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ドアマット・ヒロインが、やり返さなくてイライラしたので代わりにやってみました  作者: 星森 永羽


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9/9

小1から始める現代日本



 ロベルトの“現代人化”は、その日の午後から始まった。

 私は佐野原のマンションのテーブルに新品のドリルを置き、表紙を指で叩いた。


「はい、今日から、これ。『小学1年生の国語と算数』」


 スーツ姿のまま椅子に座るロベルトは、茶色の瞳で表紙を凝視した。


「この“うさぎ”は何者だ? なぜ笑っている?」


「それはマスコット。あなたの先生よ」


「……うむ。見た目は柔らかいが、目が笑っていない。油断ならない存在だ」


「そこじゃない。まずは“九九”ね」


「九九……それは魔法の呪文か?」


「違う。現代日本の基礎魔法よ。これができないと、商店でお釣りも計算できない」


 ロベルトは姿勢を正し、胸に手を当てた。


「ならば、習得しよう。俺はこの世界でも王子として、誇り高く九九を唱える!」


「……その姿勢だけは評価する」


 



 1週間後。ロベルトの“学習成果”は、予想外の方向に伸びていた。


- 九九 → 3の段まで覚えたが、7×8で「56……いや、58だ!」と叫ぶ

- 作文 → 『ぼくは おうじです。 きょうは せんそうを しませんでした』

- 図工 → 王宮の設計図を描いて提出。しかも本気の建築図面レベルで、私はコメントに困った


 ロベルトは消しゴムを指先で転がしながら、満足げに頷いた。


「俺は進化している。

 そして、この“消しゴム”という道具、非常に便利だ」


「そうね」


 私は苦笑しながら答えた。

 異世界の王子が、小学生ドリルに本気で挑む姿は、どう見てもギャグなのに……妙に似合っているのが腹立たしい。


 それでも、彼が必死に現代で生きようとしているのは分かる。

 だから私は、今日もドリルを追加で買って帰るのだった。






 2カ月、経った。

 私は仕事帰りに、佐野原のマンションへ向かった。高層階の窓から漏れる光は温かいのに、胸の中は妙に重い。


 玄関を開けると、スウェット姿のロベルト(見た目は佐野原)が腕を組んで立っていた。


「遅いではないか」


「はあ……こっちは働いてんのよ」


「まあ、いい。俺は既に因数分解まで理解した」


「え、本当? 早っ」


 地頭は、いいみたい。

 ロベルトは得意げに顎を上げた。


「じゃあ、私もう教えることないね。銀行の暗証番号も無事に変えられたし、スマホやパソコンも使えるようになったし」


「……」


「じゃあね」


 私が踵を返した瞬間、壁にドンと手がつかれた。

 ロベルトの腕が私の横を塞ぎ、影が落ちる。


「また、あの古い汚い狭い家に帰るのか」


 何度か送って行ってくれたので、シェアハウスのことは知っている。


「あなたのミアのせいでね」


「ここで暮らせばいい」


「また入れ替わった時、怒られる」


「向こうに戻る時は一緒だ」


「何度も行き来するの嫌」


 そもそも、また向こうに行けるかわからない。試してないから。

 ロベルトは私を見下ろし、低く囁いた。


「俺は、もうお前を逃がさない」


「あなたのものだったことなんて1度もないんだけど。

 それよりも……臭くない? もしかして、食器洗わないで溜めてる?」


「よくわかったな。誰も洗わないのだ」


「……洗い方教えてあげるから見なさい」


 私は、ため息をつきながらキッチンへ向かった。

 シンクには皿が山のように積まれ、油の膜が張っている。

 ロベルトは王子らしい姿勢のまま、真剣に私の手元を見つめていた。


 異世界の第2王子に、食器洗いを教える日が来るなんて。

 人生、何が起こるか本当に分からない。



 食器洗いを終えると、シンクはようやく光を取り戻した。私は手を拭きながらロベルトに向き直る。


「家事はネットで検索してよね。じゃ、帰るから」


 踵を返そうとした瞬間、背後から強い腕が私の腰を引き寄せた。

 服越しでも分かる鍛えられた体。茶色の瞳がすぐ近くにある。


「俺のものになれ。強情な女だ」


「あのね! 異世界ならあなたは王子だから、まだメリットもあるけど。ここでは単なる厄介者なの! ここまでしてあげたのに、感謝もしないなんて! 野垂れ死にすれば良かったのに!」


 私は腕を振りほどき、乱暴に玄関へ向かった。

 ロベルトは追いかけて来なかった。


 


 それ以来、私はロベルトを徹底的に無視していた。

 連絡も返さず、マンションにも行かず、仕事に没頭した。


 そして今日──1カ月ぶりに、彼が会社に復帰した。


 会議室の扉が開き、スーツ姿の佐野原……ロベルトが入ってくる。

 見た目は完全に佐野原さんなのに、纏う空気はどこか違う。



 産業医が資料を見ながら診断した。


「治ってはないが、仕事はできる」


 私は胸の奥がざわついた。

 “多重人格”という設定で押し通したけれど、本当に大丈夫なのか。


 とはいえ、職場にはすでに通知済みで、周囲も気を遣ってくれている。

 何とか回っている……今のところは。



 私は、深く息を吐いて伸びをした。


「は~、やっと新しい企画書できた」


 焼き肉ザウルスが好評で、私は正式に企画担当になった。

 忙しいけれど、やりがいはある。


 ロベルトが私のデスクに歩み寄り、企画書を指でつついた。


「企画書ができたのか。どれ」


「読んでわかるの?」


「マーケティングはしてある」


「っ!」


 2カ月前まで九九すら怪しかった男が、マーケティングを理解しているなんて。


 ロベルトはページをめくり、満足げに頷いた。


「ふむ。なかなか面白い。ザウルスの第2弾と言ったところか」


 その横顔は、異世界の王子そのもの。

 整った顔立ちに自信が宿り、スーツ姿なのに妙に威圧感がある。


「何をぼんやりしている? 佐野原という男も不細工ではないが、元の俺程ではないぞ?」


 言い返そうと口を開いた瞬間、視界がぐらりと揺れた。

 眩暈がして、私はデスクに手をつく。


 


 気がつくと、またあの真っ白な空間に立っていた。

 何もない、音もない、ただ白だけの世界。


「あなたのせいで何もかも、めちゃくちゃ!」


 振り返ると、パープルブロンドの髪を揺らしたミアが立っていた。アメジスト色の瞳が涙で濡れ、怒りと悲しみが入り混じった顔で私を睨む。


「はあ? っていうか、また此処?」


「ロベルト殿下もアルペも使用人も騎士団も、皆『あなた、あなた』って! 誰も私を見てくれない!」


 ミアは顔を覆い、肩を震わせて泣き出した。


 私は腕を組み、冷静に言った。


「それより私の7千万返して。あれは両親の遺産も入ってるのよ」


「だって、仕事が難しかったんだもの。仕方ないわ」


「出来ないことはやらなきゃいい。退職すれば良かったのに。なぜ、余計なことをしたの?」


「そんな……逃げ出せるわけないでしょ。それに誰も『辞めろ』って言わないから」


「あー……出来ないことやって損失出したの自分のせいなのに、内省すらしないのね。

 そういえば小説でも、嫌がらせしてくる使用人を処罰しなかったしね。外に出られるんなら、何とでもなったのに」


「そ、そんなこと出来るわけない」


「じゃあ、一生そうやって生きていけば? 若いうちは下心で男が寄ってきて助けてくれても、年取れば浮浪者になるかもね」


「何で酷いことばかり言うの?」


「事実しか言ってないけど」


 ミアは涙を拭い、震える声で言った。


「もう、いい。あなたが立て直したであろう、あなたの世界で生きる」


「ふうん。頑張ってね」


 次の瞬間、白い光が視界を覆った。





   目を開けた私は、天蓋つきの豪奢なベッドの上にいた。薄い金糸のカーテンが揺れ、外から差し込む光が白い床に反射している。


 ああ……戻ってきた……王子宮の妃の部屋。


 その前時──乱暴に皿が置かれた。


 カチャッ、と耳障りな音。

 皿の上の料理は埃こそ入っていないが、ぐちゃぐちゃに盛られていて、到底“妃殿下の食事”とは思えない。


「……これは何?」


 私は眉をひそめた。


 メイドのゾフィが、つんと顎を上げて言う。

 栗色の髪をひとつにまとめ、わざとらしく冷たい目をしている。


「食事ですけど?」


 その瞬間、私は反射的にゾフィの頬をはたいた。

 音は鋭かったが、怪我をさせるほどではない。


「王子宮の使用人は全員、私が面接したんでしょうが! 恩を仇で返すな!」


「ミ……ミア妃殿下が元に戻られました!」


 ゾフィが目を見開き、大声を出す。

 その声に釣られて、廊下からぞろぞろと使用人たちが集まってきた。


 白髪混じりの執事が、咳払いをして前に出た。

 背筋の伸びた、いかにも“王宮の執事”という風格の男だ。


「うっほん。いま妃殿下は自室謹慎中ですので、外出はできません」


「謹慎? 誰が決めたの?」


「わ、私です。ブホッ」


 私は彼の鳩尾を打つと、怒鳴った。


「執事の分際で、ふざけたこと言ってんじゃないわよ!」


「ほ、ほ、本物だ!」


 執事が叫ぶと、使用人たちが一斉に喜んだ。


「戻られた! 本当に戻られた!」 「やっと……やっと妃殿下が……!」

「前の妃殿下とは目つきが違う!」


 王子宮の廊下が騒がしく、使用人たちが右往左往している。

 その中をかき分けるようにして、ロベルト第2王子が現れた。


「何の騒ぎだ? ……まさか……入れ替わったのか」


 ロベルトの中身が日本にいるなら、今ロベルトの中にいるのは……。


「もしかして……佐野原さん?」


「もしかして横田さん?」


 お互いの顔を見た瞬間、妙な安堵が胸に広がった。


「あー、あっちのミアから聞いたんですね」


「こんなことあるなんて……」


 佐野原(見た目はロベルト)は額に手を当て、深く息を吐いた。

 翡翠色の瞳に、困惑と疲労を滲ませている。


「その……大丈夫でした?」


「ああ、彼は……その、君の夫? は、ろくに働いてなかったから、特に支障はなかったよ」


「あはは……そ、そうですか」


 それから私は一応、状況を説明した。

 ミア(原作)が、どこまで話したか分からないから。

 ここが小説の世界だと知ると、みんな複雑な顔をした。


「今の私の体が原作ヒロインです。魂は、現代日本の私と入れ替わりました」


「そうか。ともかく無事で良かった」


「佐野原さんも、ご無事で何よりです。

 ……傭兵達とアルペは?」


 その問いに、控えていたメイドのペルミが顔を曇らせた。


「新しいミア様に仕えたくないと、出ていってしまいました」


「え……」


 その瞬間──


 ドーンッ!


 建物全体が揺れ、壁の装飾がカタカタと音を立てた。

 使用人たちが悲鳴を上げ、廊下が一気に騒然となる。


「クーデターです! お逃げください!」


 伝令が駆け込み、息を切らしながら叫んだ。


 まさか……こんな早く?

 いや、違うかもしれない。

 でも、この揺れはただ事じゃない。


「敵は?」


「トケビア侯爵です!」


「何てこと……」


 彼はトケビア侯爵夫人を、王から取り戻そうと画策していた。

 けれど私が原作改変したせいで計画が宙ぶらりんになり、そのまま放置されていたはず。


 まさか、もうクーデターを起こすなんて。

 原作では、もっと後だったのに。


 ──時間軸が、狂い始めている。


 私は鏡台へ駆け寄り、引き出しを乱暴に開けた。

 中から金貨の入った袋を掴んで、部屋を飛び出した。


「妃殿下、どちらへ?!」


 使用人たちが慌ててついてくる。

 廊下は揺れ、遠くで爆音が響き、天井の装飾が落ちてくる。


「そっちは危ない!」


「直接、侯爵と話すのよ!」


 私の声が廊下に響いた。

 使用人たちが息を呑む。


 ドーンッ!


 爆発のような衝撃が響き、廊下の窓ガラスが一斉に砕け散った。

 破片が光を反射しながら飛び散り、私は思わず悲鳴を上げた。


「きゃっ!」


 足がもつれ、後ろへ倒れそうになった瞬間、強い腕が私の腰を支えた。

 振り返ると、佐野原が真剣な顔で私を抱きとめていた。


「危ない。君はいま妊娠してるんだ。走ってはいけない」


「え」


 言われて初めて、自分の下腹部がふくらんでいることに気づいた。

 手を当てると、確かに柔らかく丸い。


「現在6カ月です」


 近くにいたゾフィが震える声で告げた。


「だ、だ、誰の子?」


「もちろん殿下です」


 私は思わず佐野原(見た目はロベルト)を見る。

 佐野原は両手を振り、必死に否定した。


「僕じゃない、僕だけど、前の僕! 入れ替わる前!」


 ああ……そういえば思い出した。

 原作が大幅に変わったのを読んだ。

 あの時点で、ヒロインはロベルトの子を妊娠していた。


 まさか、その“続き”から始まるなんて。


「とりあえず落ち着いて。ゆっくり避難しよう」


 佐野原は私の肩に手を添え、ゆっくり歩くよう促した。

 私は頷き、彼の腕に支えられながら廊下を進む。


 外では兵士たちの怒号が響き、建物全体が揺れている。

 クーデターの足音が、すぐそこまで迫っていた。


 ──なんで自分は子作りしてないのに、妊婦から始めなきゃいけないのか。


 心の中で叫びながら、私は必死に息を整えた。




 脱出用の地下通路の入り口。

 石造りの壁に松明の火が揺れ、焦げた匂いが微かに漂っていた。

 外ではまだ爆音が響き、王子宮全体が震えている。


「皆、先にいって」


 私の声に、使用人たちがざわついた。

 妊娠6カ月の妃殿下が「残る」と言い出したのだから当然だ。


「トケビア侯爵を説得できるか、機会をうかがう。もしダメでも……妊婦は殺さないでしょう」


 自分で言いながら、喉がひりついた。

 賭けだ。でも、やるしかない。


「ならば、僕も……」


 佐野原ロベルトが進み出た。


 けれど私は首を振った。


「元のロベルトは、こういう時を想定して幼少から訓練を受けてきたけど……あなたは普通のサラリーマンだったんです。私1人の方がいい」


 佐野原の目が揺れた。

 悔しさ、心配、そして責任感。

 その全部が混ざったような表情。


「でも……」


「お願い。あなたまで危険に巻き込みたくない」


 私がそう言うと、彼は唇を噛み、拳を握りしめた。


 松明の火が揺れ、地下通路の奥へ逃げていく使用人たちの影が伸びる。

 私はお腹にそっと手を当て、深く息を吸った。


 ──妊婦から再開する異世界生活なんて聞いてない。

 でも、やるしかない。


 私はゆっくりと踵を返し、揺れる後宮の方へ歩き出した。




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