表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツキノワ  作者: デブ猫
5/8

5 空と海と黒猫と ①クリスマスパーティ

空と海と黒猫と

全四話予定

①クリスマスパーティ

 波の荒い日本海に朝日が昇る。

 東海と表現する国もあるけど、人間達の付ける名称に関係なく、海は海。

 幾つの国が海岸線を向けようが、それらの国の中にどんな国があろうが、大海原は公平に波を送る。

 それは日本の大地が見えないほど沖合に浮かぶ、一隻の白いプレジャーボートにも届いていた。船長室では一人の男がイスに座り、もうほとんど見えなくなるほど遠ざかった船を見送っていた。

 男は顎髭を生やし、引き締まった肉体を誇っている。眼光は鷹のように鋭い。

 広い彼の背へ、長い黒髪の女が声をかける。

『少佐…』

 日本語では無い言葉が男の耳に届く。

 艶やかな黒髪が女の素肌を滑る。細いが痩せすぎではない、女性としての柔らかさを併せ持つ体が彼に寄り添う。

 並の男であれば、一糸まとわぬ彼女の体から目を離せないだろう。だが彼の視線は海の彼方を見つめたままだ。

『少佐、新しい指令の事ですが…』

『今は少佐と呼ぶな』

 男の答えは全く色気のない、素っ気ないものだった。

 だが女は気にした風もなく話を続ける。

『では、社長。新しい指令ですが、本当に本国はこんな作戦を実行せよと?』

 彼は何も答えない。ただ朝日に輝く波間を眺めている。

 女は周囲を見渡し、船長室に誰もいないのを確認してから重ねた。

『危険です。失敗すれば、せっかく社長が築き上げた会社を失いかねません。いえ、本国もただでは済まないでしょう』

 やはり男は答えない。

 女も語らない。ただ、腕を男の首に回す。

 薔薇のように赤くふくよかな唇が、彼の頬に重ねられる。

 彼女の唇が離れ、再び動き出そうとしたとき、ようやく男の口が開いた。

『失敗を恐るな、との指示だ』

 男の引き締まった腕が彼女の腰を引き寄せる。そして長い黒髪を優しく撫でる。

『いかなる犠牲を払おうとも必ず成功させよ…。そういう命令だ』

『ですが…』

 彼女の口から漏れそうになった不安は、彼の唇に受け止められた。

 重ねられた唇は互いを求め合う。彼女の、そして恐らくは彼自身の不安を抑え込むかのように。

 しばしの後、ようやく唇を離した男は言葉を紡ぐ。

『命令は実行する。そして、成功させるさ』

 間近から彼の目を覗き込む女は、それでも不安を隠せない。

 そんな彼女を男は荒々しく抱き寄せた。

『心配するな。ちゃんと成功させるさ。…俺たちの望みが叶う時が来たんだ』

 その言葉に女は一瞬固まる。

 そして、次は満面の笑みが花開く。

『それでは、とうとう…?』

『ああ、これは恐らく最初で最後のチャンスだ。この任務を逃す手はない』

 今度は女が男を抱きしめる。

 強く、強く抱きしめる。

『必ず、成功させましょう』

『ああ、必ず成功させるぞ…。待ってろよ、ツキノワ』

 ツキノワ、その言葉だけは確かに日本語のイントネーション。

 その単語を聞いた者は、船長室の二人以外にはいなかった。

 朝日に照らされる白い船が輝く。

 船は波間に揺れる。





 ツキノワ 5

        空と海と黒猫と   ①クリスマスパーティ 





 それからしばらくの後。

 やはりツキノワについて語り合う者達がいた。

「つまり、人間に近いのではなく、人間と同程度だと?」

「はい。分かりやすく言うなら、最低でも一般的日本人の成人と同レベルです。IQで言うなら100くらいでしょうか」

 正面の大型スクリーンが光を放つ、薄暗い室内。その中に居る人々から生じるどよめきが満ちる。

 大きな輪を描く巨大なテーブルには、見るからに高級なスーツに身を包んだ男女が10人ほど着席している。それぞれの席の前にはノートPCが置かれ、闇の中に光るディスプレイが同じ画像を表示している。それは浩介とツキノワが山でインタビューを受けている動画。先日、文化祭で新聞部が上映した後にネットへ投稿されたものだ。

 着席している人々だけでなく、その背後に控える人々も言葉を漏らす。彼らは警察・警備など様々な制服を着ていた。

「これがツキノワ…遺伝子操作だけじゃなく、脳改造も受けてるんじゃないのか?」

「よくもまぁ、こんな無茶苦茶な存在が今まで公にされなかったものです」

「デタラメすぎて、誰も信じなかったんでしょう。それが幸いして、今まで無事に生きてこれたのですね」

「この技術が実用化されれば、他の様々な生物に同様のDNA操作を行えれば、一体どれほどのものか」

「まずは安価な労働力となり、社会の形も変わり…。まるでマンガの世界ですよ。現代文明をひっくり返すほどのインパクトは間違いないでしょうな」

「おそらく、歴史のターニングポイントとなるでしょう」

「というかやね。猫の脳でIQ100くらい行くんやったら、人間に同じ技術を使ったら、どうなんねん?」

「それは、もはや進歩じゃありませんわ。進化のレベルです」

 もはやどよめきでも呟きでもなく、大きな声で議論や予想が始まる。正面のスクリーンに立つ女性、春原所長がリモコンを軽く手の中で転がす。

「皆さん、静粛に願います」

 薄暗い室内を埋め尽くすのは、いずれも日本を動かすVIP達。政治・経済・外交・科学の各分野で活躍し、常にマスコミの取材対象たる重鎮だ。

 ようやく静けさを取り戻した室内を見渡し、春原はリモコンを操作した。

「ツキノワのDNA操作については、御厨博士の遺した資料にあるとおりです。10年以上前の、当時としては最先端の技術でしたが、現在においては既に誰でも知っているものです」

 正面の巨大スクリーンに表示されるのは、様々な図式と英文和文が入り交じった遺伝子工学の先端技術。室内の人々は各分野でトップに立っているが生物学者ではない。なので専門外の技術は詳しくない。ほとんどが手元のノートPCにも表示される同じ画像を見つめて眉をしかめている。

 春原は彼らにも分かるよう、なるべく簡単な言葉を選んで講義する。リモコンから出る赤い光がスクリーンの各所を照らす。

「現在でもiPS細胞を作成するために使用されることもある技術ですので、知っている方もおられると思います」

 会場の中には「iPS細胞って何だ?」という反応を示した聴衆もいたが、それには気付かぬ様子で話は続けられる。

「レトロウィルスベクターと呼ばれる運び屋を使って猫のDNAに人間の遺伝子を組み込んだのです。方法自体は特に特別ではありませんし、使用された運び屋であるウィルスにしても、どこの研究所でも普通に使っている物です」

 それが普通なのか?という突っ込みを入れたそうな人々も春原は無視。気にせず講義は進む。

「問題は、人間のDNAの、どの遺伝子が、ツキノワDNAのどの場所に入っているか、ですね。天文学的に低い確率で、偶然に細胞分裂が可能な場所に組み込まれたから、ツキノワが生まれたのです。

 この方法の欠点は、どの場所に遺伝子が組み込まれるのか運任せ、分からないということですから」

「その辺の所、ええと、DNAの解読は進んでいるのか?」

 一人の男、恐らくは常に新聞の紙面を賑わす政治家の声が聞こえる。その質問に春原は新たなデータを表示させる。それは世界地図と、各国の大学や研究所の名前が重なったものだ。

「ツキノワDNA解読計画、通称『ツキノワゲノムプロジェクト』は、既に各国の協力体制が整っています。ヒトゲノム計画の頃より解読技術は進んでいますので、数年以内には全解読が終わるでしょう」

「数年か…」

 春原が話し終えると、室内は再び呟きが満ちる。そこかしこから「次の予算編成で…」「筑波からの報告では、最短でも3年と…」「ホワイトハウスは来年中に終わらせると、補助金増額も…」「…況で北米の自動車業界が潰れようかって時に、それどころじゃなかろう…」「…都大の川中教授とロンドン大のローエン博士にも話を…」など、議論が尽きる様子はない。

 春原が再び口を開く。

「そして、恐らくは皆様が一番興味のある点、ツキノワのクローンについてです」

 静けさも一瞬で戻ってくる。

 新たなデータが各画面に表示される。それは世界中の研究機関からの報告書や、世界で最も権威ある科学雑誌の記事だ。それら全てに共通するのは、失敗が続いている、というものだ。

「…ご覧の通り、いまだツキノワ・クローンの成功例報告はありません」

 その言葉に皆、首を傾げたり眉をひそめたりする。暗闇の中でも目立つ白髪の男が声を上げた。

「何故ですか?クローンについては羊に始まり、豚や犬でも成功していると聞いていますが」

「単純に技術的問題です。クローンは成功率が低いのです。また、クローンによって作られた個体は、ほとんどに遺伝的疾患が認められています。ましてやツキノワは発生段階で既に遺伝子操作を受けているのです。ほぼ奇跡といって良い確率で健康に生まれた、貴重な個体です。

 このため、クローンの作成には相当の困難が伴います。ですが時間さえかければ、いずれは成功するでしょう」

 別の場所から別の声がわく。

「ツキノワのクローンか…。成功すれば、警察犬の鼻にツキノワの耳と知能を並べる事が出来る。欲しいですな」

 呟いたのは、闇の中でもディスプレイの光に輝く階級章を付けた男。それは警察官の階級のうちの最高位を示す階級章が付いた制服。東京都警察本部たる警視庁の長、警視総監だ。ちなみに階級章に負けず劣らず禿頭も輝いていた。

 彼の前にあるPC画面には、先ほどからツキノワが浩介・村主と共に戦闘訓練を行っている姿が再生され続けている。他にも彼らが解決した誘拐・爆弾テロの詳細な報告書も並んでいた。

 警察組織を指揮する彼の禿げた頭の中では、ツキノワのクローンが隊列を組み、警官達と共に犯人の追跡と逮捕をする姿が描かれている。そして夜の街、闇の中を人知れず走り抜けてパトロールする。愛らしい猫の姿がポスターになり、駅や交番の掲示板に貼られる光景も。もちろん新たに新設される警察猫生産施設・育成機関という天下りポストへの配慮も忘れない。

 他の人々の脳内でも様々な未来像と利権が描かれる。まるで少年少女のような明るい未来像、というほど純粋で美しいモノではなかったが。

「次に、ツキノワの生殖についてです。現在のところ、名香野市では他にツキノワと似た個体は発見されておらず、自然生殖による個体数増加は期待できません。やはり一代限りの変異体と…」



 その後も講義は一時間ほど続き、出席者や、その部下達が部屋を出入りしたり各機関へ指示を飛ばしたりしながらも、大方の報告を終えた。



「…以上です。

 ツキノワは現在のところ唯一の個体です。今後も研究を継続するには、その飼い主たる沢渡家の協力が欠かせません。マスコミや世論もありますので、強制摂取のような強硬手段は控え、現状維持すべきと考えます。

 このため、警察の方々には今まで以上に、沢渡家と名香野市への警備強化をお願いしたく思います」

 そういって春原は警視総監へ頭を下げる。総監は「ん」と小さく頷いた。だが異論が先ほどの白髪の男からあがる。

「待ってください。やはり野放しというのは危険ですよ。そちらの大学で預かるか、警察で身柄を保護すべきでは?」

 その問いには春原が変わらぬ冷静さで答えた。だが答えを聞いた方が少し冷静さを保てなかった。

「本人達、沢渡浩介とツキノワの希望です」

「…子供のお願いを聞くのも母親の務め、ですか?だから夏に、ツキノワの治療終了後に自宅へ戻ることを認めた、と」

 その言葉には多少の皮肉が含まれていることは、室内にいる全員に分かる。空気に少し緊張が走る。

 だが、それでも春原の学者らしい冷静さは変わらなかった。

「いいえ。単純に利益と不利益を計算した結果です。

 ツキノワの生物学的研究に関しては、ツキノワの自然な生態を観察することが重要なのです。貴重だから保護という名の捕獲・飼育をするは、金の卵を産む鶏を殺すのと同じことです。

 また、研究に必要なMRI・CT・脳波・血液検査等は既に完了しています。わざわざ檻に閉じこめてまで継続的検体採取を行う必要は乏しいのです。

 なにより、ツキノワの真価は人間に匹敵する知能と社会性にあるのです。無理に社会から隔絶して情報を制限すれば、知能と社会性の発達を阻害し、その真価を損なう結果に陥るでしょう。

 あと、念のために言っておきますが、解剖して内蔵や脳を調べるというのは愚策の極みです。モナ・リザの秘密を知るためにモナ・リザを切り刻んで、モナ・リザを台無しにするようなものです。

 それに当然ながら、研究への協力は各人の自由意志に基づいた方が、効率が良いですから。簡単に言うと、ヘソを曲げられたら各種検査がやりにくいです」

 人、という言葉が使われたとき、室内には失笑と困惑が入り交じった感情が漂った。猫を人扱いするか、ツキノワは人間として扱うべきか、それは軽々しく口にすべき問題ではなかった。それでも彼らはこの点を無視するわけにはいかない。そういう立場にある人々なのだから。

 まるで腫れ物でも触るかのような顔で、出席者の一人が呟く。

「ツキノワを、人…と呼ぶのか?」

「そういった政治的・法的判断は皆さんにお任せします。私は純粋に研究者として、最も効率の良い研究手段を採ります。そして、ツキノワと沢渡浩介の自由と権利を認めることが最良と判断しました」


 春原は相変わらず学者としての冷静な態度を崩さない。だが政治・経済・警察機構を司る人々は、そうもいかない。あちこちで溜め息混じりの討論が起きる。


「猫に対して、人間並みに権利と自由を認める、と?」

「…既に動物愛護団体からは『ツキノワに人権を認めよ』という声が」

「もしペンタゴンがツキノワ引き渡しを要求したりしたら、どうする。日本国民でもないのに、拒み切れるか?」

「今のところは共同研究で満足してる。あちらさんの世論もあるし、いきなりそれはないと信じたいな。だが、軍や移植用人工臓器開発への転用を考えたら…手段を選ばなくても不思議はない」

「中東には『神の尊厳を冒す、悪魔の使いを抹殺せよ』なんてことを勝手に宣言する宗教指導者までいますよ。そこまでいかなくても、クローンへの偏見や嫌悪感、誤解もまだまだ多いです」

「やはり法的・政治的保護は必要ですね」

「しかし既存の法律や憲法は人間を前提に作られてるんだぞ。それを、いくら知能が高いからって、猫に適用するなんて…無理だ」

「つか、猫ですよ、猫」

「人の遺伝子が混じってる。人扱いしてもおかしくはない…かな?」

「いや、無理」

「新法を作るのか?ツキノワ法か…たった一体の個体のために、果たしてそこまで出来るかなぁ。ウチの党も経済対策で手一杯だっていうのに。このうえ外交問題だの人権論議だのは勘弁して欲しいよ」

「マスコミも世論も意見がまとまらないわ。迂闊には触れられない点よ」

「しかし、ツキノワは既に日本の財産と言って良い。それを保護もせず放置しては、いずれ取り返しの付かないことに…」

「ちゅーてもやなぁ、ツキノワの知力と五感、そして飼い主たる沢渡浩介との連携、強力やね。事実、今まで誰もツキノワの強奪はおろか、盗撮すらろくに成功してへん。警察が周囲の警戒を固めれば、とりあえずは安全やろ」

「バカな、所詮は子供と猫一匹だ。単なる交通事故だってありうる。我らも先手を打ち、最善を尽くすべきだ」

「沢渡家への協力要請を強めよう。だが、こちらの心配や配慮も理解できない低脳なら、しょうがない。捕まえるなり沢渡家に圧力をかけるなりすべきだ」

「だが、誰がツキノワを秘密裏に捕まえれるんだ?大規模な山狩りや警察の大捜査網を引かないと無理だろう。圧力をかけるにしても、どちらにしても、マスコミにばれるぞ」

「世論が怖い、か。だからって・・・」

「ツキノワ人気は高い。現状では情報操作も難しい…」

 室内の人々の意見もまとまる様子はなかった。結局、この点については協議を継続するという無難な先送り決定をして、講義は終了した。





 講義が行われたのは、とある高級ホテルの会議室。

 暗幕が上げられ、外の夜景が見える。街路樹は冬の寒々しい姿だが、高層階の会議室からは見ることが出来ない。見えるのは、宝石箱をひっくり返したかのような街の輝きと、天を突く高層ビル群。

「それでは、木村君。後片付けはお願いします」

「はい、それでは頑張ってきてください」

 木村が機材を片付ける人々に指示を飛ばすのを確認したら、すぐに春原は白衣を脱いで黒のジャケットとワンピース姿になった。そしてバッグ片手にエレベーターへと向かう。


 エレベーターから降りると、そこは最上階の高級レストラン。受付のボーイに名を告げるとすぐに一番奥の窓際へと案内された。そこには既に先客が着席していた。それは、先ほどの講義に出席していた白髪の男だった。

「やぁ、よく来てくれましたね」

「お招き預かり、光栄です。森田会長」

 春原は一礼し、ボーイがひいた椅子に腰を下ろす。すぐに二人の目の前にはワインが注がれたグラスが置かれる。

 森田庄一郎。第二次大戦後に起業し、一族三代に渡って日本経済の支柱となる巨大多国籍企業MORITAを経営してきた森田家、その現当主。白髪だが肌は瑞々しく張りがある。眼光鋭く、体も引き締まって若々しい。

 二人は型通りの乾杯をして、恐らくはそのボトル一本で日本の平均的サラリーマンの月収を超えるだろうワインに口を付けた。

「先ほどの講義、とても刺激的でした。やはり先端科学というものに触れると心躍りますね」

「お褒めにあずかり光栄です。世界の最先端を走る巨大企業の会長から好評を得ることが出来るとは、お世辞としても嬉しいですわ」

「お世辞などではありませんよ。我が社はバイオ分野がありませんから、異分野の最先端に触れる機会は貴重です」

 その後も運ばれてくるスープや魚料理を前にして、しばらくは当たり障りのない世間話が続いた。ただ世間話といっても、その内容は日本の物理学でトップを走る人の失敗談や世界第二位の投資会社でのパーティだったりと、報道関係の人なら盗聴したくなるようなものばかりだが。

「ところで…春原さんのご子息達のことなのですが」

 肉料理を食べ終えて、口に付いた油を拭く森田が話題を変える。その話題を口にされ多時、春原のナイフを動かしていた手が止まる。

「明石社長、とても喜んでいましたよ。どうにかしてお礼をしたいけど、受け取ってもらえず困っているそうです」

「明石社長、とは誰でしょうか?」

「ああ、失礼。ナスレの社長ですよ。息子さん達が助けてくださった、食品大手の」

「そうでしたか。それにしても、そんなに喜んでもらえたのですか?」

「それはもう。社員千人に子会社下請け、多くの人が路頭に迷わずに済んだのです。なんとしても礼をする、と気合いを入れていました。

 なので…こういうのは筋違いのような気がするのですが、春原さんから息子さん達に、明石社長との会見の席を設けるようはからっていただけないかと」

 その言葉に春原は、初めて科学者らしい冷徹な態度を崩した。ニッコリと微笑んでナイフを置く。

「分かりましたわ。あの子達も最近は少しずつ大人や社会への警戒を解いてきました。もしかしたら応じてくれるかもしれませんので、伝えておきましょう」

「そういって下さると助かります」

「ただ、確実とは言えません。なにしろ、あの子達は用心深いですから。私と沢渡家の関係には微妙な点もあります。その事だけはご了承下さい」

「分かりました。そのように明石さんには伝えておきましょう」

 その微妙な点というのが何なのか、あえてテーブルの上には出されなかった。


 二人とも肉料理を食べ終える。綺麗に平らげられた皿が下げられ、次のサラダが運ばれてきた。二人とも、上品かつ優雅にサラダを口にする。

 一口食べ終えた所で、再び森田が話を切り出した。

「明石社長のことは、それで良いんですが…今度は、日成食品の小宮会長が怒ってましてね」

「はぁ、何故でしょう」

 すました顔で春原はサラダを口に運ぶ。

「なんでナスレだけ助けるんだ。ウチだって大変なんだぞ…と」

 春原は思わず苦笑いしてしまう。

「それは、たまたま縁が無かったからだと思いますわ」

「ま、そうなのですがね…」

 今度は森田がフォークを皿に置く。そして言いにくそうに淀みながら話を続けた。

「その、ですね…。息子さん達は、なんといいますか、自分たちの立場を良くわかっていないのではないかと。つまり、その、多くの人が彼らに対して抱く様々な思い、その重さへの理解が乏しいのではないか、と…」

 その意見に対し、春原は淀みなく即答する。

「それはそうでしょう。彼らはまだまだ子供なのですから。大人並みの配慮や社会への貢献をすべき立場にもありません。そういう社会の仕組みは、これからゆっくり学んでいくでしょう」

 常識的な一般論。だが森田は言葉を続ける。

「ええ、それは全くです。ですが、彼らの立場は彼らに普通の人のような穏やかな時間を与えていないようです。なので、早急に彼らは社会における自分達の立場を学び将来を考えるべきだと思うのですよ」

「将来ですか、まだ彼らには想像もつかないことでしょう」

「でしょうね。でも、早いうちに考えなければいけないことです。

 実際、彼らは彼らにしかない能力や才能を持っています。それを育ててあげるのも周りの大人の勤めでしょう。世間から逃げ回って、山にこもり仙人のように暮らすわけでもなし。ならば、早くから社会に出て自分たちの居場所を見つける、その課程で収入と仕事を得るのも、ありかと」

 さらなる森田からの意見に、彼女は微笑みをたたえる口元で応じた。

「そうですね、確かに。

 では、まずは浩介が御厨誠一郎から相続した彼の研究資料について、改めて権利主張を勧めてみましょうか。ツキノワの安全と科学の発展のため権利を放棄するのがよい、と沢渡家では決めていたのですが」

「あ、あはは、これは手厳しいですね」

 今度は森田が苦笑いをした。


 御厨の親族は、今は浩介しかいない。両親は病死し、兄弟もいなかったから。なので築島大学が発見した御厨の研究資料の権利は、肉親である浩介が相続する。ちなみに相続権の時効は20年。御厨が死んだのは10年ほど前なので、浩介が相続することに問題はない。

 しかしこれを秘密にしたら研究が進まない。また、研究のためにツキノワを奪う必要性が高まる。だからあえて無償で一般公開された。

 つまり、社会における自分たちの立場を良くわかっているからこその浩介とツキノワの決定だ。こんな重要資料を無償で公開したのに、社会やツキノワ研究への貢献について理解が乏しい、という批判は当たらない。むしろ、これ以上の社会への貢献や協力を要求するのは、非常に微妙で危険な立場にいるツキノワと浩介の心配や配慮を理解していないということにもなる。


 そして、そのようなことは巨大企業を支配する森田家の当主なら思い至ることだ。なので、彼としては笑って誤魔化さざるをえなかった。

「とはいえ…」

 相変わらず微笑みを浮かべる唇をワインで濡らし、春原は話を続ける。

「そのような意見があることを浩介とツキノワに伝えることには問題ありません。その後、沢渡家で何が決まるかは分かりませんが、とりあえず話は聞いてもらえると思いますよ」

「そうですか。助かります」

「それに、天下のMORITA社長からの意見となれば、浩介は無視しないでしょう。なにしろ、彼が使っているPCと周辺機器は全部、御社の純正品ですから」

「ほほう、これは光栄ですね」

「値段を気にせず良い品を選べば当然ですわ。あなたからの言葉となれば、さすがに興味を引くでしょう」

「何から何まで助かります。ではナスレの明石さんだけでなく、僕も会いたがっていると伝えて頂けませすか?」

「もちろんですわ。先代の頃より築島大学と当研究所に寄付して下さる森田家の現当主からの言葉ですから。その所長である私には、森田家からの言葉は聞く義務があると思います」

「そういって頂ければ、家で静養している父も満足してくれると思いますよ」

「喜んでもらえれば幸いです。学長も『よろしく伝えておいて欲しい』との事です。

 ところで、お父上の具合はいかがでしょうか?夏前にツキノワ研究の中間報告をして以来、お見かけしないので心配ですわ」

「あ、心配無用です。すっかりよくなりましたよ。早く現場に復帰させろと医者を困らせてばかりで…」

 そんな話を続けながら、春原はスポンサーの接待をこなしていた。





 所変わって、とある山裾の日本家屋。

 居間にひかれたカーペットの上、大きなコタツの中にある薄暗くて四角い空間。人間ホイホイとも呼ばれる天国の中に、トレーナーを着た足が何本も伸びている。細い女の子の足と、結構引き締まった少年の足と、中年男女の足がだらーんと。

 そして足の隙間を縫うように、ツキノワの黒い体もでろーんと伸びていた。

 外は真っ暗な夜の山を背景に、部屋の明かりに照らされた白い雪がチラホラと舞っている。部屋の中にはコタツの上に広げられた沢山の手紙や封筒に目を通す家族がいた。

「…というわけで、ナスレのクリスマス会に出席しませんかって。大株主や重役限定の高級なパーティの方らしいよ」

 浩介は寝転がって手元の手紙を読んでいる。

 母、薫の手には英文が羅列された便箋がある。日本語の翻訳文も付いているが、薫は英文の方だけ見ている。

「こっちはダボス会議への招待状。警備は厳重で、特にツキノワの周囲は有名なアメリカの民間軍事会社が担当するから安心して欲しいって」

 その内容には夫の博が顔をしかめる。

「ダボスって、スイスの世界経済フォーラムか?ツキノワは関係ないだろ。単にマスコミを集めるための客寄せだな。つーか、あんなデモとテロのバーゲンみたいな場所にいけるかというんだ」

 紗理奈は右手に高級和紙の手紙、左手でコタツの中のツキノワを撫でている。

「日成食品から、ウチも苦境だから助けて欲しいって話みたいねー。他にも沢山の会社から来てるわよ。…うわ、これなんか、報酬凄いわね」

 目を輝かせる紗理奈の前には、各企業から来た仕事の依頼書が山と積まれている。食品だけでなく家電・不動産・芸能プロダクションと色々だ。新聞や雑誌、TVの取材依頼が半分くらいか。

  《お金の話はパスね。僕は財布も持てないんだから》

 コタツの中で背中を撫でながらくつろぐツキノワ。その目は浩介の目を経由して手紙の内容を読み、その声は浩介の頭に届く。そしてツキノワの言葉は浩介が代弁する。

「ツキノワは金に興味ないよ。いくらあっても使えないから」

 よっこらせっ、と体を起こした兄は、コタツの上に広がる郵便物の山を見る。

 そして、ふぅ…と溜め息をついた。

「はぁ~、予想はしてたけど、やっぱり騒ぎが大きくなっちゃったなぁ」

「当たり前でしょーが!バカ兄貴!」

 いきなり妹にバカ呼ばわりされたが、特に怒るふうもない。怒りだしたところで文句を止めはしなかったろうけど。

「兄貴もツキノワもお人好しが過ぎるのよ!誰かが困ってました、助けました、そして自分が代わりに困ってしまいました…ンなもんやるだけ損でしょ!後先考えなさいよ!」

 母は困らず、どちらかというと笑って紗理奈をなだめる。

「まぁまぁ、紗理奈も怒らないで、ね」

 一応は口を閉じる彼女だが、ぷいっと横を向いた目は不満タラタラという感じ。それにしても、と薫は溜め息をついた。

「電波系や誹謗中傷のが随分減ったけど、代わりにお金系が増えたわねぇ」

 博はチラリとゴミ箱の方を見る。ゴミ箱はゴミと見なされて捨てられた郵便物だけで満杯だ。

「ナスレ救済の件で世間からは好感抱かれたみたいだが、世論なんて右にも左にも簡単に動く。周りに惑わされるなよ。

 といっても、俺も職場じゃ針のムシロだぜ。なにせ病院の医者達よりデカい家に住んでるんだからなぁ。ハァ…病院を移ろうにも、移った先でまた『ツキノワ会わせろ』の大合唱は間違い無し。

 前の家、欲をかいて高く売るんじゃなかったなぁ」

 その言葉に、妻子達も猫も困った顔。


 浩介の父、博は看護師。看護師の給料は安いが、医療業界は医者も看護師も、万年人手不足で就職先には困らない。ただし同じ職場で働く医師や看護師とはイロイロある。例えば、医師より安月給で働いてるハズの看護師が豪華な暮らしをしていると、医者や他の看護師から嫉妬され嫌がらせされるとか。ただでさえ医療は過労死当然の業種、彼らの心は疲れ荒んでることも。

 ちなみに、男性看護師は珍しいとか言われるが、少数派だけど数は少なくない。ただ、白衣を着て働いてると医者と見分けがつかないので男性看護師と分からないだけ。あと、働く場所も手術室とか集中治療室とか精神科とか、普通の人は滅多に入らない場所に集中しているから目立たない。


  ピンポーン

 一家団欒らしきものをしている沢渡邸内に来客を告げるチャイムが鳴る。

「誰だろ、こんな時間に」

 浩介がコタツから出てインターホンに出てみると、バイクを横に置いた冬着の警官がいた。ツキノワがコタツ布団から頭だけをピョコッと出す。

『夜分失礼します。巡回に来ました。何か変わりはありませんか?』

「いえ、別に。…どうかしたんですか?」

『はぁ、実はこの近辺を不審な車がうろついているという通報がありまして。一番近くにいた本官が来たわけです。すると確かに見慣れないナンバーの車がいました』

 家族全員が壁に付けられたインターホンの方を見る。ツキノワは黒い三角の耳をピコッと向ける。

「へぇ、ナンバーはどうでした?」

『照会してみましたが、遠くから来ているだけで、別に異常な所はありません。一応、携帯で写真を撮ってみたんですけど、この車に覚えはありますか?』

 浩介は小さな画面を覗き込む。そこには警官が差し出す携帯の小さな画面があるが、小さすぎて白っぽい車の影しか分からない。

 浩介は親たちに視線を向け、手を動かす。人差し指を二回、指で作った丸を一回、素早く突き出す。同時にツキノワがコタツを飛び出して縁側のガラス戸前に座る。紗理奈は一瞬首を傾げた後、ピンと来た顔になる。コタツを出て縁側の戸を開けた。すると猫の弟はすぐに外へ飛び出た。

 その間も浩介は警官との会話を続ける。

「うーんと…もう少し携帯を寄せてくれません?」

『ええっと、これで分かります?』

「なんとか…うーん、分からないなぁ」

『小さくて見えない?』

「ええ。それにこのインターホン、古くて画像が荒いんですよね」

『困ったなぁ、ちょっと画面を直接見てくれません?』

「えー?この寒いのに外へ出るんですか?」

『ちょっとでいいんですよ。異常が無いのだけ確かめれれば良いですから』

 そんな話をしている浩介の背後では、薫が携帯で電話している。博は家の奥に行って押し入れの中を探っている。紗理奈は準備体操を始めた。

「…まぁ、分かりました。でも、ちょっと着替えないと外に出れないんで、少し待ってもらえますか?」

『ええ、お願いします』

「それじゃ急いで準備しますんで。3分くらいかな、待ってて下さい」

『はーい』

 浩介はインターホンの受話器を置いた。

 そして、クルリと後ろを向く。

「と、ゆーわけで、準備しようか」

「もう準備は終わってるぞ」

 答えた博を始め、確かに沢渡家の面々は準備を終えていた。

 紗理奈は催涙スプレーとスタンガン、博は金属バットに腰のナイフ、そして薫は包丁を手にして素振りしている。そしてコタツの上には浩介用の武器、ボウガンと矢筒が置かれていた。

  《よぉ、そっちはどうだ?》

  《あー寒い。まったく、こんな日に勘弁してよー》

 全身の毛を膨らませるツキノワは、寒さに震えながら屋根の上に居た。猫の目に見えるのは、遠くてよく分からないが、壁の向こうにいる警官の頭。勝手口前にいる彼の少し離れた場所に白い車が停まっている。猫の耳を向けると、車内に何人もの人間が息をひそめているのが分かった。



 約束通り、3分後にはジャンパーを羽織った浩介が通用口に出てきていた。

 浩介の後ろには紗理奈もいる。

 彼の前にはインターホンに出ていた警官姿の男。そして彼を両脇から捕まえる本物の警官達。

 白い車からは、ナイフ類を装備した男達が手を挙げながら出てきて武器を捨てさせられる。みるからに屈強な警官達と刑事達が男達を連行していく。その周りには何台ものパトカーが、赤色灯を回転させながら停まっている。

 博と薫の前に、一人の刑事が立っていた。

「ご協力、感謝します」

「こちらこそ、ありがとうございました。垣元さん、いつもご苦労様です」

「いえいえ、大したことはありませんよ」

 中年だが無駄の無い体つきの、なかなかの色男が敬礼する。そして、連行される警官姿の男を眺める浩介の方へ向いた。

「さて、君が発見したのは、これで全員?」

「ええ。家の周りにいたのは全員」

「分かった。あとは警察が周囲を巡回しておく。こちらに任せておいてくれ」

「お願いします」

 浩介は垣元へペコリと頭を下げる。パトカーに押し込められようとしていた警官姿の男が、浩介へ向けてツバを飛ばした。

「けっ!てめぇも改造済みだったのかよ。生体強化されて超人気取りか?猫人間が!」

 浩介を罵った男は、即座に左右の警官に頭を押さえつけられた。その様子を浩介は下らなそうに白い目で見ている。

「悪いんだけど、あんたがニセ警官だなんて、俺んちの者なら当然に分かるんだ」

「なにぃ?な、なんでだ!この服装もバイクも、完璧に偽装したぞ。まさか携帯で車の写真を撮ったら、強盗だと思うってのか?」

 その予想に彼は首を振る。

「写真なんか、関係ないんだ。あんたがインターホンに姿を見せた時点で、あんたがニセ警官だってわかってたんだよ」

「な、ど、どういうことだ?」

 警官に頭を押さえつけられたまま、男は聞き返す。

 その問いに答えたのは、あっかんべーをしていた紗理奈。

「何故ならぁ…この町の、名香野警察署の警官の顔は全員覚えているからよ!警察だって見知らぬ人間を怖がるツキノワがいるのに、知らない警官をウチの周りにうろつかせたりしないのよ!」

 今年の春から散々警察の世話になった沢渡家。既に名香野市の警官は必ず一度は沢渡家の者と顔を合わせていた。でもそんなことは、警官のフリをして勝手口を開けさせ、家に押し入ろうとしていた強盗達の知る事ではなかった。

 ニセ警官はガックリとうなだれて、パトカーに押し込められた。


 こうして、屋根の上で寒さに震えるツキノワはコタツに戻り、街は静かな夜を取り戻した。

 次の日は朝からマスコミの取材が家の周りをうろつき、『ツキノワ、強盗を撃退!』というニュースがTVに流れるが、それも既に名香野市と沢渡家の日常となりつつあった。





 スカッと晴れた冬の朝。黒の学生服の下に重ね着してマフラーまで巻いてるけど、体の芯から冷えてくる。自転車で走ってきたけど、坂道を下るばかりだったから向かい風が寒い、つか痛かった。

「ニャオ、おはよーさん」

「うーっす。…ンだよ、村主。ニヤニヤして」

 駐輪場は自転車で登校してきた生徒が狭い通路ですれ違う。なので村主みたいなでかいのが立っていると、後ろから来る連中が進めなくてつっかえる。

「へへ、朝のニュース見たで。昨日も派手にやったようやないか」

「やってねーよ。呼んでないお客様はサッサと帰ってもらっただけだ。つか、早く行こうぜ。狭い」

「おう、せやな」

 村主の後ろには、既に数台の自転車が並んで冷たい目を向けていた。


 教室へ向かう間も、通りすがりのクラスメートや中学時代の知り合い、見知らぬ上級生達からも声がかかる。

「沢渡君、今日もお疲れ様ねー」

「お早う、昨夜も一戦やらかしたんだって?」

「相変わらずの戦闘力ねぇ。そろそろ自衛隊にスカウトされるでしょ」

「外人さんには気をつけろよ。遠いお国へ売られちまうぞー」

「ツキノワ匿うときは言ってね。うちなら何時でもオッケーよ」

「新聞に載ってたけど、昨日の連中って指名手配犯ばかりだったらしいじゃん。やっぱ、その手の捜査依頼を警察から請け負ってるんだろ?」

「沢渡君の家って、犯罪者ホイホイだね。警察も楽だわ」

 もう否定したり説明したりも面倒だ。テキトーに挨拶したり相づち打ったりしながら教室へ行く。こんなふざけた風景すらも、もはや日常になってしまった。


 扉をガラリと開けて教室に入れば、やっぱり朝の挨拶代わりに昨日の事件を聞かれてしまう。もっとも聞く方も慣れたもので、もはや強盗くらいでは大して驚いたり興奮したりしなくなってしまった。

 とりあえず俺も村主も席に荷物を置く。

「俺、普通の高校生だったんだよなぁ…。どうしてこんなに普通じゃなくなってしまったんだか」

 そんな呟きを漏らすと、バシッと背中を叩かれた。

「あいたっ!だ、誰だよいきなり、って、篠山か」

 後ろを振り返れば、ニコニコとした篠山と尾野が立っていた。もちろん篠山の手にはカメラ、尾野の手には小型ノートPCがある。別クラスだけど、俺が来るのを朝から待ってたのだろう。

「おっはよー!普通じゃない高校生のニャオくーん、今朝も取材をよろしくねー!」

 元気にカメラを持った右手を伸ばしてくる篠山はプイッと無視。尾野の方へ向く。

「昨夜の強盗事件の事だろうけど、別に面白い話はないぞ」

「ううん、沢渡君の話が聞ければ十分だよ」

 小さく頭を下げる尾野が、眼鏡越しに上目遣いで俺を見上げる。むぅ、萌える。やっぱり可愛い。

 俺がちょっと身悶えそうになると、風を切って村主の巨体が飛んできた。

「そうやのぉ、昨夜は何があったんか、俺も聞きたいわ。ついでに教えてくれへんか?」

 もちろん村主の視線はチラチラと尾野へ。…尾野は村主の気持ち、気付いてないはずないんだけど。こいつのことをどう思ってるのかな。

「ああ、いーぜ。昼休みにでもどーだ」

 横から、こらーあたしを無視するなー、と抗議する篠山はおいといて、新聞部の取材を受けることにした。



「ふぅ~ん、今回は手早く片付けたんだね」

「ああ、いい加減こっちも慣れてきた」

「イヤな慣れ方やのぉ」

 昼休みの食堂。うどんやカレーが置かれた机を挟んで篠山がインタビュー。隣の尾野がノートPCでメモしている。俺の右には村主が座ってる。売店のパンや食券を奪い合う、戦場のような騒がしさも既に消えてる。今は午後の授業までのフリータイムを楽しむ生徒がチラホラいるだけだ。

「今回の事件はこんくらいね。毎度ありがとねー♪」

「んじゃ、このカレーは新聞部のおごりな」

「バカ言わないでよ。新聞部の予算じゃ取材料なんか出ないの」

「ケチ」

「つかね、あんたの家は大金持ちじゃないのさ。むしろこっちがおごって欲しいわよ」

「俺の小遣いは増えてねーよ」

 そんな軽口を叩きつつ、俺と村主は席を立とうとした。だが黙ってキーボードを叩き続けていた尾野が呼び止める。

「あ、待って。実は、ナスレの会長がツキノワちゃんにお礼をしたいって言ってたんだけど、それってどうするの?」

「な、何で知ってるんだ?」

 俺はビックリ。

  《うわぁ!ビックリした。な、何なに?》

 今日初めてツキノワの声が聞こえた。俺の仰天がツキノワにも届いたらしい。どうやら今の今まで寝ていたんだろう。

 好きな時間に好きなだけ寝放題、というのは羨ましい。けど猫は元々夜行性だから、俺と違う時間に寝ているのは当たり前。弟の視界を見てみれば父さん達の部屋のベッドだ。今朝からずっとベッドの上で寝ていたな。

 ともかくツキノワに脳内で事情説明。そして尾野も俺たちにPCの画面を見せて事情説明。

「これは、例のナスレが倒産を免れたときの話について取材を受けた時なの。一番最近の社長さんのインタビューだよ」

 そこには、スキャナーで取り込んだのだろう、何かの雑誌の一面が載っていた。禿げ上がったおじいさんの写真が載ってる。内容は、明石社長がこの談話を通じてツキノワと沢渡家にメッセージを送りたい、とのこと。全力でツキノワに恩返しをしたいので返事をして欲しい、と。

  《ふわぁ~、そんなにお礼をしたいのかなぁ?》

「うーん、別にいいって言ってるのになぁ」

 俺も弟も、さすがに呆れてくる。俺は田島さんに頼まれたからやったわけで、田島さんのためであって…田島さん・・・うぅ、田島さ~ん・・・。

 なんか、思い出したら落ち込んできた。

「実はやなぁ、ナスレのクリスマス会への招待状がウチにきとんのやけど、ニャオんとこにも来てへんか?」

「来てるよぉ~」

 ヘタレながら答える。そして心に堪える。

 そんな俺の心の傷をえぐるかのように、篠山がズズィと前のめりで質問を続ける。

「んでさ!んでさ、行くの?どうするの?」

「お前にゃ関係ないだろぉ~」

  《もしかして、田島さんも来てるかな?》

 何の気なしの、ツキノワの声。

 でも俺のハートはロックのリズムを刻むぜベイベー…似合わないノリはやめとこう。

 とはいえ、さてどうしよう?

  《僕は、良いと思うよ。そこまでお礼をしたいって言うなら、構わないんじゃないかな》

「うーん、村主はどうだ?」

「俺は、俺自身は別にかまへんけどな。ナスレというたら美味い食いモンたっぷり出るやろし。問題はツキノワや」

 俺は腕組みして、うぅ~む…、と考え込む。

 ツキノワはOK。春原さんも、そろそろ社会に出る事を考えてみてはどう?って言ってたし。父さん母さんは別に反対しないだろう。VIP専用のパーティだから警備も出席者の身元もしっかりしてるだろうから。俺も、田島さんのことはおいといて、そうまで社長さんが直接に礼をしたいっていうなら、別にいいかなぁ。そうだ、田島さんがパーティに出てるかなんて分からないし、つか出てるハズがないし、そうだよそんなのとは関係ないんだぞ。

  《…無理しなくていいから》

  《…はい、田島さんに会いたいです》

 さて、となると再び強敵が一名残るわけだ。兄たる俺をナイガシロにして弟ばかり猫かわいがりする強敵の妹が。





 そんなこんなでやってきたのはクリスマス。

 ホワイトクリスマスにはならなかったけど、朝から今までずっと天気は良かった。TVはどれもクリスマス特集で、町並みはクリスマス一色。日が暮れた今、街路樹やあちこちのビルが赤と白のイルミネーションで光を放つ。どの店もクリスマスセール中。道を行き交う家族連れやカップルは楽しそうだ。

 そんな車窓から見えるビル群の間を、俺は高級車らしいフカフカのシートに腰掛けながら眺めている。車が向かう先はイルミネーションで入り口を飾られた立派なビル。

 

 何人もの警備員が厳重に固めるナスレ本社ビルの地下駐車場に入った一台の黒塗りベンツ。社員らしい受付嬢が開けたドアから降り立つのは、初めてブレザーに袖を通した俺。反対側のドアからは、まるでSPのような真っ黒のスーツを着た村主…一瞬、サングラスをかけた姿を想像した。似合いすぎてた。

 そして最後に車の後部座席から、スルリと音もなく降りたのは、ツキノワ。三角の耳を周囲に向け、軽く空気の臭いを嗅いで安全を確認する。それから俺の足下に行儀良く座った。

 ツキノワが降りた瞬間、警備の人達の緊張感が増したのが分かる。一瞬、全員がツキノワの方を見て、それから周囲の全方向へ視線を巡らす。事前にツキノワが来るのを知らされて、警備のレベルを上げたんだろう。見たところ、カメラを構えたマスコミの姿は見えない。

 コンクリがむき出しの地下駐車場には、何台もの高級車が次々とやってくる。そこから降りてくる人々も一様に高級そうな背広やドレスを着た、紳士淑女な感じの人だ。ただ、その人達も俺の足下のツキノワを見れば、全員が目を見張る。駆け寄って来ようとするのを警備員に止められる人も多い。

「兄貴、何をぼさっとしてんのよ」

 後ろから紗理奈に怒られた。振り向けば、白いワンピースを着た妹が腰に手を当ててしかめっ面。こいつは何時になったら俺に笑顔を向けてくれるんだろう。俺が何か悪いことをしたのだろうか。

 紗理奈の後ろには、見たこともない赤いジャケットとワンピース姿の母さん。髪は見事にセットして、化粧も気合いが入ってる。その後ろは、手提げ鞄を手にした背広姿の父さんが、後続のベンツから降りてくるところだ。

「ほらほら、みんな。シャンとしなさい。こういうフォーマルなシチュエーションでは、礼儀正しく胸を張ってね」

 そういってる母さんは、なにやらソワソワしている。父さんも着慣れない背広が似合ってない。そりゃそうだ。少なくとも俺の知る限り、父さんと母さんはこんな高級そうな服を着たことがない。こういうVIPが集まる高級パーティに出席したこともないんじゃないかな?

  《うわー、こんなのTVでしか見たことないよ。うわー、初めて見たよ》

 俺の足下のツキノワは、さっきから周囲をキョロキョロしっぱなしだ。そりゃそうだ。ツキノワにしてみれば、名香野市から出たこと自体が初体験。周りの物は全部が初めて見るものばかり。俺にしても、こんな金持ちの世界に縁がないんだから、やっぱり初めて。

 父さんが歪んだネクタイを直しながら、フゥッと大きく息を吐く。

「さ、とにもかくにも、行くとするか」

 ガチガチに緊張してる父さんを先頭に、駐車場入り口から敷かれた赤絨毯を踏みしめ、俺たちはエレベータールームへ向かう。そこら中で案内係が「いらっしゃいませ、こちらで御座います」と道を指し示す。

 その間も、すれ違う人々がツキノワを見て指さしたりコッソリ写真を撮ったり。とても上流階級の人達とは思えない歓声を上げる人もいる。

 そういう人々をしかめっ面のまま一通り睨み付けていく村主が最後尾にいる。…いや、本人には睨んでる気が全くないのは俺には分かってる。でも、その目つきは明らかに睨んでいるという種類のものだ。どう考えても招待客ではなく、招待客個人付きのSPにしか見えない。



 篠山と尾野のインタビューを受けた日、ナスレの招待を受けようと思ってると家族に告げた。予想通り紗理奈はイヤな顔、父さん母さんは少し考えてOK。それでもナスレの社長がそんなにお礼をしたいのなら、というわけで紗理奈も納得した。

 ただし、俺と村主だけじゃ不安だというので、親たちと妹までついてくることになってしまった。まぁしょうがない、俺と村主だけじゃ、確かに不安だし。具体的には、そんな高級パーティで何をどうすればいいのか全く分からない。



 けど親たちにしても、何をすればいいのか分からないみたいだ。緊張しまくってる。エレベーターが俺たちを最上階へ運んでいる間も、服装を直したり髪を触ったり、父さんは鞄を持ち替えたり、母さんはセカンドバッグを開けたり閉じたり。村主はボタン前にいるエレベーターガールを睨んでる。

 そのエレベーターガールのお姉さんは、さっきからチラチラと足下のツキノワを見つめてる。その手は固く握られたかと思えば、指がせわしなく動いたり。

  《僕に触りたい…みたいだね》

  《猫好き、かな?ちょっと触らせてあげようかな》

  《惜しい、時間切れ》

 お姉さんへのサービスをする間もなく、エレベーターは最上階に到着した。残念そうな顔をしたお姉さんが、「お待たせしました。どうぞパーティをお楽しみ下さい」と頭を下げる。

 ツキノワはエレベーターから出るとき、軽くお姉さんの足に体をこすらせていった。その瞬間、頭を下げたままだったお姉さんの体が強ばる。扉が閉まった直後、中から「ヤッターッ!きゃははは!ツキノワに触っちゃったーっ!」という叫びが聞こえてきた。



 ナスレ本社ビル最上階では既にパーティが始まっていた。

 沢山の丸テーブルには豪華な食事と高級そうな酒が並び、クリスマスの飾り付けがされた木があちこちに飾られてる。その間で立ち話をしたり談笑している人達は、みんな高級そうなドレスと背広に身を包んでる。窓から見えるクリスマスの夜景も、街明かりとクリスマスの飾り付けが星のように煌めいて綺麗だ。BGMは上品なクラシック調のクリスマスソング。

 が、ツキノワがエレベーターから降りた瞬間、静寂が広がった。全参加者の視線がツキノワに集中する。

 次は、「おお…あれがツキノワね…」「まさか、このパーティに参加するという話は本当だったのか」「なるほど、大きいわ。まるで豹かピューマよ」「うーん、撫でたいわ、抱きたいわ」「この刺身なら食うかな?」「気をつけて。相当の警戒心を持ってるはず」という囁き声。

 皆、社会の上層に位置する人々という自覚があり、ここがフォーマルな空間だと認識している。故に周囲の目を気にして、ツキノワに駆け寄ることはしない。写真も撮らない。でも、即座にツキノワを包囲するかのような人垣ができて、ジワジワと迫ってくる。その圧迫感に押されて、ツキノワは俺と村主の後ろに隠れる。

 弟の視界を見れば、なるほど、これはかなり怖い。自分より遙かに目線の高い人達が、自分を狙って取り囲んでいるような感じだ。その目は全員が好奇心でギラつき、包囲を狭めてきてる。

  《ううう、予想はしてたけど、これはヤな感じ》

 やっぱり怯えてる。ここは兄らしく、威厳を持って対応しなくては。

 俺は一歩前に出て、大きく息を吸う。


「こりゃ、皆の衆!落ち着かんかね。ツキノワちゃんが怖がっておるではないか!」


 もちろん俺はこんな時代がかった口調でしゃべらない。

 人垣が割れて、その後ろから和服のおじいさんが歩いてきた。見事に禿げ上がった老人で、杖をついている。雑誌のインタビュー記事で見た、明石社長だ。後ろに秘書らしき人や重役達を従えてる。

 明石社長は杖を突きながら、こちらへ歩いてくる。周囲の人は道を開け、後ろに下がっていく。そして、俺と村主の後ろに隠れてるツキノワの前まで来ると、片膝をついて座った。

「お初にお目にかかる。儂は、ナスレの社長をやっとる、明石健三ちゅうモンじゃ」

  《おっと、ツキノワ。ほら、お前も挨拶》

  《う、うん…わかった》

 ゆっくりと俺の前に進み出たツキノワは、後ろ足で器用に立ち上がり、目線を明石社長に合わせた。周囲からは「おお…立ったぞ」「やーん!かわいぃ~」「まさか、直立歩行まで可能なのか?」という声が上がる。ツヤツヤの真っ黒な全身の体毛の中、首の下の白い三日月が目立つ。

 ぴろんと垂れた前足はそのままに、軽く目を閉じて頭を下げる。とたんに「うわっ!挨拶した!」「し、しかも丁寧に、頭を下げて…」「し、写真、写真を!」との叫びが上がりフラッシュが四方から光り続ける。もう上流階級とか社交パーティとか吹っ飛んで、ただの観客と化してる。

  《もう少し目を閉じてろよ、フラッシュで目をやられるぞ》

  《分かってる。はぁ、いい加減にして欲しい》

 そのままちょっと待ってたけど、いつまで経ってもフラッシュの雨は止まない。

 しょうがなく俺は、すぐに村主や父さん母さんに紗理奈も一緒に、「フラッシュは控えて下さい」「猫の目は強烈な光を受けると、失明するおそれがあります」と、撮影を止めさせる。

 他のナスレ社員も手伝ってくれたおかげで、すぐにフラッシュは止んだ。カメラも携帯も鞄にしまうよう勧められて、みんな渋々という様子で鞄や背広に撮影・通信用機器をしまっていく。あとに残るのは、天井についた警備用監視カメラと、会場のあちこちにある固定のビデオカメラくらい

 俺は父さんに目で合図し、その手に持ってる鞄をツキノワの前に置いて開ける。その中には五十音字が書かれたプラスチックブロックが詰まっていた。俺と父さんでブロックを並べていく。その間も村主と紗理奈は周囲を見渡し警戒を怠らない。

 ツキノワは綺麗に並べられたブロックの前に座って、ヒョイヒョイといくつかを弾いて並べた。


  ぼ く は つ き の わ   は じ め ま し て


 再び起きる歓声と感嘆。あちこちからフラッシュを切って目立たないように撮影するカメラのシャッター音が聞こえる。会場に設置されていたビデオカメラを社員らしき人が手に持ち、この様子を記録している。

 明石社長は驚きつつも、ウンウンと頷く。

「おうおう、長生きはするものじゃ。まさか、こんなに可愛くて賢い猫に出会える日が来ようとはのぅ」

 ひとしきり感心した社長は、コホンと咳払いをしてから改めて正座した。

「今宵は万難を排して、ほんによう来て下さった。

 おんしらの御陰で我が社は倒産せずに済んだ。もしおんしらが助けてくれなんだら、儂は責をとり首をくくっておったろう。他の者達も、多くが路頭に迷っておったことは間違いない。

 社長として、本当に感謝しておる。社員一同を代表して礼を言わせて欲しい。ほんに、ほんにありがとう」

 そういって明石社長は深々と頭を下げた。あちこちからすすり泣く声がする。

 ツキノワは前へ進むと、自分に下げられた社長の禿げた頭に自分の頭をすりつけた。俺も、二人の間に正座する。

「礼はいいから、頭を上げて欲しい、だそうです」

 その言葉に社長はようやく頭を上げる。その目にはうっすらと涙が浮いている。

「とはいえ、この感謝は言葉だけではとても足りぬ。どうにか、何か礼を受け取ってもらえぬか?」

「お金でしたら要りませんよ。ツキノワはカードも現金も持てないし使えません。僕も家族もツキノワを金儲けに使う気はありません」

「ふむ、そうじゃな。それなら別の…」

 社長が思案しだす前に、ツキノワが再びブロックを弾く。そして作られた文章は、人々を驚かせるに十分なものだった。


  な で て ほ し い


 人々は目を見張る。

 大企業の社長が礼をすると言うなら、人間なら金や物を要求する。あるいは株や土地や地位を、名誉を。だが、この遺伝子操作で生み出された大黒猫は、それらが何も要らないというんだから。

 実験動物、生物兵器、生きた宝石、悪魔の使いとすら言われる。手にした者に巨万の富を約束すると評されるツキノワが求めるもの、それは撫でることだけ。その事実に人々は目を疑ってる。

「撫でる…だけで、よいのか?」

 弟は頭を下げる。

 老人の手が、少し震えながらも黒い毛で覆われた頭に触れる。

 そして、ゆっくりと撫でた。


 ツキノワは気持ちよさそうに目を細める。

 老人は優しく頭を、アゴの下を撫でる。

 それが至高の幸福だというかのように、ツキノワは喉を鳴らしてる。


 しばらくして、猫の弟は「にゃんっ!」と元気よく鳴いた。

「もう十分です、ありがとうございました…だ、そうです」

「なんじゃ、もういいのか?こんなんで良いなら、何時でも来なさい。いくらでも撫でてやるでな」

 ツキノワは、もう一度元気よく鳴いた。

 周囲から拍手が起こる。すすり泣く声が聞こえる。

 何が目出度くて拍手をしてるのか、どこに感動したんだか、よく分からない。でも、とにかく拍手が起き、もらい泣きが広がっていた。



 パーティは騒がしいけど、雰囲気は意外にも和やかだった。

 沢山の出席者が一カ所に集まる、その中心にはツキノワ。みんな写真を撮ろう、ちょっとでも撫でよう、出来れば抱きたい頬ずりしたい…そんな感じで、みんな離れようとしない。とくに女性や、出席者に連れられてきた子供達が。

 そんなわけで、大きなテーブルの上で刺身が並んだ皿に囲まれたツキノワの前には大行列と人垣。しょうがなく、俺と村主は人波の整理に忙しく動く。撮影するカメラマン役の人達も大わらわ。

「はいはーい、押さないで下さい。並んで並んで、順番ですよー」

「写真は一人一枚だけやで!しつこう触ったらツキノワも怒るからな。すぐ次の人に譲りいや!」

 入れ替わり立ち替わり、人々はツキノワと並んで写真を撮り、一撫でしていく。

  《うぅ、さすがにこれは鬱陶しいよぉ~…》

 いくら一撫で写真一枚といっても、出席者は百人くらいいる。知らない人にこれだけベタベタされれば誰だってストレスだ。撫でられるだけでも痛くなりそうだ。というか痛いんだ、俺の手も。みんな俺に礼を言って握手していくもんだから、もう右手が赤い。

  《しょうがない。もう少しで切り上げさせてもらうか》

  《おねがーい》

「すいませーん。ツキノワが疲れてきてますので、あと少しで終わらせて下さーい」

 その瞬間、人垣が殺気立った。特に列の後ろの人から。あちこちから「ちょっと、急ぎなさいよ!」「押さないで!」「待ちなさい、そこはアタクシの」なんて言い争いが聞こえてくる。

 村主が冷や汗をかきながら俺に耳打ち。

「お、おい、まずいで。なんか、ヤバイ雰囲気やで」

「そ、そうみたい、だな。言うんじゃ、なかったかも」

 ただならぬ空気を感じてか、会場の案内や整理に当たっていた社員さん達も人垣の整理に回ってくれた。危ない危ない、気をつけよう。


 俺と村主が行列の整理をしている間、父さんと母さんは立派なスーツを着た重役風の人達に囲まれていた。話の内容は、ツキノワの耳を経由して聞こえてる。主に医学的・生物学的観点からのツキノワの話だ。俺も春原さんからの講義を結構受けてるので、大体の所は分かる。

「…を形作るマトリックス細胞の分裂回数は、人間どころかアカゲザルよりも少ないはずです。これでは人間並みの知能を持てるわけが…」

「…ローン牛でも死産や生後二十四時間死亡率は31%、生後六ヶ月までは危険だ。成体まで成長出来たのは奇跡…」

「…連のカルタヘナ議定書に照らして問題があると、諸外国が主張してますわ。ですが法務省の高崎課長は大阪弁護士会の会合で…」

「…たせいでナスレ本社の官僚主義やセクショナリズムまで生き残り、現場の改善を阻害すると末端から批…」

 両親の周りでは、こんな話が続いてる。二人とも、多少の緊張はあるけど、問題なく話を続けてる。

  《ホントに、分かるの?》

  《嘘です。ごめんなさい》

 全く分からない。ウチの親って、こんなに頭が良かったのか?

 でも、父さんは看護師だから医学知識はあるんだ。仕事の話は聞いたことが無かったので知らなかったけど。それに病院では、医師達とツキノワについて科学医学の話をして不思議はない。母さんも昔は築島大学の生命科学研究所で研究員として働いていたから、知識があって当然か。そして社会人で大人なんだから。うん、ウチの両親を見直してしまった。

 でも話を聞いてると、バーコード禿でメタボな人が「是非ウチの新年会に…」とか、アゴにヒゲを生やした人が「我が社からデビューしてみませんか」、なんていう話も聞こえてくる。

 実を言えば、俺に礼を言って握手してくる人は、大体名刺も渡してくる。その裏には走り書きが書かれたモノも多い。携帯番号とか、別の機会に話を、とか。こっそり耳打ちしてくる人も。これを足がかりにして一攫千金を狙う人も多いだろうし、油断大敵。気をつけないと。

 でも、腰まであるような長い黒髪のお姉さんに頬へキスされて「あとでコッソリ会いましょ」なんて耳元で囁かれた時には、何かフラフラとついて行きそうになった。本当に気をつけないと。


 何か忘れてるような気がした、と思ったら紗理奈の姿が見えない。どこへ行ったかと見回してみれば、会場の隅っこでローストビーフをガツガツと頬張っていた。思いっきり怖い顔で。そしてその目は食べ物ではなく、どうみてもこっちを向いてる。つか、目があった。

 ジトーっと睨まれてから、ふんっ!という声が聞こえそうな勢いでそっぽを向かれた。ツキノワを見せ物にしている、と怒ってるらしい。

  《また、帰ってから怒鳴られそうだなぁ》

  《覚悟するしかないね》

 二人して、頭の中で溜め息。


 もう一つ、忘れてはいないんだけど見つからない人がいる。田島さんだ。ここに来てからずっと田島さんの姿を探してるけど、見つからない。

  《僕の耳と鼻にも感じない。やっぱり会場内にはいないみたいだね》

  《だな…、来てないのか》

 さほど期待はしていなかったけど、残念だ。



 パーティも大分終わりに近づいた、らしい。こんなセレブなパーティの進行なんて知らないけど、そんな気がする。ん~、なんか帰る人が全然いないし、後から後から参加者が増えてる気がするんだけど。でも夜も更けてきたから、もうすぐ終わるはず。

  《僕がいるから、大慌てで飛んできたっていう人が多いんじゃないかな?》

  《それだな》

 俺とツキノワは会場奥の、植木で仕切られた空間、簡易の応接室にいた。窓側は夜のビル街で、さすがにクリスマスのイルミネーションもあちこち消えてきた。窓の前には水槽がいくつかあって、小さな熱帯魚が泳いでる。

 さすがにツキノワが疲れたので休憩出来る場所を頼んだら、ここへ案内された。簡単な応接室で、机を挟んでフカフカのソファーが並んでる。二人でソファーに体を沈め、かき集めた料理を頬張っていた。

 社長に聞いたら、応接室の隣にあるVIPルームを俺たち専用に準備していくれてた。警備の人も入り口に3人ほど常に立ってる。トイレも専用だ。おかげで安心して用を足せた。

「あー食った食った。んじゃ、そろそろ腹一杯になったし、帰るとするかな」

  《そだね》

「なんじゃね、もう帰るのか?」

 後ろから老人の声がする。振り向けば秘書らしい綺麗な女性を連れた明石社長が立っていた。

 俺が立ち上がって挨拶するより早く、社長は俺たちの前に腰を下ろした。秘書さんも、その後ろに立つ。

「よければ家に泊まっていかんか?孫娘達がツキノワちゃんに会いたいとダダをこねていてなぁ」

「いやぁ、そこまでお世話にはなれませんよ」

 そんな話をしていたら、ボーイさんが俺たちの前に皿を並べてくれた。俺の前には見たこともない高級…らしい料理を。ハッキリ言って俺にはなんなのか全然分からない。ツキノワの前には間違いなく高級なマグロの刺身。社長の前にもお酒やおつまみが並べられていく。

「そうかね、残念じゃなぁ。ま、君達なら何時でも大歓迎じゃ。何か困ったことがあれば遠慮無く電話しなされ。まだ、沢渡浩介君、君への礼が済んでおらんでな」

「え?いや、僕は別にいいんですけど」

「そうもいくまい。まぁ思いついたら教えておくれ」

 そういって秘書さんに指で指示すと、秘書さんは社長さんの名刺とペンを取り出して社長さんに手渡した。それを裏返して何かを書き込み手渡してくれた。見れば、それは携帯番号だ。

「ありがとうございます。何かあればお願いします」

  《あ、『困ったこと』と言えば》

「あ、そーいえば」

 うっかり声に出してしまった。とたんに社長の目が光る。

「ん、なにかの?」

 ツキノワの声で、『困ったこと』を思い出した。確かに困ってた。明石社長も俺たちの顔を覗き込んでる。良い機会だし、相談してみようか。

「あの、ですね、実は、困ったことというか、困ってることが一つあるんです」

「ふむ!力になるぞ」

 社長は嬉しそうに俺の顔を覗き込む。ちょっと社長の専門外かもしれないけど、相談してみよう。

「実は、ですね…ツキノワの会話の仕方で困ってるんです」

「ふむ、会話とな」

 俺は何度か言葉に詰まったりどもったりしながらも、何とか説明した。


 今、ツキノワは俺以外の人と話をするとき、五十音字のブロックで話している。だけど常にブロックを持ち歩くのは面倒だし、一文字ずつ並べていたら時間がかかる。漢字も使えない。だから簡単な話しか出来ない。

 なんとか上手い手はないかと考えてるけど、猫用のタイプライターなんてあるはずもないし、あってもツキノワでは手に持てない…。


 社長はアゴに手を当てて考え込む。

「なるほど、のぅ。その辺は確かに苦労しておるじゃろな。さてさて、何か上手い手はあるかの…」

 人間二人と猫一人(?)が首をひねる。すると、後ろの秘書さんが社長に耳打ち、とたんに社長がポンと手を打った。初めて見た、なにか閃くと手をポンと打つ人。本当にいるんだなぁ。

 すぐに秘書さんが携帯を取り出して手渡し、社長が耳に当てる。相手はすぐに電話にでてくれたようだ。

「あぁ、森田の若旦那かね。儂じゃよ、ナスレのじじい。おうおう、その件は世話になったのぉ。うん、そうか、あいつは元気か。どうやら先を越されずに済んだようじゃな。なあに、儂もまだ…」

 なにやら森田という人と楽しそうに話をしている。…なんだろう?森田という人の声、何か変だ。何かエコーがかかったような、二重に聞こえてるような。

「…そう、そうなんじゃ。での、もしかしたら、お主の力が要るかもしれんで。うん、すぐに来れるか。そりゃあ奇遇じゃな。是非…」

 ベッドで休んでるツキノワの耳を借りて聞いてると、確かに声が二重に聞こえている。いや、電話から聞こえてるのは普通の話し声。でも、その電話の声に被さるように、もう一つの全く同じ声が聞こえてる。

「…最上階のクリスマス会場で、え、何?一番奥の仮設応接室じゃよ。そうじゃ…」

 三角の耳が二つ、同じ方向へピコッと動く。すると、もう一つの音源があった。電話の声より一瞬早く聞こえてくる声が。

「どもー、電気屋でーす」

 おどけたおじさんの声がした。

 声の方を見れば、立派なスーツを着た中年の男が応接室の入り口に立ってる。白髪なので老人かと思ったけど、白髪以外はかなり若々しい人だ。携帯で話していた本人が会場にいたんだ。携帯越しの声はあちこち経由するので一瞬遅れるから、俺たちの耳には二重に聞こえてたんだ。

 顔と名前は知ってる。だから俺もツキノワも慌てて立ち上がって礼をした。

「は、初め、まして、森田か、会長。す、春原さんから、は、話は伺って、ます。沢渡浩介、です」

 ツキノワもソファーの上に二本足で立って頭を下げた。さすがに、あのMORITAの会長となると、俺たちも緊張してしまう。でも森田会長はニコニコと朗らかに、気軽に返事をしてくれた。

「やぁ、これはご丁寧に。僕は森田庄一郎。会長といっても、最近なったばかりなんだ。親の七光りでね。だから緊張することはないよ」

  《緊張するなって言われても、無理だよな》

  《そだねー。つい礼をしちゃったよ》

 俺の隣ではツキノワもカチコチになってる。とはいえ、世界でも有数の巨大企業の会長さんとなったら、さすがになぁ。おまけに森田家は以前から築島大学へ個人的に寄付をしてくれてるそうだ。つまり、今の家を買うお金は、森田さんの寄付金から出てるということ。

 だがそれは同時に、ツキノワの誕生と研究は森田家のおかげだからツキノワも森田家のモノだ、と考えているかもしれないということ。何らかの権利を主張するかも。

  《警戒、しないとな》

  《だね》

 俺たちは頭の中で頷きあう。

 だけど明石社長は俺たちの考えには気付かないようで、森田会長を見て嬉しそうに笑った。

「おぉ、相変わらずイタズラ好きじゃな。来るなら来ると言わんか、驚くではないか」

「すいません。仕事帰りに近くを通りがかったら、沢渡家の人達がここに来てると大騒ぎじゃないですか。今さっき、慌てて飛び込んできたんですよ。いやぁ、間に合って良かった」

 森田会長は明石社長の隣に座った。社長に促されて俺達も着席。森田社長はまだ若いように見えるけど、髪は見事に真っ白。多国籍企業の御曹司としては、相当の苦労をしたんだろうなぁ。

「いやぁ、ようやく会えて嬉しいよ。あ、知ってると思うけど、ウチは電機屋だから。バイオには手を出してないので、ツキノワ君を捕まえてどうこうなんて気はないからね。安心して欲しい」

 社長は笑って電機屋と言う。

 確かに電気屋は電気屋だけど、MORITAと言えばエレクトロニクス・ゲーム機・銀行・生命保険、さらには小型ジェット機まで。その他いろいろやってる巨大多国籍企業。壮大で大金持ちの電気屋もあったもんだ。

「ところで、明石社長。何か私の力になれることがあるとか?」

「おう、そうじゃそうじゃ。実はの…」

 明石社長はツキノワの話を手早く説明した。

 森田会長はふんふんと相槌を打ちながら話を聞く。

 俺は、緊張して喉が渇いたので、テーブルに置かれたコーラを飲む。

  《僕も水ー》

 ツキノワに頼まれ、コップの水を小皿に移してソファーの上、黒い頭の真ん前に置く。テーブルの上に前足を置いて飲むのは気がひけたので。それを見つけたボーイさんが、刺身と水を全部お盆に乗せて、ソファーの上に置いてくれた。

「…なるほど、猫用のインターフェースを…」

「うむ。費用はこちらで出すので、一つ頼まれてくれんか?」

 さっきまでの明るい笑顔はどこへやら。今の森田会長は真剣な顔だ。アゴに手を当てて考え込む。

「ふ…む。考えられるのは、イギリスの物理学者、あの車椅子の天才が使用している視線入力システムか。が…あれは大きすぎるし、電源が内蔵バッテリーだと一時間だけ…。画面はヘッドマウント、背中に担ぐか…。費用は五億…既存の技術を流用すれば、かなり楽に…技術班なら…」

 会長の独り言は延々と続く。その内容はよく分からないけど、億単位の金がかかるのだけはよくわかった。いくらなんでも、とんでもねー!

「つ、ツキノワ?い、いくらなんでも、そんなに大変なら、なぁ?」

 黒猫の頭が上下二つに分裂したかのような速度で頷く。

  《子供用のおもちゃで十分ですーすいませんごめんなさい》

 ツキノワの言葉は俺にしか聞こえないけど、内容はジェスチャーだけで良く分かったらしい。目の前の二人は慌てて苦笑い。

「こりゃこりゃ、おんしらは金など気にせんでええのじゃ」

「そうそう。それに、新技術開発は常にやってるからね。その一環として研究してみるのもいいと思うし」

 そう言ってくれても、ただツキノワがしゃべるためだけにウン億だなんて。つか、ツキノワ以外に使えない機械なのに新技術の意味もないでしょーが。

  《き、今日のところは、これで帰ろう、そうしよう》

「そ、その話は、ちょっと考えさせて、く、下さい!」

 俺は慌てて立ち上がる。ツキノワも体を起こす。これ以上とんでもない金額の話に入ってきたら、もうどうしていいのか分からない。

「そうかの?残念じゃな。だが何時でも来るが良い、待っとるぞ。ああ、余った料理はお土産に持って帰らんかね。我が社自慢のシェフが腕を振るった料理じゃ。後でチンしても美味いぞ」

 そういって社長は秘書に指示を出し、秘書はボーイさんを何人か呼んだ。そういえば、目の前の料理に手を付けてなかった。美味そうなのに、このまま帰るのはもったいない。ぜひ持って帰ろう。

  《そうだね。僕も刺身をもう少し…》

 そういってツキノワは目の前の刺身に鼻を近づけた。


 ん・・・?


 もう一度ツキノワは食事に鼻を近づけた。その臭いは俺にも届く。

「ん?んと…、んん?」

 俺の目もツキノワの前に置かれた刺身へ向けられる。そこにあるのは、確かに刺身の盛り合わせ。マグロ・サバ・タイとかが美味しそうに並んでる。

 俺たちの様子に、社長と会長も不思議そうな顔をする

「どう、したのかな?」

「ああ、流石に刺身は傷んで来たかの。心配せんでええぞ、土産用には」

「あ、いえ、痛んでるとか、じゃ…なくて、これは…」

 ツキノワが何度も臭いを嗅ぐ。それは生魚の美味しそうな臭い。

 だが違う臭いも混じってる。

 何か変な、いや、これは覚えのある臭いかも。

 これは…もしや…。



 社長と会長の秘書達が携帯で指示を飛ばす。

 何人もの社員と、会場に居たコック・板前も呼ばれる。

 応接室の周りには、何事かと遠巻きに植木越しで眺める人垣も出来る。

 そして、その騒ぎに背を向けて会場を出ようとするボーイが一人いた。

「待って下さい」

 そのボーイを後ろから呼び止める声があった。それは若い女の、いや少女の声。

「なん…でしょうか?」

 ぎこちなくボーイは振り向く。そこには黒のドレスを着た眼鏡の少女が立っていた。

「さっき奥で、ボーイさんが全員呼ばれたようですが、なぜ出て行くのですか?」

 瞬間、男は駆けだした。

 会場に背を向け、階段へ向けて、後ろも見ずに走っていく。


「あの人ですっ!」


 会場中に響く少女の叫び。全ての視線が会場外へ向く。だがそこには既に誰もいなかった。男が階段を駆け下りる音が小さくなっていく。

「明石さん!」

 森田会長の叫びが上がる。

「わかっとる。警備へ伝えろ、誰も外に出すな。全ての出入り口を閉じろ。警察へも連絡じゃ」

 にわかに社員達が騒がしくなる。ざわめく来客達。その人垣の間を縫って、俺の親たちも応接室へやってくる。その俺たちは水槽の前にいた。窓側の水槽、その中の一番小さなものの前に

「どうしたんだ!?何があった?」

「浩介、ツキノワ、一体どうしたの?」

 不安げな顔の両親の前には、水槽を見つめる俺たち兄弟の後ろ姿。俺の右手には、ツキノワの前に出されていた刺身の皿。振り返り、その皿を黙って父さんの前に出す。

 父さんは、恐る恐る皿に顔を寄せてみる。

「…何も、変わった所は無いようだが…もしかして」

 ツキノワは黙って頷く。俺が弟に代わって口を開く。

「薬、だよ」

 俺の目の前の水槽の底に、刺身が一切れ沈んでいた。そして中の熱帯魚は、腹を上にして全部浮かんでいた。

 父さんと母さんの顔が驚きと緊張で満ちる。人垣から驚きと叫びが上がる。周りには構わず話を続ける。

「俺とツキノワが入院中に嗅いだ臭いに似てるんだ。そして、病院で働く父さんからも、時々同じような臭いがしてる。ばれないよう臭いを抑えたつもりのようだけど、ツキノワの鼻は誤魔化せない。麻酔薬か睡眠薬だと思う。

 あの、明石会長…」

 振り向いた俺の目には、携帯に向かって「探し出せ!逃がすな!」と叫び続ける社長が映る。興奮して、こちらに気付かない。代わりに美人秘書の人が顔を向けてくれた。

「もし、ここで、ツキノワが急に倒れたら、どうしてましたか?」

「それは、多分、医務室へ…」

 その言葉と共に秘書の顔が驚愕へ塗り替えられる。周囲の重役達も、即座に携帯で新たな指示を飛ばした。



 医務室。

 といっても、医者がいるわけではない。白い布団が敷かれたベッドに、包帯とか消毒薬とか簡単な医療器具と薬、そして看護師が一名待機してるだけ。その看護師の女性はナース服の上にカーディガンを羽織り、丸イスに座って机に向かっていた。鏡に向かって眉を描いてる最中だ。

 その医務室の扉がコンコンとノックされた。

「はい、どうぞ」

 不自然なほどゆっくりと開けられた扉の向こうには、警備の制服を着た数人の屈強な男達、その背後には数人の社員が立っていた。全員が一様に口を真一文字に閉ざし、看護師を睨み付けている。

 異様な雰囲気と警備員の威圧感に、女は身をすくませる。

「あ、あの…どうしたんですか?」

 先頭の警備員が一歩進み、室内を見渡す。そして重々しく口を開いた。

「実は、ちょっと奇妙な指示を受けまして。医務室を調べなければならないのです」

「え…?」

 女はイスから腰を浮かす。頬には一筋の汗が流れる。目は男達から逸らされ、室内を泳ぐ。

 その泳いでいた視線が、ある一点で止まったことを彼らは見逃さなかった。ベッドの下の空間を。

「…少し、調べるだけです。すぐに終わるので、そのままでお待ち下さい」

 あくまで丁寧に語る警備員が、後ろの同僚に視線を送る。すぐに彼らはベッド下へ歩き出す。そして後ろに立っていた社員達も室内へ次々と入ってきて、他の場所を探り出す。

 女の手が、ゆっくりとカーディガンのポケットへ伸びる。だが、その手を警備員のがっしりとした手が静かに、だがしっかりと押さえた。

「すぐに済みます。ですので、少しだけご協力を」

 協力を求める、と口では語る。だが手にこもる力は反論も抵抗も認めていない。

 そして話す間に、ベッド下から他の警備員達が段ボール箱を引っ張り出した。即座に開けられた箱の中には、民間企業の医務室には相応しくないものが詰まっていた。何かの薬品名が書かれたラベルの貼られた、小さなガラス瓶――本来は医師の処方によってのみ出される、強力な薬品のアンプルが詰まったケース。他に大きなボストンバッグ、ロープ、注射器。そして何故か衣服一式も詰まっている。

 警備員達の後ろから、社員がそれらの品をチェックしている。

「…他に、サングラスに皮手袋。まるで変装用グッズですね。おや、パスポートも。海外旅行ですか?」

 そのパスポートを開いた社員が、眉をしかめる。

「おやぁ?これって、あなたの名前と違いますねぇ…これは変ですね」

 既に女の顔は蒼白だ。女の手首は警備員に握りしめられている。他の警備員も立ち上がり、女を取り囲む。彼らの手は腰の特殊警棒にかけられている。

 荷物を調べていた社員が、携帯で手早く状況を報告する。それからツカツカと女の前に立った。そしてその顔をじっくりと眺め、胸ポケットから取り出した紙と見比べる。

「確かに看護師募集の際に提出された書類と、顔は同じに見えるんですけど。うーん…。申し訳ないんですけど、ちょっと詳しく話を聞かせてもらえませんか?」

 女の腕から力が抜ける。

 そして、男達に取り囲まれて、力なく部屋を後にした。





「見つからない?外に誰も出てないのは確かなのか!…駐車場の車は一台も出ていないんだな?」

「警察はすぐに来るそうです。申し訳ありませんが、皆さんもしばらくお待ち下さい」

「その女、ボディチェックもしておけよ。あくまで丁重に、な。証人ついでに、女子社員を呼んでやらせろ」

「マスコミにはって…この会場にだってマスコミ関係者がいるんだぞ。もともと隠すなんて不可能だ。それより、出来れば警察が来る前に、速やかに解決しろ。その方が印象が良くなる」

「監視カメラの映像は…隣の倉庫だ。よし、すぐに調べろ。…構うな!状況がどうかだけでも確認するんだ」

 和やかなクリスマス会場が一転、殺伐とした空気の流れる犯罪現場と化した。大声の怒声から、隅っこでの密談まで、様々な命令と思惑と利害が空気を揺らす。ナスレの社長と重役達が、警察が来るまでの間に少しでも証拠を集め、事実を把握しようと指示が飛び交う。社員達が走り回る。

 そして来客達は所在なげに会場の各所で立ったり座ったり。携帯で連絡を取ったり、早く帰らせてくれと社員と押し問答をしていたりする。先頭で怒鳴っているのは、さっきデビューしないかといってたヒゲの社長さんだ。明石社長と森田会長は沢渡家の面々とともに応接室にいた。

 いや、一人だけいない家族が居る。

 その一人だけいない家族は、会場の入り口近くに立っていた。村主と、もう一人と一緒に。それは、逃げようとするボーイを呼び止めた少女。

 犯人を発見した少女に対し、紗理奈は腰に手を当て眉間にしわを寄せ、睨み付けてた。

「よく、顔を出せたわね」

 睨まれる少女、田島楓は目を逸らしてうつむく。

 何も答えず、ドレスの袖を握りしめている。

 いたたまれず、隣に立つ村主が話しかけた。

「ニャオもツキノワも、お前のことを怒ってへんで。こんな所でウジウジしとらんと、顔出したらどうや」

 その言葉に、彼女はゆっくりと首を振った。

「合わせる顔が、ないから…」

 紗理奈がそっくりかえり、鼻で笑った。

「だーからずっと入り口でウロウロしてたってわけ?鬱陶しいわね」

「おいおい、そんな言うたらんと…」

 そのひどい言いようにも、楓は怒らなかった。反論もしなかった。ただ寂しそうに笑った。

「ここで、沢渡君とツキノワちゃんの顔だけでも見たかったの。それだけで、いいの」

 そういって彼女は少し視線を上げる。その先にあるのは応接室と会場を隔てる植木。彼女が求める姿は見えなかった。

 その植木の向こうでは、日本を代表する大企業のトップ達と、世界一有名な猫と、その家族が話を続けていた。



「すまん!まさか、このような事になるとは…儂の一生の不覚じゃ」

 ソファーに座っている明石社長は深々と頭を下げる。隣の森田会長が、そして沢渡夫妻も「まぁまぁ…」と社長を慰める。

 オホンッと会長が咳払いをして、前向きに話を続けた。

「ともかく、明石さん。ともかく沢渡家の人達は無事だったようですし、警備を固めて自宅へ送りましょう」

「う、うむ。そうするか。それにしても、まさか看護師が偽物とは、迂闊じゃった」

「…看護師が、偽物…」

 その言葉に、同じ看護師の父さんが考え込み始めた。ふーむ、とアゴに手を当ててる。推理しているらしい。家ではゴロゴロしてるだけの父さんからは想像も付かない姿だ。

「あの、社長」

「ん?なんじゃね」

「その看護師、まさかナスレの常勤…じゃ、ないですよね」

「うん?そんな話は聞いていないが」

 社長は後ろで指示を飛ばし続けている部下の一人を呼びつける。その耳元に囁くと、すぐにその部下、小太りバーコード禿げのおじさんが答えてくれた。

「もちろん常勤ではありませんよ。常勤で看護師を雇うほど、我が社では怪我人が出ませんから」

 そりゃそうだ。食品会社で毎日怪我人が出るなんて大変だ。食べ物が血まみれになって売れない。

「こういうパーティのある時だけ、参加者の安全のため、看護師専門の派遣会社に派遣してもらっております。なので、来る看護師は毎回違います。特に今回はクリスマスということもあり、報酬をかなり上げたというのになかなか決まらなくて…。結局、二日前にようやく応募があったんです。

 ですが、まさか…偽物が来るとは思いませんでした。信じられません」

「偽物…?」

 その言葉に益々考え込んでしまう。他の人達は何事かと同じように考え込む。

 ほどなくして、父さんは再び質問した。

「社長、我々がパーティに参加することを知っていた人は、どれくらいいました?」

 その言葉に周囲の人達は首をひねった。

 パーティへの参加は、送られてきた招待状に参加すると返事して返信するものだ。何日も前から参加者の数を把握しておかないと、食事の量とかが決められない。こういう大企業のパーティともなればVIPも来るから、警備だって大変だ。予め誰が参加するかを随分前から知っておかないと、パーティが運営できない。ましてツキノワが参加するとなれば、必要な警備はハンパじゃない。

 だから、社長の次の言葉には俺も含めて皆が驚いた。だが同時に当然のことだと納得もした。

「今日の昼まで、儂以外は誰も知らんかったよ。部下には『今日の警備は厳重に』とだけ伝えておった。昼以後は重役達に伝えたが、ギリギリまで伏せておくように指示していたぞ。来場者達にも直前まで説明はしておらん。

 全て、『マスコミに動きを知られたくない』というそちらの要望に従ったわけじゃ。…しかし、マスコミには隠しきったのに、不届き者共には知られてしもうた。全く、壁に耳あり障子に目あり、じゃ」

 苦虫を噛みつぶしたような社長の顔に、父さんは気付いた様子もなく話を続ける。

「その、参加の返事が届いたのは、昨日でしたよね?」

「正確には届いたのは昨日の昼かの。儂が自分で開けて、すぐに処分した。誰にも見られておらん、はずじゃったが…」

 さらに多くの人が首をひねり、ヒソヒソと相談を始める。俺の頭でもツキノワの声が犯人像を描き出す。

  《社内の人、それも相当に社長さんに近い人でないと、こんな準備は出来ない…と、いうことかな?》

 その予想に俺も頷く。恐らく多くの人が同じ想像をしているはずだ。疑心暗鬼の視線が蜘蛛の巣のように広がり出す。ここにいる全員が探偵気分になっているんだろう、俺たちと同じように。

 いや、明石社長本人はどうなんだろう?もしかして、明石社長自身が立てた計画ということは…

  《ツキノワ、その線は薄いと思うけど、どうだろう?》

  《僕も無いと思う。こんな手の込んだ事をしなくても、今じゃなくても、他にチャンスはいくらでもある。食品会社じゃ僕を捕まえても意味ないし、せっかく立ち直りそうな会社がまた潰れちゃうよ》

  《だな》

 俺とほぼ同じ考えだ。社長には今ツキノワを捕まえる理由がない。ナスレのパーティでツキノワが行方不明になれば、一番に疑われるのはナスレ自身。評判もがた落ちで、倒産の危機へ逆戻り。

 というか、社長がツキノワに礼をしていた姿が演技とは思えない。

 俺は脳裏の疑念を振り払うように頭を振る。


 そこへ社員の一人がやってきて、大きな声で報告をした。

「た、大変です!ほ、本物の看護師が倉庫で縛られて、薬か何かで眠らされていました!もう一人、ボーイのはずの男も一名同じく!二人とも、衣服をはぎ取られていましたが、命に別状はなさそう、です!」

 その報告に周囲の人々は、もうヒソヒソなんてしてられなくなった。ガヤガヤと騒がしくなり、あーだこーだと大声で推理をしてる。

「本物が…縛られて…」

 対照的に父さんは黙って考え込み続ける。

「ねぇ、あなた。何を考えてるの?」

 ここでようやく母さんが口を開いた。その質問に、父さんはポツポツと答える。

「あ、あぁ…。つまり、おかしいんだ。やり方があまりにも強引すぎる。後先を全く考えてない。

 手紙の内容を読み取られたとかは考えにくい。まず、俺の家に盗聴器とか監視カメラはありえない。何故なら、ツキノワと浩介が全て見つけて始末してしまうからだ」

 俺とツキノワは少し胸を張る。この点は自信を持てる。

「そして、送ってから社長が処分するまでに読まれた可能性も低い。

 会場に来るまでに車を襲うとかをしなかった。会場に入ったら人目が多すぎて犯行が難しくなるのに。もし情報を事前に得ていたなら、看護師やボーイじゃなくて、俺の家への送迎車にこそすり替わるべきだ。もしくは、そう、トイレで襲った方が確実なのに、あえてここで…」

「あ、沢渡家専用トイレなら隣にあるじゃろ。警備も数人を常に配備しておるから他人は立ち入れん」

 会長が指さした先は、応接室横のVIPルーム。今日は俺たち専用の部屋になってる。

 細く節くれ立った指の先にある扉を見ながら、父さんは呟き続ける。

「なら、トイレに細工も出来なかったということか…もしや、ここでしか出来なかったのか…?俺たちが来るという情報は漏れていなかったのかも」

 その推理に周りの人々が聞き入る。まるで刑事ドラマか何かな空気だ。

 そして父さんは推理モノのクライマックスな雰囲気で話を続ける。

「そうだ、つまり、これは計画的犯行じゃない。

 俺たちが会場に来たのを知って、ほんの数時間で大慌てで立てて実行した計画だ。信じられないけど、とんでもなく組織的なのに、えらくいい加減だ。ツキノワに薬を盛るボーイ。運ばれてきたツキノワを秘密裏に運び去るために、看護師とすり替わったソックリさん。いつ目覚めて暴れ出すかも分からない看護師を、倉庫とかに置いておくなんて、よほど慌ててたのか。

 でも、これだけの人間が都合良く揃って、しかも会場や医務室を自由に動き回ることなんて、出来るんだろうか?一部の社員が金目当てに裏切ったとしたら、看護師やボーイをすり替える必要はないよなぁ…。社員なら最初から変装無しで自由に動ける。医務室へ行く途中で襲えるんだし」

「あっ!」

 声を上げたのは、森田社長だ。

「会場を閉めろっ!誰も出すなっ!」

 そのいきなりな指示に多くの人々がキョトンとする。

 次の瞬間、会場のあちこちから次々に「え…えぇ!」「そ、そうかっ!」「急げっ!扉を閉めるんだっ!」という声が上がる。扉の近くにいた社員は、訳も分からず扉を閉める。エレベーターホールへ続く扉にスタッフ用のドアまで、全てが閉まる。そして会場は密室になる。

 その騒ぎに、明石社長は目を丸くしっぱなしだ。

「い、一体、どういうことなんじゃ?」

 そして俺もツキノワも目が丸くなってた。

「あ、え、えと、父さん…?」

  《な、なんなの?どういうこと?》

 だが、母さんが答えを叫んでくれた。

「あーっ!客だわ、それも、団体で来た客よ!今、ここにいる人達を来客名簿と照合すれば分かるわ!」

 突然立ち上がり、推理を叫び続ける。

「この会場にツキノワが居ると知って、慌てて計画を立てたんだわ!

 気分が悪くなったとでもいって医務室に行って、看護師の顔や体格を確認する。それに似た人を仲間から選び、同じ髪型と化粧をさせて、看護師とすり替える。ボーイも同じようにすり替わる。そのまま本物のフリをしてチャンスを待っていたのよ。薬やパスポートは後から仲間に持たせてくればいいわ」

「そうっ!それですっ!」

 森田会長も声を上げる。

「そして、帰りの車を襲わなかったのは、夜の闇は黒猫のツキノワが圧倒的に有利で、生きたまま捕らえられない可能性が高いからですよ。

 て…え?ちょっと待って。これって何人がかりなんだ。こんな大きな犯罪計画が突然出来るって、どんな…?」

 森田会長と母さんは、そして他の人も信じられないというようすで口をあんぐりと開ける。俺もツキノワも信じられない。


 常識的にいって、そんな犯罪組織はあるはずない。マンガじゃないんだ。

 それに世界征服を企む悪の組織だって、ここまで芸の細かいマネはしないだろう。もちろんヤクザだのにも無理だ。そんな都合良く派遣された看護師に似た人が見つかるはずがない。というか、会場に客としてこれるのは、身元のハッキリした社会的地位の高い人ばかりだ。

 だけど実行された。どこからか色々な薬品をあっと言う間に揃えてきた。偽ボーイは薬を混入させた。薬を飲んで倒れたツキノワを運び去るため、看護師は派遣された人に似た人がすり替わっていた。この会場に俺たちが入ってきてから数時間、この僅かな間に全ての罠が実行された。

 つまり、常識を超えた犯罪組織が実在したんだ。この会場に招かれるほど社会的地位が高くて身元もハッキリしてるのに、構成員の多くが迷いもなく犯罪に手を染める、そんな組織が。


  《これは…浩介君、大変なことだよ》

  《ああ、信じられないほどデカイ犯罪組織ってことになる。この前の強盗団なんて目じゃない。レッドビーズと同じか、それ以上のふざけた組織だ》

 俺の額を汗がつたう。

 春原さんも昔は俺の家を盗撮しようと、バイトを雇ってカメラを仕掛けさせたそうだ。謝りながら教えてくれた。でも、それは大した罪じゃないから出来たんだ。ここまで派手な犯罪計画を失敗したら、後の人生がパーだ。いくら貰ったって割に合わないから、誰もやりたがらない。

 そんなクレイジーな連中が、会場でツキノワを狙っていたんだ。会場で…会場で?


 今、そんなクレイジーな犯罪者集団と、同じ部屋に、いる、かも、しれない。


 ツキノワは俺のそばにピッタリと寄りそう。

 俺は左手で弟をかばいながら、立ち上がって室内を見渡す。

 人垣の向こう、奥の方に村主の頭がちょっとだけ覗いてる。長身だから遠くからでもよくわかる。

「おーい!村主、こっち来てくれ!」

 腕を振りながら呼ぶと、すぐに気付いてくれた。ちょっと待てやー、と答えて人垣の間を泳いでくる。

 それと同時に村主の後ろ、入り口の方から紙の束を手にした男性社員が走ってくる。人垣の向こうにいる社長へ向けて、紙の束を掲げている。

「社長!これです、これが来場者名簿です!

 出入り口と駐車場の警備員からは、誰もパーティから帰っていないとの事です。なら、足りない人間とか、この名簿の中にニセ看護師がいれば、その属してる団体がここに」

 その叫びは、途中で止まった。

 騒がしかった会場も静まりかえる。

 誰も彼もが動きを止めた。動けなかった。

 何故なら


 名簿の真ん中に穴が空いたから。


 名簿には、来客が記帳した名前が並んでいる。かなりしっかりした表紙と裏表紙、ページ数も結構ある。その全てのページに穴が空いた。丸い小さな穴の周囲は黒く焦げてる。

 出入り口から走ってきた社員が頭上に掲げた名簿。そのど真ん中を拳銃の弾丸が射抜いたんだ。

 硬直した男性社員の視線、そのひきつった顔が向く先には、黒いスーツを着た顎髭の男がいる。そして、その手には拳銃が握られていた。よくTVなんかで見るサイレンサーの先から、僅かに煙が上がってる。


 悲鳴。


 女性の甲高い声が響く。男性の野太いどよめきが広がる。アゴヒゲの男から飛び退いていく。

 人垣の中に現れたのは、拳銃を持った男を中心に立つ一団。いずれもスタイルの良い、中々の美男美女が揃っていた。そして、彼らの顔には俺もツキノワも覚えがある。何故ならツキノワと一緒に写真を撮ったり、俺に耳元で「あとでコッソリ会いましょ」とか囁いたりした人達だ。そして拳銃を握っているのは、父さん達にデビューを勧めていた、恐らくは芸能プロダクションの人か。

「ち、ちぐさ…千種社長…?」

 人垣の中からヒゲの男を呼ぶ声がする。ちぐさ、という名前の社長なのか。ということは、周りにいるのは、そのプロダクション所属の芸能人か何かだな。


「全員、動かないでもらおう」


 バリトンの声が響く。皆が一歩下がる。周囲の取り巻きも、それぞれにナイフを取り出して千種という社長を中心に円陣を組む。油断無く周囲を伺っている。

「道を空けろ」

 千種の視線と銃口が会場入り口へ向く。とたんに射線上の全員が左右へ飛び退いた。閉じられた会場入り口まで一瞬で通路ができあがる。

「ま、待て!千種君、どういうことじゃ?」

 明石社長が声を上げた。杖をつき、よろけながら応接室を出ていく。それを止めようとする社員達を押し退けて前に進み出る。

 だが、油断無く扉へ進む千種達の足は止まらない。

 俺は周囲を伺う。村主の姿を探す…見つけた。身をかがめ、人垣の裏を通ってゆっくりこちらへ近づいてくるのが見える。どうやら一戦やらかす気はないらしい。俺もその気はない。

  《拳銃に、ナイフを持った人が十人ほど。とても無理だよ》

「そうだな…」

 以前、築島大学でやらかした失敗を繰り返すワケにはいかない。相手が争わず、素直に立ち去るというなら、追う理由はないんだ。俺はツキノワと家族と友達を守ることを最優先に考えるべきだ。

 そんなわけで、俺は黙って下がっていることにした。他の人達も同じ考えのようで、誰も動かない。だが、その中で動き続ける人がいた。立場上、動かざるをえない人…明石社長だ。

「待て!貴様、一体どういうことじゃ!説明せいっ!」

 人の輪から一歩抜けだし、社長が千種を怒鳴りつける。だが、千種という男は振り返らない。面倒そうに口を開いて、人を食ったセリフを投げ返した。

「映画じゃあるまいし、『冥土の土産に…』なんて解説タイムが入ると思うか?」

 小馬鹿にされた社長が顔を赤くする。

 だが、そんなことは一切気にせず、彼らは会場の扉を開け放った。素早く廊下からエレベーターホールまでにいる人達に、会場の中に入って伏せるよう命令する。物陰や廊下奥を、二人一組で調べていく。その動きは無駄がない。一人が前に出る間、後ろ側がバックアップ。必要最低限以上はしゃべらず、パートナーとは手信号で指示をやりとり。まるきり特殊部隊だ。

 千種はチラリと後ろを振り返り、明石社長へ鋭い視線を向ける。

「邪魔するなよ。追えば、殺すぞ」

 そういう間に彼らの一人が非常階段の方から顔を出した。どうやら階段の安全を確かめ終えて、他の者を誘導しに戻ってきたんだろう。

 会場の扉が閉められる。同時に扉の向こうからガコンという鈍い音が響いてきた。


 数秒、沈黙が流れる。


「な、何をしとるか!早く、やつらを追うんじゃっ!」

 我に返った警備員や社員達が扉を開けようと取っ手に手をかけた。

 だが、開かない。ガタガタと揺れるばかりで、全く開かない。

「な、なんだと?」「くそ、向こうから何かでかんぬきをかけられたか!」「こっちもだ!開かないぞ!」

 社員達が扉を開けようと格闘するが、会場の扉は開かない。さっき調べて回っていた連中が扉を向こう側から何かで固定してしまったようだ。他の人達も、どこか開かないかと全ての扉にとりついて格闘する。

 そのうちいくつか、エレベーターホールから遠いスタッフ用出入り口が開かれた。

「こっちから出れるぞ!」「よ、よし、油断するな」「くそ!まだ警察は来ないのかよ、税金ドロボーめ」

 体格の良い警備員が数名、恐る恐る部屋から出て行く。

 他の人達、明石社長はじめナスレの重役達は携帯に怒鳴り散らしてる。

「エレベーターを止めるんじゃっ!やつらを袋のネズミに…何?エレベーターは使ってないじゃと?」

「保安センター!奴らが一階へ向かっているはずだ、映像を…映っていない?下に向かってないっていうのか?」

「警察はどうしたのよ!…今、エレベーターで上がってる最中ですって!丁度いいわ、やつらの情報を警察に送って!追いつめるわよ!」

「防火シャッターを降ろしちまえっ!逃がすな、時間を稼ぐんだ!」

「いいか、不用意に近づくな。向こうは拳銃を持ってるんだ。絶対に先走るなよ。警察の方へ追い込め」

 会場の中では様々な指示と命令が飛び交う。子供達が泣き、淑女とかいう上品そうな人達が床にへたりこむ。社員やボーイが怪我人はいないか確認して回り、パニックを収めようとする。客や社員の中でも体格の良い連中が、開かないメインゲートを力ずくで開けようと体当たりし出す。

 そんな中、窓際の応接室に居続けた俺とツキノワの耳に、外から音が聞こえた。

 正確には、しゅぽっ、という栓の抜けるような音が、ツキノワの耳に届いて、それが俺の頭にも聞こえて来たんだけど。

 俺たちは背後の、窓の外へ振り返る。そこは夜のビル街で、最上階から見える夜景がとても綺麗だ。街明かりは宝石のように輝き、冬空には雲一つ無い。見えるのはロープが一本。


 えっと…ロープが一本?


 ツキノワの目も使って夜空をよく見てみる。そこには、確かに一本のロープが張られていた。隣のビルの屋上までつながってるのが見える。応接室に来たときも外の風景を見たけど、そんなものはなかった。

  しゅぽぽっ

 さらに音が続いた。何かロケットのようなモノが隣のビルの屋上へ飛んで行き、その後ろにはロープが続いてる。あっと言う間に三本のロープが張られた。

 人影がロープを下っていく。

「あーっ!逃げられたぁー!」

 俺は思わず絶叫してしまった。

  《しまったー!すっごい、まるでスパイ映画だよ!》

 逃げられて悔しがりつつも仰天して感心するツキノワの声。俺だって同じだ。ビルの間に張られたロープにぶら下がって、華麗に滑り降りていくんだから。屋上への着地も軽やかなもんだ。

 俺の叫びに他の人達も窓へ殺到する。そして口々に「や、やられたあー!」「くそ、最上階なのが裏目に出たか」「な、なんて連中だ…どこのスパイだ」「すぅ、すごい、かぁっこいー!」なんて叫びと歓声が上がる。

 そのとき、入り口の方からドカドカと大人数が駆け込んでくる音がした。

「警察ですっ!もう大丈夫です。こちらの指示に従い、速やかに避難して下さい」

 私服制服入り交じって警察官達が駆けつけてきてくれた。

 だが、会場の空気はすっごく冷たかった。とっても冷ややかだった。

 だって犯人達は、とっくに隣のビルから更に隣のビルへと移動し、逃亡済みだったのだから。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ