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それから数日後、アニタは侍女に案内されつつ王宮の廊下を歩いていた。向かう先は当然ながらに王太子の婚約者であり、アニタを呼び出し、もといお茶会へと招待してくれたケイトリンの待つ部屋だ。正直行きたくない。可能ならば今すぐ逃げ出したい。うう、と思わず胃を押さえてしまう。
勿論逃げられるはずもなく、気付けば扉の前だ。侍女が声を掛け扉を開ける。白を基調とした室内は明るく、しかし穏やかな空気がたゆたっている。その空気の元、とでも言うべきか。すでに茶器が用意されたテーブルを前に、優雅に座っている人物からその空気は流れてくる。
アニタはケイトリンとは初対面だ。しかしこの瞬間彼女がそうなのだと理解した。癒やしの聖女、との呼び名は伊達ではないらしい。たしかに彼女を前にするとざわついていた気持ちが途端に静まっていく。
「はじめましてアニタ。急に呼び出したりしてごめんなさいね」
「あ! いえ、あの、こちらこそはじめまして、アニタ・ダルトンと申します! ほ、本日はお招きくださりありがとうございます」
噛んだ。ついでにどもりもしたが、それでもなんとかアニタは貴族の令嬢としてギリギリの挨拶をする。それに対しケイトリンは朗らかな笑みを浮かべると、アニタに優しく声を掛ける。
「そんなに畏まらないで。アニタも知っていると思うけれど、わたくしも元は子爵家の人間だもの、貴女と同じよ。もっと気楽にして?」
そう言われてもすぐに「はい」などと頷けようか。ははは、と乾いた笑いを浮かべるしかないアニタであるが、ひとまず勧められるままに席へと向かう。
茶会用の丸テーブルにはもう一人おり、アニタの視線を受けてその令嬢はニコリと微笑んだ。軽く記憶に引っかかりを覚えるその顔にアニタはしばし思考を巡らせるが、ややあってポンと閃く。
「――あの時の!」
「ええ、そうなの、あの時は本当にありがとうアニタ。私はシンシア・ウィッキンズよ、よろしくね」
アニタも改めて挨拶を交わすが、内心は冷や汗でいっぱいである。ウィッキンズといえばたしか伯爵家で、領地であるエンバッドは酪農が盛んだったはずだ。王室御用達の乳製品を取り扱っており、できればどうにか繋がれないものかとアニタが狙っていた一人。それがまさか、あの時――先日の夜会でご令嬢の集団からアニタが救い出した相手であったとは。
これぞまさに幸運! 慣れないことでも人助け頑張ってよかった!!
思わずそう両手を挙げて喜びたいが、貴族の矜恃でどうにか耐える。緩みそうになる口元もなんとか頬の内側の肉を噛み締めることで凌ぎ、アニタはできる限りの冷静さを保って席に着いた。
「シンシアはね、わたくしの古くからの友人なの。だからアニタ、貴女が彼女を助けてくれたのがとても嬉しくて、ぜひお礼をしたいと思ったのよ」
「お礼だなんてそんな!」
アニタはブンブンと首を横に振る。あの時は少なくとも打算は欠片もなかった。それがこうして交流を持つに至ったのだから、それだけでアニタは充分だ。
夢は王室御用達、もあるけれど、それよりも一般家庭に美味しい我が領地の畜産品を届けたい。その為には販路を広げる必要があり、だからこそ人脈をどうにか繋げたいのがアニタの目的だ。今その最高峰とも言える相手が目の前にいる。
でもだからっていきなりは無理ーっ!!
いくらなんでも相手が大きすぎて、とてもじゃないがアニタには太刀打ちできない。なのでここはとにかく現在国内で乳製品と言えばウィッキンズの、と言われる彼女の家から色々と学びたい。品質の確保だとか、そこからどうやって市場を広げ、それを守っているのだとかを。
しかしながらいざそう話題を持って行こうとしてもなかなかに難しい。なんといっても不意打ちすぎた。せめて事前に彼女もいる事が分かっていれば、どうにか後日お屋敷へ話を聞きに行けないだろうかと頼みもできたのに。
意気込みこそあれアニタはまだ十七歳。商談はおろか、交渉だってろくにできたものではない。経験値が乏しいにも程があるのだ。けれどそれはアニタが一番よく分かっている。
「経験がないからっていつまでも踏みとどまっていたらなにも始まらないでしょ! 何事も始めの一歩があるのよ!!」
そう己を奮い立たせて今回王都に挑んだ。だからここが始めの一歩よ、とアニタは覚悟を決める。
「そういえば、ダルトン家の領地のコーウェズは鶏肉が有名なんですってね」
いざ、と口を開きかけたアニタより先に、まさかの言葉がケイトリンの口から飛び出た。ふぁーっ!! とアニタは思わず叫びそうになる。もしかしたら「ふぁっ」くらいは出ていたかもしれない。
「そうそう、コーウェズの食べ物はなんでも美味しいけれど、特に鶏肉はとても美味しかったわ。うちのチーズと一緒に焼いて作ったパイは特に絶品よ」
「それ美味しい、でしかないやつじゃないですか」
続くシンシアの言葉にアニタは即答してしまう。だって間違いなく、本当に美味しいが確定されている組み合わせではないか。
「私は流通の事とかはよく分からないのだけれど、せっかくこうして知り合えたのも何かの縁だと思うの。ダルトン家の鶏肉とウィッキンズのチーズを使って、共同で何かできたらいいわね」
「ぜ……ぜひ!! ぜひお願いします!!」
ガタン、と椅子を揺らす勢いでアニタは興奮する。ほんの一瞬だけ、おや? と思わなくもなかったが、それがなんであったか考えるより先に喜びが全身を支配する。
「アニタはまだ王都にしばらくいるのかしら? よければ今度我が家にも遊びにいらして? 今なら父が領地から戻って来ているから、色々と話ができると思うの」
「はい!」
これまた即答である。せっかく掴んだ機会だ、みすみす逃すわけにはいかない。たとえこの場限りの共同案であろうと、ウィッキンズの当主から話を聞く事ができるだけでも御の字だ。
はしゃぐアニタの姿に、シンシアは元よりケイトリンも微笑ましそうにクスクスと笑う。流石に恥ずかしくなりアニタは居住まいを正したが、それでもケイトリンは楽しそうだ。
「聞いたとおり、アニタは本当に自分の領地の事が大切なのね」
いえ、と返しかけた所でアニタはふと止まる。聞いたとおり、とは一体誰からなのか。
え、とついポカンとした顔でケイトリンを見れば、彼女はさらに笑みを深めてアニタに告げる。
「ヒューベルトがそう言っていたのよ」
まさかここでそう繋がるとは夢にも思わず。完全に油断しきっていたアニタは短く「ひえっ」と叫びを上げた。