第一話 吾輩は伝説の神獣”ネコ”である
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
薄暗いじめじめした所で生を受け、獰悪な書生に気まぐれで連れ去られて親兄弟とはぐれ、迷い込んだ邸で下女に追い出されそうになりながら主人であるへんてこな”先生”に拾われ、へんてこな家族や友人や教え子たちの奇行を傍観しながら暮らしていたある日、気がくさくさして客間にあったビール二杯を飲み干し、猫じゃ猫じゃを踊りたい気分で散歩に出ようとしたところ大きな甕に転落し、南無阿弥陀仏を唱えながら死んで太平を得、極楽浄土に召された。
ーーーーーーはずであった。
目を開ける。
灰色が見える。
かすんだ目をこらすと、石壁で囲まれた部屋のようだ。
体を起こして下を見ると、曼荼羅を思わせる摩訶不思議な文様。これが光っているおかげでこの部屋は明るい。
はて。ここが件の極楽浄土なのか、と思案しているとーーー
「ネコ、なのね」
娘であった。赤い髪を束ねて背中に垂らした十四・五の娘。着ているものは見慣れた着物とは違う。
洋服ーーーであろうか。
東京の街に住んでいた吾輩は、珍しいが洋服の女を見たことはある。
”先生”が英語教師だったからだが、鹿鳴館の時代に撮られたというドレス姿の異人女の資料も邸で見たことがある。
しかしこの娘のいでたちは、それらと比べると布の面積が少ない。
ここが極楽浄土なら、この娘は天女様であろうか?吾輩が思っていたのとずいぶん違う。髪と服はともかく顔立ちは日本人にそう遠くないのだが。
整った面立ちで、美女と言えるだろう。しかし、どこか憔悴した感じだからなのか、幸薄そうに見える。
「あなた、ネコなのね」
見れば分かるだろう。どこからどう見ても。
「左様。吾輩は猫である」
言ってみた。猫の言語は人間には通じないのは分かっているのだが。
「そう、よかった ーーー」
通じてもいないのに猫と会話した気になっている人間はたまに見るが、この娘もその一人であろうか。
「ごめんね、勝手に喚んでしまって。でもお願い、私を守って」
何を言っているのだろうか。ただの猫の我輩に何をさせたいのやら、と思っているとーーー
轟音。腹の底を揺るがすような振動に、石壁がきしむ。
遠くから男どもの怒声。
「探せ」「ーーー の少女を ーーー 始末しろ」
どうやら極楽浄土もまた物騒なところなのだろうか。
石室の壁に出口がひとつ開いているのを見つけて外に出てみる。どうやら外は夜だ。
空には満月。月明かりで周囲の様子が分かる。ここは森の中で、今までいた石室は小さな祠のようだ。
後ろから娘のひそめた声。
「ネコ、お願い。ここが見つからないよう結果を張って」
何を言っているのか。そういう怪しい願い事は寺か神社にでも行って頼むと良い。
吾輩はその場に座って、娘を見つめながら後ろ足で首を掻き掻きする。
「まさか!拘束術式がかかっていないの?」
もう訳が分からないので適当にニャ―と鳴いておく。
「そう、そうなのね。私は失敗したのね…」
幸薄い少女は、諦観の笑みを浮かべながら
「勝手に喚んだ私を許してくれるわけないよね…
拘束に失敗した術者は召喚獣に殺される。仕方ないよね…」
その時、木々の間から男たちが甲冑の音を鳴らしながら現れる。その数、約三十人。
「いたぞ 召喚術師の少女だ」
兵士だろうか。といっても吾輩の知っている皇軍兵士とはずいぶん違う。銃はなく、剣や弓で武装している。
武士の時代は四十年近く昔に終わったと聞いていたが。ここは何から何まで不可思議な場所だ。
兵士たちは、娘の足元の我輩を認めると
「ネコーーーだと!?もう召喚されているとは。少女ともどもすぐに始末しろ!」
隊長らしき男の声とともに、剣の兵士が斬りかかってくる。無数の矢が飛んでくる。
それらが吾輩と娘に至る、その数瞬前。
世界がーーー固まった。
否、すべての速度が非常にゆっくりに見える。飛んでくる矢が一秒に半寸ほど進んでいるのが分かる。
矢のうしろから火の玉が飛んでくることにも気づいた。銃は無いと思っていたが、吾輩の知らない武器であろうか。
この凍った世界で、体は普通に動くようだ。ここから逃げ出すことはたやすい。
吾輩は逃げ、娘は剣と矢と火の玉に襲われる。知ったことではない。
吾輩は人間の飼い猫だったが、犬のように忠義深くはない。まして見知らぬ娘になど情は無い。
ーーーと思ったのだが、この凍った世界にいる限り攻撃が来るまでまだかなり時間がある。そしてこれは吾輩の神通力のようなものだという確信が何故かある。いかなる天佑神助か、こんな能力を授かったのだ。他にできることは無いか試してみるのも一興だ。逃げるのはそれからでもいい。
少しずつ迫ってくる矢と火の玉と剣士たちに正対し「えいっ」と念じてみる。
空間がーーーぶれた。
一瞬であった。
三十人の武装した兵士たちが、まるで叩かれた蝿のようにぺったんこに押し潰されている。
固そうな甲冑ごと、髪のような薄さに伸ばされている。いや、人間だったモノが森の地面に塗りたくられていると言ったほうが良いのか。
血と体液と脳漿が混じり合い、もはや個人の判別も困難だ。
飛来した矢は地面に貼り付いていて、火の玉はあとかたもなく消えている。
息をしているものは皆無であった。吾輩の前方、扇形に効果を及ぼしていて、三十間ほど先の木まで全て縦に潰れている。
吾輩、雀や鼠を捕殺したことはそれなりにあるが、人間は初めてだ。
凍った世界を解除する。
娘が目を瞠る。まばたきする間もなく起こった惨劇。
「すごい。あなたの力なのね。これがネコの力ーーー」
吾輩は猫語で言う。
「左様。理屈は分からぬが吾輩の力だ」
娘は目を伏せて言う。
「でも、私も殺すのね」
一体、この娘は猫を何だと思っているのやら。だから答えてやる。
「吾輩、無意味に人間を殺生する道理はないぞ」
「ウソ…ホント?拘束に失敗した私を襲わないなんて」
そんなことよりももっと気になることが一つ。この娘、吾輩の猫語が通じている?
そして、日本語は解するが異国語は分からない吾輩が、なぜかこの娘の言葉を普通に理解しているのも不可思議だ。
「君は吾輩の言葉が分かるのか」
「分かるわよ。私のような召喚術師は、喚んだ獣の言葉が分かるの」
「ふむ」
人間と双方向の対話をするのは初めてだ。吾輩の知っている人間は、勝手に話しかけて、勝手に理解した気になって自己満足する生き物だと思っていた。人間同士での会話でもおそらくそう違いはないのだろうが。
だから、この娘に興味が湧いた。
「ならば、ここが何処で、君が誰で、吾輩が何故ここにいるのか知りたい。
いやーーーその前に、さっきの力を使ったら腹が減った。何か食いものは無いか?」
人間が面倒を見てくれるならそれが一番楽でいい。
「いいわ。私たちの隠れ里まで案内する」
満月の下、ふたりづれで小一時間ほど歩く。
道中、吾輩が喚ばれたほこらと似たようなものがいくつか見える。それらの多くが半壊している。
先程の兵士たちが手当たり次第破壊していったのだろう。
森の中。一見それとは分からないような間道を抜けると、十軒ほどの家が並んだ集落が現れた。
その中の一軒に、娘に続いて入る。
「おなかすいてたんだったね。ハイ これ」
小さな陶器の器に、どろどろした味噌のようなものが盛られている。
うまそうな匂いがする。ひとなめしてみる。
何だこれは!!やはりここは極楽浄土なのか。
甘さの中に濃厚なコクがあり、香りが鼻を抜ける。
舌のトゲトゲに絡みつき、これでもかというほど旨味が押し寄せる。
にもかかわらずしつこくない。いくらでもいける。
どういうわけか”宝石箱”、という単語が脳裏に浮かぶーーー
「気に入ってくれたみたいね。それは”テュール”よ。この里に伝わる、ネコが好むとされている食べ物なの。私が調合しておいたの」
吾輩、夢中になり全部平らげた。大変満足した。
「それじゃ、自己紹介から。私はリリア。このラピアの里の召喚術師よ」
リリア、か。異人のようなひびきだ。
「吾輩はーーー名前はまだない」
邸では単に”猫”と呼ばれていた。
「ワガハイ、そう、それじゃ、あなたのことをワガハイって呼ぶわ」
「まあ、好きにしてくれ」
”吾輩”という言葉は本来なら一人称複数を表わす。英語なら”we”に当たる。自分一人を指す言葉として多用していた吾輩も、分かっていて誤用していたのだ。三人称のように使われても別段気にしない。
ちなみにこういう豆知識を知っているのは、”先生”がたまに酔っ払ってこういうどうでもいいことを教えてくるからである。
「それで、色々説明してくれるか」
リリアは表情を正すと、話し始める。
「私があなたを、異界からこの世界に喚んだの」
「ここは極楽浄土では無いのか?」
「ゴクラクジョウドーーーというのはよく分からないけれど、少なくとも世界そのものに名前は付いていないの」
死んで転生したのか、死ぬ寸前で元の体のまま連れてこられたのかはよく分からない。
いずれにしても、吾輩はいま生きていて、ここは死後の世界の類では無いようだ。
異界とは、異国と同義と捉えても良いものなのか。ここが東京からどれだけ離れているのか見当も付かない。地球の反対側あたりだろうか。
「それで、何故吾輩を喚んだのだ?」
リリアは語る。
「ネコーーーは、この世界には元々存在しない、伝説の神獣なの。人間やその他の獣とは比べ物にならない力を持ち、大軍を打ち破り、城を吹き飛ばす力を持つ、と言われているの」
何か凄い買いかぶりに聞こえる。東京の街での食物連鎖では比較的上位にいたかもしれないが、野良犬には負けるし、何より人間にも馬にも挑んだところで勝てなかっただろう。しかしーーー
「さっきのような能力が宿っているならあながち嘘ではない、か」
リリアは続ける。
「それでここ数十年、この世界の大国はこぞってネコを召喚し、戦略兵器として配備しているの」
「では君はどこかの国の軍の者で、吾輩は戦争のために喚ばれたと言うわけか?」
「そう、ではないの」
リリアは悲しげに、うつむいて答える。
「ここは永世平和国家トマヤの領内なの。『戦争をしない』『軍備を永久に放棄する』ことをうたった国家なの。だから軍隊、少なくとも国軍は存在しないの」
「ふむ。良いのやら悪いのやら。他国が攻めてきたらどうするんだ?」
「こちらが武装しなければ攻められる理由はない。だから周辺諸国の人の善性を信じましょうーーーという理屈よ」
「そんな綺麗事で国が守れるのだろうか」
吾輩がいた日本は、露西亜の南下に戦々恐々としていた。というか実際にドンパチが始まった真っ最中だ。日本が武装していなかったら戦争は始まらなかったのだろうか。
「民の大半がその理念を信じている、いえ、、信じさせられているわ。人前で『国防』『他国の脅威』を語るだけで危険人物扱いされるほどに、ね」
「それでは先程の兵士たちは?外国の軍なのか?」
「あれは”社会進歩党”の”党治安維持隊”なの」
「ふむ」
何が何やら
「四十年前、”党”が革命を起こして国王を倒して政権を取ってからこの国はこうなったの。
そして彼らの主義主張では、ネコを召喚しうる可能性があるこの聖域と、そこに住む里の民は『平和の敵』でしかないの」
「同じ国の人民なのに、か?」
「そう。党治安維持隊は民を苛烈に取り締まる。里の民はほとんどーーー私のお父さんとお母さんも、みんな連れて行かれたわ」
つまり「反戦平和」を唱える過激派が国を支配して、外的でなく人民に武器を向けている、という理解でいいだろうか。珍妙な話ではあるが。
「里のみんなはこうなることを恐れて、元の里より森の奥、何箇所にも隠れ集落を作って分かれて住んでいたの。それが一つ一つ潰されていって…今ではここが最後なの」
「難儀なことだな」
天下国家を語れるほど吾輩は博識ではないが、この国がひどく歪だということは分かる。
「ここはもう私より年下の子たちしかいない。そして見つかるのは時間の問題。だから私は決断したの」
「吾輩をーーー喚んだわけか」
「そう。平和国家でネコを召喚することは重罪。でも、その可能性があるというだけで連れて行かれるのならーーーもう身を守るには、本当に喚ぶ以外手が無かったの」
「つまり、君たちを守るために、吾輩に力を貸してほしかった、ということなのだな」
「そうよ。本来であれば、召喚術師は召喚獣に拘束術式をかけてほとんど意のままに操るんだけど…私が未熟なのか、あなたにはかからなかったみたい」
ずいぶん正直に教えてくれるものだ。吾輩に枷を付けようとしていた事実を。
「そうだな。吾輩は東京にいたときと同じ吾輩だ。操られてはいないし操られたくもない」
リリアはうつむいて言う。
「あなたには自由意志がある。だから、守ってくれ、戦ってくれ、と強制することはできないわ」
吾輩は少し考えてから言う。
「そうだ。さっきの”テュール”美味かった。あれはいつでも作れるものなのか?」
「ええ。この森にある素材と、秘伝のレシピと発酵方法を使えば作れるの」
「あれを毎日食わせてくれるのなら、いっしょにいてやってもいい」
どうせ行くあてはない。人間の家にいたほうが暖かくていい。
「ホント? うれしいッ!」
リリアは今まで見せた中で一番明るい表情で、吾輩に抱きつく。
こうして、見知らぬ地での新しい生活が始まった。
猫好きな私がはじめて投稿する作品です。
この後、地球から召喚されたいろいろなネコが登場します。
「吾輩」「ワガハイ」や「猫」「ネコ」など表記ゆれがあると思いますが、地の文とセリフ文、あと地球語と異世界語と、といった違いであえて出しています。
どう表記するのがいいのか、どなたかアドバイス頂けたら嬉しいです。