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「そう……なの?」
「はい、そのお相手がまさか……ダ、ダイアナ様のご友人だとはわたしも知りませんでしたが」
いくら面倒だからといっても、自分の婚約者に不貞の疑惑があったのだからそこはきちんと確認しておくべきだった。それでも一応尋ねてみた事はあるのだ。たったの二回ではあったけれど。そしてその時どちらともロニーは「そんなのは根拠の無い噂だよ」と笑って流していた。
あの時にもっと深く訊いていれば。でも証拠も何も無い状態で、アニタ自身も必死だったわけではない。真実を突き詰めるよりも、これが原因で変に仲が拗れても面倒だなと追求を諦めたのだ。
あああああ、と深く長い息が漏れる。後悔したところですでに手遅れ、それどころか最悪の事態である。どうしたものか、と考えるも思考は空回るばかりで何一つ浮かんではこない。
「ねえアニタ、ヒューベルト様に相談してはどうかしら?」
「ヒェッ!? えっ、あ、ええっと、……えっ!?」
アニタは目に見えて狼狽える。なんなら座ったままソファからピョンと飛び上がってしまったかもしれない。そんなアニタの反応にシンシアとマレーナは目を丸くして驚く。
「お嬢様?」
「アニタどうしたの?」
「いえ! ちょっと思わぬお方の名前が出てきたから驚いただけで」
「思わぬ、ではないでしょう? 貴女の婚約者……ロニー・マグレガー卿が話している事はあの時の話に違いないわ」
「あの時って?」
アニタはドレスを着替える羽目になった話を詳しくはしていない。ただちょっと汚れてしまったのを、とても親切な方が着替えを貸してくれたのだとしか。ああそういえばあのドレスまだ返してなかったな、とアニタの思考は逸れていく。そのほんの隙間にシンシアが爆弾を投下する。
「ダイアナの嫌がらせのせいで本当は私が被るはずだったワインをアニタが被ってしまったの。そうして汚れてしまったドレスを、ヒューベルト様が助けてくださったのよ」
「えええええ! お嬢様ったらそんなことに!?」
マレーナは途端に色めき立つ。ヒューベルト・ファン・エヴァンデルの名は庶民にも知れ渡っており、その美貌と清廉潔白な性格共に人気はとても高い。
そんな噂の貴公子様とうちのお嬢様が! とマレーナは瞳をキラキラとさせて見つめてくる。違うそうじゃない、そんなマレーナが常日頃楽しく読んでいる恋愛小説みたいな中身じゃないから! 異物呼びの命綱扱いだから!! そう叫ぶ事ができたらどれだけ良かったか。アニタは両手で顔を覆い、しおしおと身体を前に崩す。
「え、それでそれで、お嬢様とヒューベルト様はどうされたんですか!?」
最早ロニーへの怒りはどこへやら。マレーナは突如沸いたうちのお嬢様の運命の出会い、かもしれない話に夢中になっている。
「アニタのドレスを着替えさせて、そして少しの間お話をしていたのよね?」
「……はい……その通りです……」
「わ……わぁ……!」
「違うから! なにもないからねマレーナ!! ちょっとだけ世間話っていうかそんな話をしただけだから! あ、そうよそれにちゃんと扉は開いていて、外に侍女の方と護衛の方もいたもの! わたしと侯爵様の間には疑われる様なことはなにひとつ! これっぽっちも! ないわ!!」
ロニーの主張に心当たりは無かったが、なるほどあれであったのかとアニタは己の軽率さを呪うしかない。元々知り合いであったし、もしかしたらあの時シンシアがワインを掛けられる事もヒューベルトは知っていたかもしれない。アニタが動かなくても、彼自身が助けていた可能性がある、いやむしろその方が高い。なのに、アニタはそこへしゃしゃり出てしまったのだ。
――やっぱり慣れないことなんてするんじゃなかった!!
うわあん、とアニタは心の中で号泣する。あくまで心の中、で表情は懸命に取り繕っている。なのでシンシアはより一層アニタに追い打ちを掛ける。
「そうでしょう? だからその事実を明らかにするべきよ! このままだと貴女にとって不名誉な話がさも真実の様に広まってしまうわ。私、そんな事許せなくてよ!」
「お……お気持ちは、ありがたいのですが……!」
「どうしたんですかお嬢様!? シンシア様の仰るとおりじゃないですか、ちゃんと事実を公表して、あのド屑こそが先に不貞を働いて、あげくそれをお嬢様にすり替えて押し付けてきたとんだ下衆野郎だって知らしめてやりましょうよ!!」
マレーナの罵倒が止まらない。それだけ怒ってくれているという事で、それはとても嬉しいけれど、しかしアニタはどうしても首を縦に振る事ができない。
シンシアが言う通りヒューベルトに助けを求めるのが一番手っ取り早く、そして確実である、というのはアニタも充分に理解している。彼の事だから、全力でアニタの名誉を回復してくれるだろう。しかしそれこそアニタが回避したい道だ。
一度目も二度目もアニタに選択肢は無かった。しかし三度目となる今回はまだ彼には話がいっておらず、アニタしか知らない。何やら不思議な力で彼との関わりを持つ道順を強制的に選ばされている様な気がする中、今ならまだ間に合う。ここでアニタが彼を頼らないという選択肢を取れば、もしかしたらこれが最後となり、今後一切彼と関わらずに済むかもしれない。なのでアニタは必死にその選択肢を掴みにかかる。
「所詮子爵家同士の小さなくだらない争いですから、そんなことに侯爵様のお手を煩わせるわけにはいきません」
「そんなことないわ! だってヒューベルト様はアニタの事をとても大切にしているじゃない!」
「えええええ! お嬢様ったらやりますね!?」
「だからああああ!! 違うの! そうじゃないの!! シンシア様も違いますからね!」
「でもお茶会の席では」
「あれは手っ取り早く場を治めるために話を合わせてくださっていただけです! そもそもエヴァンデル侯ほどの方が、わたしみたいな平凡な小娘を相手にするはずないじゃないですか!」
「お嬢様は充分可愛らしいですよ!」
「そうよ、アニタといるとなんだか心が楽しくなるの。そんな風に自分を卑下しないで」
「そのお心遣いが余計につらい!!」
付き合いの長いメイドと自分よりも遙かに美しい相手からのフォローの言葉など慰めにはならない。しかしその気持ちだけはありがたく頂戴します、とアニタは二人の優しさに感謝しつつ、どうにか気力を振り絞る。
「半年後にはケイトリン様のご結婚も控えてるんですよね? 今が一番忙しい時じゃないですか!」
そうなのかは知らないけど! との言葉は飲み込みアニタはとにかく二人が口を挟む前にこの話を終わらせようと必死だ。
「そんな侯爵様に些末なことで時間を取らせるなどとてもじゃないですけど無理です! それにロニーだって今回たまたまお店の中で言いふらしてしまっただけで、他でもそうするか分からないし、その前にわたしがきちんと話をします! ってことで手紙! 手紙を書くから直接手渡しに行ってもらっていいかしらマレーナ!?」
「おまかせください! 石をくくりつけてド屑の部屋に投げ込んでみせますよ!」
「それはしなくていいからね! 普通にお屋敷の人に渡して!」
「アニタ、これはヒューベルト様にも関係がある事なのよ?」
「でもロニーはそのことについては知らないみたいだから大丈夫です! まかり間違っても侯爵様にご迷惑がかかることはありません」
そもそも知っていたらこんな話を吹聴などできないだろう。相手が誰だか分からない、いや、そもそもいるのかも分からない状態だからこそ、ロニーはアニタが浮気していると言い張って醜聞を広めているのだ。
「そうではなくて、ヒューベルト様がもし後からでも事実を知ったらとても悲しむと思うの」
「はい、お優しい侯爵様ですから、きっとわたしのことを憐れと思ってくださるかと。だからこそ、どうかこの話はシンシア様の胸に止めておいてください。夜会の時も、お茶会の時もとてもよくしていただいたんです。そんな恩人に、余計な心配はかけたくありません」
少しばかり憂いを帯びた瞳でシンシアを見つめれば、彼女は静かに首を縦に動かした。それによりアニタは勝利を確信する。
勝った! 今回の選択肢、わたしはちゃんと選びきったー!!
心の中で両手を挙げて万歳をしつつ、現実ではシンシアに向けて「ありがとうございます」と礼を述べる。
「……けれど、もし、どうにもならない時は、せめて私には連絡をくださる? 貴女は大切な友人なの、私がなんとしても助けてみせるわ」
「そのお言葉だけで充分です……でも、どうしても無理になった時はお言葉に甘えて、全力でシンシア様にもたれ掛かりますね!」
「存分にもたれてくれて構わなくてよ。私これでも力強いの」
小さく笑みを浮かべるシンシアは美しくも可愛らしい。なんだか笑顔がケイトリン様に似ているな、とふとアニタはそう思う。心根の優しい所が似ている二人だから、仕草や表情も似てくるのかもしれない。そんな人達と交流が持てたのだから、自分の醜聞くらいまあどうとでもいいか――腹は立つけど、とアニタはひとまず自分の中でそう結論を付けた。
シンシアが帰宅した後、アニタはすぐにロニーへ宛てた手紙を書いた。マルタンで起きた話も全て書き、とにかく一度直接会って話がしたいと。しかし案の定とでもいうべきか、ロニーから返事は無い。ならば叔父夫婦の帰宅を待って今後の相談を、と考えるが間の悪い事にその叔父からは帰宅が数日遅くなるとの連絡が届く。一緒に行ったパティが熱を出してしまったそうだ。おそらくは旅の疲れによるものだろうから心配はいらない、とありそれ自体は喜ばしくあったのだが、それはつまりはこの問題の解決が遅くなるという事だ。
婚約者殿が大人しくしてさえいれば問題はない。どうか叔父夫婦が帰ってくるまで引き籠もってでもいてくれとアニタは懸命に神に祈る。
そうしてひたすら祈り続ける日が数日続いたが、それはある日突然終わりを迎える。
アニタが何よりも避けたかったエヴァンデル侯爵が動いたのである。




