2 翌日
朝のHR二十分前、教室に入ってきた浅川はまっすぐ自分の席に行って脚をなげだして座り、エナメルや鞄を置いて中をごそごそ探った。
ふだんとなんら変わりない様子だ。
「浅川」
声が震えるのは自覚できた。まだそれくらいはわかる。いける今だ言うぞ。
「昨日のことを、妹さんに謝りたい。でも俺が行ってまた何かあったら大変だから、代わりに受け取ってくれないか」
「あー、……飯桐?」
ああどうにか名字は覚えてもらえていたようだ。
しかし今はそれが逆につらい。発火する。
「昨日のってお前か」
その、かけらも興味を持たない声。
同じように冷めたままの表情で、俺が出したクッキーの包みを見下ろす。
「悪いことをしたと、思って。あんな風に驚かせて。直接謝りに行きたいけど、だめだろうから」
「別に、正面から近づけばいいだけだし。あとあんまし近くに寄らなけりゃ」
何を言われたのか、理解できなかった。
頭が真っ白になるという、あの状態になった。
「今教室行ってもいいし、昼休みなら図書室だ。放課後までは知らねーな。まだ時間あるし今行きゃいい、と思う」
「行って、大丈夫なのか」
「あー……だめかもな。飯桐、石井と印象似てるから。池田とかならあいつたぶん平気だ」
同じクラスの、俺と同じテニス部の男を例に出して言う。
今結構近くにいるから聞こえるかもしれない。
「俺みたいなの、やっぱ苦手なんだ」
「や、石井みたいなのが苦手。なんか中一のとき失礼なことしたとか言ってたし」
やっぱり声が届いたらしく、その石井が横から抗議した。
浅川の声は低い割によくとおるからな。
「おい人の実名出すなよな。だいたいそれ、ワックスがけ遅かったからもうすこし手早くしないと夜になるって言っただけだぞ? それも三年も前に」
「石井お前、仲いい女子いないだろ」
思わずこぼした。気持ちはわかるがお前そんなんじゃ敵作るぞ。
しかし相手の兄貴の前で言うなんて、ある意味すごいやつだ。
「いねーよ、オレこいつと同じクラス四年目だけどさあ、最低限の会話しかしてんの見たことない」
「池田」
「えー何事実だろ?」
男子テニス部が集合してしまった。
部活中ときどき女子とも打ち合うが、そういうときには石井のコミュニケーションの問題は発生しない。
石井の沸点が下がるのは、はっきりしない内気なやつと池田に対してだけだ。
それだって池田以外の相手には自分から近づかないようにして未然に防いでいる。
池田に向かって毒舌をふるうのは、ふたりの性格もあるが付き合いが長いからだろう。
石井がそうできる相手は池田だけだ。
仲がいいんだろうが、ぎゃんぎゃん吠えるのを笑って流せる池田はけっこう大人だと思う。
「浅川妹がオレのこと平気かもってあれだろ、宿泊学習同じ班だったとかなぜかいつも席が近かったとか、数学の点数半年以上シンクロしてたとか」
「なんだそれすごいな」
思わず反応してしまった。
できればすぐ謝って帰ってきたいのに。
浅川が無言で立ち上がった。
長い手足を持て余したような動き。
傾いで立っているのに目線が俺よりすこし上だ。
野生動物みたいで思わず見てしまうが、緊張する。
気分はライオンの前のシマウマ、狼の前の鹿、そういえば春の体力テストで浅川俺より上位だった……
「飯桐、さっさと終わらせよーぜ」
軽い。
さっきと同じくらい興味がないことは明らかなのに、今はそれに救われたような気持ちがした。
じゃあちょっと行ってくる、と石井と池田に言って、俺は浅川妹のC組に向かった。
俺が来たのを見て、中に入らずに戸口に立っていた浅川兄が指をさす。
その先にはノート類を広げて予習か課題だかをやっている妹がいた。
「正面から行って、見下ろさない程度に離れたところから声かける。そしたら緊張はするだろうけど普通に会話するから。だめそうだったら俺出てくけど、ほんとにだめなときしか割って入らない」
「悪い、迷惑かけて」
「あいつのリハビリにもなるからいい。声小さかったら聞き返してやってくれ。合わせられると逆に緊張する」
「ああ」
取り扱い注意を心のなかで復唱しながら近づいて、斜め前の席の辺りで止まる。
位置よし、謝罪文よし、クッキーよし。
行くぞ。