ある日森で出会った恐怖の物体
長く平穏が保たれていた森に、不意に訪れた不穏な空気。
皆が身を隠し、どうにかやり過ごそうとする中、俺だけはそれに納得出来ずに鬱屈としていた。
「止めてっ、貴方が一人で出た所で捕まってしまうのが落ちよっ!」
「……冗談だろう?俺が人に負けると思っているのか?」
「違うっ!負けるなんて思っていないけど、でも人は数を揃えてやって来る。貴方が一度勝ってしまったら次はもっと多くの人がやって来るのよ?」
「来ないかもしれないじゃないかっ!大体今まで人はこの森にさえ入って来なかったんだぞっ!」
「何か、事情が変わったのかもしれないでしょうっ!?あ、待ちなさいっ!」
姉が俺を捕まえようと伸ばした手から逃れて走り出す。
莫迦にするな、俺だってもう一人前の戦士なんだ。
森の中で生きて行く術はとうに身に付けている。
皆が隠れたあの洞穴からは離れた所が良い。
ほらな?ちゃんとわかってる、大丈夫だ。
森の中を移動しながら、やって来る嫌な匂いを嗅ぎ分けて進んで行った。
大丈夫、俺だって出来るんだ。
森の木々の中に潜みながら、嫌な匂いを発する人を観察し続けた。
二人で魔獣に乗りながら移動を繰り返しつつ、魔獣の群れに襲い掛かっては倒しまくって解体し、その日の夕食にしていたり、魔核を取り出して何処かに仕舞っているのを見ていた。やっぱり、あいつらは嫌な奴らだ。
このまま森の中で殺してしまえばいい。
火を点けて眠りに付くのを見た俺は、動かなくなった人を観察し続け、そうして行動に移した。そうだ、今の内に殺せばいい。
そうして音も立てずに走り出し、一気に喉に食らい付こうとした瞬間にその勢いを利用されつつ投げ飛ばされた。
一瞬呆然としてしまったが何とか立ち上がり、そうして狙った人を見れば、そいつはにたりと笑いながら俺を見ていた。
何故バレタ?
バレない自信があったのに。
そう思いながらもう一度地を蹴り、喉に噛り付こうとすると、そいつはあっさりと俺の攻撃を避けた上、足払いを掛けて来て転倒させられる。
そのまま抑え付けらるかと思ったら、そいつはにやにやと口元を歪めて俺を見下ろしているだけで。
くそ。
何度も何度も同じように地を蹴り、喉が駄目ならと爪で身体を攻撃しようとしても躱されてしまう。それならばもう一人の方をと狙いを変えれば、瞬間的に移動して来たそいつに思い切り殴られて転がった。
……頭がクラクラする……。
「魔獣……じゃないよな?もしかして獣人?」
見下ろして来たそいつは、不思議そうな顔で俺を見下ろしていた。
その隣にもう一人が加わって、二人で俺を見下ろして眺め、俺を殴った奴が水を飲めと口に入れるから慌てて吐き出した。
「おいおい……あ、大丈夫だよ、毒なんて入ってない。ほら」
そう言いながら俺の目の前で水を飲んで見せたそいつが、もう一度俺の口元へと水を持って来た。口の中に広がった血の味が気持ち悪いから貰ってやるだけだ。
嬉しそうに笑ってんじゃねえよ。
口の中に水を入れた俺は、血の味を濯いで吐き出し、もう一度水を口に含んだ。
「昨日から見張ってたんだ、知能はあるんだろう?言葉は通じてるかな?どうだ?」
「……話し掛けんな」
「おおおおおっ!!!すっげええ、やっぱ獣人だっ!やっほうっ!やっぱ耳触るのって定番?お約束だよね?触っていい?」
急にデカい声でそう叫んだ奴が、俺の耳をじっと見ながら手を伸ばして来るのでそれを振り払う。物凄く悲しそうな顔をしたが、莫迦かってんだ、気安く触んじゃねえよ。
「じゃあもふっていい?」
「黙れ」
「あれ、ツンデレ?いや、ツンツン?」
訳のわかんねえ言葉でそう言って来るそいつをマジマジと眺めたら、その後ろから覗き込んだ顔を見て何故か恐怖に震えた。
何だ、あれは?
「いちる、ちょっと落ち着こう」
「でも獣人ですよっ!?ヴィーこそどうしてそこまでテンション低いんですかっ!?」
恐怖の物体はそう言った後、最初の奴を後ろへと押しやって俺の目の前に顔を突き出した。
やべえ、コイツ、すげえやべえ奴だっ!
一瞬で全身の毛がぶわっと逆立ち、逃げなきゃっ!て本能で悟ったけど、今動いたら確実に殺される。わかんねえけど、それがわかった。
「……君は獣人で間違いないのかな?」
言われた事は理解できた。でも、動く事が出来ない。
「ヴィー、何か本能でヤバいって分かってんじゃないですかね?」
「……おかしいなあ?そんなに怖いかなあ?」
「そりゃもう。気付いて無いの、呑気なお嬢様方だけですし」
あっさりと俺から視線を外してそんな会話をしているってのに、俺ときたら全然動けなくなってた。嘘だろ……おかしい、俺だってちゃんと戦えるはずなのに。
「この人、確かに怖いけど無闇に命を奪ったりはしないと思うので大丈夫ですよ?」
「いちる、そこは断定しようよ」
「しきれないのが悲しい所ですよね?」
そう言われた恐怖の物体が、ふふっと笑って見せた。
何でだ、何で怖い?
「大丈夫大丈夫、取り敢えず今は怖くないですよー?」
そう言いながら俺の頭を撫でて来たその手を振り払い、一目散に駆け出した。
もう、無理だ。ヤバい、人は本当に危険だっ!
姉ちゃん、ごめん、俺、死ぬかもしれない。
さっきから全然離れずに追いかけて来るアイツ、何で諦めねえんだよっ!
つうか、人ってのは獣人に負けるんじゃなかったのか?何でこの速さで走れるんだよっ!
「あー……やっぱすげえな、獣人。ちょっと疲れた」
もう走れねえと足を止めて振り返った俺に近付いて来たそいつは、少しだけ荒くなった息をしながらそう言って来た。
嘘だろ……何だよ……聞いてねえよっ!
「なあ、名前、教えてくれ。私はいちるって言うんだ」
「…………ガレム」
「なあガレム、この森はガレムたちの森なのかな?」
「知らねえよ」
「そっか。この森で勝手に魔獣を狩ってごめんな?」
いちるはそう言ってにかっと笑って見せた。
何かもう、どうでもいいや。
「魔獣を狩るのは俺だってやってる」
「そうなんだ。ガレムは魔法を使えるか?」
「使えねえ。魔獣とは違う」
「……魔獣が知能付けた進化の形って訳じゃないのかなあ?」
ぼそりと聞こえないように呟いたのかもしれないが、俺の耳にはちゃんと聞こえるんだ。
「魔獣と一緒にすんな」
「……おっと。ごめんね?」
そう言いながら手を差し出して来る。
「……何だよ」
「仲直りの握手?」
そう言って首を横に倒して見せた。
「最初から仲良くなってねえけど」
「うわ……そう言われればそうだわ。あー、仲良くなろうよ、ガレム」
何かもう、どうでもいいって言うか、コイツラに殺されて終わるのかって思ったら、何かちょっと残念な気持ちになる。
「お前さあ、もっと強い感じは出せねえの?」
「え?何それ?」
「仮にも俺の攻撃をあっさりと躱したんだしさ、もうちょっとこう、戦士っぽいって言うか、ごっつい感じで、これなら俺が負けても仕方がねえって思えるようなって言うか」
「ああ、無理だね?」
「あっさり言うなよっ!おかしいだろっ!お前、俺に勝ったじゃねえかっ!」
「……勝負してた?」
間抜けな顔でそう言ってきたいちるに向かって、爪で腹を切り裂いてやろうと思ったらこれもあっさりと避けられた。
「勝負するなら受けて立つけど?」
「はっ、言ってろ」
走り回って上がった息は整えた。
大丈夫、落ち着け。
そうだ、まずは腕を狙え。
腕を伸ばして切り裂こうとすれば、その腕が目の前から消えいつの間にか俺の脇腹に拳を叩き込んでいた。
「ぐふっ」
変な声を出しながら地を転がる。
くそ、何でコイツ。
起き上がって地を蹴り、今度は肩に狙いを付ける。
同時に喉へと伸ばした腕を掴まれて、視界がぐるりと回転して背中から地に落ちた。
……嘘だろ?
「さすがだなあ、ちゃんと受け身取れてるとか」
「……うるせえっ」
ああ、俺達勘違いしてたんだ、きっと。
人は俺達より弱いけれど、数に物を言わせて襲い掛かって来る奴らだって勘違いしてた。
こんなに、こんなにも強いなんて。
姉ちゃん、俺……ごめんな?
起き上がって形振り構わずに掴み掛った。
後は、他の皆がコイツに見付からない事を願う。
「……勝負、あったよな?」
うつ伏せに地面に抑え付けられ、動けなくなった俺に向かっていちるがそう言った。
ああ、負けたよ、ちくしょうっ!
「殺せよ」
「何でだよ。仲良くなろうって言ったじゃん」
笑いながらそう言って俺を解放する。
……何でそう……。
「何で殺さないっ!」
「仲良くなりたいんだ。ガレム、私と友達になって下さい」
地面に寝そべったままの俺に合わせるように、しゃがみ込んで顔を覗き込みながらそう言って来た。
「……莫迦じゃねえの?」
「良く言われる」
そう言って笑ういちるに、俺も釣られて笑った。
「なあ、食いもん寄越せ。腹減った」
「残り物無いから明日の朝まで待てば」
「ちっ」
観念した俺は、いちると一緒にあの恐怖の物体の待つ場所へと歩いて行けば、恐怖の物体は火の傍で寝そべってた。
「なあ、あれは何だ?」
「私の夫だよ。エルトって言うんだ」
「……夫ってなんだ?」
「え?ええと、人ってのは男と女で番になってさ、子供を生すんだ」
「……お前の番って事か?」
「そうそう、番」
そうして、嫌がる俺に『勝負に負けたくせに』と言う言葉で黙らせたいちるは、俺を抱き締めてそのまま眠りに付いた。
本当に莫迦だと思う。
大体、眠ったその隙に俺がその喉に喰らい付くとは思わないのか?
おかしいだろ、ホント。
結局いちると恐怖の物体は、森の中を移動しながら魔獣を倒し、そうして森から出られる場所まで案内させられた。
俺だって喜んでこんな役目を引き受けた訳じゃねえ、ただあの恐怖の物体が『頼むよ』って笑いながら言った時に、何故かこくこくと頷いちまっただけだ。
「ガレム、お蔭ですっごく楽しかったよ。ありがとな?」
「……いいのかよ」
「ああ。また会う時もあるかもしんないけど、そん時は絶対手土産持って来るよ」
森から出る前に解放された俺は、そのまま魔獣に跨って行く二人を見送った。
暫くそうして見送った俺は、久し振りに姉ちゃんの待つ場所へと戻れば、頭を殴られ、顔を引っ叩かれ、そうして抱き着かれて泣かれた。
わかってるよ、もう二度と人の前に姿を出さないよ、俺。
姉ちゃんや爺さん達にいちる達の事を話したら、姉ちゃんからもう一度殴られたけどな。
『人ってのは本当に身勝手な生き物なんだ。だから絶対に見付からないようにしろよ?』
って、人であるいちるが言ってたからな。
大丈夫、いちる以外の人の前には出ねえよ。
ま、抱き着かれんのも頭撫でられんのも悪くなかったけどな。
そう思いながら、集落の中で小さい子供達から羨望の眼差しで見られるのもいちるのお蔭だなと、にやりと笑った。
~おしまい
初掲2014,01,29.