華厳
和歌山県と奈良県の県境。高野山の奥。深い森に覆われる峰々を、黒のアウディーが縫い走る。
天候はあいにくの雨模様。対向車は少ない。
助手席に腰かけたスーツ姿の男が心配そうに空を見上げた。年の頃は三十であろうか。
「予報では晴れだったのだが」
霧雨にしては強めの雨脚に声色が沈む。歩くには傘が必要だろう。
助手席の男のつぶやきに運転手が答える。
「高野山から向こうは、天気が変わりやすいですからね。こんなもんですよ」
「そうですか」
「心配いりませんよ。藤堂さん。この車なら、少々の雨では滑ったりはしません」
運転手は誇らしげに宣言する。
「それは良かった」
藤堂と呼ばれた男は、シートに座りなおした。
しばらくの間、裏高野の峰々を駆け抜け、狭い県道の分岐点へと達する。
「ここを右です」
運転主がハンドルを切ると、木々の中に一本の細道があらわれた。
「この先は砂利道です」
「大丈夫ですか」
夏草が生い茂る砂利道は、相当にぬかるんでいる様子であった。
「お任せください。まあ頑張るのは私ではなく、こいつですけど」
運転手はハンドルを軽くたたくき、慎重に車を砂利道へと侵入させた。アウディーはドイツ車仕込みの走破性を活かし、小石を蹴散らすように坂を上っていく。
藤堂はアシストグリップを握りしめ、小刻みに繰り返す振動に耐えた。山を登るにつれ雨脚が弱まる。
悪路との格闘をしばし繰り返すと、唐突に切り開かれた平坦な草地が広がり、その先に黒々とした山門が立ちはだかっていた。
「お疲れ様です。藤堂さん。到着いたしました」
「お世話になりました」
運転手の挨拶と同時に藤堂は下車する。雨は上がっていた。霞の掛かった参道を、傘を片手に進む。
山門には大きく「華厳寺」の山号が掲げられていた。
門をくぐると、数秒の合間、眩暈を覚える。少し疲れたか。
目の前には本堂へと石畳が伸びている。境内に人影はない。藤堂が境内へと入りる、さっさっと静寂を破る音がした。
目を向けると、白と薄紫を重ねた装束の女が、竹ぼうきで境内を掃いていた。
こんな雨の日に掃き掃除をするのかと疑問が浮かんだが、足元の石畳は濡れていない。ここは丁度、雨と晴れの境界線だったようだ。
女は巫女の様な装束をしている。この寺は神仏習合でもしているのだろうか。年若い印象を受けた。黒い髪を後ろで括り、それが足元近くにまで垂れており、装束は質の高い絹が使われているのか、艶やかな光沢を放っていた。
藤堂と巫女の目が合う。
「何奴じゃ」
靄のかかった境内に、その声は良く通った。
大人の声色と尊大な物言いに驚く。見た目とは違う人物であることが瞭然であった。
藤堂は普段の腰の低さを発揮し、年下相手と侮らず、丁寧に挨拶をする。
「失礼いたします。わたくし、東京から参りました藤堂と申します。代議士を拝命しております向嶋の代理として伺いました。御祈祷の件で予約をさせて頂いているのですが」
「祈禱とな」
巫女は掃く手を止め、竹ぼうきを地面に突き立てるような形で仁王立ちになった。
「はい。高野山の田村様からのご推薦で伺いました」
金剛峰寺の有力者の名を出すが、巫女には何の感銘も与えなかった。
「なんの祈祷じゃ」
「それは・・・」
どうやら先方には話が通っていないらしい。
藤堂は顔に出さないように心がけながら、内心でため息をつく。
彼が大峰の奥深くに来たのは、時代錯誤な迷信に対応する為であった。簡単に要約するのであれば「厄払い」である。
彼が仕える向島とは参議院の議員であった。その議員が近々行われる選挙において、新興宗教がらみのトラブルを抱え頭を悩ませていた。体調も悪くなり、議員活動にも支障が出始める。その解決策として知人から紹介されたのが、この寺での加持祈祷による悪縁の調伏。そして、東京と地元の往復で手の空かない向島に代わり、秘書である藤堂がこの山中へと派遣されたのであった。
特別に信心深いわけでもないのだが、使えるものは何でも使う。そんな向島議員のポリシーによって藤堂はここに居るのだ。
「近頃、向島は体調が思わしくなく、悪い気に包まれているのではないかとの助言を頂き、それをお祓いしていただきたいのです」
「医者に行け」
巫女の返答はもっともなものであった。
「既に掛かっております。その上でお願いしたいのです」
「なにに祟られておる」
揉めている新興宗教の名前を出すわけにもいかず、藤堂は返答に窮する。
「それとも、また朝敵を祓ってほしいのか」
ちょうてき・・・
藤堂は巫女の発した単語の意味を脳内で探した。
彼の知りうる中でその単語は一つだけ。
「朝敵・・・いえ、そのような大それたものではございません」
問題の多い連中ではあるが、犯罪者集団とはいいがたい。朝敵は大げさであろう。
「違うのか。そうよな。いつだったか、祓ってやったはずだ」
既に祓ったことがあるような口ぶり。この寺を訪れる者たちは何と戦っているのやら。
「であるのなら、蕃神か」
「それは何でしょう」
「外なる神じゃ。よう見るようになった」
外なる神か。その表現が近しい。
藤堂は頷き訊ねた。
「祓っていただけますでしょうか」
「よいぞ」
巫女の子気味よい返答に肩の荷が下りる。どうやら、仕事はこなせそうだ。
「だが、お前には何も憑いておらぬがな。何を祓えばよいのやら」
「いえ、御祈祷を頂きたいのは私ではなく向島です」
「そ奴はどこにおる」
「今は東京です」
「とーきょー。ここにおらんのか」
女の声が低くなる。
これは不味い。この偏屈そうな女性が怒り出しそうだ。
藤堂は咄嗟に機転を利かせることにした。
「本日は先ぶれとしてのご挨拶でございます。後日、向島本人が訪問させていただきたく」
主がここに居ない理由の帳尻を合わせる。どうやら、時間を作って本人を連れてこないと角が立ちそうだ。
藤堂の返答に納得したのか、女の表情が和らいだ。
「先ぶれであったか。山奥まで使い走りとは、其の方も大変だな」
女の言葉に思わず笑みがこぼれた。
全く、議員秘書など、使い走りの典型例であろう。
「これも勉強ですから」
「よかろう。其の方の気と血に免じて許して遣わす」
「ありがとうございます」
「うむ。待っておるぞ。藤堂とやら」
巫女は満足そうに頷くと、掃き掃除を続けた。巫女に向かって一礼をした瞬間、またもや眩暈に襲われる。
先ほどよりも強い。
藤堂は額に手を当てて堪えると、背後から声を掛けられた。
「大丈夫ですか。藤堂さん」
振り返ると、運転手が両手いっぱいに寺に寄進する供え物を抱えていた。
「少し酔ったようです」
「申し訳あれません。運転が荒かったですか」
「いえいえ。移動が重なり疲れが出ただけです。お気になさらず」
「そうですか。あっ、ご住職が見えられました」
迎えに出てきた住職に誘われ、本堂へと足を踏み入れる。
「本日は、向島先生に憑りついている悪縁の調伏でございましたね」
「えっ」
思わず、間抜けな反応を取ってしまった。話が通っていなかったわけではないのか。
「違いましたかな。お電話では、そのように窺っておりますが」
「いえ。間違いございません。お願いいたします」
「では、早速」
そこから二時間もの長きに渡り、重苦しい儀式が執り行われた。
護摩壇に火がくべられ、意味の分からない真言が本堂に木霊した。藤堂も言われるがままに正座の姿勢で手を合わせる。
「お疲れ様でございました」
汗だくの住職がやり切った顔で藤堂を労う。
「ありがとうございました」
藤堂は深々とお辞儀をする。スーツの懐からお布施の入った熨斗袋を取り出し、畳の上を滑らせ住職の前に差し出した。
中の金額は、言わぬが花であろう。住職は拝礼し仏前に熨斗袋を捧げる。
そこからしばらく、住職との雑談を行った。
話の中身は寺の由来や、今まで間の加持祈祷の実績のであった。
元寇を追い払っただの、吉野に逃れた後醍醐天皇をお助けしただのという、真偽不明、実証困難な与太話を聴かされる。それだけ由緒正しい寺であるという事なのだろう。
仕事は一応片が付いたが、これだけでは終われない。
「それでは、今度は向島と共い伺います」
「えっ。向島先生がですか」
住職は意味が分からないという貌をする。
「いえ、こちらの巫女の方と、そう約束いたしました。向島本人を連れて来いと。わたくしといたしましても、尤もなことだと思いまして」
「うちは寺ですから、巫女はおりませんが」
「いやしかし、先ほど境内を・・・」
藤堂は境内に目をやり愕然とする。石畳には雨水が滴っていた。
巫女がいた形跡はどこにもない。
背筋に冷たいものが走る。恐怖、畏敬、神秘、これまでの人生で経験したことのない感覚に貫かれた。
夢でも、いや、幻覚でも見ていたのか。
今思い出しても記憶があやふやだ。あの巫女装束の女の貌も思い出せない。
しかし、あの声だけははっきりと記憶している。
『うむ。待っておるぞ。藤堂とやら』
藤堂は原初の本能として理解した。逆らってはいけない存在がこの世には有る。あれはそういうモノの一つだと。
終わり
最期までお読みいただき、ありがとうございました。
ご意見、ご感想などございましたらお気軽に。
いいね、評価などして頂けたら喜びます。