第二話 彼女のことがぐるぐる(まわる)(1)
――その夜は、まったく眠れなかった。
僕以外が使ったことのないお風呂場でうさ乃がシャワーを浴びて、僕以外が眠ったことのないベッドでうさ乃が寝息をたてる。
眠れるわけがない。
いや、決してやましい理由ではなくて、他に人がいるのかと思うと、やっぱりどうしても気になってしまうのは仕方のないことだと思う。
……どうかそういうことにしておいてほしい。
ちなみに僕が寝たのは床なので、邪推はやめてもらいたい。おかげで背中が痛い。
そうやって悶々としていると、無情にも朝がやってきた。眠れない瞼を閉じたまま、目覚まし時計のヤツを鳴る前に止めてやった。
――残念だったな、おまえさんの今日の仕事はナシだ。帰ってママのおっぱいでも飲んでなっ! はっはっはーっ!
などと、洋画の吹き替え風に意味のない独りごとを言ってみてから、腫れぼったい目を擦りながらベッドの様子を窺う。
うさ乃はまだ寝ているようだ。
僕は起きあがると上掛けにくるまっているうさ乃に視線を落とす。
当然、うさ乃は眠っている時もうさぎのお面を被っていた。でも、起きている時とは見える角度が違うので、彼女の耳からあごにかけてのラインがよく見えた。
部屋へと射し込む無垢な朝の光のなかで、白磁のようになめらかな彼女の肌が、ゆっくりとした呼吸にあわせて静かに上下する。
その様子を見ていたら、なぜだかわからないけれども、僕のなかに彼女への親近感がじんわりと湧いてくるのを感じた。
すると、寝返りを打つようにして、うさ乃がゆっくりと目を覚ます。
「――あ、おはようございます。……あの、念のために言っておきますが、寝ている間にお面を取るのもダメですからね?」
「取らないよ。どうせ僕も罰せられるんだろ?」
あの分厚いパンフレットを読む気は、一切ないから知らないが、たぶん間違いない。
「日本政府が定めた内容だと、禁固十年以下、もしくは百万円以下の罰金だったかと思いますね。まぁ、それ以前に外交問題に発展することは確実ですが」
ふう。さっき変な気を起こさなくてホントによかった。
「ちなみに、わたしたちには種々様々な外交特権が認めれています。なので、あなたが溢れ出すリビドーに突き動かされて、わたしに何かしらの【おいた】をした場合、あなたの股間で揺れる粗品の処遇は、わたしの一存で決めることもできる、ということを覚えておいてください」
右手で作ったピースサインをちょきちょきとさせながら、うさ乃がそのお面の下で、口元をにやりとさせる気配があった。
「お触り厳禁です♡」
不平等条約反対。改正に向けて、いますぐ特使を派遣すべきだよ政府のみなさん。あと、粗品とか言うな。見たことないくせに。
そんなやり取りをしつつ、トーストとベーコンエッグとトマトサラダ、ヨーグルトにコーヒーという朝食をすませると(例のデバイスがカフェインの摂取について警告をしてきた)、準備を整えてうさ乃と一緒に慌ただしく部屋を出た。
アパートの階段を跳ねるように降りると、うさ乃はさっさと歩いて行こうとしたので、声をかけて呼び止める。
「うさ乃、ちょっと待って。おまえの大ファンも一緒に連れていくからさ」
階下に住む鳴門ウシオも、今日は僕と同じ授業を履修している。
「鳴門ぉー、学校行くぞっ!」
インターフォンを鳴らしながら、大きな声で呼びかける。
すると、ドアがガチャリと押し開けられて、巨漢とも言うべき身体つきをした鳴門が出てきた。いや、ずんぐりむっくりと言うべきか。
「おはよう、お二人さんっ! 今日は天気がいいから気分も爽快だっ! さぁ、楽しい一日にしようじゃないか!」
鳴門は、がははっと豪快に笑いながら、僕とうさ乃の肩を力強く叩いてきた。鳴門のポジティブさ加減は、時々こっちが不安になるぐらいに強烈なものがある。
「うさ乃ちゃん、朝メシはしっかり食べてきたか? たくさん食べて、もっと大きくならないとなっ!? ニンジン食べたか? んっ? ニンジン食べなきゃダメだぞ?」
そう言って鳴門はまた、がははっと大口を開けて笑った。
「朝ごはんはちゃんと食べましたが、わたしがこれ以上大きくなる見込みはありません。あと、なぜそんなにニンジンを食べることを勧めるんですか?」
大きくなれなんて言われたもんだから、うさ乃はどうやらヘソを曲げたらしい。
「ん? うさぎはニンジンが好きだと相場が決まっているからな」
「わたしは地球でいうところの、うさぎ目うさぎ科の生物とは遺伝的に関係があるわけでも、ましてや亜種でもありません。ニンジンにはβカロテンやビタミンB・C、カルシウム、鉄などが豊富に含まれているので、人体には有用なようですが、過度に摂取する必要のある食物とは認められません」
口調は淡々としているけれども、うさ乃がムキになっているのは明らかだ。子供かよ。
「なぁに、細かいことはいいのさ。よく食べて、楽しく元気に過ごしてくれればオッケーだ」
うさ乃の反論なんてどこ吹く風。鳴門はまったく意に介する様子もない。
「鳴門さん……さてはあなた、変なひとですね?」
どうやらうさ乃のなかで、鳴門の反応をどうやって理解をすればいいのか方針が決まったらしい。まぁ、それで間違ってはいない。
「人間なんてみんな変なひとだ。まともなヤツなんて、この地球上にはいないぞ? それともなにか? うさ乃ちゃんのとこの星は、まともなヤツばっかりなのか?」
鳴門が前屈みになりながらうさ乃を覗きこむ。
「……いえいえ。わたしたちの惑星も敬愛すべきクソッタレばっかりですよ」
あら嫌だ。お下品ざますよ、うさ乃さん。
きっと、うさ乃はお面の向こうでにやりとしているに違いない。
そして、うさ乃は鳴門と顔を見合わせると、「ふふふっ」と笑いあって妙な連帯感を醸成させた。