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月曜日に、また。

作者: 結原華凜


肉欲というのは不思議なものだ。笹原は遠き日に思いを馳せて、煙草の煙を都会の夜にくゆらせていた。

幼き日には、その存在を知らずに生きていた。思春期にそれを知ってからは、四六時中、翻弄されていたと言っていい。ふとしたことをきっかけに、女のむっちりとした体やその柔らかさの想像でいっぱいになり、股間は自然と逞しくなってしまう。ほとほと困ったものだった。高校生の時、初めての彼女とそういうことになって以降、さらにその程度は酷くなった。いつも彼女の体を考えていて、汗水流して稼いだアルバイト代をホテル代へと流れるように費やし、またそこで汗と欲望を注いだ。あの狂気じみた欲望は、確かにあったと思うのに、いま、幻のようにも思える。

不惑を過ぎて、数年。今、女や肉体への情熱が急激に失われていくのを感じていた。それは、思春期に感じた戸惑いよりももっと大きく、漠然とした体の違和は、ほんのりとした老いの気配を纏って、体を蝕みつつあった。

(十時か……)

ベランダから見える東京スカイツリーは、毎正時、輝きを変える。一瞬の静寂のあと、華やかに煌めいたのだった。

(悪くない。うん。悪くない。)

平日の夜、簡単な夕飯とビールのあと、このベランダでの一服が、笹原の至福のひとときである。小さくても立派な自分の城だ。通勤の便も悪くなく、コンビニも弁当屋もスーパーも、旨い飲み屋も近所にあった。くわえてこの景色。

笹原は満足していた。

物欲がないわけでもないが堅実で、若い頃からこつこつ蓄えを殖やしてきた。この先、定年までの社内での地位もおおよそ目処がついている。老後の生活も、まあ、大丈夫だろう。両親も、それなりの蓄えはあるらしい。病もあったが今は調子も良いらしく、ときどき仲良く旅行に行っている。一人息子としてはそれが何よりほっとする。

贅沢な悩みだが、しかし、さして不自由のないことが、このところの笹原の唯一の虚無だった。安泰を手に入れて、目指すべき山が見つからぬ。女ももう、充分なのだ。それが自分でも不思議でたまらない。

一人でいるのは好きだったが、ずっと女は欲しかったし、定期的に、していた。それなりにモテたせいもあったろう。が、女との付き合いは最初こそ楽しいけれど、次第に鬱陶しくなるのが常で、男友達と飲みに行ったり、ひとり、のんびりしているほうが、なんだかんだで好いのであった。

三十過ぎの頃、結婚を考えたこともあった。しなくて賢明だったと思っている。やはり、気ままな現在の生活が性にあっているのだ。だから、恋人のないことは笹原としても納得であって、けれど最近さっぱり女への欲が湧かないのは不思議だし、薄ら寒い気さえする。

男として枯れているつもりは毛頭ない。色っぽい映像を見れば、角度はさすがに高校生の頃と同じとはいかないが、勃起もするし射精もする。ただ、少し前まで時々はあったような、こう、突き上げるような激しい衝動というか、熱い情熱がない。独身貴族らしく見た目もそこそこ気を使っており、会社の若い女の子に義理でもバレンタインくらいはもらう。ごたごたは面倒なので手は出さないが、たまには、女を抱きたい気は起きた。けれど、そういう時でもこの頃は、玄人女をいたく普通の手順で抱いて、その程度で満足してしまうのだった。

派手ではないが清潔で、誠実な印象を与えるらしい。どちらかというと女を絶やさなかった笹原にとって、自分がまさか、肉欲をこの程度のものとして扱うようになるなど、笑ってしまうような、信じられない思いが、する。

仕事で忙しかったのもあり、風俗も、最後に行ったのは二年以上前だ。気が向いたときに体だけ重ねる女たちも嘗てはいたが、ついに皆、結婚してしまい、堅実な笹原は彼女たちとの関係はきっぱりと断っている。

(年なのかな……)

あまり考えたくはない。煙草を手に持った灰皿に押し付けると、煙の行く末が消えぬ間に、部屋の中に戻った。


ようやく手にいれた安寧が、ある種の絶望を呼ぶ。それは日曜日の憂鬱に似ているようで、似ていないのが悲しかった。月曜朝の諦めが、まだどこにも見当たらないのだ。致し方ないことなのだろうか。

 笹原は通勤電車に吸い込まれながら、「あの人もこの人も、こんな現実に気づいた上で折り合いをつけているのだろうか? あやうい事実から目を背けているのだろうか?」と、仕方のないことを考えそうになったが、耳にはめたイヤホンから次の曲が流れ始めたので意識をそちらに傾けることにした。


「おはようございまぁす」

静かな職場で、朝の挨拶には会釈だけ返すのが笹原のスタイルだった。今朝も同僚の声に穏やかに首を振り、日課の技術サイト巡りをしながら、ゆっくり脳を目覚めさせる。しかしその日は目玉もはっきりと動かしてしまった。

(もう半袖!)

近くの席の後輩が、半袖のワンピースだったのである。勤務先のIT会社は服装の規定はないに等しく、皆ラフで、笹原もボタンダウンのシャツにチノパンだ。あたたかな日が続いているとはいえ、まだ四月の半ば。朝晩は涼しく、半袖姿の二十代を、つい、まぶしく感じてしまった。

季節の移ろいと、自らの、折り返し地点ほどの年齢を漠と思った。「寒くないの?」などという声は、多少気になっても、掛けなかった。不要な会話は、とりわけ女性とは、なるべくしないのが平穏な毎日のコツだ。女へのがっつきがない故か地味にモテる笹原は、それはそれで苦労してきたのだった。もう、今いる社内の女性陣には、寡黙でつまらない男として通っているだろう。かつての人懐こい笹原を知っている女は、大学生の息子を持った、五十がらみの先輩一人だけのはずだ。大きくはない会社で、女性社員はせっかく育てても、社内結婚の末に寿退社していくことが多い。

(米田もそんな年齢か。彼氏くらいはいるんだろうか)

半袖で出社してきた米田美穂子は、笹原も心の中で一目置いている優秀な後輩だった。勉強熱心で呑み込みも早いだけでなく、今時の子らしく、目上の人にもはっきりとモノを言うし、かと思えば、粛々と長いものに巻かれて「事勿れ」を通す術も持つ。

結婚しても変わらず勤めてほしい。二十代の女の弾けるような白い二の腕を目にして、欲望を募らせるどころかそんな冷静なことを思うだなんて、笹原は本当に自分が信じられない思いがし、人生というものの不思議を考えそうになったのだったが、朝礼の鐘が鳴ったのでいつも通りの平日を始めた。


仕事が落ち着いている時期は、散歩をしながら帰るのが小さな楽しみである。笹原の家は東京浅草に近く、春は花見で人も多いが、桜の散り去ったこの頃、町はようやく普段の落ち着きを取り戻しはじめていた。三駅ほど手前で電車を降りて、歩いて城へと帰る。日中はほとんどずっとビルの中にいるし、朝は半分寝ぼけたまま会社まで着くので、ゆったりとした帰り道くらいが、季節を感じるひとときだ。頬を撫でるあたたかな風や、電信柱の根本の雑草の、芽吹き、日々逞しく育つ様子に、表情までは変えないが、なんとも心はずむ春を感じる。

爺々くさい、と、かつてはこの趣味を自嘲していたものだが、最近は堂々と楽しめるようになってきた。実際、心身の健康には確実に良い。座り仕事なものだから、平日は会社への往復と、煙草休憩の際にビルの階段を五階分おりる以外に動かないのだが、毎年の健康診断でもめでたく「異常なし」である。飲み歩きとラーメンの食べ過ぎが祟って肝臓を悪くした三十代の後輩より、よっぽど健康だ。

(健康は、健康だけど。)

笹原は改めて米田の二の腕を思い出してみた。一番身近な若い女が、残念ながら会社の後輩なのだった。その次は朝のコンビニで見かける店員だが、顔が残念なので、笹原の思考から除外されていた。

(米田は顔はかわいいよなあ。口調がかわいくなかったり、ふてぶてしいだけで。)

今の笹原にとって「若い女」は、米田か、さらに話す機会の少ない、別の部署の後輩たちだった。

(胸も大きい。少なくともEはある。谷間までみっちりしているのがシャツの隙間から見えたことがあった。あれはよかったなあ。ちょっと触りたかった。)

歩みと共に、春の東京はゆっくりと夜が更けていく。

(一年目、ホワイトデーをあげたとき、すごく喜んだ顔したのはかわいかった。赤くなって声が裏返るんだよね。尻がでかいのに平坦な形なのは気に食わないけど、髪もきれいだし、肌は白い。許容範囲だ)

考えてもしょうのないことを、何度も歩いてきた道で、反芻するように巡らせる。

(抱いて、と言われたら、どうする? むちっとしてて気持ちよさそう。)

そして毎度繰り返される否定。

(でも会社の子だからね……。しかも優秀だし。俺の仕事が彼女のおかげでだいぶラクになってる)

かつて米田の教育係は笹原だった。自身も英文科卒なので人の事は言えないが、専門的なことを何も知らない彼女に一から教えたのは笹原だ。

(思った以上にやってくれてる。間違っても手は出しちゃいけない。その気がおさまらないなら、お店に行けばいい。子供もいないし親も無事だし、金もその程度の余裕ならある。)

なんなら今から行くか? の自問に「否」を返して家に着く。毎度の事だが、笹原の平穏な日常には、この、妄想とも言えぬ程度の妄想くらいが、ほぼ唯一の刺激だった。


桜が散ったかと思うと、すぐ夏がやって来る。年々、季節の巡るのは早くなって、今年ももう、そんな季節だ。

「笹原さん、すみません」

「んー?」

呼ばれ、キーボードを打つ手を止めて振り返ると、夏仕様に髪をポニーテールに上げた米田美穂子がいた。

「四国のウェブ画面って、既設はPHPですか? フレームワークのバージョンは? 改造の見積もり依頼が来てるんですけど、この改造、難しいですかね?」

「……ちょっと待ってね」

「はぁい」

矢継ぎ早に質問を投げ掛けて相手を困らせるのは米田の癖で、彼女の賢さの弊害だというのが笹原の見解だ。とりあえず、以前に手掛けた「四国のウェブ」の、資料置き場を社内チャットで送った。手元のコーヒーを一口飲み、既読マークがつくのを確認してから、笹原は椅子をくるりと回転させて、米田のほうに体ごと向く。

「見積もり依頼、米田さんに直接来たの?」

「そうです」

米田は言いながら、椅子を少しずらして笹原のために空間を作り、パソコン画面のメールを指した。ほんの少し老眼の入ってきた笹原にはそのままの距離でも読めたのだったが、それを勘づかれたくなくって、椅子に腰かけたまま、足先でころころと隣へと寄った。

「へえー……。」

「部長にも、『見積もり出して』って、言われて。」

取引先からのメールは、米田と部長の二人宛てだった。笹原は今は別の業務に関わっており、相手先の人には長いこと会っていない。しかしそれを抜きにしても、他の同僚も差し置いて、米田と部長にメールが行くとは。

まだまだ新人と思っていた米田だったが、考えてみればもう五年目だ。取引先にも、ずいぶん信頼されているらしい。あんなに毎日、「笹原さん、笹原さん」「教えてください、わからないんです」とうるさくって手のかかった米田が、今じゃ自力で黙々と作業をすすめているし、後輩にも頼られ教えているし、こないだなんて、笹原の使ったことのないフレームワークや別言語も試して使っていた。

 誇らしくは、ある。ベースは全部自分が教えたのだから。けれど、寂しいような、しんみりとしたものも、確かにあった。

 胸のもやもやを考えぬよう、笹原は心をなるべくカラにして、求められた資料を探してやり、社内チャットで米田に送った。

「資料、そこにあるから」

「はい。ありがとうございます」

「それじゃ」

「えっ!?」

口出しせずに自分の仕事に戻ろうと、ふざけた調子で椅子を引いたら、米田の不安げな指先が、引き留めるように伸びてきた。

それが実際に笹原の体を掴むことは、ない。それが社内の距離感だ。

「見てくださいよ。わたし既設知らないんですよ」

傍から聞けば、十五年も先輩の人間に対して、くだけすぎた口調である。が、そこに不安と幼さ、そして信頼とを感じ取った笹原は、まんざらでもなかった。

「俺も既設はウェブしか知らないもん」

「知ってるんじゃないですか。少なくともウェブは。」

「見積もりには、データベースとか他の処理のことも考えなきゃなんじゃないの?」

「そうかもです。多分、そうです。」

「じゃあ、がんばれ」

笹原とて、本気で仕事を嫌がるわけではない。それがついつい不本意な笑顔になって、いじめるつもりが、米田と顔を見合わせて静かに笑ってしまった。周りの同僚には、気づかれぬ程度の小さな笑い。小生意気な米田に押しきられるのは嫌いではなく、むしろ、ちょっと楽しかった。

「笹原さんの記憶が頼りなんですよ。私が一から考えてたら、見積もりにかかる工数、増えちゃいますよ? うちの部の利益率、落ちちゃいます」

米田も新入社員のころには、こんな、脅すような真似はしなかった。けれど不満なときに唇を突きだす癖は、変わっていない。それを確認してなんとなく安堵した笹原は、昔のように、米田がキーボードをこちらへ押しやってくるのに呼応し、自然と両手を出して、共に検討を始めた。懐かしい気分を、抱きながら。

少し、距離が近かった。ポニーテールの首筋から、あの頃と変わらない甘い香りがする。

その日の帰り道は、浮かれ気分と、かすかな怒りが、笹原に度々溜め息をつかせた。

脳裏の片隅に米田の微笑みと甘い香りの記憶がこびりついていて、帰りの電車も、少し早足での自宅への道も、ずっと、ぼんやりと米田が浮かんでいた。

きちんと喋ったのは、実は、半年ぶりだった。平日は毎日、背中合わせに座っているのにおかしな話だが、彼女の他にも半年や一年、話をしていない同僚は複数いる。

そういう職場なのだ。大方、もの静かで、世間話もほとんどない。同じ業務に入らないメンバーとは、数年、会話をしていない人もいるかもしれない。業務上必要な場合に、画面の中の文字だけ饒舌なメンバーが多い。一年に三回くらいの飲み会はあるが、だいたいいつも同じような顔ぶれの輪の中に入ってしまう。米田は笹原と同じ分野が専門なので、基本的に違うプロジェクトに入ることになり、話す機会がないのだった。

だから、米田のやわらかな微笑みについ、体が、反応してしまった。笹原はまだ、まだまだ若い健康な体を、持て余し気味であるのだ。米田は基本的にいかにも「デキる女」らしく、動きはきびきびしているし、早口でハキハキと喋るが、まれにあどけない。

「現場、高知かあ。鰹のたたきが美味しい」

見積もりの検討をしながら、そう笹原が小さく漏らしたとき、

「食べられますかね? 出張で」

と、少女のように素直に顔をほころばせたのには、正直、ぐっとくるものがあった。白い頬は血色よく桃色づいて、もちあがった部分がつやつやとしていた。うれしそうに細められた目は、それでもキラキラと若さに溢れており、笹原は数瞬、その笑顔にぼんやり見とれてしまったのだった。

(会社であんなの、ルール違反だ)

どきどきして、指の先まで一気に血の巡りがよくなったのを自覚した笹原は、めずらしく怒りを覚えた。

(香水か、柔軟剤も、近くに行くと、きつすぎるし)

忘れられない甘い匂いは、一年目、配属されて間もない頃の、おどおどとして心細げな姿を呼び起こす。当時、米田は何もわからず、笹原は毎日、隣について仕事を教えていた。まだ可憐で、素直に守ってやりたくなったものだった。

(あんなにかわいかったのに、俺は真面目に、会社の子だから、と。)

二十三才の米田の横顔が、笹原には今もすぐに浮かぶ。今より化粧は濃かった。流行も違ったのかもしれない。一生懸命で、汗をかきやすく、ときどき、ふかふかのハンカチで拭っていた。丸く、いきいきとした目が真剣にモニタを睨む。焦っていると、ぷっくりとした唇をぎゅっと上の歯で食い締めるのが癖。毎朝、前髪を巻いているみたいで、それはくるんとしているのだが、時々、カールがよれていたり方向が変だったりして、直してやりたい気になった。

触れるなんてできなかった。会社の後輩だ。けれど、たまに机の下で膝があたったり、指がぶつかったりはする。何か甘酸っぱい気持ちがグッと込み上げてきそうになるのを、笹原は当時、精一杯、ふんばっていた。

(ホワイトデーも、二年目はやめたのに。俺は、決意したのに。)

笹原の妙な怒りは帰宅までに、彼女を脳内で蹂躙する免罪符へと変わろうとしていた。スニーカーを脱ぎ、リュックを置いて、手洗いうがいを済ませると、ベッドに腰掛けて息を吐いた。

白い首筋から漂う香りの、その一部が鼻孔に張りついたように、ずっと薫っている。すっかり、邪念は消えたと思っていた。五年で彼女も会社に慣れたのか、飾りっ気のない女になって、体の線の出ないゆったりとした服が多くなった。ぱんと張った太ももや、きつそうな胸元、華奢な手首や指先なんかに悩まされることも、このごろはなかった。

(あの頃、俺、モテ期だったのに。)

笹原は五年前、恋人のような相手を、なんとなく面倒になって振っている。よく行く飲み屋の店員や高校の同級生など、何人か脈のありそうな相手からの誘いもあったが、あまり身が入らなかった。

今になって、心を絡めとっていった米田への恨みが湧いた。断じて、今は断じてそうではないが、当時は、会社の後輩でさえなければ手を出したかもしれなかった。

いったん、家事で忘れようと思った。塩鯖を焼いて、野菜が多めの味噌汁を作った。ゆっくりと味わいながらビールを飲み、ベランダで一服をし、洗濯をしながら風呂に入って、湯上り、浴室に干した。

やたらと深呼吸と溜め息の回数が多い夜だった。

寝てしまおうとベッドに入れど、米田の匂いが、またうるさく香る。

あきらめてパソコンを立ち上げ、いやらしい動画を探して米田を追い払うことにした。最近のセクシー女優はスタイル抜群で顔も良い子が多い。米田など足元にも及ばない。

ヘッドフォンをつけて、米田とは似ても似つかないハーフの美女の動画を再生し、下腹部に手を伸ばす。やはりきちんと勃起はするのでEDではない。とすると、この情熱を持てぬ病は、何科にいけばいいのだろうか。

映像と音に集中したつもりだった。しかしフィニッシュの瞬間、米田の笑顔が浮かんでしまって、罪悪感と悔しさに茫となってしまった。

笹原は、長いため息をついた。




六月の土曜日の夜、煙草を吸いにベランダへ出ると、煌めくスカイツリーの色がいつもとは違った。まあ、お祭り好きな江戸のものらしく、「特別ライトアップ」は、しょっちゅうなのであったが、その日は夜風が妙に快いのもあって、一本、吸い終わると、インスタントコーヒーを入れてマグカップを持って外へ戻ったのだった。

別段、広いベランダではない。洗濯物を溜め込むと、干すのに苦労する。笹原は大抵、火曜の夜と土曜の朝に洗濯をし、服は浴室に、タオルはベランダに干すことにしていて、今日も日中は洗濯物でぎっしりだった。マグカップを室外機の上に置いて、二本目の煙草をくわえて振り返る。カラリとよく晴れて、爽やかな、いい一日だった。午前中は秋葉原で夏のボーナスの使い道を物色した。PCモニタを買い替えるのもいいし、いい炊飯器を買うのもいい。コーヒーメーカーは何年か前、手入れの手間や頻度を考え「結局、喫茶店のが美味い。店から持ち帰るのも、大きいサイズにすればコスパは悪くない」と購入をやめたのだが、新製品のカタログはもらってきた。(何回も検討をしているので、コーヒーメーカーおよびエスプレッソマシンに関してはかなり詳しくなった。)歩いて帰る途中、気に入りの喫茶店でカレーを食べ、菓子屋に寄って好物の豆かんを調達した。午後は部屋で海外ドラマに集中。去年、迷って買ったヘッドフォンの良さを、しみじみと実感した。夜は枝豆と冷奴と、トマトと茄子と豚肉の味噌炒めを、家で。ビールが美味かった。

なかなか完璧な一日だった、と思い出しながら頬がゆるむ。笹原は空へ煙を吐き出して、輝くスカイツリーをぼんやりと眺める。コーヒーを一口すする。インスタントだが、こうやって飲むコーヒーは、美味い。数年前まで、酒が入ると女が欲しくて焦れったくなったり、家庭を持った友人と気軽に会えぬのが寂しくもあったが、もう、この頃は、何からも解放されて、本当に自由を手にいれたという実感がある。

そして同時に、この穏やかな日々が延々と続いていくことへのある種の恐怖が、肌を湿らすように、じわりじわりと忍びつつあることにも気づいている。

三本目の煙草に火を点けながら、昨日、会社の喫煙所で聞いた話を思い出した。

「うちのチビが、こいつで火傷してよぉ」

夕方の一服の時間帯だった。普段そんなに喋らない煙草仲間の先輩が、愛用のジッポを手に、どこかうれしそうに話し出したのだ。

「結構、力が要るじゃん? 置いてても火はつけられないと思って、油断してたわ。」

「お子さん、いくつでしたっけ?」

 小学校入学の話は聞いた気がするが、それが昨年か一昨年かは忘れてしまっていた。

「九才。これをこう……ぐっ、と、いけるんだよなあ、もう」

職場では、例えば米田に「そのネクタイ、かわいい!」と言われてもぶすっとし、大人の男であることにこだわりのありそうなこの先輩が、こんなに顔を崩すのか、と、笹原は正直、意外に思った。

そしてこの人も、結婚も子を持ったのも、四十前後だったはずだ。

俺も今からでも、間に合わなくはない。そうしたいかは別にして、そういう未来も、なくはない。不惑というが、未だに惑いまくっている。

笹原は外に出ることにした。早かったが、きっと梅雨は明けたのだろう。すがすがしい夏の風が吹いている。気候もいいし、全身を使って歩いて、頭を空っぽにしたい。

最後の煙草を揉み消して、残りのコーヒーをぐいっと飲み干す。何か買い物はないかと、室内に戻ると冷蔵庫を開けた。

(牛乳と卵ね)

この年になると、無邪気にただただ外に出るというのもなんとなくこそばゆいし、自身の合理主義を納得させるため、何かが必要であった。

上はTシャツ、下は部屋着のスウェットパンツだった。見た目にそこそこ自信のあるつもりの笹原としてはプライドがあって、このままで出るのもどうかと思ったが、夜は更けている。昼間あふれる観光客はもう帰路についているはずだ。気にしないことにして、結局そのまま、小さな財布と煙草とハンカチだけポケットに突っ込んで家を出た。

雷門を目指して歩く。浅草は夜の早い町だが、シャッターの下りた仲見世もなかなかよい。それぞれの店のシャッターに、三社祭の神輿や浅草寺のペイントが施されている。それが昔ながらの、幅狭な道の両側にずらりと並ぶ。浅草寺は朱色にライトアップされるし、何より昼間の様子からは考えられないほど人が少ない。その人間も、酔っぱらいか、はしゃぎすぎて周りが見えなくなった観光客ばかりだから、人目を気にせずに済む。誰にも邪魔されず、ぼんやりと、季節の風を肌で感じるのは気持ちのよいものだ。

その光景を楽しみにしながら、一歩一歩、大股で踏み出すたびに、地面と自分とを感じる。平日は眠っている野生の勘が体に戻ってくるような気がして、うれしくなる。しばらく行き、真っ赤な吾妻橋へと差し掛かったあたりで、本格的に気分がよくなってきた。もうアルコールは抜けているはずだが、二十分ほど早足で歩いてきて、ほどよく気持ちがよい。一人暮らしなので健康管理は最重要事項である。不惑をすぎて、風邪をひいて老齢の親を呼ぶなど絶対にしたくなく、そもそもそのために始めた散歩だったのだが、この頃はもう完全に趣味だ。金もかからず、体のメンテナンスにもよくて、非常に得だ、と笹原はあらためて満足をする。

口笛でも吹きたい。だが上手く吹けないのと、橋の真ん中に人がいた。しかも、じっと川を覗きこんでいる。酔っぱらいなら構わないが、もしもまともな人なのであれば、こちらが不審者扱いされる。少し注意しながら近づいていくと、黒い服の女だった。通りすぎようとしたそのとき、覚えのある、甘い香りがして思わず振り返った。

垂れ下がった髪で、横顔は隠れている。けれど笹原は立ち去るわけにいかず、上から下まで、暗がりの中、よく観察した。長い黒髪。黒のワンピース。夜に浮かぶ白いスニーカーには、見覚えがあった。履き心地がよくて、笹原も気に入っているニューバランス。色違いで何足か持っている。春先から、米田はそれを履いている。

立ち止まって眺めているのに、女は振り向かない。真っ直ぐに川面を見ているようだ。笹原は最後の確信が掴めなくて、黙って立ち去ろうかと考えた。ただ、――そんな部分で確信を得てしまうのはいけないことのような気がしたのだが――白くむちむちした二の腕と、横から見た胸のラインは、確かに米田のものだった。

笹原が逡巡の末、結局立ち去りかけたそのとき、女は欄干に手をついて、軽くジャンプし、身を乗り出した。

「っ、ちょっと」

落ちる、と思った笹原は、思わず二歩近づいていた。

「……」

身を欄干に乗り上げたままゆっくりと振り向いた女は、やはり米田だったのだが、化粧が見たことのない雰囲気で濃く、気だるげで、目に覇気がなく、いつもの溌剌とした彼女とは別人に見えた。

「こんばんは」

 女はすとんと地面に降りると、力のない声でそう言った。

「……うん。こんばんは」

ぼんやりとした目付きと、いつもより相当低い声に、笹原の中で不安が芽生えた。何か、やばい薬でもやってるんじゃないだろうか。いつもと、あまりにも違う。

「何してんの?」

「笹原さんこそ。」

「散歩」

「こんな夜更けに?」

「そっちこそ。何してんの?」

「いいところに出掛けるとこです。あ、そうだ」

米田は肩に掛けた小さなバッグからノートを取りだし、何か書きつけ、一枚、ビリっと豪快にやぶって半分に折り、笹原に渡した。

「何これ」

折り目がひどく雑で、几帳面な笹原としては少し気に入らなかった。

「会社のパソコンのログインパスワードです」

「字、汚くて読めないんだけど」

「ええっ!? やだ、貸してください。丁寧に書く!」

慌てた米田は、いつもの彼女だった。笹原の手から紙をひったくって、もう一度ゆっくりと書いて再び差し出した紙を、笹原は、迷ってから、受け取った。

「じゃあ、笹原さん、早く行ってください」

「なんで?」

「見なかったことにしてください」

「これ、何」

「月曜か、火曜か水曜か、その先、必要になるかもしれないんで。」

「なんで」

「見ればわかりません? あたし死のうとしてるんです。邪魔する権利はないはずです」

驚くよりも、言っていることがよく呑み込めなかった。

笹原は黙り、気取られぬように静かに深く呼吸をした。再び目を彼女に向けると、強い意思を持った目が、めずらしく尖っている。

「隅田川に飛び込んで死ぬの?」

「そうです」

「昼間見たことある? 汚いよ」

 何を言っているのか、と、自分でも変に思った。米田の言う通り、邪魔する権利などというものは、ないはずだ。

「まあ、俺の小さい頃よりは、だいぶ綺麗になってるんだけど。」

 米田は挑戦するように腕組みをし、笹原に目で続きを促した。会社では、少し生意気でも後輩然としている彼女の、そういう不遜な態度を見るのは、新鮮に思われた。

「来週、ボーナスも出るのに」

「死のうとしている若い女が、お金なんて気にするもんですか」

「そこまで若くもなくない?」

「えっ」

「もうすぐ三十路でしょ?」

「再来年です!」

 若くない、と言われて米田が怒るなど、本当に、もう若くなくなろうとしているんだなあ、と妙な感慨が過ぎった。人はどうせ、生まれたら死ぬまで、老けていくしかない生き物だ。

「最後の晩餐、何食べたの?」

「あ! あれって、イエスの膝下、壊されてるの知ってます? 扉にされちゃって」

「見に行ったの? ミラノ?」

「はい」

「へー。俺、行くか迷ったけど、結局やめちゃったんだよね」

「芸術が、現実で上塗りされていくのは儚いものでした」

 米田の言葉を、笹原はいまいち呑み込めなかった。

「わたしはそんな現実に飽きました」

「俺は今からおにぎり食べに行くけど」

 そんな計画はしていなかったが、口走っていた。こういう、体が先に動くようなことは、笹原には滅多になかったが。

「米田さんも行く? それともそのまま、ぶよぶよの土座衛門になっちゃう?」

 米田の目が、急にまともになった。

「宿八、ですか?」

「うん。行ったことあるの」

 浅草にある、おにぎりの専門店の名だ。

「いえ。一度行ってみたいな、と、思っては、いて……」

「ん。」

 米田が濁した言葉尻を、笹原は力強い頷きでおさめた。手首を掴んで――彼女にそんなことをしたのは初めてだったが――笹原は吾妻橋を再び歩き出した。


 雷門から、仲見世を通って真っすぐ浅草寺へ向かうことにした。元々、予定していたルートである。しかし同行者ができたことで、笹原には、週末の夜の浅草の静かに浮かれた様子より、さっきまで死のうとしていた女が満足そうに眼を細めている、その様子のほうに目が惹かれた。

 掴んだ手を離してからも、米田は別段逃げる様子もなく、おとなしく斜め後ろをついてきた。そしておのおの、黙々と自らの体を動かしている。

歩くのは、ヒトという生き物にとって実に良いことのように思う。笹原は一歩ごとに、己の骨と筋肉とが、うまい具合につながって、正しく機能していることの喜びを噛み締めた。それはこの四十数年の一日一日を反芻するようでもある。間違いは、なかった。だからこそ今の平穏があるのだ。

ただ、歪さのないことには破顔しつつも、果たして本当にこれでよかったのか、と、全く考えないわけでもない。この健やかさは、いくつかの冒険から逃げて得たものである。

振り返っても、これまでの一日一日は賢明だったと思える。日々の生活も安定していて、満足である。けれど、この終わりのない穏やかさから染み出している暗い影には、子供や孫がいた未来をつい、考えさせてしまう魔力があった。

 子供がほしいわけじゃない。みな簡単にやっているように見えるが、人を一人育て上げることが生易しいものであるはずがないし、教育費を考えたら経済的にも不安がある。慈しんで育てても反抗期はあるだろうし、グレてどうしようもない子になるかもしれない。それこそ米田のように、人生に悲観して自殺を企てる可能性もある。

 リスクだ。結婚も、子供も。しかしそんなリスクを負って、自分を育てた親がいる。独り身の気楽さを満喫している者にとって、最も近い肉親は、最も理解しがたい人でもあった。

「いいですねえ、夜の浅草」

 観光客から距離を取り、浅草寺の本堂を横から見上げながら米田が言った。付け根から光に照らされて、浮かび上がるように朱色が輝いている。

「でしょ?」

 自分の持ち物でもないのだが、笹原にとっても気に入りの景色なので、つい得意になった。

「デートで来たかった。本当なら。」

 米田の声が細く震えたのを察して、笹原はぎょっと身構える。女の涙を見るのは嫌いだ。なるべく気にしないように、ライトアップされた本堂を見上げる。

東京育ちの笹原にとって、浅草寺は幼いころから知っている場所ではある。しかし、昔は人混みの印象しかなく、好きになったのは成人してからだ。高校の同窓会のあと、自分の家の方面だけ終電が終わっていた。かといってタクシーに乗るのも、まだ社会人になって数年目だったので金がもったいなく思え、上野の交差点の青看板に見つけた「浅草」の文字を頼りに、真っすぐ歩いてきたのが最初だ。その頃スカイツリーがあったら、そこまで行ったかもしれないが、浅草寺に来ると、そこがゴールのように思えて、ちょうど今いるあたりに座り込んで朝を待った。

あらためて見上げると、両端が上に沿った屋根が翼のようで、下から照らされる光のせいもあり、天へ飛び立ちそうに思える。実際には何十年、何百年とそこにじっと立っているのだが、それはいつでも飛び立てる用意があるから成しえるのではないか。人から見れば毎日代わり映えのしない生活を送っているように見えるかもしれない自分自身と、飛び立ちそうな浅草寺とを重ね、呼吸の度に満足の空気が肺に満ちていくのを笹原は感じた。

ぼんやりしていると、ふいに照明が消えた。二十三時になって、ライトアップが終わったのである。意識の向かう先がなくなると、隣で、軽く、鼻をすする音が聞こえた。

笹原が黙って歩き出すと、米田もついてきた。またそうして、黙って、行く。

その沈黙も、わりに悪いものではなかった。平日、会社で背中合わせに座っているときの無言と、大して変わりはしないことに気づいたのだ。それぞれに、やることがある。米田は何やら感傷に浸っており、笹原はただ街の空気と夜風を肌で感じている。米田が泣いても、笹原には関係のないことだった。それぞれが、それぞれにしか分からぬ戦いや愉しみに挑んでいる。孤軍かもしれない。けれど、孤独ではない。

二人、並んだり縦になったりしながら、適度な距離を保って、おにぎり屋へと向かっていく。浅草寺を突っ切って北の言問通りに出ると、店はもう、すぐそこだった。

「ちょっと待ってください、これ、言問通りですか?」

「うん」

「あー。泣いちゃいます」

「泣いてもいいけど、俺には見えないように泣いて」

 故意に優しいわけでも酷いわけでもない。それは率直な本音だった。

「笹原さんて、素直ですよね。お姉さんいるでしょう、可愛がられて育ったでしょう」

 返答は、首を軽く傾げるだけにした。

「並んでるね」

 米田は質問をはぐらかされても気にせず、彼女も素直に、列に目をやった。

「へー。こんな時間に。皆さん、お夜食に召し上がるんですかねえ」

「飲んだ後じゃない?」

 先客は、二人組が二組だった。ふと見やると、米田は言問通りを虚ろな目で眺めていた。

 今日は、ずいぶんと、知らない顔を見ている。会社の飲み会で見せる顔も、考えてみれば自分だって、友達に見せる顔とは違う。五年間、近くで働いてきて、米田には「いつも陽気な愉快な女」の印象があったせいで、今、自分の隣にいるのが誰なのか、不思議な感じがしていた。

「この道を上野のほうに真っすぐ行くと」

ふいに米田は腕を伸ばした。操り人形のように、力なく。

「好きだった人の家に着くんです」

 一瞬、からかおうかとも思ったが、やめにした。そういう雰囲気ではなかったので。

「ありや、なしや……。」

 米田が呟いたのは、伊勢物語の都鳥の歌だ。笹原もこのあたりに引っ越してきたとき、中学校で習ったその歌を正確に思い出せなくて調べた覚えがある。

「いるに決まってるんですよ。二十分歩いた先に。でも私のことはこれっぽっちも考えてなんていない。これって、こういう場合って、『あり』なんですかね、『なし』なんですかね」

「もしかして、お酒飲んでる?」

「はい」

「ふふっ」

 今日はちょっとおかしな米田の、その、こんな簡単な理由に気づかず不思議な気分でいた自分が、なんだかおかしくなってしまった。それで笑ったのだった。

 あらためて眺めてみる。米田は、ただ、酒の入った米田だった。最初に川に飛び込もうとする姿を目撃したせいで、いろいろと調子が狂ってしまっただけなのだ。

 今日、偶然に会ってから、居心地の悪さに少し似ている、ある種の落ち着かなさが胸にこもっていた。それがだんだんと融解していく感じがして、笹原は少し、ほっとした。

「どこで、飲んできたの?」

「隅田川のベンチ」

「え、外?」

「コンビニでビール買って。」

「変な目で見られなかった?」

「まあ、見られてたでしょうねえ。でも、それどころじゃなかったんで。」

「それってさあ、飛び込む度胸をお酒に頼ったの?」

「……そうですね」

「お酒の力借りなきゃ死ねないようなら、まだ死ぬときじゃないんじゃない」

 米田は黙ったまま、無視するように直立不動を保っていた。

 しばらくすると、愛想のいい女将が出てきて、中に通された。

 カウンターに座ると、目の前に並ぶおにぎりの具材に、米田は「わあ、迷う!」と急に目を輝かせて小さくはしゃいだ。

「俺、昆布。と、鮭」

「え、決めるの早い! わたし……梅とおかかで」

「御御御付もください」

「わたしもお願いします」

 ここへ来るのはかなり久しぶりだった。前の彼女と来たきりだから、もう四、五年たつだろうか。笹原が気に入っているこの店を、「おにぎりしかない」だとか「高い」だとか「内装が古臭い」だとか文句をつけたのも別れの遠因になったと思う。

 要らぬことを思い出した。米田に目を向けると、うれしそうに壁を見ている。さっきまでの泣き顔が消えたのが、自分でもびっくりするほどうれしかった。視線に気づいたのか、米田は軽く生意気な感じに鼻先で笑って、問うた。

「ねえ、笹原さん。あれって、本当にそうですか?」

米田の視線を追うと、額装に「めし、女、飽きることなし」の文字がある。

笹原にとって、なかなかにタイムリーな問いであった。

「飽きないことはないよね」

「ほう」

 女は最初の一か月で飽きる。あとは惰性だ。などと言えばセクハラと言われそうなので、それは黙っていることにした。

「気力体力があったら、飽きないかもしれない」

「どうしてですか?」

 ふと新人時代の声が聞こえて、笹原はやっぱり調子が狂う。

「めしも女も、追求するには、体力が要るよ。だから余程元気でないと。」

 ちょうど店の女将が椀を持ってきた。二人、受け取ると、それぞれ篭に乗ったおにぎりが差し出される。

「はい、昆布! こちら、梅!」

「わあ、いただきます!」

 米田の無邪気な反応に、笹原は素直に関心した。さっき、ぼうっと危なげな目をしていた人間には見えない。会社では、この無邪気で明るい面しか見せなかったのだ。

 味噌汁をすすってから、おにぎりをがぶりとやる。美味い。プロの米とプロの釜とプロの昆布と、そして、人の手肌の握り飯だ。人の作ったおにぎりを食べる機会など、独身四十代サラリーマンには、ない。

「おいしい」

 米田が真剣な顔つきで訴えてきた。もぐもぐとしていたが同意を示したく、笹原は首を縦に強く数回振った。

「あら、よかった」

 他のおにぎりを作っていた女将が、こちらへ朗らかな顔を向ける。

「おいしいです、とっても!」

「ふふ、うれしいわあ~」

 カウンターには八人が並んでいる。女将は一人で、そのいずれをも然程待たせずおにぎりを出し続けている。その手際の良さにも笹原は惚れ惚れしていた。そして、その合間に絶妙なタイミングで客に声を掛けるなど、一つの物事に集中するタイプの自分には到底できぬ芸当だ。

 しばし、無心で味わった。食べながら頷いてしまうのを、我ながら奇妙に思う。米田ほど無邪気に「おいしい」と叫べない自分には、頷くしかないのだよなあ、と、笹原は隣のを女を少し恨めしくも、妙に誇らしくも思う。

「篭で出てくるんですね。粋ですね。江戸だなあ」

「食べ終わるの早くない?」

「おなか空いてたみたいです。ごゆっくりどうぞ」

「ふは。うん」

 若さのせいか元からか、米田は食欲旺盛な子だった。最初の出張のとき、男ばかりの中、誰よりも早く食べ終わって、皆で茶化した覚えがある。そのときは恥ずかしそうにしていたが、今ではもう開き直って、当たり前のように早く食べ終わって、静かに他を待つようになった。

 こんな米田を、身投げさせようとしたものとはなんだろう。失恋なんだろうけれど、この子が、そんなに激しい恋をしていたとはついぞ知らなかった。けれど、ただの同僚だ。定時後や休日のことは全く知らない。どこかで誰かと熱い恋に身を焦がしていたとしても、なんら不思議ではない。そう頭では理解するけれども、笹原には、どうも不思議でしょうがない。

 と、いうのは、「米田が自分を好いているのでは?」と、うっすら思っていたからだ。はたして自惚れだったのか、それを確かめるような藪蛇はしたくないので、この先も黙って普通に同僚でいるのだけれど。

「ごちそうさまでした」

 店の外に出ると、米田はもう一度それを言った。先程のは女将さんに、今のは、支払いをした笹原に、だ。きちんと躾の行き届いた娘さんだ、と思う。こうなると、やっぱり頃合いの時期に見合い結婚でもするんだろうか。

 笹原の仕事にも関わってくる。米田が抜ければ損害は大きく、彼女のしていた業務がおそらくは笹原にまわる。まだ、彼女ほどできるその下の後輩は育っていない。

 訊きたくてたまらなかったが、失恋直後だという彼女の心情に配慮して、口をつぐんだ。

「デザート食べません? アイス」

「いいよ。近くに喫茶店ある」

「『ロッジ』でしょう? いいですよね、あそこ。バイトの女の子がかわいい!」

「え? そんな子、いた?」

「あ。もうやめちゃったかなあ? しばらく通ってたんですよね~」

 おにぎり屋から歩いてすぐの喫茶店に、入った。明け方まで開いている、夜の早い浅草には珍しい店だ。煙草も吸えるしコーヒーも美味いので、笹原は散歩の途中に度々来ている。

 四名掛けのソファー席に促され、斜めに向かい合って座った。休日の夜ということで、人は多く、江戸っ子らしい早口の大声がところどころで聞こえ、賑やかだった。この独特な雰囲気が好きで、笹原は、満足して口元をゆるませた。

「あたしソファー席初めてです」

「俺も」

「なんか景色が違う」

 言いながら、米田がメニューを見やすいように差し出してくる。

「俺ビール。と、ナッツ。」

「お、いいですねえ。私、バニラアイスとコーヒーにします」

 笹原が声を張ろうとするより早く、米田が視線と仕草だけで店員を呼んだ。

「ビールと、ナッツと、ホットコーヒーと、バニラアイス、お願いします」

「はーい」

 事は済んだ。笹原の出る幕はなかった。人嫌いではないが人見知りな笹原は、米田といるとラクだな、と思う。

「彼氏といてもそんな感じ?」

「へ?」

「注文とか。あ、セクハラ? これ」

 米田はしばらくきょとんとした顔をしていた。

「いや、笹原さんなら、セクハラって感じではないですねえ。大丈夫ですよ、私、気分害してないですよ?」

 そうかい、というように頷いた。ポケットから煙草を出す。

「吸っていい?」

「どうぞ」

 火を点けて、ゆっくり吐き出すまで、どうもじっと見られていた。顔を向けると、米田はゆっくりと話しだした。

「彼氏といるとどうなるのか、私にもわかりませんねえ」

「いつも夢中? 若いなあ……。」

米田はゆっくりと首を傾げて、傾いた顔のまま、じっと空を見つめ黙っていた。笹原は笹原で、「なぜ女は考えるとき首を曲げるんだろう?」と、煙草を味わいながら考えていた。

ややあって、彼女は天井を見上げると、「まあ、仕方のないことは、仕方ないんですよね」と間延びした声に似合わず、何やら強いかんじで、そう言った。

頼んだものが到着すると、米田がコーヒーカップを軽く持ち上げて、「かんぱーい」と、あどけない笑顔を見せた。少々、虚をつかれた。そして妙にどきどきする己に、動揺した。とりあえず笹原はビールをぐびぐびとやり、ナッツを口に入れた。

「笹原さんって失恋したことあります?」

「あるよ」

「あるんだ!」

「あるよ、普通に」

「じゃあ、失恋相手の結婚式でスピーチしたことは?」

「ふはっ。あるわけないじゃん。元カノの結婚式なんか、呼ばれないし呼ばれても行かないよ」

「あー。ま、そっかあー。」

 こんな話を、毎日気配は感じても一年まともに話さないようなそういう同僚としている今が、おかしくて、急に笑いたくなってしまった。ビールのせいも、あるだろうが。

「ん? どうしました?」

「ううん。こんな話するの、初めてだなって」

「ま、そうですねえ。会社じゃできませんよね」

「それも、あるし」

「なんです?」

「……なんでもない」

 失恋直後の若くそこそこ綺麗な女と二人で深夜の喫茶店。どうみてもこれはチャンスなのに、笹原には全くその気持ちが湧かないのが不思議でならなかった。

彼女がアイスに夢中な間に、盗み見る。やはり豊満な胸と、はじけそうなツヤツヤの肌には目を奪われた。魅力的で、欲を煽る女。性欲は、掻き立てられる。けれどもっと、人間の芯に近い、素直な部分が反応している。米田が泣きそうなとき、胸が痛んだ。彼女が死のうとしていたことに、ひどく動揺したし、無関係なはずが、傷ついた。米田には、楽しくやっていてほしい。

「貯金、使い切った?」

「え? いえ、まだありますよ、四百五十万円くらい」

「あれ、結構ためてるね」

「投信、株式、確定拠出年金含めてです。人事査定でも、おかげさまで評価していただけてますし。」

 IT企業といっても古い会社で、毎月の給与は年功序列だった。当然、米田はそこまでもらえていないはずだが、ボーナス額には業務の評価がかなり反映される。頭の中で自分の五年目の頃を思い出そうとしたが、はるか遠い昔のことすぎて、笹原には思い出しようがなかった。それでもまあ、買い物の好きそうな米田が堅実に貯金しているのは、意外だった。

「使わないとね、貯金。」

「え? なんでですか?」

「死ぬんでしょ? もったいなくない?」

 笹原はビールを飲み干すと、店員を呼ぼうと顔と手をあげた。意外と店は忙しそうで、気づかれない。米田が、恐らくは謎の眼力と「すみませーん」で呼んでくれた。

「ホットコーヒー」

「二つ」

「はーい」

店員が去ると、米田は「はーあ」とわざとらしい溜め息をついた。

「煙草、一本いただけません?」

「いいよ。吸うんだっけ?」

「たまーに。」

 米田は慣れた様子で口にくわえて、火を点けていた。どこか貫禄があった。笹原には、新人の頃の印象が強いが、もう、三十路が再来年という女だ。大人びた貫禄があっても、何ら不思議はない。

「……軽いですね」

「一ミリだもん。」

「吸った感じがしない~。ちょっとコンビニまで行ってきてもいいですか?」

「うん。場所わかる? 東武のほうにある」

「はい」

「俺のも切れるから、お願いしていい?」

 五百円玉を取り出して渡した。

「ウィンストンの1ミリですね」

「そう」

 彼女が財布とケータイ、ハンカチだけ鞄から取り出して行くと、残された笹原は一人、妙に、しんみりとした。

こうして自分の知らぬまま、あの素直で一生懸命で、ときどきちょっと生意気な後輩は、だんだんと変わっていくのだろうか。自分の、知らぬところで。

米田が配属されてからの、この五年間をぼんやりと思う。

飛びぬけて若かった。久しぶりの新人だった。小さな会社だから採用人数も少なく、新人が配属されない年もめずらしくないのだ。くわえて、寿退社、出産退社が続いてしまっていた時期で、米田の直近の先輩は、七年とか九年とか上の者だった。そして彼ら直近の先輩と、さらに数年上の笹原には、教えるにしても「こんなことも知らないのか!」の連続で、なかなかに大変な日々だった。

米田の質問につきあっていると、自分の業務が遅々として進まず、残業代で家計は潤ったけれども、なかなかに心身に疲れがあった。新人の指導担当になった者は多かれ少なかれ、こっそり愚痴をこぼすが、それが笹原にもやっとわかった。巡り合わせの問題で、笹原にとっても、きちんと面倒をみるのは米田が初めてのことだったのだ。

新人を教えるのは、非常に疲れることだった。けれど、教えたことをどんどん吸収していく米田の姿を見ていると、達成感も満足感もあり、実際には、疲れよりもむしろ喜びが勝っていた。彼女が自分で買ってきた技術書を手に、定時後に自習をしていたときは、笹原はいつ質問されてもいいようにと、背中合わせで残業をしていた。風邪気味で、残業せずに帰ろうかと迷った日も、米田が一人で格闘し、悩んだ末に自分を振り返り、不在に落胆するだろうことを思うと、なかなか帰る気にもなれず、ついつい残業をした。

米田の質問は、月日が進むごとに減っていった。それだけ彼女自身に力がついたわけで、喜ばしいことのはずだが、正直、笹原には寂しいような感覚があったことを否めない。

煙草を深く吸って、吐き出した。このせつなさは、他言無用のものであろう。誰かに洗いざらい言ってしまいたい、と思ったこともある。けれど言えるような相手はいない。言ったところでどうしようもない。好きだとか、好きじゃないだとか、そういう単純なものではなかった。いっそ恋ならよかったと思う。満たされる先があるから。けれど果たして抱いたところで、このときめきが落ち着くだろうか。肉欲のつまらない満足と引き換えに、何かを失い、傷つく気がする。失うそれが何なのか、誰がそれを知っているのか、わかりそうで、まだわからない。

次の煙草に手を伸ばした。会社について考えた。米田は社長や部長たちから見込まれている。笹原も笹原でエキスパートとして尊敬されているが、それは社員皆、それぞれ互いにそうであって、出世とはあまり関係のないところである。もしかすると、ボーナスの面接は、そのうち米田が査定する側になるかもしれない。賢い米田が経営側にまわれば会社としては良いだろう。けれど、どうも、皆が思うほど米田の神経は図太くないような気がしていて、それが少し心配だ。

(……遅いな)

 米田の帰りが妙に遅い。それに気づいて笹原は急に背筋が冷えた。狼狽した。まさか本当に隅田川に飛び込んだんじゃないか。米田の鞄を席に置いたまま、店の者に「すぐ戻ります」とだけ告げ、笹原はとりあえずコンビニへ走った。


「あ、いた!」

 笹原はつい大声を出した。米田はコンビニの壁に寄りかかって座り込んでいる。

「どしたの?」

 乱れた息を落ち着けながら、気の抜けたのもあってしゃがみこむと、米田にそっぽを向かれた。彼女は指先で目のあたりを擦るようにしたあと、笹原を向いて、「笹原さんも、走ることがあるんですね」と、力なく笑った。

「戻ろう」

 走ったことを指摘されたのは恥ずかしかったが、なるべく顔に出さないように努めたつもりだった。けれど、漏れ聞こえる息の音から、米田は静かに笑っている。

 笑うなよ、と言いかけて、笹原は口をつぐんだ。米田は笑っているほうがいい。泣いているよりも、ずっと。それは確かだ。仕方なかった。

 

 喫茶店に戻ると、客たちの目がいっせいに向いた。追って出て行ったものだから、何事かと噂されていたのかもしれない。

「おっ、兄ちゃん! 仲直りできたかい」

 嗄れ声の白髪のじいちゃんに興味津々で訊かれてしまった。笹原は仕方なく頷いて、視線から逃げるようにソファに座った。

「すみません。注目されるの、お嫌でしょうに」

 眠くなってきたのか、米田の目がとろんとしており、妙に艶っぽいな、と思ってしまった。

「本当だよ」

 気取られまいと、怒気をこめてみる。

「ごめんなさい。コンビニ出たら急に泣き出しちゃって。しゃくりあげちゃったもんで、このままじゃ戻れないなあ、と。あ、お手洗い行ってきますね」

 米田は鞄から化粧ポーチを出して立ち上がった。確かに化粧は、崩れていた。

 少し冷めたコーヒーをすすると、お店のおばちゃんが静かに寄ってきて、「内緒ね、サービス」と、二人のコーヒーを新しいものに変えてくれた。

「よかったね、戻ってきて。もう泣かせなさんな」

 面食らったが、笹原はとりあえず頷いた。頬が軽く火照っているのに気付いて、俯いてコーヒーを啜った。

 米田は、失恋で死のうとしているのだろうか。誰かに好かれないとか嫌われたとか、たったそれだけのことで?

 今、笹原は、それを「それだけのこと」と思うし、「それで死ぬなら、いくら命があっても足りない」と笑えてさえくる。しかし、米田が死にたいほどの気持ちになっているというのも、理解できなくはなかった。かつて自分も、夢中だった相手とすれ違っていって駄目になったとき、どうしようもないほどの虚しさと寂しさ、悲しみに苛まれた。

今はもう、抱くことのない激しさだ。すべての感情が平坦で、穏やかで、怒りや悔しさも、自分でそれなりにコントロールできる。ついに安寧を手に入れた。そんな笹原である。

それなのに米田を目の当たりにすると、失ったものへの郷愁と侘しさが、全身の骨をぎしぎしと不快に締めつける。もう悲しみも、喜びも、かつてのようには襲ってこない。

「お待たせしました」

 化粧室から戻ってきた米田は、黒かった目の周りがきちんと塗りなおされ、色を失っていた唇も、頬も、血色よく、かわいくなっていた。

 米田はホットコーヒーを一口飲んで、ほうっと満足そうな溜め息をつくと、ソファに置いてあったコンビニの袋から、煙草を二箱取り出した。

「はい、どうぞ」

「……うん」

 何事もなかったみたいに、米田はいたって普通に、にこやかにしていた。

「まだ苦しいの?」

「えっ?」

 口をついて出た言葉に、笹原自身、首を傾げた。「女だけじゃなく、俺も首、傾けてるなあ」と、人間の首の構造を不思議に思いながら煙草に火を点ける。

 米田を見てみる。にこやかにしている、いつも通り。何故かはわからないけれど、笹原は、苦しくなった。苦しいのは自分のほうじゃないか、と、自嘲しながら煙を吐き出す。

「すぐ見つかるよ、また。いい人。」

 米田と目があった。彼女は一瞬泣きそうな顔になったが、すぐに笑った。「頼むから泣くな」と祈りながら、笹原は続ける言葉を考えて沈黙した。

 米田がボリューミーな唇を開いた。白い前歯がかえって、唇とその奥の赤さを際立たせる。ちょっとそそられた。それを知ってか知らずか、米田は口を閉じて視線を外した。

「一年目のとき、笹原さん、すごく丁寧に教えてくれましたよね」

 笹原のとは違う煙草を開けて、米田は言った。

「仕事だからね」

「本当にそれだけでした?」

 挑発するような視線だった。どきりとした。米田は足を組んで、けだるげに煙を吐き出す。あらわになった膝の裏側が、いやに白かった。

「……下心があったように、感じた?」

「はい」

 即答されるとは思わなかった。笹原は煙草を持つ手を宙に浮かせたまま、考えた。わりと必死に。しかし何といえば正しいのか、一向にわからない。

 ほとんど放心していると、米田に煙草を取り上げられた。

「ふふふ」

 灰皿に灰を落とされて、戻されるかと思った煙草は、米田の唇にくわえられた。

「軽い煙草を吸うのって、かえってジャンキーみたい」

 ある種妖艶な笑みを浮かべて、米田は笹原の煙草を吸っている。

「あ。笹原さん」

「ん?」

 反応はできた。別の、答えるのが簡単な話題になればいい。

「間接キスしちゃいました」

 煙草を少し高い位置にかかげながら、米田は大胆な笑みを見せる。

 もう、あの頃の米田ではないのだ。いないのだ、無垢で純真な米田は。笹原の胸を寂しさが吹いた。

「がっかりしてます? 今日のメイク、笹原さん好みじゃないですもんね」

「なんで知ってんの?」

 否定すべきだったのに、ビールのせいか笹原は正直になってしまっていた。

「顔に書いてあります」

 米田はなぜか寂しげに、煙草の火を揉み消し、コーヒーを飲んだ。

「一年目の頃、わたし、愛されてましたよねー」

「なにそれ」

「モード系のメイクの日と、わかりやすくぶりっ子メイクの日で、笹原さんの口調のやさしさが違った。できる先輩も、男なんだな、って、思ったんです。」

 笹原はまた首を傾げた。そんなふうに差をつけていた自覚はなかったので。

 米田は眠そうで色っぽい瞼を伏し目がちにして、そのまま続けた。

「自慢みたいで嫌ですけど、わたし、小さい時から何でもすぐにできたんです。だから、あんなふうに熱心に見てもらったの、初めてで。うれしかったです」

「なんか、死ぬ前の言葉みたい」

「死にたいんですもん」

 米田は泣きそうに笑っていた。こんな複雑な表情ができるなら、いい女優になるんじゃないかと、どうでもいいことを思う。

「一人に好かれないくらいで、死ぬことないじゃん」

「一人ですけど、私にはすべてだったんです」

 それを聞いて笹原の胃が痛んだ。なんだか、米田を抱きしめてやりたいと、そう強く思う。性欲なんだろうか? いや、白い脚、セクシーな唇を前にしていても、股間は全く反応しない。だからきっと違う気がする。

「ご両親とかさあ、」

「いや! そんな話しないでくださいよー! わたし良い子なんで本当にそこは、親より先に死ぬのは本当に心苦しいんですから!」

「……ふふっ」

 困り顔の米田を見て気が楽になった。この子はきっと愛されて育っている。結局、土壇場でご両親を思い出して、死ぬなんてできないだろう。

 余裕が出てきた笹原は、米田の吸いさしを奪った。吸ってみる。いつも吸っているものより遥かにヘビーなものだった。

「なんですか、間接キス? 死ぬ前に抱かせろったって、そういうのは嫌ですよ」

 よかった、と思った自分を疑った。「よかった」? 抱きたいはずだ。とりあえず胸は揉みたい。どうして「よかった」なんて思う?

 笹原は、重い煙草にむせそうになるのを我慢しながら、形勢逆転の一発を狙った。

「抱かれたいのって、そっちじゃないの?」

「なっ。……う、うーん」

 眉間に皴を寄せ、腕を組んで考え込んでしまった米田を笑う。

「なんだよ。やっぱ、そうじゃん。すぐに否定しないなんて」

「いやいやほら、上司にそんな、『絶対イヤです』なんて、心証悪いでしょう?」

「俺、プロジェクト的に直接のリーダーになってないから、米田さんのボーナスには全く響かないよ」

「この先、あるかもしれないじゃないですか」

「どうかなあ。もう、余程大きい案件じゃないと、俺と米田さんが同じプロジェクト入ることはないよ」

「えー。なんでですかあ?」

「立派に成長してくれたからねえ」

 重い煙草を揉み消して、コーヒーをすする。

「アイス、おいしかった?」

「超美味しかったです」

「じゃ、俺も食べよう」

 店員は、また米田がさっと呼んでくれた。注文も。

「話戻りますけど」

「ん?」

「笹原さんの、その、私の一年目のときの諸々って、報われました?」

 米田の頬は少し硬く、瞳は悲しそうに見えた。

「報われた、って?」

「たぶん労働力は、報われたと思うんですよ。だってわたし、二年目以降、ほとんど笹原さんに聞かないでも自分で仕事できるようになったし」

「うん。本当にねえ。最初どうしようかと思ったけど」

「あ。思ってたんですか?」

「だってほら、バッチファイルとかNETSTATとか、そんなのも理解できてなかったじゃん」

「研修でやらなかったんですもん」

「それが今じゃねえ。俺、もう引退しようかなあ」

「やだ。やめてくださいよ、笹原さんがいるのといないのと、だいぶ心理的な難易度が違います」

 そう言われると気分は悪くなかった。

「そう?」

「そうですよ。もし何かあっても、笹原さんに訊けると思うと、だいぶ気持ちがラクです。」

「そっか」

 うれしくて笑ってしまうのを、抑えられなかった。カッコ悪いな、と思いつつも。

 しばらくしてアイスクリームがやってきた。笹原がスプーンをいれると、米田がじーっと見ている。

「あげないよ」

「えー、いじわる!」

 一さじすくって無言で突き出し、食べさせてやった。米田がとってもいい顔をしている。食いしん坊め。

「わたし今、報われましたよ」

「ええ?」

「大先輩に向かって意地悪だなんて言った甲斐がありましたよ」

 笹原は黙って食べる。米田は虚空を見つめていた。

「世の中には、簡単に報われる思いと、どうやっても報われない思いがありますよね。なんでですかね」

「たとえば?」

 ここのアイスクリームは初めて食べたが、確かに美味しいなあ、と、笹原は満足である。

「決して、わたしを好いてはくれない人への、好意」

 結局その話かよ、と、少々うんざりしはじめたのだが、アイスが美味しいので聞き流す。

「いや、好かれてはいるんです。大好きなんですお互いに。でも私が好きなようには、あの子は私を好きにならない。どうしようもないことです。」

 女の子に恋愛の相談をされると、堂々巡りのお喋りにだんだん面倒になっていき、いつも結局抱いてしまうのだったが、今回はその悪癖をぬけて別の糸口を見つけてあげようと思った。

「しばらく泣くといいよ。涙と一緒にストレス物質が排出されるらしいから」

「そうなんですか?」

「どこで聞いたか忘れちゃったけど。そうだ、泣いてから、旅行でも行けば?」

「長生きするなら、旅行代なんて出せないんですよ。節約して貯めなきゃ、老人ホーム代。」

 笹原はアイスを飲み込み損ねてむせそうになった。年のせいなのか、この頃、むせることが多い。コーヒーを飲んで落ち着けた。

「老人ホーム、入るの?」

「たぶん。結婚しないし、子供も産まないし。弟に頼るのも嫌だし。」

 この未来ある才媛が、四十を過ぎた自分と似たような将来設計を描いていることに虚を突かれた。スプーンを置くと、「あーん」と米田が口を開ける。

「餌付けだね」

 食べさせてやりながら軽く笑った。ちょっと愉快な気分である。

 半分ほどになったアイスクリームに匙を入れながら、ふと、先程の暗い米田が頭を過ぎった。手を止めて、口を開けて待ち構える米田を見ていると、「どうしたんですか?」と、一年目の頃のような、素直にかわいい感じで聞いてくる。

 笹原は、笑えなくなってしまった。真顔でアイスを口に入れてやると、匙を置いて思わず腕を組む。

「米田さんってさあ」

「はい」

 訊いていいのか、どう訊くべきなのか、訊いて会社でやりにくくならないだろうか。いくつかのことを考えたが、その答えは自分で探せるものでもないので、悔いを残さぬためには訊くべし、と、笹原の中で決着がつく。

「いつもかなり無理してる?」

「えっ?」

「明るいけどさ。うちの部で一番ムードメーカーじゃん? でもさ、でも結構、無理してる? 実は根暗?」

 知りたいけれど、「そんなことない」という答えだけを望んでいた。米田が答えるまでのほんの数瞬、まるで恋みたいに笹原の心臓は強く動いた。

「はい、そうですよ。無理してるといえば、してます。でも社会人だからしょうがないです。うちの部の人、みんな静かですけど、ちょっとでも懸念事項があれば報告しといたほうがいいし、たまの雑談は明るいほうが指先も活発になります」

 笹原は無言で頷いた。アイスを手に取って、米田に食べさせる。自分も、食べる。

「というか、にこにこして明るく振舞うのは、社会人のマナーなのかと思ってですね? うちの部、それできてない人多いな、と思ったんで、笑顔は伝染るっていうし、率先してがんばらなきゃ! と。間違ってます? これ」

「間違ってない。うん。いいと思います」

 米田がはにかむように笑って、ねだるように口を開けた。最後のひとくちを食べさせてやって、コーヒーを飲んだ。

 胸のざわめきが落ち着かない。米田は間違ってはいない。いや立派だ。同僚としてありがたい。一緒に働くのなら、不機嫌そうにしている人とより、微笑んでいる人とがいい。

「笹原さん、今の話、部長に言ってもいいですよ。次の人事評価の直前くらいは、特に、いいですよ」

 褒められたのを照れるような様子が、笹原にはかわいく思えた。いじめたくなる。

「俺が言っても、影響しないよ。なんだっけ、勤務態度? その欄に自分で書かないと」

 そもそも、部長の米田への心証はすでに最高レベルにあるだろう。たまに寝坊する自分より上かもしれない。そう思ったが、元先生のプライドがあるので、言わない。

 笹原は、自分の首が傾いていくのを感じた。不思議な気持ちだ。恋人でもきょうだいでもなく、ただの職場の後輩だ。しかも、そう関わりがあるわけじゃない。半年や一年、喋らないのもザラだ。四、五年前に数か月、仕事を教えただけ。なのに米田が無理をしているというのは、どうも非常に落ち着かない。隅田川を覗き込んでいたときの虚ろな様子、コンビニの前で見せた、疲れきった悲しい顔。なまじあんな顔を見てしまったが故、本当に落ち着かない。

「米田さん」

「はい?」

 コーヒーカップを置いた米田は微笑んでいた。

「無理は、しなくていいよ」

「ん? ああ、会社でですか?」

「会社でも。どこでも。無理してニコニコしなくっても、疲れたときは、『疲れた』って、甘えればいいよ」

「誰にですか、甘える相手いませんよ。わたし失恋直後だって言ってますよね?」

「ちがう、ちがう! うーん……そうじゃなくてさ」

「俺に甘えろって?」

「もっと違う!」

「ですよね、わたし頼れる先輩失いたくないんで、妙な関係になるのやめましょうね」

「うん。……うん。うん。」

 結構どきりとする返しだった。おかげで言葉がまとまらない。腕組みが、どんどん、きつくなっていく。

「笹原さんが定年になる頃まだ独身だったら、入籍するのはアリですけど」

「え? えっ、ええ?」

「会社の結婚祝い金って、十万円でるんですよ。もらわないと損じゃないですか?」

「ああ、うん。……そうだね」

 米田が煙草に火を点けようとして、止まった。妙に真剣な目である。

「今、笹原さんって彼女います? 二人でいるのばれたら、結構やばくないです?」

「大丈夫。いない」

「安心しました」

 米田は実に旨そうに煙草を吸った。こんな貫禄のある子だとも、意外と繊細だとも、数時間前までまったく知らないでいた。

 ずっと猫をかぶられていた。気づくこともできなかった。この、わけのわからない悔しさのようなものと、ぷつりぷつりと顔を出すこそばゆいものが、自分でもなんだか正体不明で、もどかしい。

「あれ?」

「ん?」

「あの、だんだん冷静になってきたんですけども」

「なに?」

「これ……この今の状況は、失恋直後のかわいい後輩を口説こうとしてる場面ですか?」

「ちがう、俺そういう卑怯なことしない」

「へー! それ言い切れるのって、なかなかですね。それ言えるのは格好いいです」

「口説かれてる?」

「ちがいます! やめましょう、そういう危ういの!」

 視線をはずした米田の頬が、少し赤かった。

 微妙な沈黙が気まずくてトイレに立った。用を足しながらぼんやりと思い返すと、むずがゆさが肌の上を這っていくような感覚がした。

 席に戻ると米田のコーヒーカップは底が見えていた。笹原のコーヒーもあと一口、申し訳程度に残しているだけだ。時計を見ようと腕を出してから、腕時計をしてくるのを忘れたことに気づいた。こんな間抜けは、若い時分にはなかった。落ち込みそうになったけれども、きっと米田の相対しているショックと比べれば、全然大したことはない。もちろん、過去に自分が味わってきたものとも。

「何時? まだ終電あるの?」

「今日はオメガ、してないんですか?」

 米田は店の中を眺めまわしながら、言った。

「うん。ただの散歩だから」

 忘れた、とは言わなかった。それより米田が自分の腕時計のメーカーを知っているのが意外だった。しかし女は持ち物の細かいところまでよく見ているのが常であるから、考えてみれば意外でもない。笹原は、自分が米田を女と認識しながら女と見ていなかったことに気づいた。

「電車は、どうでもいいのです。でも、オメガいいなあ。文字盤、きらきらして。私も買えるようになりたい」

「買えるよ。買える買える。来週ボーナス出るじゃん」

「でも三途の川を渡るのには、必要のないものです」

「六文銭用意して死ぬ人って、今いないと思うよ」

 米田が屈託なく笑った。唇はむすんだまま、高い笑い声が鼻を抜けて響く。昔、結構好きだった女が大口を開けて笑うのに幻滅したことがある笹原は、米田が自分にとって女だったらよかったのに、としみじみした。

「出ますか?」

 笹原がコーヒーを飲み干すと、米田が鞄に手を掛けた。

「そうだね」

 言いながら、机の上に伝票が見当たらないのに気付く。米田は、きょろきょろしている笹原に構わず立ち上がって、「ごちそうさまでした」と店員に告げた。

「待って、お会計は?」

「しておきました」

 笹原はちょっと悩んだ。ずいぶん年下の女におごられるのはプライドが傷つくような気がした。けれど、自分自身の内面を見渡して、そんな気配のないことを知り、また、ざっと計算して先程のおにぎり屋と相殺するのを確かめて、腹をくくった。

「そっか。ごちそうさま」

「いいえ。おにぎり、ごちそうさまでした」

 ボーナス額が逆転するのは、何年後だろうか。どちらにせよ二十年もすれば笹原は引退する。そのとき米田はバリバリの現役だろう。まだ、自分がいなくなった職場を想像すると心配だが、かつて自分がそうしたように、米田が後輩に丁寧に接しているのを思い返すと、少し楽しみな気持ちさえ湧いてくるような気がした。

 笹原は、黙って浅草寺へと歩を進めた。オメガを忘れたので正確な時間はわからないが、終電はとっくに終わっているだろう。米田も何も言わず、ついてくる。

「夜の浅草、いいですね」

 先程よりも辺りは静かで、暗さは深みを増していた。仰ぎ見る本堂は、青白い街灯に、ほんのりと輪郭を浮かべている。

「でしょ?」

 黒い本堂は、かつて笹原がたどり着いたのと同じものである。

「さっきは、ライトアップ終わっちゃって、残念と思いましたが」

「うん」

「これはこれで、いい。新鮮。」

 頷いて、笹原が米田を振り向くと、目があって微笑みが返された。

 よかった、と思う。米田がちょっとは元気になって。

「俺、昔、ここで始発まで待ったことある」

「まあ。私も同じ道を行くんですね」

「いや、女の子にはおすすめしない。酔っ払いも来たりするから。」

「ふふふ。全然『女の子』と思ってないの、知ってますよ」

「いやいや、思ってる。思ってるよ」

 米田は軽く笑みを浮かべながら、仲見世のほうへ歩き出した。

「歩いて帰るの?」

 家はどこだったろうか。千葉のほうだった気がする。

「いいえ? もう一度、チャレンジします」

「何を」

「隅田川」

 笹原は首をひねった。笑顔になったと思ったのに、まだ飛び込むつもりだろうか。やっぱり女は理解不可能な生き物だ。

 しかしそうは思いながらも、笹原はおとなしくついていった。放って、独り帰ってもいいのだけれど、米田が一人で悩んだり格闘したりするかと思うと、そういうわけにもいかないのだった。

(これも刷り込みなのかなあ)

普通はヒナが親鳥を慕うものだが、逆もまたあり得るのだろうかと、浅草の地面を踏みしめながら笹原は思った。

たどり着いた吾妻橋は、宵闇の中でも、うっすらと赤い。米田は橋を渡り始める時、ちらりと笹原を振り返った。

「臭うね」

 橋の中ほどまで来て、川を覗き込む米田に、つい、声を掛けた。

「隅田川の臭いがする。夏だな」

 米田はじっと水面を見つめている。

「今日じゃなくても、いいんじゃない? 来週、オメガ買いなよ」

 欄干に寄りかかると、あくびが出た。米田が振り向く。

「眠そう」

「眠いよ」

「帰ってていいんですよ?」

「そうはいかないものなんだよね」

「何でです。私のことはお構いなく」

「そうできたらいいんだけど」

 米田はくるりと体を反転させて、笹原と同じように、欄干を背に、もたれた。

「そういうものですか」

「うん」

 即答した。急に襲ってきた眠気に、プライドの類は雑になってきた。

「この辺って、ファミレスあります?」

「またおなか空いたの?」

「違います。始発待ち、どうしようかなって。」

 一瞬、考えたが、やはり家に呼ぶのは、よくないだろう。そんなに大きな家じゃない。呼べば間違いが起きて、貴重なものを、失う。

「あっち」

 考えた末に、笹原は指先で示した。

「両国駅があっちのほう」

「……はい」

 少し不思議そうな声だが、米田はおとなしい。

「あっちのほうに行くと、両国駅に行く国道があって、道沿いに、ファミレスがある。たしか。」

 米田は頷く。

「そのまま行けば、千葉のほうに繋がる」

「歩いて帰れますかね」

「知らないよ」

 無責任である。それぞれが勝手に生きていて、それでいい間柄だ。

「あの辺、明け方歩くと面白いよ。よく、お相撲さんが自転車のってる」

「自転車のるんですか? 難しそう、体大きいのに」

「鍛えてるから、乗れるんだよ。大きくても」

「へえ。ちょっと見たい」

「見れるよ。朝方うろちょろしてれば、見れるよ」

 またあくびが出た。早く帰って眠りたいが、米田がここを立ち去るのを見届けねば、という感じがある。

「あとねえ、温泉がある」

「温泉?」

「うん。銭湯? 温泉じゃあ、ないのかな。国技館より、手前に。」

「スーパー銭湯ってやつですね」

「ああ、そうだね」

 少しの間、二人は黙った。生ぬるい風が渡っていく。

 沈黙に飽いて米田を見やると、唇をきゅっと引き結んで、下方をまなざしている。

「スカイツリー、行った?」

「いえ。でも見えますよ、電車から。会社いくとき。」

 米田は橋の向こうのスカイツリーへ顔を向けた。煌びやかなライトアップは終わっているが、衝突防止のためか、突端や張り出した縁が白く光っている。

 笹原は、口を開きかけて、やめた。米田の唇が再びやわらかくほころんだので。

「さて。じゃあね」

「あ、はい」

 笹原が向くと米田はピッと起立して、しかし「あっ」と小さく慌てる。

「待って、見ててくれないんですか? 私、今から飛び込むんですよ?」

「知らない」

「ひどい!」

「ひどくないよ。じゃ、またね」

「またも何も。私、今から、」

「またね。月曜日」

 二歩、歩き出して、米田の言葉を遮り、強く言った。だめ押しのように、振り返って片手を挙げると、米田はあきらめたように小さく笑った。

「おやすみなさい!」

 歩き出すと、背中から元気な声が聞こえた。笹原は安堵し、こっそり笑った。

「おやすみ!」

 振り返って声を張る。いつ寝るのかは知らないが、米田もいずれ寝るだろう。

「気を付けてね」

 一応、付け加えると、米田は肩をすくめた。

「はーい!」

 米田が小学生のように片手を挙げた。笹原は大きく頷いて、足を踏み出した。



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