こっちに来てしまった
派遣先のオフィスはガラス張りで、昼の光が差し込むと白く輝いて見える。
私はコピー用紙を抱えて廊下を歩いていると、スーツ姿の佐野原に呼び止められた。濃紺のスーツがよく似合う、渋い雰囲気の上司だ。落ち着いた茶色の目がこちらを向く。
「やあ、横田さん。頼みがあるんだが」
横田は私の名字。
「何でしょう?」
「正社員になってくれないか」
「え、もう、ですか? ……光栄です」
胸が少しだけ熱くなる。
この会社は単純に、時給が高いから応募した。まだ通って1週間なのに。
「仕事できすぎて困ってるんだよ」
「はい?」
思わず素っ頓狂な声が出た。佐野原は苦笑し、腕を組む。
「プロジェクト任せたくても、派遣だと途中で他の会社に行ってしまうかもしれないからね」
「それはそうですね。では、条件については人事部でうかがえば?」
「僕が直接、説明しよう。応接室へ」
佐野原の後ろについて応接室に入った。ガラスのテーブル、観葉植物、落ち着いた照明。派遣の私には少し場違いに感じる空間だった。
説明を聞きながら、胸の奥に1つの懸念が浮かぶ。
万一、プロジェクトの途中で、またミアと入れ替わったら、どうしよう……。異世界に飛ばされて、戻ってきたらSNSが炎上していた、なんて洒落にならない。
「どうかした? 条件に不満?」
「いえ……」
曖昧に笑って誤魔化す。かと言って、ずっと派遣でいるわけにもいかない。派遣は時給が高めに設定されているけど、ボーナスは出ない。生活を立て直すには、安定が必要だ。
「よろしくお願いします」
私は深く頭を下げた。佐野原さんの表情がわずかに緩む。応接室の空気が、少しだけ温かく感じられた。
仕事帰りのレストランは、木目調の照明が柔らかく落ちていて、テーブルの上のグラスが淡く光っていた。
私はコートを椅子に掛け、向かいに座る木沢を見る。グレーのスーツ姿が爽やかな後輩だ。
「もう仕事決まるなんて流石です」
「ありがとう。でも……」
私はおしぼりを持ったまま、胸の奥にある不安を言葉にした。
また向こうの世界に憑依してしまったら……。
「クレカはスマホでだけ使えるようにして、カードは処分すればいいですよ」
「それは対策したんだけど……仕事で、また迷惑かけるのが申し訳なくて……ずっと派遣でいようか迷ったんだけど」
木沢は少し考えてから、真剣な顔で言った。
「僕と一緒に住みます? そうすれば入れ替わった時、止められます。体調不良ってことにして閉じ込めておくとか」
「で、でも恋人や家族が困るでしょう?」
「家族は田舎で、恋人はいません」
「でででで、でも」
顔が熱くなるのが自分でも分かった。木沢は、そんな私を見てふっと笑う。
「部長もやっぱり、ちゃんと女の子なんですね。顔真っ赤ですよ」
私は仕事ばかりしてきた。バリバリ働いて、恋愛なんて遠ざけてきた。だから、こんなふうに言われると弱い。
結局、木沢とは“毎日連絡を取り合う”ことで決着した。けれど、そのやり取りは、どう考えても恋愛に発展しそうな雰囲気。スマホを見るたび胸がざわつく。
「でも木沢くん以外、頼れる人いないしなー」
私はグラスの水をひと口飲み、天井のライトをぼんやり見上げた。
会議室は白い壁とガラス窓に囲まれ、昼の光がテーブルに反射していた。40代前半、短く刈り込んだ髪に黒縁メガネの進行役が、資料をめくりながら言った。
「──そういったわけでパンデミック以降、外食業界は回復が遅れている。我が社の飲食も同様。これを挽回する企画が必要だ。アイディアのある人」
私は迷わず手を挙げた。周囲の社員たちが、こちらを見る。
「やはりコラボカフェに似たものが、よろしいかと。既存のキャラクターでは使用許可や利益分配を考えなければいけませんが、オリジナルキャラクターを作れば──」
「いや、あの手のは人気あるキャラクターじゃないと集客できないよ」
丸顔で柔らかい雰囲気の男性、宮田が眉を寄せる。
「そうそう」
ショートボブの花沢も頷く。
「度肝を抜くものだったら、どうです? 例えば焼き肉アート」
進行役が目を瞬かせた。
「焼き肉アート?」
会議室がざわつく。細身で神経質な男性、米田が手を挙げた。
「それって、どういう……?」
「肉の盛り付け自体がアートになっていて、食べる前に写真を撮りたくなるようなビジュアルにするんです」
「子ども向け?」
宮田が首を傾げる。
「いえ、子どもも楽しめますが、狙いは“体験型グルメ”を求める若年層です。SNS映えを意識した演出で、食事そのものがイベントになる。
たとえば“火山ラーメン”──モヤシの山からマグマスープが噴火して、最後にカプセルが出てくる。中には恐竜のフィギュアや、次回来店時の特典が」
「内装どうするの?」
花沢が腕を組み直す。
「ジェラ○ック・パーク風にします。ミストが立ちこめるジャングルの中、恐竜の鳴き声が響いて、火山の演出が始まる。
肉の盛り合わせは“肉絵巻”として、恐竜時代の冒険ストーリー仕立てに。食べ進める毎に、物語が進行します」
会議室が静まり返った。誰も笑わない。むしろ、真剣に考えている。
「……予算は?」
進行役が慎重に尋ねる。
「内装は、造花の植物と恐竜のオブジェだけで十分です。
盛り付けやストーリーは私が作るか、募集すればいい。採用されたストーリーは1~10万円で買い取りにすれば、応募も集まります。話題性とリピーター戦略可能です。
今の時代に必要なのは“食べるだけじゃない外食”です。体験と物語を売るんです」
沈黙が落ちたあと、上司の佐野原がゆっくりと頷いた。
「……面白い。詳細を詰めて、来週の企画会議に持ってきてくれ」
「承知しました」
私は資料を閉じながら、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
異世界で鍛えられた“改革脳”は、どうやら現実でも役に立つらしい。
私が提案した“体験型グルメ店”は予想以上の反響を呼び、連日満席になっていた。会社の空気もどこか明るく、廊下を歩く社員たちの声が弾んでいる。
佐野原──渋いスーツが似合う上司──が私のデスクに来て、柔らかく笑った。
「いや、君のお陰だ。本採用して良かった」
「光栄です」
「どうだろう。景気付けに1杯」
「全員でですか?」
「いや……2人ではダメかな」
その言い方に、胸が少しざわついた。
レストランは落ち着いた照明で、ワイングラスが淡く光っていた。
佐野原は普段より砕けた表情で、グラスを重ねるたび頬が赤くなっていく。スーツの襟元が少し乱れ、いつもの冷静さが消えていた。
やがて完全に酔いが回り、テーブルに突っ伏してしまった。
「佐野原さん、タクシー……」
肩を貸そうとしたけれど、体格のいい男性を支えるのは無理があった。
ちょうど木沢から「今どこ?」とメッセージが来たので、事情を説明した。
15分後、木沢が駆け寄ってくる。黒い瞳が心配そうに揺れていた。
「僕が送りますよ」
「で、でも初対面なのに悪いわ」
「では、一緒に」
その時、佐野原がむくっと起き上がった。酔っているはずなのに、目だけが妙に鋭い。
「誰だ?」
「私の前の会社の後輩、木沢くんです」
「ここは、どこだ?」
「「え」」
私と木沢は同時に固まった。
「えっと、佐野原さんのオススメのレストランで」
「サノハラ? 俺の名はロベルト・エレンガード」
「っ! ……エレンガード国の第2王子でしょうか」
「そうだ。お前は?」
「あなたが憑依した方の部下です」
「憑依…………なるほどな。ミアが言ってたやつか。
なら、ちょうど良かった。俺を家まで連れてけ」
木沢が完全に混乱した顔で、私を見る。黒い瞳が揺れていた。
「何が、どうなってるんです?」
「"姫なのにバイトしてます"の世界からきた主人公の夫よ」
「じょ、冗談でしょ?」
私はため息をついた。
冗談なら、どれだけ良かったか。
ロベルトが冷静なのが、引っ掛かったが、とにかく今は連れていこう。
佐野原マンションは、白とグレーを基調にした落ち着いた空間だった。高層階の窓からは夜景が広がり、都会の光が静かに瞬いている。
スーツ姿のままソファに座り込んだロベルト(見た目は佐野原)は、瞳を細めて周囲を見回した。
「使用人は、どこだ? 湯浴みさせろ。外の空気が汚い」
「使用人はいません。自分のことは自分でするのです」
「なんだと? お前、部下だろ」
「仕事の部下は、私生活の面倒まで見ません。では、おやすみなさい」
私は玄関へ向かおうとした。けれど背後から焦った声が飛んでくる。
「ま、待て。何を、どう使うかくらい説明しろ」
ため息をつきながら、私はキッチンやバスルーム、洗濯機の使い方を一通り説明して歩いた。ロベルトは異世界の王子らしく、家電を見るたび眉をひそめる。
「じゃ、私はこれで」
「待て待て。お前、ミアだな?」
「え」
ロベルトは立ち上がり、私をまっすぐ見つめた。
「やっぱり。その冷たさ、素っ気なさ、容赦のなさ、まさにミアだ!」
「気のせいでしょ」
「ならばこの異世界で、なぜ俺が第2王子だと分かった?」
「……」
「やはり! そんなに俺に会いたかったか。可愛いところもあるじゃないか」
「なんで、そんな話になるの?」
「お前が俺に会いたいと祈ったから、俺がここに憑依したんだろう」
「うわ~明日、病院行きましょう。頭打ったみたいよ」
「ほら! やっぱりミア」
そう言うなり、ロベルトが勢いよく抱きついてきた。体が重くのしかかり、私は思わずよろめく。
「離れて」
低い声が響き、木沢がロベルトを引き剥がした。瞳が怒りで鋭く光っている。
「夫婦の抱擁を邪魔するとは。お前も俺の部下か?」
「違うわ。私の元部下。あなたの“ミア”のせいで部下じゃなくなったの」
「……あいつか。お前が向こうの世界に戻らないなら、あれは処刑しよう」
戻れるかわからないのに、遠隔で処刑するつもり?
「え、子供できたんじゃないの?」
「なぜ知ってる?」
私はバッグからスマホを取り出し、小説アプリを開いてロベルトに画面を見せた。
ロベルトは、しばらくスマホの画面を見つめたまま、深いため息をついた。
「はあ……ちょうど、あのタイミングで入れ替わったのか。何てことだ。お前だから抱いたのに」
私は思わず眉をひそめた。
ということは、原作のミアは夫を受け入れたのね。倉庫に監禁するような男なのに。
「……まあ、そういうことだから元の世界に帰って仲良くやりなって」
帰る方法は知らないけど。
「嫌だ。俺は、あっちのミアが嫌いだ」
ロベルトは子どもみたいに不機嫌な顔をして、ソファに沈み込んだ。
私は深くタメ息をついた。
「とりあえず帰るわ。またね」
「おい」
背後から呼び止める声を無視して、私は玄関の扉を閉めた。
外に出ると、冬の夜風が頬に触れた。マンション前の街灯が白く光り、アスファルトに影が伸びる。
そこへ木沢が駆け寄ってきた。黒い瞳が心配そうに私を見つめる。
「大丈夫ですか?」
「すっごい疲れた。巻き込んで、ごめん」
「いえ、でも……本当だったんだって、実感しちゃって。こんなことあるんですね」
木沢の声は震えていた。
私は肩の力を抜き、夜空を見上げた。
現実と異世界の境界が、また少し曖昧になっていく気がした。
翌日。私は出社しながら、胸の奥がざわついていた。
エレベーターの鏡に映る自分は、寝不足で少し目の下が暗い。
「あの人、来るのかしら……。スマホの使い方は教えたけど……」
そんな独り言を呟いた瞬間、背後から低い声が落ちてきた。
「おい」
「きゃっ」
振り返ると、スーツ姿の佐野原──中身はロベルト──が立っていた。茶色の瞳はいつもの落ち着きではなく、王子の気配を宿している。
「なんだ、朝から悲鳴上げて」
「あなた、出社できたの?」
「そのくらいできる」
腕を組む姿は堂々としているのに、ネクタイは少し曲がっていて、やっぱり異世界の人間だなと思う。
「退職して、この世界のこと覚えた方がいいよ。有給でも」
「お前が毎日会いに来ると約束するなら従ってもいい」
その言葉に、私は思わず目を瞬かせた。
さすがに本人も不安なんだな。
っていうか、憑依がバレたら政府の研究機関とかに連れて行かれるかもしれない。勿論、私も。
だから、私が彼をフォローするしかない。
私は急いで産業医に相談し、ロベルトを診てもらった。
結果は“多重人格”という診断になった。
勿論、本物の多重人格ではないが、他に診断のしようがなかったのだ。
大卒の管理職であるはずの人物が、首相もコンビニも因数分解も知らないのである。
その診断書のおかげで、ロベルトは長期休暇──療養扱い──に入ることになった。
けれど、診断書を受け取った帰り道、私は深く息を吐いた。
そうは言っても、職場復帰できるほどの知識を数カ月でつけられるのかしら……。
異世界の王子に、現代日本のビジネススキルなんて、無茶にもほどがある。
私は額を押さえながら、エレベーターのボタンを押した。
この先、どうなるんだろう?




