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ハイネン伯爵家主催の夜会でもロニーの口は絶好調だった。現在とても親しくしている友人、であるエリナ・オールソンと参加をし、集まった友人達を相手に人目も憚らず自分の一応の婚約者の愚痴を漏らす。周囲も面白がってか時折わざと大きな声を上げて反応を示すものだから、じわりじわりと彼の婚約者――アニタ・ダルトンの不貞疑惑は広がり続ける。
そこに突如としてヒューベルトが姿を現した。王家主催の夜会以外では姿を見る事は無いといわれる彼が、黒を基調とした礼服に身を包み颯爽とロニー達の元へと歩を進める。
「侯爵様が歩みを進める度に目の前にいた人達が次々と道を空けて行ったんですけど、まるで王の行進の様でした!」
ミーサはその時の光景を思い出しているのか、キラキラと瞳を輝かせている。それをアニタは「すごいですねー」と乾いた笑いと共に流した。きっと、間違いなく、エヴァンデル侯爵の圧に負けただけだと思う。
「初めは単純にご自分に用があるのだと勘違いしていたみたいで、やたらと貴公子然として挨拶をしていたんですよ」
「うわあ」
まがりなりにもロニーだって貴族の一人だ。当然紳士としての礼儀は身に付いている。しかし最近の彼はあまり褒められた態度ではなかった。伯爵家のご令嬢と親密である、というのが彼の気を尊大にさせ、まるで自分も伯爵家の一員と言わんばかりの言動を取る事が増えたのだ。
きっとアニタとの婚約を解消した後は、すぐにエリナ・オールソンと婚約をするつもりだったのだろう。
「すでに次代のオールソン家当主、のつもりでいたのでしょうね」
どこか冷たいシンシアの声に、アニタも間違いないと大きく頷く。根はどちらかというと善良であったと思うけれども、人間身の丈に合わない権力や立場を手に入れてしまうとそれらがガラリと変わる事はよくある。もっとも、ロニーの場合はまだ手に入れてはいなかったのだから、その状態でオールソン家の威を借りるのは大間違いだ。それが分からない程愚かでは無かったはずなのに、すっかり変わってしまっている。それがアニタは残念であり、寂しくもある。
そんなにも変わってしまったロニーは、相手が侯爵家と知っての擦り寄り行為なのかはたまた謎の自信による対抗意識からなのかは分からないが、目の前に立った侯爵に向かい余裕の笑みを浮かべていた。
――アニタ・ダルトン嬢の婚約者であるロニー・マグレガー卿は君だろうか?
ヒューベルトにそう声を掛けられるまでは。
「あの日彼女と共にいたのは私だ。不幸にもドレスを汚されてしまった彼女を、私が王宮の一室に連れて行き、そこでしばらく話をしていたのに間違いはない」
ガクガクと震えるロニー・マグレガーを前に、ヒューベルト・ファン・エヴァンデルはそう言い放った。不貞疑惑のある令嬢の相手として名乗り出たにも関わらず、その姿は堂々としており、到底批難されるべき立場の人間には見えない。実際そんな立場ではないのだからヒューベルトの態度は正しい物ではあるのだが、実情を知らない周囲からすればそうではない。現段階では彼が浮気相手という認識になってしまう。だというのにこの態度の差である。明確な答えがでるまでもなく、周囲は全てを悟った。つまりはロニー・マグレガーの発言は全て虚言であるのだと。
周囲の関心はすぐに次の段階へと移り変わる。一体どうしてこんなにもエヴァンデル侯爵が怒気を露わにしているのか。噂に巻き込まれた、というのが原因であるにしても、彼が名乗り出なければ、誰一人として彼の存在に気が付く事は無かったのだ。現に当事者であるロニーがそうだ。まさか、自分の婚約者が共にしていたいう男性がエヴァンデル侯爵だなんて想像すらしていなかった。
ロニーは思わず隣に立つエリナを見る。しかしエリナも真っ青な顔をしたままガクガクと震えていた。ロニーにアニタが浮気をしている様だ、と吹き込んだのは彼女だが、その彼女もまた「アニタ・ダルトンが男性と二人でホールを出て行っていた」と聞いただけである。そこから今回の話へと繋がらせたのはエリナのアニタへ対する嫌がらせや優越感、急速に広がったのはそういった醜聞は社交界の格好の餌であるからにすぎない。
そう、こんな男女の醜聞など良くある話だ。当事者にしてみればたまったのものではないけれど、そんな噂を流される隙を作ってしまった己の愚かさを悔いるしかない。
しかし今回ばかりは逆となる。己の愚かさを悔いる立場になるのはどちらなのか――ロニーとエレナに向けて、愉悦に満ちた視線が容赦なく突き刺さる、
「ダルトン嬢に君という婚約者がいたとは知らなかった。それでなくとも、年頃の令嬢相手に、二人でしばらく一室に籠もっていたというのは不適切ではあったと思う。それについては私の方が悪かった。ダルトン嬢に対してもだが、婚約者である君に対しても配慮が足りなかったと誠心誠意謝罪しよう。しかし、それを原因として君が彼女に婚約破棄を申し出たというのは私としても看過できない。彼女は決してやましい行為も発言もしていないし、それは私も同じだ。扉は閉めきっておらず、何かあればすぐに侍女か衛兵が入って来られる様にしていた。君に疑われる様な事は何一つしていない」
本来であれば、この場は婚約者に不貞を働いた輩としてロニーが詰め寄る図となっていただろう。しかし完全に立場が逆転している。婚約者持ちの令嬢との仲を疑われるなど侯爵側としても不名誉極まりない。そういった侯爵の事情は良く分かるが、たかが子爵家の、しかも次男坊相手にいささかやり過ぎでは、とつい擁護してしまいたくなる程にヒューベルトの怒りは凄まじい。
「申し訳ないが、君について調べさせてもらった」
ビクン、と大袈裟にロニーの肩が跳ねる。侯爵が「調べた」と言うのであれば、それはもう全てが露見したのと同じだ。
「君はとあるご令嬢と懇意にしているそうじゃないか。それこそ、アニタ・ダルトン嬢という婚約者がいるにも関わらず」
今度はエリナが大きく全身を震わせた。そして恐怖に歪みつつヒューベルトを見るが、彼の視線はロニーにこそ向いているがエリナには一切向いていない。とあるご令嬢、と口にしているがそれがエリナである事は当然調べが付いているはずだ。そもそも、今この場においてロニーと親密にしているのはエリナしかいないのだから、あえて隠す必要もないというのに、あえてヒューベルトはそういう言い方をしている。
お前など些末な存在にすぎないのだと、ヒューベルトは言葉では無く態度で突きつけてきたのだ。
エリナは一瞬怒りに支配されるが、だからといって太刀打ちできる相手ではないのは彼女自身も良く理解している。周囲からは憐れみの視線と愉快そうな気配が伝わってくるが、エリナはひたすら耐えるしかない。今やすっかりロニーとエリナは道化扱いだ。共に騒いでいた友人達は早々に二人から距離を取り、あとは必死にエヴァンデル侯爵に見つかりませんようにと祈っている。
そんな彼らの内情など慮る必要など無し、とヒューベルトの舌鋒は鋭さを増す。
「婚約者のいる立場でありながら、それを棚に上げてよく彼女一人を悪く言えたものだな」
この下衆が、という罵倒すら聞こえてきそうな侯爵の侮蔑の声。ただでさえ美形の冷たい声と顔など恐ろしいというのに、そこに本気の怒りと、アニタに対する義憤が加わっているのだから恐怖は倍増だ。ロニーは可哀相に思えてくる程にガタガタと震え上がる。
「アニタ・ダルトン嬢に対する、君が発端で流している話は全くのでたらめだ。彼女の身の潔白は私の名に賭けて証明する。もちろん、私自身も君や神に対して後ろめたい事など何もない。これ以上君達が彼女と私に対して不名誉な話を流布すると言うのであれば、こちらとしても相応の処置を取らせてもらう」
侯爵家が全力で子爵家を潰しに掛かるぞという、それはまさに死刑宣告に等しい。
「君の真摯な態度を期待する――マグレガー卿」
そう言い終えるとエヴァンデル侯爵は踵を返した。背後を振り返る事も、様子を伺う事もせずホールの出口へと向かう。その途中、今回の主催者であるハイネン伯爵夫人に一言二言声を掛けていたのは、単に場の空気を壊した事に対する謝罪であろう。
そうして侯爵の姿が扉の向こうへと消えた途端、ロニーは膝から崩れ落ちる。エリナはそんな彼に見向きもせず、涙を零しながらハイネン伯爵夫人の元へと向かうが軽くあしらわれてしまう。どれだけ可愛がっていようと、侯爵家に睨まれては堪ったものではない。
とんだ喜劇だと言わんばかりに、周囲は早速好き勝手に話を広げ始める。
愚かな子爵家の次男坊と、うっかりそれにちょっかいをかけてしまったこれまた愚かな伯爵家の娘。二人の末路を想像するだけで場は盛り上がる。
そんな中、ひっそりと別の話題も生まれつつあった。
ついぞこれまで浮いた話のなかったヒューベルト・ファン・エヴァンデル侯爵は何故あれ程までに怒気を露わにしていたのか。
清廉潔白な彼にとっては浮気相手と疑われるなど許しがたい事だろう。無実無根の令嬢がその渦中にあったと言う事も逆鱗に触れていたのは間違いない。
しかし、だからといってわざわざ夜会の場に赴き、これだけ衆人観衆の目のある中で断罪までする事だろうか。
もしや、侯爵は秘めた思いを抱えていたのでは――
いやいや、むしろこの件で初めてその気持ちを抱いたのでは――
ではあの子爵の息子は、自ら墓穴を掘っただけなのではないか――
事実など塵でしかない。どれだけ自分達が愉しめるかが一番である。
新たな火種はこうして生まれ、それは爆発的な速さで広まって行くのであった。




