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ツキノワ  作者: デブ猫
3/8

3 ラブレター 前編

 暑い夏が過ぎた、ようで過ぎていない中途半端な季節。

 温暖化温暖化とあちこちでうるさいけど、俺は昔からこんな風だったと思う。むしろ九月になったからっていきなり涼しくなる方が異常気象なんじゃないかと思える。

  《それも世代の違い、ていうのかな?》

 俺の頭の中で声が響く。

 周囲を見るけど、そこは森の中。走って登ってきた山道の前後にも、左を流れる小川にも、右の斜面を覆う森にも人影はない。周囲に響いているのは水音と、肩で息する俺の言葉だけ。

「多分な。ま、早く涼しくなってほしいよな」

  《だねー。寒いのは嫌いだけど、こう暑いと死にそうだよ》

 俺は頭の中に響く声と会話する。

 周りには人影がないから、単なる独り言にしか見えない。あんまり頭の中の声と会話していると危ない類の人と思われてしまうけど、周りに人がいないのは百も承知。

 実はもう一人、同級生と走っていたのだけど、おいていかれてしまった。

「さて、それじゃ休憩終わり。いくか」

  《がんばれー。ちなみに村主君は既にゴールしてるよ》

「く…もうそんなに…」

 頭の中で声援を受けながら、俺は再び走り出す。

 先を見れば、延々と上下しながら続く川沿いの山道。俺が一歩踏みしめるたびに枯れ葉がクシャクシャと潰れていく。風もなく蒸し暑い空気の中に、時折川からそよいでくる冷たい空気が混じって心地よい。階段として組まれた丸太を必死に登り、遙か先へ行ってしまった友達の後を追う。

 汗でずぶ濡れになったTシャツが肌に張り付いた俺の姿を、森の奥から見つめる金色の目があった。


山道をゼィゼィいいながら走ってきた俺の視界にゴールがやっと入った。数十メートルの砂利道の坂の上、水しぶきをあげる滝を背にしたジャージ姿の村主が腕組みして待ちかまえている。

「おーっし、ようやくきたか。んじゃ、ラストにダッシュや!」

 既に息が切れていた俺の呼吸が一瞬止まる。

「む、むちゃ、いうなぁ〜」

「無茶やから鍛錬になるんや」

 心の中で鬼と罵りながら、最後の力を振り絞って全速力を出す。自分では必死に全速力を出しているつもりなのだけど、全然速くなっていないのは良くわかる。後ろに流れていく風景が全然速くなっていない。

  《そーれ!あと5メートル!三メートル!》

 頭の中に響くエールに答える余裕もなく、どうにかこうにか村主の巨体が仁王立ちする横を駆け抜けた。とたんに崩れ落ちるように丸太を半分に割ったベンチに腰掛けてしまった。

「うーっし、ニャオ、お疲れさん。少し休憩しよか」

 俺の健闘を労ってくれた村主は近くの売店へ歩き出す。俺は声も出せず、ただ視線を向けるだけ。

 そこは滝の前に作られた広場。滝壺へ落ちていく水の柱。巻き上げられる雫が霧のように広場を漂い、まだ夏としか思えない蒸し暑い広場の空気を冷やしていく。山の間を縫うような小川が谷を削り、周囲の森を潤す。俺と村主が登ってきた山道とは別の、アスファルトで舗装された観光用道路が広場へ続き、その入り口には売店と休憩所が並んでいる。まだ朝だけど、既に多くの人が汗を拭きながらジュースやお菓子を食べていた。

 売店から戻ってきた村主がニヤニヤしながらペットボトルを差し出してきた。

「ほれ、新製品や」

 手にしてみれば、スポーツ飲料が入ったペットボトルには黒猫のプリントがされ、商品名がかかれている。『頭と体に科学の力、ムーンリング』と。

「むーんりんぐ…月の輪…ツキノワ、ね」

  《微妙な商売してるねぇ》

 頭の中の声も呆れている。

「訴えてみぃや。ショーゾーケンシンガイとかなんとかで」

 相変わらずニヤニヤしながら、黒猫ブランドのスポーツ飲料をグッとあおる村主。こいつの巨体でペットボトルを握ると、なんだか握りつぶされそうに見える。

「あれを、全部か?ばかばかしい」

 一言つぶやいて、横目で売店をみながら俺もペットボトルを口にする。その売店には沢山の商品が並んでいる。「五月山せんべい」「五月谷饅頭」等の名物は、どこの観光地でもみれる名物でも何でもないモノだ。だが、最近それらに新たなラインナップが加わった。

 アゴの下に白い線が入った黒猫の人形。

 同じ黒猫のキーホルダー。

 ツキノワまんじゅう、という商品名だが中身は同じ「五月谷饅頭」。いや違う、この前よく見てみたら、ツじゃなくてシだった。

 店の横にはためくのぼりには「五月山限定!黒猫グッズ入荷!」

 ほかにも色々と取り揃えていることだろう。

  《ほんとに、ショーゾーケンとかなんとかいうの、主張してみようかな?》

 頭の中に響くツキノワの声を聞きながら、ペットボトルをカラにする。ふと意識を眉間に集中して視界をツキノワの目に移すと、木の上から俺たちを眺めていた。

 ツキノワの方へ自分の目も向ける。斜面に広がる森の中、一際背の高い木の枝に座る黒猫がいた。見た目は普通の黒猫だが、イエネコとしては大きすぎる体格と、何より高すぎる知能を持っている。

 猫の体に人の頭を持った、血を分けた家族。

 ツキノワ

 心が繋がった、俺の弟の、猫。





  3  ラブレター  前編  





「うぉ〜疲れたー。帰ったよー」

「あら、お帰りなさい。村主君もお疲れ様」

 俺の家の門をくぐると、庭でたき火をしている母さんがいた。結構暑い昼間なのに、たき火の前で汗をかきながら紙の束を放り込んでいる。

 俺の後ろから入ってきた村主が、軽く頭を下げつつ母さんの方へ歩いていく。

「ども。…それ、また沢山きてますやん…」

 母さんは困った顔で振り返る。煙に巻き上げられて、火の粉と焼け残りの紙片が舞い上がる。

「これでも随分減ったのよ。ホント嫌になっちゃうわ」

 村主が苦笑いをしながら半分焼けた紙を拾い上げる。それは手紙だった。『当社の新製品のイメージキャラにツキノワを・・・』という内容の、大手食品会社からの手紙。俺も母さんが手に持つ紙をのぞき込む。それはシンガポールからのエアメールで、綺麗な日本語の本文に英語のサインが入っている。

「こっちはシンガポールのバイオ研究都市からの招待状よ。バイオエンジニアとナノテクノロジーに関する国際的会議が開かれるから、ツキノワと一緒に参加しませんかって」

「却下」

「わかってるわ。…多分ツキノワは生きて出られないでしょうね」

 冗談ぽく笑う母さんだけど、笑顔は少し疲れが見える。

 庭の反対側、森に面した塀の方からトスッと草を踏む音がした。そこには首の下に白い三日月型を持つ大きな黒猫。森を抜けて帰ってきたツキノワが、塀から飛び降りてこちらへ歩いてくる。その口には焼け焦げた便箋がくわえられていた。

  《危ないよ、山火事になるところだったよ》

 ツキノワはたき火の前に便箋を置く。猫なのに火を怖がらないけど、もうそれを不思議に思う人もいない。

 俺は猫の弟が回収してきた紙を手に取る。

  《あ、待って》

 ツキノワが止めようとする声が心に響いたけど、その前に紙を目にしてしまっていた。びっしりと細かい、そしていびつに歪んだ文字で埋め尽くされた、何か呪詛と狂気に満ちた文章の一部が。

「またこんなのか…」

 ため息をつく俺の後ろから覗き込んだ村主も眉をしかめる。

「まったく、サイコさんってヤツか?お前も大変やな」

「お前だって似たようなモノだろ?武装テロリストを返り討ちにした少年戦士さん」

 俺の言葉に、村主は少し顔をしかめつつも照れくさそうに笑う。知らないヤツにはニヤリと悪巧みしてるみたいな笑顔。

 レッドビーズ事件の最後、テロリストの男女を捕らえたのは村主だ。ツキノワが撃たれた直後に二人とも、弾丸みたいにすっ飛んできた村主の鉄拳でズタズタにされた。周囲の警官達はテロリストの男女でなく、ブチ切れて暴れ回る村主を取り押さえないといけないほどだった。

 ちなみに村主にボコられた二人は警察署ではなく病院に送られたのだが、そこで二人とも自殺を図ったらしい。なんとか未遂で済ませれたそうだけど、その後の捜査とか取り調べについてはよく知らない。刑事さん達は詳しく教えてくれなかった。

「アホぬかせ。全部ツキノワのおかげじゃ。それに、ウチにはもう来んよ」

「名香野署の垣元さんは?随分と熱心に警察入れって勧めてたじゃんか」

「あー、それなー、まだ分からんよ。先のことなんて考えてへんかったし」

「それもそうだな。でも、いずれまたレッドビーズみたいに襲ってくる連中が現れるかもしれないなぁ」

  《そのときはちゃんと守ってよね、お兄ちゃん》

 一瞬、俺の全身を寒気と鳥肌が駆け抜ける。

「そういう呼び方すんなって!」

「え?」「どうしたの?浩介、いきなり」

 気味の悪い呼び方をしたツキノワに文句を言った俺を、村主と母さんが変な目で見つめてくる。そりゃそうだ、ツキノワの声は俺にしか聞こえない。俺の脳に直接届いているのだから。傍目には俺が猫に向かって突然訳のわからない独り言を叫んだようにしかみえないんだ。

「い、いや、何でもない。独り言だよ。さ、他のも全部さっさと焼いてしまおうぜ!」

 誤魔化しついでに地面に置かれていた紙の束をポイポイとたき火の中に放り込む。火は一気に勢いを増して、煙をモクモクと天へ伸ばしていった。





 たき火を終え、残り火にバケツの水をぶっかけてから家に入る。とたんにカレーの香りが俺たちの鼻をくすぐった。家の奥から女の子達の黄色い声が聞こえてくる。

 靴を脱ぐ人間三人を尻目に、ツキノワがトトト〜っとキッチンへ向かう。弟の視界をみると、妹の紗理奈と尾野と篠山がカレーの味見をしている最中だ。もちろんツキノワの目から見た映像なので、さして背の高くない三人も見上げるような巨人に見える。

 キッチンに入ったツキノワに最初に気づいたのは、白いTシャツにジーンズのミニスカをはいた紗理奈。小皿で味見していたカレーを口の端につけたまま、満面の笑みでこちらを見下ろしている。

「あ、ツキノワーおかえりー!」

 といって妹は黒猫の前にしゃがんで頭を撫でる。ワシャワシャとかき回される毛の間からうっすらと目を開けば、短いスカートの隙間から紗理奈の黒い下着が

「つまらぬモノを見てしまった…」

 小声で呟き、意識を自分の目へ戻した。

  《紗理奈ちゃん、最近オトナノイロケに挑戦するっていってたっけ》

 あいつには全然似合ってないのになぁ〜、と思ったけど、言ったら蹴られるから黙っておく。少しは背が高くなったけど、相変わらず小学生並な外見の妹。そして相変わらず生意気だ。



 居間でテーブルを囲み、みんなで昼食。山を走ってきた俺と村主は飲み込むような勢いでカレーを胃袋に流し込んでいく。

「んでさー、その京子ちゃんがうっさいのよー。別れるの別れないのって」

 篠山の口からとめどなく溢れるゴシップ話に、尾野も紗理奈も母さんもスプーンを止めて聞き入ってる。

「なんでもさ、その男がさぁ、デート中でも他の女ばっかり見てるって、いつもケンカになるっていうの。でもさ、その話、私が知っているだけで三回目よ?そのたびに仲直りしてイチャイチャして」

「うはー、ウザ」

 紗理奈は呆れた様子だが、他の二人は楽しそうだ

「うわぁ、見せつけられちゃうね」

「若いって羨ましいわ。私もそういうイベントの一つくらい、たまには欲しいわよ」

 尾野は単純に羨ましそう。村主の皿にカレーをおかわりしてる母さんは、何だか遠い目をしている。

  《浩介君も、そろそろ興味あるでしょ?》

 興味津々な感じの思念を飛ばしてくるツキノワは、テーブルの横で皿に載ったハマチの刺身とドライフードをムシャムシャ食べてる。やろうと思えばツキノワの味覚も感じることは出来るけど、キャットフードの味なんて知りたくないからやめておく。

  《ま、興味はあるけどなぁ。今のところ、好きな人もいないし》

  《隣にいるじゃない、可愛くてフリーの女の子》

 ツキノワが皿から視線を上げた先には、相変わらず京子ちゃんの恋路で盛り上がる尾野と篠山がいる。

  《村主は尾野が好きだから、パス》

  《いいの?ホントは可愛くて優しいと思ってるんでしょ》

  《まーな。でも、別に好きってほどじゃないし、村主にも悪い》

  《そっか》

 その村主へ俺たちは視線をチラリと向ける。相変わらずカレーは飲み物だと言わんばかりの早さでカレーを流し込んでいるように見えるが、その視線はチラチラと尾野の方へ向かっていた。

  《んじゃ、朱美ちゃんかな?》

  《よせ、それだけはない》

 俺の頭の中に篠山と付き合った場合のシミュレーションが展開される。紗理奈と篠山に左右から楽しげに蹴られる図が。

 そんな俺たちに母さんが不思議そうな目を向けている。

「浩介、なにツキノワと見つめ合ってるの?」

「え?あ、いや、何でもない」

 頭の中で思考をやりとりしているだけのつもりだったけど、いつの間にか顔も向けあっていた。俺たちはあわてて視線を自分たちのご飯に戻す。


 俺とツキノワの精神が繋がっているのは絶対に秘密だ。

 ただでさえツキノワは俺の遺伝子が組み込まれ、人間に近い知能と性格を持っていることが世間に知られている。そしてツキノワのおかげで、ただの平凡な高校生だった俺と村主が、警察に匹敵する捜査能力を持つことが出来た。銃や爆弾を持つテロリストを撃退も出来た。なら警察や軍がツキノワを手に入れたらどうなるか?うっかりテロリストに渡ったら?どれほどの力を手に入れることができるか…。ネット上では未だに議論や噂話が飛び交っている。

 今のところ、ツキノワの体毛が世界中の研究機関に配られたし、入院したときに取られた血液だの細胞だのレントゲンやらのデータが公表されたので、ツキノワへの表だった干渉は必要ないから行われていない。でも、もしテレパシー能力までもっていることがバレたら、もうただじゃすまない。様々な国家・政治組織や研究機関から手段を選ばず攻撃される。生きたまま解剖もされかねない。

  《その時は、どうしようかな》

  《…どうしようか》

 友達と家族で囲む美味しいお昼ご飯。それを心から無邪気に楽しめるほど、俺たちは平和な立場にはない。そんな不安を誤魔化しながら、俺は空腹の胃袋に辛いカレーを流し込んでいた。





「おっはよー」

「う〜っす、なー昨日のドラマ見たかよ」

「あ、みたよー。あのラストはないよなー?」

 そんないつも通りの挨拶が交わされる朝の下駄箱。まだ夏服の生徒達がぞろぞろと投稿してくる。俺もあくびをしながら校舎に入り、自分の上履きを取り出そうとダラダラとフタを開けた。

 そこにあるのは、見慣れた薄汚い自分の上履き。ちょっと臭いもする狭い空間。その奥に、なにやら四角いものが見えた。

「なんだ?」

 覗き込むと、それはどうやら白い封筒。砂やホコリでまみれた下駄箱に似合わない、綺麗な白に可愛い花柄模様も入った封筒だ。

 俺は左右を見る。

 誰もいない。

 後ろだって見る。

 こっちを見ている人はいない。

 残像も見えないだろうというほどの素早さで封筒を取り出し、鞄の中に突っ込んだ。

 そして改めて周囲を見る。よし、誰にも気づかれなかった。

  《おお、ラブレターだね!とうとう来たね!》

  《う、うっさい!大きな声出すな!》

 ツキノワの声は俺以外の誰にも聞こえないけど、それでもつい言ってしまった。高鳴る鼓動で破裂しそうな胸に右手を当て、気を落ち着けようとする。多分、顔も真っ赤になってる。こんな所を誰かに見られたら、大変なことになる。

「うぉ〜っす、ニャオ」

 心臓が口から飛び出すかと思った。

 後ろからかけられた声に振り向けば、そこにはいつもの村主がいた。相変わらずの巨体に、白い半袖シャツがはち切れそうな筋肉が浮き出てる。

「お、おう、おおはやう」

 動揺が口に出てしまった。村主が変な顔で俺の顔を覗き込んでくる

「どないしたんや?顔が真っ赤やで」

「あ、ああ。ちょっと寝坊したんで、大慌てで家を飛び出して、自転車飛ばしてきた」

「はーん。せやけど昨日もみっちりトレーニングしたんや。今日は無理せんと、しっかり休めや」

「ん、あぁ」

 曖昧にだけ答えて、出来る限り普段通りを装って靴を履き替える。でも、靴を持つ手は汗でびっしょり濡れていた。

  《ほらほら、落ち着いて。後でじっくり読もうね》

  《わ、わーってるよ!》

 ツキノワからはワクワクという感じの声が飛んでくる。同時に背中を撫でられる心地よい感覚も飛んできた。


 ツキノワの視界を見てみると、俺んちの近所にある農家が見えた。古い平屋の縁側、おばあさんの横で丸くなっているところだ。ちょっと首を巡らせば、縁側に腰掛けた白髪のおばあさんが黒い毛に覆われた背中をなでてくれていた。

「おや、クロちゃんや、起こしちゃったかねぇ?」

 優しそうな声でツキノワを覗き込むお婆さん。

 この人は、確か所さん。ウチの近所でお爺さんと二人で暮らしている。ツキノワが有名になる以前から時折遊びに来ていたそうだ。有名になってからも依然と変わらず優しくしてくれるし、五月山のすぐそばに家があるので誰にも見られず訪れることが出来るから、今もたまにツキノワは遊びに行っている。

 で、今はツキノワは所さんに背中をなでられて、ゴロゴロいってる所だった。

  《この野郎、気楽にノド鳴らしやがって》

  《いーじゃん、気持ちいいし》

  《う、うん、それは…確かに》

 背中を撫でられる心地よい感覚のおかげで落ち着けた。おかげで封筒(多分、いやきっとラブレターだ、そうに違いない)のことは誰にも気づかれず教室に入れた。



 夏休みの終わりと共に、クラスメートは少しメンツが変わった。人数も少し減った。転校したヤツ、転校してきたヤツ、高校入学早々に色んな理由で退学や休学をせざるを得なくなったヤツ、様々だ。

 転校生が、何か謎なヤツだとか絶世の美少女だとか、そんなことはなかった。さして特徴のない連中が普通に入ってきただけ。別にいじめられることもなく、普通にクラスへ馴染み始めてる。当たり前だ。普通じゃなかったら、こっちが困る。いじめなんか見てるだけでウザい。


 さて、気は落ち着いたけど、授業が頭に入らない。

 黒板の前で先生が何か言っている。でも俺は鞄の中に目が向いてしまう。

 今までラブレターなんてもらったことはなかった。驚くとか嬉しくなるとかなんて当たり前。


 そうだ、そもそもどうして俺はもてないんだ。


 いや、理由は分かってる。平凡すぎるんだ。

 何しろ額の傷以外、なーんにも特徴がない。全然目立たない。

 ツキノワが有名になってからは、俺の事も知られるようになった。女の子から声をかけられるようになった。でも、そのほとんどは、いや全部がツキノワ目当て。みんな二言目には「ツキノワに会わせて」。当然NOと答えれば「ケチ」と怒られてそれっきり。ラブレターなんて一通も来なかった。俺はツキノワのついででしかない。

 俺だって頑張ったのに、紗理奈を取り戻すためにナイフを持った誘拐犯と渡り合ったのに、銃を持ったテロリストを倒したのに。

 なんで?


「納得いかない…」

 思わず呟いてしまった。

「ん?どうした沢渡」

 黒板に図を描いていた教師の耳に届いてしまった。静まりかえった教室では小声でも聞こえてしまう。

「あ、いや、すいません。独り言です」

 慌てて誤魔化す俺の言葉に教師はため息をつく。

「お前の家は色々大変だろうけど、大変なのはお前んトコだけじゃない。授業には集中しろよ」

「は、はい。すいません」

 教室のど真ん中に座る俺の方に、クラスメートの視線が集中する。恥ずかしい。

「んじゃ、声かけたついでに、34ページの2を読んでくれ」

 ほんと、納得がいかない。

 俺は渋々立ち上がり、遺伝子と染色体についての記述を読み上げた。

  《腐らない腐らない。浩介君がステキな人だって事は、僕がちゃんと知ってるよ》

 母さんが庭で洗濯物を干す家に帰って、居間の座布団の上に仰向けでひなたぼっこしてるツキノワ。こいつだけが俺を分かってくれる。でも、猫や家族に分かってもらっても意味がないんだよなぁ。



 お昼休み。

 本当は休み時間にどこかで確認したかったけど、焦らずじっくり我慢。

 みんなチャイムが鳴ると同時に食堂へ飛び出していったり弁当箱を出したり。

「ニャオー、昼は食堂か?」

「あ、悪い。俺トイレ。先に食っといてくれ」

「なんや、ウンコか?」

「そ、そう。んじゃ、行ってくる」

 腹を減らした村主に背を向け、俺も教室を飛び出した。



 屋上や中庭など、あちこち回って人気のない場所を探す。ようやく誰もいない焼却炉横をみつけ、さらに茂みに隠れてでポケットから封筒を取り出し、小刻みに震える手で封を開ける。

 開けると同時に何か甘酸っぱいような良い香りが広がった。紙に香水か何かをかけていたらしい。これだけで差出人が女子だと想像できてしまう。

  《期待大だね。さ、読もうよ》

「こ、こら、覗き見するな」

 ツキノワが俺の目から見ているらしい。こういう時はテレパシー能力が邪魔になる。プライバシーが無い。

  《浩介君の恋人になるなら、僕の大事な人にもなるんだから。お互い隠し事は無しだよ》

「むー、しょうがない。ちゃかさずに黙ってろよ」

  《はーい》

 ようやく、ゆっくりと紙を取り出して開く。中にはマジメそうな綺麗な字で文章が書かれていた。



『沢渡浩介さんへ


 昔から、あなたのことを見つめていました。

 子供の頃、ふと気がつくと校庭を駆けるあなたを見つめている自分に気がつきました。

 以来、何となくあなたと目で追う日々でした。

 いつの頃からか、沢渡さんを想う気持ちが私の中でふくらんでいきました。

 でも、告白することも出来ず、そのまま高校まで来てしまいました。

 同じ高校に入ったのは偶然かもしれません。でも私には運命のように感じます。

 入学式で並ぶあなたを見つけ、必ず告白しようと決心しました。

 でも、春から夏まで街を揺るがす大事件の連続。

 どこもマスコミと野次馬で一杯で、とても告白できる雰囲気ではありませんでした。

 その上、どの事件も沢渡さんがあっという間に解決してしまうのを見て、何か遠い世界の人のように感じてしまい、とても声をかけられませんでした。

 だけど、私の中でふくらむ想いは、もう張り裂けそうです。

 だから、精一杯の勇気を振り絞ってお手紙を送ります。

 もしよければ、どうかお話だけでもさせてください。

 いつでも構いません。お返事を待ってます。


 1年A組  田島 楓』


「たじま、かえで…こらまた甘酸っぱいのぉ」

 頭の上から関西弁が降ってきた。

 体が動かない。動けない。

 ギギギギ…と、きしむ音をたてて首を回す。

 そこには、暑苦しい太陽をバックにした村主の暑苦しい笑顔が

「なんでお前がここにいるんだあーーーーっ!」

 飛び上がった俺の口がゴツゴツした手で塞がれる。

「アホ、でかい声出すな」

 そういうと村主は俺を茂みの中へ連れ込み、ヒソヒソ話を始めた。

「トイレ行くとか言うてたヤツが、飯も食わずにあちこち走りまわってれば、そらおかしいと思うわい」

「く…」

「にしても、俺みたいなデカいのが後ろにいるのに気がつかんとは。よほどテンパってたんやな」

「わ、わりゅかった、ゴホン、悪かったな。俺だって不覚をとることはあるさ」

 わざとらして咳払いをして誤魔化す。

 けど村主は全然誤魔化されない。ニヤニヤしながら背中に隠すラブレターをジロジロと眺めようとする。

「み、見るなよ」

「なんじゃい、水くさいの〜」

「そういう問題か!」

「ええやんけ、お前にも春が来たっちゅーこっちゃ」

「お前にも…て、村主にもラブレターが来たのか?」

 この質問に、村主の顔はいきなりしかめっ面になった。ケッとかいいながらそっぽを向いてしまう。

「俺は尾野一筋や」

「でも、夏の事件で俺より有名になったじゃねーか。ラブレターの一枚くらい」

「…ないわい」

 広い背中を向けてしょんぼりしてしまう。

「世の中うまくいかないな」

「せやの」

 二人並んでしょんぼり。

 ちなみに、昔から村主も同じくもてなかった。もともと同い年に見えないマッチョ。中学では一時荒れていた。外見は目つきが鋭く顔が怖い。「番長」なんてあだ名がつきそうになった。

 ああそうだ、おまけに今は銃を持った犯罪者を素手でブチのめすんだ。結果、もてるどころか怖がられるばかり、これじゃ逆効果というわけだ。…ホントに世の中うまくいかないんだなぁ。

「まあ俺の事はええわい。んで、今はその田島ってコやけど」

「あ、そうそう。俺は知らないんだけど、村主は知ってるか?」

「おお。去年、中三んとき同じクラスやった。まぁ、なんちゅうか、普通やな」

「普通じゃわかんねーよ。どんなんだよ」

「どんなって言われても…あんなん」

「え?」

 村主が校舎の方を指さしている。校舎の一階の窓を。

 そこには確かに普通っぽい女の子がいた。肩までのストレートの黒髪、太りすぎず痩せすぎず、少し眠たそうなたれ目。見ようによっては美人の範疇に入るかなって程度。

 そんな女子が一人、真っ直ぐこちらを見ていた。

 俺と目があった。

 とたんに口を手で覆い、真っ赤になって校舎奥へと走っていく。いや、慌てて駆けだしたせいか途中で転んだ。びったーん、という派手な音を残し、ようやく廊下の角を曲がって消えていった。

「…おい」

「なんや」

「いつから、気づいてた?」

 村主はわざとらしく腕を組みアゴに右手をあてる。

「なんでお前がここにいるんだあー、て叫んだ辺り、やったかのぉ」

 俺は酸欠の金魚のように口をパクパクさせる。

 ようやく絞り出した声もかすれている。

「なんで、こんな都合良く、謀ったみたいに…」

 横では相変わらず腕組みしたまま当然のように頷いている。

「せやから言うたろ?飯も食わずに走り回ってれば…て。それに手紙にはニャオをずっと目で追っていたてあるし。今朝に手紙出したばかりやし。あ〜そもそも、あんな大声でわめけばやなぁ」

「あーわーった!わーったよ俺が悪かったよ間抜けだったよ!」

「落ち着けや。ま、よかったやんけ、話が早くて」

 グダグダだ…俺は全身の力が抜けていく。

 さっきまでのドキドキが台無しだ。

  《まぁまぁ、とにかく手間が省けてよかったじゃない》

  《そーゆー話じゃなくてなぁ》

  《ともかく、作戦会議だね。ご飯でも食べながら…と、遅いか》

 無情にも昼休み終了のチャイムが鳴る。

 腹の虫も鳴る。

 前を行く村主の背中と頭に響くツキノワの声は楽しそうだが、こっちは疲労と空腹で倒れそうだ。





「と、ゆーわけでや」

「何が『と、ゆーわけでや』だっ!」

「あ、あの…その…」

 俺の目の前には田島楓が真っ赤な顔でうつむいている。

 俺と彼女の間には村主がニヤニヤしている。

  《相変わらず、動きが速いなぁ》

 ツキノワが呆れてる。

 場所は放課後の屋上。俺たち三人以外誰もいない。金網の下に見える校庭には、下校する生徒の列やらランニングする野球部とか。

「俺がお膳立てしてやったんやから、後は二人でしっかりやりや。ほな、邪魔者は消えるとしよーかのーおほおほほ」

 どこぞの仲人のような台詞を残し、村主は屋上を出て行った。


 俺は放課後になると同時に屋上へ連れて行かれた。しばらく待っていたら、あいつは田島さんを引っ張って上がってきやがった。

 なんちゅー行動力、というかなんというか、鉄砲玉みたいなヤツだ。思考と行動が直結されてる。まさに脳みそ筋肉。少しは、こう、なんというか、マンガやドラマみたいな間を挟んでもいいんじゃないか?手紙からとか、相手の情報集めてから作戦を練るとか、何かの罠と疑ってみるとか。

  《直人君らしいねー。でも話が早くていいんじゃない?》

「な、何がいいんだよ。俺は、心の準備が…」

 なんか心臓が爆発しそうだ。思わず胸を鷲づかみにして背を向けてしまう。畜生、こんな時だというのにツキノワは楽しそうだ。

 ふとツキノワの目を通してみれば、既に帰っていた紗理奈の部屋で、ベッドの上に丸くなってる。紗理奈は机に向かって携帯を取り出しメールを打ってる。

  《お前は気楽でいいなぁ》

  《そんなことないよ、これでもマジメに浩介君の幸せを祈ってるんだから》

  《ホントかなぁ…?》

「あ、あの…」

 ドッキーンという音が本当に聞こえた気がした。

 チラリと後ろを振り向けば、田島さんがうつむいている。

 スカートを両手で握りしめ、体も小刻みに震えてる。汗も流してる。

 俺も頭をかきながら向き直る。

 お互い正面から向き合うが、何も言葉が出てこない。


 涼しい風がコンクリの上を渡っていく。

 影は少しずつ長くなる。


「え、えとね」

 俺は勇気を振り絞って声を出す。

 畜生、逃げ出したい気分だ。銃口を向けられた時だって、ここまで怖くなかったぞ。

「あ、あの…は、初めまして」

 なんちゅう挨拶だ。言ってから気がついたけど、もう遅い。

 田島さんは、言いにくそうにモジモジしてる。

 再び沈黙。

 そしてやっと答えてくれた。

「あの…はじめまして、じゃ、ないです」

「え、あ、うん。ずっと同じ学校だったよね」

「学校、だけじゃ、なくって…クラスも」

「…え?」

「小学の低学年と、中学の一年生…」

「う、え、あ、そ、そう、だった、…かな?」

「うん…」

 田島さんはさらにうつむいてしまう。もう顔が見えない。

 クラスメートだったことすら覚えてない。

 だめだ、自爆した。

 死にたくなってきた。

「あの、私のこと、覚えて無くても、不思議ないです。話とか、したこと、ないから」

「あの、でも、その」

「それに、私…地味だから。同級生でも覚えてない人、多いんです」

 地味という田島楓の姿をよく見てみる。

 なるほど、地味だ。容姿は普通、声も普通。性格はいたって真面目で大人しそう。髪も染めてないし派手なアクセサリーもない。スカートも折り込んで短くしたりしてない。彼女と話をした覚えもない。

 つか、俺は今まで、篠山と尾野以外に仲良く話をしたことのある女の子はいなかった。その二人もツキノワつながりで、俺を男としてどーこーという話じゃない。

 そして何より、地味さなら俺も負けていない。

「俺も、同じ。なにしろ、ツキノワの件が無ければ、俺がクラスにいなくても、ほとんど誰も気づかないと思う」

「そ、そんなこと、ないよ!」

 急に田島さんは力を込めて断言する。

「そ、そうかな?」

「う、うん。だって、高校入ってからの沢渡君、凄かった。もの凄い有名人になったよ」

「あー…それはツキノワのついでだから。俺自身は、何にも凄くないよ」

 言ってて情けないけど本当だからしょうがない。俺はツキノワの後をついていっただけなんだ。

「それだけじゃなくて…有名になる前でも…」

「前、でも?」

「あたしが、気付くから」

  どっきぃーん!

 思わず心臓が高鳴った。

 断言した後、田島さんは再び恥ずかしげに俯く。その頬は真っ赤だ。

 モジモジしながらそっぽを向く。

 や、やばい。可愛い。これが、これがいわゆる『萌え』という感覚か。

  《萌えてる場合じゃないよ!ほら、話を続けて。ここで決めゼリフ!》

  《ンなもん思いつかねーよ!》

 くっそー、ツキノワがチャチャ入れてくる。しかも背中を毛繕いしながら。本当は面白がってるだけじゃなかろうか?

 俺は何を言えば分からず、「あ〜、そのぉ〜」とうめき声のような呟きを漏らし続けてしまう。

「な、なんだか、似てるね。俺と君って」

「う、うん。私も、そう思うの」

 ようやく思いついた気の利かない言葉に、田島さんも当たり障りのない返事をする。

 彼女は、ちょっとだけ顔を上げる。

 上目遣いに俺を見上げ、少し笑った。

 俺も必死に笑顔を返す。引きつってしまって、変な笑顔だったと思う。


 また、静かに風が流れていく。

 影は屋上の端を越えるくらい長くなっていた。


「あ、あの」「あのさ!」

  どてっ

 お互い話そうと声を上げたとき、昇降口から変な音がした。

 俺たちの目がコンマ数秒で音源を視界に捕らえる。

 そこには、篠山と尾野がいた。

 二人が、ドアから崩れて、コンクリの上に、折り重なって、寝ている。

 俺たちは、硬直して、動けない。

 俺たちと目があった二人も、寝転がったまま、動けない。


 また、沈黙が流れていく。


 篠山が、すっくと立ち上がった。

 パタパタと服についたホコリをはたき落とす。

 そして尾野を起こした。

「それじゃ、邪魔者は退散しますわ。おほほほほー」

 そういって篠山は手を振り、背を向ける。

  がしっ

 村主の特訓を受けた俺の足は一瞬で間合いを詰め、二人の肩をつかんだ。



「いや、だからさー!別にずっとつけてたとか、覗いてたわけじゃないのよー。

 さっき新聞部を出たら直人が不気味にニヤニヤしながら降りていくのを見たのよねー。で、なんなのかなーと屋上に行ったらニャオが田島さんとさー」

 篠山は恥ずかしがるとか申し訳なさそうとかいう様子など全くなく、胸を張って状況を説明している。

 恥ずかしそうにしているのは尾野の方。

「う、うん、それでね…一体何を話してるのかなぁ〜って、ドアの影から見てたの…。そしたら、バランス崩しちゃって…」

  《で、倒れちゃったのね》

 ツキノワがため息混じりに呟く声が聞こえる。俺も特大のため息。田島さんは俺の後ろでモジモジ小さくなってる。

「で、聞きたいのは、だなぁ…」

 ずいっと二人の前に仁王立ち。

「まさか、もうメールとかしちゃいましたー…とか、言わないよな?」

「そ、そんなことしてないよ!」

 尾野はプルプルと頭を振る。

 篠山は、あさっての方を見た。汗を垂らしながら。

 俺は彼女の釣り目を見つめてニッコリ笑う。

「誰に送ったのかな?怒らないから教えてくれない?」

 彼女も俺に向き直り、ニッコリ笑って口を開いた。

「あなたの可愛い妹へ、よ」

 確かに俺は怒らなかった。

 代わりに、膝からガックリ崩れ落ちた。コンクリに両手をついてしまう。

 ツキノワの視界には、食い入るように携帯を見つめている紗理奈の背中が映っている。

  《もうグダグダだ・・・》

  《もうグダグダだね》

 同意するツキノワは、そそくさとドアの隙間に体を滑り込ませ、紗理奈の部屋から逃げていく。


 俺には女の子と仲良くなるなんて無理だ。きっとこれはサダメってやつなんだ。俺は不幸な星の元に生まれたんだ…。

 頭上に愛の女神の加護が無いことを悟った。





 なんだか試験結果発表を見るような気分で玄関に入る。

「おかえりなさーい」

 そこには紗理奈が立っていた。

 普段は絶対に、わざわざ玄関まで来て俺を迎えたりしたいのに、つーか「おかえりー」なんて今まで言ってくれたこともないのに。腕組みしながら俺を出迎えている。しかも何か不自然な笑顔で。

「あ、ああ、帰った…」

「ふーん、普通に帰ってきたね」

「当たり前だろ」

「ふぅ〜ん」

 紗理奈はジロジロと俺を上から下まで見てる。

「な、何だよ」

「いえいえ、別に、ねぇ?」

「お、おかしなやつだな」

 普段通りに靴を脱いで玄関に上がる。ニヤニヤしている妹の横を通り過ぎて、階段の方へ向かう。

「付き合うの?」

  どたっ

 階段に足がひっかかってコケた。

  《何で知ってるのか、とか全部すっ飛ばして、いきなり本題かよ》

  《うーむ、誤魔化せないねー、こりゃ》

 森に逃げたツキノワが、木の枝の上から目を覆う…傍目には右前足で顔を洗ってるように見えるだろう。

「さっき朱美ちゃんから『ばれちゃった』ってメールが来たよ」

 そういって紗理奈が俺の眼前に突きつけたのは携帯の画面。ばれちゃったとかいうメールじゃなくて、屋上で俺が田島さんと話をしている写真だ。

「お、お前には関係ないだろ」

「ふーん、関係ない、ねー」

 相変わらずニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んできやがる。

 思わず目をそらしてしまう。


  浩介ー、帰ったのなら早くご飯になさい。紗理奈もお皿並べるの手伝ってよ


 台所から母さんの声が飛んでくる。

「はぁーい、すぐ行くから」

 そう返事をして紗理奈は台所へ足を向けた。

 ようやく妹のしつこい追求から逃れた俺は、そそくさと二階へと上がっていく。

「付き合うなら、ちゃんと紹介しなさいよ」

 そんな声を背中に受けながら。





 とにかく、帰ってきたツキノワも一緒に晩ご飯を食べる。食事中に母さんの前で田島さんの話を紗理奈が口にしたりしないか気が気じゃなかった。が、なんとかその事に触れずに食事を終えることが出来た。そのくらいの配慮はしてくれた妹に、少しだけ感謝。

 風呂に急いで入って、宿題もサッサと適当に終えた。そしてノートPCや周辺機器の電源を入れた。

 俺の部屋は夏からネット環境が一気に充実した。最新型高性能CPU搭載で、メモリも最大まで拡張したノートPC。スキャナー機能付きプリンター。通信も光で高速。モデムはもちろん電波式でコードレス。TVが見れるのも当然。ソフトだって様々にそろっている。今まで使っていたミニノートは補助として置いてたけど、ホコリを被ってきたので紗理奈に譲った。

 夏の爆弾事件を無事に解決したお礼として、築島大学が購入代金を出してくれた。もちろんゲームソフトを買う金なんて出してくれなかったけど。『あくまで勉強用として、当大学からプレゼントします』との条件だった。話題のネットゲームをしたかったのに、残念。ちなみに村主の方は大型のバイク、レーサーレプリカを買って貰った。今は教習所に通ってる。

 で、俺は今、その条件を出した人とインターネット電話をするところだ。ヘッドセットを頭につける。外で遊んでいたツキノワも帰ってきて、机の上にデンッと座る。ちなみにカメラはない。必要とは思わなかったから。

「もうちょっと端によれないか?」

  《これ以上よったら落ちちゃうよ》

 何しろツキノワは大きい。猫よりイヌのサイズだ。そんな大きいのが机の上に乗れば邪魔でしょうがない。


 アイコンをクリックしてログイン。目的の人を呼び出す。

 その人が今、この時間にPC前にいることは事前に伝えられているので知っている。実際、間をおかず電話に出てくれた。

『今晩は。お久しぶりですね』

 知的な女性の声が響く。

「ええ、お帰りなさい春原さん。ギリシャはどうでした?」

『なかなかに刺激的でしたよ。分子生物学の講演はもちろん、休暇も楽しめました』

「へぇ、僕は写真やTVでしか知りませんけど、素敵な所らしいですね」

『ええ、とても素敵な海でした。今、写真を送りますよ』

 耳にカチカチとマウスを操作する音が届く。少し待つとファイルが添付されたメールが届いた。開けてみれば、幾つもの白い風車が並ぶ岬や、真っ白な壁が続く狭い路地などの写真だった。

「うわ〜、さすが綺麗な街ですねー」

『ミコノス島です。エーゲ海でも屈指のリゾート地ですよ。でも、リゾート地としてだけでなく、ヌーディストビーチとして有名なんですけどね』

「ぬ、ぬーでぃす…と、ビーチ?」

 俺の頭の中に、青い海と白い砂浜、そして金髪白人女性が裸で泳ぐ天国の映像が駆けめぐる。

『ええ、ヌーディストビーチです。ホモの』

「ほ…ほも、の?」

 いきなり地獄に突き落とされた気がした。

『はい。ミコノス島はゲイの街としても有名なのです。特にヌーディストビーチの東半分はゲイ専用になっているのです。よければ、その浜辺の写真も』

「わー!いりませんいりません!そんなの送らないで下さい!」

 慌てて断る俺の耳に、クスクスと実の母の笑い声がする。

『冗談ですよ。そんな場所に私は行きませんから』

「そ、そうですよね」

 俺はホッと胸をなで下ろす。実の母がゲイに興味を持っているというのは、余り想像したくない。

『でも木村君は行ってみたそうです。真っ青な顔をして帰ってきてましたから、どんな場所か知りたければ尋ねてみると良いでしょう』

「そんなの知りたくありません」

 即答で断る。

  《春原さん、上機嫌だね。きっと浩介君が電話してくれて嬉しかったんだね》

  《お前の声も聞かせてやれよ。もっと喜ぶぞ》

  《僕はいいよ。人間の言葉がしゃべれればなぁ〜》

 画面を覗き込みながら溜め息をつく。世界で唯一かもしれない猫の溜め息がモニターを

の隅を白くする。


 電話の相手は春原京子さん。俺の生みの親。時々PCで電話をしてる。

 無料のインターネット電話だし、PCで通信するので情報のやりとりがスムーズなのが助かる。携帯の通話料金なんかで母さんに長電話をしていることを悟られないのも、だ。母さんと紗理奈は今でも春原さんを目の敵にしているから。

『ところでそちらはどうですか?学校生活は上手くいってますか』

 今日の学校と聞かれて思い出すのは屋上での…ああ言えるワケがない。

「学校は今は静かです。ちょっと退屈になった気がします」

『それは良かったです。退屈なくらいが一番ですから。あなたも学業に専念出来ますね』

「えっと…それはちょっと。あはは…」

 春原さんは何しろ研究所の所長。凄い学者なんだろう。そんな人に勉強の事を聞かれると少し困る。ちなみに学者らしく冷静で礼儀正しい口調で話されてるので、こちらも自然と敬語になってしまう。

 それはともかく、勉強の事をさらに突っ込まれると困るので話を変えることにする。

「それで、早速ですけど、新しい情報はありますか?」

『ええと、ちょっと待ってください。今、ギリシャでの講演内容を送ります』

 すぐにファイルが添付されたメールが届いた。開いてみれば、見たこともないほど長い英単語が延々と並んだ大量の文書。あちこちにちりばめられた写真やグラフは、何を表すのか全く分からない。

『これが配布された資料の全文です』

「ぜんぜん読めません」

『自信を持って断言しないでください。あなた達はツキノワという存在について知らなければならない義務があるのですよ』

  《あなた達は、かぁ。僕までやるの?》

  《当然だろ。お前の知能が高いことは知ってるんだから。つか、俺一人にさせる気なのか?》

  《猫の僕に勉強しろ、というの?》

  《勉強しろ》

  《にゃー》

  《ただの猫のフリしてもだめだぞ》


 俺達は春原さんにツキノワ研究について時々聞いている。

 夏の入院していた間に採取された血液やら映像のデータ、それにツキノワを作った実の父である御厨の資料は一般に公開された。世界中の国家・研究者・様々な組織団体からの要望、というか圧力だ。俺たちとしても、誰かが力ずくでツキノワを奪いに来るのを防ぐ必要がある。その生態が秘密でないなら、ツキノワを強奪する必要はないから。事実、夏以降は俺んちを盗撮しようとする連中や、山に仕掛けられる罠の数もグッと減った。おかげでノンビリ出来る。

 もちろん油断は出来ない。いつ、いかなるトラブルが生じるか分かったもんじゃない。猫マニアなんて世界中にいくらでもいるし、頭がちょっとアレな連中に目をつけられてもいるだろう。ツキノワの毛はネット上でオークションにもかけられてる。ほとんど偽物だけど。

 とにかく、それらトラブルに対処するには、こちらがあらゆる事態に対処できるようにしておく必要がある。知識・体力・技術は出来るだけ身につけた方がいい。


「つまり、アレですね。えと、なんて言ったかな」

  《えーっと?ほら、あれ、兵法の、うぅ〜んと》

「あ、ほら、敵を知りおれば、やぶから…あれ?違ったような」

 俺と弟は一緒に首をひねる。

『敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。孫子の兵法です』

「あーそれですそれです!」

『あなたは生物学より前に、一般常識から学ばねばならないかもしれませんね』

「あう」《あう》

 兄弟並んでガックリ。

 学者は言うことがきついなぁ。


 そんなわけで、ハッキリ言って吐き気がしそうな程大変なんだけど、おっそろしく難しい生物学講義を出来るだけ分かりやすく教えてもらった。…それでも難しくてよくわからないけど…。





 日にちが少し過ぎ、HRの時間。

「というわけで、次の文化祭の出し物を決めますよー」

「何か意見はありませんか?」

 秋に開かれる小立高校文化祭の出し物を決める事になった。黒板前に学級委員の二人、眼鏡の男子とぽっちゃり系の女子が並んで意見を求め、クラスを見渡す。誰もが面倒くさそうにうつむいたりよそ見をしたり、机の下でメールを打ってるクラスを。誰も手を挙げたりなんかしない。

 そりゃそうだ。そんなことしたって面倒なだけなんだから。

 これがマンガだったらお調子者キャラが「美人コンテストやろーぜー!」とか言ったりするんだろう。熱血キャラが「プロレスしたいんだ!」とか、優等生キャラが「街の歴史を調べて展示会を」とか。

 でも我が校は凡人が集まった凡人の学校。偏差値も平凡。さしたる非行歴も特別な特技も無い普通の人たちばかり。せいぜいマッチョな村主くらいなもんだ、凡人じゃなさそうなのは。そして村主は脳みそ筋肉だけど、趣味が格闘技というだけ。目立ちたがり屋ではない。

 それに文化祭に気合いを入れるのは、吹奏楽部とか美術部とか写真部とか、文化系クラブ。クラスで気合いを入れろと言われても、運動部員や帰宅部員は、何をすればいいのやら。文化系クラブに入ってるヤツだって、クラス展示なんかに時間を取られるのは迷惑だろう。

 ま、無難に喫茶店でもやって終わりだな。

「なんだなんだ、お前達の文化祭だぞ。もう少しやる気出せよ」

 教室の隅でイスに座ってる担任、数学の長谷川先生が型通りの声を出す。その先生もやる気があるように見えない。長谷川先生は確か教師歴20年とか言っていた。ずっとこの学校だったそうだから、なんの特徴もない平凡なクラスにも慣れてるだろう。

  《みんな、やる気無いねー》

 頭に届くツキノワの声もHRには興味が無さそうだ。そのツキノワは、今は山に入って探索中。また監視カメラや罠やら仕掛けられてないか調べている。もちろんハンターが来ていないかも要注意。この五月山国定公園は広大な山林だ。大規模な山狩りは目立って無理としても、十人くらいでチームを組み、犬を放ってツキノワを捕まえようと考えてる連中がいて不思議はない。可能性は低いけど、遠距離からスナイパーが狙ってるとかも警戒しないと。

 そんなワケで茂みに隠れつつ猫の耳と鼻を生かし、家の近くの茂みや岩陰を調べて回っている。

 で、話は戻って白けた空気が漂うHR。長谷川先生は「お前ら若いんだし、思い出作りのためにも気合いを入れて…」と無精ヒゲを生やしたアゴを動かしている。

「そんな事を言われてもねー」「そんなのめんどくさーい」「あたし、吹奏楽でトランペット担当だから、クラスの方に時間とれないよ」「こっちも油絵が…」

 クラスのあちこちから、やる気のない声が聞こえてくる。教室の後ろの方では雑談に夢中な女子も。

「そもそも、何かコレッ!ていう特徴とかキーワードが無いとね。やりにくいよ」

 どっかから意見らしき声があがった。

 その言葉を聞いた、ガリ勉風眼鏡をかけていたというだけで学級委員を押しつけられてしまった稲村が考え込む。

「うちのクラスの…特徴?」

 アゴに手を当てて考える稲村の目が、チラリとこっちを向いた。

「このクラスの特徴…」

 長谷川先生も同じ言葉を呟いて、こっちを見た。

「ああ、特徴、ね」「なるほど、他にはないな」「ん、いいんじゃない?」「つか、これを前に出さないと、ウソだよな」「うーん、これしかないわよ」

 全員の目が集中した。

 教室ど真ん中に座る、冷や汗を垂らす、俺に。

「え、あ、いや、その・・・まさか・・・」

  《えー?まさか》

 川の水を飲んで一休みしていたツキノワも少し驚いた。

 周りを見渡す俺は、クラスメートの全員と目が合ってしまう。真顔だったり、ニヤニヤしたり、表情は色々だけど、考えてることは予想がついてしまう。

「ちょ、ちょー待てやお前ら!」

 教室最後尾に座る村主がイスを後ろに吹っ飛ばして立ち上がってくれた。

「まさか、お前ら、ニャオにツキノワを連れてこい、なんて言うんちゃうやろな?」

 180cmを超える長身でマッチョ、口調はコテコテの関西弁、しかも眼光鋭い強面の村主がクラスメートをジロリと睨み付ける。このクラスの連中は村主が普段は大人しくて良いヤツと知ってはいる。それでも、あの迫力で怒鳴られれば怖い。皆、一瞬で黙ってしまった。

「お前らもわーっとるやろ!ツキノワを狙う連中は今でもいるんや。人前なんぞに出せるかぃ!」

「村主、落ち着け」

 なだめたのは長谷川先生。ツカツカと教室の前に出る。

「お前達も分かってるだろうけど、ツキノワの存在は非常に難しいものだ。科学だけじゃなく社会、宗教や政治や法律、そして犯罪。様々な問題が絡む。これは興味本位扱って良い問題じゃない」

「あ、でもセンセー?」

 手を小さく挙げたのは、女子学級委員の真鍋。ぽっちゃりした頬を揺らして笑顔で話を続ける。

「なら、真面目に取り扱うのならアリですか?」

「ふむ、つまりどんなのだ」

「ツキノワに関する報道とか、街で起きた事件の経緯とかを展示…という感じです」

 その意見に長谷川先生は困った顔をする。でもクラスからは賛成する声があがりだす。

「そーだな、それなら納得だろ」「別にツキノワ連れてくるわけじゃないし、いいんじゃないかしら」「やることがハッキリしてるからやりやすいな」「時間も手間もかからないと思うぞ。ネットでググってプリントアウトするだけだろ?」「それにツキノワちゃん、可愛いよねー?」「ねー!」

 クラスの意見はあっと言う間にまとまってしまった。既にそれ以外無いという雰囲気。村主が俺の方へ小走りで来る。

「おい、ニャオ。どないする?」

「うーん、ニュースとかで扱われるのと同じ、と考えれるから、良いような気もするけどなぁ」

 パトロールを続けてるツキノワは驚いてキョトンとしてる。

  《まぁ、その…僕は別に構わないよ》

  《そっか、お前が構わないって言うなら、いいか》

  《それにしても、なんというかなぁ》

  《うん?興味あるのか?》

  《あ、うんと、そうじゃないんだけど…》

 ツキノワにしては珍しい反応だ。

 何しろ基本は猫。騒がしいのが嫌いでチヤホヤされるのに興味がない。それもあって世間から逃げ回ってる。そのツキノワが祭りに興味があるなんて珍しい。

  《あっと、別に興味があるわけじゃないんだけど、ね》

  《けど、何だ?》

  《ほら、久しぶりにみんなに会えないかな、て思って》

  《みんなって?…あ、そうか》

 思い出した。高校に入って有名になる前は、小学校も中学校も俺にひっついて、一緒に来てたんだ。だから同じ小学や中学出身のヤツは全員ツキノワと顔見知りだ。それに、この街に住んでるヤツなら皆ツキノワを知ってる。みんな弟を、ちょっと変わった不思議な猫と思って可愛がってた。

  《懐かしいのは分かるけど、今のお前が人前に出たら大騒ぎだぞ。やめとけよ》

  《あ、うん、そうだ、よね》

 ツキノワの気持ちも分かる。子供の頃から一緒に暮らしてきた連中なんだから、たまには俺の視界ごしじゃなく、直接会いたいだろう。でも、それは危険極まりない。とても出来ない。

 ともかく、文化祭の件については俺も賛成と言おうとした。だが、先に長谷川先生が声を上げた。

「あー、お前ら。ちょっと待った待った!」

 先生が大声で皆を静める。村主も席に戻る。

「お前らの意見は分かった。だが、その話は少し待って欲しい」

 とたんに「えー?何でよー」「別にいいじゃんかー」「権力によるダンアツだー」なんてブーイングがあがる。それも先生は手で制する。

「さっきも言ったろう。色んな問題が絡むって。ちょっと相談をさせて欲しい」

 そういって先生は、チラリと俺を見た。





 職員室っていうのは落ち着かない。

 教師達の視線を集めてしまうと、もっと落ち着かない。

 いつだって落ち着かない。誰だって落ち着かない。

 俺の横に立っている連中も落ち着かないみたいだ。

 放課後の職員室には全教師がいた。他に何人かの生徒も。生徒達は職員室の端にある応接室っぽい一角のソファーやイスに座っている。教師達はその周囲に集まり、イスに座ったり立ち話をしてたりしている。

 職員室の扉がガラッと開いた。来たのは二年生の女子。

「すいませーん、呼ばれたので来ました…て、どうしたんですか?これ」

「やっと来たわね、小林さん。こっちに来て」

 英語の教師に促され、オドオドしながら小林と呼ばれた上級生もソファーに座る。

「さて、新聞部の部長も来てくれましたから、これで全部ですね」

 英語の太田先生がそう言うと、他の教師達は頷いた。そういえば太田先生は新聞部の顧問だったっけ。

 新聞部の部長と呼ばれた小林さんがキョロキョロしながら小さく手を挙げる。

「あのー、いったい何なんですか?」

 答えたのは長谷川先生。溜め息混じりにソファーに並ぶ俺たちの前へ出た。

「あー、ここに呼ばれたのはな…全員、次の文化祭にツキノワをネタにしようというクラスや部活の連中だ」

 慌てて周囲を見る。周りの連中十数人も周囲を見渡してる。

「演劇部はツキノワの活躍を劇に」

 ソファーの端に座る上級生がビクッと驚く。

「新聞部といくつかのクラスがツキノワの事件を集めた展示」

 小林さんと数人の生徒がキョトンとしながら頷く。

「生物部は猫とツキノワの生態をまとめるんだって?」

 髪の長い色白の生徒がコクリと頷く。

「美術部は黒猫の絵を描いてるヤツが多いらしい」

 俺の隣にいる上級生の男子がエヘヘ…と照れ隠しに頭をかく。

「吹奏楽部は黒猫のタンゴとか、猫を題材にした曲を集めて演奏するとか」

「はい。別に問題ないと思います」

 イスに座っていたキザっぽい上級生が自信を持って答える。

  《…別に、僕には関係ないから、いいんだけど…》

 草木で身を隠しながら帰路につく弟は、気にしないと答える。だけど声が少し上ずってる。ここまでくると、さすがに引いたようだ。

 そして長谷川先生は溜め息。

「本当なら問題ないはずだったんだ。実際、各顧問は何も言わなかった。だが、こうも重なるとなぁ。これは文化祭であってツキノワ祭りじゃないんだから、ネタが被らないようにしろよ」

 とたんに、え〜?、という不平の声が湧き出す。

「というか、お前ら…沢渡んちの同意は得たか?」

 長谷川先生の言葉に全員が、まさに鳩が豆鉄砲を喰らったという感じの顔をした。そして周りをチラチラ見てから、俺に視線を集中させる。

 おずおずと意見を語り出す俺。こういうの、相変わらず慣れてないんだけどなぁ。

「あ、あの…その、ウチのスタンスは、同じ、です。一切、協力も妨害も、しません。ただ、その、ツキノワに手を出さない事だけ守ってくれれば、それで、いいです。口出しをする気はない、です」

 その言葉に周りの生徒達はホッとしたように頷いた。

  《でも、何で今更そんなことを言うのかなぁ》

 頭に疑問の言葉が響く。

  《今更って?》

  《もう、ずっと前からネタが被ってるって分かってたハズでしょ?色んなクラブは夏から準備してきてるんだから》

「あ、そーだ」

 思わず声を上げた俺。視線が集まる。

「なぜ今になって、ンなこと、言うんですか?すぅ…少なくとも、各クラブの顧問は、部活で何をやるのか、随分前から知ってたでしょう」

 その質問に教師達が視線をそらした。気まずそうに。

 ウチの担任がコホンッと咳払いする。

「実は、な…。例のレッドビーズ事件で学校も大騒ぎになったせいだ。マスコミやら政治家達やらの対応で、この夏はテンテコマイで」

「そーなのよ!」

 太田先生が大きな声で話を続ける。

「世界中から来るマスコミの取材の相手、大変だったのよ!政治家達や役人達は沢渡君とツキノワに取り次いでくれって煩いし。PTAとか、あちこちの宗教団体やNPOが勝手な事を言ってくるし。

 ハッキリ言ってクラブに手が回らなかったわ」

 太田先生が息継ぎする隙に、また長谷川先生が口を開いた。

「で、夏休みが終わって静かになって、二学期が始まったから改めて職員会議を開いてみた。遅ればせながら文化祭について話してみたら、あちこちがツキノワを題材にしてることが分かったんだ」

 はぁ〜…という溜め息があちこちから聞こえてくる。今になって言うなよ〜という各クラブ部長のものだった。夏休みを使って準備していたものを、これから変更なんて大変だろう。

「というわけで、沢渡よ」

「はい?」

「改めて、お前ンとこの両親とも話をしときたいんだ。近いウチに行くから、伝えといてくれないか?」

「ふぁ〜い…」

 あーめんどくさい鬱陶しい。俺が悪いことしたわけでもないのに家庭訪問だなんて…。

  《ぼやかないぼやかない。面倒なことはサッサと終わらせちゃおうよ》

 台所で母さんにご飯をもらいながら気楽に言ってくれる。学校に行ってないツキノワは気楽なもんだ。



 重くなった気分とともに校舎を出る。足取りも何だか重い。

 駐輪場へフラフラと向かうと、俺の自転車の近くに田島楓が立っていた。物憂げにうつむいていた彼女は俺に気付くと、とたんに笑顔で手を振ってくる。

「沢渡さーん、遅かったですねー」

「田島さん!もしかして、ずっと待っててくれたの?」

 かなり驚いた俺は小走りで駆け寄る。

 こんな時間まで待っていたはずの田島さんは、そんな様子は全く見せず微笑んでくれてる。

「うん。一緒に帰りたかったの」

 その瞬間、絶対俺の顔は真っ赤になってニヤけてたろう。間違いない。だって心臓がバクバクと音を立てて、緩んだ顔の肉がどうやっても元に戻らなかったから。


 俺と田島さんは自転車を押しながら土手の上を歩いてる

 彼女のママチャリだと土手の上は走りにくいとか、そういうことじゃなくて、ゆっくり話をしながら帰り道を楽しみたかったから。別にそんな風に言い出したわけじゃないんだけど、自然と二人とも自転車を降りて土手を歩き始めた。

 ああ、幸せ。

 ただ女の子が隣にいてくれる。自分の横に居たいと望んでくれる。

 それが、こんなに幸せなことだったなんて。

「ふぅ〜ん、結局、家庭訪問まですることになっちゃったんだね」

「ああ。ま、こういうトラブルも慣れたさ。4月からずっとマスコミの馬鹿騒ぎを無視し続けてきたし、今回も知らんぷりで通すつもりだよ」

 夕暮れの中、職員室での事を話す。彼女は静かに話を聞いてくれている。

「本当に、大変だね」

「ん、まぁ、少しはね」

 天高くそびえる入道雲が真っ赤に染まり、少しずつ空を覆っている。風も心なしか強くなり始めた。もしかしたら夜の間に一雨くるかもしれない。

「ねぇ、沢渡君」

「うん?」

「これからもツキノワちゃんと一緒に身を隠し続けるの?」

「ああ、そのつもりだよ」

「TVにデビューとかは言わないけど、どこかの会社のイメージキャラになるとかは、ないの?」

「ないなぁ。ツキノワは、やっぱり基本的にネコなんだ。騒がしいのが大嫌いだし、チヤホヤされたいなんて思ってない。ノンビリ気ままに暮らしたいだけだよ」

「沢渡君は?」

「俺?俺は、なぁ…」

 ロードレーサータイプの大きく曲がったハンドルを握りしめ、ふと空を見上げる。分厚い雲が広がり始めた暗い空だ。

「ツキノワが望むなら、俺もあいつに付き合うさ。あいつは俺の弟だから」

 田島さんが俺の顔を覗き込む。

「有名になりたいとか、お金持ちになりたいとか、ない?」

「もちろんあるさ。でも、有名になるとかはツキノワのために全くならないから」

「そう…」

 田島さんは視線を前に戻す。そのちょっと垂れた目は、何か残念そうだ。いや、困ったような顔にも見える。

「残念?」

 その言葉に田島さんはビクッと飛び跳ねそうなほど驚いた。慌てて顔をブンブンと横に振る。

「そ、そんなことないよ!沢渡君の意見は立派だと思うわ。とっても優しくて、私も良いと思うよ」

 そういって田島さんは視線を前に戻す。

  《やっぱり何だか残念そうだね》

 ツキノワが少し意地悪そうに言う。

  《全く考えてないっていうのは、さすがにあり得ないだろ》

  《そうかも。でも、分かってくれるならそれでいいね》

 話題に上がっていた弟も納得してくれたようだ。

 そんな話をしていると、俺たちが卒業した中学校が見えてきた。彼女の家は中学校の近くだそうで、そこで手を振ってお別れした。

 お別れするとき、俺の顔はやっぱり緩んでいた自信がある。こんな幸せな気分の帰り道は初めてだったから。





 雲行きがすっかり怪しくなった暗い空の下、急いで自転車をこぐ。長い坂道を登った先に、畑に囲まれた俺の家はある。引っ越したばかりの頃、この坂道を登るのは大変で、息も絶え絶えだった。でも今は村主に鍛えられたおかげで楽なもんだ。

 通用口から自転車を押し入れると、俺の原付の横に見覚えのある自転車が並んでいた。母さんや紗理奈や父さんの自転車とともに、篠山の自転車がある。原付の件は学校にばれたけど何も言われなかった。職員室での話にあった通り、本当にそれどころじゃなかったんだろう。

 原付、かぁ。やっぱりもっと大きなバイクが欲しいな。750ccなんて言わないけど、もっと大きなのが欲しいや。村主が貰ったヤツみたいなオンロードでもオフロードでもなんでもいいから、もっとスピードの出るヤツが欲しい。

 ま、それはいいとして、ツキノワの感覚に意識を移す。すると台所でご飯を食べる映像が映った。目の前にあるドライフードがバリバリという音と共に凄い勢いで減っていく。

「…案外、悪くない味だなぁ」

  《あ、おかえりー》

 皿からヒョイと頭を上げると、一人でご飯を食べてる母さんの足とテーブルの脚が見えた。

「キャットフードって、ちょっと塩味のセンベイみたいだな。癖はあるけど、別にまずくもないや」

  《でしょ?今度一緒に食べようよ》

「それは勘弁。ところで母さんだけか?」

 再び自分の感覚へ戻す。感覚を移したとき、うっかり味覚までシンクロさせてしまったけど、別になんてこともなかった。さして美味しくもないけど、俺でも食えなくはない。慣れれば結構イケそうだ。

 玄関を開ける俺の頭にはツキノワの声だけが響く。

  《うん。朱美ちゃんが来てるよ》

  《何を話してた?》

  《なんて事無い世間話。ずっとパソコンに向かいながら話していたよ。画面は見れなかった…というか、追い出されたから知らないけど》

  《追い出された?》

  《うん、珍しいよね。「たまには二人で話しをさせてね」って》

  《ふ〜ん。ま、そんなこともあるかな》

 台所に来れば、やっぱりテーブルには夕食が並んでいた。母さんと床のツキノワが一緒に晩ご飯を食べてる。ハンバーグとシチューとサラダ、ツキノワが分けてほしがるようなメニューじゃない。それでドライフードだけ食べてたのか。

「ただいまー」

「お帰りなさい、遅かったわね。先に食べてるわよ」

「職員会議に呼び出されてさー。んで、近いうちに家庭訪問するから伝えてくれって」

「あら、また何かあったの?」

「ん〜、メシ食いながら話すよ」

「そうね。今日は父さん少し遅いから、先に私が聞くわ。鞄とか片づけて来なさいな」

「う〜い」

 トタトタと階段を駆け上がる。すると青いシャツにジーンズの篠山が丁度降りてくる所だった。

「あら、おかえりー。お邪魔してるわよ」

「ああ、何の用だ?」

「遊びに来ただけ…って言ったら信じる?」

「信じない」

 ニヤリと笑って即答する俺と篠山。

「そうでしょうね。いつものようにツキノワ絡みよ」

「新聞部か?」

 篠山は肩をすくめる。

「部長、呼び出されてたんでしょ?」

「ああ。他にも文化部が大方。こっちは良い迷惑だ」

「でしょうね。ま、それも運命と思って諦めなさいな」

 ポンポンと俺の肩を叩きながら階段を下り、「んじゃねー」とだけ言い残して出て行った。

 自分のベッドに鞄を放り、ささっと着替えて階段を下りる。降りる前に廊下向かいの部屋にいる紗理奈へ「メシ、出来てるぞー」と声をかけたが、「今忙しいのー」という返事が帰ってくるだけ。ちょっと寂しいなと思いつつも台所へ向かった。

 外では大粒の雨が降り始めているらしい。大粒の水滴がガラスに当たる音がする。





 雲間から強烈な日差しが降りる正午。俺の家の玄関には長谷川先生がいた。

「それでは先生、お疲れ様でした」

「こちらこそ長い時間お邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」

 雨や曇りが数日続いた後の日曜日、長谷川先生と俺たち家族との長い話が終わった。これまで起きた様々な事件へのオクヤミだか何だかの挨拶から始まり、今後のツキノワ関連の取材への対応とか、延々と朝から話してた。

 あー疲れた。マジ疲れた。気楽なジャージ姿だけど、気分は全然楽じゃない。これじゃ村主の特訓の方がマシだ。

 ペコペコ頭を下げてた父さんが、ようやく頭を上げる。

「ではこれまで通り、この家とツキノワへの仲介依頼は拒絶、基本的に不介入・不干渉でお願いします」

「はい、承知しています。文化祭への配慮には感謝します」

「いえいえ、この不景気ですからね。元気の出るようなモノにしてください」

「助かりますよ。何しろ多くの生徒達が家庭の経済的問題で…と、この辺はまた今度にしましょう」

 また長い話になりそうになった所で、ようやく担任は話を切り上げて出て行った。

 結局、結論は『俺の学校生活に関係しない限り、ツキノワ関係の話に学校は沢渡家へ口出ししない。沢渡家も学校へ干渉しない。ツキノワを文化祭のネタにすることも異論はない』ということだ。簡単に言えば、今まで通りだ。お互い知らんぷりという事を確認しただけ。

「録れたか?」

 父さんが母さんを横目で見る。

「ええ。良い感じよ」

 イヤホンを耳に付けた母さんが答える。もちろんさっきの会話を録音していたんだ。

「用心深いなぁ」

 親たちのやり口に、俺は少し陰湿なイヤらしさを感じてしまう。だけど父さんにはわびれた様子はない。むしろニヤリと笑っている。

「念には念を、というヤツだ。覚えておけよ、こういう下準備や小技は後々になって効いてくるからな。仕事では、こういう一手間を惜しまない事が重要なんだ」

 ひとしきり講釈した父さんは背伸びをしながら背を向ける。

「んじゃ、俺は寝るからな。今日は夜勤なんだから、起こすなよ」

 そういって部屋に入っていった。

 看護師をしている父さんは勤務時間が不規則だ。今日は夕方から明日の朝までの勤務。なのでこれから出勤まで仮眠を取る。一応は勤務中でも仮眠を兼ねた休憩時間がもらえる事になっているのだけど、それが確実に取れる保証は無いという。だから出勤前にしっかり寝ておかないと、明日の朝まで体が保たないんだ…と、いつも愚痴ってる。

「んじゃ、俺は出てくるよ」

「またトレーニング?」

「ああ、山で村主とツキノワが待ってるから」

「それじゃ行ってらっしゃい。無理しないでね、ケガしちゃだめよ」

 わーってるよ〜、と背中で返事をして、小さなリュックを背負ってジョギングで駆け出す。既にトレーニングを始めている山中の村主と、それを横目にひなたぼっこしている大黒猫の所へ向けて。



 雲がどんどん裂けて青空が顔を出す。同時に陽光で照らされた森はグングン気温を上げていく。

「くぅ〜!涼しいウチに滝まで行かないと、暑さでぶったおれそうだ」

 せせらぎが空気を冷やす川沿いの山道とはいえ、日光に照らされれば暑い、つか熱い。肌が焼かれる。この数日の雨で湿った地面と落ち葉から立ち上る水蒸気が不快指数も上げていく。こんな中を走るのは、去年の俺なら「自殺行為だー」と抗議して走るのをやめていただろう。

  《そうだねー、格段の進歩だよね》

 かくいうツキノワは家庭訪問中は家にいれなかったので、先に山を登り滝を見下ろす森の木に登っている。見下ろされた広場では村主が準備運動を終えていた。その広場は日曜の昼だけあって、沢山の人がお弁当を広げたり写真を撮ったりしている。中には俺や村主のように滝まで走ってきたオジサンや自転車レーサーっぽい人もいる。

 そのとき、三角の耳が二つとも広場入り口へ向けてピコッと動いた。

  《あれ?あれは…》

 視界も移動する。焦点があった先には広場へ歩いてくる白いワンピース姿の女の子がいた。サンバイザーごしなので上からだと顔は見えない。でも顔の下半分と、呼吸音だけで分かる。

「あれは…田島さんだ」

 息を切らせて山道を走る俺の顔は、一瞬でへにゃりと緩んだ。全身を流れる汗を忘れて足取り軽く山を駆け上る。



 いきなりペースを上げたせいで疲労はハンパじゃない。それでも必死に元気よく胸を張る。震えて崩れそうな足を気力で押さえ込む。

「やー!どうしたの田島さん、こんな所に」

 緑の肩掛けバッグを手にした田島さんへ、自分では格好良く爽やかな台詞を放ったつもりだった。でも頭には《肩で息してるクセに、無理がバレバレだよ》というツッコミが響いてる。ニッコリ微笑んでくれたから良いんだよ!と反論しとく。頭の中で。

「村主君から聞いたんです。最近は日曜になると滝まで走って特訓してるって」

 その村主は田島さんの後ろで、さっきからニヤニヤしっぱなしだ。

「まったく羨ましいのぉ〜。俺にもおこぼれくれや」

 彼女は振り返り、村主の巨体を見上げて鞄を開く。

「もちろん村主君の分ももってきたよ、お弁当」

 瞬間、村主まで顔を真っ赤にして大喜びだ。

「え?いや〜悪いわなぁ!でもせっかくやし、そやなー俺も頂こうかー!」

「うわー!ありがとう田島さん。…あ、ちょっと聞きたいんだけど、中身はなに?」

「え?えーと」

 小首をかしげてる彼女、中身を思い出してるんだろう。その仕草は、俺に再び『萌え』の何たるかをキョウジしてくれる。

「白身魚のフライとか、ほうれん草のおひたしとか…その、大したものじゃ、ないの」

「い、いや!良いよ、スッゴク良い!だから、えと、ここじゃ何だから、ちょっと静かな所で食べよう」

 そういって俺は二人を引っ張り、人の多い広場から出る。そして山道を少し登ったところにある人気の少ない休憩所に行く。何故なら、白身魚と聞いた瞬間から《おべんとー!分けてー!分け前ちょうだーい!》という、弟のおねだりが響いていたから。



 森の中の休憩所。人通りの多い観光用道路から外れてるので人はあまり通らない。俺たちは丸太を真っ二つにしたベンチに弁当を広げて昼食。田島さんはワリと大きめの弁当箱を4つ、中身を一杯にして持ってきてくれてた。そして山を登ってきた俺と村主は既に空腹限界ギリギリだ。凄まじい勢いで中身を口にかき込んでいく。田島さんは草食動物みたいに控えめにつまんでいく。

「二人とも、凄いねぇ」

「ほぅ、ほふぁもーははひまえひゃ」

 村主は口に詰め込んだまましゃべろうとする。

「慌てるなよ、ほれ」

 俺が差し出したお茶のペットボトルをひったくると、ゴクゴクと喉に流し込む。本当に絵に描いたような体育会系だな。

「俺も去年までは普通だったんだけどね。村主と特訓始めてからは、すっかり食べる量が増えちゃったよ」

 ぶはーっ、と息を吐いた村主も口を開く。

「運動量が増えればカロリーを消費するわい。筋肉が増えれば基礎代謝量も上がる。食う量も増やさんと、体がもたへん。つかタンパク質とらんと筋肉が増えへんぞ」

 いかにも筋肉が頭に詰まってそうな言葉と共に、ヤツのムキムキしたTシャツの胸部分が上下にビクビク動き出す。

 きもい。

 体は鍛えたいけど、ああはなりたくない。

 俺と田島さんは慌てて目をそらす。話もそらす。

「そうそう、ちょっと魚のフライもらうね」

「ん?もちろんいいけど」

「んじゃ、遠慮無く」

 フライを手づかみして、森の中へポイッと放り投げる。すると黒い影―ツキノワの体が宙に躍った。茂みの中からジャンプしてフライを口にキャッチ、あっと言う間に再び茂みの中へ消える。

「うわぁ〜、ツキノワちゃんだ。久しぶりに見たわ」

 田島さんは突然のことに目を丸くして輝かせてる。

「そっか、直接見たのは中学校以来だよな?」

「あ、ううん、高校入って初日に見たよ。あの時も沢渡君についてきてたんだよね?」

「ああ、あいつは未だに俺の保護者気取りさ」

「事実そうやろが」

 非常に痛いところを突いた村主も魚のフライを放り投げる。またも軽やかに飛び上がったツキノワが器用に空中でくわえた。

「わぁ〜!すっごーい!あたしもあたしも…あ」

 弁当箱の中のフライは既に胃袋の中へ全て消えていた。



 広大な山林である五月山国定公園。ドライブウェイやハイキングコース、沢山の川が縦横に走っている。その中には人がほとんど通らなくなった道も、忘れられて草ぼうぼうになった空き地もある。

 昼飯と休憩を終えた俺たちは、その内の一つの空き地に来ている。田島さんは森の中に来て少し不安なのか、さっきから周囲をキョロキョロと見てる。

「ふぅ〜ん、いつもこんな人気のない所で練習してるの?」

「せや。人目があるとできへんメニューとか、危ない訓練もあるからや」

「周りに人がいると出来ないって、どんな?」

「コレや」

 そういって村主の大きな手が、自分が背負ってたリュックを探る。そして取り出したのは拳銃と黒い刀身のナイフ。

 田島さんはハッと息を呑む。

「大丈夫だよ、モデルガンだから。ナイフもゴム製」

 そういう俺もリュックから取り出す。ゴーグル二つにゴムの警棒。ゴーグルを村主に投げ渡す。

 草むらからはカサカサという音をたて、ツキノワの大きな体が緑をかき分けて現れる。

「あー、ツキノワちゃんだ!久しぶりー!」

 とたんに田島さんはツキノワへ駆け寄り、頭や体をなでる。ツキノワも警戒する様子はなく、嬉しそうにしてる。

  《なぁ、お前は田島さんを知ってたのか?》

  《うん、この臭いで思い出したよ。小学校や中学校で、時々僕を撫でてくれた人だ。

  名前は知らなかったし、顔も忘れてた。でも臭いは忘れないよ》

  《ふーん、臭いで人を覚えるのか…》

 ツキノワの嗅覚を試しにリンクしてみる。とたんに田島さんの汗の臭いと香水の香りが届く。もちろん覚えはない。それよりも、田島さんに頭や背中やアゴの下を撫でられる感覚の方が…ああそんな抱きしめて頬ずりまでしてくれて。

 天国だぁ。

  《天国だねぇ〜、それに懐かしいね》

  《ああ、お前には久しぶりなんだな》

 ツキノワは心から田島さんとの再会を喜んでいる。春からは山でひとりぼっちの時期が長かったし、本当に懐かしいんだな。

  《うん、懐かしいなぁ。また会えて嬉しいよ》

 確かにそうだろう。ツキノワの心は猫より人に近いのだから。会いたい人は他にも沢山いるだろう。俺との精神リンクがあるといっても、やっぱり直接会うのとは違うんだ。


「そっか、ツキノワちゃんも一緒に特訓するから人前では出来ないんだね?」

「え?あ、ああ、そうそう」

 意識を自分の体へ戻し、ついでに伸びそうになってた鼻の下も力ずくで元に戻し我に返る。

「でも、そんな銃とかナイフとかなんて、怖いわ…どうしてそんなの使うの?怖いし、危ないでしょ」

「え?どうしてって…」

「そんな、戦うことばかり考えないで、話し合って仲良くするとか、常識的にできないかなぁ?」

 一瞬、どう答えるか迷う。そんな俺と田島さんを見下ろす村主は腰に手を当て、フンッと鼻を鳴らす。

「なぁ、ニャオよ。今まで、何人くらいツキノワを狙いに来てたか覚えてるか?」

「え?何人って…」

 首をひねって考える。果たして今でウチを盗撮しようとしたり、山に罠をかけたヤツは何人いたか。

「そんなの、わからないよ。カメラや罠を仕掛けた連中は数知れない。おかげでウチの物置は小型カメラやなんやらで一杯だ」

「なら、お前や俺が直接出向いて追い返した連中は?」

「そりゃ、覚えているだけでも10人は下らないよ」

「ほんなら…」

 一拍おいて、ゆっくりと、そしてハッキリと次の台詞を語る村主。

「そのなかに、素手で来た連中って、居たか?」

 俺も慎重に、記憶を探ってみる。そして、首を横に振る。

「…いない。最低限、ナイフは装備してた。エアガンやボウガン、スタンガンに催涙スプレー、拳銃に爆弾。一度、猟犬を連れてきたヤツも居た。つか、森に隠れるツキノワを素手で捕まえるとか殺すなんて不可能だろうな」

 俺は、単に記憶にある事実を語っただけ。聞かれた事に正しく答えただけ。

 でも、俺の言葉に田島さんは絶句してる。口に手を当てて驚いてる。

「せやな。俺は、そしてニャオとツキノワは、そんな欲に狂ったド阿呆共を相手にせにゃならん。

 常識?話せば分かる?どこぞの言葉の通じない外国人狂信者は、いきなりツキノワを篠山や尾野と一緒に、沢渡ン家ごと消し飛ばそうとしたんや。俺やニャオにも本物の拳銃の銃口を向けとった。

 素手で、正々堂々、正面から話し合いにノコノコ出てッて殺されるワケにいくかい。死ねば終わりや。俺はニャオとツキノワには、どんなド汚い手ぇ使ってでも生き残れって言うで」

 常識的な考えを語った田島さんは、非常識な発想を語っているはずの村主を見上げる。だけど自信を持って話をしているのは村主、田島さんは自信なさげに目をそらす。

  《うっわー、相変わらず直人君は言うこときついねー》

 ツキノワは田島さんに同情してる。でも村主の言うことに同意するしかない。俺とツキノワは、いわゆる『常識』から外れた存在なのだから。周りから非常識に見えようとも、それは俺たちの常識。

「ま、そんなワケなんで…ちょっと離れてて。危ないから」

 ゴーグルを装着し、手にゴムの警棒を持つ。ツキノワは田島さんから離れ、村主を挟んだ俺の反対側に行く。

「俺たちの特訓、見てても面白くないし退屈だろうから、無理に付き合うことはないよ」

「あ、ううん。いいよ。終わるまで見学しておくね」

 そういって田島さんは鞄を地面に置き、その上に腰を下ろす。

 俺は足を開き、膝を軽く曲げ、ゴムの警棒を握りしめる。

 ツキノワは身を沈める。

 村主は俺にエアガンの銃口を向ける。



 傾いた太陽が雲を赤く染める。

 草むらの中で大の字になって寝っ転がる俺の目には、ゆっくりと赤みを増す空が映る。

「やっと勝率は五分っちゅーとこやの」

 俺の横に立つ村主がゴツゴツとした手を差し伸べてくる。全身に細かい傷ができ、一人じゃ立ち上がれないくらい疲れ果てた俺。対する村主は余裕だ、ちょっと息を弾ませている程度。何が五分だ、手を抜かれなかったら勝ち目なんかありゃしない。

  《僕たち二人がかりでも、全然太刀打ちできないね。本当に強いねぇ》

 感心してる弟もヘロヘロ。今は地面に腰を下ろしてる田島さんの膝の上で一休み中。といってもツキノワの体はイヌ並のサイズだ、体がはみ出てずり落ちそうになってる。そうまでして膝の上に乗りたいのだろうか…?

  《乗りたいよー。柔らかいし背中撫でてもらえて気持ちいいし。今の時期は、ちょっと暑いけど》

  《暑いなら無理するなよな…まぁ良いか。確かに気持ちいい》

 村主の手を借りて立ち上がる俺にも、田島さんの膝の上で撫でられる感覚が届いてる。うああ癒される。ホントにホントに天国な気持ちだ。

 特訓をしている間、ずっと黙って眺めていた田島さんが口を開く。

「みんな、本当に凄いわ。それに、ツキノワちゃんまで一緒になっても敵わない村主君って、とても強いのね」

「あー、そんな事はないで。今は俺が有利な条件でやってるだけで、これが…と、まぁンな事はええわ。ほな帰ろか」

 ニャーッというツキノワの鳴き声と共に、俺たちは帰り支度を始めた。





 それからしばらく経った夜。

 ポツポツと小雨が屋根を叩く音が続いている。ベッドの上には大きな黒猫が丸くなって寝息をたててる。床に寝転がった俺はPCを開いて、面白そうな動画はないかと電脳世界を探索中。

 そんな静かな俺の部屋にネット電話の呼び出し音が鳴った。正しくは頭につけたヘッドセットから。

「誰だろ…あれ?どうしたんだ、急に」

 かけてきたのは春原さん。研究に忙しい科学者だし、用もなく電話をかけてくる人じゃない。すぐに電話に出てみる。

『お久しぶりね。今は大丈夫かしら?』

「ええ、暇してました。どうしたんですか?いきなり電話なんて珍しいですね」

『実は、ちょっと気になることがあって。ゼミ生が見つけたものなのですけど、これを見て欲しいのです』

 その言葉と同時にネット電話のチャット画面にアドレスが表示される。それをクリックすると、最近有名なネットオークションサイトの画面だ。

「これは…あらら、またですか」

 表示された商品は、毛。黒猫の毛。つまりツキノワの毛。もう珍しくもない。その辺の黒猫の毛をツキノワの毛として売っているヤツが多いんだ。研究者には研究素材として。受験生には合格祈願のお守りとして。ネコマニアにはコレクションとして。その他色々な目的で。

 もちろん大半が偽物なのは有名なこと。研究素材としてなら築島大学に購入を申し出るのが確実。俺たちが入院している間、部屋で抜けたツキノワの大量の毛は大学が一本残らず回収していったんだから。掃除のおばさんたちが隠匿したのなんのと騒ぎになったこともある。

 なわけで実のところ、もう商品価値はない。ネットでも二束三文…え?二束さん、も…ん?んんん?

「これ、値段間違ってません?」

『いいえ。本当に一本一万円です』

 もう一度見直してみる。でも間違いなく数日前に千円で開始、現在の価格が一万円。個数が100だけど、売ってるのは確かに一本単位だ。入札歴を見たら、最初の数本は初日に、期限を待たずに千円で売れてる。だが数日後に、同じ人物から在庫全部に入札が入った。その後も次々と入札が入って、今や一万円。残り時間まで間がある。締め切り間際には、どれほどの値段になるか。

 出品者は、もちろん誰だか分からない。出品者を調べれるのはオークションサイトを運営する会社と警察だけだろう。

「どういうことだろう…もしかして、本物?」

『私も変に思って、商品画像を拡大して分析してみました。確かに外観上、ツキノワの体毛に似ていました。というより、分析できる映像を掲載しているのは、調べられても問題ない、という自信の表れでしょう』

「ということは、最初に千円で買った連中も、もしかして…と思って試しに買ってみたんだな。千円なら偽物でも笑って済ませれるし。でも、調べてみたら本物と分かって、大慌てで買い占めに走った」

『そうですね。最初に買った者の中にツキノワの研究に関係する者がいたのでしょう』

「あの、大学では、毛をとんでもない高値で売っていたりしてます?」

『研究素材としては高価ではないんですが、それでも保存管理とかの経費込みですから、安くないですよ。ええと、これですね』

「儲けてますねー」

 送られて来たデータの値段は、結構な数字だ。

 何だか腹が立つ。弟を商品にして金を稼いでいるかと思うと。

『…誰のせいだと思っていますか』

「誰って?」

 冷静な春原さんの声に、なにやらトゲが生えだしてる。

『あなたが今暮らしている豪邸を楽に買えるほどの値で、旧沢渡家を売りつけてきたのは誰でしょうか?」

「え?えーっと」

『日本の多くの研究機関が、ビーカーを買う金も苦労しているというのに、あれだけの金額を捻り出すのは、どれほどの苦労と決断だったか…』

 あーうー、まずい、声が怒ってる。話を変えよう。

「そ、その、数の方はどうですか?そんな希少価値が出るほど少ないんですか?」

 おほん、という咳払いの後に、再び冷静な声が流れてくる。

『我が校ではツキノワの体毛を販売してはいます。ですが、あくまで研究目的に限定しているため、売却先は公民問わず研究機関のみです。数も数本単位。研究資料としてはそれで十分ですし、在庫は無限にあるわけではありませんから』

  《僕は在庫商品なのか…》

 頭にいきなりツキノワの眠そうな声が響いた。ヒョイッとベッドを見れば、ツキノワが目を覚ましてこちらを見ていた。

「ツキノワが、売り物扱いするなーって、隣で怒ってますよ」

『あ、あらやだ。ごめんなさい』

 理知的で冷静な春原さん、久しぶりに感情のこもった声を聞ている気がする。本当に悪いと思ってるようだ。

『とにかく、気になるのは値段の上がり方です。ツキノワブームが下火なので、もう大丈夫かと思ったのですけど。この値段を見たら、再び襲撃者が増加するのではないかという懸念を感じました』

  《そうだねー、このオークションの結果を見れば、また一攫千金狙いがたっぷり現れるね》

「うーん、まったく。でも、どうして今頃こんなにまとまった数が出品されたのかな?」

『分かりません。もしかしたら、邪魔な偽物の出品が無くなったので、以前に手に入れた体毛を今になって処分しようとしているのかもしれません』

「あ、それはありますね」

  《はぁ〜。うんざりするなぁ》

『私が伝えたいことは以上です。とにかく、この不況ですから、以前より経済的に切羽詰まった人が増えてます。どうぞお気をつけて』

「はい。わざわざありがとうございました」

 電話が切れて、ヘッドセットを外す。頭が軽くなっても気は重い。

  《ツキノワ、とにかく気をつけよう》

  《オッケー。パトロールもこまめにやるとするよ》

 外から響く雨音が強くなってきている。どうやら本降りになりそうだ。





 衣替えの時期になった。

 衣替えなんだけど、まだ夏服を着ている生徒が多い。当然だ、10月になっても暑いんだから。冬服の男子も袖を折って半袖にしているのが大半。

 あちらこちらのクラスでは、そろそろ文化祭の準備が本格的になってる。何だかよくわからないモノが教室の隅とか体育館の倉庫に置かれ、あちこちで演劇の練習らしき事をしている。各クラブの方は追い込みだ。放課後にもなれば、みんな部室や体育館に駆け込んで仕上げに入ってる。

  《仕上げなのはいいけど、これって、どうなのかなぁ?》

 家の居間でTVを見ているツキノワが微妙に呆れた声を飛ばしてくる。

 座布団の上にデンッと座り、床に置いたリモコンを肉球でぺちぺち叩いて器用に操作してる。

 以前のTVはコントローラーのボタンが小さくてツキノワには使えなかったけど、今のは子供や老人向けのボタンが大きなヤツ。おかげでツキノワもTVを自由に見れる。でも夕方のTVなんてローカルな情報番組やドラマの再放送くらい。すぐに退屈したようで、放課後の校舎を歩き回る俺の視界に意識を移していた。

「どうって言われてもなぁ…。本当に先生が気にしてた通りになったなぁ」

 俺も呆れた。

 確かにツキノワはこの名香野市で唯一の、かつ最大の話題だ。今も世間を賑わす旬のネタ。この学校の代名詞と言って良い。そして沢渡家はツキノワをテーマにすることを了承した。

 だからって、まさか、ここまでツキノワだらけになるとは思わなかった。


 体育館からは演劇部の台詞が聞こえてくる。村主が爆弾をぶん投げたシーンだろう、気合いを入れた野太い大声が繰り返されてる。

 吹奏楽部の部室からは黒猫のタンゴ、猫踏んじゃった、その他ネコがらみらしい曲を練習してる。

 生物部の部室を覗くとネコの剥製があった。ツキノワが気色悪がると思うので、すぐに立ち去る。

 映画部の撮影班が学校中を走り回る。こちらはツキノワが有名になる前の、静かな日常をメインにしてるらしい。ネコ役はどうするのかと思ったら、小柄な女子部員の着ぐるみだった。かなり可愛い。

 新聞部は…近寄ると篠山に捕まりそうだからやめとく。ツキノワ関連の記事を集めて暗幕にでも貼り付けてるだろう。

 各クラスは、定番の喫茶店・お化け屋敷・演劇がほとんど。ただし、どれもネコがテーマ。化けネコ屋敷とか、ネコのコスプレ喫茶とか。ちなみに我がクラス1−Bはネコ耳メイド執事喫茶。読んで字のごとく、ネコ耳を頭につけてメイドと執事姿で喫茶店をするだけ。

 先生が言ってた『ネタが被らないように各クラス・部活代表が相談』した結果だ。


 放課後、ブラブラと校内を散歩してみたけど、本当に見事にツキノワネタで埋め尽くされていた。

  《どうしてみんな僕をネタにするんだろう?》

「う〜ん、まぁ、多分あれだ。手っ取り早くて分かりやすくて、みんながやってるから…というところかな」

  《みんながやってるから、かぁ。つまりブームに乗っかってみた、てこと?》

「だな。別に、他にやりたいことが特にあるわけじゃないんだから」

  《個性とか主張がないなー》

「んなモンあったら、こんな平凡な学校にこねーよ」

  《わー辛口だー》

 頭に響くツキノワの声と小声で話しながら1−Bに戻れば、こちらはメイド服と執事服の準備中。女子は衣装あわせとネコ耳作りに夢中だ。対する男子は…やる気なさそうだ。ダラダラおしゃべりしたり、携帯いじってたり、どっかにコッソリ消えていたり…俺みたいに。

「ちょっとー、沢渡君。どこ行ってたのよ」

 学級委員の真鍋が笑顔ながらも少し怒った口調でノシノシ詰め寄ってくる。

「あ、ゴメン。そろそろ各クラブやクラスがどんなネタやってるか、目を通しておこうと思って」

 サボる前に思いついた言い訳だけど、別にウソじゃない。何しろ扱ってるネタは我が家のネコなんだから。ウチに不都合な内容はないか、社会的に飼い主ということになっている俺は(そんな気はないけど)監視しておかないと。

 そして一応は真鍋には通じたようだ。

「もー!それなら一言かけてから行きなさいよね」

 そういって彼女は太めの体を揺すって他の女子のグループへ足を向けた。同時に、俺の背をチョンチョンとつつくヤツがいる。

 振り返ると、稲村が一杯に材料を入れた段ボールを右肩にかついで、俺の背中をつついていた。

「なんだよ、いんちょ」

「これ、お前のノルマね」

 といって肩の段ボールをずいっと突きつけてくる。

「な!なんでこんな沢山!」

「それは、コレのせい」

 そういって左手でポケットから紙片を取り出し、俺に差し出した。受け取って開けてみれば、見覚えのある字が書き殴ってあった。

  『すまん!今日のトレーニングは外せへんねん!頼む!』

 あいつにはさんざん世話になってる。こんな事では怒れない。いやむしろ普段の恩返しとかいって進んで引き受けなきゃ…進んで…すす、す…

  《直人君との仲じゃない、ねぇ?》

 そういうツキノワは退屈なTVを消し、腹丸出しの仰向けでお昼寝モード。こいつに野生は無い。

  《そうだな、俺と村主と、そしてツキノワの仲だよな》

  《そうだね。僕と浩介君の仲だモンね。だから、応援しておくよ。がんばれー》

 そしてツキノワの声は消えた。寝たようだ。

 俺は黙ってネコ耳を作る事にした。

 あーめんどくさー。



 夕暮れ、ようやく苦行から解放された。

「ぬぅあ〜っ」

 大きく背伸びして教室を出ると、彼女が前からやってくる。

「あ、田島さん」

「あら、沢渡君。そちらもお疲れ様みたいね」

「ああ、ようやく終わったよ。そっちは?」

「こちらはもう少し。なんとか日が沈むまでには終わらせるつもり」

「そっか、なら待とうか?」

「あ、いいよ、いつまでかかるか分からないから悪いわ。それよりも」

「ん?」

 彼女はキョロキョロと周りを気にする。そして誰もいないのを確認してから顔を寄せてささやく様に話し出す。

「あ、あのね…次の月曜日なんだけど」

「あー、確か体育の日で休みだったよね」

「何か予定はある?」

「え?よ、予定?」

 休日の予定を聞かれる。その事実に心臓がダンスを踊り始めるけど、そんな動揺は押さえ込まないと。必死で平静を装って、果たして月曜日に何か予定が入っていなかったか、もし入っていても、意地でもずらしてやるぞ…と気合いを入れて思い返す。その結果、日曜の村主とのトレーニング以外、連休中の予定は無いことを確認。

「だ、大丈夫!」

「あ、空いてるんだ」

「も、ももちろん!で、な、何か、用かな?」

「う、うん。あ、あのね」

 彼女はうつむいてモジモジしだす。そしてさらに小さな声で、重大な事を口にする。

「沢渡君の、家に…行っても、いいかな?」

 その瞬間、俺は歓喜と絶望と打算と欲望と義理と人情で、板挟みどころか四面ソカ?簡単に言うと困った。本当に困った。俺の家に来て欲しい、いや部屋に来て欲しい、でも本当に困った。

「あの…さ。ウチの、家は」

「うん、知ってる。ツキノワちゃんを守るためとか、怖がるからとか、あるんでしょ?」

「う、うん。でも、田島さんは怖がらなかったし」

「そうよね。でも、色々事情があるから、無理にとは言わないから」

「わ、わかった!きっとOKできると思うから、待っててよ」

「あ、それじゃメルアド」

 慌てて駆け出そうとしたけど急停止。携帯を取り出してメルアドとか交換。やっとゲットしたぜーと叫んで踊り出したいのをこらえ、再び走り出した。



 ぜーはーぜーはーと息を切らして家に着いた。

 さて、浮かれて飛んで帰ってきたものの、玄関を前にすると、とたんに沈んでしまう。田島さんを家に招くというのは、結構ハードルが高いんだ。

  《ん・・・ふにゃ〜ぁ・・・あれ?どうしたの浩介君。すっごい困ってそうだね》

 ようやく目を覚ました弟が、今さら兄の苦境に気がついた。とりあえず脳内会議で瞬時に事情説明、いやー便利だテレパシー。

  《なるほどね。田島さんなら僕はOKだよ。だけど、紗理奈ちゃんとか母さんとかは何て言うかなぁ?》

「そこなんだよなぁ…。普通の家なら勝手にコッソリ呼んでいいんだろうけど、ウチはマズイんだよな」

 玄関前で鞄を持ったまま腕組み。

 父さんは多分、反対しない。母さんは、むしろ興味津々であれこれ聞いてきて、ぜひ紹介しなさいとか言いそうだ。でも紗理奈はどうだろう、なんだかブチ切れそうな気がするんだよな。

  《でも直人君とか朱美ちゃんとか、由奈ちゃんもウチに来てるよ。親しくて信用できる友達なら構わないと思う》

「でも紗理奈のヤツ、自分の友達を全く家に呼んでないだろ?俺ばっかり呼んだら悪いよな。それに家へ呼ぶヤツと呼ばないヤツが曖昧になってキリがなくなるし」

 腕組みしながらウロウロ歩き回る。

  《まぁ一度話してみたら?ダメっていうなら諦めよう》

「いや、そう簡単な話しじゃなくて。紗理奈はツキノワを考えて」

「あたしがどうしたって?」

「え?」

 後ろを振り返る。そこにはセーラー服姿でバトミントンのラケットケースを背に担いだ紗理奈が立っていた。

「い!いや、なんでもないなんでもない、独り言だよ、うん、ホント、独り言!」

「ふぅ〜ん…」

 紗理奈がジロジロと俺の顔を見上げてくる。目をそらす俺の左右から睨んでくる。

「なんかさ、兄貴って」

「な、なんだよ」

「本当に独り言が増えたわよね?」

「ま、まぁな。正直、悩み事が増えすぎてな」

「そりゃそうだけど、なんか、さぁ…兄貴の独り言って、いつも誰かと会話してるみたいなのよね?」

「だ、誰かって、誰もいないだろ」

「そうなんだけど、なんだか、さぁ…ツキノワと話してるみたいな気がするのよね」


 心臓が止まった、きっと今止まってた。

 俺だけじゃなく、ツキノワの心臓も止まってた。仰向けになったままだった猫の体が、そのまま10cmは飛び上がったぞ。


「ななな何をバカなことをいいいてるんだよっ!?」

「何を慌ててるのよ、バカみたい。いない猫と話ができるわけ無いでしょ」

「と、当然だろ!」

 俺は全身から流れ出す脂汗を拭くことも出来ず、ただオロオロする体を押さえ込もうと格闘するばかり。

「そうよね、いないと話ができないモンね」

「当たり前だ。いなきゃ話は出来ない」

「いれば話が出来るわよ」

「そうだ、その通りだ。いるから話が出来るんだ」

「つまり兄貴はツキノワと話が出来るのね」

「もちろんだ、全くおかしな事を言うなよな」

「…今、自分がとんでもなくおかしな事を言ったの、気付いてないでしょ」

「え?あ…ああ、あ!」

  《あ、ああ、そうだね、今さらだけど、確かに変なこと言ってたんだよね》

 そう、今さらなんで気がつかなかった。つーか、ウチの家族は知ってるというか、もう誰もが知ってると思っていた。だから当然だと思っていた。だけど改めて考えてみると、確かにおかしな話だ。

 ツキノワの知能の高さは誰でも知ってるけど、人の言葉は話せない。その話せない猫の言葉をどうやって聞いてるんだ。

 俺は人間の言葉を話せないツキノワの通訳をしている。でも、どうやってコミュニケーションを取っているのか説明できない。目を合わせて、耳や体の動きから、長年の付き合いで、というレベルを超えてる。それこそテレパシーでも無いと説明がつかないほどのモノだ。

  《うっかりしてた。これじゃテレパシーで話をしてますって言ってるのと同じだよ》

  《全くだ、気をつけないと》

「あたしは不思議とも思わないけど、他の人は変って思うわよ。もしかしたらツキノワも兄貴もセットで狙われるわ。気をつけてよね」

「う、おう、分かった」

 完全にやりこめられて一本取られて脱帽な目から鱗だけど、それでも必死に胸を張って答える。せめて見た目だけでも兄の威厳を保ちたい。

「それと、誰かを家に呼びたいようだけど。どうせ田島さんでしょ?ちゃんとハッキリ言いなさいよ。ほら、中で話をするわよ」

 兄の威厳なんかどこにもありゃしない。

 俺はうなだれて紗理奈の後をついていく。



 まったくもって間が悪い。ついてない。

 どうしてこういうときに限って家族が全員揃ってるんだろう。

「ほうほう、そうかそうか!浩介も彼女が出来たか。うん、やるじゃないか!」

 深夜勤務を終えて家に居た父さんが、満足げに何度も頷いている。

「そうねぇ、浩介もお年頃よね。彼女の一人くらい出来ても不思議ないわね。でも、篠山さんや尾野さんじゃないというのは意外ねぇ」

 ご飯をよそって父さんに渡す母さんは、明らかに好奇心か何かで目を輝かせてる。

「で、兄貴が呼びたいっていう話、どうする?」

 紗理奈は腕組みして、イスにふんぞり返って仕切り役。…なんで紗理奈が仕切っているんだ?

  《兄の貫禄は、諦めようね》

 足下でドライフードをバリバリ食べてる末の弟がシャレにならない事を言ってくれる。

「俺は構わんぞ。うん、浩介、しっかりやれよ」

「私も是非紹介して欲しいわ」

 父さんと母さんは予想通り二つ返事でOK。さて、問題の紗理奈は…

「あたしも、OK」

 意外にも紗理奈は素直に許してくれた。

「ただし!」

 と思ったら、ビシッと人差し指を俺に突きつける。

「条件があるわ。これが出来ないと、呼んじゃダメよ」

「条件?」

 突然立ち上がり、堂々と条件を提示した。

「掃除よ!」

 一瞬、何を言われたか分からない。

「そう、掃除。それも大掃除よ!」

 ?・・・?…?、??

 なんで?





 はーめんどくせーほんとーにめんどくせー。

 年末でもないのに大掃除なんてめんどくせーにもほどがある。昨日から自分の部屋に始まり家の外まで範囲拡大、めんどーい。

 昨日も村主にしごかれて、あちこち筋肉痛だっていうのに。つか何でこんなことをしなきゃならないんだ?

「ウダウダ愚痴を言ってるんじゃないわ!彼女を呼びたいなら、綺麗な家にするのは当然でしょうが」

 黒いTシャツにスパッツの妹が掃除機片手に仁王立ち。

「ンなもん、俺の部屋だけでいいだろうが…」

「ダメよ。やるなら家中を徹底的にするわよ!」

 そんなわけで、どういうワケか紗理奈の提案で、体育の日の朝早くから大掃除になってしまった。彼女が来る昼過ぎまでに、家中ピカピカにするというのだ。

 母さんもモップでフローリングを拭きまくっている。

「やっぱり大事なお客様だもの!綺麗にしてお迎えしたいわよねー」

 母さんはノリノリ。よほど俺が彼女を連れてくるのが嬉しいのだろうか?そして俺は庭の草むしり。こういうときは広い庭を持つ豪邸が恨めしい。マンガだったら代わりにやってくれる執事やメイドでもいたろうけど、現実にはンなモノはいない。

  《ほらほら頑張ってー。大事な彼女のためだよ》

 そういうツキノワは、屋根の上で俺を見下ろしながら大あくび。ああもう何だかムカツク。猫にも出来る仕事はないのか?

  《ないよ。僕に出来るのは応援だけだよ。だから応援を頑張るよ。あ、あと僕の身だしなみも整えとこうか》

 そういってる当の本人、いや本猫は毛繕い。うう、俺も猫に生まれたら、こんな気楽になれるのだろうか。ちなみに父さんは仕事でいない。休日でも関係ない看護師という仕事に初めて憧れた。



「あー終わった終わった。おらー紗理奈ー、庭ぜーんぶやったぞー」

 汗を拭きながら縁側から居間にあがる。畳にまで拭き掃除をかけ、家具の隙間をも掃除機で吸っていた紗理奈が、まるで嫁の掃除に文句をつけたくてしょうがない姑のような目で庭を見回す。

「ま、いいんじゃない?」

 その言い方、ムカツク。なんでそんな偉そうなんだ。ムカツク。

「これで全部終わったな。あー疲れた」

 そういって居間を出ようとした俺のシャツの裾を、妹の小さな手が握りしめた。

「まだよ」

 うんざりするようなセリフ。心底ウンザリして振り返る。

「お前な、あとはどこを掃除しろっていうんだよ。もう客の目につきそうな場所なんて、残ってないぞ」

「何を言ってるのよ。まだ大事なモノが残ってるじゃない」

「大事なモノ?」

「そう、一番大事なモノ」

 大事なモノ…一体何だろう?あれこれ考えてみるけれど、もう掃除していない場所なんて思い浮かばない。

「…いや、もう無いと思うけど、何かあるのか?」

「あ、兄貴が掃除するワケじゃないわ。あたしがやるから、兄貴には手伝って欲しいの」

「俺が手伝うのか。どこだ?」

「あーっと、正確には兄貴とツキノワが手伝ってくれないと、あたし一人じゃ綺麗に出来ないモノなの」

「何だそれ?」

「うん、実は前々から綺麗にしたいとおもってたんだけどね。機会が無くて。ちょうどいいから、今やっちゃおうと思うの」

「だから、何だよそれ」

「今から説明するわ。とりあえず…ツキノワぁー!ちょっと来てー!」

 紗理奈が大声でツキノワを呼ぶ。とたんに縁側から大きな黒猫がノソリと入ってきた。もっとも、呼ばれる前に既に縁側に来ていたんだけど。

  《一体、何だろうね?》

  《さぁな。お前と俺がいないと出来ないとなると、タンスの上とか蛍光灯の上とか、かな?》

 そんな俺たちの疑問には答えず、紗理奈はトテトテとツキノワへ駆け寄り、うんしょっとかけ声をかけてツキノワの大きな体を抱き上げる。

「うーん、やっぱり重い」

「そりゃそうだ。10キロはあるんだから。俺が持つよ」

 俺はツキノワを受け取る。両脇の下に手を入れると、でろーんと伸びた大黒猫の体重が腕にズシリとくる。確かに猫としてはでかくて重い。もしかして、太りすぎなんじゃなかろうか。

  《失礼なこと言うなー》

 しゃー、と牙をむいて抗議する弟を観察する。が、別に腹が出ているとかはない。本当に体格が大きいだけのようだ。どちらかというと、猫というよりは小型のヒョウかピューマに近いかも。

  《そうそう、わかってるじゃない》

 今度は嬉しそうにニャンと一声鳴く。

「おっけー。んじゃ、そのままこっち来て」

 そういって紗理奈の小さな体が家の奥へ行く。俺もでろーんと伸びたままのツキノワを手に持ったまま後をついていく。

「んじゃ、ここ入って」

 そういって紗理奈の小さな体がドアの中へ入っていく。俺も後をついて行く。ただツキノワは身をよじって逃げようとし始める。

  《ゴメン、助けて、お願い》

  《お前、身だしなみを整えようって、さっき言ったよな?》

  《違うあれ意味が違うからやめてヤメテやめて》

  《ま、一度試してみろって。気持ち良いから》

  《第一、僕は田島さんの前に出る必要ないでしょ?でしょでしょ?》

  《ここまで掃除しまくったんだ。もうついでにやろうぜ》

  《うぎゃー鬼アクマ猫殺しー!お兄ちゃんのバカーッ!》

  《すまん弟よ、俺の幸せの為に犠牲になってくれ》

 うなーうなー…と切ない悲鳴を上げ始めたツキノワが連れてこられたのは、風呂場。

 既に妹はTシャツの袖をめくりあげて猫用シャンプーとか準備している。

 俺は激しく抵抗する黒猫をガッチリ抑え、足で風呂の扉を開ける。

 ちなみに精神リンクは最大にしてる。こうすれば俺を引っ掻くとツキノワ自身も痛い。ツキノワの感じる水への恐怖を俺の広く優しい心で受け止めることが出来て弟も安心して風呂の素晴らしさを味わいタンノウ出来るのだホントだぞマジお勧め

  《嘘つきいいいいいいいいいいいい》

 脳に直接断末魔が響くけど、あえて聞こえないフリをするのだ。

 耐えろ弟よ、これは愛の試練なのだ。

 猫の悲鳴が反響する風呂場の扉が閉められ、激しい水音に猫の鳴き声はかき消された。



 何か悟りの境地に至ったかのような黒猫がバスタオルに包まれて脱衣所に鎮座してる。

 ブォーンとドライヤーでヒゲと眉が吹かれるのも気にせず、ただ虚空を見つめている。

「どーだ、気持ちよかったろ?」

 ワシャワシャとタオルで毛を拭きながら問いかけた俺だが、頭の中に何も返事は返ってこない。魂が抜けたようだ。

「あースッキリしたわー。以前からツキノワをお風呂に入れたかったけど、いつも逃げるんだもの。

 んじゃ乾いたようだし、香水もふってあげるね」

 心から満足したような顔をしてるのは紗理奈。何か花の甘酸っぱい香りの香水を、水分を拭き終えた黒くツヤツヤな毛並みにふきかける。

  《…くっさー》

 ようやく返ってきた反応は、猫の鼻には強烈すぎる香水の臭いへの苦情。猫にとっての悪臭で気がついたようだ。気がついたからって逃げようとはしない。もはや逃げる気力も消えている。

「よく我慢したわね、ホラ、ブラシもかけてあげるから」

 呆けた末弟を妹に任せ、毛が大量に付いたタオルを洗濯機に放り込もうと立ち上がる。

「あ、ちょっと待ってよ兄貴。それを洗濯機に入れたら他の洗濯物も毛だらけになるじゃないの。このブラシと一緒に後で綺麗にしとくから、そこにおいといて」

「ん、分かった。ここ置いとくぞ」

 タオルをトイレ横の棚の上に突っ込む。

「これでよしっと」

 紗理奈もタオルの上にブラシを置く。

「さて、これで本当に全部終わったよな?」

「ええ、もうホコリ一つも落ちてないわ。それで、田島さんはそろそろ来るんじゃない?」

 時計を見れば、約束の時間まで一時間だ。

「やべ。俺もシャワー浴びとかないと」

「んじゃ、次あたしね。それとツキノワは田島さんが来てる間は外で遊んできなさいよ」

 紗理奈は未だに呆けてるツキノワを抱いて出て行く。俺は着替えを持って風呂場に飛び込む。



 ピンポーン。

 チャイムが鳴ると同時に俺は部屋から飛び出し外へすっ飛んでいく。

「いらっしゃーい!」

 息が切れるほどの速さで通用口に駆けつけてドアを開ける。そこでは自転車を押してる田島さんが少し緊張した様子で、それでもニッコリ微笑んでくれていた。

 タートルネックの白いニットに黒のワンピース、足は黒のストッキング。背中側には腰に大きなリボンが付いてる。自転車の前かごには、黄色の大きめなバック。黒いストレートの髪と合わせて、落ち着いた彼女の雰囲気と仕草の可愛さにピッタリだ。

「ごめんなさい、少し早かったよね」

「そ、そんなことないよ!さ、ささ、上がってよ!ホント、狭くて汚くて散らかってるから恥ずかしいけど!うん!」

  《それが、昨日から家中を、掃除していた人の、言葉かぁ〜》

 元気のないツキノワのツッコミはほっといて彼女を家に連れて行く。

 ちなみにツキノワは俺の部屋の外、屋根の上で狛犬のように座ってる。家の中にいると溜まっていく香水の臭いが強くて鼻が曲がりそうなので、外の風に吹かれてるんだ。

「うわあ、凄い家だね。沢渡君の家って本当にお金持ちなんだねぇ」

 溜め息と共に田島さんは俺の家を見上げる。

 まぁ確かに去年の俺なら「一生縁はない」と断言できた家だ。外見は大きな日本家屋で庭は広く塀も高い。部屋数も多くて風呂もでかい。正面の門は電動で両開き、大きな車が余裕で出入りできる。

「いいなぁ、憧れるなぁ。私の家はペットも禁止だもん」

「あ、あはは、まぁこんなボロ屋で良ければ気兼ねなく来てよ」

「え?でも、そういう訳にはいかないでしょ?」

「い、いや、田島さんはツキノワも怖がらないから、構わないよ」

「そう?…本当に?」

「う、お、おう!本当に!」

 ああ俺は幸せ者だ。

 有頂天で身も心も軽く、田島さんを家の中へ案内する。



 玄関に入ると、計ったように母さんが出てきた。なにやら普段はお目にかかれない、気合いの入った化粧をしている。服も普段着のようで、実は普段目にしない綺麗な服だ。本当に気合いを入れてる。

「あらあら、お待ちしてましたよ」

 母さんの姿を見るや、田島さんはペコリと頭を下げる。

「初めまして。私は沢渡君の、その、と、友達の、田島楓と、いいます」

 友達、という言葉の所で言い淀む。俺もその単語に反応してしまう。

「あらあら、可愛いお友達ね」

「そ、そんな事は…あの、これ、どうぞ。大したものではないのですが…」

 そういって黄色のバッグから取り出したのは、お菓子詰め合わせ。

「あらあらあら!これはご丁寧に。良くできた子ねぇ…浩介」

「ん?」

 母さんはお菓子の箱を手にしてニッコリ微笑む。

「正式な彼女になったら教えなさいよ」

「ばっバカ言ってンじゃねーよ!」

 俺は顔真っ赤で抗議。そして田島さんは顔真っ赤でうつむいた。

「うふ、冗談よ。それじゃ、お部屋行ってらっしゃいな。あとでお茶とお菓子を持って行くわね」

「い、いらねーよ」

 俺は田島さんを連れて、小走りで階段を上がり自分の部屋へと駆け込む。



 とりあえず用意していた座布団二枚を敷く。

 俺も彼女も正座して向かい合う。なんで正座なのか知らないけど、つい正座して向かい合ってしまう。彼女は落ち着かない様子で視線を落とす。俺は心臓バクバクさせ、キョロキョロと室内を見渡す。よし、掃除は行き届いて整理整頓されてる。ベッドの下まで掃除したんだ。見られてヤバイものも全部始末した。大丈夫だ。

「これが、沢渡君の部屋、なんだね」

「あ、うん、汚くてゴメン」

「そんなこと無いよ、凄く綺麗。男の子の部屋って、もっと散らかってて汚いかと思っていたわ。さすが、沢渡君はしっかりしてるね」

「い、いや、そんなこと、ないよ」

 そこで会話が途切れる。

 何かを話さなきゃいけない。でも何を話せばいいんだろう?何か、共通の話題は、えっと、何か。

「ところで、ツキノワちゃんは?」

「ああ、あいつなら外で風に吹かれてる」

「どうか、したの?」

「風呂に入れたら、怖がって暴れまくったあげく、呆けてる」

「え?ツキノワちゃんってお風呂が嫌いなの?」

「ああ、やっぱり猫だから。ほら、窓の外」

 立ち上がり窓へ向かう。ガラス戸を一杯に開けると、五月山公園の緑と広がる田畑が見える。そして、屋根の上にたたずむツキノワの後ろ姿も。

「おーい、そろそろ戻ってこいよ」

 だけど、ジロリと後ろを振り向いたまま部屋に入ろうとはしない。

  《…裏切り者》

 恨めしげに言うと屋根の向こうへ立ち去った。ヘソを曲げたようだ。

 田島さんも窓際に来て弟が立ち去った先を見る。

「ツキノワちゃん、いっちゃったね」

「あ、ああ、風呂に無理矢理入れられて怒った、らしい。ゴメン」

「う、ううん、いいよ」

 そういって田島さんは俺を見上げる。

 俺は、窓に手をかける田島さんを見下ろしてる。

 俺たちの距離は窓一つ分。手を伸ばせば届く距離。

 視線が交差する。彼女の顔が見る見るうちに赤くなっていく。恐らくは俺も同じなんだろう。

 俺たちは顔を赤く染めたまま、動かない。目を逸らせない、動けない。

 彼女の呼吸が速くなる。そして俺も。

 ゆっくりと、俺の右手が彼女の方へ伸びる。


  コンコン

「お茶とケーキを持ってきたわよ」


 ガチャッと母さんがドアを開ける。そこには最初と同じく座布団の上に正座した俺たちの姿がある。ただし違うのは、二人ともぜーぜーと肩で息をしてたりする。

 そんな俺たちの姿を見下ろす母さんは、おっそろしく上機嫌、というよりニヤニヤし ながら座布団の間にお盆を置く。

「あらあらぁ〜、お邪魔だったかしらぁ?」

 マジ邪魔ださっさと出てけいい所だったのにコンチクショー!と叫びたいけど黙っておく。焦るな焦るな時間はあるんだ慌てるな。ここは余裕と落ち着きを見せるんだ。

「そそっそんなことはないよ、うん、ホント」

 噛んだ。焦ってるのバレバレ。

 母さんは「ホホホ…」と気味の悪い笑い声を残して出て行った。お願いもう来ないでくれ頼むから。

「あ、あの、食べて、いいかな?」

「あ!うん、もちろん!せっかくだし、食べよう!」

 誤魔化すようにケーキを頬張る。多分、美味い、だろう、緊張しすぎて味なんかよくわからないけど。

「美味しいね」

「あ、う、うん」

 まるで草食動物のように少しずつ口に入れる田島さん。カップから紅茶をすする姿も可愛く思える。琥珀色の液体が触れる唇は少しピンク色の口紅がつけられてる。柔らかそうな、小さな口…

「ん?」

 彼女が不思議そうな目で俺を見つめる。

「い、いや、何でも、ないよ」

 俺は慌てて目を逸らす。

 紅茶とお菓子を少しずつつまみながら、たどたどしく話をする。最近の学校の様子、特に文化祭の進み具合。村主が田島さんを屋上に引っ張って来たときのこと。お互いの小学生の頃の思い出話。高校受験の時の苦労。中学校の時に大嫌いだった教師の事。etc...。意外と共通する思い出。

 大したことじゃないけど、色んな事を話せた。俺が全然覚えてないような事でも、彼女はよく覚えていてくれた。本当に子供の頃から、ずっと俺のことを見つめていたんだって分かった。なのに俺は全然気が付かなかった。俺って相当のマヌケだったんだ、悪いことしちゃったな。

「どうして、もっと早く話ができなかったのかな。もったいないよな」

「そうよね。勇気を出して声をかけてればよかったね」

 そういって彼女は笑う。つられて俺も笑う。



 ふと会話が途切れたとき、ふと彼女が携帯を見た。とたんにビックリする。

「わ!もうこんな時間だわ」

「え?こんなって…あ、もう夕方になってる」

 外を見たら既に日が傾いてあかね雲が広がってる。全然気が付かなかった。

「やだ、すっかりお邪魔しちゃったわね」

「いや、気にすること無いよ、うん。晩ご飯も、食べていったら?」

「ふふ、それは悪いわよ。あ、ゴメン。トイレ貸してね」

「ん、ああ、トイレは一階の廊下奥ね」

 そういって彼女は部屋を出て行った。あとにはにやけた俺が残る。こんな幸せな時間は久しぶりだ、いや初めてだ。俺は世界一の幸せ者だ。うん、間違いない。

  《幸せそうだねーよかったねー》

 言葉と裏腹にトゲのある口調が頭に響く。そういえばツキノワはどこにいってたやら、と思ったら窓の外だった。屋根の上で、窓の外からコッソリこちらを覗いてる映像が見えた。

「おう、幸せだぞー羨ましいだろー」

 ひっくり返った俺のトロンとした目も見えてる。でも今の俺には全く気にならない。この幸せを誰かに分けてあげたいくらいだ。

  《いらないよーだ。そろそろ帰ってもらってよね。寒くなってきたから》

「そう言うなよ、お前も気にせず一緒に入れよ」

「なんであたしが入るのよ」

「え?」

 ドアの方を見たら、紗理奈が床に大の字で寝そべる俺を見下ろしていた。

「う、うわ!ノックしろよ!」

「したわよ。ついでに言うとカギもかかってないし」

「だからって、勝手に開けるなよな!」

「少し開いてたの。しっかり閉まってなかったみたいね」

「む、むぐ、だからって…」

「油断大敵、気をつけなよ。ところで、田島さんはトイレ?」

「あ、ああ」

「そか、行こうと思ってたんだけど、戻ってくるまで待とっと」

「待つなら自分の部屋で待てよ」

「部屋に閉じこもってるの、飽きたもん。暇つぶしに兄貴の抜けたツラでも拝もうと思ってね」

「お、お前は兄への敬意というモノを…」

「あ、戻ってきた」

 俺の抗議を無視して、紗理奈は田島さんに一声かけて階段ですれ違い降りていく。

 そして田島さんは俺の部屋に来ると、俺にペコリと頭を下げた。

「すっかりお邪魔してごめんなさい。今日はもう帰りますね」

「あ、そ、そっか」

「うん、もうすぐ日が暮れるから、今のウチに」

「そうだな、この辺は夜になると人通りもないし。明るいウチに帰らないとな」

 というわけで、田島さんはバックを持って俺の部屋を出る。俺も彼女を見送るため、一緒に一階へ下りる。



 玄関の前に来ると、紗理奈が立っていた。

 腕組みし、足は肩幅に開き、冷たい目でこっちを睨んでる。

 いや、こっちじゃなくて、正しくは田島さんを睨んでる。

 何も言わず、玄関から出ようとする俺たちを通せんぼしている。

「な、何だよ紗理奈」

 問いかける俺の言葉を無視し、田島さんを睨み続けてる。

「あ、あの…何?」

 ただならぬ雰囲気に少し怯え、バッグを抱きしめる田島さん。紗理奈は、ゆっくりと口を開いた。

「…香水」

「香水?」

 いきなり妙なことを言われて田島さんはキョトンとする。

「今、香水は何を付けてるの?」

 構わず質問を繰り返す紗理奈。俺は意味が分からず何を言えばいいのか分からない。

 それでも田島さんは、首をひねりながら答えた。

「エンジェルバードの、ピンクラズベリー、ですけど」

「ふぅ〜ん…良い香りだと思った」

「あ、ありがとう…」

「でも、変だなぁ。違う香水を付けてると思ったんだけど」

 相変わらず冷たい視線のまま、一歩一歩前に進んでくる。田島さんの真正面に。

 小柄な紗理奈だが気は強い。その射抜くような視線で見上げられて、彼女はたじろいでいる。胸に抱く黄色のバッグを更に強く抱きしめる。

「お、おい。妙なこと言うなよ」

 抗議するけど、それを無視して妹は睨み続ける。

「さっき、すれ違ったとき、別の香水の臭いがしたの」

「べ、別の…?」

 彼女の頬に、一筋の汗が流れる。

「そう、別の香水。あたしの持ってるのと同じ、ニナリッツの」

「え…あた、し。そんなの、付けてた…かな?」

「あなたは付けてないと思う。そして、今、あたしもつけてないの。今この家にニナリッツの香水を付けてる人は、いないわ。というか、あたしもその香水、まだ付けたことがないの」

 俺たち二人の疑問を無視して、紗理奈は言葉を続ける。意味は分からないけど。一体、香水がどうしたと…?

  《香水…?》

 頭に屋根の上のツキノワの声が聞こえる。ツキノワの…ツキノワ!?

  《…あ!そんな、まさか!》

 慌てて自分の体臭を嗅ぐツキノワ。その嗅覚を俺も共有する。とたんに強烈な臭いが脳に届く。紗理奈が持っているはずなのに、紗理奈が付けていた記憶のない、今日が初めての香水の臭いだ。

「その香水、今日、初めて使ったのよ。お風呂上がりの、ツキノワにね」

 瞬間、紗理奈の手が跳ね上がった。

 細くてもしなやかで引き締まった腕が風を切る。

「きゃあっ!」

 悲鳴が上がった。

 田島さんが抱きしめている黄色のバッグが弾き飛ばされた。

 壁に当たり床に落ちたバッグの中身が散乱する。

 即座に紗理奈は床に膝をつき、バッグの中身を確認して臭いを嗅ぐ。

 そして、ジロリと振り返る。滝のように汗をかく青ざめた田島さんを。

「この中じゃ、ないみたいね…。ねぇ、ポケットの中、確かめさせてくれる?」

 とたんに彼女は小刻みに震え、腰についたポケットを押さえる。

「あ、あの…これは、その…」

 後ずさる彼女の体が俺にぶつかる。その瞬間、彼女に負けず劣らず青ざめた俺の鼻にも届いた。昼にツキノワの体へふりかけた香水の臭いが。

 喉がカラカラになった口から、必死に言葉を絞り出す。

「た、田島、さん…まさか!?」

 俺の手も彼女のポケットへ伸びる。

 瞬間、駆けだした。

 ポケットを押さえたまま、靴も履かず、スリッパを飛び散らせ、靴下のままで。

 玄関から飛び出した。

「キャアァッ!」

 再び悲鳴が上がった。

 夕日で真っ赤に染まった庭に、黒い影が宙を舞っている。

 シュタッと着地したツキノワ。その右前足のツメには黒い布がひっかかっている。

 田島さんは、玄関前で尻餅をついていた。

 黒のワンピースは腰の部分で大きく切り裂かれ、レースが付いた白のショーツとお腹が覗いてる。

 そして、腰に付いていたポケットも大きく切り裂かれていた。

 ポケットからコロンと軽い音を立てて、小さな透明のプラスチックケースが転がり落ちる。そのケースから香水の臭いが漂っているのは、牙をむいて彼女を威嚇するツキノワの嗅覚を共有しなくても、すぐに分かった。

「な、何なの!?一体どうしたのよ?」

 母さんが飛んできた。

 呆然とする俺と、体をかがめて攻撃態勢に入っているツキノワと、軽蔑する目で彼女を見下ろす紗理奈と、肩を小刻みに震わせて泣いている田島さん。何も語らない四者の姿を見れば、説明が無くても母さんには大まかな所を理解できたろう。

 ツカツカと田島さんに詰め寄る紗理奈は、淡々とした口調で話し出す。

「あてが外れて困ったでしょ?大掃除済みのこの家には、ツキノワの毛が一本も落ちてないんだから。残っていたのは、わざとトイレ前に置いていたブラシとタオルについた毛だけよ」

 紗理奈はポケットからブラシを取り出す。ツキノワの毛が今も付くブラシだ。

「ブラシとタオルの毛を全部取らず、ばれない程度に残したつもりだったんでしょうけどね、ざぁんねんだったわねぇ…ブラシとタオルには念入りに香水をつけておいたの。触っただけで臭いが付くくらい、ね!」

 田島さんは、何も言い返さない。何も言えない。

 露わになったショーツやお腹を隠すことも出来ず、ただ玄関前で座り込んでた。

 



     ラブレター  前編  終





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