三月:ホワイトデー
学生のときの三月と言えば、色々が詰まった月だった気がする。別れと出会いの期待感。区切り。わけもなくワクワクしたり新しい何かが始まる気がした。
それが今やどうだろう。年度末で忙しいし、来月から入って来る新入社員のためにあれこれ準備しなくちゃいけないし、その新入社員は使えるのかどうか違う意味でドキドキする。あまり多くを期待してはいけない。相手がお腹では何を考えていようとも素直に聞いてくれる子だといいな。できれば最低限の敬語ができて、同じことを聞くのは五回ぐらいで、同じミスは三度くらいで終りにして欲しい。もちろん一度で理解してくれるのが望ましいけど、そこまではハードルを上げない。自分だって最初からできたわけじゃなかった。
気がつけばもう十四日。早い。早すぎる。もう年が明けて二ヶ月が終わってる。二月は短いとはいえ早過ぎるだろう。おかげであれがトラウマになる暇さえなかった。……もちろんあの道はあれから通ってはいないけど。あのお店にもう一度行けないのだけが残念だ。新作買いますって言ったのになあ。向こうは多分気にしてないだろうけど。──誰かと一緒に行くならありだろうか。でも誰と?
「辻堂さん!」
「え? なに?」
データ打ちしてた手を止めて、何故か帰り支度万全でわたしを見下ろしている後輩ちゃんに首を傾げる。化粧直しもばっちりだ。あれ? まだ定時は随分先のはずだけど。
「大雪警報出たらしくて、帰れる人から順次退社してくださいって」
そうか。そういえばそんなこと言ってたっけ。三月の、もうすぐ春だというのにかなりの雪が降るとテレビでも大騒ぎだった。地元では問題ないくらいの積雪が、ここでは簡単に致命傷になる。
「そっちは終わったの?」
「だってこれ使うの明後日ですよねー? 明日中に終わらせればいいかと思って」
「それ、いつまで、って言われてる?」
「……明日まで、ですけど」
「完成原稿を明日まで、だよね。使うのが明後日なら相手が見直しして、直す分があるかもしれないんだから今日中に終わらせた方がいいんじゃない?」
「ええー、でもお……」
「もらったのは数日前だったよね。期日が明日までだとわかってて、今日が大雪だっていうのは結構前から言ってたんだから……」
「だって、あたし他にも仕事があって忙しかったんです! それにいつも大雪だって言ってもそんなに降ったことなかったし」
社会人がだって、とか言うな。なんてことはきっと言っても無駄なんだろうな。叱られたことについて反省するんじゃなくて既に不機嫌モードになってるし。──これ以上はわたしが面倒くさい。
「わかった。じゃあそれこっちにくれる? やっておくから」
「え、辻堂さん帰らないんですか」
帰らないんじゃなくて帰れないんでしょ、という言葉はさすがに飲み込む。今後の人間関係に差し障る。それに、これ以上は時間の無駄だ。彼女の顔に浮かんでるのも申し訳ないな、っていうんじゃなくてラッキー、って感じだし。本当はここで無理にでも終わるまでやらせた方がいいだろうか、とも思うけど早く帰ることが業務命令であるのならそうもいかないだろう。なにかあったらわたしの責任だ。いや、でも業務命令は「帰れる人から」だったはずだよね。……けど、多分無理だな。彼女の中に残って仕事を終わらせるって選択肢はなさそうだ。苦いため息を飲み込む。
「終わったら帰る」
「いいんですかあ? すみません。じゃあお願いしますう!」
自分から言い出したことだけどイラッとするのなんでかな。差し出された殆ど手つかずっぽいそれを受け取って眉を顰める。
「じゃあお先ですー!」
勝手な願いだけどどこか別の部署に異動してくれないだろうか。忙しくなっても精神的にはそのほうが楽な気がする。新人が入ってもあの子には任せられないだろう。二号ができたら大変だ。そこまで考えて頭を振って立ち上がる。落ち着けわたし。頭を冷やせ。こんなにも苛々してるのは疲れてるからだ。もしくはお腹が空いてるから。マイナスのこと考えてもいいことは何もない。
切り替えるべく給湯室で濃いめのインスタントコーヒーを淹れて、自分の机の引き出しに常備してあるチョコを一つ摘んだ。甘さが全身に染み渡って行く気がする。チョコレートを見てふとあの日のことを思い出す。あのあとしばらく経ってからわたしに興野さんから電話があって口座番号を聞かれ、後日少なくない額のお金が振り込まれた。「慰謝料慰謝料。もらっといてー」って興野さんは言ってたけど、未だ手つかずだ。「あいつもう二度と現れないから安心してね」と電話越しにも黒い笑みが見えるような気配が伝わってきたけど本当に大丈夫だったんだろうか。……色々な意味で。
でもそれっきりだ。興野さんからももちろん先輩からも連絡はない。当たり前だけどね。お礼を、と思っていたのに忙しさに忘れていた。
ふーっとコーヒーを吹き冷まして一口飲む。窓の外はみぞれ混じりの雪だ。
雪が大変なのは降り始めじゃなくて積もってから。多分今日は大丈夫。怖いのは明日だ。明日遅刻することも考えて出来るだけのことをしておこう。今やってるやつを終わらせて、後輩ちゃんのこれを終わらせて……。うん、九時までに終わればいい感じ。電車も道路もそのころには空いているだろう。
口の中に残っていたチョコレートをコーヒーで洗い流して、パソコンに向かう。やり始めればあとはただ手を動かせばいいだけだった。
*+*
「終わったー!」
ごきごき、と音を立てて首回りをほぐす。時計を見ると八時半を少し過ぎたところだ。予定より早い。上出来。今日はもう帰ろう。安い赤ワインを買ってホットワインでも飲もうかな。シナモンはあったしオレンジもこの間安かったのを大量に買ったのがある。昨日大量に作ったミネストローネだけでもいいけど、家の近くのスーパーで安くなってるはずのローストビーフを買ってバケットにチーズと挟んでそれを夕飯にしよう。本でも読めばこの苛々も明日には消えるだろう。いや、消す。
見回すと残業はわたしだけじゃなくて他にもいた。そりゃそうだよね。いきなり早く帰れって言われたってそうはいかない。誰かが代わりにやってくれるはずがないんだし──と考えて自分がその代わりに仕事をやったことを思い出して苦笑する。打ち終わったデータは資料と一緒に上司の机に。後輩から引き受けたやつはちょうど頼んだ当人が少し前に現れたのでそのまま引き渡した。案の定心配になって催促に来たらしい。彼女に頼むなら締め切りは少し早めにしておいた方がいいというと、次からそうする、とものすごく感謝された。あの後輩ちゃんは仕事が全然できないわけじゃない。今回のも締め切りが昨日か今日だったならちゃんと終わらせてたはずだ。
いくつかチェックしたあとバッグを取り上げ「お先に失礼します」とフロアを出る。玄関エントランスを出ると冷たい風に身を震わせた。道路はシャーベット状だ。降っているのははっきり雪になっていた。でも冬の雪とは明らかに違う。この分なら明日はそんなに心配いらないかもしれない。
遅れもなくやってきた電車はびっくりするほど空いていて、いいこともあるな、と思いながら帰路に着いた。
「ねえ、あれ大崎郁人じゃない?」
という不穏な声が聞こえたのは駅に着いて改札を抜けた時だった。彼女たちの気にしている視線の方向に目をやると、ロータリーの手前の花壇に凭れ掛かるようにして、すらりとした長身の男性がいるのが見えた。黒縁の眼鏡にボサ髪というその姿は高校の時の先輩に酷似している。むしろ彼女たちはあれでよくあれを大崎郁人だと思ったな、とちらりと思った。
「ねえねえ、声かけてみる?」
「やめなよー、違ったら恥ずかしいよ」
「えー、でもー」
見ないふりして通り過ぎることもできた。わたしを待っているとは限らない。でもそれ以外で彼がここにいる理由がわからない。しばし逡巡して、声をかけようと動き出す彼女たちを小走りに追い越して彼の前に立った。
「遅れてごめんね! お兄ちゃん!」
「え、つ、」
びっくりした顔でわたしを見る彼はやっぱり大崎先輩だった。何か言いかけたのを──多分わたしの名前だろう──制して、その腕を掴んで問答無用で歩き出す。背中越しに「ほらー、やっぱ違う人だったじゃない。大崎郁人に妹いないもん」「だよねー、本人はもっとカッコいいしー」とか聞こえて、ホッと胸を撫で下ろす。大崎先輩もそれは聞こえたんだろう。わたしの行動の意味を即座に理解して苦笑した。
「ごめん」
「大丈夫です。……ええと、ここまで連れてきちゃってなんですけど、誰か他の人と待ち合わせでしたか?」
「いや、辻堂に会いにきたんだ」
思わず足が止まった。大崎先輩は不審がることもなく美しく首をかしげる。やっぱりイケメンはすごいな。うっかりときめくところだった。落ち着けー、落ち着けわたし! しかも腕を掴んだままだったことに気づいてパッと手を離す。
「……あの、何かご用が? あ! 興野さんの件でしたら本当にお世話になりました。近々何かお礼を、と思ってたんですけど──遅くなってしまってすみません」
「それはいい。辻堂はそもそも被害者だろう。こっちが介入したのはたまたまだ。気にしなくていい」
大崎先輩ならそう言うよね。ちょっと、いや、かなり遅くなっちゃったけどあとでこっそりお菓子でも送ろう、と思ってから、それじゃあ大崎先輩が会いにきたのはどうしてだろうと疑問に思う。その思いがそのまま顔に出ていたのだろう。大崎先輩は少し困った顔をして持っていた小さな手提げを掲げてみせた。
「これを、渡しに来たんだ」
「? なんですか」
大人の男性が持つにはちょっと可愛らしすぎる、それでも色合いは落ち着いてるからセーフかな、っていう小さなペーパーバッグ。差し出されるまま受け取って中をのぞくと籠の中にクッキーとパイ菓子とキャンディーの詰め合わせ。可愛い。可愛いけど、わたしがこれをもらう理由がわからない。
その理由を聞こうと口を開きかけたそのとき大崎先輩からお腹が鳴る音が聞こえた。
「あ、いや、ごめん、悪い。撮影のあと真っ直ぐ来てメシまだで……」
イケメンもお腹鳴るんだな! となにやら新鮮な気持ちになる。そりゃそうだ。人気俳優だってトイレにも行けばお腹だって鳴るだろう。そこに複数の人がやって来る気配を感じてこんなところで立ち話もなんだな、と再び大崎先輩の腕を引く。
「これの理由も聞きたいんですがとりあえず……ご飯、食べにきませんか、うちに」
「いいの、か」
「今日はけんちん汁じゃないですけどね。大したものは出せませんけどわたしもこれからご飯ですし」
普通ならお店に行くところだが、この人と連れ立ってお店に入る勇気はない。見つかったら大変なことになるだろう。こんなもっさりモードでも気づく人がいるんだから。
どうします? と見上げると、大崎先輩は心なしか恥ずかしそうな顔で頷いた。わたしより確実に乙女度が高い。くう! 勝負する気ははなからないけど色々負けすぎている!
「辻堂?」
「いえ、行きましょうか」
*+*
「テレビでも見ててください」
大崎先輩をソファに座らせて、テレビをつけて台所に向かう。さて、どうしようかな。ミネストローネ、だけだと多分少ないだろう。前回の食べっぷりを考えるとボリューム的に。考えてたローストビーフは買えなかったから、代わりに生ハムにしようかな。バケットにチーズと挟んで、ミネストローネはショートパスタ入れてチーズを散らしてオーブンで焼く。家から送られてきた根菜があるからオーブンで一緒に焼き野菜サラダ作っちゃおう。……足りる? 兄なら絶対肉が足りねえ! って言うだろうけど。ミネストローネにブロックベーコン炒めて足したらちょっとはマシかな。とりあえず手だけは動かして手早く作り上げる。
「お待たせしました」
目の前に並んだ食事に、大崎先輩の顔が心なしか少し緩む。うん。若干年相応な感じ。わたしの知ってる先輩の顔だ。
「どうぞ」
「いただきます」
まずはお互いミネストローネを一口。うん。やっぱり一晩置いた方が味が馴染む。大崎先輩の口にあっただろうか、と見れば完食するところだった。馬鹿な! パスタ倍以上入れたのに。
「──スープだけならおかわりありますよ」
「……お願いします」
やっぱり丁寧な口調でお代わりを頼むのがおかしい。吹き出すのを堪えて別のスープ皿にスープをよそう。具をなるべく多めにして。──やっぱり足りないかな。様子を見て冷凍庫の残りご飯でリゾットにしよう。どうぞ、とお代わりを渡すと、バケットを完食するところだった。うん。やっぱり多分足りない。大事そうに焼き野菜を食べているのを横目で見ながら、ご飯を取り出して解凍する。あれだけ美味しそうに食べてもらったら本望だよね。
「先輩。残りのミネストローネ、リゾットで食べるのとカレーにするのとどっちがいいです?」
「……リゾット、とカレー……!」
長考に入りそうなその様子に、残りの量を計る。
「両方、食べますか」
瞬間無言で〝そんな手が!?〟みたいに見られて苦笑する。どっちもそんなに手間じゃない。せいぜい洗い物が増えるくらいだ。そしてわたしの朝ご飯はなくなっちゃったけど、まあ明日早めに出てカフェかコンビニですまそう。
先に簡単なリゾットを仕上げて出し、自分の分の食事をとりながら先輩のカレーを仕上げていると、不意にテレビに目の前の人が映ってびっくりする。おおう、知ってる人がテレビに映るってやっぱり変な感じだ。特に目の前に本人がいるとね! そういえば今連ドラやってるんだっけ。とても話題になっているらしいミステリ仕立ての恋愛物。録画はしているけど実はまだ観ていない。感想とか聞かれたらまずいな。しかし。
「──アップになっても肌綺麗ですね、大崎先輩」
「え? あっ!」
後ろを振り返って自分が映ってるのを見て先輩がわかりやすく動揺する。思わず写メってしまいたいほどのインスタ映えシーンだけど、生憎SNSの類いはやってないし、やってたとしてもUPなどしない。否、できない。たちまち炎上案件だ。
大崎先輩は顔を赤くしながらリモコンを探し出し、画面を消してしまった。残念。ま、仕方ないか。
「お待たせしました」
カレーを置くと、先輩はわかりやすく目を輝かせた。わかる。カレーって食欲をそそるよね。うっかり匂いに負けてわたしもちょっとだけ小皿によそってしまった。しかしこんなに食べててどうして太らないんだろうか。あれか、芸能人はジムとか行ってるのか。エステとか。
無心で食べる先輩をじっと見てるのもなんなので再びテレビをつけると、先輩が映る。まだやっていたらしい。時間的にそろそろ今週のクライマックスなのだろうか。ヒロインを抱きしめているシーンだった。そういえばバレンタインのCMでも抱きしめてたな。しかしドラマはそこで終わらず情熱的なキスシーンに突入する。そこに被せるように主題歌が流れ始めた。すごいな。目の前でカレー食べてる人ととても同一人物とは思えない。
わたしの視線を感じたのか、カレーを食べ終わったからか、ふと顔を上げた大崎先輩がわたしの視線を辿り、消したはずのテレビがついてることに気づいて、しかもキスシーン真っ最中であることに気づいてあからさまにギョッとする。ああ、これは気まずいよね。家族団らんで濡れ場のシーンになっちゃったくらい気まずいかもしれない。……いや、先輩的にはそれ以上か? これってなんの羞恥プレイ。そしていきなりリモコンを奪おうとした先輩と、反射的にリモコンを守ろうとしたわたしの攻防で、勢い大きな手ごと掴まれてしまう。
「うえ?」
普通なら〝きゃ〟だろう。少女漫画ならもちろんそうだ。そしてわたしはヒロインではない。間抜けな声を上げたわたしから先輩は素早く手を離した。
「わ、悪い」
「いえ……こちらこそすみませんでした。その、わざとじゃなかったんですけど」
もうニュースになっているかと思ったのだ。どうやらいつもより時間がずれていたらしい。気まずそうな先輩に謝りつつテレビを消した。わたしも気まずい。元凶であるリモコンを置いて、食器を片付ける。洗い物はカレーを作るついでに殆ど洗ってしまったので残りはすぐだ。この間はコーヒーだったから紅茶にしようかな。お客様用のティーカップを用意して、お菓子はどうしようと思ったところでさっきもらったペーパーバッグを思い出す。
「それで、大崎先輩」
「それ、やめないか」
「それ?」
「先輩、ってやつ。もう高校じゃないし」
「大崎さん?」
「……よければ、名前で」
「名前?」
なんでだ。
「名字、嫌いなんだ」
「──なるほど。……では、郁人さん、で、いいですか」
こくり、と頷いた先輩の前に紅茶を置く。そしておもむろにさっきもらったお菓子を掲げる。
「それで、郁人さん。これはどうしてでしょう?」
「お礼」
そこで更にわたしは首を傾げる。
「お礼を渡すのはわたしのほうでは」
「それは、この間のけんちん汁だろ。今日もご馳走になったし」
「あれもこれもとりあえずですよ! 仮です! それに興野さんにもお礼しないと」
「あいつにはいいから」
いや、よくはない。社会人として、いや、一般人としても常識だ。
「それに、その、今日はホワイトデーだろう」
「ホワイトデー?」
カレンダーを見れば、確かに今日は十四日。そうか。十四日はホワイトデーか! これまで縁がなかったから思い出しもしなかった!
「え、でもわたしチョコレート……」
「もらった」
「あれ、あげたっていいますかねえ?」
あれはただ消費に付き合わせただけだったというのになんて義理堅い。しかも半分ずつだったというのに……! そんなこと大崎郁人ファンが聞いたらわたしは間違いなく社会的に抹殺されるだろう。そう思うとなんだかずしりと手の中のお菓子が重くなる。お菓子に罪はないけど。美味しそうだけど
「……俺、味覚障害だったんだ」
不意に先輩が口を開く。
「え? 味覚障害?」
「ストレスから来るやつで、味がわからなくなる……一番最初になったのが高校の時で、合宿のとき辻堂のメシを食ったら、どうしてだか戻ったんだ」
「えーっと、それは、偶然じゃ」
わたしが作ったのは普通のご飯だ。何も仕込んではいないし、特別なこともしていない。ちょうど治るタイミングと重なっただけだろう。
「そのときはそう思った。たまたま偶然だろうって。でもこの間もそうだった。実は忙しくなってきた去年の十月くらいから何を食べても味がしなくなってて、それが、」
「わたしのけんちん汁で戻った、とか?」
「そうなんだ」
本当に不思議だ、という顔をされてわたしも本当に不思議ですねえ、と同意するしかない。心当たりなんて何もないんだから。でもでも先輩の思いこみに一票!
「本当に、助かった」
「え?」
「あの日のあと撮影でメシを食うシーンがあったんだ。演技で何とかなると思っていたけど……メイキング用のドッキリで味に仕掛けがあって」
「仕掛け?」
「激辛になってた。多分前の週だったらわからなかったかもしれない」
「えっ、撮影中にそんな酷いことされるんですか」
「さすがに本番じゃなくてテストだったけど」
本番前の俳優に激辛を食べさせるってそれってどうなの。イジメじゃないの。喉とかやられたらどうするんだ。辛いのが苦手なわたしだったら当分口が使い物にならなくなるだろう。流石芸能界、怖いところだ!
「大丈夫。俺辛いの平気だし」
「でも激辛……。それ食べてたら、それはそれで戻ったんじゃないでしょうか」
「いや、味覚を戻すために色々やったからな。辛いのもマズいのも激甘も結構試した」
それで味覚障害酷くなったんじゃ……! そう思ったけど口にはしなかった。先輩の顔は真剣そのものだ。多分一生懸命本気で色々やったんだろうなあ。でもなんでわたしのけんちん汁……。
「その、ストレスの原因はわかってるんですか?」
「……ああ、わかってる」
理由をいう気はないんだろう。目を伏せた先輩にそれ以上問うのはやめた。わたしもこれ以上深く関わる気はない。何となく、危険な気がするし。
「で……こんなこと言われたら困るとわかってるんだけど」
「はい?」
困るとわかっているなら言わないで欲しいと思うのはわたしのわがままだろうか。先輩は困ったような顔をしたまま顔をほんのり赤くした。イケメンはどんな顔をしてもイケメンだ。多分お酒を飲み過ぎて赤くなってもイケメンなんだろう。ずるい。何がズルいんだかわかんないけど。
「その……、また、同じことになったら、辻堂のメシを食べさせてもらえないだろうか」
「へ?」
「だめか」
「……わたしが作るのは普通のご飯ですよ」
「わかってる」
土下座せんばかりのその様子に、思わず天を仰ぐ。こんなのフィクションだってありえないだろう。
「辻堂」
「あー……、」
ぐるぐるぐるぐる考える。ここは引き受けるべきじゃないと本能は告げている。でもなあ、断ったらすごく、すごーく罪悪感に苛まれそうな気がする……。
「──食べて治らなかったとしてもわたしのせいにしないでくださいね」
「もちろん!」
「なら必要な時は興野さん経由で連絡してください。お渡ししますから」
「なんで興野」
心なしか先輩の纏う空気がひんやりした気がした。え、なんで?
「あのう、自覚ないみたいですけどせんぱ、ええと、郁人さんは有名人なんですよ? こんなところに出入りして問題になったりしませんか」
「辻堂には迷惑だってわかってる」
「いや、別にわたしは迷惑じゃないですけど」
普通なら逆だろう。興野さんはわたしに近づくな、とかいうべきだし、先輩はわたしから距離をとるべきだ。わたしじゃなかったら勘違いしたりするだろう。わたしの料理で先輩が救えるんだ──、なんて。
「なら、また来てもいいか」
「……事前に連絡してくださいね」
「わかった。なら連絡先を教えてくれ」
「この間興野さんに教えましたよね?」
「辻堂から直接聞きたい」
そういうものだろうか。これ以上の押し問答も面倒だし、興野さんに教えた時点でもう知っているものだと思っていたからまあいいか。興野さんの時と同じように名刺の後ろにメルアドと電話番号を書いて手渡す。
「俺のも教える」
「いや、いいです」
きっぱり断ると先輩は不快そうに眉を顰めた。
「登録しておかないと連絡したとき知らない番号で怖いだろう」
「……それもそうですね」
先輩は素早くスマホを操作してわたしにメールを送ってきた。……ついに来てしまった。どうしよう。そうだ! 先輩の名前で登録しなければいいんじゃない? そうだそうしよう。わたしは何とか頑張って登録名を〝先輩〟にした。幸いわたしの携帯に登録されている中に先輩で登録している人はいない。よしよし。
「ここは、景色がいいな」
ふと先輩が窓から見える夜景を見てぽつりと呟く。
「そうなんですよ。そっちのベランダの目の前にはですね! 大きな桜の木があって、毎年独り占めお花見ができるんですよ」
兄に感謝だ。屋台には心引かれるけど人ごみは苦手なので桜の名所には残念ながらあまり行ったことがない。それでもお花見はしたいな、と思っていたので兄からここに連れて来られた時には思わず歓声を上げた。目の前に一面に広がる桜。
「いいな、花見か」
「もー、夢見たいに綺麗なんですよ」
お酒とおつまみを用意して、好きな音楽をかけながらうっとりと桜を眺めるのだ。満開がお休みに重なるのは稀だけれど、まあまあ綺麗に咲いてる休日を一日は堪能できる。雨が降っていてもあれはあれで風情があるしね。
「来てもいいか」
「へ?」
「観に来ても、いいか。花見なんかしたことないから……」
芸能人だもんなあ。一人で花見も出来ないのか。気の毒に。でも。
「郁人さん忙しいんじゃないんですか」
花の命は短い。幸い夜にはこの辺はライトアップされるから夜桜を堪能することもできるけど。
「大丈夫だと、思う」
「……なら、いいですよ」
わたし一人の桜じゃないし、先輩がそんなに花見がしたいと言うのなら協力するのはやぶさかではない。お菓子ももらっちゃったしね。
「楽しみだな」
「楽しみですね」
そういえばいつの間にかイライラがなくなってたな、と気づいたのは、先輩が帰ってからのことで。
こうして慌ただしくわたしの三月は終わっていったのだった。
お花見に続きます。