プロローグ
その瞬間、奴は薄い唇を歪めたように見えた。
そして、普段より低い声で呟いた。
「ブルー、お前もか……」
古代ローマのかの英雄、ジュリアス・シーザーの格言をなぞらえたかの如き台詞に、内心俺は苛立った。
奴は、こんな時でさえ、自分を偉大視してやがる――と。
俺は答えずに、一歩踏み出した。硬いブーツの底が小石をジャリッと踏み潰す。
その音を合図にしたかのように、奴――俺達のリーダー、レッドは崖下に消えた。
激しく岩石が崩れる音が、落ちていく。叫びも呻きも、罵りも激昂も――何一つ漏らさずに、奴は自ら命を断つ道を選んだ。
潔い、とは思わない。
奴がこれまで俺達にしてきたことを考えれば、当然の報いだと思うし、同情の余地など皆無だ。
大空に続く広大な海原を背景に、仰け反るような体勢で、奴は落ちて行った。
俺を正視しなかった。単純に見たくなかったのか、視界に入れる価値すらないと見下したのか――最期に目に映ったのは、多分果てしなく広がる紺碧の、雲ひとつない夏空だったに違いない。
緊張の中、奴の残像が淡く滲む崖の先端へと、俺は慎重に進む。崩れそうな足元に片膝を付いて、眼下を覗き込んだ。
優に30mは下ったであろう岩場の上に、赤い液体が溜まっている。その中に微動だにしない奴の姿も確認出来る。ゴム人形のように、不自然な方向にグニャリと四肢が投げ出されているのは、複雑骨折しているせいだろうか。
顔は――見えない。血に染まった頭部は、岩に突っ伏している。あの、整った高飛車なマスクは、車に轢かれた蛙より無惨に潰れたに違いない。
俺は胸の内ポケットからスマホを取り出すと、望遠の倍率を最大にして、何枚も撮影した。その間、岩場に打ち付ける波が奴の血を洗い、奴の身体を押し動かす。俺は撮影モードを動画に切り替えて、観察者の如く記録した。
波飛沫が上がる。岩場の周囲の海水が、心なしか朱に染まる。ザザン……ザザン……と、荒波が規則的に奴を揺らす。そこにあることが不自然な異物だ、と言わんばかりに遺体を岩から引きずり下ろし――程なく全てを青い海中に飲み込んだ。
血溜まりさえ、もはや痕跡は薄く、捕らえられない。崖の途中には、点々と付着した赤い染みが見えるものの、それすら遠からず風雨が消してくれるだろう。
――終わった……。
スマホの録画終了ボタンに触れ、深く息を吐く。
瞳を上げると、インクブルーの太平洋がキラキラと眩しい。空の色から連続した深い藍だが、緩いカーブが明確な境界を示し、両者が溶け合うことを拒絶していた。