小1から始める現代日本
ロベルトの“現代人化”は、その日の午後から始まった。
私は佐野原のマンションのテーブルに新品のドリルを置き、表紙を指で叩いた。
「はい、今日から、これ。『小学1年生の国語と算数』」
スーツ姿のまま椅子に座るロベルトは、茶色の瞳で表紙を凝視した。
「この“うさぎ”は何者だ? なぜ笑っている?」
「それはマスコット。あなたの先生よ」
「……うむ。見た目は柔らかいが、目が笑っていない。油断ならない存在だ」
「そこじゃない。まずは“九九”ね」
「九九……それは魔法の呪文か?」
「違う。現代日本の基礎魔法よ。これができないと、商店でお釣りも計算できない」
ロベルトは姿勢を正し、胸に手を当てた。
「ならば、習得しよう。俺はこの世界でも王子として、誇り高く九九を唱える!」
「……その姿勢だけは評価する」
1週間後。ロベルトの“学習成果”は、予想外の方向に伸びていた。
- 九九 → 3の段まで覚えたが、7×8で「56……いや、58だ!」と叫ぶ
- 作文 → 『ぼくは おうじです。 きょうは せんそうを しませんでした』
- 図工 → 王宮の設計図を描いて提出。しかも本気の建築図面レベルで、私はコメントに困った
ロベルトは消しゴムを指先で転がしながら、満足げに頷いた。
「俺は進化している。
そして、この“消しゴム”という道具、非常に便利だ」
「そうね」
私は苦笑しながら答えた。
異世界の王子が、小学生ドリルに本気で挑む姿は、どう見てもギャグなのに……妙に似合っているのが腹立たしい。
それでも、彼が必死に現代で生きようとしているのは分かる。
だから私は、今日もドリルを追加で買って帰るのだった。
2カ月、経った。
私は仕事帰りに、佐野原のマンションへ向かった。高層階の窓から漏れる光は温かいのに、胸の中は妙に重い。
玄関を開けると、スウェット姿のロベルト(見た目は佐野原)が腕を組んで立っていた。
「遅いではないか」
「はあ……こっちは働いてんのよ」
「まあ、いい。俺は既に因数分解まで理解した」
「え、本当? 早っ」
地頭は、いいみたい。
ロベルトは得意げに顎を上げた。
「じゃあ、私もう教えることないね。銀行の暗証番号も無事に変えられたし、スマホやパソコンも使えるようになったし」
「……」
「じゃあね」
私が踵を返した瞬間、壁にドンと手がつかれた。
ロベルトの腕が私の横を塞ぎ、影が落ちる。
「また、あの古い汚い狭い家に帰るのか」
何度か送って行ってくれたので、シェアハウスのことは知っている。
「あなたのミアのせいでね」
「ここで暮らせばいい」
「また入れ替わった時、怒られる」
「向こうに戻る時は一緒だ」
「何度も行き来するの嫌」
そもそも、また向こうに行けるかわからない。試してないから。
ロベルトは私を見下ろし、低く囁いた。
「俺は、もうお前を逃がさない」
「あなたのものだったことなんて1度もないんだけど。
それよりも……臭くない? もしかして、食器洗わないで溜めてる?」
「よくわかったな。誰も洗わないのだ」
「……洗い方教えてあげるから見なさい」
私は、ため息をつきながらキッチンへ向かった。
シンクには皿が山のように積まれ、油の膜が張っている。
ロベルトは王子らしい姿勢のまま、真剣に私の手元を見つめていた。
異世界の第2王子に、食器洗いを教える日が来るなんて。
人生、何が起こるか本当に分からない。
食器洗いを終えると、シンクはようやく光を取り戻した。私は手を拭きながらロベルトに向き直る。
「家事はネットで検索してよね。じゃ、帰るから」
踵を返そうとした瞬間、背後から強い腕が私の腰を引き寄せた。
服越しでも分かる鍛えられた体。茶色の瞳がすぐ近くにある。
「俺のものになれ。強情な女だ」
「あのね! 異世界ならあなたは王子だから、まだメリットもあるけど。ここでは単なる厄介者なの! ここまでしてあげたのに、感謝もしないなんて! 野垂れ死にすれば良かったのに!」
私は腕を振りほどき、乱暴に玄関へ向かった。
ロベルトは追いかけて来なかった。
それ以来、私はロベルトを徹底的に無視していた。
連絡も返さず、マンションにも行かず、仕事に没頭した。
そして今日──1カ月ぶりに、彼が会社に復帰した。
会議室の扉が開き、スーツ姿の佐野原……ロベルトが入ってくる。
見た目は完全に佐野原さんなのに、纏う空気はどこか違う。
産業医が資料を見ながら診断した。
「治ってはないが、仕事はできる」
私は胸の奥がざわついた。
“多重人格”という設定で押し通したけれど、本当に大丈夫なのか。
とはいえ、職場にはすでに通知済みで、周囲も気を遣ってくれている。
何とか回っている……今のところは。
私は、深く息を吐いて伸びをした。
「は~、やっと新しい企画書できた」
焼き肉ザウルスが好評で、私は正式に企画担当になった。
忙しいけれど、やりがいはある。
ロベルトが私のデスクに歩み寄り、企画書を指でつついた。
「企画書ができたのか。どれ」
「読んでわかるの?」
「マーケティングはしてある」
「っ!」
2カ月前まで九九すら怪しかった男が、マーケティングを理解しているなんて。
ロベルトはページをめくり、満足げに頷いた。
「ふむ。なかなか面白い。ザウルスの第2弾と言ったところか」
その横顔は、異世界の王子そのもの。
整った顔立ちに自信が宿り、スーツ姿なのに妙に威圧感がある。
「何をぼんやりしている? 佐野原という男も不細工ではないが、元の俺程ではないぞ?」
言い返そうと口を開いた瞬間、視界がぐらりと揺れた。
眩暈がして、私はデスクに手をつく。
気がつくと、またあの真っ白な空間に立っていた。
何もない、音もない、ただ白だけの世界。
「あなたのせいで何もかも、めちゃくちゃ!」
振り返ると、パープルブロンドの髪を揺らしたミアが立っていた。アメジスト色の瞳が涙で濡れ、怒りと悲しみが入り混じった顔で私を睨む。
「はあ? っていうか、また此処?」
「ロベルト殿下もアルペも使用人も騎士団も、皆『あなた、あなた』って! 誰も私を見てくれない!」
ミアは顔を覆い、肩を震わせて泣き出した。
私は腕を組み、冷静に言った。
「それより私の7千万返して。あれは両親の遺産も入ってるのよ」
「だって、仕事が難しかったんだもの。仕方ないわ」
「出来ないことはやらなきゃいい。退職すれば良かったのに。なぜ、余計なことをしたの?」
「そんな……逃げ出せるわけないでしょ。それに誰も『辞めろ』って言わないから」
「あー……出来ないことやって損失出したの自分のせいなのに、内省すらしないのね。
そういえば小説でも、嫌がらせしてくる使用人を処罰しなかったしね。外に出られるんなら、何とでもなったのに」
「そ、そんなこと出来るわけない」
「じゃあ、一生そうやって生きていけば? 若いうちは下心で男が寄ってきて助けてくれても、年取れば浮浪者になるかもね」
「何で酷いことばかり言うの?」
「事実しか言ってないけど」
ミアは涙を拭い、震える声で言った。
「もう、いい。あなたが立て直したであろう、あなたの世界で生きる」
「ふうん。頑張ってね」
次の瞬間、白い光が視界を覆った。
目を開けた私は、天蓋つきの豪奢なベッドの上にいた。薄い金糸のカーテンが揺れ、外から差し込む光が白い床に反射している。
ああ……戻ってきた……王子宮の妃の部屋。
その前時──乱暴に皿が置かれた。
カチャッ、と耳障りな音。
皿の上の料理は埃こそ入っていないが、ぐちゃぐちゃに盛られていて、到底“妃殿下の食事”とは思えない。
「……これは何?」
私は眉をひそめた。
メイドのゾフィが、つんと顎を上げて言う。
栗色の髪をひとつにまとめ、わざとらしく冷たい目をしている。
「食事ですけど?」
その瞬間、私は反射的にゾフィの頬をはたいた。
音は鋭かったが、怪我をさせるほどではない。
「王子宮の使用人は全員、私が面接したんでしょうが! 恩を仇で返すな!」
「ミ……ミア妃殿下が元に戻られました!」
ゾフィが目を見開き、大声を出す。
その声に釣られて、廊下からぞろぞろと使用人たちが集まってきた。
白髪混じりの執事が、咳払いをして前に出た。
背筋の伸びた、いかにも“王宮の執事”という風格の男だ。
「うっほん。いま妃殿下は自室謹慎中ですので、外出はできません」
「謹慎? 誰が決めたの?」
「わ、私です。ブホッ」
私は彼の鳩尾を打つと、怒鳴った。
「執事の分際で、ふざけたこと言ってんじゃないわよ!」
「ほ、ほ、本物だ!」
執事が叫ぶと、使用人たちが一斉に喜んだ。
「戻られた! 本当に戻られた!」 「やっと……やっと妃殿下が……!」
「前の妃殿下とは目つきが違う!」
王子宮の廊下が騒がしく、使用人たちが右往左往している。
その中をかき分けるようにして、ロベルト第2王子が現れた。
「何の騒ぎだ? ……まさか……入れ替わったのか」
ロベルトの中身が日本にいるなら、今ロベルトの中にいるのは……。
「もしかして……佐野原さん?」
「もしかして横田さん?」
お互いの顔を見た瞬間、妙な安堵が胸に広がった。
「あー、あっちのミアから聞いたんですね」
「こんなことあるなんて……」
佐野原(見た目はロベルト)は額に手を当て、深く息を吐いた。
翡翠色の瞳に、困惑と疲労を滲ませている。
「その……大丈夫でした?」
「ああ、彼は……その、君の夫? は、ろくに働いてなかったから、特に支障はなかったよ」
「あはは……そ、そうですか」
それから私は一応、状況を説明した。
ミア(原作)が、どこまで話したか分からないから。
ここが小説の世界だと知ると、みんな複雑な顔をした。
「今の私の体が原作ヒロインです。魂は、現代日本の私と入れ替わりました」
「そうか。ともかく無事で良かった」
「佐野原さんも、ご無事で何よりです。
……傭兵達とアルペは?」
その問いに、控えていたメイドのペルミが顔を曇らせた。
「新しいミア様に仕えたくないと、出ていってしまいました」
「え……」
その瞬間──
ドーンッ!
建物全体が揺れ、壁の装飾がカタカタと音を立てた。
使用人たちが悲鳴を上げ、廊下が一気に騒然となる。
「クーデターです! お逃げください!」
伝令が駆け込み、息を切らしながら叫んだ。
まさか……こんな早く?
いや、違うかもしれない。
でも、この揺れはただ事じゃない。
「敵は?」
「トケビア侯爵です!」
「何てこと……」
彼はトケビア侯爵夫人を、王から取り戻そうと画策していた。
けれど私が原作改変したせいで計画が宙ぶらりんになり、そのまま放置されていたはず。
まさか、もうクーデターを起こすなんて。
原作では、もっと後だったのに。
──時間軸が、狂い始めている。
私は鏡台へ駆け寄り、引き出しを乱暴に開けた。
中から金貨の入った袋を掴んで、部屋を飛び出した。
「妃殿下、どちらへ?!」
使用人たちが慌ててついてくる。
廊下は揺れ、遠くで爆音が響き、天井の装飾が落ちてくる。
「そっちは危ない!」
「直接、侯爵と話すのよ!」
私の声が廊下に響いた。
使用人たちが息を呑む。
ドーンッ!
爆発のような衝撃が響き、廊下の窓ガラスが一斉に砕け散った。
破片が光を反射しながら飛び散り、私は思わず悲鳴を上げた。
「きゃっ!」
足がもつれ、後ろへ倒れそうになった瞬間、強い腕が私の腰を支えた。
振り返ると、佐野原が真剣な顔で私を抱きとめていた。
「危ない。君はいま妊娠してるんだ。走ってはいけない」
「え」
言われて初めて、自分の下腹部がふくらんでいることに気づいた。
手を当てると、確かに柔らかく丸い。
「現在6カ月です」
近くにいたゾフィが震える声で告げた。
「だ、だ、誰の子?」
「もちろん殿下です」
私は思わず佐野原(見た目はロベルト)を見る。
佐野原は両手を振り、必死に否定した。
「僕じゃない、僕だけど、前の僕! 入れ替わる前!」
ああ……そういえば思い出した。
原作が大幅に変わったのを読んだ。
あの時点で、ヒロインはロベルトの子を妊娠していた。
まさか、その“続き”から始まるなんて。
「とりあえず落ち着いて。ゆっくり避難しよう」
佐野原は私の肩に手を添え、ゆっくり歩くよう促した。
私は頷き、彼の腕に支えられながら廊下を進む。
外では兵士たちの怒号が響き、建物全体が揺れている。
クーデターの足音が、すぐそこまで迫っていた。
──なんで自分は子作りしてないのに、妊婦から始めなきゃいけないのか。
心の中で叫びながら、私は必死に息を整えた。
脱出用の地下通路の入り口。
石造りの壁に松明の火が揺れ、焦げた匂いが微かに漂っていた。
外ではまだ爆音が響き、王子宮全体が震えている。
「皆、先にいって」
私の声に、使用人たちがざわついた。
妊娠6カ月の妃殿下が「残る」と言い出したのだから当然だ。
「トケビア侯爵を説得できるか、機会をうかがう。もしダメでも……妊婦は殺さないでしょう」
自分で言いながら、喉がひりついた。
賭けだ。でも、やるしかない。
「ならば、僕も……」
佐野原が進み出た。
けれど私は首を振った。
「元のロベルトは、こういう時を想定して幼少から訓練を受けてきたけど……あなたは普通のサラリーマンだったんです。私1人の方がいい」
佐野原の目が揺れた。
悔しさ、心配、そして責任感。
その全部が混ざったような表情。
「でも……」
「お願い。あなたまで危険に巻き込みたくない」
私がそう言うと、彼は唇を噛み、拳を握りしめた。
松明の火が揺れ、地下通路の奥へ逃げていく使用人たちの影が伸びる。
私はお腹にそっと手を当て、深く息を吸った。
──妊婦から再開する異世界生活なんて聞いてない。
でも、やるしかない。
私はゆっくりと踵を返し、揺れる後宮の方へ歩き出した。




