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――君には失望したよアニタ
ケイトリンとのお茶会の日から三日過ぎたその日、珍しくロニーから届いた手紙はそんな一文から始まっていた。
婚約者となってからの数回はロニーから手紙が送られてくる事はあったが、ここ最近はもっぱら夜会やお茶会などに誘った時の断りの返事しかなかった。だから、今回彼の方からというのにアニタは驚いたものだ。まさか今更になって先日の夜会への不参加を詫びるというわけではないだろうと、そう思いつつもほんの少しだけそういう期待もあった。
だというのに、便箋三枚に渡って書き綴られていたのはアニタに対する誹謗中傷ばかりである。
人間怒りも過ぎると逆に笑えてくる物なのだということを、アニタは本日思い知った。
これは笑うしかないだろう。アニタが婚約者のいる身でありながら浮気をしていた、という事をひたすら批難する中身。アニタにはそんな記憶は微塵も無い。一体何をもってして彼はこんな事をツラツラと書き綴っているのか。
「お嬢様……?」
気遣わしげな声を掛けてきたのは叔父の屋敷でメイドとして働いているマレーナだ。アニタより一つ年上の彼女は、自分が手渡したのもあってアニタの様子を気にしている。
「あの腐れボンボンがなにかまた言い出したんですか?」
血の気の多さと口の悪さが自慢です、と言い切るマレーナはその言葉通りロニー対して容赦が無い。これまで散々アニタに対して無礼な態度を取っているからと、彼女にとってロニーは大事なお嬢様の婚約者ではなく、ただの敵だ。
「……わたしが浮気してるから失望した! 婚約破棄だ!! ですって」
普段であればマレーナの暴言に苦笑しつつ窘めもするが、流石に今回ばかりはそうする気も起きない。手紙を封筒へ戻し、行儀悪くもテーブルの上へと放り投げ、自身はソファへと深くもたれ掛かる。
「な……んですかそれ!? お嬢様が浮気!? してるのは向こうの方なのに!?」
マレーナは途端に顔を真っ赤にして怒り始めた。
「それにお嬢様が浮気だなんてありえませんよ! そんな甲斐性あったらそもそも腐れボンボンなんかと婚約だってしてませんし!!」
マレーナの口の悪さはアニタにも飛んでくる。これはアニタを思っての事であると分かっているのでアニタも腹を立てたりはしないが、つい苦笑は浮かべてしまう。
「お嬢様ったらちっとも恋愛ごとに興味持たないから! だからあんなのと婚約するはめに……!」
「ええと、ロニーとは一応ほら、家のためってのもあるから」
「それでももう少しマシなのがいたはずです!」
「ロニーも初めの頃はまだマシ……普通だったし」
「そこから今のド屑になっているんですから最悪じゃないですか」
ううんごもっとも、とアニタも頷く。本当に、初めて出会った頃の彼は今と違っていたって普通だったのだが。
「とにかくこれはすぐにでも旦那様と奥様にご報告しなければですね!」
アニタの言う旦那様、は叔父の事である。叔父の友人が足の骨を折る大怪我をしてしまい、夫婦揃って出掛けたのがこの手紙の届く少し前。初めはパティもアニタと共に留守番している予定だったが、遠方のために一泊する予定の両親に、出掛ける寸前にやはり寂しくなったのか一緒に行くと騒ぎ出した。その結果、アニタが一人で留守を預かる事になったのだが、何も即座にこんな問題が飛び込んで来なくてもいいのにと思う。
「今日はお嬢様のお好きな物をたくさん作りますね」
「え、どうして?」
「もちろん英気を養ってあのド屑ボンボンを捻り潰すためですよ!」
腐れがド屑に変化した。どっちがマシなのかなあとそんな暢気な事を考えつつ、アニタは料理上手のマレーナの言葉に素直に喜んだ。
ロニーの主張は事実無根であるし、けれども彼が婚約破棄を望んでいると言うならばこちらそこ願ったり叶ったりである。叔父夫婦の帰宅後にひとまず話をし、両親とも相談をしてできるだけ早く婚約破棄をしよう。
そう考えていたアニタであるが、事態はそんな悠長は話を許さなかった。
夕食の材料と、あとは美味しいおやつを買ってきますね、とマレーナが買い物に出たのは昼を過ぎた頃だ。その間にアニタは厨房に立ち、領地であるコーウェズ自慢の鶏肉をどうにかもっと目立つ物に出来ないかと試行錯誤中。ろくに料理もできないけれど、それでも何かしら名案が浮かぶかも、という奇跡を信じてアニタは鶏肉を煮込みながら色々な味を試してみる。
「……塩? 塩が足りないのこれ?」
前に王都に来た時に入ったレストラン。そこで食べた美味しかった鳥料理。その時の味をなんとか思い出しながら再現を試みるが、如何せんそんな技量はアニタには無い。けれどもこの鶏肉にかける情熱だけは誰にも負けていない、という情熱だけでアニタは挑戦を続ける。 コーウェズは決して豊かな土地では無い。そんな土地でどうにか財源にならないかと代々の領主が知恵を絞り、それを領民が支えてアニタの父の代で見事畜産業として名を広める様になったのだ。子どもの頃に元気に領地を駆け回っていた時に、アニタはそれらを目で見、肌で感じていた。
領地、ひいては領民の生活を豊かにしてやりたいという両親の意志。アニタ自身も気さくで優しい領民は大好きで、ならば少しでもその手伝いをしたいと思う様になったのは自然の事だった。
なにはともあれ基礎となる勉強を、と家庭教師に学び、書物を出来るだけ沢山読み、実際に鳥や牛などの動物にも触れる様に頑張った。どれもあまり成果は出なかったが、それでも何も知らずにいるよりかは良かったと思う。少なくとも、家畜の世話がどれだけ大変であるのかは理解できたのだから。
適材適所という言葉の通り、役に立てない家畜の世話を頑張るよりも、これは社交の場で頑張るのが自分の本分であるとアニタは意識を切り換えた。それ以降、アニタはあまり好きでは無いけれども夜会やお茶会にできるだけ参加をし、地道に少しずつアニタなりに顔を繋いでいる最中だ。
そんな中、まさかの王室御用達を扱うシンシアと知り合えたのは僥倖中の僥倖であったというのに、これまたまさかの事態で婚約者に足を引っ張られる事にになろうとは。
はああああ、とアニタは盛大に溜め息を吐く。
「美味しく食べるのは得意なのに……! この味がどういった味付けでできているのかが分からない!!」
味の分析はできないが、それでも偶に成功するときだってある。だが、いつも以上に気がそぞろになっているせいで今日は何一つ分からない。本当に、心の底から我が婚約者様が恨めしくて仕方がない。
初めの頃は普通に仲良くできていた。けれど、それがいつしか距離ができはじめ、最終的にこんな事になってしまった。
ぶっちゃけロニーが他に好きな相手が出来たから、という理由で婚約解消になるのはアニタとしては構わない。人の心なんていつ変わるか分からないのだし、そもそもアニタ自身ロニーが心変わりしない様に、というか、ロニーに好かれる努力というものを特にしていなかった。お互い家の為の婚約で、初対面の印象は悪くはなく、その後も特に不快に思う事もなかったからと続いていた関係だ。穏やか、と言えば聞こえはいいが、実際は「こんなものか」という惰性と妥協であった様に思う。だから彼が、自分以上に魅力的な令嬢に心を奪われ、そちらの方と結婚をしたいと言うのであれば「それもそうね」としか思わなかった。
ところが彼はアニタに非があっての婚約破棄だとしてくるのだから堪ったものでは無い。
不貞の令嬢と思われるのも屈辱だが、それ以上に謂われなき醜聞によりせっかくのコーウェズのブランド名に傷が付きでもしたら。アニタだけでなく、両親、そして領民達の努力が無駄になってしまうのだけはどうあっても避けなければならない。
明日になれば叔父夫婦も帰ってくるので話はそれからだ。
鶏肉を煮込んでいた鍋は気付けばかなり水の量が減っている。このままでは焦げ付いてしまうと、アニタは慌てて火を消す。ふう、と己の力不足を噛み締めながら今回も大人しく諦めるしかなさそうだ。これ以上調味料を混ぜても美味しくなりそうにはない。それどころかあと一欠片でも何かが混ざると、とんでもない味になってしまうだろう。
「そんなのだめよ! せっかくのうちの鶏肉をそんなみすみす美味しくない物になんてできないわ!!」
ここから先は料理上手のマレーナに任せるのが吉だ。彼女ならきっと美味しいシチューや他の料理に作り直してくれる。そういえば前に食べたパイ生地で包んだシチューは美味しかったなあ、とアニタの口の中に味の記憶が蘇る。その途端、お腹が空腹を訴え始めた。
そろそろマレーナも帰ってくるはずだ。アニタは手早く調理器具を片付けると、次にお茶の準備を始める。すると狙ったかの様に玄関が急に騒がしくなった。
「マレーナ? お帰りなさい、どうしたの?」
お嬢様! と大きな声を上げるマレーナにアニタは厨房からそう声を掛けつつ急ぎ玄関へと向かう。
「そんなに慌ててなにがあっ……」
「おおおおおお客様ですお嬢様!!」
お、が多い。しかしそれも仕方がない。だってマレーナが連れてきたのはシンシア・ウィッキンズ伯爵令嬢だ。なんの前触れも無しに突然来訪してくる様な相手ではなかった。




