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「全部ロニーの言いがかりで、真実なんて一つもないのに、なのに人前でそんなことを言ってたの……」
仲睦まじくはなかったかもしれないが、かといって終始険悪というわけでもなかったはずだ。だからこんな、完全にアニタを貶める様な真似を彼がしているという事がショックでならない。知らない間に自分は彼を酷く傷付けてしまっていたのだろうか。
「エリナよ……エリナがきっとそういう風に貴女の婚約者を唆したんだわ」
涙をハンカチで拭いながらシンシアがポツリと零す。小声なれども妙にはっきりとした物言いに、アニタとマレーナはつい顔を見合わせた。
「アニタが私を助けてくれたから……だからダイアナが彼女を使って貴女の婚約者に近付いて、貴女の名誉を傷付ける事を吹聴しているんだと思うの」
その名を聞いた途端、ビクンとアニタの肩が大きく跳ねる。嘘ちょっと待って、とそう声を発したいのにそれすらも出せない。急激に速くなる鼓動に目眩までおきそうだ。
ここにきてまさかの名前が出てきた。かのエヴァンデル侯の宿敵とも言える相手ではなかっただろうか、その名の人は。
ゾワゾワとした寒気がアニタを襲う。出来る限り関わらない様にしているのに、何故かどんどんと密接に繋がりつつある様に思えてしまうのは果たして気のせいか。
アニタは運命だとかそういった物をこれまで特に信じた事もなければ感じた事だってなかったけれど、今はとてつもなく「運命」に取り込まれつつある様な気がしてならない。ここで選択肢を間違えると、とてつもなく大きな渦のど真ん中に放り込まれそうで、アニタはブルリと全身を震わせた。
「エリナ・オールソンはダイアナの取り巻きで、そしてあの中では数少ない本当の友人なの。あの夜会には彼女は来ていなかったから、アニタは見た事がないかもしれないけれど」
「あー……はい、お会いしたことはないと……思います……」
ついでに先日の夜会に不参加だったのは、きっと間違いなく「具合が悪い」といってアニタのエスコートを断ったロニーと一緒にいたのだろう。うわあ、とアニタは襲い来る頭痛と目眩に今度こそソファの背もたれに頭を乗せた。
「ダイアナ、様? というのはあまりよろしくない感じの方なんですか?」
マレーナが遠慮しつつも容赦なく突っ込む。その言い方が普段では到底耳にする物ではなく珍しかったのか、シンシアは微かに笑みを浮かべる。
「ええ、かなりよろしくない感じの人よ。いまだに王太子の婚約者の座を狙っているし、それだけじゃないわ、世の男性全ての視線が自分に向いていないと気が済まない性格をしているの」
「え……ええー……」
マレーナはドン引きだ。アニタも同じく引いてしまう。すでに決まっている王太子の婚約者という立場。それを欲しているのはそれだけ王太子を愛しているからなのかと思っていたが、まさかの。
「……もしかして、その、世の男性全ての視線って……エヴァンデル侯も入っているんですか……?」
アニタはゆっくりと身体を起こす。それに対してシンシアは少しだけ考えた後小さく頭を振った。
「それが、ヒューベルト様にだけはどうも違うみたいなの……容姿や立場はダイアナにとっては大好物なはずなんだけれど、何というのかしら……性格、よりももう、そもそもの人として合わないみたい」
アニタは直接ダイアナと対峙した事はないが、ヒューベルトから聞いた話や、そして今のシンシアの話から推測するとたしかに彼とは「人として」合わないだろうなと納得してしまう。
「そんな性格ド屑の方とその取り巻き、がどうしてうちのお嬢様に関係があるんです?」
「ダイアナは王太子の婚約者になれなかったのをとても悔しがっているの。だから、その妬ましい座にいるケイトリンが憎くて仕方がなくて、隙あらば嫌がらせをしていて」
その対象はケイトリンだけではない。彼女を精神的に追い詰める為にと、むしろその矛先はケイトリンの友人であるシンシアに向いている。アニタがシンシアと知り合う切欠になったあの時も、まさにそういった理由によるものだ。
「この前の夜会でお嬢様が違うドレスを着て帰ってこられたのって、それが原因だったんですか!?」
「そうなる……みたい……」
「ってことは、その時お嬢様がシンシア様をお助けしたのが気に入らなくて、自分の取り巻きで親友のエリナという方を使ってあのド屑ボンボンを誑かしたと……!?」
「そうだと思うの……ごめんなさいアニタ! 私と関わってしまったばかりに、貴女と婚約者の方にこんな……!」
ポロポロと真珠の様な涙がシンシアの瞳から零れる。慌ててマレーナが背を摩り、アニタは激しく首を横に何度も振りながら「それは違います!」と大声を上げた。
「ロニーが他のご令嬢と親密にしていたのはこの前の夜会に参加する前からです! シンシア様の件は関係ありませんから、お気になさらないでください!」
「ロニーというのはド屑のことですシンシア様」
しれっと入るマレーナの補足に「そこじゃない」とアニタは突っ込みかけたがとりあえず堪える。




