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ツキノワ  作者: デブ猫
6/8

6 空と海と黒猫と ②RUN!

 ノートPCにTVの特番が映る。それは記者会見場で、明石社長以下重役達がマスコミ向けの発表をしていた。

「そうじゃ、千種君のところは、安くても良い仕事をしてくれてたんじゃ。あそこのスタントやモデルはレベルが高くて、きつい仕事もイヤな顔をせず引き受けてくれる。会社が傾いてたときは、本当に重宝した。その礼もあって、クリスマスパーティに招待状を送ったんじゃ。

 それが、まさか、こんな…信じられん。一体、どういうことなんじゃ?なんで芸能プロダクションがツキノワを狙うんじゃ?それも、自分の会社を潰すほど欲しかったというのか?」

 沢山のマイクを向けられる明石社長は、さっきから顔色が赤くなったり青くなったり忙しい。取材しているレポーター達は必死でなだめてるけど、とても興奮は収まりそうにない。

 もう世間は上へ下への大騒ぎだ。冬の寒さが身にしみる年の瀬だっていうのに、寒さをものともしない熱さが渦巻いてる。

「このレベルはレッドビーズ以来だな」

  《いや~、アレを超えたよ。さすがにあれだけの大人数、しかも特殊部隊並みの人達が来るなんて。凄いねぇ》

 机の上に置かれるノートPCの横で画面を見るツキノワも、呆れるやら驚くやら。





ツキノワ 6

            空と海と黒猫と ②RUN!





 カーテンがひかれた窓、その隙間からちょっとだけ外をのぞく。山の裾に建っている俺の家、その二階にある部屋からは街が見下ろせる。俺の家の前の道路も。マスコミの中継車とかがずらりと並び、寒さに白い息を吐くレポーターやカメラマンが占拠してる。警察車両が警備と交通整理をしてる。

 道の反対側歩道には野次馬に加え、デモ隊だかなんだか分からない連中。チャンネルを変えると我が家の生中継、周囲の市民団体だか政治団体だかを撮影している局があった。その垂れ幕や横断幕を見ると、内容は様々だ。

『ツキノワを守れ』『危険な生物兵器を野放しにするな』『警察は速やかな解決を』『がんばれツキノワちゃん』『安全と静けさを返して』『沢渡家は出て行け』『罪のない動物への迫害を許すな』『お返事下さい、090-449…』『我が社なら安全を確保してのデビューを約束致します』『民自党は皆様に安心をお届けします』『環境破壊は人類の自殺』etc...

 後の方は、かなり無関係だ。単なる便乗の宣伝らしい。

 北側、山の方を見てみれば、森の中に沢山の人影が見える。チカチカと光も反射している。カメラマン達が山から撮影してるらしい。これじゃ今までみたいに山へ行くのも簡単じゃない。広大な五月山でツキノワを追跡できるヤツは少ないだろうが、大勢に四六時中追いかけ回されたらスタミナが保たない。

 そんなわけで、俺たちは昨夜からずっと家を出れない。全くなぁ、夏休みが入院でパーになったのに続いて、冬休みがナスレの事件でパー。ずっと部屋のPCで情報収集に勤しんでる。

 別のチャンネルを見ると、千種プロダクションや社長宅への強制捜査が生中継中だ。沢山の刑事や警官が続々と乗り込んでいく。その様子をスタジオで見ているキャスターが、何か大層な肩書きが付いた評論家達に千種健一社長と千種プロダクションの説明をしている。


 千種健一。45歳、独身。

 日本人女性と韓国人男性のハーフ、日本国籍。貿易会社に勤める両親に連れられ、幼い頃から日本・韓国・アメリカ等をまわっていた。

 三十台半ばで千種プロダクションを起業。ハングル語・英語に堪能な事もあり、多数の外国人モデルが所属する。韓流ブームにも乗って業績は右肩上がりを続けていた。独特の育成プログラムを組み、優秀なスタントマンやアクションに長けたタレントを多数排出している。

 独特なプログラム…即ち、軍事教練。おかげで刑事ドラマやアクション映画では千種プロダクション所属のタレントが頻繁に見られる。


 批評家だか評論家だかが、口々に意見を並べる。

『つまり、パーティに出席してたのは、その軍事教練を受けた芸人達ということです…表向きは』

『しかし、実際は芸人のフリをしたスパイ達、特殊部隊隊員なワケですか。なるほど、アクションやスタントをやる人達なら定期的に軍事訓練を受けていても、さほど不思議に思われません』

『で、その隊員達の正体は?』

 モニターを棒で指し示しながら説明していたキャスターが振り返る。

『警察は現在調査中との事です。ですが外国人も多いため、調査には時間がかかるでしょうね。ただ、所属の芸人には韓国や中国の出身者が多いとの事です』

 その国名を聴いたとき、更に声高に議論が巻き起こる。

『ならどちらかのマフィア、もしかしたら両国政府が何らかの関与をしてると疑うべきでしょう』

『待って下さい。どちらの国も『ツキノワゲノムプロジェクト』に参加していますよ。なぜこんな強硬手段を採る必要が?

 やはりマフィアの線が濃いと思いますね』

『目撃者の証言から、単なるチンピラとは思えぬ訓練を受けていたことは確かです。なんらかの軍事組織出身と考えるのが自然ですよ。

 ツキノワ研究で日本が独走するのを防ぎ、自国がバイオ分野で優位に立つために…と考えるのは不自然では無いでしょう』

『それを言うならアメリカも怪しい。あの国こそ唯一の超大国たる地位を守るために暴走するのは不思議じゃない。しかも今は大不況で、新しい大統領は苦境に立たされてる。無茶な賭けに出たのかも』

『それは変です。どこの国であろうと、日本に芸能プロダクションを偽装してスパイ組織を置き、特殊部隊を常時駐留させている必要がないんです。アメリカなら、堂々と在日米軍の一員として基地にいることが出来るんです』

『でも、いたじゃないですか、実際。ツキノワと無関係に、ツキノワの存在が明らかになる遙か以前から。まったく、嘆かわしい。日本の治安維持レベルが低いからこんなことになるんだ』

『そこがおかしいんです!どう考えても、どこであっても、こんな苦労して構築した組織をパーにしてまで、ツキノワを手に入れる必要が無いんです!研究に参加すれば良いんですから。マフィアにしても、ツキノワは有名すぎて闇取引のしようがないんです』

『だから、そこが間違いなんです!ツキノワは諜報機関やマフィアの支部組織を、一つ使い捨てにするほどの価値があると認められてるんですよ!』

『バカな!あんな強引で無茶苦茶な手段を採るなんて、まともな人間のやることじゃ』

『そもそも日本政府の危機管理能力がダメだから…』

 彼らの討論は、いつまで経っても終わる様子はない。当然だ、まだ何も分かっていないのだから。


 ニュースサイトに移動して、新しい情報は無いかと探してみる。

『逃亡したボーイは依然行方不明。千種社長と共に逃亡したと見られ…』

『偽看護師も、ボディチェックのため女子社員のみが対応している時を狙い逃亡。ナスレには警察の到着を待たず先走った責任を問…』

『各国政府は日本政府への捜査協力を惜しまないと発表…』

『千種プロダクションは高級売春クラブだとの噂が絶えず、一部には麻薬取引への関与も疑われ…』

『警察の緊急配備にも関わらず一味は逃亡を続け…』

 犯人逮捕を伝えるニュースはない。犯行は、ツキノワの鼻を甘く見たという以外は見事な手際と言えるだろう。これほどの実力を持った組織となると、逮捕はなかなか難しいかもしれない。


 少し気になって、巨大掲示板サイトにもいってみる。

 日本で一番有名と言われる掲示板サイトの時事ネタコーナーへ行ってみれば、あるわあるわ、昨日の事件をタイトルにしたスレッドが上位を占めてる。内容は、まぁ、タイトルを見れば分かる。

『汎用猫型決戦兵器vs特殊部隊』『人類の時代は終わった』『ツキノワは人類の敵』『猫萌えは今こそ立ち上がれ』『犬派負けるな!』『日本はスパイ天国過ぎワロタ』『可愛そうな被害者ぶって私腹を肥やす沢渡家を始末すべき』『日本\(^o^)/オワタ』『日本の国家機密に群がる外国人共を排除せよ』『ツキノワ奮闘記221、一難去ってまた一難!』『検証:結局犯人は何者なんだ?』etc...

 まー、想像通りっちゃ想像通り。

  《誰が決戦兵器だー、誰がー》

 内容も一応は見てみる。だが大半は落書きでしかない。とっても感情的で、面白おかしい誹謗中傷だらけ。誰が書いたか分からないのを良いことに、いい加減な噂話と終わり無き罵り合いばかり。

  《そういえば、朱美ちゃんがいってたね。掲示板の書き込みなんて情報源としては役に立たないって》

「ああ、全くだぜ」

 次々と沸いてくるスレッドを見ると、思わず二人して溜め息が漏れてしまう。学校裏サイトでつるし上げられるのは、こんな気分か。匿名なのを良いことに、誰も彼もが表じゃ言えないことを吐きだしてる。ま、おかげで生の世論を見るには最高なんだけどな。

 そういえば、ウチの学校にも学校裏サイトみたいなのがあったはず。篠山や尾野が詳しいハズだけど、教えてくれなかった。教えてくれなくても内容は予想が付くけどな。今、目の前に広がるのは学校裏サイトの大型版みたいなもんだ。いや、言うなれば『日本裏サイト』だな。


 だが、そんなスレッドの中でも気になるものはあった。今回の犯人を予想するスレッドだ。

 スレッドを開けてみる。中に並ぶのは、確かに悪口・誹謗中傷・ちょっと電波な妄想もある。だが、たまに本題からずれたりしながらも、着実に推理が進んでいる。このスレッドを覗く何千何万の人々が意見を出し合っているし、その発言にはタブーがない。おかげで言いたいことを自由に言える。

  《三人寄れば文殊の知恵。じゃ、三万人が寄ったら?》

 それは、多分いわゆるスーパーコンピューターを上回る。

 そして推理は既に相当進んでいた。事件の報道から予想される犯人の人数、それを維持するための資金、人員の育成、動機、実行者の利益不利益、etc…、以上から予想される犯人像。それはほんの数個まで絞られていた。そして予想の中でもトップに立つのは、ダントツでスレッドの住人が怪しいと指摘するものだ。

 ヘッドホンから届くTVの音、その中の発言も同じ意見を叫んでいる。

『・・・だから!こんなことをする連中は、私は一つしか知らない!』

『結論を出すには拙速すぎると言うんですよ!』

『だが、やつらしか考えられないでしょう?

 マフィアというには桁外れの資金力と人員を有しているにも関わらず、その行動はチンピラ並に幼稚。ツキノワが欲しいのに研究には参加できない非友好的対日姿勢。ずっと昔から日本に特殊部隊を秘密裏に潜入させねばならない焦臭すぎる連中…そして潜入させれる連中』

『ふん、そうですわねぇ。確かに、考えられるのは、ただ一つ』

 TV画面の中の出席者全員が深く頷いた。結論は口にされないけど、どこの事を言ってるのかは明確だ。

  《北の、国…》

 弟が呟くように言う。その呟きに俺の声も重なる。

 なんの証拠もない、単なる予想に過ぎない。これだけ堂々と存在し派手に動いていたのに警察も日本政府も他国の諜報機関も気付かなかったのか、という疑問も残る。他に怪しい連中やもっともらしい筋書きがないわけでもない。だが参考としては十分だ。



 画面を閉じて大きく背伸びする。ツキノワも、うにぃ~、と前足を伸ばす。時計を見れば、もう昼食の時間だ。

  リリーン

 と考えている間に一階でベルが鳴った。母さんがご飯の時間を告げるベル。俺もツキノワも部屋を後にした。

 相変わらず窓からは外の喧噪が聞こえてくる。



「え?またナスレの人が?」

 サンマの開きから骨を引きはがしつつ、母さんの言葉を聞き返す。

 ツキノワは食卓の上でキャットフードを主食にしてサンマを骨ごとバリボリ食べてる。最近は床にご飯を置くのもどうだろうということで、人間と同じく机の上に置くことにした。でもイスに座りながら食べれないのでテーブルの上に上がって食べる。ご飯が終わるごとに毛だらけの机を綺麗にする必要があるけど。

「追い返す」

 俺が口を開くより早く、隣の紗理奈が即答した。

 青ジャージにどてらを羽織り、ガツガツとご飯を貪る姿は、百年の恋も冷めるんじゃないかという有様。こんなのでももらってくれる、深海のように深く広い心を持った男が将来現れてくれるのだろうか?

  《大丈夫だよ、紗理奈ちゃんは優しくて可愛いモン。彼氏の一人や二人、すぐに出来るよ》

 そう言う弟は姉からサンマを少し分けてもらってる。だからって俺は騙されない。紗理奈に彼氏は出来ない。少なくとも俺ならイヤだ。世に言う『妹萌え』なんて全く理解できない。

 それは置いといて話を戻す。

「そう言うな。あれは別にナスレのせいじゃないんだから」

「ナスレのせいよ。警備が甘かったせいじゃないの。つか何の用で、どんな顔で来ようってのよ」

 母さんはみそ汁を注ぎながら話を続ける。ちなみに父さんは仕事に行った。でも、こんな状態で仕事になるんだろうか?

「だからねぇ、電話ではね、その警備が甘くて賊の侵入を許したのを謝りたいって」

「いらない、そんなの」

  《まぁまぁ、そう怒らないで。結局、誰もケガしなかったし》

 ツキノワはご飯から顔を上げ、じっと紗理奈を見つめる。金色の目に見つめられて少しバツが悪そうな顔をする。俺が同じ事をしたら睨み返してくるクセに、この待遇の差はなんだろう。

「そんなに怒るなって言ってるぜ」

  ばんっ!

「だから!兄貴とツキノワは甘すぎるって言ってるのよ!」

 机をぶっ叩いてイスを吹っ飛ばし立ち上がった。驚いたツキノワが、まさに文字通りに飛び上がった。

「そうやって自分から危険に飛び込んで!頼まれたからって苦労背負い込んで!バカじゃないの?周りで心配している身にもなりなさいよ!」

「あ、あのな紗理奈」

 ギロッ、という音が聞こえそうな勢いで睨まれた。それだけで喉から出かかってたセリフが引っ込んでしまう。

「…なによ?」

 言葉は俺の意見を聞く内容、だが目つきが、何よりオーラが反論を許していない。思わず視線があさっての方を向く。助けを求めてツキノワを見れば、気まずそうに目を逸らされた。

  《…僕も怖い》

 一縷の望みを賭けて母さんの方を見る。うう、真っ直ぐ真顔で見つめ返された。これはやはり、しっかりしなさいという意思表示か。

  《うん、しっかりしてね、お兄ちゃん》

  《こんな時ばっかり兄呼ばわりすんな~》

  《僕も手伝うから、よろしくー》

 どこかのコンピューターじゃないけど、二つの脳で同時に考えるから色々と便利だ。俺一人じゃ考えつかない事や、時間がかかることも即座に考えれる。でも勇気は二倍になったりしない。

 とにもかくにも、大きく息を吸って気を落ち着ける。

「あの、だな…。以前、ツキノワも言ってたろ。ただ守られるだけの、え~っと、ペット扱いはイヤだって。ほら、守られるだけの一生なんてイヤだ、とか。僕も何かをしたいんだ、とかさ」

「…だから、何よ」

 うう、さらに睨み付けてくる。ま、負けるもんかぁ~。

「だ、だから、だなぁ~…」

「ハッキリ言いなさいよ!」

 あうぅぅ、怖い逃げたい目を逸らしたい。

  《ま、負けちゃダメだー逃げちゃダメだー》

 応援するツキノワの方が負けそうで逃げそうな声だ。えーい!ち、長男としての威厳を示さねば!

「つ、つまり・・・、えと、ツキノワの人生は、ツキノワのものだから。ツキノワだって、いずれは社会に出るっつーことで。だから、ツキノワも、男らしく懐の深い所を見せつけてやれば、こう、友達や味方が沢山出来る、ということ。

 つかさ、ツキノワ自身が許すって言ってるんだから、周りがどうこう言う問題じゃないだろ?」

 そうだぞっ、という感じで弟は胸を張りニャンと鳴く。

 ギリギリという音が聞こえそうな紗理奈の口…いや聞こえてる。白い歯の奥でサンマの骨が磨り潰されてる。

 ツキノワを真っ直ぐ睨む妹の目、怖い。

 頑張れ弟よ、目を逸らしたら食われるぞ。

「・・・ふんっ!」

 か、勝った。

 とうとう紗理奈が目を逸らした。俺たちの脳内ではファンファーレが鳴ってる。

 がたんっ、と乱暴な音と共に立ち上がり背を向ける。

「勝手にしなさいよっ!まったく、アタシの気持ちなんて、全然分かってない!これだから男は…」

 ブツクサと文句を言いながらキッチンを後にする姿を見てると、ちょっと言い過ぎたかな?と反省してしまう。とはいえ、いつかはツキノワだって独立して生きることも考えないと。

  《そうだね。そのために、僕なりの生き方を探すとするよ》

「だな。というわけで、ナスレには家に来ていいって伝えるとするよ」

 母さんは、強敵に打ち勝った俺たちを見てニッコリ微笑んだ。

「分かったわ。あたしから折り返し伝えるって返事してたから、電話しておくわ」

「ん」

 話も終わったし、俺たち兄弟はご飯を胃袋に流し込む。最近、村主みたいな食べ方が身に付いてしまった。しっかり体を動かさないと、あっと言う間に太ってしまう。早く外へ出れるようになりたいもんだ。





 その日の夜には明石社長が直々にやってきた。

 フラッシュを光らせカメラを向けマイクを突きつけるマスコミの群れ。それを押し退ける車列が、警察の誘導を受けて進んでいく。

 凍えるような冬の夜にも関わらず居座るデモ隊からは、「ツキノワからの恩を仇で返しやがって!」「ナスレもグルじゃないのか?」「どこに売り飛ばすつもりだった!」なんて声が聞こえる。

 俺や家族は好き勝手に騒ぐ野次馬を無視するのも慣れてきた。でも社長さんは慣れてないかも。いや、大企業の社長として、普段からイワレナキ非難とかいうやつは受けているだろうか。

 つーか、家の前に集まった連中は反ツキノワが大半だったと思うんだけど。なんていい加減なヤジ馬だ。

 とにかく俺は玄関からコントローラーを操作し、家の門を開ける。開放された門から見える我が家を撮影しようと、大量のフラッシュがたかれる。そんな喧噪の中、三台の乗用車が我が家の敷地に入ってきた。



 カーテンがひかれた居間。俺たち沢渡一家の前には、頭を下げる明石社長以下重役達。その後ろには、詫びの品が詰まっているだろう箱が山と積まれてる。この居間は決して狭くないんだけど、さすがにこれだけの人数が揃って土下座してると、狭い。おまけに大量の詫びの品もあるし。

「ほんに、すまんかった!」

「申し訳ありませんでした!」

 明石社長が謝ると、後ろの重役達も声を揃えて謝罪する。見事に声がハモってるけど、練習でもしてきたのかな?

  にゃんっ!

 座布団の上で弟が元気よく鳴く。いい大人が集団で、猫に向かって土下座する姿。一歩間違ったらギャグだ。

「気にしないで下さい、だそうです」

 ツキノワの真後ろに正座する俺が通訳。右には両親が恐縮して座ってる。左には紗理奈が憮然としてる。

「いや、気にしないでと言われてもじゃ、とても申し訳なくて…」

 相変わらず社長は頭を上げない。金色の瞳がチラリと後ろを、父さんの方を見た。すぐに父さんはいつもの文字ブロックをツキノワの前に広げた。

  お い し い も の  で  ゆ る し ま す

「おおっ!そうかそうか、それなら任して下され。我が社の自慢の品をたっぷりともって来たでな」

 ようやく頭を上げた社長が後ろを振り返る。同じく頭を上げた重役達が後ろに積まれた詫びの品の箱を丁寧に開けた。中に詰まっているのは、最高級の肉やらハムやらキャビアやら。中には巨大なトロの塊まである。もちろんキャットフードも高価な品がズラリと並んでる。

「あらあら、そんな、気をつかわないで下さいな。オホホホホ」

「いやまぁ、でもさすがに受け取らないと、まずいかな?あはははは」

 右の両親は、どうみても満面の笑み。左の紗理奈は不機嫌にそっぽを向いた。

 そして肝心のツキノワは、既にトロの塊へ目が釘付け。ヨダレが垂れても不思議がない有様。

「それではの、早速ワシが捌くとしますぞ。現役を退いてはいますが、なぁに!まだまだ腕はなまってはおりませんからご安心を!」

 そういって社長が腕まくり。部下が立派な刺身包丁とまな板、そして醤油を準備する。俺は廊下にのけた机を部屋に戻すことにした。

 明石社長は、見事な腕前で綺麗にマグロをさばいていく。大企業の社長さんとは思えない職人芸だ。

「昔は、ワシは漁師をしていてな。荒れる日本海の中、漁船の中で包丁を握っとった。船を下りてから、女房と小料理屋を始めて、少しずつ店を大きくして…。気が付いたらナスレなんて会社の社長になってもうた。

 それでも、昔を想い出して、たまに家族や昔からの部下には料理を作っておるよ。ふ、懐かしいわい」

 そんな昔話をしながらも、次々と綺麗な刺身の舟盛りが出来上がっていく。が、ツキノワは飾られるのを待たず、次々と刺身をたいらげていく。もちろん今回は薬品の臭いなんかしない。

  《うひゃー美味しいー天国だー!》

 至福の時を楽しむ声が脳内に響く。


 昨夜に続いて目の前に積まれた豪華な料理と酒の数々に、父さんは頬が緩みっぱなし。

 その美味さは、しかめっ面の紗理奈まで笑顔に変わるほどだ。

 謝りに来たはずの重役達は父さんに酒を勧められ、控えめに日本酒を飲む。

 母さんまで珍しくお酒を口にする。

 そして、あっと言う間に宴会と化した。





 さすがに師走で年の瀬。みんな忙しい。

 大晦日で里帰りだの正月準備だので慌ただしいっていうのに、いつまでもナスレの事件で騒いでいられるほど、世間の人達は暇じゃなかった。つか寒い。真冬で、しかもこの家は五月山の麓にあるから標高が高い。その寒さはハンパじゃないんだ、いつまでも外をうろつけるもんか。

 そんなわけで、もう山には誰もいない。人がいなくなったのをみはからって一応ツキノワがパトロール。でもゴミが散乱するばかりで、カメラも何もなかった。年末なんだから大掃除くらいしていって欲しい。

  《うぅあ~寒い!にしても、最近は良い物がみつからないねぇ》

  《そりゃそうだろ。何を仕掛けても即座に発見されてネットで売られるんだから。いい加減、誰でも無駄だと分かるさ》

 念のため、明石社長に千種健一はじめ千種プロダクションの連中の遺留品、名刺や食器とかを集めてもらい、その臭いを覚えておいた。でも、その臭いも感じない。感じるのは身を切る寒さだけ。

  《僕も、その辺のペットみたいに服を着てみようかな》

  《ああ、いいかもな》

 ちなみに俺は自分の部屋で机に向かって冬休みの宿題を片付けていた。大掃除は昨日のウチに全部終わった。まだ宿題は終わらない。

 窓の外を見れば、既に誰もいない。あれほど騒がしかったデモ隊もマスコミも、綺麗にいなくなった。まぁ、いつものことだ。時が過ぎ興味がなくなれば、さっさと忘れるのが世間というもの。変わらないのはパトカーの巡回、変わったのは巡回の数が増えたこと。そして、新たに契約した民間警備会社の車両も時折巡回にくるようになったことだ。料金はナスレ持ち。

 ナスレとは結局、いろいろな契約を結ぶことになった。CMとかにツキノワの映像を自由に使う代わりに、いろいろな面で資金援助すること。警備とか護身グッズとか。年明けには調達してくれる。

 母さんと紗理奈は台所で年越しソバとおせち料理を作ってる。ナスレからもらったお詫びの品の中にソバのセットや大きな重箱に入った高級おせち、他にも色々と入ってた。なので、今年は美味いモノが食えそうだ。もちろんぜんざいセットもあったので、ドカンと太りそうだな。

 ふと携帯を見れば、メールが届いていた。村主からのメールだ。開けてみると、どっかの古い家の部屋でコタツに入りミカンを食ってる写真。

『ようやく岸和田帰れたわ。そっちはどないやー?』

 メモリーからツキノワがあおむけで昼寝している写真を取り出して添付、簡単な近況報告を付けて返信した。


 村主は大阪の岸和田出身。小学6年の時に名香野市へ転校してきた。格闘技バカで、小学生に見えない長身に筋肉質。しかも強烈な関西弁。みんな怖がってしまい、とても友達が出来そうになかった。

 でも、その頃から凄い猫好きで、俺の後を付いて小学校へ来るツキノワのためにキャットフードを買ってきて、休み時間のたびに学校中を探し回り、撫で回したり抱きしめたり頬ずりしたり…その頃に精神リンクを開いてなくて良かった。考えただけで、かなり気持ち悪い。

 中学は同じクラスになって、俺と村主は仲良くなった。


 そういえば、岸和田出身だったなぁ。岸和田といえばだんじり祭り。毎年TVで見るけど、あれは凄そうだ。

  《一度、見てみたいね》

「そうだな。いつか行ってみたいもんだ」

  《うん。あちこち旅行をして、世界を見て回りたい》

 そんな想い出にひたり夢を描きながら、目の前の宿題から目を逸らす。ついでにツキノワを見てみれば、パトロールを終えて山を下りてくるところだった。


「ふぅ~、やっと終わったぜ」

 冬休みの宿題を全部終えた俺は居間へ降りる。生まれて初めて休み中の宿題を学校が始まる前に終わらせた。なにしろクリスマス以降は外が騒がしくて出れなかったし、宿題なんかで後々バタバタしたくないので、さっさと終わらせた。宿題以外にもやることはいくらでもある。

 今まで休日だけやってた特訓を、平日でも週三回はやるとしよう。

 勉強も高校の定期テストや宿題とツキノワ関連の生物学だけじゃなく、政治経済社会についても本気で学ぶことにする。

 ツキノワが社会に出るというのなら、俺は弟をサポートするために力をつける。

 これが俺の来年の抱負。

 今までも年末年始にはアレコレと目標を立ててた。が、三日と立たずに飽きてやめるのも毎年のことだった。だが今年は違う。そう、今年は違うんだ!

  《そうだね、期待してるよ》

  《お前も一緒にやるに決まってるだろ》

  《…僕は平凡な猫だから》

  《平凡な猫は『今年のニュース総決算』を見たりしない》

 パトロールから帰ってきたツキノワは居間でコタツに入ってる。首だけちょこっと布団から出してTVを見ていた。その鼻先にはコントローラーが転がっている。お前はオッサンか。

 といいつつ、俺もコタツに潜り込む。ああコタツは良い、素敵だ、もう出たくなくなってきた。そういえば我が家のオッサンは今日も仕事か。

  《今日は夜勤だね。年末年始を職場で過ごすなんて、大変だなぁ》

 本当に父さんの仕事は大変だと思う。病院は24時間経営だから昼夜休日、年末年始も無関係で働かなきゃいけないんだから。

 働いてない俺たちが見てるのは年末恒例今年のニュース特集。といっても今年は半分がツキノワのニュースで占められてる。誘拐事件からレッドビーズ事件と、世界同時強制捜査による組織壊滅。実際には組織の一部が暴走しただけだそうだ。けど犯行内容は世界各国での爆弾テロ、死人も多かった。組織の一部が勝手に、なんて言い訳が通るものじゃない。もともと派手で強引で迷惑なパフォーマンスが各国政府に嫌われてたこともあり、容赦なく潰された。

 科学分野では御厨誠一郎のツキノワ研究資料公表と、遺伝子工学・分子生物学への影響。倫理宗教面でも波紋が広がってる。今後の研究次第では世界がひっくり返るとすら噂される。

 だが一番気になるのは、未だに逃走を続ける千種プロダクションの続報だ。あれから一週間、組織の面々は未だに一人も見つかっていない。事務所や倉庫だけでなく、所属タレント達の家まで強制捜査と取り調べが続いている。でも、逃走していないタレントや事務員達は関係なかったらしく、何の情報も得られていないらしい。

「あれだけド派手な組織なのに、何の痕跡も残さず消えたってのか…。強敵だな」

  《だね。また来るかなぁ?》

「さぁな。しばらくは警察から逃げ回って大人しくしてるだろうけど」

  《やっぱり、例の国?》

「分からないな、マスコミもそこには触れないし」

 TVの方は相変わらず千種プロダクションのネタが続いてる。芸能界には大きな衝撃が走ったとか、モザイクかけられた謎の人が麻薬を臭わす証言をしたりとか。他にも高級売春クラブとして活動していただの、その顧客は高級官僚や企業トップが多くて捜査が難航しているとか。

 どれもこれも、そんな噂があるというだけで、何一つはっきりした事は示さずに終わった。これもいつものことだ。俺とツキノワに関して散々いい加減な報道をしてきたマスコミなんだから。

「視聴率を取れればそれでいい、か。世間が欲しがるネタをでっち上げて垂れ流して、後は野となれ山となれ」

  《辛口だね》

「ああ、ワイドショーのレポーターに追いかけられるはウンザリしたからな」

 実際、マスコミのいい加減さにはウンザリだ。

 ツキノワの存在が明らかになって以来、次から次へとデタラメな情報が流された。『この町の猫達は昔から不思議に頭が良かった』だの、『以前から付近でおかしな連中が動物実験を繰り返している噂がある』だの、『江戸時代から化け猫伝説が伝えられてる』だの。もちろんそんな事実も、噂すらもない。モザイクかけられた人が勝手に言ってるだけだ。ひどいのは、父さんの勤めてる病院では遺伝子操作実験が違法に行われているらしい、なんてのまであった。

 御厨誠一郎の資料が公表されてからは、俺も考えはしたんだけど、御厨と春原さんが自分の子供、つまり俺にも遺伝子操作を加えて超人を生み出した、とか…。それが本当なら、俺は平凡を絵に描いたような人間になんかなってるんもんか。少なくともネコ耳なんか付いてないぞ。

  《だね。でも、だからって敵に回すのはダメだよ。上手く付き合っていかないと》

「やれやれ、お前の方が大人な意見を言うんだもんな。兄貴の威厳なんかありゃしない」

「ンなもんハナから無いわ」

 真後ろから俺よりトゲのあるセリフが降ってきた。振り返るまでもなく、それは紗理奈だ。お盆に年越しソバを乗せたまま、白い目で見下してくる。

「前にも言ったと思うけど、あんまりツキノワと自在に話してると、兄貴が誘拐されて解剖されちゃうわよ」

「お、脅かすなよ」

 もう一つお盆を持って台所からくる母さん。年末年始の準備に大わらわだったけど、ようやく一息ついた感じでエプロンを外し、コタツに入った。

「ま~、本当に色々あった一年だったけど、ともかく無事に終わって良かったわ。このまま来年も無事に済んで欲しいものよ」

 その言葉に俺も紗理奈もツキノワも溜め息混じりで頷く。高校に入ってから、全く気が休まる暇がなかった。来年は静かになって欲しい…けど、無理な気がする。

 ともかく今は無事に年を越えた事を喜ぼう。そんなワケで弟の前にあるリモコンを拾って、年末恒例の国営放送歌番組が映るTVのチャンネルを変える。最近年末恒例になった格闘技番組へ…妹と母が怖い目で睨んでるので、チャンネルを戻してリモコンから手を離した。





 初日の出が昇る海。

 寒風が吹きすさび、荒い波が水しぶきを飛ばす浜辺。

 その遙か沖合に一隻の白いプレジャーボートが停泊していた。

『社長、朝食よ』

 美しくスタイル抜群の女がサンドイッチとコーヒーを乗せた皿を片手に操縦席へ入ってきた。その口から流れた言葉は日本語ではなかった。

 ハングル語だ。

 だが社長と呼ばれた男は何も答えない。イスに座り、ヒゲをカミソリで剃りながら、デスクの上にあるノートPCを見つめ続けている。

『社長、コーヒーが冷めるわよ』

『もう社長はよせ』

 やっと答えた男だが振り返りはしない。視線は相変わらずPC上へ、動画が再生され続ける画面に釘付けになっている。ついでにカミソリも器用に滑らせてヒゲを落とし続けている。

『まだ見てるの?』

 女も動画を覗き込む。それは文化祭で新聞部が公開したツキノワレポートだ。動画の中ではツキノワ・浩介・村主が攻防を続けている。

『ああ。情報収集は基本だ』

 画面を見つめ続けているのは、千種社長と呼ばれた男だった。そして朝食を持ってきたのはナスレのクリスマスパーティに出席していたタレントの女だ。

 プレジャーボートの甲板上には数人の男女がいる。体操をしたり釣り具を手入れしたりしている彼らは、全員が同じく千種プロダクションに所属していたタレント、を偽装して警察が追跡している謎の集団だった。

 彼らは警察の追跡を逃れ、海上で優雅な新年を迎えていた。

 サンドイッチを頬張り、コーヒーを飲む彼は、飽きもせず動画を見つめ続けている。

 しばらくして、彼方から一隻の漁船がボートに近づいて来たが、それにも気付かないほど映像へ集中している。

 先ほどの女性が、今度は望遠鏡を首からさげて入ってきた。

『少佐、船が来ましたよ』

『随分遅れたな。…今回は警戒しろよ。この前の失敗で、我々を口封じに殺すかもしれないからな』

『有り得ますわね。でも、私たちの計画に変更はありませんでしょう?』

『ああ。どう転んででも、俺たちの望みは叶えてみせる』

 女性は小さく簡単に敬礼して甲板に出る。そして甲板でくつろぐ男女に指示を飛ばす。即座に彼らはロープや板、両手に持つ小さな旗二枚、そして船内では拳銃や自動小銃を手にした者達がいる。彼らは銃の安全装置を既に外し、引き金に指をかけた状態で待機していた。対する漁船の方は甲板に数人の男がいる。こちらも外に出ているのは普通の漁師の姿をした人々だ。

 両船の間で手旗信号でのやりとりが交換される。その上で漁船はボートへ接近し、ボートからはロープが投げられ漁船の各所にくくりつけられる。そして船の間に用意されていた板が渡された。

 その様子は操縦席からも見えていた。

『ふん…任務継続、か。国のバカ共は本当に世界が見えていないな。まぁいい、それなら次は派手にやらせてもらうとしよう』

 少佐と呼ばれた千種社長は船の間で荷物が手早く交換されるのを確認し、またPCの画面を見続ける。

 動画が止められた。

 それはツキノワと村主と浩介が模擬戦を行っている動画。そのある一点で動画が止められた。十秒分ほど戻されて、再度再生される。

 小さな画面の中では、浩介が村主に棒で突きを繰り出す。だが竹刀で受け流した村主が間合いを詰め、竹刀を額へ向けて振り下ろした。それは浩介の棒で受け止められた。竹刀を受け止められた時、ツキノワが村主の背後から飛びかかろうと草むらの中を駆け抜けていた。

 だが竹刀を止められても村主の動きは止まらない。体格差を生かして浩介にタックル、そのまま浩介を吹き飛ばした。大柄ではないが決して小柄でもない浩介の体が宙に舞い、そのままうつ伏せに倒れ込む。村主は即座に振り返り、自分に飛びかかろうとしてたツキノワへ竹刀を薙ぎ払い牽制する。ツキノワは身を翻し宙を飛び、地面スレスレを薙ぐ竹刀を避けた。

 ツキノワとの間合いが離れた瞬間、弧を描く竹刀はそのまま半回転。未だに俯せのまま倒れ込んでいた浩介の足へと振り下ろされる。

 竹刀は空しく地面を叩いた。

 俯せで倒れていたはずの浩介の体が風を切る。

 逆立ちのような状態で起きあがった彼は腕をクロスさせ半回転。軽やかに足を地面に降ろして立ち上がった。再び腰を落とし半身を引き、足を肩幅に開いて棒を構える。

 ツキノワも村主との間合いを取り、身をかがめて臨戦態勢を取る。二人は村主を挟んでの連係攻撃を再開した。

 少佐は、もう一度動画を巻き戻す。そして俯せの浩介が振り下ろされる竹刀を避けて立ち上がったシーンを凝視した。

 浩介は俯せで、視界には地面しか見えていない状態。

 ツキノワは地面スレスレで薙ぎ払われた竹刀をジャンプして避け、空中を飛んでいる。

 村主は弧を描く竹刀を止めたりせず、そのままの速度で浩介へ振り下ろした。

 だが先ほどと同じく、竹刀は寸前でかわされた。うつ伏せのままの浩介が一瞬早く、全身のバネを駆使して体を跳ね起こし、逆立ちするような体勢に移行したからだ。

 少佐は同じ場面を繰り返す。

 同じ動きが繰り返される。

 黒い瞳が食い入るように彼らの、特に浩介の動きへ集中し続ける。

「・・・?」

 幾つもの木箱や発泡スチロールの箱がボートへ運び込まれ、代わりに段ボール箱が漁船に運び込まれる。船の間で何人かが交代し、人員が入れ替えられる。そしてボートに運び込まれた荷物が開けられ、中身が確認される。それは拳銃や自動小銃、札束、書類、通信機、爆薬など。

 だが、そんな光景は意識の外に追いやって、少佐はPC画像を見続けている。首をひねりながら。PC画面には他にも、ツキノワ関連の報道や一般公開された研究・発表もウィンドウに表示されている。少佐は幾度も動画と他の情報を見比べながら、首をひねっていた。





 黒い4DW車内、運転席に座る背広の男はPC画面を眺め続けている。ヒゲを綺麗に剃り落とし、精悍な顔立ちに鋭い眼光が画面へ向けて光る。

 それを横から眺めているのは千種を社長や少佐と呼んだ女だ。長い髪は頭の上に丸められてる。

『少佐、まだ見てるの?』

『昨日から少佐じゃない。グエンだ』

 間違いを指摘された女は軽く咳払いをする。

『あっと、そうでした。昨夜ようやく届いたんでした。グエン…ヒュー、でしたか?』

『いや、違ったと思うが』

 そういって少佐は背広の胸ポケットから免許証を取り出した。それは国際運転免許証、外国人が他国で車を運転するために発行されるものだ。そこには少佐の顔写真が載っているが、写真下のサインが示す名前は千種健一ではなかった。阮必成グエン・タット・タイン、国籍も日本でなく中国。

『グエン・タット・タイン、中国人だ。この名前だとベトナム系ということになる。…日本人としての生活は一番長かったし、気に入っていたんだが』

 彼の口から小さな溜め息が漏れる。ちなみにグエンというのはベトナムで一番多い姓。

『そうですね。他の者も故郷に帰りたくないとぼやいてましたよ』

『だろうな。だが指名手配されてしまったからな。それに、日本に派遣されたヤツは大半が三年で使い物にならなくなる。交代は必要だ』

『全くですね。この国は平和すぎて、どれほど軍で鍛え上げた者でも、すぐにたるんでしまいます』

『そういうお前もだ。昨夜、一人でコンビニに行ったろう?』

 とたんに女は頬が赤くなる。

『あ、え、その、起きていらしたんですか』

『気をつけろ。いくら身分を新しくしたとしても、指名手配中なのを忘れるな』

『了解です』

『ところで、お前の新しい名前はなんだった?』

 尋ねられた女は座席の下に置いていたポーチから、やはり国際運転免許証をとりだす。そこには女の写真の下に阮氏平グエン・チ・ビンというサインがあった。

『グエン・チ・ビン、ビンですわ。夫婦という設定です』

『そうか。他のプロフィールも記憶しておいてくれ』

 夫婦という設定、という言葉に少佐は何の反応も示さなかった。ただ妻という設定の女が少し嬉しそうに微笑んだのをチラリと横目に見ただけだ。

 彼は微笑む代わりに座席横に置いていた小型通信機のボタンを押して問いを発した。

『こちら黒犬。赤犬よ、現状を報告せよ』

 その視線は車外、朝の山頂を見つめている。それは彼方まで抜けるように青い空をバックにした五月山。車の前方、遙か彼方に小さく沢渡家の門構えが見える。



『こちら赤犬。現在視界良好、無風です。ですが、いまだ子猫は見つかりません』

 五月山山頂には展望台があり、街を一望できる。だがそこに『赤犬』はいない。彼は展望台から下った森の中、少し開けた岩場の上にいた。全身に草を生やした迷彩服に身を包み、森の一部へと溶け込んでいる。彼は巨大な望遠レンズが付いたカメラを岩の隙間から構えていた。タインこと少佐の声が届くのは、耳に付けられた骨伝導ヘッドホンの通信機からだ。

 背中に担いだリュックからは細いビニールチューブが口元まで伸びている。それは背中に担ぐ水筒から伸びている。長時間に渡って動かず、レンズを覗き込んだまま水を飲むための工夫。

 そのレンズは真っ直ぐに山の麓、沢渡邸を狙っている。ただし浩介達がパトロールする盗撮に適したポジションではなく、その遙か彼方だ。風もなく、臭いが沢渡邸まで届くこともない。

『発見次第報告、監視を継続せよ』

『了解』



 山頂近くからの報告を聞き終えた少佐は通信機のボタンを押し、周波数を変更する。そして再びマイクを口に寄せる。

『こちら赤犬。白犬、現状を報告せよ』

 その目線は道路反対側、街の方を見ている。街の中にでも一際高いビルの屋上へ。



『こちら白犬。現在、野犬が親猫を追尾中』

『了解。指示あるまで追尾継続』

 ビルの屋上、スーツ姿の男が望遠鏡を片手にヘッドホンからの指示に答える。そのレンズの向こう側には一台の黒いライトバンが映っている。町中をゆっくりと進む黒い車の先には、自転車をこぐ学生服の姿があった。

 それは学校の帰り道、自転車に乗って河原へ向かう沢渡浩介の後ろ姿。冷たい冬空の下でも元気に自転車をこいでいる。

 スーツの男は通信機の周波数を変え、今度は訛った日本語で話し始めた。

「こちらシロイヌ。ノライヌヘ、ツイビをケイゾクせよ」



「りょーかーい。けど早くしないと、あのボッチャン町中に戻っちまうぜ」

 黒いライトバンの後部座席にはジャージ姿の男たちがいた。その中で助手席に座る、革ジャンにジーンズの男が通信機に答える。彼は面倒そうに通信機を耳に押し当て続けた。

「あーはいはい、わーってるよ。別名あるまで追尾継続ね。んじゃ土手の下の道路を走ってっからよ。次の指示がなかったら勝手に帰るぜ」

 そう答えてから彼は通信機のボタンから指を離す。とたんに「け!威張り散らしやがって」と悪態をついた。

 運転している作業服の男がしかめっ面のまま口を開く。

「ま、そういうな。支払いはいつも確実なんだ。きっちり仕事はこなそう」

 その言葉に助手席の男は舌打ちをし、窓の外へ視線を逸らす。運転者は反論がないのを同意と判断し、車の速度を上げた。土手の下の道路に入った彼らの車は、前方上方の土手に浩介が乗るMTBの姿を捉える。

「それじゃ、予定通りにいくぞ」

 後部座席に乗るジャージ姿の男たちは黙ってうなずく。

 車はさらに速度を上げ、浩介の自転車のすぐ下まで来る。

 浩介は下をチラリと見る。車が土手の下の道路を走っているのを確認すると、すぐに前へ視線を戻した。

 浩介と車が併走する。

 車中の男たちは浩介の姿を黒い窓越しに確認する。その表情は緊張感がない。下を走る車中の男たちの意図に気付いていないようだ。

 そして、車はそのまま自転車を追い抜いた。

 バックミラーに映る浩介の姿が小さくなっていく。後部座席の人々は鋭い視線で彼の姿をにらみ続ける。だがその姿は黒塗りの窓ガラスに遮られ、浩介には見えなかった。



『こちら赤犬、子猫を発見した』

 4WD車内、通信機からの声が響く。即座に部隊指揮官が通信機を握りしめる。女も通信機へ耳を寄せる。

『こちら黒犬。子猫の状況を報告せよ』

『子猫は現在、目標の家屋内を歩いています。遠すぎて確認できませんが、女性と共にTVの前へ…あ!』

『どうした?』

『子猫は、子猫は…現在…』

『現在…なんだ?何をしているんだ』

『主婦らしき女性と共に、ゲームしているようです。足下にカーペットのようなモノをひいて、その上で…躍ってます。どうやら、音ゲーというやつですね』

『…そ、そうか』

 車内の二人は一瞬、猫が華麗に二本足で踊ってる図を想像した。だが、そんなマンガじみた姿が成り立つからこそツキノワだという事実を思い出し、ひきつりつつも真顔を維持することに成功した。


 赤犬というコードネームを与えられた男が構える望遠レンズのなか、窓の向こう。ガラス越しに見える小さなツキノワの姿。その猫は隣にいる薫と共に、確かに床に置いたカーペット型のコントローラーでTV画面に映る指示に従い、リズミカルに飛び跳ねたり足踏みしたり。

 その猫はふと、スウェットスーツに身を包んで汗を流す隣の母を見上げる。彼女は、多分本人は華麗なつもりでドタドタと足踏みしていた。ツキノワが「うーん、どうして僕まで母さんのダイエットに付き合わされるのかなぁ」と考えていたのは、河原を走る浩介にしか分からないこと。


司令官は気を取り直し、改めて通信機を握る。

『黒犬より白犬へ。作戦開始』



『了解』

 白犬と呼ばれたスーツの男は緊張度を増す。

「こちらシロイヌ。ノライヌへ、ジョウキョウをカイシせよ」

 それだけ言うと白犬は通信機を背広の内側に収め、河原へ背を向けた。



 河原の上の道路上、浩介は自転車で帰宅中だ。さっき下を通った車に対して不信感も警戒も抱いていなかった。冬の寒風吹きすさぶ河原道、黒い学生服は厚着でふくれて重そうだ。

「そういうな。少しくらい付き合ってやれよ」

 口から漏れた言葉は母のダイエットに付き合わされるツキノワの愚痴への返事。彼は自分の身に近寄る危険に気付いていない。気分良く軽快に疾走する自転車の前方に、こちらへ向かってランニングしているジャージ姿の男がいた。それに対しても彼は注意を払っていない。

 自転車とランニングする男が距離を詰めていく。浩介は男に気付き、ぶつからないように道の反対側へコースを取る。狭い土手の道路、1mかそこらの間を開けて両者はすれ違おうとする。

 男の手が上着のポケットに滑り込み、即座に引き抜かれる。その手には黒く四角いモノが握られていた。同時に男は浩介の横へ飛び込む。

 その物体が学生服の肩に押しつけられるのと、男の指がボタンを押し、物体の先端にある電極から火花が飛んだのは同時だった。


 スタンガンから50万ボルトの電撃が放たれる。


 瞬間、浩介の体は硬直・痙攣した。疾走していた自転車が慣性の法則に従い、操作不能なまま道路上を走り、そしてすぐに転倒。浩介と自転車は道路横の草むらに倒れてしまった。

「やった!」

 即座に男は倒れた浩介の側へ駆け寄る。そして下方からは黒いライトバンがエンジン音を響かせて駆けつけてくる。走りながらも車の扉は開かれて、紐を手にした男達が飛び降りようとしていた。


  ごわしゃっ!


 河原に衝撃音が響いた。

 スタンガンが宙を舞う。

 車から飛び降りて土手を駆け上り、浩介を捕えようとしていた男達の動きが止まる。


 襲撃者の顔面に、自転車のサドルがめり込んでいる。


 浩介は自分の横で倒れていた自転車のフレームをつかみ、襲ってきた男めがけて力任せに振り回したのだ。

 スタンガンの電撃を喰らったにもかかわらず、彼は瞬時に反撃した。

 そして自転車を叩きつけられた男は鼻から噴水のごとく血を噴き出す。

  ズムッ!

 打撃音が更に響き渡る。鼻血を吹き出す男の腹に前蹴りが突き刺さる。

 男の体はくの字に折れ曲がる。鼻から噴き出す血しぶきをまき散らす。そして、無様に草むらの中へ突っ伏した。


「な、なんだとっ?」「くそっ!」

 予想外の光景に怯んだ襲撃者達。そのうち一人、革ジャンの男がナイフを取り出し、その先端を浩介へと向ける。

「馬鹿!殺すな!」

 制止する仲間の声が起きるのと、彼がナイフの鍔にあるレバーを握りしめるのとは、ほぼ同時だった。グリップ内に収められたスプリングがストッパーを失い、一気に刀身を射出する。堤防の斜面で蹴りを放ったため体勢が崩れた浩介の、ガラ空きの脇腹へ。


  ドスッ


 鈍い音がした。

 学生服の脇腹に、金属の刀身が突き立つ。

 今度は浩介含めて全員が硬直し、視線がナイフへ釘づけになる。

 全員の脳裏に脇腹から噴き出す血が描かれる。 


  ぽと


 だが、脳裏に描かれた映像は現実のものとならなかった。実際には血は一滴も流れていなかった。それどころか、ナイフの刀身は学生服をへこませただけで、力なく草むらの中に落下してしまう。

「な、なななっ!」「どうなってんだ!?」「まさか、防弾チョッキかっ?」

 スタンガンも射出式ナイフも効かない。想像の範囲外な事態を前に、襲撃者たちは動揺して立ちすくむ。

 だが、浩介は立ちすくんでいなかった。ナイフのダメージが無いことを確認するや、即座に次のアクションへ移る。

 彼は再び、地面に倒れる自転車のフレームを握りしめた。歯を食いしばり、渾身の力を込める。腰を落とし、円盤投げのように構える。

「ぅうおおりゃあぁあっ!」

「うわぁっ!」「む、無茶なっ!」

 再び自転車が投げられた。悲鳴を上げる襲撃者達へ横回転しながら襲いかかる。彼らは横っ跳びに、あるいは身をかがめて飛来する自転車から身をかわした。

  どがっしゃんっ!

 今度は河原を通り越し、町中まで響く衝撃音が生じた。襲撃者達に当たらなかった自転車は、その下で停車していた黒いライトバンに当たったのだ。そしてハンドルは運転席の窓ガラスを粉々に砕いていた。両腕で頭を守る作業服の男の姿が露わになる。

 草むらの中に尻もちをついた男達が、呆然としている。視線が空しく浩介と車の間を往復する。そして堤防周囲の家屋から、突然の異音に驚いた住人達が窓を開けて外の様子を確かめ出す。

「…ふん、残念だったな」

 力の限りに自転車を投げつけた浩介は、悠然と男達を睨み付ける。

「MORITAの特製護身用品、防刃学生服さ。おっそろしく頑丈な布でね、電気も通しにくいからスタンガンも効かないぜ」

 解説しながら、ゆっくりと歩を進める。彼が一歩進むたびに、襲撃者達が無様に二歩分後ずさる。そして周りの家から、なんだなんだ、どうしたのよ?、といった声が聞こえてくる。

「た、退却だっ!逃げろっ!」

 運転席の作業服男が叫んだ。と同時にジャージと革ジャンの男たちは弾かれるように立ち上がり、無様に背を向けて、走りだそうとする車へ飛び込んだ。そしてアスファルトをタイヤで切り裂きながら加速、あっという間に逃げて行った。

 後には大きく息を吐く浩介と、鼻血をたらしながら気絶している男と、少しフレームが歪んでしまった自転車が残った。

「…ふぅ~」

 大きく息を吐き、どさっと草むらに腰を下ろした。そして肩や足をさする。特にナイフが突き立った脇腹を。

「さすがに、無傷とはいかなかったなぁ。脇腹が痛むぜ」

  《そうだね、でも無事で何よりだよ》

「ああ、お前の方は…あれ、町中に来ちまったのか?」

  《うん。驚いて家を飛び出しちゃった》

 浩介が意識をツキノワへ移すと、坂の途中にある民家の塀の上から堤防の方を見下ろす映像が映った。かなり慌てて飛び出したようで、荒い息づかいだ。

  《ともかく警察に連絡しとこう》

「ああ、そうだな…」

 彼は特注学生服の内ポケットから携帯を取り出す。だが、何度ボタンを押しても、いくら押しても反応はなかった。

  《もしかして、壊れた?》

「…らしい。くそ、スタンガンの電撃か」

  《らしいね…ん?》

「ん?」

 ツキノワの意識が急に別方向へ向いた。つられて浩介もツキノワの意識が向いた方向へ知覚を向けた。

 届いたのは臭い。坂の途中、塀の上に座るツキノワの鼻に、覚えのある臭いが届いていた。何の臭いだろうと猫の頭が周囲を見渡す。右側は見慣れた民家。その家の庭に不審なものは見えない。左側は道路。車が一台停車していて、エンジンはかけられたままだ。その窓が開けられている。

 窓から見える人物の姿には、どこか見覚えがあった。よく見たら誰だったのか思い出せたろう。

 だが、その暇は無かった。


 金色の目は、窓から自分へ向けられた銃口らしきものに集中していたから。


  カシュッ

 バネが弾けるような音がした。

 同時に大黒猫の体に電極が突き立つ。

 それはタタタタタッ…と軽くリズミカルな音を立てる。



「があああっっっ!!!」

 浩介の全身が硬直した。堤防の斜面に倒れ込み、そのまま転がり落ちてしまう。

 それはテーザー銃。ワイヤーを伴った電極針を発射し、相手の体に接触させワイヤーを通して電撃を加える電極発射型のスタンガン。5万V・26Wの出力を持つ。浩介は、その電撃をツキノワ経由で知覚してしまったのだ。

 それは時間にすれば僅か数秒、だが永遠とも感じうる拷問。

「・・・はぁ、はっ…はぁ・・・つ、ツキ、ツキノワ…?」

 ようやく硬直が解けたとき、彼は土手の途中で頭を下に向けて倒れていた。運良く、土手の下にまでは落ちず途中で止まったようだ。そして周囲には既に何人かの人が集まってきていた。

「き、君…大丈夫?」「あ、あれ、坊や、沢渡浩介…ちゃん?」「そうだ、そうだよ、沢渡浩介じゃないかい!」「すると、さっきの連中は、まさかまた強盗か!?」「警察だ!警察へ電話を」「救急車も!急いでっ!」

 わらわらと集まってくる街の人々。何人かが携帯電話で警察や消防へ慌てて通報する。

そんな中、浩介はゆっくりと体を起こす。

「き、君!動いちゃダメよ!」「救急車を呼んだから、今はとにかく起きあがらないで」

 そんな言葉を無視して彼は体を起こす。だが顔面は青ざめ、冬だというのに汗が止めどなく滴り落ちる。

「ツキ、ノワ…?」

 呆然とした、焦点の合わない目で周囲を見渡す。当然、そこにツキノワの姿はない。周りの人々は彼の周りに集まり、青ざめた顔がさらに色を失い、もはや白くなりつつある彼の顔を心配げに覗き込む。

「坊や、もう大丈夫だよ、安心しなよ」「ああ、ここにツキノワちゃんはいないぞ」「襲ってきた連中も逃げたようだ。今はとにかく休むんだ」

 彼を気遣う言葉を投げかけ、救助救援を呼ぶ人々。だが彼らの姿が目に映らないかのように、彼の唇からは言葉が漏れ続ける。

「つ、ツキノワ…、ツキノワ!どうした、答えろ!ツキノワぁっ!!」

 それはもはや絶叫。だがその言葉に答えられる者は、その場にいない。

 そして、彼の頭にも返事は帰ってこない。

 浩介がいくら呼びかけてもツキノワの声は聞こえてこなかった。

 周囲の人々がいくらなだめて落ち着かせようとしても、彼は錯乱したかのように叫び続けた。ツキノワの名を呼び続けた。だが彼が望む声は聞こえてこなかった。



 坂道を急発進する黒の4WD車内。妻を演じる女は、膝の上の大きなボストンバッグに右腕を突っ込んでいた。そして引き抜いた時、その手には空になった注射器が握られていた。針先から飛び散る飛沫がフロントグラスに水滴を残す。

『やったわっ!捕獲成功よ!大丈夫、ちゃんと生きています。これで当分は目が覚めませんわ!』

 そう叫ぶ女が抱きかかえているバッグの中には黒い毛むくじゃらの物体。その一部に白い三日月型の線が走る。

 テーザー銃で気絶し麻酔薬で眠らされたツキノワだ。

『よし!このまま次のポイントまで飛ばすぞ!全員に撤収命令だっ!』

『はいっ!』

 叫んだ男はハンドルを切り、他の車をぶっちぎって五月山へ走る。

 助手席の女は興奮した様子で、それでも可能な限り落ち着いて通信機から撤収命令を全員に伝える。

 命令を伝え終えた女は、興奮が冷めないまま上司に話しかけた。

『それにしても、信じられないわ!本当に少佐の言うとおり、こんな簡単にツキノワが捕まえられるなんてっ!』

『ははっ!格闘戦は素人のクセに、あいつら、連携だけが余りにも見事だったからな!もしや何かの通信機を体内に内蔵して常にリンクさせているかと思ったが、まさか、本当に、その通りだったわけだ!』


 そう、確かに彼らはツキノワを簡単に捕らえることが出来た。

 別に彼らはツキノワを追いかけてはいない。ツキノワの方から彼らに近づいたのだ。

 彼らは車を沢渡邸から浩介までの中間地点に置いていただけだ。浩介が襲撃されたのを知ったツキノワが家を飛び出し、浩介を助けに行くのを待ちかまえていただけだ。

 各種報道から示される、素人にしてはあまりにも手際の良い事件解決の数々。それらを可能とするツキノワと浩介の完璧すぎる連携。それが今回は裏目に出てしまった。


『やりましたね!…あ、ということは、今も回線を開いたままなのでは?』

 その言葉に少佐は一瞬で真顔に戻り、チラリとボストンバッグの中へ視線を落とす。だがすぐに前方のドライブウェイ入り口へ視線を戻した。

『いや、それは無いだろう。あれだけの連携を可能とするのだから、相当の精密機械のハズだ。さっきの電撃で壊れたろう』

『そうですわね。親猫の方も携帯まで含めて壊れたでしょう。でも、念のため後で調べておきましょうか』

『そうだな。

 それにしても、日本め。何が、生物兵器じゃない、軍事転用はしない、だ。猫専用の小型高性能通信機を装備させておいて、一人の生物科学者の個人的研究なわけがないだろうが』

 彼らはツキノワと浩介が通信機など用いず、精神を直接リンクさせていることなど知らない。そのため、何かの通信機が体内に埋め込まれていると勘違いしても無理からぬことではあった。

 そして彼らにとって大きな収穫と誤解を胸に抱き、黒い4WD車はドライブウェイを外れて森の奥へと入っていった。





 その頃、沢渡邸。

 突然ツキノワが窓から飛び出ていき、後にはキョトンとした薫が残されていた。彼女は電話を耳に当てているが、その電話は繋がらない。

「おかしい、おかしいわ…ツキノワが飛び出していくなら、浩介か紗理奈の身に何かあったはず。でも、浩介が電話の電源を切っているはずがないし…」

 彼女は早鐘を打つ心臓を押さえつけ、新たな番号へかけ直す。その電話は即座に繋がり女性の声が流れ出した。

『はい、こちら来須川警備保障です』

「もしもし、こちら名香野市の沢渡です。緊急に・・・」

 彼女は警備会社へ息子の異常を伝える。その後も幾つかの連絡先へ電話し続けた。



 名香野警察署刑事課。

 通常、所轄の刑事課の仕事は大半が地域的な日常犯罪。刑事事件は傷害や喧嘩、微罪や軽犯罪や窃盗事件が大半。やっていることは交番勤務の警察官とあまり大差はない。重大事件は警視庁の刑事部が担当し、いわゆる所轄の刑事は現場最前線での捜査や取り締まり活動を行う

 が、ツキノワの存在が明らかになった去年から、名香野警察署刑事課は重大事件が連続で舞い込むようになった。そして今日も薄汚れた冴えない刑事達の部屋に重大事件が舞い込んだ。刑事課長である垣元は、重大事件だからといって慌てることもなく、落ち着いて彼の携帯に直接かかってきた報告を聞いていた。沢渡薫からの話を。

「…わかりました。すぐに何人かを送ります。奥さん、そちらでもご家族への連絡をお願いします」

 携帯を切った課長の周囲には、既に何人かの男女が集まってきていた。全員コートを羽織り、すぐにでも出動できる状態だ。垣元は簡潔に命令を下す。

「沢渡浩介とツキノワを保護しろ。

 何が起こったかは分からん。が、ツキノワが町中へ単独で飛び出すのは、ただごとではない。沢渡浩介は今の時間は帰宅中のはずだ、ツキノワもそちらへ向かったと思われる。通学路に向かえ」

 短く返事した刑事達が白バイと共にパトカーで飛び出していくのと、名香野警察署へ本庁の刑事部から同じ内容の命令・沢渡浩介の居場所・現状を伝える報告が届いたのは、ほぼ同時だった。



「そ、そうです!ここは、武蔵川の土手の、そうですよ」「ああっ、そうだ!犯人は南へ逃走した!運転席側の窓が割れてる、すぐ分かる!」「沢渡浩介さんは、外傷は見えませんけど、混乱して、錯乱してます!早く救急車を!」「つ、ツキノワちゃん?例の猫は…ここにはいませんよ」

 土手には周辺に暮らす人達が次々と集まっていた。鼻血を出して気絶したため取り残された犯人は、既に近所の人が持ってきた紐だの電気コードだので縛り上げられ、武器を全て奪われている。人垣のそこかしこから警察・消防・友人知人へ通報する声が聞こえる。そして携帯で写真や動画を撮る人々も多い。そして周囲からはパトカーのサイレン音が近づいてくる。

 だがそんな喧噪は中心にいる人物の耳には届かないらしい。彼は真っ青になりながらうずくまり、カタカタと身を震わせている。だが、それでも彼は必死に出来ること、なすべき事を行っていた。

「…そ、そうだ。篠山、頼む!細かいことは後で話すから、急いでくれ!…だ、大丈夫だと思う。これは普通の誘拐とかじゃない。ツキノワそれ自体が目的なんだ。今後の犯人との交渉なんて無いはずだ。奴らを、奴らを逃がすわけには、ツキノワを連れて行かれるワケにはいかないんだっ!」

 汗で濡れ、小刻みに震える手で、それでも携帯電話を握りしめている。彼のモノではなく、周囲の人から借りたモノだ。カーディガンを羽織った中年女性が浩介の隣に立ち、自分の携帯電話を使う浩介を心配げに見下ろしている。彼は先ほどから電話をかけ続けていた。携帯電話が使えないので、記録させてある番号が分からない。なので思い出せる人物の番号に片っ端からかけている。

 その時、けたましいエンジン音が接近してきた。パトカーのものではなく、レーサータイプの赤いバイクが放つ音だ。

「ニャオッ!」

 村主の声。乗っていたのは学生服のままの村主だ。フルフェイスヘルメットを被ってはいるが鍛え抜かれた肉体だけで分かる。スタンドを降ろしバイクから飛び降りた彼の巨体に浩介はすがりついた。

「た、大変だっ!大変なんだっ!!ツキノワが、ツキノワが襲われて、掠われたんだ!どうすれば、どうすりゃいいんだ…あいつ、まさか殺され、いやそれはない、ないけど、一体どこへ、どこにいるのか」

 ツキノワが掠われた。その言葉に大きな体が一瞬硬直する。

 だがそれでも彼はかろうじて平常心を保つことに成功した。

「お、落ち着けっ!まずは落ち着くんや」

「お、落ち着いてられるか!ツキノワが、弟が、まさか、もう解剖されてるんじゃ、そんなはずがないと、ああいやまさかもう外国へ、で、でも」

「落ち着けぃっ!」

  バキィッ!

 村主のビンタが浩介の頬を打ち鳴らした。ただ、音は平手打ちらしからぬ打撲音だったが。あれほど騒がしかった人垣が一瞬で静かになるほどの凄まじい平手打ち。

 村主の力任せな平手打ちを受けた頬が一瞬で真っ赤に腫れる。彼の口から止めどなく噴き出していた言葉も止まる。村主のゴツゴツとした手が浩助の両肩を掴み、必死で感情を抑える言葉が紡がれる。

「ええか、落ち着いて聞け。

 確かに今はピンチや。それも大ピンチや。

 けどな、それくらいのピンチでガタガタ言わされるほど、俺らはヌルい一年を過ごしとらんやろが」

 その声は、発している本人こそが怒鳴り出したいのを抑えてるのがハッキリ分かるほど不自然に押し殺したものだ。そしてそれを聞かされる方も、必死で動揺を押し殺して気丈に頷く。

「せやったら、追うで!」

「え、お、追うって…どうやって…」

「それはこれから考えるわい。せやけど、まだ遠くに行ってへんのは間違いないんや。この町のことやったら俺らに分からんことはない。シッポくらい楽につかめるやろ」

「あ、ああ。そうだ、そうだよな」

 まだ青ざめてはいるが、それでも浩助の顔に血色が戻ってくる。震えが収まり、足腰もシャンとしてくる。

「それと、な…」

 村主は素早く周囲を見渡す。周囲の人垣は更に分厚くなり、喧噪も激しくなる。携帯での通話・メールは既に町中を駆けめぐり、いや、既に日本中を駆けめぐり始めているだろう。

「話は後や!こいっ!」

 浩助は村主に無理矢理バイクの後ろへ乗せられた。そしてバイクは人垣を押し退けて発進する。警察や消防が来るまで待て、という制止の声を振り切り、ちょうど停止したパトカーの横をすり抜けてバイクは走り去った。浩助の家へ向けて。



「お、おいっ!いきなりどうした?」

 浩助の質問に村主のフルフェイス越しの大声が帰ってきた。

「人のいるところでは話されへんのでなっ」

「何が?」

 車の通りは多くないとはいえ、一方通行も信号をも無視して突っ走るバイク。しかも後ろに乗る浩助はノーヘル。そんな白バイがすっ飛んでくる無茶な運転をしつつも、村主は努めて冷静な声で答える。

「ツキノワの声!聞こえてへんかっ?」

「ああ、いや…あ、え?ツキノワの声って、あー…あっ!」

 聞かれた浩助は答えようとして、その問いが意味することに気が付いた。


 ツキノワの声が聞こえるか?

 つまり、それは浩助にはツキノワの声が直接脳に届いてると知っているということ。


 彼は二の句が継げない。あぅあぅ…と言葉にならない声が漏れる。

 ちょっと不機嫌そうな声が追撃してくる。

「お前、俺をアホや思っとうたやろ。

 間違いなく有り得るはずない程の連係攻撃を延々としかけてきたり、どう考えてもテレパシーでツキノワと話をしているとしか思えないような独り言をブツブツ言ってたり。おかしいに決まっとるわ。

 ツキノワにお前のDNAが入っとんのは知っとんじゃ!せやったら、精神が繋がってるて予想付くわぃ!」

「え、あ、あ~…。だ、だったら、なんで今まで黙って」

「気ぃ遣ってたに決まっとるやろがっ!敵を騙すには味方から。そんくらい誰でも分かるわいっ!」

 言葉が出ない。バイクにしがみつきながらも呆然としてしまう。

「ともかく作戦会議じゃっ!お前んち行くでっ!」

 そう話している間にもバイクは走り続け、長い坂を上り、山の中腹にある沢渡邸を視界に収めた。パトカーや警備会社の車両は土手へ向かったらしく、まだ家の周囲に車は来ていない。来ていたのは、自転車を必死でこいで帰宅してきたばかりの紗理奈だった。彼女は道路交通法を無視する勢いで飛ばしてくるバイクへ向かって手を振っている。


「やっと来たわね!バカ兄貴、説明しなさい!」

 家の前に停まったバイクへ駆け寄るや否や、不安な想いを欠片も見せず強気な声が飛び出す。浩介は簡単に彼の身に起きた事情を説明した。

「…というわけだ。俺を襲った連中は警察に任せよう。ともかく、ツキノワを追うぞ!」

「分かったわ」

 しっかりと頷く妹へヘルメットを脱いだ村主が家の方を見ながら尋ねる。

「ほんで、そっちの方はどうなんや?おばさんは家にいるんやろ?」

「ええ。母さんはあちこちに連絡してるわ。あたしも母さんの電話で呼ばれたの。

 ところで、兄貴」

「ん?な、なんだ」

「今の話だと、兄貴はツキノワと会ってないし、もちろん連絡なんか取れてない、ハズ…よねぇ?」

「え?あ、ああ…あ!あぅあぅ~そのぉ~…」

 兄の口が空しく開閉する。

 妹に言われて今さら気が付いた。ツキノワは彼の所に来ていないし、連絡なんか取れるハズがない。なのにどうしてツキノワが掠われたと断言できるのか、全く説明が出来ないということに。

 妹の口からは溜め息が漏れる。

「だからぁ~…前にも言ったでしょ?気をつけなさいって。その話を、もし警察やマスコミにそのまま話していたら、どうなったと思ってるの?通信機をコッソリ付けてました、くらいじゃあ誤魔化しきれないわよ」

「あ~う~」

「まぁまぁ、紗理奈ちゃんもニャオも。今はンなこと言うてる場合やないで。

 んじゃま、ニャオよ。ツキノワの声、聞こえるか?」

「う~…わ、わかった。とにかく、やってみる」

 ゆっくり息を吸い、さらにゆっくりと息を吐く。気を取り直し、意識を集中。弟へ再び通信を試みる。

 村主の目が上から、紗理奈の目が下から、不安げに見つめてくる。


  《…ツキノワ…ツキノワ!聞こえるか?ツキノワ、返事をしてくれ!》


 だが、なんの返事も返ってこない。思念を何度も飛ばすが反応はない。

 浩助の口から大きく息が漏れる。

「くそ…ダメだ。声が聞こえない。気絶してるか、薬で眠らされてるんだ」

 その言葉に隣の二人も肩を落とす。

「アホんだらがぁ~、なんか、なんか手がかりはないんか?」

「ねぇ兄貴、本当に何にも聞こえない?声が小さいだけっていうことはないの?」

「え?声が小さいって…」

 聞かれた浩助は、もう一度意識を集中する。

 まるで瞑想するように、心から雑念を取り払う。不安も恐怖も必死で押し退ける。

 そして、ただ静かにツキノワのことを想う。


 とたんに、腹がくすぐったくなった。


「ぅわぁ!な、なんだよこんな時に、邪魔するなよ!」

 唐突で空気の読めないイタズラに怒った浩助だったが、隣の二人はキョトンとしてた。

「な、なにがやねん?」

「…あたしたち、何もしてないわよ」

 二人とも確かに何もしていなかった。ただ立っていただけだ。

「…え?あ、もしかして!?」

 彼は目を閉じ、もう一度精神を弟へと向ける。


 すると、今度は太ももを撫でられる感覚が。

 すりすりすりすり


「ほにゃぁあああ」

 気味悪く体がクネクネする友人・兄の姿に、「こいつ大丈夫か?」と思ってしまった二人だが、とにかく邪魔はせず様子を見る。そして浩助もくすぐられるやら撫でられるやら、気持ちいいんだか悪いんだか分からない感覚に襲われながらも、必死で意識を集中し続ける。

 すると、今度は頭に声が聞こえてきた。ただ、それはツキノワの声ではない。人間の男女、それも外国語だった。


  …ケンチャナ…イェ…チョナ…


 それはハングル語。

 韓国については全然知識のない浩介でも、TVでたまに聞く韓流ドラマやタレントの話す言葉に覚えがある。そして声それ自体にも覚えがあった。

 浩介の目が大きく見開かれる。両の拳が握りしめられる。

「これは…やつらだ…千種プロダクションの連中の声だ!」

 その言葉に傍らの二人も色めき立つ。

「なんやと?マジか!」

「兄貴、間違いないの?」

「ああ、間違いない!この声は覚えてる。クリスマスパーティでもTVのニュースでも聞いた声だ。あの社長と、確か、秘書をやってる元モデルの声だぞ!」

「呆れたわ…なんてしつこい連中なのよ」

 呆れつつも怒りに肩が震える紗理奈。

「信じられへんけど、ともかく来てもうたもんはしゃーない。いてこましたるわ」

 直人の鉄拳も握りしめられる。杉板だろうが瓦十枚だろうが軽く撃ち抜きそうな、大きく硬い拳。

「待ってろ、言葉は分からないけど、何かやってる…」

 彼は再び目を閉じ、意識を集中させる。紗理奈と直人はヒソヒソと状況把握。

「ハングル語やと…?やっぱ、あいつら北のお国のスパイだったわけやな」

「いえ、確か社長は韓国人とのハーフよ。ハングル語だけじゃ断定できないわ。それにしても、なんで兄貴は悶えてるのかしら?」

「え~っと、なんでやろな?」

 二人が冷たい目で見る先には、妙な動きで嬉しいんだか苦しいんだか分からない声を上げてる浩介がいた。その動きは怪しすぎる。

「な、なんか、ツキノワが体中を撫でられて…ひょへえええ~…た、多分、体に何か付けられてないか…うきゃぁあっ!ぼ、ぼでぃ、ちぇっくされて…あひゃひゃひゃっ」

 ツキノワの体から届く微妙な感触が背中やお尻を這い回る。

 それでもめげずに彼はツキノワの感覚と同調し続けた。少しでも弟がどこにいるのか突き止める情報を得るために。

 彼の脳裏には男女の声と、まさぐられる感覚と、その他色々な情報が送られてくる…。



 森の中を縫うように走るドライブウェイ。

 路側帯に止められた黒の4WD、その車内では昨日からグエン婦人となった女がツキノワの体を探っていた。

『・・・ありません。変ですね、アンテナがあるはずなのに』

 運転席に座るグエン氏は、周囲へ鋭い視線を向けつつも答える。

『完全な体内埋め込み式かもな。だが、もう時間がない。集合ポイントへ行くぞ』

 アクセルを踏み込み発進する車は、山奥へと走る。

 それは五月山のドライブウェイ。車は国定公園内を走り抜ける。

 五月山を走る道路ゆえ、当然ながら五月山の観光ポイントへと続く道路だ。だから、その車も観光ポイントを横目にしながら走っていった。

 五月山の代名詞、だけど冬だから来る人も少ない観光ポイント、五月山大滝の横を。

 いつも浩介と直人とツキノワが走ってくる滝。今日も変わらず水柱が飛沫を散らす…。



「・・・この音は…滝だ!滝の横のドライブウェイを上ってる!」

 ツキノワの意識が無くとも耳には音が届いていた。

 そしてそれは浩介の耳にも。

 隣に立つ直人は、即座にヘルメットを被ってバイクにまたがろうとする。だがそれを紗理奈が小さな手で引っ張って必死に止める。

「待ってー!準備、準備がいるわよー!連絡も!」

「お、おう、せやった。こんな時こそ落ち着かなな」

 浩介は再び意識をツキノワへと沈めていく。

「紗理奈、村主、準備と連絡を頼む。俺は奴らの動きを追い続ける」

「おうよ!」「分かったわ!待っててツキノワ!」

 二人は携帯を耳に当てながら家の中へ飛び込んでいった。



 沢渡邸の前では、浩介と直人の二人はフルフェイスヘルメットを被り、バイクに跨っている。浩介はスクーター、直人はレーサータイプ。二人とも学生服の上に防弾チョッキを装着、腰にはいくつものポーチ、特殊警棒やナイフ。浩介のシート下には荷物が詰まってる。ヘルメットの中には骨伝導式小型イヤホン。

 そして二人を見送るのは母の薫と妹の紗理奈。

 母は冷たい汗を流しながらも息子達へ精一杯のエールを送る。

「本当なら大人として、母親として、あなた達を止めなきゃいけないわ…。でも、浩介は止まらないでしょう?」

 息子はハッキリと、強く頷く。

 彼女は大きな溜め息をついた。

「そうよね。そして、恐らくツキノワを追えるのはあなただけ。あなたとツキノワは、そう、一心同体だものね」

 一心同体。

 その言葉に浩介は少し引っかかった。

「母さん、もしかして…昔から俺とツキノワの関係を、能力を知ってたんじゃ?」

 だが、その疑問に彼女は答えない。

 代わりに一歩歩み寄り、彼の背中を力一杯平手打ち。バシィッ、と景気のいい音が響き渡る。痛みに身をよじる息子を仁王立ちで見下ろしてる。

「話は後よ。さぁ、行きなさい!そして、必ず無事に帰ってくるのよ!

 村主君も、決して無理してはダメです。必ず無事に帰ってきて下さいね」

 村主のヘルメットが小さく上下に動く。

 紗理奈は兄のポケットの中に自分の携帯を押し込んだ。

「GPSを自動発信にしてあるわ。情報は警備会社にも送られるから、警察も一緒になって兄貴達を追いかけてくれるわよ」

「ありがとな」

「あ…それと、ね…」

 妹は言葉を続けようとする。

 だが、唇は細かく震えるばかりで声が出てこない。

 胸の前で組まれた両手が強く握りしめられる。

「そ、それと…」

「ん?何だ?」

 ヘルメットを被った頭を寄せる兄。

 その耳辺りに口を寄せる妹。

 そして、大きく息を吸う。

「うっせえーーーーーっっ!!さっさと行けっ!このバカ兄貴!」

 メット越しの大声に、頭がクワンクワンとしてくる。

 薫も直人も突然のセリフに呆気にとられた。

「今、何か言ったら、死亡フラグになりそうだからやめとくわ。

 だから…オラオラ、さっさと行けよ!ツキノワ取り返してこーいっ!」

 拳を振り上げて、応援してるんだか命令してるんだか分からない。

 そんな家族の声を背に受けてバイクは発進した。


 あっと言う間に見えなくなる二人のバイク。

 残された二人、女と少女の目には涙が浮かぶ。

「兄貴達…ちゃんと帰ってくるよ…ね?」

「ええ、ツキノワと一緒に…みんな帰ってくるわ。間違いないわよ」

 母は娘の肩を抱く。

 小さな肩も、肩を抱く手も、小刻みに震えていた。



 ロードレーサーと原付ではパワーが違いすぎる。あっと言う間に浩介は直人に置いて行かれた。ちなみに走り屋禁止のためドライブウェイは終日バイク不可だが、そんなもの一切無視。むしろ警察が二人を追いかけてくれて好都合。

 冬の山道。枯れ木のように葉が落ちた、寂しい山道を必死で走る。が、アクセル全開にしても原付は速度が上がらない。浩介はマイクに向かって呼びかける。

「おい!先に行きすぎ!通信機の電波も届かなくなるぞ」

  …ザザ…すま…ザザザ…待ってるから…ザー…

 かろうじて雑音混じりの声が返ってくる。少し走ると音質はクリアになっていく。

  ザ…ほ…で、ツキノワは、今どこや?ザザー…

「待ってろ、やつらは山奥へ向かってたが…」

 走りながらも意識を集中させ、脳裏に僅かに届く音を探り当てる。


  …ごぉ~ん…


 その中に、重く鈍い金属音が混じっているのを聞き逃さなかった。

「・・・これは、鐘だ。寺の鐘の音が聞こえる!」

  …ザザ…寺の鐘やて!そら、勝頭寺や!あの寺に何の用や?

 話ながらも山林を上る原付は、ようやく前方に止まる赤いバイクを視界に収めた。

「あそこは五月山の中心近いし、道路も太くなってて、大きな駐車場もある。初詣客も少なくなってるから邪魔もいない」

  …それと、あの広い山の中で、ヨソ者が集まれるような目立つ場所っつったら…

 浩介の原付が横に来ると同時にアクセルが開かれる。バイクのエンジンが唸りを上げ、フットブレーキが開放される。クラッチから指が離されると同時に鉄の馬が前足を振り上げる。

 景気よくウィリーで発進した直人だが、今度は浩介と併走し始めた。

「あんな道の入り組んだ山奥だと、ヨソ者が集合に使いやすいポイントは少ないはずだ。その勝頭寺と、その近くにあるダム!」

  …寺はまだ初詣客もおるし、寺の人達もおる。考えられるのは…ダムや!

「それだ!ダムに駐車場があるから、そこに車を停めてるハズ!」

  こっからは森の中や。携帯もロクに通じへん。滝ンとことか、要所要所で電話連絡しながらいこか

「おう!ダムの側なら川沿いだ。常に水の音が聞こえるはずだぜ!ちょっとでも川沿いから離れれば、すぐに分かる!」

 二台のバイクは峠を越える。

 眼下に広がるのは広大な冬の森林。二人は迷わず森の中を駆け抜ける。

 彼らの後方からは沢山のエンジン音が追ってきていた。





 武蔵川ダム。

 寒風が吹きすさぶ湖面を見下ろす道路と駐車場。駐車場とは言っても道の横が少し開けてるだけだ。土はむき出しで、葉の落ちた木々に囲まれている。

 ダムの管理人からも忘れられたような寂れた場所だが、今は少し騒がしかった。黒の4WDが停車している。その横には何台ものバイク。山林を走るためのオフロードバイクが並んでいた。そして、元千種プロダクション社長と秘書、今はグエン夫妻の二人。赤犬白犬のコードネームを与えられていた男達、その他にも男達がたむろしている。

 彼らは全員、背中にリュックを背負っている。バイクの後ろにも荷物が載せられている。だが服装は、ライダースーツを着る者もいれば、ジーンズに革ジャンというラフな姿の者も居る。いずれにせよ、普通のライダーとして不審な点はない外見だ。

 装備を整えた少佐が、彼らの前に進み出る。即座に全員が整列し敬礼、上官の命令を待つ。

 そして上官は軽く全員を見渡し、準備完了を確認してから指示を放つ。

『よし、全て予定通りだ。総員散開、各自予定のポイントへ向かえ。

 いいか、命令を厳守せよ』

 部下達は再度敬礼し、それぞれのバイクへ向かおうとする。

 だが彼らの動きが止まった。

 風の音、鳥の鳴き声、そんなのどかな冬の森には相応しくない音が響いてくる。それはパトカーのサイレン音だ。

 少佐の口から舌打ちの音が漏れる。

『まさか、もう来たのか…早いな』

 彼は腕を振る。同時に全員がバイクにまたがる。そして、胸ポケットや荷物の中から取りだしたものを手に取る。

 それは、拳銃とサブマシンガン。

『重ねて繰り返す。命令を厳守せよ』

 上官の再度の命令を背に受け、彼らは銃をハンドルの隙間や燃料タンク上に付けられたバッグに差し込み、地面をタイヤで削りながら急発進していく。ダム湖への入り口、既に白バイやパトカーから飛び出してきた警官達が固めるドライブウェイへ向けて。



 ダム湖の入り口に最初に到着したのは白バイが二台。

 だが白バイ隊員は、ダムの奥へと通じる細くて視界の悪い森の中の道に、軽々しく入ろうとはしなかった。

 一人がダム湖入り口周囲の状況を監視。もう一人はバイクを発進させる。ドライブウェイ奥へ走り、勝頭寺へと向かう。

 白バイの背後からは三台のパトカーが走ってくる。そして彼らに遅れて白地に黒のラインが走ったワンボックスカーが駆けつけた。車の横には『来須川綜合警備保障』と書かれている。警備会社の車の後ろに浩介の原付と直人のバイクが、後輪を横滑りさせながら停車した。

 白バイ隊員が軽快にバイクを滑らせ、浩介達の横に付ける。若い隊員と浩介の声が、その場にいる全員に聞こえる大声で山間に木霊する。

「ここか!」

「ここらへんですっ!ツキノワの通信機は、この近くから発信されてましたっ!」

 パトカーから飛び出した制服警官と私服刑事達は、強ばった顔で拳銃を取り出す。ちなみに浩介達は『どうしてツキノワの居場所が分かるか?』を誤魔化すため、ツキノワの体には通信機を付けておいた、ということにした。二人とも『周波数を尋ねられたら、どうしよう…』とヒヤヒヤしていたが。

 幸い、白バイ隊員は周波数を尋ねはしなかった。

「よしっ!君達はここで待機だ。ここからは我々警察が向かう」

 白バイはアスファルトを削りながら鮮やかに円を描いて方向転換、前輪をダム湖入り口へと向ける。警官達もパトカー2台をダム湖への道に入れようとしている。

 同時に警備会社の助手席の窓が開く。いかにも体育会系な、がっしりした男が顔を出した。

「沢渡君!君達はここで待機だ。あとはプロに任せてくれ。二人とも我々が警護する」

 浩介と村主はバイクを降り、助手席から車内を覗き込む。助手席の筋肉質な男の向こうには、運転席に丸顔な中年男性がいた。

「すいません。ですけど、僕らはツキノワを追わないと」

「バカ言うなっ!」

 警官達の後を追うという浩介を叱りとばしたのは、運転席の男だ。

「心配するのは分かるが、相手は間違いなく銃を持ってる。そんな君らの防弾チョッキ程度で」


  パンッ


 乾いた破裂音が響いた。

 浩介も直人も、警備車両の二人も即座に音の方を見る。

 ダム湖の方、森の奥。

 そこからはパトカーのエンジン音以外に、明らかに自然のものではない音が聞こえてくる。それも連続で。


 パンパンッ、パパパパッ!


「伏せろぉっ!」

 叫んだのは助手席の男。

 瞬時にその場の四人全員が身を伏せる。

 それと同時に、けたましいエンジン音がダム湖から降りてきた。

 それはオフロードバイク。何台ものバイクがダム湖入り口の森から飛び出してきた。そして彼らがハンドルから離した片手に持っているのは、拳銃や小型マシンガン。

 パトカーの列を銃撃しながら軽々とすり抜けてきたライダー達が、前方にいる車にも拳銃を向ける。まだドライブウェイに残っていたパトカーと、警備車両へ向けて。

  ガカカカッガガカカンッッ!

 鉛玉の雨が森に、アスファルトに、そして車に降り注ぐ。何かが高速で風を切る音が耳に届く。跳ね返った弾が予想も付かない方向へ飛び回る。鈴が鳴るような甲高い金属音も連続で響く。アスファルトに降り注ぐ薬莢の音。

 パトカーの中に待機していた警官も、警備車両の中にいる二人も、その後ろにいる浩介達も顔を上げれない。少しでも体を起こそうものなら、間違いなく蜂の巣にされる。誰も動けない。

  バシュバシュッ!

 空気の抜ける音がする。撃ち抜かれたタイヤから空気が漏れているのだ。

 動けない彼らの横をライダー達は銃撃を続けながら、悠々とすり抜けていった。


 炸裂音の木霊が消えた。

 エンジン音も彼方へと霧散していく。

 ようやく直人が顔を上げる。

「・・・お、おまえら…無事か?生きとんか…?」

「うぅおぉ~…、銃撃も、久々だなぁ」

 浩介も恐る恐る体を起こす。

 そして警備車両の中にいる二人も、うめき声を上げながら答えた。

「ぶ、無事ですか…?」

「あ、あ、ああ…どうやら、生きてる。特注の現金輸送車でよかった」

 彼らの横、運転席の窓ガラスには蜘蛛の巣のような亀裂が広がっている。だが割れてはいない。防弾ガラスが機能を果たしたらしい。他にも車体には着弾した弾痕が残ってはいるものの、一発も貫通はしていなかった。

 車両のタイヤは銃撃で空気が抜けていた。かろうじてタイヤの形を維持しているのは強化タイヤだからだろう。

 前方を見れば、同じように弾痕と撃ち抜かれたタイヤを見て頭を抱える警官達。そしてダム湖の方からも警官達が自分の足で駆け下りてくる。追撃を防ぐため、すれ違いざまに全車両のタイヤを狙ったようだ。

 だが無事な車もある。浩介と直人のバイクだ。二人のバイクは警備車両の背後になったため、狙えなかったらしい。そして二人も無事。

 二人は互いの無事を確認し、黙って頷く。

 そしてバイクにまたがった。

「どっちや?」

「待て…水音が聞こえない。川のない方!」

「勝頭寺や!」

 二人は大人達が止める声を無視してバイクをウィリーさせる。武蔵川の上流に当たるダムより奥、北にある勝頭寺へ向けて走り出す。


 空には一機のヘリが飛来。警察のヘリが上空からの五月山監視任務に就いた。

 そのヘリはダム湖の上を旋回した後、南へ移動を開始した。ドライブウェイに沿って、市街地に向かって移動を始める―――疾走するバイクの群れの一つ、街へ向かった一群を追って。

 遙か遠方の空には、他にも接近してくるヘリの影が現れる。事件を聞きつけた報道のヘリが集まり始めていた。



  ボゥンッ

 鈍い爆裂音。

 五月山国定公園の奥にある勝頭寺。森の中に佇む寺や仏塔が見える山門の前で、仏の加護を得られなかった白バイが爆発炎上していた。その少し離れた所には、恐らくはバイクを降りていたため無事だったらしい白バイ隊員の男が伏せている。寺の中にいた少ない参拝客や僧侶達が、慌てて参道の階段を駆け下りてくる。

 浩介と直人のバイクが勝頭寺に駆けつけたとき、既に襲撃者達はいなかった。二手に分かれて勝頭寺側を偵察に向かった白バイを銃撃し、逃げ去った後だった。二人はアスファルトを削る甲高い音を響かせながら、バイクを隊員の横に付ける。

「大丈夫ですか!?」

「あいつらは!あいつらはどこ行った?」

 問われた白バイ警官は、恐る恐る体を起こしながら答える。ヘルメットを押さえる左手が震えている。

「て・・・て、寺の前にバイク停めて、受付に、事情、聴取してたら…バイクの連中が…いきなり、撃ってきて…」

 声も震えている。見た目は若くない警官だが、さすがに突然撃たれたなんて初めてだったのだろう。

 だが追跡者たる二人には、ゆっくり話を聴いている暇がない。

「ほ、ほんで?あいつらは、どっちへ!」

 震える手が力なく持ち上がり、東の方を指さす。それは山門前で東へ方向を変えたドライブウェイが更に向かう先。

「おし!いくでっ!」

「この先は、道が名香野市と隣町へ分かれてる。くそ!さらに分かれられたら追跡が難しくなるぞ!」

 二人同時にバイクのアクセルを開く。

 未だ銃撃の恐怖から回復していない白バイ隊員を残し、二人はまたもドライブウェイを走り出す。


 だが少し走ると、浩介が急ブレーキをかけて原付を停めてしまった。

 ヘルメットの耳に当たる部分を押さえ、俯いたまま動かない。

 相棒の異常に気付いた直人もバイクを停め、引き返してくる。

「なんや?どないしたんや!」

 浩介は答えない。目を閉じ、じっと意識を集中させる。

 直人にも、それがツキノワからの通信に意識を向けているのは分かる。彼も黙って新たな情報を待つ。

 一分とかからなかった時間。だが二人には余りにも貴重な時間。ようやく浩介は口を開いた。青ざめた頬を冷たい汗が流れる。

「…おかしい…」

「おかしい?おかしいてなんや!」

 目を見開いた浩介は大柄な相棒を見上げる。その目は不安と恐怖で歪んでいる。

「ツキノワからの感覚が、弱くなっていく…」

「な、ナニぃ!どういうこっちゃっ!そら、ツキノワの身に何かあったんかっ?」

 思わずバイクを飛び降りて原付に駆け寄り、浩介に詰め寄る。

 だが浩介は自信なさげに視線を伏せる。

「い、いや…そうじゃ、ない。ツキノワは、別に痛みとか、感じてない…?でも、感覚が弱まって…え?あれ?」

 伏せられた視線が定まらない。眼球は不規則に上下左右へ細かく動く。

「なんか、揺れてる?」

「あん?」

 その顔からは恐怖が消えていく。代わりに訳が分からない風で眉をしかめる。

「揺れてる…弱まる、感覚・・・ツキノワの体、激しく揺らされてる?」

「なんやねんそれ?ニャオ、はっきり言わんかいな」

 伏せられていた目が上げられる。隣に立つ友の目を強く見返す。

「これは、感覚が弱まってるのは…遠く、なってる…?」

「な…遠くて、テレパシーって、テレパシーにも圏外とかあるんか?」

「あーうー…さぁ…?」

 眉をしかめつつも意識を集中する。弱まりつつあるツキノワの感覚へと研ぎ澄ます。


 確かにツキノワから届く感覚は徐々に弱まっていた。

 だが同時に、バイクのエンジン音に奇妙な感覚が混じっている。

 狭い所に押し込められたまま、全身を激しく揺らされるような。例えるなら、激しく振られる缶ジュース。

 酔いそうになる気持ち悪さが、少しずつ弱まっていく感じ。


「…揺れてる、というか、振り回されてる、というか…」

 直人はヘルメットがゴツゴツぶつかるまで顔を寄せる。

「なんやねんな?ハッキリ言えや」

「これは…これは、変だ!」

 いきなり顔を上げる浩介。上から覗き込んでた直人のフルフェイスヘルメットにゴンッと当たったが、彼にそんなことを気にする余裕はない。

「これ、変だ!」

「だから、何がや」

 アゴに頭突きを喰らったけど、喰らった本人も気にする余裕がない。

「ツキノワ、バイクで運ばれてる!」

「いや、知っとるがな。そのツキノワを運んでるバイクを追いかけとんねん」

「違う!そのバイクが変なんだっ!」

「だから、何がやねんな!」

「俺たちが追いかけてたバイク、道路を走ってるんだ。でも、道路を走ってたらここまで揺れるハズがないし、止まったり発進したり、方向転換しまくるハズがない…」

 そういうと、再び彼は顔を伏せて意識を弟へと向ける。


 確かに浩介に届く感覚は、バイクのエンジン音と共に激しい揺れを感知している。

 その揺れ方は、明らかに急発進と急停止、頻繁な方向転換、そして上下運動によるものだ。

 だが、銃を片手にドライブウェイを逃亡している連中が、そんな動きはしない。いや、出来ない。

 なおかつ、感覚はゆっくりと、徐々に弱まっている。アクセル全開で疾走していたら、もっと急激に弱まってもおかしくない。

 そんな動きをするのは・・・


 二人はフェード越しに顔を見合わす。

 そして自分たちが来た方を、ダム湖の方を見る。

 森林で覆われ、舗装された道路などない山を。




 森の中、グエン夫妻は空を見上げていた。

 そこは山林の中を通るハイキングコース。土がむき出しで、あちこち丸太で階段が組まれた細く曲がりくねった道。二人の横にはオフロードバイクが立てられている。

 冬の空、白い雲が浮かぶ。

『…行きましたね。報道のヘリも警察についていったようです』

 彼方を見やる女が呟く。隣の男は息を吐く。

『どうやら陽動は上手くいっているようだな。猫の方は大丈夫か?』

 少佐の言葉に女は彼の背中を見る。大きなリュックの口を少し開け、中を覗く。そこには周期的に上下する、ツキノワの黒い毛並みがあった。

『問題ありません。ちゃんと寝ています』

『よし、では出発だ。ゆっくり確実に進むとしよう』

 そして二人はバイクにまたがりエンジンをかける。

 ハイキングコースとはいえ未舗装の山道だ。細く曲がりくねり、階段・木・小川などの障害物も多い。だが二人は見事なテクニックで走り続ける。急斜面を一気に上り、岩の上を渡り、木々の間をすり抜ける。水に濡れた石の上を飛び、サラサラな砂の上を滑り、歩きでも進みにくい悪路を進む。少佐は暴れるハンドルを力で抑え込み、女は見事なアクセル・ブレーキ・クラッチワークで制御する。木陰に身を隠していて、上空からの目も届かない。

 誰もいない冬の森、阻む者無く二台のバイクは北へと進んでいた。




 そしてグエン夫妻の南方では、二人の少年が歯ぎしりをしていた。

「やられたぁっ!囮だ!」

「く、くそったれ…俺らのバイクじゃ山道は無理や!」

「警察に連絡だ、ヘリで追ってもらおう」

 浩介の言葉が終わる前に直人は携帯を取り出していた。だがアンテナは立たなかった。

「ちぃ~っ!圏外や、寺まで戻らんと」

 原付と赤いバイクは瞬時に方向転換、再び勝頭寺へと走り出す。

 決して長い距離を戻るわけではないのに、アクセル全開なら時間はかからないのに、彼らにとってはあまりにも長い時間に思えた。



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