5 しょっぱいとしか言えないけれど
午前八時半。
HRまで十五分のこのあたりから、朝練組は教室に入る。
俺もそのひとりなわけで、教科書ノートを入れたバッグに部活関係のバックパックやラケット、あれこれ持って階段を登っていくと、浅川兄妹が立っていた。
「飯桐くん、おはようございます。クッキーおいしかったです。お礼にこれ、どうぞ」
紺色の布包みを出された。
「わざわざすいません。ありがとう」
ちょっと青春みたいで嬉しくなる。
保護者同伴だけれども。今日も一日保護者のほうと一緒だけれども。
それじゃ、と左右に別れて教室へ。
ふと見ると隣を歩く浅川は、手にノートを持っていた。
気になってついつい見てしまったのが気づかれたようで、朝の喧騒にまぎれそうな答えが聞こえた。
「貸してたやつ」
ぶっきらぼうに言って彼が自分の机にぺしりとノートを置くと、その拍子にプリントが落ちる。
反射で拾えばそれは、昨日ほとんど片付けた漢文の課題プリントだった。今日提出の。
「浅川、これ……」
解答欄の横に、小ぶりの丸い字で薄く答えが書いてある。
男の手でこんな字を書けるはずがない。技術的にも精神的にも。
「カバン置いとくと取ってく」
言い訳はいい。
「最後の問題だけ見せてくれ」
あと、できれば答えあわせを。
「妹漢文得意なんだな」
浅川妹の答えに書きかえたら、全問正解だった。
感嘆のあまり出た言葉だったけど、浅川が眉をぎゅっと寄せて俺をまっすぐ見てきて、何か失言だったろうかと思う。
「模試の結果見てねえの?」
「模試?」
「一月のならあるだろ」
あごで後ろの掲示板を示す。
一ヶ月くらい前から貼られていたが、あまり興味がなくてろくに見ていなかった。
悪くはないがとび抜けていいわけでもない点数の自分がいるはずもない。
貼り出されているのは総合と教科別の上位者の名前と得点と、校内、全国それぞれの順位と偏差値。
その、校内の国語のトップに。
二位以下を圧倒的な差で引き離して浅川耀の名前があった。
うちの普通科は県内でもレベルの高いほうだというのに。
もう言葉もない。
指さして浅川兄に向かってうめいていると、
「しかもあいつ自分と俺の課題くらいでしか勉強してねえんだよ」
「それでどうして!」
「本と新聞は読んでるな。この間は図書室のナントカ古典文学全集読んだとか言ってた」
「それでこの点が取れるなら図書室から本が消える!」
「例えそうでも読めないからこの結果なんだろ?」
だって学校の課題だけでこんな、とそこまで言って、目に入ったものに思わず叫ぶ。
「数学の一番浅川だ!?」
見直した表の数学の欄では浅川晃の名前が二番以下を踏みつけていた。
思ったより大声が出てしまったようで周囲の注目を浴びるが、今さら何言ってるというような視線も少なくなかった。石井とか。
「それは別に見つけなくていいんだよ」
浅川はすこし顔を歪めて言い捨てる。
演技でもなんでもなく、その言葉は彼の本心らしかった。
「今度数学教えてくれ」
「じゃあ耀に英語と数学教えてくれ」
「英、」
ところどころかすれた粗い印刷の、細かな文字をたどる。
英語にも三教科の総合にも浅川兄妹の名前はなかった。
「なんで?」
「俺にはあいつの数学の赤点回避が精一杯だ。英語は俺とそう変わらないし、俺も国語の赤点から逃げ切るのに必死だ」
「なんでそんな妙にバランスいいんだ」
「知らん。あとそこで兄妹だからとか言われるのは聞き飽きた」
「……浅川ー」
「ァんだよ」
「けっこうおもしろいやつだったんだな」
「はあ?」
「今日昼一緒に食おう。なんかクラスメイトの新たな一面を知った」
「何言ってんだ飯桐」
「いや、だって浅川さ、」
自然と顔が笑ってしまう。
「やめとこう絶対怒る」
「言えよ気になるだろなんだその笑顔」
今みたいなことを言われたくないなら、いつもの冷めた態度で流せばよかった。
散々言われてきて対応は慣れているはずだ。
それなのに妹の長所を知らないやつがいることにたえられなくて、わざわざ教えた。
自分の名前が見つかることなんて、その瞬間どうでもよかったんだろう。
「席つけよチャイム鳴るぞー?」
こいつ実はすごく単純なのかもしれない。