掃除が大事
「ドライイーストは売ってなかったから、酵母を作るのに時間かかるし……メレンゲで膨らまそうか。重曹も買ってきたし」
私は袖をまくり、キッチンの作業台に材料を並べた。卵、粉、塩、そしてさっき買ってきた重曹。キルとガルドを呼び、手分けして作業開始。
キルは無邪気に笑いながら、卵を割り始めた。ガルドは無言で鍋を火にかける。2人とも手際は悪くない。さすが傭兵、応用力がある。
私は砂糖を入れずにスポンジを焼いてみた。ふわっと膨らんだ。
「うーん……すごく美味しいってわけじゃないけど、あの白パンよりはいいか」
キルが目を丸くして言った。
「卵を泡立てるなんて……すごい」
「え? メレンゲがないの?」
ガルドが鍋をかき混ぜながら答える。
「泡立てた卵を食べる地域はあるが、白身と分けたりはしない」
この世界では全卵が基本なんだ。
なるほど。傭兵は仕事でいろんな場所に行ってるから、各地の知識があるのね。
コンソメを煮詰めて、鍋底の茶色くなった野菜を出す。乾燥させれば、固形スープの素が完成。保存も効くし、戦場でも使える。
余ったコンソメに香辛料とトマト、酢と砂糖を加えケチャップを作った。
「これ……戦場に持って行けば、士気が上がる」
ガルドが、ぽつりと呟いた。
大きい体にエプロンが可愛い。
「え、ケチャップで?」
私は思わず聞き返した。
──やっぱり、食文化が乏しい。
「ロベルト殿下が、お目覚めになりました」
執事の声が背後から届いた。私は瓶の蓋を閉めながら、首だけで振り返る。粗熱のとれたケチャップを、瓶に詰めていたところだ。
「ロベルト?」
キルが横から口を挟む。
「昨日、結婚した相手でしょう?」
そうだ、原作にもロベルトって書いてあった。
「ああ。おめでとう」
「いえ、あの……様子を見に行かれないんですか?」
執事が困ったように言う。
「なんで?」
「えっと……妻として……」
「書面上だから」
私は立ち上がり、執事に向き直った。
「それよりさ、昨日は──風呂に冷水溜めて入れっつったメイド沈めて、今朝も私の食事に埃入れたメイド引き回して供述書つくって、私に意見した執事殴って、傭兵帰そうとした騎士団地下牢に入れて、私の前に立ち塞がった料理長ぶん殴ったんだけど──あなたは、いつ仕事するわけ?」
執事の顔から血の気が引いていくのがわかる。私は一歩、彼に近づいた。
「私が直接手を下す前に見つけて潰して報告するのが当然よね? っていうか、そもそもそんなゴミ雇うのがどうかしてる。ロベルトだかの指示で雇ったなら、教育しなさいよ。統制もとれないくせによくノコノコ顔を出せたもんね──この無能どもが!」
執事は震えながら、かすれた声で答えた。
「す、すぐに調査を開始いたします……!」
「簡単よ。踏み絵をさせなさい。今すぐ王族の姿絵を用意して」
「は、それは……。……絵師を呼びます」
「何いってんの。玄関の壁にかかってんのでいーって」
「……あ、あれは有名な画家で、宮廷画家も務めたエオリアンの作品で……」
「ただの紙じゃない。燃やして見せればわかる?」
執事は顔を引きつらせ、小さく頷いた。
「……すぐに外します」
「使用人全員、庭に集めて」
──この宮の空気を変えるには、まず“誰が主か”を知らしめる必要がある。
庭に整列させた使用人たちを見下ろしながら、私は静かに言った。
「では、踏み絵を始めましょう」
玄関から持ってこさせた王族の姿絵を、芝の上に広げる。
「この上を、順に踏んでいきなさい」
ざわつきが広がる。誰も動かない。目を伏せる者、顔をしかめる者、震える者。
「……踏めません」
1人の使用人が、泣きそうな声で言った。
「例え殺されようと、忠誠心は変わりません」
私は腕を組み直した。
「では、あなたの忠誠心は間違っているのね」
「なに……?」
「結婚って、1人じゃできないのよ。知ってた?
エレンガード王室は、私を嫁として受け入れた。にも関わらず、あなた方が私の命に背くということは──王の決定に従わないということよ。それこそ、不忠でしょう?」
使用人の顔が引きつる。
「そ、それは……しかし、踏み絵など、あんまりです……!」
「はあ……」
私はため息をついて、執事に目をやった。
「執事。さっき私が言ったこと、復唱して」
執事は一瞬たじろいだが、すぐに背筋を伸ばして言った。
「ええ……はい……『昨日は──風呂に冷水溜めて入れっつったメイド沈めて、今朝も私の食事に埃入れたメイド引き回して供述書つくって、私に意見した執事殴って、傭兵帰そうとした騎士団地下牢に入れて、私の前に立ち塞がった料理長ぶん殴ったんだけど──あなたは、いつ仕事するわけ? 私が直接手を下す前に見つけて潰して報告するのが当然よね? っていうか、そもそもそんなゴミ雇うのが、どうかしてる。ロベルトだかの指示で雇ったなら、教育しなさいよ。統制もとれないくせによくノコノコ顔を出せたもんね──この無能どもが!』」
私は頷いた。
「私に、こんな手間(踏み絵)をかけさせておいて『あんまりです』じゃないのよ。立場を知りなさい。私は容赦しない」
腰の剣を抜く。陽光を受けて、刃が白く光る。
その瞬間、空気が変わった。ざわめきが走り、1人、また1人と絵の上を踏み始める。顔を伏せ、歯を食いしばりながら。
──これでいい。忠誠とは、行動で示すもの。
私は剣を肩に担ぎながら、最後尾の使用人が絵を踏むのを見届けた。
客間の扉が開き、トケビア侯爵が資料の束を抱えて入ってきた。面長の顔が少し窶れてるのは、疲れか加齢か。まだ36歳だが、平均寿命50歳のこの国では若くない。
「不動産の資料を、お持ちしました」
「仕事が早くて助かるわ」
私はソファに腰を下ろしながら、資料を受け取った。紙の端に香の匂いが残っている。
「お急ぎかと思ったので」
「そうね。減った使用人を、補充しなきゃならないし」
「……え?」
侯爵が一瞬、灰色の目を瞬かせた。
「こちらの話」
彼はそれ以上は聞かず、資料をテーブルに並べ始めた。間取り、立地、周辺の地図。どれも私の条件に合っている。
「物件の説明を部下から、お聞きになる間、私は庭を拝見しても?」
「血が飛び散ってるけど、平気かしら」
彼の手が止まった。目がわずかに揺れる。
「あ……」
察したようね。さすが、原作でクーデターを起こすだけの男。感情を表に出さないのは、貴族のたしなみ。
「それより、面白いものがあるわ」
私は資料を閉じ、彼に視線を向けた。
「今朝、ロベルトが血塗れで発見されたの。さっき意識が戻ったんですって。良ければ、見に行かない?」
侯爵の表情が、ほんのわずかに動いた。驚きか、興味か、それとも──共感か。
彼の妻は、今や王の後宮にいる。
令嬢の純潔は守られても、夫人になった後は“王の慰み者”にされることがある。
──彼は、それを黙って受け入れた。表向きは。
だから、憎い王の子が怪我したとなれば、内心は嬉しいだろう。
本来、私が使うはずだった部屋。
扉を開けると、そこにはエレンガード王がいた。背筋を伸ばし、重々しい視線をこちらに向けてくる。
「あら、陛下。いらしてたのね」
私がそう言うと、王は蜂蜜色の眉をひそめた。
「そなたは、夫が重傷だというのに──遊び歩いていたらしいな」
私は首を傾げた。
「逆に、私が怪我した方だったら、このロベルトって人も同じことしたと思うけど?」
王は言葉を失ったように黙り込む。
その沈黙を破ったのは、トケビア侯爵だった。
「お見舞い申し上げます、陛下」
「ああ、トケビア侯爵。──まだ犯人がわかっていないのだ。この件は……」
「犯人なら、ロベルトの愛人が放った刺客よ」
私がさらりと言うと、王の目が見開かれた。
「私が昨晩、彼と部屋を取り替えたの。で──ロベルトが寝てると、知らずに襲撃したんでしょうね」
「なっ……何故、彼女が犯人と言いきれる」
「勘」
王の顔が引きつる。けれど、すぐに振り切るように命じた。
「……今すぐ、スピアリン男爵令嬢を取り調べろ!」
その瞬間、ベッドの上から声が上がった。
「お、お許しください、父上! ラーラが犯人でも……命だけは……!」
私は振り返り、にっこりと笑った。
「あ、元気そうね。トケビア侯爵が来てくれたわよ。ちゃんとご挨拶なさい」
「なっ……!」
ロベルトの顔が真っ赤になる。トケビア侯爵は慌てて頭を下げた。
「お、お、お取り込み中、申し訳ございません。物件のことで足を運びましたところ、殿下が怪我されたと聞きまして……」
「み、み、見苦しいところを見せて、すまない……怪我はたいしたことな──イテテテ!」
私は、彼の怪我した脇腹を叩いた。
「仮病じゃなかったのね。アハハ」
笑いながら、私は踵を返す。
「それじゃ、私──物件の見学に行くから」
扉を開けると、廊下の空気がサラリと流れ込んできた。
春風が、トケビア侯爵邸の庭を優しく撫でていた。
咲き始めた花々の香りと、陽光に照らされた白い壁。
私はバルコニーに立ち、深く息を吸い込んだ。
「とっても素敵ね。気に入ったわ」
隣に立つトケビア侯爵が、静かに頷いた。
「良ければ家具も、そのままお使いください。使用人も」
「いいの?」
「ええ。すべてセットでも、頂いたティアラを考えれば……お釣りを出さないと」
「そうね。では──釣りはとっておいて」
侯爵が、灰色の目を瞬いた。
「……あなたは、不思議な方ですね」
「そうかしら? 私は、ただ正しいことをしてるだけだけど?」
「それが1番、難しいのですよ」
私は彼の横顔を見つめた。
造りは端正だが、疲れている。
でも、まだ心は折れていない。だからこそ──。
「ふうん。ならば、あなたはここに共に住みなさい」
「……はい?」
「本当に難しいのか。あなたが勝手に難しくしてるのか。
ここに住んで、私を手伝いながら考えなさい。命令よ」
侯爵は言葉を失ったまま、私を見つめていた。
私は微笑んだ。
この邸宅はクーデター資金のために売られる、と原作を読んで知っていた。
私は、彼にクーデターを起こして欲しくない。──だって、それは失敗するから。
夜。私がロベルトの部屋で書類を整理していると、扉の外から声がした。
「殿下が、お呼びです」
メイドが頭を下げる。私はペンを置き、顔を上げた。
「お前が来いって言って」
「……あの、怪我されてますので……」
「ああ、そっか。動けないのね」
私は立ち上がり、ローブを羽織った。
──まあ、動けないなら仕方ない。行ってあげましょう。
ロベルトの部屋に入ると、彼はベッドに横たわったまま、私を見た。
「何の用?」
私が訊くと、彼は弱々しく呟いた。
「……ラーラが吐いた」
「そうでしょうよ。昨日から地下牢にいて、正常な精神じゃないもの」
私は椅子に腰を下ろすこともなく、ただ立ったまま答えた。
ロベルトの愛人が、刺客を送ったことを認めたらしい。
「すべて……仕組んだのか?」
「私が? どの部分を?」
「俺を暗殺するつもりで、ラーラを利用したのか?」
ちょっと何言ってるのか、わかんない。
「うーん? あなたの感情で、現実を歪ませないで。事実だけ並べて」
ロベルトが言葉を失う。
「そして、そんなこと言うために、私の貴重な時間を使わせないで」
私は踵を返し、続き扉を開けた。
「ねえ、これから催しをするのだけど、一緒に行かない?」
朝の光が差し込む部屋で、私はカーテンを開けながら軽く声をかけた。
ベッドの上のロベルトは、眉間に皺を寄せて私を睨む。
「……俺が重傷だと知っているか? それより、王子妃の仕事をしろよ」
「え? 舞踏会でもあるの?」
「いや、書類仕事だ。俺の代理として、俺の分もやってくれ」
私は一瞬、目を細めた。
──原作では、こういう内向きの雑務は全部ラーラ(ロベルトの愛人)がやってた。
彼女が牢にいるから、代わりに私に押しつけようってわけね。冗談じゃない。
「私を倉庫に閉じ込め、正妻の部屋をラーラに与えようとしたのに、書類仕事しろって? 私がするのは公務と家政だって、結婚式で言ったでしょ。書類は捌かない」
ロベルトが口を開く前に、私は続けた。
「ふうん? ──今日の夕方になっても同じことが言えるなら、言ってみればいい」
彼の顔が引きつる。もう気品も美貌もあったもんじゃない。
「な、なにする気だ?」
私は微笑んだ。
「さーね」
王都の中央広場。
朝から人が集まり、ざわめきが空を震わせていた。
昨日捕らえたメイドや騎士団が、拘束されたまま並ばされている。
その前に立ち、私は声を張った。
「これら戦って勝った者に、同じポジションを与える」
群衆がどよめいた。
王宮で働くことは、平民にとっては夢のような出世。
それを、戦いで勝ち取れと言ったのだ。
つまり、身分に関係なく登用するということ。
しばらくして、群衆の中から数人が名乗り出た。
鍛冶屋の娘、元兵士、旅芸人上がりの女……。
それぞれが、拘束されていた者たちと1対1で戦う。
剣が交わり、土煙が上がる。
観衆は息を呑み、勝者が決まるたびに歓声が上がった。
会場は熱気に包まれ、大盛り上がり。
──そして、すべてが終わったとき。
新しい使用人たちが、私の前に跪いた。
「ふふ、いい顔ね」
そのとき、背後から声がした。
「妃殿下は……魅力的な方ですな」
振り返ると、鋭い目をした男がいた。
深緑の髪と瞳。鎧を身につけたまま、静かに一礼する。
「ゼルド・カーヴァス。元王宮騎士団長にして、現在は傭兵です」
初対面のはずなのに、どこか懐かしい空気を纏っていた。真面目そうだが、年齢以上の色気がある。トケビア侯爵よりは年下だろう。
その隣で、金髪碧眼の美男子キルが、にこにこと笑って言った。
「僕は、もう惚れましたけどね」
私は肩をすくめた。
「そう。ありがとう。私は、嫌いなものが嫌いなの」
そして、くるりと踵を返す。
「さ、キッチンに行って昼食を作りましょう」




