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「ハル」
呼びかけると、ハルは半分閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
『指示をどうぞ』
シートの脇に取り付けられたスピーカーから音声が流れる。それは確かにハルの声なのだが、実際は機械で合成された音声だ。感情は全く感じられない。普通の人間が喋る時に見せる癖も、音の揺らぎも、言い淀むこともない。規則正しく、正確なリズムで発音された記号でしかなかった。
「お前に聞きたいことがある」
俺は用心深く周りを見渡す。子供部屋には俺以外の人間はいなかった。盗み聞きされる心配はない。それでも俺は、用心深くハルの耳元まで屈み込んだ。
「お前、死ぬのが怖いか?」
激しいドックファイトの連続でボロボロになっていた俺は、生きることを放棄しようとした。そこに聞こえたのがハルの声だった。「死にたくない」と確かに聞いた。聞き間違えたのでも幻聴でもない。後から思い出すたび、それははっきりと俺の耳に響くのだ。「死にたくない」と。
『質問の意味不明』
素っ気ない反応。はぐらかせているようにも見えない。本当に、意味が分からないのだ。攻め方を変えよう。
「先日の戦闘、D82地区における戦闘記録を再現しろ」
『了解』
ハルはホストコンピュータにアクセス、要求された戦闘記録を画面上に再現した。戦闘機が四機、一糸乱れぬフォーメーションを保って飛ぶ姿が3Dで描かれる。と、その内の二機が横転―俺とカナンだ―背面飛行に入ると同時に機首上げ。スプリットS。僅かに遅れてバルザムとナミも、俺たちの後を追って反転。二人はバックアップだ。特に指示しなくとも、バルザムは俺の考えていることを補佐してくれる。そういう奴だった。
四機は、見ている者には緩やかな─しかし操縦している俺たちは苦痛に呻きながら─巨大なループの後半を滑り降り、地面すれすれを飛ぶ敵の背後に回った。ロックオン。シュート。八発の撃っ放しミサイルが敵に向かっていく。
「ハル、ここはいい、もっと先だ」
『了解』
ハルは画像を早送りする。幾つもの光跡が画面を走り抜ける。もう何度も見た。俺の興味は記録の一番最後。戦闘空域からの離脱直前の場面だった。
「止めろ」
再生速度が通常に戻る。描かれている戦闘機は一機だけ。俺、だ。高度は百フィートを下回る低空飛行。無理な機動で速度は低下し、機体はあえぎながら旋回を続けている。そこへ、まるであざ笑うかのように高速で飛び込んでくるミサイル。
俺は最後の抵抗を続けていた。が、それも限界と思われた瞬間、機体は信じられない機動を見せた。旋回中にも関わらず、強引な機首上げ。それは一瞬だが機体の限界値を超えるほどだった。CGで描かれた軌跡は海賊フック船長のかぎ爪を思わせる形をしていた。当然、そんな無茶な機動で、機体は急ブレーキをかけたように空中に停止。予想もしていなかった動きに、ミサイルは目標を見失って画面の外に飛び去る。
「もう一度、五秒戻して、今度は機内での音声を再生しろ」
『了解』
巻き戻し。再生開始。今度は俺の息づかいが聞こえた。苦痛に呻き声あげていた。何度聞いても気持ちのいいものじゃない。暫くすると「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」という雄叫びが聞こえた。敵機の赤外線信号をミサイルのシーカーが捉えたオーラルトーンが聞こえる。シュート。キル。
「もう一度だ」
『了解』
ハルはさっきと同じ場所を再生した。再び自分の呻き声を聞く。そして雄叫び。オーラルトーン。キル。敵を仕留めた。
「もう一度だ」
俺の命令に、ハルは嫌な顔一つせずに従う。再生。同じ事の繰り返し。
「ない」
俺は、自分の耳を疑うしかなかった。
「確かに、あの時お前は『死にたくない』と言ったはずだ」
なのに記録には何も残っていない。改竄された可能性はなくないが、そんなことが出来るのは上層部くらいだ。だが彼らがこの記録を改竄しなければならない理由を、俺は思いつかなかった。
やはり空耳だったのか。
そんな風に俺は考え出した。第一、ハルに変化はない。感情を示さない顔でモニターを見続ける人形だった。あの時聞こえたハルの「死にたくない……」という囁き。あれは人としてごく普通の、死の恐怖に対する感情だ。今のハルから、それは感じ取れない。
一体、何だったのだろう。
俺はハルをジっと見下ろした。暫くそうしていたが、フッと溜息を漏らす。
馬鹿馬鹿しい……
「もういい、任務に戻れ」
『了解』
ハルは作業に戻る。他に答え方はないのか、と俺は突っ込みを入れたくなったが、そんなことをしても無駄だと思って止めた。機械は、プログラムされた通りにしか動けない。
画面はスクリーンセーバーが働いて、また例のチューリップの画像に切り替わっていた。
風に揺らめく花が、メトロノームのように左右に揺れている。それに背を向けて、俺は部屋を出て行こうとした。