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第八話 夏の日差し(タブー)(1)

 その日、僕は目を覚ますと、カーテンを大きく開けてベッドで眠りこけているうさ乃に声をかけた。

「おい、うさ乃。今日は学校に行くから、おまえも行くなら起きろよ」


 肩を揺さぶると、うさ乃はむにゃむにゃ言いながら僕の手を払おうとしてきたが、そうはさせじと反対にその手を掴み返す。


「起きないなら置いてくぞ」

 すると、うさ乃はようやく起きる気配を見せる。


「んん……。何しに行くんでしたか、ね?」

「ゼミの教授が担当してる公開授業の手伝いだよ。みんなと約束してるからさ」

 僕と鳴門は当然として、瀬戸内さんと御蔵さんにも手伝ってもらえることになっていた。


 瀬戸内さん家の別荘から帰ってきてから三日が経つ。結局、僕は瀬戸内さんに何も伝えることができないままだった。帰宅当日は、うさ乃と御蔵さんが二日酔いで置物と化していたこともあり、粛々と帰り支度をして早めに引き揚げた。あれから瀬戸内さんとは話をしていないし、御蔵さんとも同様だった。


 起き上がったうさ乃が、寝ぼけながらパジャマのズボンを脱ぎだす。

「おい、ここはまだ風呂場じゃないぞ。シャワーを浴びるつもりなら、ちゃんとあっち行ってくれよ」

 うさ乃の背中を向こうへと押しやる。すっかり馴染んできたのか、このところのうさ乃は油断しまくりだ。風呂上りも半裸でうろうろしていたりする。


「今日はパンの気分なのでよろしく~」

 うさ乃はバスルームへと向かいながら、片手を上げてひらひらとさせる。


 僕はトースターにパンを並べてスイッチを入れると、冷蔵庫を開けてバターと卵を取り出した。トーストとスクランブルエッグとシリアルに、ヨーグルトとオレンジジュース。今日はそんな感じのつもりだ。


 うさ乃がシャワーを終えると、慌ただしく朝食を摂って出かける用意を整える。そして、準備ができると、一階の鳴門を迎えに行ってそのまま一緒に学校へと急いだ。今日も瀬戸内さんたちとは、正門のところで待ち合わせをしていた。


 約束の時間ぎりぎりだったので、焦って正門前まで走っていくと、ちょうど瀬戸内さんと御蔵さんが交差点をこっちに渡ってくるところだった。


 先に御蔵さんが僕らに気付いたようで、瀬戸内さんに何やら声をかけて小走りになった。今日の御蔵さんは、いつか僕がしてみせたようなガーリーなワンピース姿で、なんだか少しお嬢様然としていた。


 御蔵さんは横断歩道を渡りきると、そこで初めて瀬戸内さんが一緒にきていないことに気が付いたようで、くるりと後ろを振り返った。


 どうやら、瀬戸内さんはミュールが片方脱げてしまったらしく、片足跳びをしながら横断歩道を少し戻っているところだった。青いスカートの裾がふわりと揺れ動き、後ろで束ねられた艶のある黒髪が、夏の日差しに映える白いブラウスの上で跳ねる。彼女には躍動感のある動きがとてもよく似合う。すると、


 ――大きな衝撃音と共に、瀬戸内さんが僕の視界から乱暴に、唐突に消えた――


 彼女の姿が、瞬時に黒光りした大きな塊に取って代わられたかと思うと、その黒い塊は半回転しながらガードレールに突っ込んだ。


 何が起こったのか理解ができなかった。世界が凍りついて、すべての動きが止まる。

 響き渡る誰かの悲鳴。飛び交う怒号。どよめく群衆の騒めき。


 ――瀬戸内さんがいない。――彼女の姿が見えない。


 せり上がってくる僕の声は、喉に張り付いてそれ以上出てこない。


 どういうことだよ。意味わかんねぇよ。ウソだろ? 


 膝が震えてうまく歩くことができない。


 夢遊病者のように車道へ歩き出ると、転がったミュールの先に白い脚が見えた。

 片方だけが裸足だった。


 それを見た途端、僕は呻き声を上げながら駆け出していた。


 飛び込むようにして側まで行くと、横たわる瀬戸内さんの全身には不自然なまでに力がなかった。それは目を瞑っているのとも、眠っているのとも明確に違う、絶対的に異質な姿だった。


 僕の全身は震え、奥歯がガタガタと不快な音を立てる。


「せ、瀬戸内……さん?」

 僕が震える手を彼女に伸ばそうと動かすと、横から強い力で掴まれた。


「ダメだ、カツオ。動かしたらいけない」

 反射的に見上げると、険しい顔をした鳴門だった。


「で、でも、瀬戸内さんがぁ、鳴門ぉっ、瀬戸内さんがぁっ」

 僕は鳴門に掴みかかると、駄々をこねる子供のようにわめき散らした。


「瀬戸内さんの脈拍、呼吸は既に止まっています。血圧も急速に低下しています。じきに体温も下がっていくでしょう。脳波も感知することができません」

 うさ乃だった。


「な、なに、言ってんだ……うさ乃?」

 僕は鳴門の襟元を掴んだまま、うさ乃を凝視した。


「瀬戸内さんは既に生命活動を停止しています。状況から推測するに即死でしょう。苦しんだりはしなかったはずです」

 淡々と、うさ乃はそう告げた。それはテレビのキャスターが、ニュースで誰かを悼むかのような、どこか遠い物言いのように感じられた。


「お、おまえ……ふざけんなよ? 瀬戸内さんは、気を、気を失ってるだけ……なんだろ?」

 僕は向き直ると、うさ乃に詰め寄った。


「あなただって、とっくにわかっているのでしょう? もう彼女が目を覚ますことはないと」

 その声音には、同情とも憐れみともつかない響きが含まれていた。


「――瀬戸内さん……。ぼ、僕は……まだ何も言えてない……。何も、何も伝えられて……いないのに。瀬戸内さん……こんなっ」

 勝手にこみ上げてくる嗚咽を止めることができない。涙で視界が滲んでくる。


 僕はいったい何に涙しているのだろう。瀬戸内さんを失ってしまったことか、自分の想いを伝えられなかったことか。悲しみか、悔しさか、恐怖か、畏れか。思考と感情は入り乱れて、何がなんだか、もう僕にはわからなくなっていた。


「気の毒ですが、世界は常に理不尽で、誰の思惑にも与しません。また、人間の命というものは、とても脆く儚く、そして容易に失われてしまうものです。だから尊いのです」

「……うさ乃?」

 僕の呼びかけには応えずに、うさ乃は淡々と続ける。


「人間の命は有限です。無駄に使える時間など、本来、一秒だってありはしないのです」

 そして、うさ乃は僕を正面から見据えると、声のトーンを落とした。


「枕崎さん。あなたの後悔と無念は他でもない、あなた自身の怠惰が招いたものです」

 うさ乃のお面に空いた、暗く空虚な二つの穴に射竦められる。


「なにを言って――」

 僕が口を開くと、うさ乃が鋭く遮った。


「あなたは永遠に瀬戸内さんを失ったのですよ。あなたの想いを彼女が知ることは永遠にありません。あなたの想いは、もうどこへも行けません」

 うさ乃は一瞬だけ、ちらりと横たわる瀬戸内さんを見やった。


「あなたには、やるべきことを果たす機会がたくさんありました。なのになぜ、そうしなかったのです?」

「それは……」

 僕は言葉に詰まる。


「自分の人生が、相手の命が、失われるものだとは思っていなかったからでしょう? いつかは終わるものだと理解はしていても、切実に自分の問題だとは思っていなかったからでしょう? それを忘れたように生きていたからでしょう? 違いますか?」


 すると、御蔵さんが泣きじゃくりながら、嗚咽を噛み殺すように呟いた。


「うさ乃ちゃん……いま、そんな風に言わなくても……」

 言われたうさ乃は、御蔵さんの方へ視線を向ける。


「御蔵さん。あなただって同じですよ。いや、地球人類はみんな同じです。あなたたちは死を忘れて生きている。今日の延長線上に明日が確実にあると信じて疑わない。それは、わたしには非常に不思議な態度に見えます。あなたたちの寿命は、わたしからすればとても短いものです。生物としても脆弱で、それを補う科学力もたいしたことがありません。なのに、どうして今日を生きないのですか? 過去を反芻しながら少し先の未来を憂う。あなたたちのやっていることはそればかりだ」


 うさ乃はその場にいる全員の顔を見渡した。


「――うさ乃……頼む。いまは、そんなこと言ったって……。瀬戸内さんを、瀬戸内さんを助けてくれよ……。おまえならできるんじゃないのか?」


 僕はすがりつくように、うさ乃の両肩に手を置いて懇願した。


「それはできません」

 うさ乃はゆっくりと首を左右に振ってみせる。


「言ってたじゃないか……カエルになった僕が海で死んでも助けてくれるって――技術的にはなんだってできるんだろ?」


 あの時は冗談だと思っていたけれど、あれは可能なことなのだ。いまのうさ乃の話を聴いて、僕は確信をしていた。


「頼むよっ! うさ乃ぉ!?」

 しかし、うさ乃は無情にも首を横に振ると、冷たく言い放った。


「できません」

 僕は全身の虚脱感に耐えられなくなって、その場に崩れ落ちた。


「――うさ乃……僕は、僕はどうすれば……いいのさ」

 消え入りそうな僕の問いかけを、うさ乃はばっさりと切り捨てる。


「想い出と後悔を抱いて生きていくんです。それは、あなたが支払わなくてならない怠惰の代償ですから」

 頭上から降り注ぐうさ乃の醒めた声音に、僕は両手を強く握りしめる。


「――うさ乃……お願いだ。瀬戸内さんはこんなことで終わっていいひとなんかじゃない。彼女のいない世界なんて考えられない。彼女の代わりにつじつま合わせが必要なら、僕が死んだっていい」

 僕は立ち上がると、うさ乃を正面から見据えた。


「――瀬戸内さんを助けて欲しい」

 その場に沈黙が降りる。誰かが呼んだ救急車のサイレンが間近にやってくる。


 周囲を何人かが慌ただしく走り回っていた。

 うさ乃はじっと僕を見つめたまま微動だにしない。


 変な話しだが、僕はいま、自分が本当に生きているのだと強烈に実感していた。僕はいままで、こんなにも何かを真剣に望んだり、願ったりしたことはなかった。でも、いまはどうしても叶えたくて、僕の手は笑ってしまうほどに震えている。こめかみの血管がどくどくと脈打ち、どんどん呼吸が荒くなる。僕はごくりと喉を鳴らして、うさ乃の答えを待った。


「相応の対価が必要です」

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