39. 仕込みは終わった
魔王軍と対峙する最前線の砦はかつてない苦境に立たされていた。
泥と血の臭いが充満する戦場で、フリント伯爵は顔を歪めていた。
「敵の数が増えている……!」
悲鳴のような報告が飛び交う。
魔王軍の攻勢が激化したのではない。
奴らの戦術が根本から狂い始めたのだ。
前線の兵士が恐怖に目を見開いて後ずさる。
視線の先には、白い羽を持つ美しい魔王軍の兵士たち。
だが、その行動は正気ではなかった。
彼らは手足を負傷して動けなくなった味方の兵士を拾い上げ、あろうことか「盾」として掲げながら突進してきているのだ。
そして、盾にされている者も、盾にしている者も――笑っていた。
狂気。
それ以外の言葉が見つからない。
こちらの矢や剣が盾にされた兵士に突き刺さる。
急所を貫かれた「盾」は死亡する。
だが魔王軍にとって死は終わりではない。
死ねば魔王の元で転生し、再び万全の状態で戦場に戻ってくる。
マフィ王女が懸念していた事態が最悪の形で現実となっていた。
敵は「死」というコストを踏み倒し、こちらの資源を削りに来ている。
「姫様のご懸念は正しかったか……」
フリントは脂汗を拭った。
敵の死傷者は増え、回転率が上がり、戦場に溢れる敵の数は倍増した。
対するこちらの損耗は激しい。
矢は尽きかけ、予備の剣も底をついた。
マフィグループの元ゴロツキたちの中には、刃こぼれした剣を捨て、農具の鍬やツルハシを振り回して応戦している者さえいる。
だが、農具で魔王軍の鎧は貫けない。
ジリジリと前線が押されていく。
「くそっ、ここまでか……!」
フリントが唸った、その時だった。
「後方から騎馬隊接近!」
物見の塔から、裂くような絶叫が響いた。
「騎馬だと!?敵の別働隊か?」
「いえ……色が、違います!」
物見の兵士が声を震わせる。
「黒い……黒い集団です!」
フリントは慌てて後方を振り返った。
地平線の彼方から、砂塵を巻き上げて迫りくる巨大な影。
魔王軍は白だ。ならば味方か?
しかし、オズ王国の正規軍の鎧は銀色のはず。
あのような漆黒の軍団など、聞いたことがない。
先頭を走るのはひときわ速い白馬。
そしてその背には――風に煽られバタバタと暴れる黒いマントを羽織った小さな影があった。
フリントは息を呑んだ。
「あれは……まさか……」
「遅くなったのう、兄弟!」
白馬が前線の土煙を突き破り、フリントの目の前で急停止した。
いななく馬上で、小さな王女がニカっと笑う。
「最高の土産を持ってきたけぇの!」
マフィ王女だった。
そしてその後ろに続くのは、全員が漆黒のマントを羽織ったパンク率いるマフィグループ。
さらにその後ろには、山のような荷物を積んだ輸送馬車が続いていた。
「姫様……!」
フリントはその場にへたり込みそうになった。
絶体絶命の窮地に、まさかこれほどの戦力を連れて戻ってくるとは。
「気に入ってもらえたかのう?」
「は、はい……!最高の、これ以上ないタイミングでした!」
フリントの声が感極まって震える。
マフィは満足げに頷くと、後ろの輸送部隊に顎をしゃくった。
「おい、荷下ろしじゃ!ナギナ帝国の鋼をたっぷり食らわせてやれ!」
輸送馬車の覆いが外される。
中から現れたのは、油紙に包まれた新品の剣、槍、そして大量の矢だった。
帝国製の最新鋭の武器だ。
その輝きは、農具とは比較にならない鋭さを放っている。
「うおおおおお!」
武器を受け取った兵士たちが雄叫びを上げる。
錆びた剣を捨て、真新しい剣を握る。
その感触が絶望に沈んでいた士気に火をつけた。
「反撃開始だ!押し返せぇぇぇ!!」
フリントの号令と共に、オズ王国軍が息を吹き返す。
帝国の剣は、魔王軍の鎧を紙のように切り裂いた。
ホルシアの騎馬隊が側面から突撃し、敵の陣形を粉砕する。
黒いマントの集団が魔王軍を蹂躙していく。
戦場の色は、一瞬にして黒へと塗り替えられたのだった。
◇
激戦から数日が過ぎた。
帝国製の武器とホルシア騎馬隊の威力は凄まじく、狂気の特攻を繰り返す魔王軍を一時的に国境線の向こう側へと押し返すことに成功していた。
だが、これはあくまで一時しのぎ。
敵の拠点を叩かねば、奴らは何度でも蘇り数を増やして攻めてくる。
荒野に広がるオズ王国軍の野営地。
そこに、全軍が集結していた。
壮観な光景だった。
兵士たちの背中には、下町の女たちが血の滲む指で縫い上げた、あの黒いマントが羽織られている。
風が吹くたびに黒い波がうねり、まるで大地そのものが黒い海になったかのようだった。
その黒い海がざあっと左右に割れる。
中央にできた一本の道を、小さな影が歩いてくる。
マフィ・オズ。
齢七つの王女様。
引きずるほど長い黒マントを羽織り、不似合いなブーツで大地を踏みしめて歩く。
その姿は幼いが、放たれる覇気は歴戦の将軍すら凌駕していた。
彼女が急造の演説台の上に立つと、全兵士の視線が集中した。
静寂が満ちる。
ただ風の音だけが聞こえる中、マフィが口を開いた。
「よう聞け、お前ら」
拡声器などない。
だが、そのよく通る声は末端の兵士の耳にまで届いた。
「お前らが羽織っとる、その黒いマント」
マフィは自分のマントを掴み、バサリと翻した。
「この黒は、ただの色やない。王都でワシらの帰りを待っとる者たちの祈りじゃ」
兵士たちがごくりと喉を鳴らす。
彼らの中には、妻や母が縫ってくれたマントを身に着けている者も多い。
「汚れてもええ。血に染まってもええ。泥水すすってでも、這いつくばってでも生きて帰れ……そがいな執念が縫い込まれとる」
マフィの視線が鋭く光る。
「死んで花実が咲くもんか。ワシらは生き残ってあいつらの元へ帰るんじゃ。それが一番の『仁義』じゃ!」
死ぬために戦うのではない。
帰るために戦うのだ。
「……そして、お前らの手元の剣を見ぃ」
マフィが続ける。
「それはナギナ帝国の鋼じゃ。鉄をも断つ業物じゃ。骨ごと両断できる」
兵士たちが自分の武器を握りしめる。
帝国の最新兵器。
その信頼感は絶大だ。
「お前らの腹には、ヒョーラントの飯が詰まっとるはずじゃ」
十分な兵糧は兵士の体を満たし、気力を充実させていた。
空腹で震える夜はもうない。
「後ろには、風よりも速いホルシアの騎馬がおる」
後方で待機する騎馬隊が主の言葉に応えるようにいなないた。
その機動力は、いざという時の撤退も、追撃も可能にする。
マフィは両手を広げた。
小さな体が、天と地を繋ぐように大きく見える。
「剣、飯、足。ワシが世界中を回って集めてきた『最高』が今ここにある」
マフィはニヤリと笑った。
不敵で、凶悪で、そして何よりも頼もしい、極道の笑み。
「仕込みは終わった。舞台は整えた」
彼女は拳を握りしめ、敵陣の方角――魔王軍の本拠地がある空を指差した。
「……これだけの道具を揃えて、負ける要素が見当たらん」
その言葉に、兵士たちの心が震えた。
勝てる。
あの不死身の化け物相手でも、絶対に勝てる。
根拠のない自信ではない。
積み上げられた事実と実績が確信へと変わる。
「守るだけの喧嘩は仕舞いじゃ!」
マフィが腹の底から咆哮した。
「鬨の声を上げろ!奴らの本丸に殴り込みじゃ!」
大地を揺るがすほどの鬨の声が爆発した。
それは単なる号令への返事ではない。
長年、魔王軍の脅威に怯え、防戦一方だった人類が初めて放つ、反撃の狼煙だった。




