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第四章 篠原綾乃は、雨の日に微笑む

今日は土曜日。俺がこの世界に来て初めての休日だ。


となると、やらなきゃいけないことがある。色んな書類の整理だ。俺の転生は記憶すら引き継がないから、パスワードがかかってるものは全部リセットしないといけない。


まずは銀行だ。


「……めんどくせ」


銀行でパスワードをリセットするには身分証明書が必要で、身分証明書を探すのに部屋をひっくり返さないといけない。


「……めんどくせえええ」


二度寝したい気持ちを抑えて、俺は重い腰を上げた。


---


三十分後。


なんとか必要書類を揃えて、銀行に向かう。


窓口で手続きをする。係員の説明を聞きながら、必要書類を出して、新しいパスワードを設定する。時間がかかることかかること。


「お待たせしました。こちらが新しいキャッシュカードです」


「ありがとうございます」


そして、通帳記帳もしてもらう。


出てきた数字を見て、俺は絶句した。


「……は?」


残高、8万3千円也。


——少なっ!


——いや、高校生の一人暮らしならこんなもんか?


——でも、これで家賃払って、光熱費払って、食費払って……無理じゃね?


よくよく調べると、如月湊は「特待生」として学費が免除されている代わりに、生活費の補助が月5万円出ているらしい。でも、その補助も次の更新まであと二週間。それに加えて、バイト禁止——じゃなかった、許可制らしい。


「はあ……」


ため息が出る。


ゲームの世界だと思ってたのに、こんな現実的な煩いがあるのかよ。


とりあえず、区役所にも行って、いろいろ手続きを済ませる。住民票とか、保険証とか、めんどくさいことこの上ない。


全て終わった頃には、もう夕方だった。


---


そして、帰り道。


「……あ」


ポツリ。


ポツポツ。


「嘘だろ」


ザーッ。


土砂降り。


「嘘だろ、傘持ってねえええ!」


最寄り駅まであと十分。でも、この雨の中を十分歩いたら、確実にずぶ濡れだ。


仕方なく、近くの喫茶店に飛び込んだ。


「いらっしゃいませ——って、大丈夫ですか?」


ウェイトレスに声をかけられるが、適当に手を振って空いている席に座る。


とりあえず一番安いブレンドコーヒーを注文する。温まりたいし。


窓の外を見ると、雨はますます強くなっている。当分止みそうにない。


「はあ……」


今日一日の疲れがどっと出る。勉強、金、人間関係……ゲームだと思ってたのに、現実世界になった途端、こういう煩いも全部リアルになるんだな。


その時だった。


「あら? 湊くん?」


聞き覚えのある声が聞こえて、顔を上げる。


そこには、私服の篠原先輩が立っていた。


髪がいつもよりしっとりと濡れていて、頬が少し赤い。どうやら彼女も雨に降られたらしい。手には濡れた画材っぽいものが入ったバッグ。


「篠原先輩……?」


「偶然ね。隣、いいかしら?」


「あ、はい、どうぞ」


篠原先輩が向かいに座る。彼女もウェイトレスにホットココアを注文した。


「湊くんも雨に降られたの?」


「はい。傘持ってなくて」


「私も。急に降り出したから、全然予想できなかったわ」


篠原はバッグからハンカチを取り出して、髪を拭き始める。その仕草が、なんだか妙に大人びて見えた。


「湊くんも、髪濡れてるわよ。これ、使う?」


ハンカチを差し出される。


「いや、大丈夫です。すぐ乾きますから」


「風邪引くわよ」


「大丈夫です、俺、体は丈夫なんで」


「ふふ、それ、湊くんが言う言葉じゃないわよ」


あ、そうか。如月湊の売りは「守ってあげたくなる病弱美少年」だったな。


俺はハンカチを受け取って、軽く髪を拭く。後で念のため風邪薬を買っておいた方がいいかもな。


ちょうどその時、ウェイトレスがコーヒーとココアを持ってきた。


「湊くんはブラックなのね」


「一番安いから」


「あら」


篠原先輩が、目を丸くした。そして、何か考え込むように俺を見る。


「湊くん、今日は何してたの? 休日なのに」


「あー、いろいろと。銀行行ったり、区役所行ったり」


「へえ……手続き?」


「まあ、そんな感じです」


詳しく話すのもめんどくさいので、適当に流す。


でも、篠原先輩はそれ以上追及しなかった。代わりに、自分のココアを両手で包み込むようにして、ゆっくりと飲み始めた。


その姿が、なんだか絵になる。


窓の外は雨。店内は暖かい照明と、ジャズのBGM。向かいに座る美しい先輩。


——なんだこれ、青春漫画の1シーンか?


「湊くん」


「はい?」


「コーヒー、まずいでしょう?」


「……なんでわかったんですか」


「だって、一口も飲んでないもの。ずっと窓の外見て考え事してる」


図星だった。


「ちょっと、いろいろあって」


「よかったら、私でよければ話聞くわよ」


「いや、大丈夫です。ただの現実の煩いなんで」


「現実の煩い?」


「はい。ゲームの世界なのに、なんで生活費の心配しなきゃいけないんだろうなって」


つい、本音が漏れた。


篠原先輩が、クスッと笑った。


「湊くん、面白いこと言うのね」


「……そうですか」


また雨を見る。


「湊くん」


「はい?」


「これ、飲んでいいわよ」


差し出されたのは、ホットココア。


「え?」


「私、一口も飲んでないの。今日はなんとなくミルクティーが飲みたい気分なの。でも、二つ注文するのは悪いし……よかったら、湊くんが飲んでくれない?」


「いや、でもそれは先輩の——」


「遠慮しないで。湊くん、コーヒーまずくて飲めないんでしょ?」


「…………」


「どうせ、このまま帰っても雨は止まないし。温まってかないと」


そう言って、篠原はココアのカップをそっと俺の方に押しやった。


——断りづらい……


「……じゃあ、いただきます」


一口飲む。甘い。温かい。心に染みる。


「どう?」


「……美味しいです」


「ふふ、よかった」


篠原は満足そうに笑って、店員を呼んでミルクティーを注文した。


---


それから、雨が止むまで、俺たちはその喫茶店にいた。


「そういえば、湊くんは何か趣味はあるの?」


「趣味……別にないですね。ネットとか、ゲームとか、アニメとか漫画とかラノベとか」


「あら、ありきたりな趣味ね」


「先輩は? 茶道とか、それ以外で」


「私はね——」


篠原はバッグからスケッチブックを取り出した。


「たまに、こういうのを描いてるの」


開かれたページには、植物のスケッチ。丁寧に描かれていて、なかなか上手い。


「へえ、上手いじゃないですか」


「ありがとう。でも、ただの趣味よ」


「発表とかしないんですか?」


「しないわ。これは私だけのもの」


彼女の目が、少しだけ寂しそうに見えた。


「篠原家の娘として、茶道以外のことで評価されるのは、あまり良く思われないから」


「……そうなんですか」


「ええ。でも、こうやって時々描くことで、気持ちが落ち着くの」


篠原はまたスケッチブックをめくる。今度は風景画。公園っぽい場所だ。


「ここ、よく行くんです。家から近い公園で、人が少なくて、静かで」


「へえ」


「今度、湊くんも一緒に行かない?」


「え?」


「あ、ごめんなさい。急に誘って変だったわね」


篠原は少し慌てて、手を振る。


「いや、別に変じゃないですけど……」


「じゃあ、行ってくれる?」


その目が、まっすぐに俺を見る。


——なんで? なんで俺を誘うんだ?


——あ、そういうことか。


「ま、まあ、暇だったら」


「ふふ、それ期待してるわ」


篠原は嬉しそうに笑った。


---


三十分ほど経った頃、雨が小降りになってきた。


「止みそうですね」


「そうね。でも、まだ完全には止まないわね」


「走れば、駅まで何とか——」


「ダメよ。風邪引くって言ったでしょ」


篠原は立ち上がると、レジに向かった。


「あ、俺払いますよ。ココアも飲んだし」


「いいえ、今日は私がご馳走するわ」


「え、でも——」


「湊くん、今日いろいろ大変だったんでしょ? それに、これも何かの縁だし」


彼女はさっとお金を払ってしまった。


店を出ると、雨はまだポツポツと降っている。


「湊くん、傘……」


篠原は自分の傘を差し出す。


「いや、先輩こそ濡れますよ」


「私の家、すぐそこだから。湊くんは駅までまだあるでしょ?」


「でも——」


「別に気にしないで。それで、今度公園に行く時にお礼してくれればいいから」


彼女は強引に傘を握らせると、軽く手を振った。


「じゃあね、湊くん。また学校で」


「あ、ちょっと——」


彼女は走り出した。雨の中を、軽やかに。


そして、角を曲がる前に、一度だけ振り返って微笑んだ。


「傘、返すの忘れないでよ!」


そう言って、消えた。


俺は、手に残された傘を見る。


女物の、かわいらしい花柄の傘。


「……なんだよ、これ」


乙女ゲームのはずなのに、これじゃあまるでギャルゲーじゃないか。


雨の中を駅まで歩きながら、考えた。


——この先輩、なんでこんなに親切なんだ?


——俺、何かしたっけ?


——いや、何もしてない。ただ、屋上で一緒に飯食っただけだ。


でも、そんなに親しくなるようなこと、あったっけ?


——あ、そうか。これが二次元ってやつか。


——でも……


「……この傘、ちゃんと返さないとな」


そう思った時、胸の奥がちょっとだけ温かくなった気がした。


---


家に帰って、びしょ濡れの服を着替える。


スマホを見ると、LINEが来ていた。


「湊くん、無事に帰れた?」


篠原先輩からだ。


さっき篠原先輩ともLINEを交換した。


こうして、女子のLINEを三人も手に入れた。


前世では一人もいなかったのにな。


「はい、なんとか。傘ありがとうございました」


「よかった。風邪引かないでね」


「先輩こそ、濡れて帰ったんですよね?大丈夫ですか?」


「私は平気よ。すぐお風呂入ったから」


「そうですか。よかった」


「湊くん、バイト探してるんでしょ?」


え?


「なんでわかったんですか?」


「さっき、なんとなく感じたの。生活費の心配って言ってたから」


「……するどいですね」


「ふふ。でね、私が前にバイトしてた本屋さんが、今ちょうど募集してるの。よかったら紹介しようか?」


「え……!」


「店長、いい人だし、学校にも近いの。湊くんにぴったりだと思うんだけど」


「い、いいんですか?」


「うん。もし良かったら、連絡先教えるわ」


「お願いします!」


すぐに連絡先が送られてきた。


「ありがとうございます! 篠原先輩!」


「いいえ。でも……」


「でも?」


「ちゃんと受かるように、祈ってるわね」


「はい!」


そして、もう一つメッセージ。


「それと、約束、忘れないでね」


そうだった。


「来週の土曜日ですよね? ちゃんと予定空けておきます!」


「うん、バイト頑張ってね。受かったら連絡して」


そして、返信は止まった。


俺はスマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。


——これが二次元か……。


——改めて、実感した。

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