3-2
「降りろ」
医者は無情にも、そう宣告した。
「駄目だ」
俺は首を振る。
「パイロット資格を剥奪されたら、俺には何も残らない」
「命を失うよりはマシじゃろう」
老医師は、カルテを机の上に放り投げた。細かい文字でビッシリ書き込まれた診断書。おおよそ書かれていることは想像できた。
「本当なら、お前さんはとうの昔に資格を剥奪されていてもおかしくなかった。まぁ、資格剥奪ということは別にしても、パイロッは引退しているのが普通だ」
もっとも、時代が時代だから、そんな悠長なことは言っていられなかったかもしれんが、と彼は言葉を続ける。
「しかし体は限界、もう若い者と同じことは出来まい。さらに決定的なのは、お前さんの目だ」
網膜剥離の兆候がある、と医者は言った。
「手術で治せないのか」
「もちろん治せる」
医者は自信ありげに胸を張る。
「だがお前さんの場合、歳が歳だから、間違いなく視力は低下する。幾らアビオニクスが発達したからといって、パイロットは目が良くなければ生き残れないじゃろう……まあ、こういっては何だが、お前さんはよく戦った。国への義務も十分果たした。ここらで潔く地面に足を降ろせ」
「俺にパイロットを止めて、配給センターに並ぶ老人どもの仲間になれとでもいうのか」
飛べないパイロットを抱えるほどの余裕は軍にはない。国に帰ったところで、俺の歳では再就職は無理だ。第一、だらだらと続く戦争のせいで、経済はガダガタ、失業率は上がる一方。俺の僅かな蓄えと雀の涙程度の年金だけでは、とても暮らしてはいけない。それになにより、国には俺を待っている人などいない。軍にいれば、少なくとも仲間はいる。それに小春も。
「俺は降りない」
「それを決めるのは、上層部だろ」
医者は書類を両手でかき集めてまとめる。彼がその診断書を俺の上司に提出すれば、俺は間違いなく資格を剥奪される。軍も、高い戦闘機をみすみす失うような判断はしない。
「何とかならないか……せめて、今度の作戦まで」
俺は食い下がるしかなかった。ここで俺が降ろされれば、小春は別のパイロットの補佐に回される。そうなれば、小春が感情を芽生えさせていることが知られてしまう。不適格の烙印を押され、小春は処分される。
「どうにもならん」
医者は首を左右に振るばかり。
俺は椅子を蹴飛ばして立ち上がると、両手を医者の首に伸ばした。細い古木のような首を握りしめて引き寄せる。医者が短い悲鳴を上げた。
「頼む、俺には今度の作戦は重要なんだ」
互いの額がこすれるほどに顔を近づけ、俺は彼の目をのぞき込んだ。
「これが最後だ。後はあんたの言うとおりにする」
だかもし言うことを聞いてくれないなら、俺は医者をここで殺し、小春を連れてこの基地を脱出するしかない。多分逃げ切れない。それが分かっていても、やるしかない。
「なんでそんなにムキになる」
医者は、苦しそうに藻掻いた。だが言葉は辛うじて聞き取れる。
「俺は、飛ぶことだけが生き甲斐の男だ。飛ぶことを取り上げられたら、俺は死ぬしかない」
「そんな、こと、で……」
俺はゆっくりと手に力を入れる。老人の細い首は、ほんの少し力を込めただけでポキリと折れてしまう。だから慎重に力を加えていった。次第に老人の顔色が赤黒くから土気色へと変わっていく。彼は逃れようと、俺の手首に爪を立てた。皮膚が破れて赤い血がにじみ出す。が、俺はかまわず力を加える。
「わっ……か、た」
手の力を緩めた。老人の体が椅子に崩れ落ちる。ハァハァ、ゼェゼェと医者は肩を大きく動かしていた。そんな彼を冷ややかに見下ろす。
「今度の作戦が終了するまで、俺の診断結果はあんたが止めておいてくれ。だがもし、書類を上司に回したり今の件を他人に喋ったりすれば、俺はあんたを殺す」
絶対にな、と念を押した。
「わ、わかっとるわい」
医者は俺を睨み返した。彼に背を向けて医務室を出た。
「勝手に死んでしまえ」
この狂人め、と医者は俺の背中に向かって叫んだ。