
本間は苦笑して、パンに噛りついた。
「門限は夜の十時ですっていうのよ」
「姉さん、女子大生でも言わないよ。早いよ」
「飲み物を残したまま、お手洗いに行ったりしちゃダメよ。睡眠薬とか入れられるかもしれないから」
「姉さん?」
話が何かちょっとおかしい。
「終電は絶対に逃さないように。ホテルに連れ込まれることになってはいけないからね」
「えっと」
なにかおかしい。
何かが変だと思う。
「受動態?」
「受動態」
姉がしかと頷く。
「能動態じゃなくて受動態?」
「受動態」
「……へ?」
「続は連れ去られそうだから」
「……はあ?」
三十の男が女子高生に言われる内容ではない。
姉は思い違いをしている。
いや、そうか。
本間はパンを食べ進めつつ思考を巡らす。
姉にとって一瞬にして十九年経ったようなものだ。きっと色々なものが受け入れ難いものだろう。
自分より背が大分低く小学生だった弟が、大きく三十のおっさんになっているのだから。
だから、弟が小学生だった頃と同じように庇護対象に思っている……?
「大丈夫だよ、姉さん。これでも大人の男だよ。安心して」
本間は笑ってみせるが、姉は浮かない顔だ。
「俺のことより、姉さんのことが心配だな。褒められても知らない人についていったり、人通りの少ないところを歩いては駄目だよ」
姉は、弟の贔屓目を除いても麗しい見た目をしていると思う。
実際、一緒に歩いていても、姉に対する視線と自分に向けられる敵意と邪魔に思われているのを感じる。
学校でも告白されているということは、作家の進捗を妨げるみかんから聞いている。
あの二人は同じ本読みとして仲が良いらしい。
姉は好きな人がいるからと断っているとのことだ。早く好きな人とくっついて欲しい。
無礼なことをする男子に対しては、みかんが容赦なくキックを叩き込んでいるらしい。
いいぞ、みかん、それだけは褒めてつかわす。
作家を一人、未完崇拝者にしたのは許さんが。
「いいえ、私は続が心配よ。続はかわいいから」
「……はい?」
おじさんやおじいさんに対してカワイイという奴か。女子高生の感覚はよくわからない。
それか、やはり小学生に対しての感覚か。
小学生の時に姉にかわいいと撫でられたことを思い出す。男でも小学生ならわからんでもない。
「大丈夫だって、姉さん。連れ去られるなんて、そんなことは絶対に起きないから」
今にして思えば、フラグをというものを立ててしまったのだ。
「持っているものを下に置いて、車に乗れ」
冷たい声が響く。
本間は鞄と刀を道に置いた。
銃を突きつけられては、刀に出番はない。しかも、物語世界ではなく現実世界なのだ。
声からゾンビの時のチンピラと気づいて、本間は気が遠くなった。




