38. 火傷しそうじゃ
下町の夜風はどこか焦げたソースのような匂いが混じっている。
かつてはゴミと汚水と絶望の臭いしかしない場所だった。
だが今は生活の匂いがする。
路地裏の片隅でパンクは自身の左腕をじっと見つめていた。
かつてマフィ王女に切り落とされそうになった腕。
そして、一人の女性の嘆願によって繋ぎ止められた腕である。
――あと二週間程度だ。
ナギナ帝国からの物資が届けば、すぐに前線への出立となる。
今度の戦いは今までとは訳が違う。
魔王軍の領域への侵攻と言う、前代未聞の戦い。
マフィ王女は「勝つ」と言い切ったが、それは犠牲が出ないことを意味しない。
生きて帰れる保証など、どこにもないのだ。
だからこそ、今日、伝えなければならないことがあった。
パンクが顔を上げると一人の女性が立っていた。
かつてパンクたちが襲おうとし、そしてマフィによって助けられ、今はパンクが守り続けている女性。
「……呼び出してすまない」
パンクが短く言うと、彼女は静かに首を振った。
「ううん。話があるって聞いてたから」
彼女の視線がパンクの左腕に向けられる。
気まずい沈黙が流れた。
パンクは頭をガシガシと掻き、意を決して口を開いた。
「俺は今までろくでもない生き方をしてきた」
語り出しは懺悔のようだった。
「人を殴って、物を奪って、弱い奴を踏みつけにして生きてきた。……お前のことも、傷つけようとした」
「……ええ」
「だけど姫様に拾われて、マフィグループの一員として前線に行かされて……そこで初めて知ったんだ。スラムの泥水がマシに思えるような地獄を」
パンクの脳裏に前線での過酷な日々が蘇る。
泥水をすすり、寒さに震えた夜。
「食糧支援がまだ少なかった頃は、食えるか分からねぇ野草を煮たスープで飢えを凌いだ」
パンクは遠くを見る目をした。
「そんな時は、ふと思い出すんだ。この下町で食った、あのお好み焼きの味を」
ソースの焦げる匂い。
マフィが「美味いと言え」と強制した、あのがさつで温かい鉄板料理。
「あの味がどうしようもなく恋しくなる。……いや、違うな」
パンクは彼女の方を向き直った。
「俺が思い出していたのはソースの味じゃねぇ。それを食ってる時のこの街の空気だ。そして……俺の帰りを待ってくれている、あんたの顔だ」
彼女が息を呑む気配がした。
「いつしか、それが俺にとって一番大事な思い出になっていた。剣を振るう時も、夜警に立つ時も、いつもあんたを思うようになった」
パンクは一歩近づく。
不器用な男の精一杯の言葉。
「今回の戦いは今まで以上に激しくなる。俺もどうなるか分からねぇ。だけど……もし」
パンクは拳を握りしめた。
「もし、俺が生きて帰れたら……一生かけて償わせてほしい。あんたの側であんたを守り続けることで」
それは元ゴロツキによる、あまりにも不器用なプロポーズだった。
しかし、彼女は目を見開いたまま動かない。
やがて、その唇が震えだした。
「……怖いの」
絞り出すような声だった。
「前の夫もそう言ったわ。『必ず帰る』って。『君を守るために行ってくる』って」
その瞳から涙が溢れ出した。
「私は『行ってらっしゃい』としか言えなかった。笑顔で見送ることしかできなかった。……そして、あの人は二度と帰ってこなかった」
戦争未亡人の拭えないトラウマ。
約束は時に呪いになる。
「また、誰かを待つのは怖い。帰ってこないかもしれない人を思うのは、苦しいの」
だが、彼女は涙を拭い、顔を上げた。
その瞳には下町の女特有の芯の強さが宿っていた。
「……でも、あなたには言わせて。あの時、あの人に言えなかった言葉を」
そしてパンクに近づく。そっとパンクの左腕を取る。
かつて自分が「その腕を切り落とすくらいなら、私を守らせてください」と懇願した、その腕だ。
その無骨な手を、自分の濡れた頬に押し当てた。
「償いなんていらない。……ただ、その左腕で私を抱きしめに帰ってきて」
パンクの目が見開かれる。
左手の平に伝わる、涙の温かさと熱。
「……ああ。必ずだ」
◇
それから数日が過ぎた。
下町の一角にある集会所は異様な熱気に包まれていた。
床には黒い布が山のように積まれている。
それを囲むように数十人の女性たちが一心不乱に針を動かしていた。
その中心に彼女の姿があった。
彼女が縫っているのは漆黒のマントだ。
厚手の生地で作られたそれは見るからに重厚で、そして不吉なほどに黒い。
「っ……」
彼女が小さく呻き、指先を口に含んだ。
厚い布に針を通す際、誤って指を突いてしまったのだ。
指先には無数の絆創膏が巻かれ、滲んだ血が痛々しい。
それでも彼女は針を置こうとはしなかった。
「……少し休んだらどうだ?」
見回りに来たパンクが心配そうに声をかけるが、彼女は首を横に振った。
「いいえ。時間がないもの」
彼女は再び針を持ち、黒い糸を通す。
「魔王軍は白い羽を持っていると聞いたわ」
「ああ、奴らは真っ白だ。戦場でも目立つ」
「だから、黒なの」
彼女は縫いかけのマントを広げて見せた。
「白の対極にある黒。これなら、乱戦になっても味方が敵と間違えることはないでしょう?」
敵と味方を区別するための色。
だが、それだけではない思いがそこには込められていた。
「それに、清廉潔白な英雄なんて柄じゃないでしょう? 泥だらけの『ゴロツキ』のままでいいから……必ず、生きて私のところに帰ってきてほしい」
彼女は愛おしそうにマントを撫でた。
「あの日、私のために命を懸けたその体を、今度は私がこのマントで守るの」
その言葉には祈りに近い執念が込められていた。
ただの布切れかもしれない。
剣や魔法を防ぐ力はないかもしれない。
けれど、待つ身の彼女ができる精いっぱいの「加護」を、この一針一針に込めているのだ。
その姿を見ていた周りの女たち――前線の男たちの妻や恋人あるいは母親たちもまた声を上げた。
「そうだよ!あたしたちだってただ待ってるだけなんて御免だね!」
「あいつらが生きて帰ってくるようにあたしたちが守ってやるんだ!」
下町の女たちは強かった。
彼女たちは寝る間も惜しみ、指を傷だらけにしながら針を動かし続けた。
やがて集会所の床は完成した数百着の黒いマントで埋め尽くされた。
それはまるで、黒い海のように壮観な光景だった。
◇
「……ほう」
完成したマントの山を見て、マフィが感嘆の声を漏らした。
出発前の視察に訪れたのだ。
マフィは積まれたマントの一つを手に取り、その厚みと縫い目の細かさを確かめる。
そこかしこに血の滲んだ跡が小さく残っているのが見えた。
「女の執念は鉄の鎧より硬いかもしれんのう」
マフィはニヤリと笑った。
呆れているのではない。
心底、感心している顔だ。
「こりゃあ、極上の『晴れ着』じゃ」
マフィはそのマントをバサリと羽織ってみせた。
七歳の体には大きすぎて引きずってしまうが、その黒い布地は不思議と彼女の持つ覇気と調和していた。
マフィはパンクを振り返った。
「おいパンク。女にここまでされちゃあ、分かっとるな?」
「……はい」
パンクは自分の分のマントを受け取ると、それを強く握りしめた。
そして、傍らに立つ彼女に向き直った。
周りの視線など気にしなかった。
パンクは彼女の目を真っ直ぐに見つめ、初めてその名を呼んだ。
「――ミナ」
彼女――ミナの目が大きく見開かれた。
出会ってから今まで、一度も名前で呼ばれたことなどなかった。
いつも「お前」か「奥さん」だった男が、初めて名前を呼んだ。
その響きに含まれた親愛と、決意。
パンクは一歩近づき、そっと彼女の肩を抱き寄せた。
そして、不器用に唇を重ねた。
「んっ……」
短く、しかし熱い口づけ。
周りの女たちから「ヒュー!」とはやし立てる声が上がるが、二人の世界は揺るがない。
唇を離すと、パンクはミナの耳元で低く囁いた。
「この身は姫様のものだ。……だが」
パンクはミナの手を取り、自分の心臓の上に当てた。
「心は、お前のものだ」
ミナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は何も言わず、ただ強くパンクの胸に顔を埋めた。
マフィはそんな二人を見て鼻を鳴らした。
「熱いのう。火傷しそうじゃ」
そう軽口を叩きながらもその目尻は優しく下がっていた。
そして、ついにその時が来た。
ナギナ帝国からの輸送馬車が、重々しい音を立てて王城に到着したのだ。




