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2-9

「とりあえず座れ」


 士官室とはいっても、部屋はベットが二つ並べばいっぱいになるほどの広さしかなかった。机やベットは全て壁に収納できるようになっているので、男鰥にはそれで充分なスペースだった。俺は小さなスツールを引っ張り出して腰を降ろす。と、そこで肝心な事に気づいた。部屋に椅子は、これ一つしかない。今、俺が腰掛けているやつだ。ハルの座る場所がなかった。案の定、彼女は部屋の中に突っ立たままだ。


「ベットでいい、ベットに座れ」


 そう言うと、ようやくハルはぎこちない動きで俺のベットにちょこんと腰掛ける。敷きっぱなしのシーツや毛布は、俺の汗で湿り、強烈な悪臭を放っているに違いない。が、ハルはそんなこと気にもしていないのか涼しい顔をしていた。


「…………」


 ハルは微動だにしなかった。ただ俺の命令を待っている。まるで人形だ。微かに上下する胸に気づかなければ、マネキンと勘違いしてしまう。でもマネキンとは違う。触れれば、その白く抜けるような肌は暖かい。電子機器との接続の邪魔にならないよう、髪は男の子のように短く刈り込まれていたが、強く握るとポキリと折れてしまいそうな細い首からなだらかな肩まで続く柔らかなラインは、年頃の女の子らしさを感じる。

 俺の視線に気づいたのか、急にハルが俺を見返した。


『命令をどうぞ』

「ちょっと待ってろ」


 真っ直ぐに見つめられた俺は、何故か自分がどぎまぎしているのに気づいた。胸がギュと締めつけられる。今まで忘れていた何かが、胸の奥に疼く。俺もまだ男だ。もう何年も女っ気のない生活をしてきたせいだろう、ムクムクと沸き上がってくる衝動を覚える。

 クソッ。

 息苦しさを感じた。頭の隅で、ハルをここに連れてきたことを後悔していた。

 エーイ、今さら迷ってどうする。

 馬鹿が。俺は自分を自分で罵倒する。後戻りしたところで、問題は解決しない。何としても確かめなければならなかった。ハルが人間なのか、それともただの機械なのか、を。

 そうしなければ、俺はもう戦えない。


 天使がただの機械なのか、それとも俺たちと同じように感情を持った人間なのか。必死に雑念をふりほどき、机の引き出しに手を入れてゴソゴソとかき回した。ところが、例のものが見つからない。

 俺は次第に焦りを感じた。このままだと、俺は本当にハルに手を出しそうだった。心を落ち着かせて、アレを何処にやったかを思い出そうとする。が、そうしようとした矢先、それは唐突に指先に触れた。


 あった。


 ホッと胸をなで下ろす。取り出す。B5サイズの小さな絵本。初めて、自分の子供へのプレゼントとして買ったものだ。


 変な人、まだ言葉も分からないのよ。


 妻が産後のやつれた、しかしこの世の幸せ全てを甘受した表情で俺にそう言ったのを覚えている。


「話しているうちにわかるようになるさ」


 俺は照れ笑いを浮かべた。妻の隣には、俺たちの子供がスヤスヤと安らかな寝息を立てていた。妻の言っていた通り、女の子だった。最高に幸せだった時間。もう、ない。


「ハル、これを見てみろ」


 俺は絵本をハルに向かって差し出す。ハルは俺をジッと見つめたまま動かない。


「この本を、手に取って見るんだ」


 俺が一語一語、正確に命令すると、ようやくハルは両手を差し出し、絵本を受け取った。それを膝の上に置き、ジッと見る。けれどいつまで経っても、ハルは本を開こうとしない。表紙の絵に見入っているのではない。俺に命令された通り、ただ見ているだけ。


「違う違う、そうじゃない」


 俺は段々イライラしてきた。俺自身、一体ハルに何を期待しているのかも分からなかったが、兎に角、こうしていても埒があかない。


「これは絵本っていうんだ」


 俺は椅子から立ち上がり、ハルの隣にドシンと腰を降ろす。耐用年数の過ぎたベットが、キィーキィーと耳障りな悲鳴を上げる。


「エホン?」


 ハルが首を傾げる。


「そうだ、絵本。物語だよ。こうしてページを捲って……」


 俺はハルの手を取って絵本を捲らせた。スベスベした表紙の端は、かなり黄色く変色していた。最初のページが目に飛び込む。タイトルは『猫になった王子様』

 正直な話、俺はこの本を買ってから一度も目を通したことがない。生まれたばかりの自分の子供に読んで聞かせるつもりで本屋に立ち寄ったのだが、棚に山のように並んだ絵本を見た瞬間に頭が真っ白になってしまった。結局自分では選べず、店員の薦めたこの本を選んだ。しかし生まれた子供は、僅か数日で人生を終えた。絵本は一度も開かれることなく、本棚の隅に放って置かれた。

 小夜子と別れた後、俺は彼女の匂いを消すため、身の回りのものはほとんど処分した。だが、これだけは何故か捨てられなかった。もう本がある事も忘れかけていたのに、何故かハルに見せてみようと思い出した。


「…………」


 ハルは無言で猫の絵を、何度も手のひらで撫でる。何をしているのか、俺には理解出来ない。もしかすると、絵本に描かれた猫を撫でているつもりなのかもしれない。ハルだって文字を読むことは出来る。このまま暫く様子を見るのも一つの手だったが、俺は彼女に寄り添うと、彼女の頭越しにのぞき込むようにして絵本を読み始めた。


「昔々……」


 定番のフレーズから始まる物語。内容は、こうだ。


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