8 でも
昼休みで人が通る廊下を、妹を背負って浅川はゆっくり歩いていく。
周りからはぎょっとしたり固まったりといった反応ばかりで、からかう声はなかった。いいことだ。
ただでさえ浅川妹が申し訳なさそうに小さくなっているのに、心ない声が飛んでくるのはかわいそうだから。
「ごめんね」
「調子悪いときに走るなよ」
「うん」
「抱えられんのやだろ」
入学式の光景を思い出す。
あれはすごかった。伝説級だった。
そういうことを、浅川はなんとも思わないのか言わないだけか知らないが、妹は避けたいらしい。
当然だろう。普通なら抱えるほうも抱えられるほうも大ダメージだ。
そこでふと疑問が浮かぶ。
目立ちたいわけでもないのに、入学式なんていう場で横抱きにした理由は?
「浅川、抱えるのと背負うの、なにか違うのか?」
「自分でつかまる力があるなら背負ってくんだけど、なかったら抱える。後ろだと落とすことあるから」
「怖」
それ頭からいくんじゃないだろうか。
想像したら納得できた。
「うちのがっこの廊下変に滑るしよ、なんかあってからじゃ遅いって言ってんだけどこいつ、」
「入学式のあとしばらく、いろんな人に言われてすっごく恥ずかしかった」
「へいへい。あ、スカート巻いてるだろ。下げなくてよかったか?」
「たぶん平気。飯桐くん、スパッツ見えてる?」
「え、ああ大丈夫」
「男に訊くなよそういうの」
「あーそっか、ごめんなさい飯桐くん」
「え、いやうん……」
俺が返事に困って黙ったとき、浅川が低い声で静かに言った。
「もうすんなよ」
言動の注意なのかそれとも行動か、俺に判断はつかなかったが妹は一言、ごめんと謝った。
呟くような囁くようなそのやり取りを、聞いてはいけなかったんじゃないかと思った。
C組に入れば、周囲に一定の距離を開けられながらも会話はどこまでも浅川兄妹だった。
「大丈夫かよぐらぐらしてんぞ」
「座ってたら治るよ」
「授業受けられる状態じゃないだろ。やっぱ保健室行っとくか?」
「や」
「お前な」
「だって問題、」
「それはいつだって代わってやれるけど怪我は代わってやれねぇんだよ」
「せっかく解いてくれたのに」
「あれくらいいつでも解いてやるから。次の時間寝てろよ、その次授業なんだ?」
「古文」
「お前古文好きだろ?」
「ぅ~」
「な?」
「階段、怖いから、いい」
「まだ言うのかよ」
「滑って転んだら、ふたりとも死ぬから」
「それくらいで死ぬか。あと階段冬休みに滑り止め貼ったとこだ」
「階段転げ落ちて死なないなら、椅子から落ちても死なないよね」
「Cからそれっぽい音聞こえたら俺授業放り出して行くぞ?」
「この、ブラコン好きめ」
「は?」
ブラコン=兄弟が好きな人。
なのでブラコン好き=兄弟が好きな人を好きな人。という解釈でいいですか浅川さん。
なんて心の中で思ったが、それで正解だったらしい。
ああ、理解した瞬間の浅川の表情の変化と、体調の悪さに眉をしかめながらも勝ち誇る妹の笑み。
クラス中とあと他のクラスの野次馬も、教室の内外から生温かく浅川っぷるを見守っていますよ。
当人たちの視界には入ってないが。
入っててこれならすごいよ君たち。
「っ~~~お前やっぱ保健室行けよ!」
「これだけ喋れたら、すぐ治りそうじゃない?」
「わあったよ。水筒どこだ、手提げか」
「うん、それ」
「中身温かいんだろうな」
「うん」
「飲めよ。カイロは?」
「そこ」
「ああこれな、おい貼らないやつか」
「だって」
「だってじゃねえよ貼らなきゃ温まらないとか言ったのお前だろ。貼るやつ山ほどあったろうが。今度から両方持ってこい」
「はぁい」
「ないよりマシだ、持っとけ。あと髪の毛それでいいのか。前に頭痛くなるとか言っただろ」
「じゃあふたつにする。耳あったかいし」
「好きにしろよ」
「あー髪の毛ほこりついてる。倒れたときのだきっと」
「ほこりだあ? 俺から見えないんだから平気だそんなもん」
「えー」
「えーじゃねえ。……ほら、一応はらったから」
「ありがと」
「お前、本当に授業受けるんだな?」
「うん」
「じゃあ倒れるなよ。自力で歩いて保健室行くなよ」
「うん」
「母さん迎えに来させるようなまねするなよ」
「それは絶対しない」
「よし。じゃあ俺行くから。あとノート無理して取るな」
「うん、ありがと。飯桐くんも」
いやもう俺はそういうのを見たいから来たようなもので。
「俺なんにもしてないから、お礼なんていいよ」
「でも、ありがとう」
そんな風に笑わないでください保護者怖いから、とは言えないまま、
「お大事に」
「できるだけそうします。ありがとう」
「まーた言い逃れできるような返事しやがって」
「あ、ノートって持ってきたっけ?」
「聞けよ。……ねえな。取ってくる」
「俺行く」
「わり」
「いいからついててあげなって」
ざわめく人の間を抜けてB組へ戻り、浅川の机の上にあったノートを取って戻る。
俺がいなかった間に浅川妹はひざ掛けでウエストから下をぐるぐるに巻かれていた。
「はい、これだけだった?」
「ありがとう、大丈夫です」
「じゃあ俺行くけど、休み時間なら電話でもメールでもして呼べよ」
「うん、ありがと。飯桐くんもありがとう」
そのときの彼女の笑顔は、無自覚だろうけど小悪魔ってこんな感じかなと俺に思わせた。
※『スカート巻いてる』…やったことない人や言い方違った人のための説明。ウエストで折り曲げてスカート丈短くする。欠点はプリーツが広がって乱れること、分厚いのが触るとわかること。耀はスカート切らずに膝丈にするために巻いてる。