4 ラブレター 後編
もう外は暗い。
居間からは部屋の明かりに照らされた庭が見え、外から虫の音が聞こえてくる。
けど、俺にはそんなもの気にならない。そんなのどうでもいい。
俺と、横に座るツキノワは、紗理奈の正面のテーブル上に置かれたミニノートの画面から視線を外せなかった。
「そのネットオークション、あたしもたまに使ってるの。ツキノワと兄貴が回収してきた小型カメラや赤外線センサー、エアガンとか、そこで出品してるから。お小遣い稼ぎにと思って。
そしたら、ツキノワの毛が大量出品されてるのを見つけたわ」
確かに画面にはオークションのサイトが表示されてる。ツキノワの毛が百本、最終的に総額数百万円の値がついた。だが表示されているサイトはそれだけじゃない。他にも沢山のサイト、新聞記事を取り込んだ画像等もある。
「お人好しでおマヌケな兄貴は気にもしなかったでしょうけど、あたしは田島楓の情報が気になったわ。あの子の性格とかだけじゃなく、家庭の事情。つまり、あの子の家が金に困ってるかどうか。
朱美ちゃんに情報を集めてもらったの。でも口で会話すると、ほとんどの会話はツキノワの耳に届く。ツキノワと会話出来る兄貴にもバレちゃうわ。だから全部PC画面やメールで教えてもらった」
《そっか…。この前、わざわざ僕を部屋から追い出したのに、PCを使いながら、なぜか朱美ちゃんの話はただの世間話だった。ずっとPC画面で話をしてたんだね》
ツキノワが納得してる。
俺は悪口を言われたのは分かってるけど、反論できない。する気にならない。確かに俺はマヌケだ。初めて女の子に好きだと言われて浮かれてた。有頂天になって何も考えてなかった。
おまけに新聞もろくに読んでいなかった。これじゃ、こんな重要情報を知ることは出来ない。新聞記事と彼女の家庭の事情。この情報を少しでも知れば、警戒するのが当然だったんだ。
PC画面に表示された新聞記事は経済欄の記事。ある食品会社の経営が悪化していること、及び別会社との合併交渉が不調に終わったというものだ。もちろん俺は新聞の経済欄なんて読まないんだけど。他にもネット上で公表された株価の変動、株主総会の様子、社長の会見内容とかがある。どれもこれも、俺には全く縁がないモノ、いや、縁がないと信じていたモノばかり。
「田島楓、彼女の父親は食品大手ナスルに勤めているそうよ。でも最近の不況で会社が傾いてる。給料カットにリストラが進んでるの。そして、あの子の父親がリストラされるかどうかまでは知らないけど、会社の経営はとても厳しいわ。会社が潰れれば職を失うのは同じね。
ちなみにあの子の家、不況になる直前に新築の一軒家を買ったばかりだそうなの。つまり、仕事がなくなりそうなのに大きな借金がある。少なくとも、ローンを払えるほどの給料はない」
全く知らなかった。
俺は、彼女の仕草とか、視線とか、言葉ばかりに目がいってた。彼女がそんな大変な状況にあるなんて、全く気が付かなかった。俺が見ていたのは、俺に向けてくれる彼女の笑顔だけだった。
小刻みに震える俺の口から、蚊の鳴くような声が漏れる。
「俺を、そしてツキノワを、金づるに、する気だったのか…」
《そうだね…気付くべきだったよ。
彼女は、僕の大きな体を膝の上にのせても嫌がらなかった。ずっと体を撫でてた。
あれは、僕の毛を取ってたんだ。だから嫌がらなかったんだ。その後にネットオークションへ出品された…時期からいって、可能性を考えるべきだったね…》
ツキノワの声も元気がない。横を見れば、弟もうなだれて目を閉じている。
鏡を見るまでもなく、俺も似たような姿をしていることだろうと想像できる。
「その通りよ。でも、兄貴に言うわけにはいかなかったわ。何か証拠がないとね。
あの子が家に来ると聞いて、目的は予想付いたわ。だから家を大掃除したのよ。ツキノワの毛を採取させないために、そして、唯一あるブラシとタオルの毛を手に取らせるために。
隠しカメラとかは沢山あるけど、そんなの仕掛けても兄貴とツキノワに見破られる。だからこんな、手間のかかる罠をはったの。上手くいくかどうかわからなかったけどね。賭けだったわ」
テーブルをはさんで俺たちの前に座る紗理奈。淡々と事実を語る。怒りもしなければ、バカにしてもいない。ただ普段通りに、俺たちのマヌケさと田島さんの企みを語り続けてる。
スゥ…と静かに居間の戸が開いた。
そこには田島さんと母さんが立っている。破れた服を母さんのジャージに着替えてる。彼女は肩をすぼめてうなだれている。ジーンズに黒いトレーナー姿の母さんは、別に怒っている様子はなかった。彼女の後ろで、ただ困った顔をしている。
「事情は、大体この子から聞いたわ」
その母さんのセリフを聞くと、田島さんの体がビクッと震えた。
そして、長めの髪を振り乱し、勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさいっ!」
俺たちは、何も言わない。
ただ黙って彼女の頭を見つめている。
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい!ごめんなさい…ごめん、沢渡君、ツキノワちゃん…ごめん、なさい…本当に、ごめんなさい…」
彼女は頭を下げたまま、謝り続ける。
彼女の顔の真下に、ぽたっと雫が落ちる。
涙が床を濡らしていく。
深夜とも言える時間。。
夜になって帰ってきた父さんも加わり、居間に田島さん含めて全員が居る。
溜め息と共に、あぐらをかいたジャージ姿の父さんが話し出した。
「もうすぐ、君の親御さんが迎えに来る。事情は向こうにも話してある。随分と怒っていたよ」
テーブルの端に正座する田島さんは、まだうつむいたままで小さくなっている。
沈黙が流れる。
母さんも溜め息をつく。そんな小さな音すら静まりかえった居間ではよく聞こえる。
ゆっくりと田島さんが動いた。
正座する自分の膝の前に手をつき、頭を深々と下げる。
そして、彼女は、迷いなく言った。
「お願いします。どうか、ツキノワちゃんの毛を分けてください」
床に額をつくほど頭を下げて、彼女は言った。
俺もツキノワも、目を見開いたまま硬直する。紗理奈や父さん母さんも驚いて何も言えない。
そして彼女は構わず話し続ける。
「私の家の事情は、話した通りです。もうすぐ父は職を失います。家のローンは何千万も残っています。父は心配するな、と言ってはくれています。ですが、その父も日に日にやつれています。
このままなら、私の家族は終わりです。家を失い、引っ越さざるをえません。高校は中退しなくてはいけません。でも学校を辞めて仕事を探そうにも、この不況ですから、まともな職も見つからないでしょう。いえ、引っ越そうにも、引っ越すお金すらもないと思います」
沢渡家の面々は何も言わない。
ただ、恥も外聞も捨てて頭を下げて頼み込む彼女の話を聞く。
「一家が路頭に迷うか、私と母が仕事を探すか、それともいっそ…。そんな風に悩んでいたとき、沢渡君とツキノワちゃんを思い出したんです」
俺とツキノワが目を合わせる。何を言えばいいのか思いつかない。こんなヘヴィーな話は久しぶりだ。
「ツキノワちゃんの毛を売ったお金、今も私の口座に入ったままです。それがあれば、しばらくはしのげます。ウチの家族が、父さんも母さんも、全員が助かるんです。
どうかお願いします。ツキノワちゃんの毛を下さい。
何でもします!お金は将来、働いて返します!いつか必ずお礼もします!
だからお願いです!ツキノワちゃんの毛を分けてください!この通りです!」
彼女は、本当に床に頭をすりつけて懇願する。そのまま動こうとしない。
俺たち家族は、お互いの顔を見る。みんな困った顔をしてる。
《どうしようか…》
表情を変えられないツキノワだけど、困った声は聞こえてくる。
どうすればいいんだろう。
ツキノワの毛は、それ自体はいくらでもある。もう毛の生え替わる時期だし。血液サンプルだって取ろうと思えば取れる。それをどこかの製薬会社や大学に持って行けば買ってくれる。田島さんの借金なんて、あっと言う間に返してお釣りが来る。ツキノワはダイヤの鉱山が歩いてるのと同じなんだ。
だが、それをやった後が怖い。
この不況だ。次々と、我も我もと金に困った人がやってくる。毛を下さいと泣いて懇願する。だけど、当然ながら全てに応えることなんか出来ない。でも断れば逆恨みもされるだろう。
さらにまずいのは、ツキノワを捕まえたり毛を取ったりしても、大した罪にならないということだ。ツキノワが遺伝子操作で人間の頭脳を与えられた世界でただ一匹の猫で、その価値は計り知れない、というのは誰でも知ってる。だけど、それでも、基本的にペットの猫扱いだ。ツキノワを捕まえて持ち去っても、それは単なる窃盗。殺しても器物損壊とかだ。さしたる罪じゃない。対して生み出す価値は天文学的。力ずくで奪い警察に捕まっても割が合う。
第一、このネットオークション結果を見れば、力ずくでおうとする者が増えるのは当然だ。田島さんの行為は、俺の家族を危険にさらすものなんだ。
だけど、だからって…。
こんな…いったい・・・。
同じように考え込んでいた父さんが口を開こうとする。そのときチャイムが鳴った。田島さんの両親が迎えに来たんだ。
フゥッと一息はいた父さんは立ち上がり、田島さんの肩に手を置く。
「ともかく、今日は帰りなさい」
彼女は、ゆっくりと頭を上げる。その目は真っ赤になってる。
小さく頷いて、フラフラとしながら立ち上がり、父に連れられて玄関へと向かう。
俺も立ち上がろうとしたが、父さんに止められた。
「ここは俺だけで行く。お前とツキノワは、部屋に戻ってろ」
それだけ言うと、父さんは田島さんの肩を支えるように玄関へと歩いていった。
しばらくして、外から何か大きな声が響いてくる。
どうやら田島さんの両親が彼女を叱りとばし、父さんに平謝りしているらしい。
ツキノワの耳を使えば、何を言ってるのか詳しい内容が分かるだろう。けど、そんなのやる気も気力も無い。聞きたくない。
《…部屋、帰ろ》
ツキノワも気力がなくなったようだ。俺と弟は、二階へと上がっていく。
階段を上る途中、背中側で何かをひっぱたくような音がした。
でも、振り返る気にはならなかった。
静かな夜だ。
あんな騒ぎがあったのに、そんなこととは関係なく、窓からは虫の音しか聞こえない。
もう何時間もベッドの上でゴロゴロしてる。けど、全然寝れない。当たり前だ、あんな事があったのにグーグー寝れるほど、俺の神経は太くない。
一階からも、向かいの紗理奈の部屋からも何も聞こえない。あれからどうなったか知らないけど、さすがにもう寝たろう。
《あの後の話、全部、僕の耳には聞こえてたけど…》
《いや、いらない》
ベッド上、俺の頭の横には丸まったツキノワがいる。でもこいつも全然寝れていない。二人して寝返りをうつばかりだ。
静けさだけが続く。
だけど、眠くなる気配もない。
《ねぇ…》
「・・・うん?」
丸まったままの弟が、控えめに思考を飛ばしてくる。
《田島さん、これから…どうなるかな?》
「・・・退学して、安アパートとかに引っ越して、働きに出て…そんなところだろうな。別に死ぬ訳じゃない」
《そっか…》
それきり頭には何も聞こえてこない。
耳には相変わらず虫の音が聞こえてくる。
また何度か寝返りをする。
《あの、さ》
控えめな弟の言葉も、今は五月蠅いだけだ。何も考えたくない。
「・・・もう、寝よう」
《…そうだね》
その夜は、その後は何も話さなかった。
俺は寝ようとしたけど、なかなか寝付けない。寝付いても、何か悪夢のようなものにうなされて、すぐに目が覚めてしまう。
何度も何度も目が覚めて、気が付いたら、いつのまにか朝になっていた。
次の日、火曜日。
とても爽やかなはずの、秋晴れの朝。
だが、俺の体も頭も重い。寝不足と疲労と、その他色々のショックだろうな。
フラフラと起きて、もそもそと朝ご飯を少しだけ食べ、何か母さんや紗理奈が言葉をかけてくれたようだけど頭に全然入らず、そのままダラダラと自転車のペダルを押して、大遅刻した。その後も寝不足の反動で授業中は何度も寝て、何度も先生に怒られた。でも、何も感じない。どうでもいい。
「なぁ、ニャオよ」
休み時間に村主が俺のところに来た。俺はといえば、相変わらず机に突っ伏したまま、頭を上げようともしない。
「実は、田島さんが学校に来ていないそうなんや」
俺の有様と、俺と付き合い始めてたはずの田島さんが急に休んだこと。どうしたのかは知らないだろうけど、何かがあったのは分かるだろう。
俺は何も応えず、机に顔を埋め続ける。
「ま、気が向いたら何があったのか教えてくれや。愚痴は聞くで」
それだけ言って村主は離れた。あいつなりに気を遣ってくれてるんだろう。他のクラスメートも、少し言葉をかけては席に戻ったりしてる。さすがにみんな中坊じゃない、気は遣ってくれる。
その後も同じように時間は無意味に過ぎていく。何も頭に入らない、ただダルくて眠いだけの時間。
お昼休み。
フラフラと教室を出て、一人になれそうな所を探す。
いつの間にやらたどり着いたのは焼却炉横。
誰もいないのを確認する。人の姿は見えない。
「・・・ふぅはぁあ〜〜〜〜・・・」
そこでようやく、周囲の目を気にせず、大きな息を吐いた。
「そうだよな。俺のことをずっと想ってましただなんて、そんなうまい話…この世にあるわけないよなぁ」
《いや、そんなことはないよ》
この日初めて弟の声を聞いた。
ずっと、俺に何か言いたいのを我慢してたんだろう。ツキノワの声が次々と流れ込んでくる。
《家で田島さんと昔の話をしたでしょ。多分、浩介君をずっとみつめていたのは本当だったんだよ。
僕は思うんだけど、決して嘘を言ったとか、利用する気しかなかったとか、そんなことはなかったと思う。
そりゃ、コッソリお金稼ぎをしようとしてたのは失礼だし、僕らにとってはとても危険な行為だよ。それは怒って当然。でも、だからって 田島さんの言葉が全部嘘だって決めつけることは無いよ》
「お前を危険に晒すような事をした、それで十分だ」
吐き捨てるように言う。
本当に、それで十分だ。十分すぎる。
ツキノワがどういう存在か、知らなかったはずがない。俺の家族がどれほどの苦労をしてきたか。金儲けを企む人々からツキノワを守るため、俺だって俺なりに頑張っていたのは、山での特訓を見た田島さんは分かっていた。
田島さんの本心は知らない。今さらどうでもいい。ツキノワを利用しようとした、それだけでも、それだけでも、田島さんを…。
脳裏に田島さんの姿が浮かぶ
部屋で楽しそうに笑ってた
弁当を作って山に会いに来た
子供の頃の話をした
泣いて謝ってた。何度も謝ってた
土下座してまで助けて欲しいと頼んでた
屋上での告白も
《実は、ずっと考えてた事があるんだ。聞いてくれる?》
「なんだ?」
立っているのも面倒くさくなり、校舎に寄りかかってコンクリの上に腰を落とす。見上げると秋の空、ゆっくり雲が流れてる。
《僕にも、何か出来ないかな?》
「気にすんな。お前が気を遣うことなんてねーよ。これは俺の問題だ」
《そんなこと、ないよ。それに、田島さんのことだけじゃないんだ》
「うん、何だ?」
《僕の、これからの人生、じゃないや。猫生についてなんだ》
ツキノワの、弟の、これからの人生…いや猫生…?
そういえば、考えたことはなかったかも。
感覚をツキノワに移してみる。
そこは父さんと母さんの部屋。ベッドの上で丸まってる。多分、お昼ご飯を食べた後だろう。背中を母さんが優しく撫でてる。撫でながら、ゆっくりと言葉を紡いでる。
「ねぇ、ツキノワ」
母さんはツキノワに話しかけてる。独り言、というわけでもない。ツキノワは人間の言葉を理解するんだから。
「確かにあの田島って子は、あなたを金儲けの道具にしようとしたわ。でも、決して怒らないであげてね。
あの後の話、あなたの耳なら聞こえてたでしょ?あの子の家は本当にお金に困ってた。このままじゃ、一家心中だってしかねなかったでしょうね。あの子はあの子なりに、精一杯頑張ったの」
ツキノワは何も答えないけど、耳は母さんの方に向けてる。黙って話を聞いている。
「そりゃ、あなたにとっては気持ちの良い話じゃないわ。だけど、あなたが自分の身を守るために頑張るように、あの子も自分を守ろうとしたの。ううん、自分だけじゃなく、自分の家族や将来の夢も。
それ自体は決して悪い事じゃないわ」
そりゃ、言いたいことは分かるさ。
抜け落ちた毛なんて、本当はタダのゴミ。拾ったら、その人のものだ。それをどうしようが、その人の勝手。
田島さんは、なるべく俺たちに迷惑をかけない方法で金を手にしようとした。一生懸命家族のために。それは俺と同じだ。
「それにね、あの子の様子からして、あの子が浩介のことを好きだったのは本当だと思えるの。
あの子は、決して積極的そうじゃないし、とても真面目そうだった。なのに、必死に告白とかして、家の借金も何とかしようと頑張って…。
私には、あの子のしたことを責めることは出来ないわ。むしろ、これからの人生、負けるなッて応援したくなっちゃう」
にゃんっ、と一声鳴いて頭を上げ、真っ直ぐ母さんを見返すツキノワ。母さんは猫の息子にニッコリと笑いかけてくれる。
「あなたも賛成してくれるのね、嬉しいわ。
でも、これを浩介に話すのは、どうしようかしらね。私から言っても反発するんじゃないかしら?ここはやっぱりツキノワから話してくれない?浩介は、あなたの言葉が分かるから」
むー、さすが母さん。俺のことをよくわかってる。ムカつくけど。
許せと言われたって素直に許せるもんか。
だって、弟を危険に晒すなんて人を許すわけには
「だって、なにしろ浩介にとっては多分、初めての失恋でしょ。もう、裏切られたー、て落ち込ん」
頭の中にブチッと音が出るんじゃないかってくらいの勢いでリンクを切断した。
コンクリの上にあぐらをかき、開き直ってふんぞり返る。
「あーそーだよそーだよ!まったく母さんはよくわかってるな!俺は振られましたよ裏切られましたよ!だから怒ってますよ落ち込んでますよーだっ!」
《まぁまぁ、とりあえず落ち着いてよ》
「これが落ち着けるもんか!お前だって俺の気持ちは良く分かってるだろ!」
《まずは声を小さく。周りに人がいたら不審に思われるよ》
慌てて周囲を再度見渡す。
前後左右上下、どこにも人影無し。
改めて、頭の中で会話を続ける。
《ツキノワ、心が繋がってるんだから、俺の気持ちはよくわかるだろうが》
《そりゃもちろん。でもね、心が繋がってるっていうことだけじゃなく、僕には浩介君の気持ちが分かるよ。どういうことか分かるよね?》
《そりゃ、お前は俺の血を分けた兄弟で、一緒に暮らしてきたからだろ》
《そうだね。だから精神リンクと関係なく、浩介君の気持ちが分かる。
だって僕は、猫の体に人間の心を持ってるんだから》
再びツキノワの視界とリンクしてみる。母さんの部屋を出て、縁側から外に出るところだ。上を見上げると、俺の見ているのと同じ空が見えてる。ただ見上げてる方向が違うので、同じ雲を見ているはずでも形が全然違う。
てくてくと庭を歩きながら、弟は話を続ける。
《ねぇ、浩介君。僕は心が繋がる前は、時々こう思うことがあったんだ。
人の心や知能なんか要らない、ただの猫に生まれたかった…て》
壁際に来ると、猫としては大きな体を低くかがめ、一気に駆け出す。助走をつけてジャンプし、一瞬で高い壁を駆け上がり乗り越える。そして、即座に飛び降りて森へ駆け込んだ。
《だって、人の心なんかがあるから誰とも話が出来ず、誰にも僕のことを分かってもらえず、ずっと寂しかったんだ。
その辺の普通の猫みたいに、人生なんか考えず、他人なんか気にもとめず、勝手気ままにキャットフードを食べて昼寝するだけの生活が出来たら、どんなに楽だろうって、何度も考えた》
「寂しい考えだなぁ」
コンクリにあぐらをかいたままの俺は、空を見上げたまま小声で呟く。
秋の空は、どこまでも高く青い。雲はのんびりゆっくり流れていく。
《そうだね、寂しいね。
寂しいよ、こんな考え方は。寂しくて辛かった。ずっと悲しかった。
だから、こうやって浩介君と話が出来るようになって、とっても嬉しかった。
それだけじゃない。他の人の役に立ったり、ほめられたりするのも嬉しいよ》
そりゃあそうだろうなぁ、と俺も思う。
ツキノワの心は人間なんだ。だったら人間と同じように、いろんなヤツと友達になったり、誰かのために頑張ったり、褒められたりするのは楽しくて嬉しい。
《そうだよ、僕は、僕だって、誰かのために頑張りたい。僕は体が猫だけど、心は人間なんだから。
浩介君が僕の安全を最優先に考えてくれるのは嬉しい。それはお互いのためだし。でも、それだけで良いとは僕には思えない》
「お、おい、ツキノワ、お前…」
リンクした映像は、どんどん森の奥、山の上へ進む。そして山の中腹にある高い木の幹を駆け上がり始める。
太い枝までたどり着くと、その上に腰を下ろした。そこからは街がよく見渡せる。
《僕には、きっと出来ることがあるんだ》
まだ紅葉には早い山は緑のままだ。街は真昼の太陽に照らされてる。耳には自動車のクラクションとかが聞こえてくる。
《このまま浩介君や紗理奈ちゃんや、父さん母さんに守られるだけの一生なんてイヤだ。僕も何かをしたいんだ。みんなと、また会いたいんだ。
僕なら出来る、僕にしかできない、僕がやるべきこと。きっとあると思う》
その声は、強い意志が含まれてた。
誇張とか気のせいとかじゃなく、間違いなくツキノワは決心を固めている。その意志が伝わってくる。
《解剖されたりとか、戦争に狩り出されるとかなんて冗談じゃないけど。でもそれ以外で、誰かのために何かをしたい。
そう、なんというか、えーっと、自分探しとかいうヤツ?》
《うーん、上手い言葉が思いつかないけど、多分そんな感じじゃないか?》
《多分、そんな感じ。ほら、青春ドラマなんかでよくあるヤツ》
《あー、あるなぁ…そういうの…》
頭の中に、その手の自分探しドラマとか、そういうマンガやアニメの映像が高速で流れていく。ついでに、そういう物語の定番なオチも。
《熱く語ってるところ、水を差して悪いんだけど…そういうのって、結局『自分は自分、それ以外の何者でもない』っていうのがオチだぞ》
《まーね。でも、僕に出来ることがある、というのは間違いないんじゃないかな?なにしろ僕はホントに『特別』な、世界で唯一の存在なんだから》
《確かに、な》
俺は平凡だ。自信を持って平凡な人間だと言える。いや、平凡だった。
でも、本当に特別な存在のツキノワと精神がリンクした以上、もう俺自身が平凡だからと、知らんぷりするわけにもいかないんだろう。
のんびりと空を見上げれば、いつも通りの秋空。
誰が見ようが、どこで見ようが普通の秋空。人間の営みなんか無関係な空。雲は俺たちのことなんか気にしない。どこかから現れて、どこかへ消えていく。
でも、俺たちは人間だ。
いや人間と猫だ。
いやいや人間と半人半猫だ。
空がいつも通りだろうと、雲が下界を気にしてくれなかろうと、俺たちは今日を生きてる。誰だって今を頑張ってる。歴史のうねりだの、世界の流れだの、そんなの一人一人の人間には関係ない。気にしたってしょうがない、どうにもならないんだから。俺達ちっぽけな存在は、自分たちのことを精一杯やるだけだ。
今、弟の望みは何か。
ツキノワが頑張りたいことは何か。
俺がやるべきことは何か
そんなことを考えたとき、答えがすぐ出るわけじゃないけど、これだけは間違いないと言える。
俺も、もう平凡で穏やかな日常にはいられない。
いや、もうずっと前から平凡な日常なんか終わってた。ただ俺が認めなかっただけなんだ。ようやく現実に向かい合う気になれた、というだけなのかもしれない。
《苦労をかけるね、お兄ちゃん》
「だから、そういう呼び方はよせっての」
よっこらせっ!というジジむさいかけ声と共に立ち上がり、尻の砂粒を払い落とす。
「けどま、いつかは考えるべきことだったんだろうよ。良い機会だし、俺たちに損が出ない程度に頑張ってみるか」
《だね!…けど、なんというか、早速だね。損が出た》
昼休み終了のチャイムが鳴る。
俺の腹も鳴る。
食欲が出る程度に元気が回復したけど、昼飯の時間は回復しなかった。このくらいの損は我慢しよう。
ああ腹減った…。
午後の授業、空腹と睡魔に耐えつつ机に隠れてメールを打ちまくる。ツキノワに関することは沢渡家の問題。俺一人で勝手に決めるわけにはいかないから、家族に伝えなきゃならないのは面倒くさい。
次の授業を待たずして一通の返事が返ってきた。それは、何というか案の定、紗理奈からのメール。
『ふざけるなー!』
一言だけ。
《やっぱり最難関は、紗理奈ちゃんかぁ》
《ま、予想はしてたさ。さて、どうやって説得するかな》
俺は思案を巡らし、さらにメールを打つ。
午後の授業が終わり、大詰めに入った文化祭の準備。みんな作りかけの衣装や部屋の飾りを持ってくる。
「おーい、村主よー」
「おう、どうやら元気出たようやな」
村主も似合わぬネコ耳作りをしようと、ハサミやら裁縫用具やらを手にしていた。そんな大男の前に、段ボールを突き出す。
「…なんや」
「この前のお返し」
「ぐぐぐ、しゃーない。ところで、お前は何か用があんのか?」
「ああ、実はな…」
村主を手招きし、耳に囁く。
「…なっ!お前、マジか?」
「バカ、声が大きい」
一瞬でクラスメート全員の注目を浴びた。慌てて村主も声をひそめる。
「おい、どういうこっちゃ。詳しく説明せーや」
「今はちょっと時間ない。後で伝える。ともかく、今は俺のノルマを頼む」
段ボールに詰まった分担分を押しつけて、教室を飛び出した。
自転車を疾走させ、家に帰ってきた。
通用門をくぐり玄関に入れば、そこには紗理奈のスニーカーが放り出してある。割と几帳面な紗理奈は脱いだ靴を散らかしたりしない。その妹がクツを並べていないのは、そのまま心理状態を表している。つまり、大慌てで帰ってきた。俺のメールが原因なのは尋ねるまでもない。
そう、玄関マットの上で腰に手を当て仁王立ちする妹に尋ねるまでもない。
「帰ってきたわね、バカ兄貴」
「おうよ」
いつもはいいように振り回されてる俺だけど、今日だけは引くワケにいかない。決心を新たにして家に上がった。
居間にいけば父さんと母さんも座って待っていた。そしてツキノワも。
「帰ってきたか浩介。メールにあったモノ、揃えておいたぞ」
ツキノワの横には中身を取り出された幾つもの箱。中身は部屋の中に散乱してる。それは数百個の、正方形のプラスチックブロック。
日曜、am10:00。
築島大学生命科学研究所は、緑豊かな五月山国定公園に連なる山林を臨む学園都市の一角にある。元々、日本でも指折りの大学として知られていたが、現在は生命科学で世界の最先端をいくと評される。具体的にはツキノワ研究の中心を担っている、と。
その所長室では、机を挟み数人の人間がソファーに座っていた。窓側の席には白衣を着た中年の男女。扉側のソファーにはマイクを持った若い女性。そして大きなカメラを手にした男が二人を撮影している。室内には他にも、三脚に固定されたカメラ、部屋の隅に待機するアシスタントなどがいた。
スーツ姿の若い女性が身を乗り出して質問を続ける。
「では春原所長、ツキノワによる環境への影響、何らかの汚染は考慮する必要はない、と言われるのですか?」
「はい。ツキノワを隔離する必要はありません」
「なぜでしょうか?生物兵器が未知の病気をまき散らすのでは、という懸念が各方面から聞こえていますが」
「それは、ツキノワの存在が明らかになるまでの十年、名香野市において特別の環境的変化が生じていないからです。そのデータについては木村君が説明します」
隣に座っている白衣の男性、木村が頷く。机に置かれたノートPCに彼が表示させたのは、名香野市の各病院で調査した疾病の種類と患者数のデータ。
レポーターに画面を示しながら、彼は説明を始めた。
「これを見て分かるとおり、名香野市では他の地域と比べて患者数も疾病の種類も特段の特徴はありません。また、名香野市において生態系に異常な変化が見られたという報告もありません。
このため、ツキノワが名香野市で暮らすことに、現状では危険性はないものと判断しました」
築島大学生命科学研究所の所長室では、TVの取材が行われていた。
レポーターは「なるほど…」と頷き、次の質問へ移る。
「ところで、ここでツキノワに関する視聴者からの質問を読み上げてもよろしいでしょうか?」
「はい。まだ研究途上にありますが、答えられる範囲で答えたいと思います」
所長はゆっくりと、言葉を選んで答える。レポーターは局が持参したノートPCを覗き込む。
「え〜…、やはり、一番質問が多いのは、ツキノワの知能についてですね。どのくらい頭が良いのか、という点です」
「そうですね…」
所長は隣に目配せし、木村は小さく頷く。その上で、彼女はゆっくりと答えた。
「あらゆる生物の中で、最も人間に近い…と言ってよいでしょう」
おお…という声が部屋に満ちる。スタッフは目立たないように声を殺しているが、それでも全員が小さな声を漏らせば大きなどよめきになってしまう。
レポーターがぐぐっと更に身を乗り出す。
「人間に近い、と言われましたが、具体的には?例えばIQで言いますと、どれくらいなのでしょうか」
「単純にIQで比較することは出来ません。ですが確実に言えるのは、日本語を理解できます」
さっきより大きなどよめきが起きる。レポーターも顔を赤らめ、興奮を隠さない。
「驚きですね、これは凄いことです!
ですが、視聴者からの質問の中には、人間より脳の容量がすっと少ないのに、報道にあるような、あれだけの知能を持っているのはおかしい、という疑問の声も寄せられています。
未だに『飼い主が背後で操っているだけのトリックではないか?』と疑う人も多いようです」
「それについては現在も研究途上にあり、答えることは出来ません。ですが手品の類でないことだけは保証します。
確かに、ツキノワの脳の容量は人間に比べて小さいです。大型の猫、たとえば北アメリカ原産のメイン・クイーンは、ツキノワに近い体格を持っています。知能も高く、犬のようにボールを取ってきたりもするそうです。ですが、それでも人間の知能には遠く及びません。
これには肉体の大型化に伴う大脳の容量増大、という以外の要素が働いているものと思います。今後の研究の大きなテーマとなるでしょう。いえ、ツキノワ研究の主題となりえます」
レポーターは演技ではなく、本気でウンウンと頷いているように見える。この点には本当に興味があるのだろう。
ツバを飛ぶんじゃないか、というほどの勢いのままで質問を続ける。
「それでは、具体的にツキノワという猫が、どのような頭脳を有しているのか、その点を具体例と共に説明して頂けませんか?」
「具体例、ですか?」
「はい。未だトリックと疑う人々へ、そうではないと示せる根拠が欲しいのです。
この夏の間、ツキノワは飼い主と共に築島大学付属病院に入院していたそうですが、その時のエピソードなどがありましたら、是非お聞かせ下さいませんか」
「そう、ですね…」
所長は、少し上を向く。
そこには壁掛けの時計があった。その針は10:31を指している。
「私から口で説明するより、この映像を見た方が証拠としては確実と思います」
その言葉に、レポーターではなく隣の木村がキョトンとした。春原は構わず彼に小声で指示をする。彼は不思議そうにしながらも、指示通りにPCを操作した。
「…出ました。これですか?」
「そう、それです。ありがとう」
彼が表示したのは有名な動画投稿サイト。レポーター達は、その画面を覗き込む。
「実は、この時間に投稿される予定の動画があるのです」
レポーターがハッと息を呑む。隣の木村も。
「投稿動画、ですか?もしや、それはツキノワのものですか!」
「はい。予定では10時半に投稿すると言っていましたが…ありました。これです」
彼女が表示させたのは、一つの動画。確かに十時半に投稿されていて、まだ再生数も少ないしコメントもない。
タイトルは『小立高校文化祭〜新聞部発表:スクープ!ツキノワレポート1〜紹介編』
スタッフ全員、絶句した。木村は開いた口が塞がらない。
「これは、今年の小立高校文化祭で新聞部が上映する予定のものです。第一回の上映終了後、10時半にネットへ投稿する、とのことでした。どうやら予定通りにプログラムは進行しています」
今まで、いかなる取材・面会にも応じなかった沢渡家。ほとんど映像が公表されないツキノワのVTR。それが平凡な、ただの高校の文化祭に姿を現し、ネット上に自ら動画を公表するという。
部屋の隅のディレクターが小声で、しかし必死で「動画!動画っ!」とレポーターへ指示を出す。この声にレポーターの女性が我に返った。
「あ、あの!これ、再生しても、よろしいですか?」
「もちろんです。どうぞ」
春原は自ら動画の再生ボタンをクリックする。同時にディレクターは部屋を出来るだけ静かに出て、慌てて携帯を取り出す。「そう!急いで調べて…」という声が聞こえる。動画を局へ知らせてるようだ。
動画は動きだし、PCから音声が流れ出す。
タイトル画面とBGMが消えると、森の中の映像へ変わった。そこは五月山の森の奥にある原っぱ。画面の中には二人の人物。二人はジャージの上にプロテクターとフルフェイスヘルメットで全身を防護している。大きい方の人は手に竹刀を、小さい方の人物は長い棒、先端を綿で包んでる。
大きい人を挟んで反対側、草むらの中に黒い影が見える。それは身を沈めて忍び寄る、大きな獣の背中。
大きい人――村主はゆっくりと竹刀を構え、そして振り下ろした。ツキノワへ向けて。
黒い獣――ツキノワが軽やかにかわし、間合いを開ける。
同時に小さい方の人――浩介が飛び出し、綿でくるまれた棒を突き出す。
三者の攻防が続く。
浩介は棒を素早く、幾度も突き出す。左右に回転させ薙ぎ払う。それを村主は竹刀で受け止め、受け流し、フットワークで避ける。ツキノワは村主の竹刀をかわしながら、巧みに死角に周り隙を突いてツメを彼の防具に食い込ませ、一瞬で離れるヒット&アウェイを繰り返す。
浩介の棒術は素人レベルの、下手なものだ。だが、村主は浩介にもツキノワにも一撃を加えることは出来ない。浩介に攻撃しようとすればツキノワが、ツキノワへ向かえば浩介が、見事な連携での攻防を維持しているから。獣のツメが足を狙うかと思えば、浩介の棒が上から振り下ろされる。体重を乗せた蹴りで浩介を吹き飛ばそうとすれば、その背後からジャンプしたツキノワが村主にとびかかってくる。
村主のスタミナはいつまで経っても切れそうにないが、効果的な一撃を与えられもしない。浩介とツキノワの連携も素晴らしいが、村主のディフェンスとフットワークに翻弄されて、やはり致命的一撃をいれられない。
だが、膠着状態は一瞬で崩れた。
息が切れ始めた浩介が足を滑らせ、草むらに尻餅をついた。その瞬間、村主は一気に飛び込んで、彼の眼前に竹刀を突き出す。
浩介の目の前に、竹刀が止まっていた。
『・・・また、引き分けやな』
『ああ。ようやく本当に五分だ』
村主と浩介がお互いを見ながらニヤリと笑う。
竹刀で突きを繰り出していた巨体、その広い背にはツキノワがとりついていた。そして右前足から伸びる爪は、彼の首筋にピタリと当てられている。
ぱちぱちぱちぱち・・・
画面から拍手の音が響き、同時に制服姿の女子高生が現れた。手にマイクを握りしめ、興奮した口調でしゃべりだしたのは、釣り目にショートヘアの新聞部員――篠山朱美だった。
『このVTRをご覧の皆様!本日は小立高校文化祭、新聞部展示室へご来場頂きありがとうございます!
今回、小立高校新聞部は、名香野市で最も有名な住人であるツキノワちゃんと、その飼い主である沢渡浩介氏への独占インタビューに成功いたしました!
あ、レポートは私、小立高校一年生、新聞部員の篠山がお送り致します。では、第一部、紹介編を送ります!』
言い終わるが早いか、すぐに篠山は二人へ駆け寄る。ついでにカメラマンも。
手ぶれで揺れる画面の中で、二人が防具を全部外した。秋の柔らかな光を受けて飛び散る汗が煌めく。
『こんなもんでええんか?』
『はい!再現映像の撮影にご協力ありがとうございました。いやー、お二人とも強いですねー』
マイクを突きつけられたのは浩介。恥ずかしそうに照れて頭をかきながら答える。
『え、えと、まだまだです。俺とツキノワの二人がかりで、その、やっと、五分ってレベルですから』
『そんなことは無いと思いますよ。特に連携が素晴らしかったと思います。いつもこのような戦闘訓練をしてるんですか?』
『んと、その、時々、してます』
『やはり、これまでの事件から、身を守る必要性を感じてのことでしょうか?』
『は、はい。結局、最後に頼りになるのは俺とツキノワの連携、それに、体力ですから。だから、訓練しておかないと』
『なるほど。では、ツキノワちゃんへもインタビューをしたいと思います。何でも、ツキノワちゃんは人の言語を理解するとか。そして沢渡さんなら彼の思考を理解出来るとか』
『あ、はぁ、まぁ…少しくらいなら』
『では、通訳をして頂けますか』
『あ、通訳は、必要ない、です。これ、使えます、から』
そういって浩介は茂みの中に置いていた鞄を取り出し、中からジャラジャラ音のする袋を取りだした。
『それは、何でしょうか?』
『えと、その、ご、五十音字が書かれた、ブロックです。幼児教育…とか、で使う、アレです。父に、買ってきてもらいました』
村主も自分の鞄を手にして、中からビニールシートを取りだし地面にひいた。そして浩介はブロックをシートの上に並べて広げる。ツキノワはシートの前に歩いてきて、行儀良く座った。
篠山は大げさな動作でひらがなが一文字ずつ書かれたブロックを覗き込む。
『もしかして、これをツキノワちゃんが使う…ということでしょうか?』
二人の口は動かない。
代わりにツキノワの前足が動いた。
ペチペチと器用に素早くブロックを弾き、一列に並べていく。
つ う や く い ら な い
ひらがなの列が、「通訳要らない」という文章を形成していた。
『おぉーっとぉ!なんということでしょう!これは、文章です!見事な日本語の文章が形作られましたぁ!』
カメラ目線で語る篠山のレポートは、少し大げさ過ぎてわざとらしかった。割と棒読みなセリフだった。が、所長室の取材班には、その事を指摘する人はいなかった。
「このような感じですが、これでご理解頂けますか?」
「あ、あの、えと…猫が、人間に近い…日本語を理解って、か、会話出来るって意味だったんですかぁ!」
「はぁ、そのつもりで言ったのですが」
「い、いえ、私が、言っていたのは、犬のように、簡単な命令に従える、という…」
レポーターは酸欠の金魚のように口をパクパクさせていた。所長以外の、他のスタッフも同様だ。
そして彼らが凝視する動画の再生数カウンターとコメント数カウンターは、僅か10分で桁が百の台に乗っていた。
さらにレポートは続く。
な に か の み た い
ひらがなの組み合わせで続けられていたインタビューの合間、飲み物を求める言葉が紡がれた。
『やや、すいません。レポートに夢中になってしまい、ツキノワちゃんが激しい運動の直後ということを忘れていました』
篠山とカメラが移動し、浩介と村主の方へ移動する。彼らは鞄からペットボトルに入った水と、皿二枚と、キャットフードを取り出した。
『では、ここからは彼らの食事にお邪魔しながらレポートを続けようと思います』
キャットフードと水を皿に入れ、二人はコンビニ袋に包まれたオニギリにかぶりつく。ツキノワは皿の中に顔を突っ込み食事に夢中。篠山は浩介にマイクを向けた。
『それがツキノワちゃんの食事ですか?意外と普通のドライフードですねぇ』
『んぐ、むぐ…ぷはっ。うん、昔から、コレ食べてるよ』
『何か理由があるんですか?』
『え?いや…別に。安いし量も多いし、意外と味も良かったから』
『味?』
『以前、ツキノワに勧められて一個食べてみた。結構食えたよ。臭いはヘンだけど』
『え…』
ちょっと引いた篠山の目の前を、ドライフードが一個飛んだ。ツキノワが口にくわえていたドライフードを一個、首を振って浩介に投げつけていた。それを彼はパシッと受け取り、当たり前のように口にした。
パリポリという音が響く。
『美味しい…ですか?』
『んー、別に。でもツキノワは気に入ってるみたい』
『まぁ、猫用のご飯ですから』
彼女は微妙な笑顔でキャットフードが詰まった袋を見る。カメラもレポーターの視線の先を映す。画面には、中身が半分ほど減った袋が映った。
その後もレポートは「ツキノワの好きな食べ物は?」「これまでの苦労話を聞かせてください」等、30分間ほど続いた。最後に篠山がマイクを握りしめ、カメラに向かって語り出す。
『はい!それではツキノワレポート第一部を終了致します。この後は生態編、学園編、再会編と続きますので、お手元のプログラム表をご確認し、お見逃しないようお願い致します。
以上、五月山国定公園より、篠山がお送りしました!』
ビシッという音が聞こえそうなほどの勢いで敬礼し、動画は終了した。
動画再生時間は30分、壁の時計は11時05分を示している。
PCにも表示された時間を見て、春原所長は溜め息を一つついた。
「残念ながら、取材終了時間が来てしまったようですね」
その言葉に、レポーターは我に返った。
「あ、あの!もしかしてこれは今、小立高校で!」
「はい。では、私はこれで失礼致します。あとは木村君、よろしくお願いしますよ」
そう言い残して、「あ、あの所長!」と引き留める木村とスタッフに何も答えず、春原は自分の仕事場を後にした。
未だに表示されるサイトの画面には、投稿されてから僅か30分ほどで再生数が五桁に達しようとする動画が残されていた。
春原所長は黒のスーツ姿で小立高校の校門に立っていた。
三階建ての、何の変哲もないコンクリ製校舎だが、さすがに文化祭だけあって沢山の飾りが付いてる。万国旗が校舎屋上から校庭のフェンスへ伸びたり、延々と並ぶ出店が焼きソバとホットドッグばかり売っているのはお約束。校庭では軽音楽部のバンドが歌い、その前ではストリートダンスが舞っているのが見える。
この高校の部活は活発ではない。別に青春の全てを賭けて打ち込んでるわけではないから。そんな芸能への才とやる気のある若者なら、もっと勉強に時間を割かなくていい学校を選ぶ。逆に勉強が本気なら、もっと偏差値の高い学校へ行く。実際、歌やダンスは少し上手いという程度。
そう、全くもって普通の学校の、普通の文化祭…の、ハズだ。少なくとも去年まではそうだったことだろう。去年の来訪者は、父兄以外は学外の友人達がチラホラ来る程度だったろう。
だが今、校門前には招待チケットがないため中に入れず止められている人々が数百人、右往左往している。正門はしっかりと閉じられ、通用門で教師達が人々のチケットを確認してる。
春原は群衆の中を通り抜け、通用門を警備する体育教師の前に来た。
「文化祭を見学に参りました。チケットはここに」
そういってライ・ヴァトンの茶色いバッグから取り出したのは、素っ気ない文化祭招待チケット。それを受け取った教師は記載を確認した。
「沢渡からの…そうか、あなたが春原博士」
「正しくは築島大学生命科学研究所所長です。入ってよろしいですか?」
「もちろん。ですが、沢渡のヤツはどこにいるか分かりませんよ」
「構いません。久しぶりに学生気分で楽しんでいこうと思います」
そういって教師に一礼し、背中に羨望のまなざしを受けながら彼女は門をくぐった。その間にも、正門前に集まる人は増えていく。そしてその多くはカメラを手にしていた。
小立高校文化祭。昔からそう呼ばれていた。大学の学祭でもあるまいし、それ以外の名称もあるはずなかった。だが学内を見れば、「ツキノワ祭り」「黒猫フェスティバル」と呼ばれるだろう。
まず校舎へ続く道を飾る入り口のアーチ、そこには黒猫の看板が左右についていた。校舎も廊下も、色とりどりの紙テープに混じって黒猫のポスターやぬいぐるみで飾られていた。
焼きソバを売る店員の生徒はネコ耳や猫の扮装をしている。
校庭でパフォーマンスをしているストリートダンサーの女の子達は、キャットダンスをしていた。演奏してるバンドの歌を聴けば、歌詞に黒猫という単語が多く混じってる。ツキノワの歌を作詞作曲したらしい。
小物を売っていた店で小さなキーホルダーを手に取った。それはもちろん黒猫をデザインした物。
体育館から歓声が聞こえる。暗い館内に入ってみれば、演劇がラストに入っていた。ツキノワ・浩介・村主が銃を持ったテロリスト二人組を倒すシーンだ。満員御礼で、立ち見が壁際を埋め尽くしてる。
浩介のクラス、1−Bでは喫茶店をやっていた。ただし店員はネコ耳メイドとネコ耳執事。春原は空いているテーブルに着席してコーヒーを頼んだ。すぐにメイドに扮した生徒が盆にコーヒーを乗せて持ってくる
「あの、すいません」
「はい?」
立ち去ろうとしたメイドがクルリと振り返り、小首をかしげて微笑む。
「沢渡君がいないようですが」
「あ…春原教授ですね」
予め伝えられていたのだろう。当たり前のように名前を言い当てられた。
「そうです。本日は彼から招待されました」
「沢渡君は、もう交代しました。今はどこにいるのか分かりません」
「そうですか。…ところで、もう一つ尋ねたいのですが」
「はい、なんでしょうか」
「こういう店では『お帰りなさいませ、お嬢様』と、出迎えてくれるのではありませんでしたか?」
春原は、真顔で尋ねた。
メイドの生徒は、凍り付いた。
非常に冷たい空気が流れる。
「そ、そういう、店では…ないんです。すいません」
あくまでメイドさんの扮装をしただけの女生徒は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「冗談です。では、失礼します」
春原は、あくまで冷静に答えて立ち上がり、颯爽と教室を後にした。ただし、頬は少し赤くなっていたのはバレていた。
ゆったりと各教室を巡る。
化け猫のお化け屋敷、猫のぬいぐるみや彫刻の展示などを見て回る。全部が全部、ツキノワをテーマに選んでいるわけではない。それでも大半が黒猫を扱っているので、あくまで普通に文化祭をしている方が少数派になってしまった。
そして新聞部の展示室に来た。
そこは特別教室で、大きな教室の壁にはツキノワに関する報道やインタビューの記事が掲示されている。だが窓の隙間から見ると、室内を埋め尽くす人は誰も掲示物を見ていない。もちろん教室に入れていない人は何も見れない。見れるのは、入り口に張られた張り紙くらい。非常に騒がしい。
『ツキノワレポート第三部、学園編。pm14:00より
*午後からの入場にはチケットが必要です*』
張り紙を見てから、腕時計を確認。小さくて品の良い時計が13:52を指していた。入り口で入場希望者を断っていた新聞部員の女の子に声をかける。
「もしもし、すいません」
「はい、あの、残念ながら座席は…あ、春原先生」
「あら、あなたは…尾野さんでしたね?」
「はい。お久しぶりです。先日は急な取材に応じて頂き、ありがとうございました」
ペコリと頭を下げたのは、縁なしの丸眼鏡をかけたポニーテール。尾野由奈だ。
春原も丁寧に頭を下げる。
「お久しぶりです。沢渡君を探しているのですが」
「今はいませんよ。しばらくしたら、また来ます」
「そうですか。では、また後ほど参ります」
「あ、でしたら次の上映を見ていきませんか?第三部のチケットはお持ちですよね」
春原は浩介から送られた招待チケットを示す。その裏には『春原さん、第三部オッケーだよ』という浩介の字が書かれていた。
「はい、それです。ありがとうございます」
春原は、自分が手にしているチケットをマジマジと見つめる。
「もしかして、第三部は来場者を指定しているんですか?」
「はい。実は事情があって、午後からは入場制限する必要があって…」
そういって尾野は、そして春原も教室の外をチラリと見る。そこには入場を断られて不満げな生徒父兄その他が所在なげにウロウロしていた。
「なるほど。ですが、申し出はありがたいのですが、既に満員のようですね」
「大丈夫です。春原先生への取材のおかげで、第二部の生態編が素晴らしい出来になりましたから、場所は空けます。この程度は当然だと思います」
「そうですか。でしたら、お言葉に甘えたいと思います」
尾野は春原を連れて、観客でごった返す室内へ入る。窓には暗幕がひかれ、室内に並んだイスは既に埋まり、壁際の立ち見がギュウギュウ詰め。イスを置いたら壁の掲示が見れないが、壁際までイスが置かれている。あまりに来場者が増えたので、急遽もってきたのだろう。
教室の奥、スクリーン横の机でプロジェクターを操作している生徒達に、尾野が声をかける。するとすぐに生徒の一人、部長の小林が席を空けた。
「ここへどうぞ」
「良いのですか?そこは司会者席だと思いますが」
「司会は立ちながらでも出来ますよ」
少し落ち着かないながらも、春原は司会者席に着席した。教室の外からは尾野や他の部員が平謝りする声が聞こえていたが、すぐに静かになった。上映が始まるため、騒がしい外野に散ってもらったらしい。
すぐ壇上の司会が挨拶を始め、エチケットとして携帯の電源を落とすよう頭を下げる。多くの人が電源を切ったのを見て、司会者が指示をする。照明が落とされ上映が始まる。
学園編という題名とBGMの後、小立高校の廊下へ場面転換した。
そこは学園祭の準備が全て整っているが、誰もいない。そして照明もついておらず、窓から朝日が差し込んでいる。どうやら学園祭前の早朝、まだ生徒がほとんどいない学内で撮影したものらしかった。
綺麗に飾られた廊下を映すカメラが、無人の校舎を映しながら、ゆっくり後ろを向く。そこには恥ずかしそうな浩介と、マイクを持った篠山が立っていた。
『はいっ!それでは第三部、学園編です。よろしいでしょうか?沢渡さん』
『は、はい』
『そして、ツキノワちゃんも、いいかな?』
篠山が浩介の背後に声をかける。すると、浩介の右肩からピョコッと黒猫の頭が飛び出した。浩介が背中に担ぐリュックから顔だけ覗かせたツキノワが「ニャンッ」と元気よく返事する。
とたんに暗闇の中で「きゃーっ!可愛いぃ〜!」という叫び声が幾つも上がる。そんな黄色い声援が届かない画面の中では、廊下を歩き出した浩介の後ろを篠山が、さらにその後ろをカメラがついていく。
浩介が歩きながら話し出した。
『す、すいません、こんな、早朝の取材を、してくれて』
『いえ、構いませんよ。でも、なぜこんな早朝に学校へ?』
『はぁ、実は…』
たどたどしく、浩介は理由を説明する。その間、リュックから首だけだしたツキノワはキョロキョロと周囲を眺めている。
ツキノワは浩介と共に十年間この街で暮らし、風変わりな賢い猫と皆に可愛がられた。
浩介の後を追って小学、中学にも来ていた。他の生徒達とも一緒に過ごした。
だから、この学校にはツキノワが再び会いたい人が多い。
でも有名になってしまって簡単に会えなくなり、とても寂しがっていた。
この学校でツキノワ祭みたいな事をやると聞いて、是非訪れたいと訴えた。また懐かしい人たちに会いたいし、せっかく自分を主題にしてくれるのだから挨拶くらいしておきたい、と。
けど堂々と行けば大騒ぎになってしまう。だから早朝にこっそり来ることにした…。
そんな話をしながら人気のない廊下を進み、飾り付けを眺めていく。
『あと、この映像、公開するから…勝手に他人の顔、映すわけにいかない、し。誰もいない時を選んだ方が、いいと思って』
『そうですねー。ところで、どうして沢渡さんは今回、こうして堂々とインタビューに応じることにしたのでしょうか?』
『俺や村主は、爆弾事件の時、携帯とかで野次馬に撮られた動画が、沢山公開されてるから…。今さら、隠す必要、ないから』
『あ、確かに。でも、ご家族の方は反対しませんでしたか?』
『はは、かなり反対されましたよ。特に妹に。でも、ツキノワの話を聞いて納得してくれました』
『なるほど、ツキノワちゃん自身の希望なんですね?』
『ええ、ツキノワの気持ち、分かってもらえて』
『気持ち、といいますと?先ほどの、懐かしい人に会いたい、という』
『うん。珍獣とか、金のなる木とか、生物兵器とかじゃなく、昔のように、ただの猫として会いたい…て』
再びツキノワがニャンと鳴く。
その後、彼らは新聞部の部室へ行き、朝食のパンとペットボトルのコーヒー、ツキノワはキャットフードを口にしながらインタビューを続けた。この文化祭を聞いたときの気持ちや、各クラスの飾り付けをみてどう思ったか、など。
そして30分ほどの上映は終了。
生徒の何人かが手を叩こうとしたとき、司会者をしていた部長の小林がスクリーン前に立った。プロジェクターからの白い光に照らされて、長い黒髪にカチューシャの女生徒の姿が浮かぶ。
「はい、視聴ありがとうございました。ところで、突然ですが…」
部長は室内を埋め尽くす人々を見回す。
「皆さんは、周りの人を見て、何かに気付きませんか?」
観客は互いに周りを見る。ざわざわと話し声が生じる。だが「んと、何か分かる?」「いや、何だろう」「そういや、知った顔が多い…かな?」「いや、同じ高校なんだから当然だろ」と、首をひねるばかり。
ひと呼吸置いて、また部長が話し出す。
「実は、この会場に来ている方々は、ある共通点があります。そして、その人々に対し、我が新聞部は直接に招待状を送りました。この午後の上映会への招待状です」
再び観客は周囲を確かめる。だが、やはり首をひねるばかりだ。
小林部長は大きく息を吸って、その共通点を大きな声で語った。
「実は、この会場におられる生徒は全員、名香野第一中学にいた人たちなんです!」
一瞬の沈黙。
そして「あ!そういえば、あなた」「あー、確か一つ上の先輩じゃないスか」「あれー?君、一年の時に同じクラスだったよね?」という驚きの声がわき起こる。
そして、部長は大きな声で話し続ける。
「そして名香野第一中学というのは、沢渡浩介君がいた中学なんです!」
ここまで話が来て、「あー!そういうことか!」「えっ?なになに、どういうこと?」という、事情を察する声も生じ出す。
「そして、生徒以外の方も同様です。みなさんは、この新聞部の、文化祭における発表の最後を飾る当事者として招待されたのです。再会編の当事者として、です」
そのセリフが終わると同時に、全ての照明が消された。
暗幕がひかれて薄暗い室内。観客の間にざわめきが広がる。
そして再び照明が点く。壇上だけでなく、室内の蛍光灯全てが点灯される。
スクリーンの前には、学生服を着た二人の男子生徒が居た。
一人は村主。もう一人は浩介。
そして、浩介は大きなリュックを背負っていた。
ざわめいていた室内が、一瞬で静まりかえる。
静寂の中、浩介が背負っていたリュックから黒い影が飛び出した。
浩介と村主の間にストッと着地したそれは、大きな黒猫。首の下には三日月の白い線。
ツキノワ。
「あーっ!ツキノワちゃんだぁー!」「うっわぁ〜、久しぶりだなあオイ!」「相変わらずでっかいなぁオマエ」「…って、お前ら、全員ツキノワを直接知ってたのかよ」「いや、話の流れから言って当然でしょ」「早く気づけよ」
観客は総立ち。
口々にツキノワとの再会を喜び、笑顔と歓声と共にツキノワへ駆け寄ろうとする。
が、村主の巨体が彼らの前に、ツキノワを背後に隠すように立ち塞がった。
「俺の自己紹介はいらん思うけど、一応しとく」
腕組みし、眼前の全員を威圧する眼光と共に、堂々と名乗った。
「村主直人。ツキノワをケガさそうとか、金儲けに利用しようなんて考える不届き者は、俺がぶちのめす!」
極めて高圧的で好戦的態度。筋骨隆々とした体躯と相まって、相当の迫力だ。
隣に来た浩介が、まぁまぁ…となだめた。
そして、ペコッと頭を下げる。
「あ、あの…沢渡浩介、です。今日は、来てくれて、ありがとうございました。
その、実は、皆さんは、昔はツキノワと仲良くしてくれてて、それで、ツキノワが是非もう一度、会いたいって…。
それで、新聞部の人達に、協力をお願いしたんです」
あはは、やっぱり〜?という納得の声が部屋中から漏れる。
ツキノワは二人の前に出て、ちょこんと座った。
そして、器用に二本足で立った。前足がピロッと垂れる。
その上で目を細め、頭をちょこっと下げた。
コホンっと咳払いした浩介が口を開く。
「また会えて嬉しいですって言ってま、わぁっ!」
「おわぁっ!お、お前ら!何すんねんっ!」
通訳しようとした浩介だったが、最後まで言えなかった。ツキノワを守ると大声で宣言した村主も圧倒された。席を蹴って飛び出した女子達が二人を押し退けたから。
あっと言う間にツキノワは囲まれ、抱きしめられ、頬ずりされまくっていた。
「キャー!相変わらずかわいーっ!」「会いたかったよぉ、ツキノワぁ!」「もー、気にせず会いに来てくれればよかったのにぃ〜」「ちょっと!早くどいてよ、次アタシ!」
《むぎゅぅ〜、浩介君、助けてー》
《おおお、この世の天国と地獄が同時に味わえるとは〜》
ツキノワは沢山の女子にもみくちゃにされていた。助けを求められた浩介は、押しつけられる女子達の胸や足の感覚をタンノウしてるんだか苦しんでるんだか。不気味に悶えてしまってる。
「あー何をしとんのやお前らっ!ほれ、離したらんかい!」
「しょうがありませんね。皆さん、落ち着いてください。並びましょう」
ようやく女子達からツキノワを救い出した村主。さすがに見ていられなくなって、室内で一番年長だった春原が前に出て、仕切り役を始めた。
そんなわけで、ツキノワは会いたかった人達との再会を果たし、新聞部の今年の文化祭発表は大成功に終わった。
そして、ネット上に公開された第三部までの動画は、あまりにアクセスが集中しすぎたため、サーバーが一時ダウンしてしまうほどだった。
文化祭の翌日、学校は休み。
その日も浩介と村主とツキノワは、朝から山でトレーニングを積んだ。
そして夕暮れ。浩介はいつものように帰宅して、シャワーを浴びて着替える。ただしいつもの部屋着ではなく、ちゃんとした外行きの服を。
何故なら、来客があったから。
居間にはツキノワを含めた沢渡家の家族全員が揃っていた。
彼らの前には座布団の上で正座する二人の人物。一人は頭髪が薄くて顔色の悪い、背広を着た中年の男。そしてその隣には、青いブレザーを着た田島楓も正座している。
男は座布団から下り、床に直接正座した。そして、多少青ざめてはいるが晴れ晴れとした笑顔と共に、深々と頭を下げる。
隣の楓もそれにならう。
「本当に、本当にありがとうございました」
男は心からのお礼を口にする。
その言葉を聞く浩介と両親は、あくまで普段通りだ。紗理奈は、かなり冷ややかな目で見下ろしている。ツキノワは浩介の隣で座っている。
頭を上げた男は話を続ける。
「昨日の投稿された動画の中で、息子さん達が食べていたもの。あれは多くが、私の勤める会社の、ナスレの製品でした。ツキノワさんが食べていたドライフードも、当社のペットフード部門の製品でした」
隣で、やはり座布団からおりて頭を下げていた楓が小声で、「パパ、やっぱり、あたしに話をさせて欲しいの」と訴える。だが「まぁ待て、まだ会社の話があるから」と、話を続ける。
「あの動画の広告効果は素晴らしく、特にキャットフードはその日の内に店頭から、商品が消えました。他の商品も売り上げが伸び、増産が急遽決定しました」
その言葉にツキノワは誇らしげに胸を張る。親たちの頬も緩み、紗理奈も悪い気はしないようで、満足げに頷く。
浩介とツキノワは先週の相談で、彼女の頼みを聞くことにした。
が、ただツキノワの毛を分けたとしても、根本的解決にはならない。要は会社が持ち直してリストラされないようにしなければ意味がない。ツキノワの毛を売った金が尽きるたびに頭を下げられても困る。そんなことを何度もしていたら、ツキノワが丸ハゲにされてしまう。
懐かしい人達に会いたい、誰かの役に立ちたいというツキノワの願いを叶える。なおかつ、田島家の経済的苦境も救う。それが新聞部のインタビュー映像をネットに投稿した理由。
もちろんツキノワの動画が生む広告効果だけで大会社の苦境を救える、と確信があったわけではない。ダメだった時は本当に毛を束で渡すつもりだった。でも幸い、その効果は予想以上だった。
一つ呼吸をはさみ、父親の話は続く。
「おかげで、これに基づいた新たな広告販売計画を打ち出せて、銀行からの新たな融資も取り付けることができました。弊社は倒産の危機を脱したのです。そして私もリストラされずに済みました。
全部、沢渡さん達ご家族の、何よりツキノワさんのおかげです。本当に、本当にありがとうございました」
田島親娘は再び深く頭を下げる。沢渡夫妻は「いえいえ、もういいですから」「頭を上げてください」と恐縮してしまう。
頭を上げた父親は背後の鞄をとり、一杯まで膨らんだ分厚い封筒を手にした。
「これは僅かですが、弊社からの気持ちです。社長からの言伝で、今後もツキノワさんには当社のイメージキャラをお願いしたいと」
「いりません」
即答で拒否。
断ったのは、口を開きかけていた父の沢渡博ではない。今回の件について最後まで反対していた紗理奈でも、母の薫でもない。
ずっと無表情に黙っていた、浩介だ。
その冷然とした一言に、札束の詰まった封筒を置こうとしていた田島氏の笑顔がひきつる。
「あ、いえ!娘の件で沢渡家に大変なご迷惑をかけてしまったこと、改めて謝罪します。ですが、当社としても」
慌てる田島氏の言葉を遮って、浩介の言葉が淀みなく続いた。
「僕とツキノワは、投稿された画像に関する一切の権利を放棄します。いかなる報酬も要りません。CM等への利用について、何も口を挟みません。だから…」
浩介は、一つ息を吐く。
次に、ゆっくりと息を吸う。
そして、ハッキリと一言、口にした。
「帰ってください」
田島氏の、そして隣で話を聞いていた娘が凍り付く。愕然としたまま、動けない。
浩介は、さらに冷たく言い放つ。
「何も言わず帰って下さい。それが条件です」
「ま、待って!待ってください!」
田島楓が青ざめた顔で身を乗り出す。
「本当にごめんなさい!もう二度としません!だから、だから…」
彼女の言葉に耳を貸す様子はない。
浩介は、構わず田島親娘に、深々と頭を下げた。
「どうか何も言わず、このまま帰ってください。
お願いします。この通りです」
それ以上は何も言わず、浩介は頭を下げたまま動かない。
隣のツキノワも頭を垂れていた。
楓は、言葉にならない言葉を絞り出そうと、空しく唇を震わせる。
田島氏は、娘の肩を叩く。そして沢渡家の人々に一礼し、力なくうつむいてしまった娘の腕を引いて、帰って行った。
沢渡邸の門を田島氏の車が出て行ったのは、それからしばらくの事。おそらく車の中で父と娘の間で少しやりとりがあったのだろう。
浩介は、自分の部屋の窓から車が去るのを眺めていた。その足下にはツキノワが座っている。
車が見えなくなると、窓を閉め、自分のベッドに寝転がる。
そして、頭を抱えてゴロゴロゴロゴロ転がりだした。
「むぅあー!ちくしょー!カッコつけるんじゃなかったぁーっ!!」
心からの未練と後悔の叫びだった。
《あのさぁ、僕を大事に思ってくれるのは嬉しいんだけど…スキだったんでしょ?田島さんのこと》
「あーそだよそーだよクッソーッ!うわーん田島さーんっ!」
《なら、無理しなくていいよ。僕の事は気にしないで》
「そうはいくかー!うぎゃーっ!俺って、俺ってやつはあーー!」
ツキノワを守るためには、今回の件を全くの例外として扱わねばならない。金で動くと世間に思われてはいけない。だからお礼の金を受け取らなかったし、田島楓と付き合うわけにはいかない。
頭では分かっていても、心は分かってくれなかった。
結局、向かいの部屋にいた紗理奈が「うっさーい!未練がましいぞ、バカ兄貴っ!」と叫んで浩介の部屋のドアを蹴り飛ばすまで、彼はツキノワの生暖かい視線に見守られながら、のたうち回るのだった。
しばらく経ったある日、とある一軒家の前にトラックが停まっていた。後ろの扉からリフトで次々と荷物が運び入れられている。
引っ越し業者の人達の前で、すっかり血色が良くなった田島氏が妻と共に荷物をチェックしていた。
「楓、荷物はこれで全部か?」
「あ、ちょっと待ってて。もうすぐ」
楓は少し離れたところで友人の女の子達と別れの挨拶をしていた。
「本当に急よね。残念だね」
「また会えるよね?メール頂戴よ」
「でもさー、会社は潰れずに済んだんでしょ?引っ越さなくても良くなかったんじゃないの?学校だって」
今にも涙がこぼれそうな目ではあるけど、それでもしっかりと楓は答える。
「そうもいかないの。結局、会社の経営が危ないのは相変わらずだから。給料は減ったまま。ローン払えないから、この家を売って、おじいちゃんの実家に帰るしかないわ。…高校も、その近くに移らないと」
「そう…。ツキノワちゃんと沢渡君なら、楓ちゃんちを助けるくらい、ワケなかっただろうにねー」
「だよねー、中途半端だよ、ケチだよ」
その言葉を聞いたとたん、楓は目の前の友達を、涙が溢れそうな瞳のままで睨む。
「あの人達を悪く言わないで!」
突然の剣幕に、女の子達は仰天してしまう。
「沢渡君達のおかげで、ウチだけじゃなくて、会社の人達全員が助かったのよ。おまけに、怒りもしなかった。決してあたしを責めようとしなかった。
あたし、あの人達を利用しようとしてたのに、許してくれて、それどころか…」
とうとう涙がこぼれ出す。
言葉をなくし、ただ泣き続ける。
しばらくして、両親が泣き続ける彼女の肩を叩き、友人達に礼をする。そして鳴いたままの彼女を促し、車に乗り込んだ。
空いている国道を快調に走る車。
運転席の田島氏と、助手席の妻が彼女に二言三言、話しかける。だが、窓の外をぼんやりと見つめる彼女は何も答えなかった。
しばらく走っていると、楓の携帯が着信音を奏でた。
ノロノロと携帯を取り出した彼女は、画面を見て目を見開く。そして慌てて内容を確認した。
「・・・ふ、ぅう、あう、ううぅ・・・」
彼女は携帯を握りしめ、再び泣き出した。流れた涙が画面を濡らす。その画面には、一枚の映像が映し出されたままになっていた。
沢渡邸をバックに、大きなツキノワを抱き上げて、笑顔で手を振る浩介の写真。
他にも村主のしかめっ面や、笑顔で肩を抱き合う尾野と篠山もいる。
画面の下には白いクレヨンみたいな線で、こう書かれていた。
『また会おうなっ!』
窓の外の風景はどんどん流れていく。
暖かい秋の日、車は道路を走り続ける。
そして彼女は何も言わず、ただ泣き続けた。
ラブレター 後編 終