2-5
目覚めは、最悪の気分。
睡眠導入剤代わりの安酒のせいかもしれない。
夢の中に現れた小夜子、俺の妻だった彼女は泣いていた。生まれたばかりの娘を失った。その悲しみに打ちのめされた俺たち夫婦。毎晩のように小夜子は泣き続け、俺は仕事に逃げた。
どうしてなの?
小夜子は両手で顔を覆って俺を責めていた。指の間から涙が溢れてこぼれ落ちた。俺はただ見つめていることしか出来ない。
あなたは、いつもそう、肝心な時に逃げるのよ。
逃げてなんかいない。俺はそう反論しようとして口ごもった。小夜子が顔を上げる。泣きはらした赤い目で俺を見上げる。
お願い、フランク、私を……私をちゃんと見てよ。
そこで、目が覚めた。
医者は、精密検査の必要があると俺に告げた。
「だろうな」
俺はワイシャツの袖に腕を通しながら、まるで他人事のように応じる。実際、他人事だった。パイロットとしてすでに適齢期を過ぎたことは認識している。今更注意されることでもない。
「骨も内蔵もボロボロじゃ」
俺の態度にまるで無頓着に、老人は机の上のカルテに顔を向けたまま喋り続ける。
「パイロットという仕事は激務だな。それも戦闘機のとなると……適当な言葉を儂は思いつかんよ」
これまで何百人というパイロットを看てきたのだろう、諦めたような、呆れたように肩をすくめた。
「生き残るためだ」
脱いでいた服を着てしまうと、俺は立ち上がって出ていこうとした。
「またんか、話はまだ終わっておらん」
立ち止まって振り返った俺に、彼はここに来て初めて目を合わせた。その顔には深い皺が刻まれている。肌はシミだらけで、疲労だろうか、両眼の下には黒く隈が浮き出ていた。診察が必要なのはあんたじゃないのか、という言葉を俺は飲み込む。
「手短に頼む、このあとブリーフィングがある」
「わかっとるわい……いいかの、お前さんはもう限界じゃ。体力もそうじゃが、内蔵を酷く痛めとる」
酒を絶てと言う。
「そりゃ無理だ」
俺はニヤリと笑って返した。
「友達を失いたくない」
「その友達が、お前さんの寿命を縮めているとしてもか」
長く生きるつもりはない。俺はそう答えようとして止めた。そんなことを口にすれば、このお節介な医者は長々と俺に説教を垂れるに違いない。
「酒も煙草もやりすぎは毒だ」
「煙草は止めたよ、ずっと昔にな」
学生の頃まで、俺はヘビースモーカーだった。だがパイロットとして歩み始めた頃から、何となく控えるようになった。理由は簡単だ。気化した航空燃料が漂うハンガーで爆死したくはなかったからだ。そして子供が生まれた時、完全に止めた。
「平和な時ならデスクワークに回される歳だぞ。とにかく、もう無理をする必要もあるまい」
俺は首をグリグリと回す。ザリザリと首の骨が擦れる音が響いた。長い間強烈なGに耐えていたせいで、首の骨の軟骨がすっかり減ってしまっている。
「それを決めるのは上の連中だ」
俺ではない。そして上層部は俺を地上に降ろすつもりはないだろう。戦闘機は幾らでも製造出来るが、パイロットの絶対数は不足していた。老兵にドックファイトは無理でも、ミサイルキャリアーの役目くらいは出来る。
「とにかく、精密検査くらい受けろ」
医者はガンとして譲らない。幾ら俺が必要ないといったところで、この目の前の頑固爺には通用しそうになかった。それにパイロットの健康状態は彼が把握している。下手に怒らせて資格剥奪という事になったら目も当てられない。俺は飛ぶ以外、何も取り柄のない男だった。
「わかったよ」
渋々と承諾する。老人はウムと無言で頷いて机の上に置いたカルテに視線を戻した。「検査日はおって連絡する」と言うと、彼はヒラヒラと俺に向かって手を振った。行ってしまえということらしい。俺は回れ右をすると、医務室を出た。もちろん彼にお辞儀も敬礼もしない。