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千里眼は闇を視る  作者: 弥生紗和


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第8話 旦那様と初仕事へ

 ある日の夜。高臣が乗る自動車が家に入ってくる音が聞こえた薫は、急いで彼を出迎えに玄関まで向かう。薫は夕食を終えたばかりで、随分早い帰宅だと思いながら玄関の扉を開けると、高臣は既に玄関の前に立っていて、何故か自動車のエンジンはかけっぱなしだった。


「薫さん。急で悪いがすぐに外出の支度を頼む」

「今からですか?」


 日々をのんびり過ごしていた薫はすっかり忘れていたが、言った後にハッとなり表情を変える。高臣は「怪異退治の時はいつでも出られるようにしておいてくれ」と話していた。今日がその時なのだ。


「怪異に取り憑かれていると疑われる者が見つかった。薫さんには正体を確認して欲しい」

「わ……分かりました。すぐに支度をします!」


 薫は大慌てで家の中に戻り、春江に要領の得ない説明をした。春江はこういうことには慣れているので「すぐに用意をしましょう」と言うと薫を連れて彼女の寝室へ行く。急いで外出用の着物に着替え、玄関に戻った薫は外で待つ高臣に声を掛けた。


「すみません、お待たせしました」

「では行こう。詳しいことは車の中で説明する」

「は……はい」


 ようやく薫の力が役立つ時が来た。薫は気を引き締めながら自動車の後部座席に乗り込んだ。自動車を運転しているのは、妙前家の運転手である牧野という男だ。牧野は妙前家に通いで来ていて、高臣の送り迎えを主に行う。後部座席の隣には高臣がいて、いざ乗ってみると距離が近いことに気づく。朝食を食べる時は向かい合っているので離れているし、普段出迎えなどで彼に近づくことはあるが、一瞬のことなのであまり距離の近さを気にしたことはなかった。だが今は狭い車内に二人が並び、少し体を動かせばうっかり高臣に触れてしまいそうである。急に緊張してきた薫は、とりあえず窓の外を眺めたりしながらやり過ごすことにした。


「現地では直弥と待ち合わせている。今回の情報は直弥からのものだ。直弥が贔屓にしている芸者がいるんだが、その芸者がいる置屋に、様子がおかしくなった芸者がいるらしい」

「芸者ですか。様子がおかしくなったとは?」


 淡々と説明する高臣に、動揺を悟られないよう薫は努めて冷静に返す。


「元々大人しい芸者だったらしいんだが、急に他の芸者仲間に乱暴を働いたそうだ。それだけではなく、客にもきつく当たったとかで、今はお座敷に出ることを禁じられている。仲間や客からは『狐に憑かれた芸者』と呼ばれているとか」

「狐に憑かれた、ですか。でもそれだけでは怪異のせいかどうか……」

「だから薫さんに見てもらいたい。もしも怪異が取り憑いているなら、今夜その場で退治する。置屋の主人には無理を言って、なんとかその芸者を料亭に呼んでもらった。僕達がこれから行くのはその料亭だ」

「分かりました。あの……私、料亭に行ったことがないんですけど大丈夫でしょうか?」


 薫は不安そうな顔で高臣の横顔を見る。高臣は顔を正面に向けつつ、ちらりと視線を薫に向けた。


「僕が一緒にいるのだから、何も心配はいらない。あなたは何も言わず、ただ僕と直弥の指示に従っていればいい」

「はい……」


 薫は不安そうに頷く。料亭という場所は行ったことはなくとも、上流階級の人々が利用する店だということは知っている。ましてや芸者遊びなど、どんなものなのか想像もつかない。ただお座敷で芸を披露するだけでなく、男性との色恋ごとのあれこれは巷でもよく聞く話だ。


(直弥さんが贔屓の芸者から聞いた話か……やっぱりあの人は女好きなのね)


 横にいるだけで緊張感の漂う高臣とは違い、直弥は女性に対して物腰が柔らかく、薫を緊張させない雰囲気がある。直弥が芸者遊びをしていると知り、薫は妙に納得したのだった。



♢♢♢



 自動車が着いた場所は、料亭が建ち並ぶ静かな通りである。ここは帝都にいくつかある花街かがいの一つで、客層は役人や華族が多い。

 怪異に取り憑かれた疑いのある芸者は、この花街で最も古く歴史のある置屋に所属する「いち」という女だ。芸者の中では地味で控えめな方だったが、彼女の性格が変わったのは一か月ほど前のこと。突然仲間の芸者に激高し、扇子で何度も殴りかかり、周囲は彼女を引きはがすのに苦労するほどだったという。その時はささいな喧嘩だと思われていたが、お座敷に出ると今度は客に対しても怒り出し、酒を客にかけるというあり得ないことをした。それ以降お座敷には出さずに置屋で謹慎させていたのだが、今夜は直弥が置屋の主人に頼み込み、いち華を呼び出すことにした。いち華の『狐憑き』を解決できるかもしれないと言われ、置屋の主人は高臣達に協力することになったのである。


 薫は借りて来た猫のように大人しく高臣の後に続き、料亭の中に通された。初めて料亭の中に入った薫は周囲を見回す余裕などない。すれ違う芸者達の華やかさといい匂いとか、外の通りが全く見えない造りとか、ここだけが外の世界と隔絶されているかのようだ。


(私、こんな格好で……高臣様は恥ずかしくないかな)


 華やかな芸者の姿を見た後では、急に自分の格好がみすぼらしく思えた。三坂屋で注文した着物はしばらく出来上がらないので、当分は家にある着物を着るしかない。買い物くらいならまだしも、こういう夜の街には似合わないと考えてしまう。


 ようやく薫は座敷に通される。広くて綺麗な座敷には箱膳が並び、既に直弥が先に入って座っていた。直弥の隣には芸者が一人いて、彼に酒を注いでいる。


「ようやく来たね。待ちきれなかったものだから、美鈴みすずを呼んで先に始めていたよ」


 笑顔の直弥はお猪口を置くと片手を上げた。


「勝手にもう一人呼んだのか直弥。全く……今夜は飲み過ぎるなよ」


 高臣は呆れた顔でため息をついた。


「せっかくだから楽しみたいじゃないか。酒のことは心配するな、少し舐めるだけさ」

「あら、直弥さん。舐めるだけと言って、さっきから随分飲んでいるみたいだけど?」


 美鈴という芸者は艶っぽい笑顔で直弥に顔を寄せる。直弥は目をとろんとさせながら芸者を見つめ、機嫌よく笑っている。芸者は薫の存在に気づくと、品定めするように薫の頭からつま先までじっとりと見た。


「妙前様、ひょっとしてこちらの方が噂の奥様ですの?」

「ああ、そうだ。彼女は妻の薫さんだ」

「薫と申します」


 薫は芸者に頭を下げた。芸者は薫を見て小さくフンと鼻で笑う。


「初めまして、奥様。美鈴と申します。直弥さんからお二人の噂はかねがね伺っておりました」

「余計なことを話してないだろうな? 直弥」

「まさか、ただ僕は二人の結婚のことを話しただけさ」


 じろりと睨む高臣に、直弥は焦りながら否定した。直弥にぴたりと寄り添う美鈴は、薫に対して何故か刺々しい。美鈴に敵対視される理由が分からず、薫はただ困惑していた。


「薫さん、もう一人の芸者はすぐに来る。まずは座って待とう」


 高臣に促され、薫は彼の隣に座る。箱膳の上にはお猪口とおつまみが入った小鉢が並んでいた。二人が席に着くと、美鈴が早速酌をしにやってきた。高臣に酒を注ぎ、一言二言会話を交わす。その名の通り、美鈴は鈴が鳴るような可愛らしい声だ。次に薫のところにやって来た美鈴は、含みのある笑顔で薫に酒を注いだ。ちらりと横を見ると、高臣が(飲まなくていい)と首を振る。料亭に来る前、高臣は薫に酒を飲むなと指示していた。酒に酔って千里眼の力が鈍るのを防ぐ為だ。


「薫様は平民の出だと伺いました」

「え、ええ……そうなんです」


 美鈴はじっと薫の顔を見ている。芸者らしい真っ白なおしろいを塗っていて、唇はぞっとするほど赤い。彼女は美しく、自分の美に自信を持っていることが分かる。


「凄いですねえ、平民なのに華族様の妻になられるなんて! 妙前様のお心を捉えた薫様は、さぞかし素敵な方なのでしょうね」

「そんなことは……」

「私のお酌、お気に召しました? お酌なら薫様の方がお上手なのではないかしら?」


 ああ、そうかと薫は気づいた。この芸者は薫が平民なのに華族の妻となり、お座敷でもてなされる立場なのが気に入らないのだ。本来ならお前が酌をする立場なのだと、美鈴は暗に言っている。


(だとしても、こんな風に嫌味を言うことはないじゃない)


 薫は腹が立ったが、今日は大事な役目の為にここへ来ている。何を言われてもじっとやり過ごすしかない。



「僕の妻が気に入らないか?」



 その時、突然低い声で高臣が呟いた。驚いた薫が横を見ると、お猪口を持ったままの高臣が険しい顔で美鈴を睨むように見ている。


「まあ、妙前様。そんなこと……」

「生まれなどどうでもいい。彼女は僕が妻にすると決めた人だ。薫さんに無礼をするなら、今すぐにこの座敷を出て行ってくれ」


 さっきまでニヤニヤと笑みを浮かべていた美鈴は、突然おしろいをしていても分かるほど顔を青ざめ、手をついて頭を下げた。


「申し訳ございません、妙前様! 奥様に無礼を働く気など、決してございません」

「高臣、美鈴を許してやってくれ。彼女に悪気はないんだよ」


 直弥は慌てて二人に割って入った。


「お前の贔屓だからと黙っていたが、この芸者がこれ以上薫さんに何か言うなら、本当に出ていってもらうぞ」


 高臣は直弥を睨む。直弥は「悪かった、後で俺がちゃんと言っておくから」と必死に高臣をなだめる。


 薫は高臣が怒った姿を見て驚いていた。高臣が言った「生まれなどどうでもいい」という言葉は、薫にとっては意外なものだった。華族として育ち、帝の一族でもある彼が生まれのことを気にしないという言葉が本音ではないと知っていても、やはり嬉しいものだ。薫は心がふっと軽くなるのを感じる。


「あの、もういいですから……私は気にしていません」


 必死に謝る美鈴と直弥の姿を見ていたたまれなくなった薫は、高臣に声をかけた。


「薫さん、今後もこういうことがあったら僕にすぐ話すように」

「はい……」


 その場はなんとか収まり、美鈴は薫にとても気を使うようになった。高臣に庇われたことで、薫は彼に対する印象が少し変わっているのを感じた。自分に興味はないかもしれないが、少なくとも妻を守ろうとする人であることは間違いない。

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