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ツキノワ  作者: デブ猫
8/8

8 空と海と黒猫と ④光

 冬の太陽は怠け者。

 すぐに仕事を終えて帰り支度を始めてしまう。

 なので、もう夕方へと時間が移ろうとしている。昼間と言える時間は残り少ない。


 小立高校の人達は働き者。

 今も全身全霊、命懸けで働いている。

 屋上にいるSAT隊員達は膝を立ててライフルを構え、校庭へ狙いをつけている。引き金に指をかけたまま、息を殺しスコープを覗き続ける。射撃時の反動でスコープが眼球にぶつからないよう、スコープから目を離すよう教えられ、今も忠実に実践している。

 校庭の外にはパトカーと装甲車が集結している。次々と集まってくる。SAT隊員と自衛隊員が車体とドアの陰、そして学校の塀に隠れ、銃口を校庭へ向けている。校庭の真ん中に並ぶ標的を狙い続けている。彼らの後方と周囲は警官と刑事達が固め、伏兵への警戒を怠らない。

 空には沢山のヘリ。警察・自衛隊が高校上空に滞空している。全てのドアが開け放たれて、体を固定された狙撃手が地上を、高校校庭に見えるバイクと襲撃者の列を狙う。その周囲のヘリはマスコミで、カメラが事件の推移を見守り、レポーターが現状を中継し続けている。

 校舎内には避難してきた名香野市民、そして刑事警官達。多くの市民は教室や体育館に隠れて息を潜めている。警察官達は銃を握りしめ、銃口を校庭へ向ける。市民の中でも若くて元気な男達は手に武器として棒や包丁、ナイフを握りしめる。そしてバリケードが築かれた窓・扉の隙間から外を覗く。校庭の真ん中で横一列に並んだオフロードバイクと、そのドライバー達を。


 校舎入り口に築かれたバリケードの一部が開けられた。

 姿を現したのは名香野警察署刑事課長、垣元。背広の上に防弾チョッキ着用。

 だが、彼の手は何も持っていない。両手を軽く上に上げ、手の平を校庭のテロリスト達に示したまま、一人でゆっくりと歩いていく。

 行き先は校庭中央。

 そこにはオフロードバイクが横一列、スタンドを出して立てられている。彼らのバイクの後ろには白旗が掲げられている。

 バイクの前には、やはり横一列に男達が並んでいる。全員が防弾チョッキを着用し、何人かは体の各所から血を流している。服は泥だらけで汚れている。そして、彼らも手に何も持っていなかった。

 彼らが所持していた武器弾薬は、彼らの足下に捨てられていた。


 校舎三階、校長室ではSAT隊員が校庭を見下ろしている。小立高校防衛を命じられたSAT部隊の隊長だ。

「ふん、俺に何かあれば後の指揮を頼む…か。美味しい所を取りやがって。まぁいい、死ぬなよ」

 現場指揮権の所在や交渉人役の取り合いで、つまりは手柄欲しさに少々ゴタゴタがあったらしい。だが二人とも、この事件解決を遅らせる気だけは、全くなかった。各自が最善の手段を考え、意見をぶつけ合った結果、彼らが最良と思える結論が選ばれた。

 即ち、通信機から流れてくる、『現状を維持しろっ!』『爆弾で自爆するぞ、そのまま殺せ』『止めろ!マスコミが見てるんだ!』『一般回線でしゃべるな!国民に聞かれてるぞ!』『SIT到着を待てっ!』『それは習志野空挺が…』などという、警察・自衛隊・政府それぞれの偉い人達が勝手に言うセリフは無視。現場の判断で動く、というもの。


 現場指揮官二名、その一人が犯罪者達の前に立った。

 犯罪者達も両手を上げる。見せられた手の平、何も持っていない。

 油断無く全員の手が上がったのを確認してから、垣元は交渉を開始する。

「日本語は、話せるか?Can you speak Japanese?」

 テロリスト達は視線を左右させる。そして、中央に立つ一人の男に視線が集まる。

 その男は、両手を上げたまま、非常に慎重かつ緩やかに、一歩前に出る。

 足を前に出す。たったそれだけの動作だが、校庭を囲む狙撃手達の緊張が増すには十分だ。バイクに掲げられた白旗なんて、誰も信用していない。全員の指先に力が入る。安全装置を外された銃は、どれがいつ暴発してもおかしくない。

 男の舌が日本語を紡ぐ。

「ワタシ、ニホンゴ、ハナせます」

 垣元は小さく頷いた。

「では、尋ねる」

 男も小さく頷く。

「降伏、するのか?」

 再び頷く男。

「なぜ、ここで?」

「ワタシタチ、このマチ、ヨくシらない。ゼンインが、カンタンにアツまれるトコロ、マチのナカ、ここだけ、オシえられた、から」

 男の言葉に刑事課長は耳を澄ます。一つの聞き逃しも、聞き間違いもないように。

 そして、慎重に言葉を選んで発言する。

「場所、の事ではない。なぜ、今さら、素直に、降伏するんだ?ということだ」

「メイレイ、だから」

「命令?」

「そう、メイレイ」

「何を、誰から、命じられた?お前達は、どこの、誰だ?」

「ダレ、イえない。ショゾク・カイキュウ、イえない。

 でも、メイレイのナイヨウ、イえる。イってヨい、イわれた」


 命令の内容を言って良い。

 そんなこと、普通はあり得ない。

 目の前に並ぶ者達は、間違いなく軍人だ。彼らは軍事行動をしていた。ただのテロリストでないのは、装備からも人数からも明らかだ。その所属も階級も軍事機密、命令も同じく。むしろ機密を守るため自爆自殺しろ、と命じられているのが当然だ。でないと、彼らが所属する国家が日本に戦争を仕掛けたことがバレる。日本への侵攻はアメリカも黙殺できない。国連もだ。

 国連決議に従い国連軍が攻め入っても不思議はないし、文句は言えない。


 そんな事は政治にさほど興味のない垣元にだって分かる。だからこそ、その言葉には驚いた。

 そして、男が語る命令内容にも驚いた。開いた口が塞がらないくらいに。まさに、呆気にとられた。

「メイレイは、ミっつ。

 イチ。ナカノシで、アバれマワれ。

 ニ。ダレも、コロすな。

 サン。シぬな。ブキがナくなったら、コウフクして、ヨい。アトは、ホリョヘンカンをマて」

 垣元のアゴは、なかなか上に戻らない。

 アゴが外れたんじゃなかろうか、というくらい大きく開け放たれたままだ。

 しばらくアゥアゥと呻いた後、ようやく震える言葉が漏れた。

「こ…殺す…な?」

 男は、またも頷いた。今度は大きく、しっかりと。

「あれだけ…銃を、撃ちまくって…殺すな?」

「ゼンイン、クルマのシャタイ、タイヤ、ジメン、カベ、ソラを、ウってた。シュリューダン、バクダン、ツカわなかった。デンセン、キらなかった。ビョウインで、シニン、デるから。

 ダレか、シんだ、か?」

 その言葉に、課長は記憶を思い返す。今日、この時までの全ての報告を。自分が自分の目で見た全てを。


 死者の報告はない。

 交通事故で負傷者は出たが、死者の報告だけは、いまだにない。何故だ?あれだけの銃撃戦をして、殉職者が出なかった?あり得ない。

 どうして閃光手榴弾や催涙弾を使ったんだ?手榴弾を使えたのに。いや、市内各所に爆発物を仕掛ければ、さらに有効だったろう。送電線を切るのも非常に効果的だったに違いない。

 なのに、こいつらは、しなかった。

 こいつらはタダの囮、時間を稼ぐだけが目的だから…そんなレベルの話じゃない。手を抜いていたわけでも、情けをかけたわけでもない。最初から、それが目的だったのだ。

 何故、何故だ!?


 言葉が見つからない垣元の沈黙。それを男は満足いく回答と判断した。心から嬉しそうに微笑む。

「シニン、デなかった。ヨかった。

 ワタシタチ、ニンム、オわった。

 コウフク、する。ジュネーブ、ジョウヤクにシタガった、ホリョのタイグウ、ヨウキュウ、する」

 そう言うと、男は防弾チョッキも脱ぎ捨てた。そして地面にうつ伏せ、両手を頭に乗せる。それを見た他の男達も同じく行動する。全員が横一列でうつ伏せ、降伏した。

 目の前の状況に、垣元はようやく我に返る。校長室へ向けて大きく両手を降り、事件終結と安全確保を伝える。

 校舎や正門からは、サブマシンガンを構えた特殊部隊隊員が、銃口を捕虜達へ向けたまま進んでくる。

 上空を旋回するマスコミ各社のヘリは、あっと言う間に警官と自衛隊員で埋め尽くされていく校庭を映し続けていた。降伏した軍人達の姿は、制圧する人の波にもまれ、消えていった。





「そうか…分かった、新幹線だっ!」

 新潟県上空。群馬との県境を越えてすぐ。

 地図を片手に通信を続けていた橋本さんが叫ぶ。

「主犯は、ツキノワを隠し持つ奴は関越自動車道を使っていない!新幹線で、悠々と新潟入りしたんだ!」

「なぁ…んやとぉっ!?」

 俺も村主も前のめり、橋本さんが示す地図を睨み付ける。橋本さんの指先、ほぼ関越自動車道と併走する路線、上越新幹線を。

 俺の口から歯ぎしりが漏れる。

「バイクも、高速道路すらも、何もかもが囮だったんだ…。奴は、ツキノワを隠し持って埼玉の大宮から新幹線に乗ったんだ…。

 両方、ほとんど同じルートだから方角だけじゃ気付かなかった…。ヘリでも追いつけないわけだ…畜生っ!」


 そう、俺達は追いつけなかった。

 方向は北と分かってる。ヘリも全力で飛んでいる。なのに追いつけなかった。

 俺達からの情報を受けた警察は、大慌てで関越自動車道の新潟方面も封鎖した。なのに何も捕まえられなかった。何より、俺とツキノワのテレパシーは回復しなかった。弟が近くにいれば、弟の耳に聞こえる音が俺に届くはずなのに。

 もしヤツが蛇行する高速道路を走っていれば、空を直進するヘリの方が絶対に速い。なのにいつまで経っても追いつけない。

 バイクで暴れ逃げ回った真の理由。それは、新幹線から注意を逸らす事だったんだ!


 村主は怒りに任せて機体を殴りつける。

「あ、あかん…やられたで。大宮から新潟なんぞ、二時間もかからんやろ。あいつら、その二時間足らずを、稼いでいただけやったんや…くそったれっ!」

 橋本さんが通信内容を、怒鳴るように俺達へ伝えてくれる。

「おい!大宮から新潟まで、新幹線なら97分しかかからないってよ。もし大宮で13:30くらいに乗ったなら、そして途中の新潟県長岡駅までなら、3時までに到着するとさ。

 くそっ!暴れ回ってる連中が送電線を切らないし、名香野市から出ないからおかしいと思ったんだ!新幹線を止めないためだっ!」

 俺は携帯の時計を見る…既に四時近い、もう夕方だ。

 パイロットさんも悲鳴のような声を上げる。

「どうしますかっ!?方向は分かってるんでしょ、日が暮れたらヘリは危なくて闇雲に飛べませんよっ!」

 パイロットさんの言うとおり、もうすぐ夕方だ。西の海へ太陽が落ちていく。

 悔しがる余裕も悩むヒマも無い。

 俺に、俺達に選択肢は無いんだ。


 俺は精神を研ぎ澄ます。

 ツキノワの感覚は…間違いない、変わらず北だ。そして僅かずつだけど、その感覚は強くなってきている。これも確かだ。

 追いついたっ!

 ヤツは新幹線を降りている。そして目的地へ向けて、バスかタクシーでノンビリ移動しているんだ。だったら、必ずヤツを捉えられる。あとは、俺とツキノワの武器を、切り札を使うのみ。

 うまく行く保障はない。

 いや、保障なんかいらない。

 やるんだ。

 やらなきゃ死ぬ。


 北を強く指し示す。ツキノワのいる方向を。

 上空から見た新潟は雪が積もり、右の高い山脈と左の低い山並みに挟まれている。その間を白い平原が南北に広がり、縦に幾つもの線が貫いている。多くは細い直線、新幹線や高速道路。そして一本の蛇行する太い線、川だ。かなり太い川が北へ流れている。

 村主が地図と地形を照らし合わせる。

「信濃川や。地図によると、こいつを北上すれば新潟に出れるで」

「新幹線の駅は新潟の前にもあるぞ。長岡だ。日本海にも近い…この線もあるな」

 独り言のように呟いた橋本さんは、その内容を通信機で伝えてる。この情報に従って警察も自衛隊も移動するだろう。けど、主力は名香野市と高速道路に行ってしまった。もう援護は期待できない。

「とにかく、飛んで下さい。ヤツの近くまで来れば、方法はあります。一発大逆転の、切り札が」

「本当かっ!?本当なんだな?」

 振り返る橋本さんへ向けて、強く頷く。


 ウソだ。

 そんなマンガみたいな都合の良い話、あるわけがない。

 だけど、そう言わないと奴らを、ツキノワを追ってはくれないだろう。武装テロリストの前に立ち塞がるなんて、死にに行くようなものだから。

 本当は、ごく僅かな希望があるだけ。他に手段はない、それに賭けるしかない。

 俺は行く。

 嘘もつく。

 ツキノワを、魂を分けた弟を救うために。


 目の前に広がるのは、左右を山で挟まれた新潟の雪原。その遙か先に海が見える。

 もうすっかり夕方だ。空も、山も、雪原も、赤く染まり始めてる。

 俺は握り拳を座席のシートに押さえつけ、必死に焦りを押し殺す。

 赤く染まる白い世界を貫く川。

 静かな空を切り裂き北上し続ける。



 少しして、橋本さんの眉間に再び深いシワが刻まれる。

 耳に押しつけていたヘッドホンを外し、俺に突きつけた。ツキノワの方向を指し示し続ける俺へ。

「新潟県警、本部長だ」

 ヘッドホンを頭に装着。右手はツキノワの方向を示し続ける。村主は双眼鏡を握りしめて、その先を睨み続ける。

「…沢渡浩介、です」

『新潟県警本部長、真鍋だ。

 いいか、時間がない。良く聴け。ツキノワに付けられた発信器、その周波数を言え』

 偉そうな男が偉そうに命令する。

 今までヘリで飛び続けて、ようやく通信機の事を聞かれた。理由は想像が付く。情報も指揮も混乱して、垣元さんからの報告が上に届かなかったんだ。おまけに今まで高い山を越えて飛び続け、何度も通信が途絶した。

 ともかく、話をしないと。

 深呼吸してから、口を開く。

「千種、見つからないんですね」

『お前が周波数を教えないからだっ!クソガキがっ!』

 即座に怒りに震える怒鳴り声が帰ってきた。

 分かってる、そう言うに決まってる。

 そして後に続くセリフも予想通り。

『SATも陸自も、もはや新潟での展開は無理だろう。今、私の指揮下にあるのは一般の警官だけだ。船もヘリも上越とかへ出してしまった。今から方向転換させて、間に合うとは思えない。

 いいか、このまま千種が逃げ切ったら、全てお前の責任だ!貴様は警察を信頼せず、日本を弄んだんだ。

 お前もテロリストと同罪だっ!』

 そう、そう言われるのは分かってた。

 俺だってテレパシーの事を話せれば話したい。

 手段を選ばなければ…後のことを考えなければ…。

 でも、出来ない。今の俺に出来るのは、ツキノワの位置を指し示し続けること。

「僕とツキノワの事情、垣元さんから聞いたでしょう」

『所轄の下っ端なんぞ知るかっ!

 我々は千種を逃がすわけにはいかんのだっ!もう手段を選んでいられる状況じゃないのは、子供の貴様にも分かるだろうが。分かったら発信器の周波数を教えるんだっ!』

「ツキノワ、見つけました」

『なっ!?』

 いきなりのセリフ。

 口にしたのは周波数でもテレパシーでもなくツキノワの、恐らくは主犯の居場所。

 真鍋本部長が息を呑む。俺はさらにたたみかける。

「このヘリは北に飛び続けてます。ツキノワの位置情報に従って方向を修正しながら。地図上で、捉えたツキノワの方角を線で結びました」

 横にいる村主は、俺の指先が示す方角を双眼鏡で睨み続けている。そして橋本さんはヘリの現在地から、示された方角へ線を引いている。

 その線は一点で集中している…いや、僅かずつ西へ移動している。

「奴は、ツキノワを運ぶ本隊は、信濃川河口です。河口周辺数キロメートル以内を、西へ向けて移動中」

『間違い、無いんだな?』

「ええ、絶対に間違いないですよ。だって…」

 村主は、持っていた双眼鏡を俺に押しつける。

 それを覗き、精神の奥に届く光に従い、その先を見る。

 夕焼けに染まる海、その彼方に小さく見えるボートを。


「今、僕達の目の前で、ボートに乗って沖へ逃げてます」


 通信機の向こうから、もの凄い騒音が聞こえる。対して真鍋本部長の声は聞こえなくなった。通信を聞いていた新潟県警の全職員が飛び出したんだ。よく聞くと、その真鍋本部長が大声でわめき散らしているのも。

 俺はヘッドホンを外して橋本さんへ返す。そしてパイロットさんに指示を出す。

「この方角、西へ走るボートを追って下さい」

「了解!」

 威勢良く応じるパイロットさん。でも横にいる橋本さんは青ざめた。

「ま、まさか、お前…このヘリで奴らに突っ込む気か!?」

「そんな事は、しなくて良いです。約束通り、近くに行ってくれればそれでいいんです」

「ち、近くってどれくらいなんだ?言っておくが、このヘリは防弾じゃない!一発でも当たれば墜落しかねんのだぞっ!」

「分かってます。だから、銃の射程範囲外まででいいです」

「しゃ、射程って、どれくらいだってんだ…。相手が対空ミサイルでも持っていたら、助からないんだ!」

 ブツブツと呟きながら恐怖に震える橋本さん。それでもパイロットさんに「止めろ!もう帰るっ!」なんて言わない。本当にギリギリまで付き合ってくれるらしい。こう見えて腹の据わった人なのか。

 隣の村主はといえば、既に様々な装備品を引っ張り出してる。警棒・ナイフ・ヘルメットやら革手袋やら、黙々と準備している。思えば、こんな滅茶苦茶な事件にまで文句を言わず付き合ってくれるなんて。どれだけ感謝すればいいんだろう。

 無駄に出来るものは何もない。全てに報いるは今しかない。

 俺は俺が出来る全てを行う。

 本当に僅かな可能性だけど、決して不可能ではない。俺とツキノワだから出来る、最後の手段。

 心を静かに、邪念も雑念も払い、両耳を塞ぐ。

 弟へとリンクを繋げる…





   ニャーオ…





 聞こえたっ!

 聞き間違いじゃない。間違えない、間違えることはありえない。

 十年も一緒に暮らした弟の声、聞き違えるものか。

 ツキノワ、応えろ、答えるんだ!



 ニャーオッ!



 ツキノワの鳴き声が聞こえる。

 だけど、それは俺に答えてのものじゃない。俺には分かる。ツキノワは寝ている、夢を見ている。

 夢の中で鳴いて、いや泣いているんだ。



 痛い

 痛い、痛いよ

 頭が痛い。ああ、僕の頭、割れてるんだ

 狭い苦しい、浩介君が僕を抱きしめてる。動けない

 だめだ、死んじゃう。助けを呼ばないと

 声を出さないと



 それはツキノワの夢、そして俺の夢。

 俺達が見続ける悪夢。

 10年前、実の父である御厨誠一郎が俺達を沢渡家から誘拐し、事故を起こしたときの記憶。ああ、思いだした。この日、ツキノワと初めて会ったんだ。御厨は面会の時、ツキノワを連れてきたんだ。

 そしてツキノワは悪夢に苦しんでる…いや、違う。本当に狭い、苦しい。何かに押し込められてるんだ。

 くそ、ツキノワ!答えろ!

 俺だ!浩介だ!

 もう大丈夫だ、兄貴が助けに来たぞっ!



 浩介、君…?



 ツキノワの声、今度は答えた声だ。

 夢の中でツキノワは俺の顔を見上げる。

 あの時の俺は、ツキノワと同じく頭が割れて血まみれだった。でも、あの時とは違う。 俺は笑う。

 弟を優しく抱きしめる。

 この手で救い出せる。

 今の俺達なら、出来る。

 さぁ、起きろ。

 目覚めろ。

 悪夢は終わりだ。




「起きろぉっ!ツキノワあぁっっ!!」




 ヘリの中に絶叫が響く。

 そして弟の頭の中にも。

  《・・・うぅ~…ウルサイなぁ、一体なんなの?》

 寝ぼけたツキノワの声が俺の耳に届く。

 そして、視界が光に満たされる。

 今度はイメージじゃない。本当の光だ。

 ツキノワのまぶたが少し開かれ、外の光が見える…。



 夕焼け空、赤く染まった雲。

 縦に開かれた視界…鞄か何かのチャックだ。それが開けられて外が見えてる。

 揺れが凄い。波を裂いて疾走するボートの振動だ。聞こえてくるのはエンジン音、波の音、そしてローター音…俺達の乗ってるヘリの音!

 急に視界が陰った。何かが覆い被さってきた。…千種!ヒゲを剃って変装もしてるけど間違いない。やっぱり奴が主犯だったんだ。奴はツキノワへヒョイと手を伸ばす。俺とツキノワに緊張が走る。

 だが、奴の目的はツキノワじゃなかった。ツキノワを入れている鞄…違う、これヌイグルミだ、その一緒に入れられている銃を手にした。ツキノワと武器を一緒にヌイグルミの中へ詰め込んだのか。狭いわけだ。

 どうやら奴は弟が意識を取り戻したのに気付いていない。銃にマガジンを入れ、安全装置を外す。そして空へ向けて引き金を引いた。


 乾いた音が響く。


「う、撃ってきたっ!逃げろぉ!」

 その叫びに、俺の意識は自分の体へ戻った。

 橋本さんは身をかがめ、パイロットに怒鳴りつける。パイロットさんもスロットルを動かし、急激に高度を上げてボートから離れる。

「離れたらアカン!俺が行くでっ!」

 扉を開け放とうとしていた村主も怒鳴る。

「ば、バカを言わないでくれっ!もう限界だっ!」

 パイロットさんも怯えてる。当然だ。既にヘリは海の上、陸地は既に遠い。墜落すれば助からない。冬の日本海、水に触れれば心臓が止まるほど冷たい。

「大丈夫」

 落ち着いた俺の声。

 一人、落ち着き払った俺の姿。全員が俺を見つめる。

「もう大丈夫です。ヘリをボートに寄せて下さい」

「バカかお前はっ!銃を構えたテロリストに近寄れっていうのか!?」

 ツバを飛ばして怒鳴る橋本さんに、俺はニヤリと口の端をつり上げる。

「ええ、もう大丈夫です。奴は撃てません。動けません」

 その言葉に、全員がボートの方を見直した。

 そして、言葉を失った。

「言ったでしょ?一発大逆転の切り札って」


 そう、大丈夫。

 何故なら、成功したから。

 賭けに勝った。

 俺もボートの方を見る。



 千種健一は、銃を構えていた。

 揺れるボートの操縦席で、ヘリへ狙いを付けている。その照準は間違いなく機体を狙っていた。

 だが、引き金は引けなかった。

 ヘリが照準を外れ、ボートの真上に付ける。急速に高度を下げていく。それでも千種という名を騙った少佐は動かない。

 その首筋には汗が、そして左右に一筋ずつの血が流れる。



 ツキノワの大きく鋭い爪が、左右から首に食い込んでいる。

 千種の頸動脈を引きちぎる寸前で止まっていた。



 後ろから両前足で少佐の首を挟むツキノワの鼻息が、奴の髪を揺らす。生暖かい、牙を剥く獣の息がうなじにかかる。

 千種がゆっくりと銃から手を離す。ボートの中にガシャンと落ちる。ボートも急速に速度を下げていく。

 ボート直上まで降下したヘリ。扉を開け放ち、その足にとりついた俺達は、ためらいなくボートへ降り立った。そして腰のナイフを構え、狭くて揺れるボート内を慎重に動く。銃を拾って海に投げ捨てる。

 千種は首の左右にツメを食い込ませたまま、両手を上げる。

 村主は紐を取りだし、素早く奴を後ろ手に縛り上げた。

 その間も俺とツキノワは千種の動きから目を離さない。ナイフとツメを千種へ突きつけ続ける。


 俺とツキノワの、唯一にして最後の手段。

 それは、『ツキノワを起こす』、ただそれだけのこと。

 ツキノワが意識を取り戻しさえすれば、逃げることは難しくない。なにしろ奴らはツキノワを傷つけるわけにはいかないのだから。逃げるネコを人間の足で追えはしない。

 だが、それは賭。

 ツキノワに逃げられては困るんだから、強力な薬で眠らせたり動けないくらい縛られてたり、檻に入れられていたりも考えられた。

 だからこそ、賭。分の悪い賭け。

 反撃なんか考えられやしない。

 しかし、成功した。反撃にすら成功した。

 俺達は、やったんだ!


  《やったね、お兄ちゃんっ!》

「ぉおおあぁあああっっっ!!」


 力の限りに叫んだ。

 両拳が天を突く。

 夕暮れの街に俺の、いや、俺と村主の雄叫びが上がる。

  ニャアーッ!

 ツキノワも吠えた。

 俺達の耳には勝利の咆哮。夕焼けに赤く輝く波の音。冬の空気を切り裂くローター音。そして微かな金属音。





 微かな、金属音?





 俺の目が向くより早く、ツキノワの耳が動く。

 遠くから波の音に混じって聞こえる怒鳴り声。

 そして、チャキッという音。

「伏せろぉっ!!!」

 叫ぶと同時に村主を引きずり倒す。ツキノワも身を伏せる。


 刹那、炸裂音が連続する。


「な、なんやあっ!?」

 俺達の体の上を何かが高速で通過した。確かめるまでもない、銃弾だ。海の上でいきなり銃撃されたんだ。

 だけど、どこからだ?俺達はヘリから海を見ていた。このボート以外に海上には何もいなかった。空だって同じ。

 銃撃が止んだ。だけど状況を確かめられない。間違いなく頭を出した瞬間に狙われる。

 ツキノワが僅かに頭を上げる。ネコの頭なら狙えないほど僅かに出すだけで済む。ボートを揺らす波の向こうを見つめる…盛り上がっては崩れる波の合間、僅かに見えるものが目に映った。


 海上に男がいた。

 揺れる海面で銃を構え、弾倉を交換している男の上半身が、海面から直接飛び出している…違う、潜水艦だ。浮上した小型潜水艦のハッチから体を出して、こちらを狙ってる!

 ツキノワの体を抱き込み、体を丸める。直後に再び炸裂音が鳴り響く。

 ガガッ、という音が起きる。今度はボートの船体に当たったらしい。

 俺も村主も、千草も伏せたまま動けない。くそ、うかつだった。モーターボートで日本海を渡るはずがない。そのための船を他に用意しているのは当然だ。そして、どうやら千種も殺す気だ。

 口封じだ。全てを闇に葬る気だ。

 再び銃撃が止む。その隙に空を見上げる。俺達を降ろしたヘリは…撃たれた!機体に穴が空いて、大慌てで離れていく。

 なんだ、足下が冷たい、水がボートに!?しまった、銃撃で空いた穴から水が!船ごと沈める気だ!じょ、冗談じゃない、冬の海じゃ、絶対に助からない!

「お、おい!千種ぁっ!」

 村主が隣で伏せる千種に怒鳴る。

「お、お前らの仲間やろがっ!銃撃を止めさせぇっ!」

「無理だ。任務に失敗し、自決もしなかった。機密保持のために皆殺しだ」

 当たり前のように、とんでもないことを答えてくれる。

「あ、アホンダラぁっ!それでええんか!?」

 冷徹に事実を語った千種。だが、その顔に絶望はない。

 いや、笑ってる。

 任務に失敗し、殺されそうになってる今、口の端をつり上げて、笑ってる!?

「それでいい」

 想像もつかない言葉。

 俺も村主もツキノワも、銃撃されている真っ最中なのに、呆然とした。

「任務失敗により抹殺…そう、それでいいんだ。

 成功だ、はは、やった、やったぞ。は、はははははっ!これで、これで望みが、俺達の願いが叶うんだっ!」

 千種は笑う。

 狂ったように、笑い続ける。

 いや、狂っているとしか思えない。任務に失敗し、全てを失い、口封じに殺されるという、この時に、笑えるなんて、理解できない。

 銃撃音が止んだ。

 大気に静寂が戻る。

 今の内にモーターボートを動かして逃げようと…どうやって運転するんだ?と考えてたら、再び銃撃音。また全員が頭を下げる。

  ガッ「ぐはっ!」

 村主の悲鳴。見ると、防弾チョッキに穴が開いてる!?ボートを貫通した弾丸が脇腹に当たったんだ!

「だ、大丈夫か!?」

「う、うお、だ、大丈夫や。下が防刃学生服やなかったら、貫通してたで」

 村主も俺と同じ防護服だった。防刃と防弾は違うらしいけど、頑丈な布には違いない。助かった。

  ガツン「ごあっ!?」

 こ、今度はおれの背中だ!ハンマーで殴られたみたいな、もの凄い衝撃だった。

  《大丈夫、貫通はしてないよ!そのまま伏せてて!》

 といってる間にも、次は俺の頭に衝撃が来た。ヘルメットを弾丸がかすめたらしい。

「くぅあっ!つ、ツキノワも、絶対動くなよ!」

 つってもどうすりゃいいんだ!?このままじゃ海に沈むか、穴だらけにされるか。

 ボートを動かして逃げ…くそ!穴が空きすぎだ、水がどんどん入ってくる。もう船が保たない!

 また銃撃が止む。

 だが、それは次の攻撃のための準備時間でしかない。耳を澄ませば、奴らが次の弾倉を装填して、こちらを狙う音が…?


 違う、他の音が響いてくる。

 そして、慌てふためく男達の声も聞こえる。

 加えて、甲高い音。

 高速で接近する、まるでジェット機のような、いや違う、これは間違いなくジェット機だ。ジェット機の轟音が、空の彼方から、こちらへ近づいてくる。


 俺は空を見上げる。

 村主も、ツキノワも、千種も赤い空を見上げる。


 戦闘機が飛んでいた。

 西の空からこっちへ向けて急降下してる。


 そのシルエットは、兵器マニアでも何でもない俺にだって分かる。機体に日の丸を描いたF-15イーグル。2機が急降下してきている。

 頭を上げて潜水艦の方を見れば、慌ててハッチを閉めている。潜航して逃げる気か。

「やった、やった…助けだ、助かったぁ!」

  《やったよ、とうとう助かったんだぁ!》

「やったでぇっ!おれら、勝ったんじゃぁ!」

 今度こそ本当に勝利の雄叫びを上げる。

 F-15の機銃が火を噴き、潜水艦周囲の水面に水柱が上がる。当たったかどうかは見えないけど、潜水艦は逃げるのを止めない。慌てて航行し始めた。

 だが、出来なかった。

 小型潜水艦が逃げようとした先で、大きく水面が盛り上がる。小型潜水艦が波にもまれて流される。

 巨大な、黒い塊が水中から飛び出した。潜水艦だ、巨大な潜水艦が緊急浮上して奴らの進路を妨害したんだ。海を割り、起こした波は俺達のボートも大きく揺らす。

 さらにローター音も聞こえる。その方向を見れば、ナスレのヘリがこちらへ降下してきている。戻ってきてくれたんだ、操縦席ではパイロットさんと橋本さんが手を振ってくれている。

 いきなり、爆発音が響いた。

 真っ赤に染まった海と空、沈みゆく赤い夕日。同じ赤なのに、それとは全く違う赤が海面に生まれた。

 小型潜水艦が炎を上げ、黒煙を吐く。

「自爆…や。アホ共が」

 村主が吐き捨てる。


 上空を航空自衛隊の戦闘機が編隊を組み、空を横断する。

 ナスレのヘリは俺達の真上を旋回してる。

 潜水艦からは兵士達が飛び出し、一気に膨らませた救命ボートに飛び乗る。外人だ、白人や黒人が、こっちへ手を振ってる。米軍の潜水艦だったんだ。

 東の方、陸地の方を見ると、沢山の船がこちらへ向かって来てる。船首には警察官達が見える。新潟県警と、警察に協力してくれた新潟の漁船だ。

 みんな、助けに来てくれたんだ。


 もうすぐ夜になる、赤い新潟の海。

 救助と援軍に来てくれた多くの人達が、沈みかけのモーターボートを囲んでいる。

 足を冷たい海水に浸した俺達の雄叫びが海に溶け、消えていった。

 そして、千種の笑い声も。





『亡命、だと言うんですか?』

『ええ。これは、日本に潜入した工作員達による、集団亡命劇だったと見ています。ツキノワ誘拐は、亡命を成功させるための演技だったんですよ』

 TV画面の中、スーツ姿の気品と知性溢れる男女が並んで立っている。

 その中の一人、司会者が口を開く。

『三島先生、どういう事でしょうか?詳しく説明して下さい』

『分かりました。それでは、こちらをご覧下さい』

 そういって三島と呼ばれた男は左へ歩いていく。そこには大きな掲示板があり、世界地図やら図式やらが大量に並んでいる。

『ご存じの通り、一ヶ月前のツキノワ強奪作戦は失敗しました。ですが、最初から失敗させることが前提としか思えない点が多々あるのです。

 こちらに箇条書きをしてみました。ご覧下さい』

 掲示板の端には幾つもの文章。それを上から順に読み上げて解説していく。

『まず第一に、死者がゼロ、という点です。

 自爆した潜水艇の工作員は、機密保持のための自殺ですので数に入りません。ですが名香野市へ侵攻した特殊部隊は、明らかに故意に人を狙わなかったのです。こんな事、軍事作戦では有り得ません。

 軍人が作戦行動中に人を殺すなと言われたら、軍事行動が出来ないです。大幅に成功率が下がります。つまり彼らは任務を失敗させてでも人を殺すわけにはいかなかったんですね。亡命申請時、政府の心証を良くするために』

 一息つき、水を飲んでから、三島先生の話は続く。

『次に、時期が冬という点。

 強奪作戦時、たまたま天候は晴れで視界も良く、高速道路のバイクでの走行も問題ありませんでした。でも、雪が降ったらどうするんです?日本海の天候が荒れたら?こんな大部隊が、晴れるまで敵国領内で待ち続けると?

 奴らの作戦が成功寸前まで行ったのは、全くの偶然に過ぎないのです』

 他の出演者から異議が上がる。天候が良かったから実行したんだ、天気予報はチェックしてたでしょう、とか。

 司会者は外野からの批判を控えるよう注意し、さらに話を促す。

『また、作戦内容自体が強引すぎます。

 他国内で堂々と軍事行動をとり、戦闘状態に入る…。いくら奴らが世界情勢に疎いとかを考慮しても、有り得ません。果たして本当に、ここまでやれと命令されていたんでしょうか?

 つまり、日本に潜入していた千種健一と部下達による、暴走ではなかったのかと見て取れます』

 そして三島先生は、最後の文章をバシッと平手で叩いた。

『そして、ここも気になります。奴らの潜水艇が、米軍のロサンゼルス級原子力潜水艦によって追尾されていた。さらに逃走進路を塞がれた、ということです。

 つまり、もともとツキノワの国外持ち出しが不可能な状態にあったんです。奴らの作戦失敗は最初から決まっていたのです』

 周囲の反応を見るように、三島先生は出演者達を見渡す。だが誰も口を開かない。彼は満足したように話を続けた。

『アメリカ政府の発表は、潜水艇を発見した原潜が追尾を開始したため、とのことです。ツキノワ奪還に来たヘリへの銃撃を見て、緊急避難的に阻止行動をとった、と。

 でも、考えてみて下さい。

 何故に彼らは、あんな小型の潜水艇を発見できたのか、。どうしてその場で警告なりを発せず、日本領海内まで追尾を続けたのか。本当に米軍は、そしてアメリカ政府は事実を知らなかったのか…。

 これは、千種健一から情報をリークされていたからじゃないでしょうか?』

 とたんに、そりゃー考えすぎでしょう、隠密行動が潜水艦の基本行動です、いくらなんでも出来すぎですよ、なんて反論が飛び出す。同時に、もしそうならアメリカはツキノワを横取りする気だったのか、日本政府に恩を売って大統領の得点にしたかったのかも、そんな意見が飛び交う。

 司会者は皆に一旦静かにするよう声をかける。だけどスタジオはなかなか静まらない。司会者は騒がしい出演者達を置いといて、話を続けてもらうことにした。

『最後に、最も重要なポイント。それは…多くの工作員が、自決せずに、投降したという事です!

 こんな事は考えられません。事実、1980年代に起きた航空機爆破事件では、逮捕された実行犯は全員自殺を図り、一人を残して死亡しています。ですが今回は、実行犯の大半が白旗を揚げたんですよ?

 ここまでくれば、もう最初から亡命するつもりだったと言った方が早いでしょう』

 その話の途中から、既にスタジオは騒然としている。これでは亡命どころか戦争を誘発してしまう、彼らは故国に家族という名の人質を取られているのに、もはや奴らの統制も士気も地に落ちた結果に過ぎないですよ、など。

 司会者は、とりあえずCMに行くことにした。



「良いTVですね」

「最新型プラズマです。40インチで小さいなら言って下さい。もっと大きいのに変えますよ」

「いえ、これで十分です」

「そうですか。それで…えと、今はなんと呼べばいいでしょうか?」

「千種健一。それが日本での名でしたし、一番気に入ってますから」

 任務のために与えられた偽名。それを彼、千種健一は名乗ることにした。

 そこは広くて立派な部屋。見るからに高価な調度品と家電も並んでいる。窓から見えるのは背の高い木々。二階窓からの風景は、どこまでも続く森林。遙か向こうには綺麗な湖が見える。

「それにしても、本当に素敵な家ですね。私が使って良いのですか?」

 黒スーツ姿で耳にイヤホンを付けた男が答える。

「大使クラスの国賓を極秘裏にお迎えするための宿です。警備も機密保持も万全なので、ご安心を」

「助かります」

 千種は室内を歩き回り、部屋の構造や扉の位置、クローゼットの中などを確かめる。一通り確認を終えて、最後に冷蔵庫の中身を確かめる。その中にはジュースやビール、おつまみ等が入っていた。

 彼はビールに目をとめ、ちょっと後ろを振り返る。黒スーツは少し笑い、ソファーの方を指し示した。

「ビールは久しぶりです。取調中は店屋物ばかりで、カツ丼も飽き飽きですよ」

「取り調べって、本当にカツ丼を出したんですか」

「刑事物の撮影ではしょっちゅうやってましたから、試しに言ってみたら、本当に毎回カツ丼を持ってきてくれました」

 クスリと笑う二人。

 千種はビール数本とおつまみを持って、大きくてフカフカのソファーに座る。警備の男は、その横に歩いてきた。

「さて…今後の予定を確認しましょうか。

 あなたはニューヨークの国連総会に証人として呼ばれるまで、ここに身を隠して頂きます。先日提出された亡命申請についてのアメリカからの返答も、渡米した後に何かあるでしょう。

 まぁ、あなたの協力次第ですね。各国政府はあなたが作戦時に不殺を強く命じた点を評価しています。日本に展開していた諜報網も壊滅できました。個人的には亡命受理は固いと見てますよ。

 ふふ…全てあなたの計画通り、ですか?」

 千種はグィッとビールを一気飲み。ぷはぁ~…とアルコール臭い息を吐く。もう一本のビールを黒スーツに差し出すが、「職務中ですので」と断られた。

 柔らかい皮のソファーに身を預け、ゆっくりと答える。

「そんな大層なものじゃないですよ。別に、成功しても失敗してもよかったんです。どちらにしても、望みを叶えるつもりでしたから」

「あなたの望み、ね…。

 やれやれ、付き合わされた部下達が怒ってましたよ。捕虜返還交渉を待てばいい、と言われたから命令通り暴れて降伏したのに、本国は知らんぷり。俺達はいなかったことにされた、と。

 一体、彼らをどうするつもりだったんです?可愛そうに」

 その質問に、千種はフンッと下らなそうに鼻で笑った。

「変な話です。本国には、この程度の作戦の真意を見抜けないマヌケを派遣して貰った覚えはないですよ。

 てっきり、彼らも亡命申請する気だと思ってたんですが、ね」

 そして、意地悪く口の端を歪ませた。黒スーツもクック…と声を殺して笑う。

 警備の男が続けて質問しようとしたが、千種が先に口を開いた。

「取り調べでも言いましたが、これ以上の証言と協力には、私のお願いをきいてもらわないと、ね」

「あなたの願い。今回の作戦の、真の目的。もちろん承知しています。…ああ、来たようですね」

 黒スーツの男が窓の外を見る。千種もソファー越しに振り返る。

 窓の外、家の前の道路を三台の黒いリムジンが走っていた。それらは家の前に停まり、それぞれのドアから黒スーツの男達を吐き出す。

 男達は油断無く周囲へ目を配る。その警備の中、最後に真ん中のリムジンから一人の女性が出てきた。赤いドレスにみを包んだ、長い黒髪の美女だ。彼女は早足で家の中へと駆けてくる。

 千種はソファーから跳ね起き、慌ててドアへ行こうとして警備の男に止められた。そして彼が飛び出すまでもなく、ハイヒールが駆けてくる音が近づいてくる。

 ドアが勢いよく風を起こした。

『少佐っ!』

 そこにいたのは、彼が待ち焦がれた女性。彼の秘書であり、腹心の部下。赤いドレスを涙で濡らし、震える足で彼に歩み寄る。

『ジア…』

 千種は、女をジアと呼んだ。

 嬉しさのあまり、目に涙が浮かぶ。

 そして、多くの黒スーツ達が周囲にいるのも構わず、熱く抱きしめて口づけを交わす。周りの人々は空気を読んで、周囲を警戒する風を装って目を逸らしたり通信機で交信を交わしたり。

 空気を読むにも限度はある。

 黒スーツの一人、千種を部屋に案内した男が、わざとらしく咳払いをする。愛し合う二人も、ようやく我に返った。慌てて離れ、服装を整える。

 そして千種は深々と礼をした。

「ありがとうございました」

 黒スーツは恐縮して、頭を上げて下さいとお願いする。

「私はただの警備主任です。礼は日本政府とアメリカ政府へ言って下さい。そして、沢渡浩介とツキノワを初めとした、日本国民へ…ね」

「ええ、分かっています。

 私たちが一緒に亡命する…その願いを叶えるために、大変な迷惑をかけたこと、深くお詫びします」

 そういって、今度はジアと二人で深く礼をする。他の黒スーツ達も一緒になって頭を上げて下さいと言っても、なかなか頭を戻そうとしない。

 ようやく頭を戻してから、警備主任は肩をすくめて話し出した。

「まったく、本当に大迷惑でしたよ。亡命するだけなら、ただ大使館に駆け込めばいいだけじゃないですか。何故こんな大事件を引き起こす必要があったんです?」

 嬉しさのあまり泣き出して嗚咽するジアの肩を抱きながら、千種は答えた。

「それじゃダメなんです。

 私は一般市民ではありません。諜報機関の幹部なんです。亡命した後は、暗殺者に怯えねばなりません。いえ、そもそも亡命申請が通らず本国へ身柄を返還される可能性もありました。

 だから今回の任務を利用したのです。

 本国は、もはや私達が存在したこと自体を認めることが出来ません。認めれば、我が国の軍が日本へ侵攻したという事実も認めることになります。数少ない同盟国にすら見捨てられ、米軍を初めとした各国が報復、国土を蹂躙します。

 だから故国は私達を絶対に受け入れません。無視を決め込むでしょう。これで私達は安全に亡命できます」

 警備主任だけでなく、他の警備スタッフも困った顔だ。彼らの意見を代表するかのように、警備主任は話を続ける。

「おまけに、これだけの大事件を起こせば世界の注目を集める。各国政府はあなた達を秘密裏に処理することも出来なくなる。政治的利用価値は高く、今後も外交カードとして地位は安泰、と。

 でも、故郷に残した家族はどうします?危険なのでは?」

 その質問に答えたのは、ようやく嗚咽が止まり涙を拭いたジア。

「わ、私達は、結婚を反対されていました。身分違いだ、彼の立場を考えろ、と。既に勘当同然になっていたんです。

 それでも、家族には大きな不利はないハズです。だって、敵国でこれだけの軍事作戦を実行し、成功寸前までいった、英雄的行動ですから。秘密裏に亡命が出来れば、私達の真の目的が表に出なければ、むしろ故国に残った家族の地位はあがるでしょう。

 そこまでいかなくても、少なくとも『最初から居なかった』と言い張るでしょうから、不利益も与えられません。いないはずの人間は、任務失敗も亡命も出来ませんから」

「身分違いの恋物語、世界を揺るがす愛の逃避行…ですか。やれやれ、マスコミが飛びつきそうな美談です」

 呆れたように言う警備主任だが、その皮肉がこもった言葉とは裏腹に顔は笑っていた。

 対する千種は恥ずかしげに頭をかく。

「全く、お恥ずかしい限りです。

 ですが、これで私達の願いは大半が叶いました。今後は無事に亡命出来るよう、積極的に証言をするとします」

「それは助かります。

 では、早速ですが本日の予定です。アメリカ大使館から亡命申請手続きのために何人かやってくるそうです」

「承知しました。アメリカへの移送まで、まだまだ話すことは沢山ありますよ。私の家族に起きた災難、苦渋の日々…語り尽くせるかどうか」

「まぁまぁ、そういう積もる話は後でゆっくりと。今は、お二人の再会を、二人だけで喜んで下さい」

 そういって警備主任は部下達を引き連れて部屋を出た。

 彼は部屋を出るとき、室内を確認しなかった。確認するまでもなく、熱い口づけを交わす音が聞こえていたから。

 TVの音をBGMに、室内は熱く愛し合う男女の吐息が響く。TVから流れてくるのは色気のない国会中継。ツキノワに人権を認め、日本国民と同等の権利を与える、通称『ツキノワ法』が賛成多数で可決する様子の中継だった。



 同時刻、同じTVを見ている人とネコがいた。そのネコは白いタキシードを着ている。

「やったな、ツキノワ」

  《うん。これでもう、強盗とかに襲われずに済みそうだね》

 スーツ姿であぐらをかく浩介の言葉に、膝の上のツキノワはニャンと鳴く。

 そこは楽屋。普段はタレントやらTVの出番待ちな人達がいる部屋。今は浩介とツキノワしかいない。だが部屋の外には多くの警備員が立っている。油断無く視線を周囲へ、通信機からの指令に耳を傾けるのは、いずれも見事な体格を誇る男達だ。

 彼らが毛嫌いしていたはずのマスコミ。その出演を待つ間、楽屋でノンビリTVを見ていた。ツキノワのタキシードは、さすがに裸で出演は…でもネコはもともと体毛を着ているようなものだし…と家族で悩んだ末の結論。特注で作られた、白の猫用タキシード上下にベスト、三点セットだ。

 国会中継が終わり、CMが入る。


『…この事件の間、彼らの命を守り続けたのは、MORITAの誇る技術が生み出した特殊防護服だった。

 こんな時代だから、確かな技術を』


 最後にMORITAのロゴが入る。製品じゃなくて企業のCMだった。俺と村主が着ていた防刃学生服が大写しになってる。

 その後もいくつかのCMが続く。

『ツキノワの知恵と力を支えるは、ナスレのキャットフード』

『テロリストに立ち向かう勇気が家庭を守る、来須川警備保障』

『ツキノワも大好き、魚を食べよう!日本漁業協会』

 ETC...

 以前、俺達の映像を使用する事に関して、一切の権利を放棄すると明言した。おかげでCMがツキノワだらけ。

 CMが終わり、ニュースが始まる。この一ヶ月の国際情勢を総まとめしてる。


 あの国は事件との関連を完全に否定。そんな連中は知らぬ存ぜぬとシラを切ってる。

 日本もアメリカも、ロシアもEUも、全ての国が一斉に非難声明を発表。あの国と同盟関係にあった国まで一緒になってる。まぁ、そんな発表をするまでもなく、最初からあの国は実質的に孤立してるけど。

 次の国連総会で査察団が組織される予定。もしこれを拒絶すれば、国連軍が組織される可能性もある。だが現在の国際情勢下で、即座に軍事行動が取られる可能性は低い。アメリカは中東での軍事行動で手一杯、ということもある。でも一番の理由は、あの国を本当に潰すと、その後、周辺国に流れ込む数百万の難民、あふれ出す麻薬・武器が怖いからだそうだ。

「あ、村主だ」

  《本当だ!うわ、かっこいいなぁ》

 ニュースの内容は切り替わり、今度は村主の記者会見。最近有名になった高校生格闘技選手権に出場が決定した、というもの。その話題性は高く、記者達の数が凄い。村主はカメラのフラッシュで眩しそうに目を細め…うーん、やっぱり、イヤますます怖い顔。


「あいつなら、優勝できるかな」

  《実戦経験が違いすぎじゃない?対戦相手が気の毒かも》

 俺もツキノワもTVにかじりつく。でも、ツキノワの耳はTV以外の音も拾い続けている。

「カギは開いてるけど、ノックしろよ」

 とたんに扉の向こうから、ノックする前に言わないでよ!という紗理奈の甲高い声が飛んできた。

 カチャッと扉を開けたのは、紺色のスーツで決めた紗理奈。

「そろそろ出番よ。スタジオで父さんも母さんも待ってるわ。気合い入れなさい」

「へーい」

 よっこらせと立ち上がる。ダラダラした俺を見て溜め息をついた妹は、俺のネクタイを直す。

「まったく、兄貴はだらしないんだから…。今日はこれから五件も取材とTV出演が入ってるんだからね。今からそんなんじゃ、先が思いやられるわ」

「おいおい、今から気合い入れてたら、明日からのCM撮影なんか保たないぜ」

「兄貴は気合いが抜けすぎなのよ!そんなんでドラマや映画にまで出るなんて、もう、恥ずかしくてしょうがないわ」

 溜め息混じりに愚痴る妹。その足下ではツキノワまで一緒になって溜め息をつく。

 あれだけの大活躍をしたのに、いまだに長男としての威厳は無いらしい。

 納得できない。


 ツキノワ法制定と共に、俺達は社会に出ることにした。

 もう山に隠れる生活は終わりだ。前の事件でトンデモナイ迷惑をかけ、そしてそれでも助けてくれた警察・自衛隊・日本政府・世界の全ての人々への恩返しもある。

 これからは、しっかり働くとしよう。仕事も勉強もトレーニングも、やることは山ほどある。

 まぁ、もちろん俺達のテレパシー能力は秘密にしないと、な。これだけは隠し通さないと。


  《そうだね。それじゃ、まずは行くとしようよ》

「おうさっ!」

 気合いを入れて歩き出す。

 けど、一つ思いだしてドアに手をかけようとしていた妹に声をかけた。

「なぁ、思いだしたんだけど」

「なぁに?」

 妹は振り返り、俺を見上げる。

「俺がバイクでツキノワを取り戻しに行く前、何か言おうとしてたろ?」

「え?あ、ああ、うん。そういえばそうだったわね」

「あれ、何を言おうとしてたんだ?」

「うーん、まぁ大したことじゃないんだけど…知りたいの?」

「んー、別に後でも良いけどな」

 紗理奈は長い髪を揺らし、ちょっと首を傾げて考える。

 そして、俺のネクタイをグイッと引っ張った。

「ま、いいでしょ。それじゃ耳貸して」

「く、首が締まるからヤメ」

 抗議しながら身をかがめて耳を寄せる。


  チュッ


 いきなり、頬にキスされた。

「兄貴、好き…大好き!」

 耳に聞いたこともない言葉が飛び込んだ。

 茫然自失する俺。ツキノワもあんぐりと口を開けて見上げてる。

  ボカッ

 最後に、頭を殴られた。

「オラオラ、何を呆けてるのよ!ツキノワも、さっさとスタジオ行くわよ!」

 妹は意識が消えかけた俺の手を引っ張って部屋を飛び出す。目が点になっていたツキノワも、慌てて追いかける。


 警備の人達が固める廊下を走り、俺達はスタジオへ飛び出す。

 両親が待ち、大歓声が迎える、スポットライトで輝く舞台へと。

 光の中へ。



   ツキノワ  終



まだまだ語り尽くせないところもありますが

とりあえずツキノワはここで終了です

本当に読んで下さってありがとうございました

そして、お疲れ様でした

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