第五章 氷室司は、声を出せなかった
いつもお読みいただきありがとうございます!
さて、第五章です。
今回、ちょっと長めです。
というのも……ついに、物語のメインストーリーが動き出します。
今までは各ヒロインとの出会いや関係作りの「プロローグ期間」でしたが、ここからが本番。
氷室編、そしてその先へ——。
というわけで、第五章「氷室司は、声を出せなかった」。
ぜひ最後までお付き合いください。
月曜日、朝のホームルームが終わった後。
「如月、ちょっと来なさい」
職員室に連れて行かれ、目の前に差し出されたのは、先週行われた実力テストの結果。
国語:38点
数学:12点
英語:24点
社会:31点
理科:19点
五教科合計:124点(平均24.8点)
「……えーと、これは」
「如月、お前、特待生だぞ」
「はい……」
「特待生は成績基準があるのを知ってるな? 平均点以上を維持しなければ、資格は取り消しだ」
「…………」
「今学期の期末で同じような点数を取ったら、即取り消しだ。わかってるな」
「……はい」
職員室を出て、廊下を歩く。
——終わった。
——特待生取り消し=補助金停止=生活費ゼロ=詰む。
——バイトしても、すぐには追いつかないし……
——でも、幸いにも篠原先輩のおかげで、来週から本屋で働けることになった。
——時給はまあまあだ。でも、当面の生活費を考えると、特待生資格は死守しないと。
ため息をつきながら教室に戻る。
席に座ると、後ろから声がかかった。
「……何点だった」
振り向くと、氷室が無表情でこちらを見ている。
「見てたのか」
「呼び出されて、あの顔で帰ってきたらわかる」
「…………五教科合計124点」
氷室の眉がわずかに動いた。
「……一教科あたり、平均24.8点か」
「暗算早いな」
「それで特待生だったのか」
「……今は違うかもしれない」
氷室は何も言わなかったが、その目には「呆れた」という感情がありありと浮かんでいた。
——そうだよ、俺も呆れてるよ。
——だって前世、俺、勉強なんて一度もしたことなかったからな。
——ゲームとラノベばっかりの人生だったから。
——それが今になって、突然「勉強しろ」って言われても……
——いや、待てよ。
俺は後ろを向き直った。
「なあ、氷室」
「なんだ」
「お前、数学教えられるだろ」
「教えられるというか、できる」
「じゃあ教えてくれ」
「……は?」
氷室が初めて、はっきりと表情を変えた。困惑の色だ。
「なぜ俺がお前に教えなきゃならない」
「なぜって……」
俺は周りを見渡した。昼休み前の教室、人はまばらだ。
佐藤の席は空いている。彼女は購買部に行っているらしい。
——よし。
「なあ、氷室」
「なんだ」
「お前、佐藤のこと、まだ好きだろ」
氷室の耳が一瞬で赤くなった。
「な、なんで——」
「顔に書いてある」
「書いてない」
「書いてる。『好きな子のことが気になります』って書いてる」
氷室は黙り込んだ。
俺は身を乗り出して、声を潜めた。
「教えてくれれば、俺が佐藤を落とす手伝いをしてやる」
「……は?」
氷室の目がまんまるになった。
「な、なにを言って——」
「経験則だよ、経験則」
——もちろん、経験なんてない。
——でも、ゲームはたくさんやった。
——ギャルゲーも、ラノベも、アニメも。
——乙女ゲームなんて、ギャルゲーの性別逆転版だろ?
——だったら、俺の知識も役に立つはずだ。
——たぶん。
「経験則って……」
「とにかく、俺は方法を知ってる。お前は数学を教える。それで手を打たないか?」
氷室がしばらく考え込む。
「……佐藤に変なことするなよ」
「しないしない。むしろ、お前と佐藤がくっつくように動く」
「…………本当か?」
「本当だ。だから教えてくれ」
氷室はもう一度考えて、小さく頷いた。
「……わかった。ただし、期末までに平均点以上にしろよ」
「おう! 任せろ!」
よし、交渉成立。
——でも、どうやって佐藤を落とすんだっけ?
——まあ、なんとかなるだろ。
---
その日の放課後。
「佐藤、ちょっといいか」
「ん? どうしたの如月くん」
「あのな、今度の期末に向けて、学習会をやろうと思ってるんだ」
「学習会?」
「うん。俺、実は成績がやばくてさ。特待生の資格が取り消されそうなんだ」
「ええっ!? 大丈夫なの!?」
佐藤が本当に心配そうな顔をする。
「だから、氷室に教えてもらうことにしたんだ。で、せっかくだから佐藤も一緒にどうかなと思って」
「私も?」
「お前、成績いいんだろ? だったら一緒にやれば、教え合いにもなるし」
「うーん……」
佐藤が後ろの氷室をチラリと見る。氷室は無表情だけど、ちょっとだけ体が硬直している。
「氷室くんは……それでいいの?」
「……別に、構わない」
「じゃあ、私も参加する! 如月くんの役に立てるなら!」
佐藤が嬉しそうに笑った。
——よし、第一段階クリア。
——これで氷室と佐藤の接触時間が増える。
——しかも、勉強という名目だから自然だ。
我ながら完璧な計画だ。
「そういえば如月くん、バイト始めるんでしょ? 学習会の時間、大丈夫?」
「ああ、それなら大丈夫。夕方の遅い時間に入れてもらうようにしたから、学習会は放課後すぐにやって、終わったらバイトに行く感じで」
「へえ~、どこでバイトするの?」
「駅前の本屋。篠原先輩が紹介してくれたんだ」
「篠原先輩、面倒見いいもんね」
佐藤が微笑んだ。
——そういえば、篠原先輩とは土曜日に会う約束したんだっけ。
——まあ、それはまた別の話だ。
---
場所は図書館の一角。四人掛けの机に、俺、氷室、佐藤の三人が並ぶ。
「じゃあ、まず如月の数学から始める」
氷室が問題集を広げる。無表情だが、なんとなくやる気だ。
「おう、頼む」
「まず、この二次方程式を解いてみろ」
「はい」
……数分後。
「……これ、合ってるか?」
「…………」
「氷室?」
「……よく、その答えを書けたな」
「褒めてるのか?」
「褒めてない」
隣で佐藤がクスクス笑っている。
「如月くん、それ、XとYが逆だよ」
「え? そうなのか?」
「うん。しかも、この計算、途中で足し算間違ってる」
「マジか」
氷室が深いため息をついた。
「……本当に特待生だったのか?」
「過去の話だ」
「今もまだ取り消されてないだろ」
「ギリギリだ」
佐藤がまた笑う。
「如月くんって、そういうとこ、可愛いよね」
——可愛い?
「男に可愛いはないだろ」
「でも、一生懸命で可愛いよ」
佐藤が無邪気に笑う。
氷室が、その笑顔を見ている。
——よしよし、いい感じだ。
——こうやって自然に氷室が佐藤を見る機会が増えれば……
「如月、次これ」
「おう」
---
翌朝、早めに来た氷室と二人きり。
「どうだった? 昨日の学習会」
「……別に、普通だった」
「いやいや、『普通』じゃダメなんだよ。佐藤との距離は縮まったか?」
「……わからない」
「会話はしたか?」
「した。『ここわかる?』『うん』って」
「それだけかよ」
「それだけだ」
——これはダメだ。
——氷室、コミュ障すぎる。
「わかった、次の学習会では俺がフォローするから、ちゃんと話せよ」
「……フォローって」
「任せとけ」
---
今日、また図書館。
今回は作戦を変えた。俺がわざと遅刻して、氷室と佐藤を先に二人きりにさせる作戦だ。
——よし、これで二人きりだ。
——氷室、頑張れよ。
……十分後。
図書館に着くと、机に突っ伏している氷室と、困ったような顔の佐藤がいた。
「……どうした?」
「如月くん……氷室くんが、ずっと無言なの……」
「氷室?」
「…………」
「おい、どうした」
「……俺には無理だ」
くぐもった声が聞こえた。
「何がだ」
「佐藤と二人きりだと、何も話せない」
「…………」
——ダメだ、こりゃ。
佐藤がクスクス笑っている。
「氷室くんって、そういうとこ、可愛いよね」
氷室の耳が赤くなった。
——お?
——これ、チャンスか?
「なあ、佐藤」
「ん?」
「氷室のこと、どう思う?」
「え? どうって……数学すごくできるし、優しいし、いい人だと思うよ」
氷室の耳がさらに赤くなる。
「ほら、氷室。佐藤が褒めてるぞ」
「…………」
氷室は何も言えずに、ただうつむいている。
——まあ、一歩前進だな。
---
学習会が終わり、佐藤が先に帰った後、図書館の片隅で俺と氷室だけが残った。
「なあ、氷室」
「……なんだ」
「お前さ、もう少し何とかならないの? あんなにチャンスを作ってやってるのに」
「……わかってる」
「わかってるなら——」
「でも、無理なんだ」
氷室が珍しく、感情を込めて言った。
「俺は昔から、人と話すのが苦手だ。特に……好きな人だと、何を言えばいいか全然わからない」
「…………」
「如月は、すごいな」
「は? 何が」
「佐藤と普通に話せる。笑わせられる。俺にはできないことを、簡単にやってのける」
「いや、それは——」
「それに、あの日もそうだ」
「あの日?」
「先週の月曜日、佐藤が西園寺に絡まれていた日だ」
俺の心臓がドキッとした。
「俺はあの時、ちょうど廊下を通りかかったんだ」
「え……?」
「西園寺が佐藤を追い詰めているのが見えた。でも、俺は何もできなかった。声をかけようと思ったけど、足が動かなかった」
氷室がうつむく。
「そんな時、如月が現れて、西園寺を連れて行った。あの時、俺はすごく悔しかった。俺にもあんな風にできたらって」
——待て待て待て。
——つまり、あの時、氷室はそこにいたのか?
——しかも、助けようと思ったけど、動けなかった?
——それで俺が先に動いたから、氷室は何もできずに終わった?
——ということは……
——あのシーン、本来は氷室の見せ場だったんじゃないか?
——原作では、あそこで氷室が佐藤を助けるイベントがあったはずだ。
——でも俺が先に動いたせいで、それがなくなった?
——そして氷室は自分の無力さを痛感して、ますます自信をなくした?
——佐藤が氷室に興味を持たないのも、最初のきっかけがなかったから?
「…………あ」
——やべ。
——これ、俺のせいじゃね?
——俺が麗華に一目惚れして、衝動的に動いたせいで、氷室のファーストイベントを潰した?
——しかも、あの時、俺は「佐藤のため」じゃなくて、完全に自分の欲望で動いた。
——そのツケが、今になって……
頭の中が真っ白になった。
「如月? どうした?」
氷室が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「い、いや……なんでもない」
——どうすればいいんだ。
——いや、まだ間に合うかもしれない。
——これから接触回数を増やせば、何とかなるかもしれない。
——そうだ、そうしよう。
——俺が全力で氷室をサポートする。
——それで、遅ればせながらでも、氷室ルートを開かせるんだ。
「氷室、安心しろ。俺が絶対に佐藤を振り向かせてやるから」
「……急にどうした」
「いや、その……俺、お前に借りがある気がするんだ」
「借り?」
「気にするな。とにかく、これからは俺がガッチリサポートする」
氷室は不思議そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
---
その夜、家で考え込んだ。
——氷室のルート、俺が潰したんだ。
——あの時、もし俺が動かなければ、氷室が佐藤を助けて、二人の距離が縮まっていたかもしれない。
——でも、俺は自分の欲望で動いた。
——その結果、氷室はチャンスを失い、佐藤は氷室を「ただの数学のできる同級生」としか思わなくなった。
——これが、俺の罪だ。
——ならば、償わなければ。
——どうやって?
——……
——そうだ。
——佐藤に、俺に好きな人がいるって思わせれば、諦めるだろ。
——氷室に意識を向けるようになるかもしれない。
——で、その好きな人って誰にするか……
——…………
——あ、そうだ。ちょうどいいのがいるじゃないか。
——西園寺麗華。
——顔は好みだし、この前言ったこともあるし。
——それに、あのツンデレっぷりは……
——うん、決めた。俺の「好きな人」は西園寺麗華だ。
——もちろん、本当に好きなわけじゃない。方便だ、方便。
——これで佐藤も諦めるだろ。
——氷室にもチャンスが回ってくるだろ。
——よし、明日言おう。
---
翌日、学習会の前、佐藤が席に着いたタイミングで、俺は切り出した。
「なあ、佐藤」
「ん? 何?」
「実はさ、俺、好きな人がいるんだ」
佐藤の動きが一瞬止まった。
「……え?」
「ずっと言おうと思ってたんだけど、なかなか機会がなくて」
「そ、そうなんだ……誰?」
「西園寺麗華だ」
佐藤の目が、わずかに見開かれた。
「西園寺さん……?」
「うん。あの金髪碧眼、スタイル抜群、完璧なお嬢様。一目惚れしたんだ」
「…………」
「もちろん、向こうは俺なんか見てないだろうけどな。でも、好きなものは好きだから」
佐藤が、何かを言いかけて、やめた。
その時、氷室がやってきた。
「待たせた」
「おう、じゃあ始めるか」
俺はさっと立ち上がって、席に着いた。
佐藤は、何か考え込むような顔をしていた。
---
その日の学習会は、なんとなく変だった。
佐藤はいつも通り明るく振る舞っていたが、時々、俺のことをチラリと見る。
氷室もそれに気づいたのか、俺に小声で聞いてきた。
「……何か言ったのか」
「いや、別に」
「佐藤の様子が変だ」
「気のせいだろ」
「…………」
氷室はそれ以上何も言わなかったが、その目は少しだけ疑わしげだった。
学習会が終わり、帰り際。
「如月くん」
佐藤に呼び止められた。
「さっきの話だけど……」
「ん?」
「西園寺さんのこと、本気で好きなの?」
「本気も本気だよ」
「そう……わかった」
佐藤はそれだけ言って、笑った。でも、その笑顔は、いつもの笑顔とはちょっと違った気がした。
「じゃあね、如月くん」
彼女は手を振って、去っていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、思う。
——これでいいんだ。
——これで佐藤も俺のことは諦めるだろ。
——氷室にもチャンスが生まれるだろ。
——
——
その頃、別の場所では。
「ねえねえ、知ってる? 如月くんがさ、西園寺さんのこと好きなんだって」
「え、マジで? あの如月が?」
「佐藤さんから聞いたんだけど、本人が言ってたんだって」
「へえ~、意外~」
噂は、静かに、でも確実に広がっていった。
そして、その噂は、本人の耳にも届くことになる。




