表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ちくわ

作者: 工藤 斜

 その人は、銀色のチェーンを首からかけていました。だから、てっきり誰かに飼われているのかな、なんて思ったのです。捲くった白いシャツから出た腕は華奢だけど、ごつごつしていて少しだけ不器用に見えました。……それが最初の印象でした。


 その人に出会ったのは、心地のよい初夏の頃です。いつものように、私は道路で丸くなっていました。

 その日、私はずいぶんおなかを空かせていたので、その人が持っているものの匂いに誘われてしまったのです。そのまま、匂いに誘われその人の後についていくと、私に気づいたその人はしゃがみこんで私を見ました。どことなく目つきが悪く、暗いオーラをまとった人だったので、私は警戒しました。けれど、そんな私にお構いなしに、彼は口元に笑みを浮かべてから前足の下あたりを抱え私を捕まえてしまったのです。怖かったので、私は足をバタバタさせて抵抗しました。私の頭に何やら、最近流行の動物虐待の悲惨な映像が頭をよぎったからです。私の爪が、彼の手の薄い皮膚を何度か傷つけました。血がじわりと滲みました。すると、彼は私を自分の目線の高さまで持ち上げてから言いました。「まあ、そんなに暴れるなよ」と。

 そのまま、私は抱えられてどこかわからないところへつれていかれました。そこで私は足を拭かれて、広い部屋に放たれました。何だか居場所がしっくりこないので、隅っこでうずくまっておとなしくすることにしました。おなかも空いているし、何だか変な人に拉致されるし、本当についてないと思っていました。だけど、部屋の端から私を呼んでいるような声が聞こえてきたのです。「おいで」

 その人が私に与えてくれたものは、ちくわでした。ちくわなんて、普段はあまり食べないのだけれど、あんまりおなかが空いていたので、うっかり手を出してしまいました。そっと近づいてゆっくりと差し出された手の上のちくわを前足で弾いてから、床に落ちたちくわをくわえて、部屋の隅っこへと走りました。恐る恐る、ちくわに歯を立ててかじり始めるといつの間にか夢中になりました。それだけ私は餓えていたのでしょう。必死でちくわを食べていました。その人が私に近づいていることに気がつかないくらいに。

 気がついたときには、部屋の端にいたはずのあなたが、いつの間にか私の一メートルほど前にしゃがみこんで私を見ている状態でした。恐れ慄いて、喉を鳴らして威嚇する私を見て、あなたはまた口元で笑ってから「いい声してんじゃん」と呟きました。

 しばらく、彼は私のそばで私が懐くのを待っていました。しかし、私は彼のほうに寄りつかなかったので彼は諦めて、ピアノを弾き始めました。何度も同じフレーズを繰り返したかと思ったら、また違うフレーズ歌ったりということを繰り返しているようでした。

時々、嬉しそうな顔で歌っていたかと思うと、今度は気難しそうな歌を歌っています。その様子が何だかとても不思議だったので、私はずっと近くで見ていました。すると、彼は不意に私に向かってにやりと笑ってから、手を止めました。「こっち、来たい?」と私に問いかけた後、少し怪訝な顔をしてから彼は何かを思いついたようでした。それからこう言いました。「君の名前は今日から、ちくわだ」



 こうして私は、なぜかちくわという名前になりました。そのときは、とても悲しかったです。だって、私は女の子なのですから。当然、はじめのうちはこの名前が気に入らなくて、そっぽを向いていたのです。


 「ちくわ」と、この人は私を呼びます。何だって、こんなところへつれて来られて、へんてこな名前を付けられなくてはならないのか、私にはわかりません。

 彼は、懲りもせず私を呼びます。何だかちくわと呼ばれ続けるのが鬱陶しいので、仕方なく私は彼の方へ歩いていきます。すると、彼は私をまた抱え上げてどこかへつれていくのです。足を止めた彼に気がついてあたりを見回すと、何だか私の嫌いなにおいがしました。足元の裾を折り上げて、彼が踏み出した方向を見て私の嫌な予感が的中したことが分かってしまいました。そう、そこはお風呂。

 「ごめんな、ちくわ」そう言って、彼は私にお湯をかけました。私はまた暴れました。それでも彼は、私のからだを洗うために自分まで泡だらけになっても続けました。そんな彼を見ていると、何だか暴れるのがかわいそうになってしまって、私は観念しました。私のからだから泡が流されると彼は手の甲で顔を拭い、「美人だよ、ちくわ」と言いました。あんまり自然に言うので、私は驚いてしまいました。……勝手に変な名前をつけるし、目つきが悪いし、何やら暗いオーラ出しているし、気楽な野良猫だった私にとって飼い主としては最悪だと思っていたこの人に、何だか意外な一面を見てしまって、私は心奪われてしまいました。

 が、次の瞬間そんな気持ちは消えました。なぜなら、彼が服を脱ぎ始めたからです。いくら私が猫だからって、それは許されるんですか? そんな、私の問いに答えてくれるはずもなく、彼は「ちくわのおかげで、泡だらけだよ」と呟いてからじっと固まっている私に言うのです。「そーか。そんなに泳ぎたいか」と、いたずらっ子のように無邪気に笑ってから私を抱えてバスルームへ向かう。「ちくわも俺と同じで風呂が好きか。そうかそうか。」

――ありえない。

私がお風呂で暴れたことは言うまでもありません。


 すっかり、日も暮れてしまった頃に私の毛が乾きました。綺麗に洗われて私は生まれたばかりの頃のように真っ白のふわふわの猫になりました。そんな私を見て、彼は嬉しそうに笑いました。この人の不思議なところは、ものすごく暗い顔つきなのにやさしい笑顔をするところです。でも、それは綺麗な笑顔じゃなくて作り慣れない少し不器用な笑顔です。そんな彼の笑顔を見ていたら、やっと少しだけ好きになれそうな気がしました。

 彼はずいぶん疲れたようで、あくびをひとつしてから立ち上がりました。私は目で彼の動線を追っていました。一つのドアの前で、彼は振り向きました。でも、何も言わずにドアを開けて部屋へ入っていきました。私も黙って彼の後についていきました。彼は、ベッドの上で仰向けのまま、手招きをしました。私は黙って、ベッドに登りました。それから彼の腕の隣辺りで丸くなって顔を撫でていました。彼はそんな私をしばらく見ていました。少しして、私がからだをつくろうのに飽きた頃に彼は手を伸ばして私を自分の胸の上に乗せました。何だか安定性が悪くて、変な感じだったけど鼓動の音が心地よくて目を閉じてからだを伏せてみました。彼は指先で私の喉元を撫でました。私は、母親がいない野良猫で後にも先にも暖かいところで眠った記憶はひなたぼっこ以外にありません。だから、誰かと触れ合って温かいと感じたのは初めてでした。気がつくと、私はなぜかからだを震わせていました。どうしてなのか自分でも分かりませんが、震え止まらないのです。

「ちくわ?」と彼は私を呼びました。私は搾り出すように鳴き声を返したのですが、うまく声にならなくて戸惑いました。「いいんだよ。何も言わなくて。」そう言って彼は私を降ろした後、そっと抱きました。そのまま、彼は歌を歌っていました。子守唄という感じではないけれど、その声が何だか心地のよい周波数で私はいつの間にか眠っていました。

 そんなわけで、私はこの人と暮らすことになったのです。


 彼はみんなに『ユキ』と呼ばれています。……本当の名前は知りません。ただ、みんながそう呼んでいるからそういう名前だと思っています。結局、どうだっていいのです。私は猫で、彼は人間。だから、名前なんてどうだっていいのです。ただ、私も彼も同じように生きている、それだけがすべてなのです。


 何日かしたある日、いつものように彼は暗くなってから帰宅してきました。何となくいつもと様子が違ったので、私は遠くから彼を見ました。彼は、何だか消えてしまいそうなくらい弱々しく見えました。私は、立ち止まったままで動かない彼の足にくっついて鳴いてみました。すると、彼は私を見て、泣きそうに歪んだ笑顔で笑ってから寝室へ歩いて行きました。部屋着に着替えてから、彼は力なく座り込んで何か考えているようでした。思いついたように、ピアノを弾いてハミングしていました。でも、しばらくするとピアノを弾くのをやめてへたり込んで、顔を伏せたまま彼は呟きました。「でてこない」


 それから、何日も彼は家の中にいました。時々電話で誰かと話したり、歌を歌う以外は何も話さずにいました。まるで、人を嫌っているように見えました。本当は一番孤独が苦手な人なのに、誰にも触れずに生きている姿は猫の私にとって滑稽に見えました。どうして人は自分で自分をすり減らすのだろう? 誰のため? 何のため? と思ってしまうのです。私は、わざと知らん振りでそっぽを向いて窓の外の雲を見ていました。このところの彼は、ずいぶんとやつれたようで、見るに忍びない感じだし、私のことなどほったらかしなのです。ですから、私は私で自由に過ごすことに決めました。だけど、部屋の奥から聞こえる音はずっと止まずに聞こえてくるのです。彼はいつからこんな泣いているような歌を歌っているのだろう? と思っていました。私が知っている彼の声はこんな声ではなくて、もっと……。


 日も暮れて、空にぼんやりと星が見えた頃、静かになったことに気がついて私は部屋の中に戻りました。真っ暗な部屋の中で、何の音も聞こえないままの静寂が空気を冷たく冷やしているように感じました。彼は、寝室の床に力尽きたように、横たわって眠っていました。傍らには何か書き殴ったメモがあるのですが、ずいぶんぼろぼろにくたびれて見えました。すると「くしゅっ」とくしゃみをして彼は目を覚ましました。私が知る限り、彼は丸二日間眠っていませんでした。それでも、まだ声を枯らして歌を唄おうとしています。なぜ彼がそこまでするのか私には分かりません。だけど、彼の姿は悲惨たるものです。私は、見ているのが辛かったのですが、それでも、猫の私には彼を止めるすべがありません……。ただ、傍にいて見つめることしかできないのです。


 本当に力尽きて彼は、ようやくベッドに横たわりました。それは深夜の二時でした。それでも、彼は眠れない様子で小さな声で歌を口ずさんでいました。私は彼の傍で鳴きました。彼は私を目で捉えたまま、歌い続けました。けれど、その目に映っている私は私として彼に認知されていないことが分かります。

 やがて、突然歌は途切れました。「書けない」そう呟いて彼は静かに泣きました。だけど、それすら慣れていないのか、どうやって泣いたらいいのか分からないような泣き方でした。

 どうしてこの人はこんなに不器用なのだろう、と私は思いました。笑顔も何だか下手だし、泣くことだってままならない。ひとりぼっちで暗いところで何のために何と闘っているのかさえも、分からないのに自分をすり減らしているだけ。それでも、その姿が決してかわいそうだとは思わないのです。

それはこの人が、必死に生きているからです。いのちを燃やして、何かを創り出そうとしています。滑稽だと思ったその姿が今は何だかとても愛おしいのです。

その時、私は初めて心から「猫ではなく人間に生まれていたら」と思いました。あの夜、私が知った温もりはただの熱ではなく、この人の命が燃えるときに生まれる熱なのだと知りました。決して大きな火ではないけれど、それは確かにこの人の中で燃えている火なのだと感じることができるのです。


 あなたが私に与えてくれたものは、その温もりだけではなかったようでした。どうして私は猫なのでしょうか。

どうか教えてください、この気持ちは一体何なのでしょうか。もしも私が人間だったら、あなたのその下手な笑顔をきっと増やしてあげられたでしょうか。ぼろぼろのあなたを抱きしめてあげられるのでしょうか。その涙も、すべて無駄ではないと言ってあげられるのでしょうか。

 ただ、胸がいっぱいで私の鳴き声が暗い部屋の中に響いていました。私の猫の瞳からは涙を流して泣くことはできないのです。ただ空しく鳴き続けることしかできません。あの日彼が歌ってくれたように歌ってあげたいのに、私には歌うことすら許されていないのです。どうして猫であるだけで、こんなに違うのでしょうか。……誰に言うつもりなのか分からない気持ちが鳴き声になって出ていきました。


 目を閉じてようやく眠った彼の傍らで、私は丸くなりました。

――どうしたら、この気持ちはあなたに届くのでしょうか。

『お願いだから、どうかそれ以上苦しまないで』と愛しいあなたに伝えられたらどんなによかっただろうか……。

――私ではだめなのです。あなたを救えるのは私ではなくて……

私はあなたの額にキスをする。私には何もできない。



 私が鳴き疲れて、知らないうちに眠ってしまってからどのくらい時間が経ったのかは分かりません。けれど、私が目を覚ますと彼は私を抱きかかえたまま横になっていました。それから、静かに言いました。

「……夢を見たんだ。綺麗な女の人が俺の隣で寝てる夢。」

私の頭を撫でながら、彼は続けました。

「その人は白い服を着ていて、優しい顔で笑ってて。『もう、これ以上苦しまなくていいよ』って言ってから、そっと額にキスしてそのまま抱きしめて歌を歌ってくれるんだ。すごく優しい歌をさ。『だれ?』って聞いたら、『あなたは知ってるはずだよ』って微笑むんだ。……すごく不思議な夢だったなあ。」

 そう言って、彼はまたギターを鳴らしながら歌いました。真っ直ぐで綺麗な歌でした。私は耳をあなたのあぐらをかいた膝に摺り寄せてみました。

「いつか必ず廻りあおう」と最後のフレーズを歌いきって彼はいつものように不器用に笑いました。

私は、喉を鳴らして目を細めてから願いました、この人の幸せを。


別に、ユキがミュージシャンなことに意味はありません。スランプになる職業だったらなんでもよかったんです。自分がきつかったので、あがいてほしかったんですね。ひどい生みの親です。

人間と猫っていう位置は、初めて書いたのでどんなもんかわからないです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 初めまして。ちくわの気持ちが野良猫から飼い猫として変化していくのが良かったです。  切なくユキに想いを寄せていくのが素敵でした。最後の歌詞タイトルの意味と名前……心をつかまれました。読めて良…
[一言] 風呂に入れるまでの部分がよかったです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ