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ツキノワ  作者: デブ猫
2/8

2 思い出話

 薄暗い、広い会議室。

 窓はブラインドが閉じられ、夏の焼き付く日差しを遮断する。

 中央には巨大な楕円形のテーブルがあり、背広の老人や白衣を着た女性など、何人もの男女が着席している。ある者は腕組みし、ある者はタバコをすいながら、白い壁面に投影される映像を見ていた。天井に取り付けられたプロジェクターから壁一面を使った映像は白黒で、迷彩服を着た男が映っていた。

 どこか薄暗い森の中、迷彩服に身を包み、ヘルメットを被り、自動小銃を肩に担いだ数人の男性がいる。彼等のヘルメットには暗視スコープ、横に小型カメラが取り付けられていた。投影される映像自体もヘルメットのカメラからの映像だろう。細かく上下し、撮影者がリュックを担ごうとする手や、靴ひもを結び直す足が映る。準備が整ったらしく、映像に映る全隊員が立ち上がり、頷き合う。そこで映像が一旦停止され、画面横にスーツの男が立った。

「これが今回行われたミッションの実行部隊です。現地時刻で朝四時、夜明け三十分前。これから彼等は目的ポイントへスニーキングを開始します。

 ポイントまでの道中、トラップの類はなく、誰との接触もなく現場へ到達しました。そこまでの映像は早送りしまして、次です」

 男性が持つ指示棒の先では、隊員達が夜も明けぬ暗い森を駆け抜ける姿が高速で早送りされている。自動小銃は肩に担いだまま、リュックを担いだ隊員達が、身を屈めて森が広がる山の斜面を下っていく。そして高感度カメラの白黒映像は白く輝く。同時に早送りは通常再生速度へ戻される。

 感度を落としていくカメラの映像は、町を見下ろしていた。町並みの向こう、空と大地の境界線が、うっすらと白く輝いている。夜明けが近いのだろう。僅かな光に浮かぶ町は、広大な山林を北に持つ、田んぼや畑も多い田舎町のようだ。隊員は山の中腹に体を伏せている。

 カメラが下を向く。そこには田畑に囲まれた日本家屋が建っていた。広い真四角の敷地に立つ家は、割と大きく立派な日本家屋だ。敷地は2mくらいの高い塀に囲まれ、がっしりとした門構えは乗用車が楽に通れるほど幅広い。

「これがターゲットの家です。隊員達はここを含め数カ所に同時刻に到着。次の行動を開始しました」

 指示棒の先では、隊員の手が下ろしたリュックのチャックを開ける。そこから取り出したのは、緑色のネットにプラスチック製の葉っぱを取り付けた、小型カメラだ。更に取り出したカメラのバッテリーやセンサー類を確認し、全部をネットの中に包み込んで、藪の中に置く。その瞬間からカメラは森の一部と化したかのように、茂みの中に溶け込んで見分けが付かない。そしてカメラの向きを調整し、最後に電源ボタンを押そうと右手人差し指が伸びる。


『あんた、何やってんの?』

『ッ!』


 いきなり画面に緊張感の無い声が飛んできた。撮影している隊員の指が硬直する。息をのむ音がする。画面が左右に振られる。だが映るのは森の木々と眼下の街並みばかり。他に人影は見えない。

『上だよ、上』

 画面が慌てて上を向く。そこには、太い木の枝に腰掛ける人物がいた。夏の朝日が差す森の中、ジーンズにTシャツ姿の高校生くらいの少年が見下ろしてくる。額に大きな傷痕が縦に走る少年が、白い目で。

 慌てて逃げようと立ち上がった隊員だったが、その目の前に彼は飛び降りた。ジロジロと隊員を上から下まで観察する。そして肩から担いだ自動小銃の方へと向く。

『…サバゲー?』

『えと、はぁ…そうです』

 画面がぎこちなく上下した。同じく上下する少年の白い目が、ますますもって冷たくなる。

『その言い訳したの、あんたで三人目だよ』

 言いながら少年は右手を差し出してくる。カメラは彼の手の平を写したまま、しばし止まる。

『出せよ』

『…え?』

 隊員が間抜けな声で聞き返す。

『あんたの名刺。記者か学者なんだろ。バイトか?なけりゃ免許証でいい』

『め、名刺って…』

『俺の名前は聞くまでもないだろ。沢渡浩介。あんたが特ダネ映像撮ろうとしてるツキノワの飼い主だ』

『い、いえ、僕は、そんな…』

『ちなみに』  

 少年はいきなり森の方を向く。日本家屋を見下ろす山の中腹、木々の合間を指さしていく。

『あそこの岩の影と、背の高い木の下と、竹藪の真ん中。あんたを入れて、全部で四人だね』

 画面が大きく揺れた。撮影者の動揺がそのまま現れている。そして映像を見ている人々も、既に頭を抱えて目を覆っている。

『な!なんで分かるんだ!』

『わかるわいっ!俺ンちを盗撮しようとするヤツが、みーんな同じポイントに来るからだよ!』

『っぐぐ!』

『ほれ、携帯で他の連中にも伝えなよ。バレてるってな。ここはギリギリ圏外じゃないから安心しな。

 それと、俺の家から望遠カメラで俺とあんた達の姿は撮影してるぜ。俺の家を盗撮出来る場所って事は、俺の家からも見えてる場所ってことなんだから』

 ガックリと肩を落とし大きな溜め息をついた隊員こと盗撮未遂犯は、うつむいてポケットから携帯電話を取り出した。




   2 思い出話





「もういい!止めろ!」

 老人の命令が会議室に響く。プロジェクターが止められ、部屋の照明が点く。窓からは駆動音と共にブラインドが上がっていく。

 光に照らされたのは、忌々しげにタバコを灰皿へ押しつける小太りで白髪の老人。その隣には秘書らしき女性。老人の正面には白衣の中年女性。その他スーツ姿の男達も楕円形のテーブルを囲んでいる。

 映像を解説していた男へ向けて、老人が不機嫌を隠さずに言葉を投げつけた。

「ヤツらから我々がばれることは無いだろうな?」

 聞かれた男はハンカチで冷や汗を拭きながら答えた。

「彼等への依頼は全てネット経由です。直接の面識は全くなく、装備品も彼等自身で揃えさせました。大丈夫です」

 老人は、ふんっとつまらなそうにたるんだ頬を振るわす。そして更に疑問を投げつけた。

「あの小僧、沢渡浩介と言ったか…あいつは明らかに待ち伏せしていた。どうしてヤツにばれたのだ?」

 これに答えたのは解説の男性ではなく、老人の正面に座っていた白衣の女性だった。銀縁のメガネをクイッと上げつつ、ノートパソコンのキーボードを軽やかに叩きながら淡々と語り出す。

「猫の鼻は、他の動物に比べてそれほど優れているわけでもありませんが、それでもヒトと比べれば数万から数十万倍。

 そして、耳。ネコの五感で最も優れているのは聴覚です。イヌに比べて高音域に強く、尖った耳は片方ずつ別々に動かすことができ、異なる方向の音を聞き分けることができます。そのため指向性が強く、音源の場所をかなり正確に特定することができるのです。音の聞き分けの能力も高く、これらの能力は、夜間に待ち伏せ型の狩りをするために発達したとされます。

 このため、もしツキノワという猫が警察犬並の知能と従順さを持つなら、秘密裏の盗撮も捕獲も困難でしょう。ほとんどの罠も隠しカメラも見抜かれて、飼い主に片付けられたでしょうね」

 この予測に白髪の老人は苦々しい顔のまま頷いた。

「つまり、ツキノワが中間報告書通りの猫であり、その商品価値も学術的価値も計り知れないという証明がなされたわけか。ライオン以外のネコ科の生物が、群れを維持する行動を取る…興味深いな。

 今回の中間報告書が公表されれば、世界に一大センセーションを巻き起こすぞ」

「まだ研究中の段階ですが、そのインパクトは大です」

 老人は目の前に座る白衣の女性を見る。メガネの向こうに見える鋭い視線は、相変わらず老人ではなくノートパソコンのモニターを注視している。

「それで、えと、はる、はるはら…」

 目の前の女性の名を思い出せない老人に、隣の秘書が耳打ちしようとする前に女性の方が口を開いた。

「すのはら、です」

 名を忘れられた女性は、特に気にするでもなく冷静に名乗る。

「そ、そうだった。失礼した、春原所長」

 名を呼ばれ、ようやく女性は視線を老人へ向けた。軽くカールをかけて茶色く染めた髪が、細い肩の上を滑る。

「DNAの解読は進んでいるのかね?」

 聞かれた女性は老人の目を真っ直ぐに見据えながら答えた。

「現在、解読に取りかかったばかりです。ヒトゲノム計画すら十年以上かかったのです。少なくとも数年はかかるとご理解下さい」

 数年、という単語を聞いた老人は喉の肉を激しく振るわせる。

「た、たかが猫一匹の遺伝子に!いったい、どれだけ時間をかける気かね?」

 詰問してくる老人に対し、知性をにじませる白衣の女性が冷静に答えた。

「確かに、ヒトゲノム計画が米国エネルギー省と厚生省により発足した1990年代に比べ、解読技術は格段の進歩を遂げてます。ですが、同時にヒトゲノムは政府民間を問わず国際的協力のもとで行われました。そのヒトゲノムすら、現在でも解読エラーのチェックが続いています。

 猫のゲノム計画に至っては、現在も進行中。ましてツキノワDNAについては国際的協力体制が確立していません。日本では、この築島大学生命科学研究所を中心とした国内の研究機関だけで解読にあたっているのです。相応の時間がかかる事を覚悟して頂かないと困ります。

 会長。この点についてはツキノワの体毛を入手した時点でご説明したと記憶しておりますが?」

 会長と呼ばれた老人は、一瞬答えに詰まってしまった。そして再びタバコに火をつけてくわえる。

 ふぅっと煙を吐き出した後、天井を見上げながら隣の秘書に何事かを呟いた。秘書は自分のノートパソコンを開く。再び部屋の照明が消され、ブラインドが下りる。正面の壁に別の映像が投影された。

 そこには、狭い庭を持つ古ぼけた平屋があった。その家の門前で報道陣に囲まれる中年男性のVTR。男性は突きつけられるマイクの山に、冷や汗をかきながらも堂々と記者達の質問に答えている。



『それでは、沢渡博さん。貴方のお宅で飼ってらっしゃるツキノワという猫を公に発表する気は無い、とおしゃられるのですか?』

『無いです』

 報道陣からはどよめきが湧き起こる。別の記者が興奮した口調でさらにマイクを突きつける。

『ですが、お宅の猫は話によると、新種の猫だと言われています。これを一個人が独占して良いのか、という意見がありますが、これについて、どうお考えですか』

『あなたは、もし自分の子供が新種の人類として生まれたら、モルモットとして売り物にするのですか?』

 憮然として答える父親の姿。だが記者は怯む様子はない。また別の記者が質問を繰り出してくる。

『ペットを家族として扱うのはご立派ですが、科学や社会の発展に貢献するという姿勢も大事ではないでしょうか!』

『娘と息子の命の恩人、いや恩猫を大事に想い守るのは立派じゃない、とおっしゃるわけですか?』

『で、ですが、何もお宅の猫の命を奪うわけでは無いのですから、少々の生物学的データを採取するくらいは良いのでは?』

『家族全員で決めた事です。他人が口出しすべき事ではありません』

 対する父も引き下がらない。両者の立場は平行線を辿っている事、明らかだった。

 さらに後ろから、若い女性レポーターが強引にマイクを差し込んできた。

『あ、あの!一般視聴者からは、是非ツキノワちゃんの姿が見たいという要望が沢山来ているのです!どうか、姿だけでも見せてはもらえませんか?』

 その言葉に他の記者やレポーターも、是非是非、それくらいはいいでしょうが!という声が起きる。だが浩介の父、博は肩をすくめて首を振った。

『無理ですね』

『ど、どうしてでしょうか!ちょっとだけで良いんです!せめて、とっても可愛くて賢くて勇敢なネコちゃんの姿だけでも見せて下さい!』

 おろらくはお昼の芸能番組らしく、一般視聴者の感情を代弁するかのような言葉を並べ立てる。だが、それを投げかけられる人物の感情は代弁していなかった。そしてその立場も。

『いや、無理ですよ。不可能なんです』

『で、ですから、そこをなんとか!』

『なんとかって言われてもねぇ…』

 沢渡氏は、ぶっきらぼうに語った。ツキノワが記者達の前に出れない理由を。

『逃げましたよ、ツキノワ』

『…はぁ?』

 突っ込んできた女性レポーターだけでなく、その場にいる全記者とカメラマンが彼の言葉に唖然とした。

『だから、逃げたんです。どっかに』

 一瞬の沈黙。そして人々は無秩序に叫びだした。

『に、逃げたって!』『そんな、無責任な!』『飼い主の自覚があるんですか?』『もしどこかで不慮の事故にでもあったら、あなたはどうやって責任を取る気ですか!』『誰か悪い人に掴まりでもしたら…』

 報道陣は口々に飼い主の管理不行き届きを責め立てる。だが、渦中の男は毅然として言葉を続けた。

『我が家のツキノワも、基本は猫です。鎖につないでるわけじゃないんです。こんな大勢の人がフラッシュをたきながら押し寄せれば逃げるに決まってます』

 その当たり前な理由に、興奮していた記者達も答えに詰まる。

『どこへ逃げたかは知りません。この町の誰かに匿われてるか、五月山国定公園に隠れてるか…。随分と猫離れした性格でしたから、ぶらりと旅に出たという可能性もあるでしょうね』

 それだけ言うと、男は報道陣に背を向けて家の敷地に戻ろうとする。

『ちょ、ちょっと待って下さい!いつ帰ってくるんですか?』

『報道の方がいる間は帰ってこないと思いますよ』

 皮肉を込めた言葉。それでも報道陣は動じず、しつこく呼び止める。沢渡は肩越しに振り返って、一方的に話を続けた。

『言っておきますが、あなた方も知っての通り、うちのツキノワは凄く賢いんです。おまけに、この騒ぎで知らない人を怖がるようになってしまいました。皆さんは多分、町も森も探し回ると思います。ですが、決して誰にも掴まる事はない、と私は確信しています』 

 そして沢渡家の主は門を閉め、家の中に入っていった。その後、何度インターホンを押そうと塀の外から呼びかけようと、何も答えはなかった。ほどなくしてやってきた警官達に、報道陣は退散させられた。



 ここでVTRは終了した。再び証明が点けられブラインドも光を通す。

 今度は会長と呼ばれた小太り老人の横に座る秘書の女性が解説しだした。

「…この沢渡氏の言葉通り、ツキノワ発見の報道はありません。様々な記者、研究機関、一攫千金目当ての一般人が五月山公園を探し回りましたが、捕獲の情報はありません」

 今まで黙って報告を受けていたスーツの男性の一人が口を開いた。

「飼い主を追えばいいんじゃないのか?」

「いえ、それは誰しも行ったそうです。表に裏に陰に日向に、沢渡家の人々を追跡したのです。ですが、誰も発見には至っていません」

「既に誰かが捕獲して、秘密裏に持ち去られた可能性は?」

 その言葉に、秘書は首を捻って考え込んでしまう。秘書に代わって答えたのは白衣の女性。あくまで淡々と予測を口にした。

「それはないでしょう。でなければ、未だに自宅を監視しようとする連中を待ち伏せる事は出来ません。また、盗撮者を捕まえる必要もありません。ツキノワは沢渡家に現在も飼われ、ネコを追う者の存在を飼い主達に伝えているのでしょう」

「犬で追えないのか?」

「木に登り枝を渡られたら終わりです。犬は木登り出来ません」

 当然すぎる回答を丁寧に答えた春原へ、尋ねたスーツの男は鋭い視線を向ける。そんな刺すような視線にも、白衣をまとう春原は理知的な姿勢を崩しはしない。

 ちっ…と舌打ちした男は、話を変える事にした。

「ところで、さっきの二つの映像に出てきた沢渡家だけど、家が違うようだが?」

 前方で立ったままだった男が、デスクに置かれたプロジェクターのコントローラーを捜査した。照明が少し落とされ、山の麓に庭を広げる立派な日本家屋と、狭い庭を持つ古ぼけた平屋が並んで映し出された。

 二つの家を指示棒で指し示しながら、再び前方の男性が解説をし始めた。

「古い平屋から、こちらの邸宅へ引っ越したのです。元は建設会社社長宅だったそうですが、空き家になっていたのを購入したのです」

 その言葉を聞いたとたんにデスクに座るスーツ姿の人々が、随分と羽振りが良くなったじゃないか、羨ましい話だ、どこからこんな大金を手に入れたんだ、という嫉妬混じりの疑問が湧き出す。

 指示棒を持った男は話を続けた。

「はい、実はですね、この平屋を購入したのですよ。この築島大学を中心とした研究機関が共同出資で、です」

 今度は、随分と高値で買ったんだな、なんでもっと値切らないんだ、というブーイングじみた声が起きる。

 解説の男性は言いにくそうに話を続ける。

「はぁ…こちらとしても、もっと値切りたかったんです。なにしろ、購入価格は評価額の十倍以上でしたから」

 ぶっ、と吹き出す音がした。抗議の声を上げていた男性達ではない。くわえていたタバコを吹き出した会長だった。

「お、お前等!ウチの金を!だから学者連中に商売をやらすのは!」

 興奮する老人を隣の秘書が必死でなだめる。解説の男性も冷や汗をダラダラと流しながら説明を続けた。

「で、ですから本来はもっと安値で購入する予定でした。ですが、我々より先に購入の交渉に入っていた機関があったのです。こちらで確認できただけでも、米国のセノラ・ジェノミクス社、フェイザー製薬等です。いずれも目的は私共と同じく、ツキノワの体毛、糞、体液等の採取。

 私共は与党はもとより文部科学省や経済産業省へ、バイオで海外との差を広げられる懸念を直訴しました。その上でネコゲノム計画に参加していた、わが大学を中心とした共同購入を提案したのです。

 沢渡博氏は、政府からのツキノワ研究協力要請に対し、この平屋を売却する事で妥協したのです。この家をツキノワの生体標本付きで売却する代わりに、ツキノワ個体へ手出しをするな、と」

 その説明でも男達が納得した様子はない。全く学者は商売が下手だとか、常識を知らないとか、文句を小声で、しかし聞こえるように囁きあう。

 流れる冷や汗を拭きつつ、彼は解説を続ける。

「確かに当研究所としても血の出るような判断でしたが、その甲斐はあったものと確信しています。

 体毛とか手に入ればクローンが作れます。他の研究機関へ正当な協力金と引き替えで採取した毛を渡す事についても、飼い主から同意を得てます。既に主立った研究機関には採取した毛を一本ずつ売ってます。これだけでも相応の金額になりましたから、損は無いでしょう。

 それに、今回の中間報告書を見れば、決して高い買い物では無かった事をご理解頂けると思います」

 その言葉に、文句を言っていた者達からも「確かに、な…」「これが真実だとすれば、金銭の問題ではないぞ」という賛同の声がわく。会長も改めて秘書が表示させるウィンドウをみやる。そこにはツキノワの体毛などを分析した結果が表示されていた。

 解説の男性は更に口を開く。

「ツキノワブームも去りましたから、マスコミも野次馬も既にいません。なので、まだツキノワ本体を追っているのは、我々のようにネコゲノム計画に参加していたり、以前からネコをテーマとして扱っていた研究機関。残りはコレクター、小銭目当てのブローカーなど、一般人が少々ですね。

 今後の研究には、やはり沢渡家の協力が欠かせません。なので、静かになった今の方が交渉しやすいでしょう」

 春原所長のメガネがキラリと光を放つ。

「今は静かでしょう。ですが、この中間報告書を発表した後も、まだ静かなままでしょうか?」

「そう、そこが問題です。ですので、この中間報告書の取り扱い、特に発表時期や内容について論じねばなりません。我々としては、他の研究機関に先を越される事だけは避けたいのです」

 ようやく本来の議題に入れた解説者は、指示棒で自分の肩を叩く。聞いていた会長や男性達も、それぞれに小声で囁き何事か相談する。秘書は席を立ち、出席者達に香りの良い日本茶を注いでまわった。

 そんな中、春原所長は相変わらず自分のノートパソコンを見つめ続ける。お茶が自分の前に置かれても、全く反応しない。茶を置いた秘書が去り際にチラリとモニターを横目で見た。

 そこには、サバイバルゲームをしているフリをして監視カメラを取り付けようとしたバイト連中を平謝りさせる沢渡浩介の姿があった。研究者らしく白衣に身を包んだ彼女は、じっと浩介を見つめている。


 その時、会議室の扉が荒々しくノックされた。

 入ってきたのは重役らしき貫禄ある男性。だが、重役らしくなく大慌てで会議室に駆け込んできた。

「た、大変です!今、アメリカで、セノラ・ジェノミクス社とフェイザー製薬が!」

 息を切らせた重役は、慌てて秘書が差し出したお茶を一気飲みする。ちょっと咳き込んだ後、ようやく落ち着いた男は、大声で報告を告げた。

 この会議室にいる全員を驚かせ、不吉な予感に取り憑かせる報告を。





 陽光が差し込む日本家屋の広い居間。

 クーラーの冷気が満ちる部屋の壁掛けテレビがニュースを流していた。

『・・・アメリカ、メリーランド州とオハイオ州で連続した爆発は、セノラ・ジェノミクス社とフェイザー製薬の研究施設を狙ったものとの見方が強まり、アメリカ連邦捜査局、通称FBIでは同一組織によるテロ行為と・・・』

 紗理奈の小さな手がコントローラーをポチッと押し、チャンネルを変える。

「つまんないニュースばっかねー」

 一通り昼の番組に目を通すと、TVを消した。

「あ〜あ、マスコミも野次馬も消えて夏休みに入ったのはいいけど、代わりに退屈になっちゃうんだもんなぁ」

 そう呟くと、相変わらず小柄な少女は畳の上に大の字で寝転がる。白いTシャツにキュロットスカートの裾から細い手足が一杯に伸びる。

 しばらくすると、静かな寝息を立て始めた。そして、それを見計らったかのように、居間のフスマが静かに少し開いた。隙間から黒い四足歩行動物が顔を覗かせる。居間で昼寝をする少女をジッと見つめる。

 眠りについているのを確認したソレは、音もなく少女に近付き、その細い体に鼻をくっつけて臭いを嗅ぐ。

 そして、お腹の上に乗った。

 紗理奈の小学生のように小さな体の上に乗る、ネコとしてはかなり大きなツキノワ。なんだかはみ出しそうな黒い体をバランス良く位置を取り、座った。紗理奈の顔に尻を向けて。大きな体に相応しい、長くてフワフワの尻尾が飼い主の顎や鼻を何度も往復してくすぐる。

 う〜ん…うぅ〜ん…と、うなされている人間を気にする様子もなく、さらにくつろぐツキノワは、ゆったりと体を伸ばしだす。

  《・・・ツキノワ》

 黒猫の頭に声が響いた。

  《…ん〜…なぁに…こうすけ…くん…》

 答えるネコの頭は、半分寝ていた。

  《お前、何で人の体の上で寝るんだ?》

  《だって…気持ちいい、から…》

  《お前ねぇ》

  《ごめん、眠い…おやすみぃ…》

  《ま、いいけどな。おやすみ》

 呆れた浩介の声を最後に、人とネコの通信は途切れた。そしてツキノワもすぅすぅと寝息を立て始める。が、女の子の寝息は既に止まっていた。とっても冷たい目がお腹の上のネコを睨んでいる。

「・・・重いのよぉっ!」

 飛び起きた紗理奈に怒鳴られ、慌てて逃げ出すツキノワだった。



 真夏の太陽に歩道を走る二人の姿が揺れる。

 後ろを走る人影、浩介は汗に濡れた顔を手で覆う。

「あ〜あ、ハァッ、やっぱり、怒られた」

 国定公園の山を右手に見ながら、走り続ける彼は再び呆れて呟く。

 前を走る長身の男が振り返った。

「なんか言うたか?」

「あ、いや、何でもない。ハァフゥ、独り言」

「そか、随分余裕あんな」

「そうでも、ないぜ、ハァヒィ」

 炎天下の下、息を切らせてジョギングをする浩介。その前を筋肉質の大男、にも関わらず高校一年生の村主が涼しい顔で走っていた。

「いや、随分とマシになったで。春からずっとトレーニングしてんねんから、相当に体力ついたやろ」

「へへ、ま、お前には負ける、けど、ハァハァ…」

 春の紗理奈誘拐事件以来、浩介は村主と一緒に体を鍛えていた。今日もトレーニングに励んでいる。といっても、元々が帰宅部のだらけた体。最初は腕立て伏せもろくに出来ない有様だった。夏休みに入った今でもジョギングだけで息が切れる。

「マンガみたいに、ヒィフゥ、修行したら、あっという間に、パワーアップぅ…とは、いかねえんだなぁ、ハァハァ」

「当たり前や」

 素っ気ない村主の突っ込みに少しへこんだ浩介の前に、ようやくゴールの沢渡邸が見えてきた。



 縁側に腰を降ろして肩で息をする浩介と、広い庭でストレッチをしている村主。体力に雲泥の差がある二人だが、Tシャツと紺のジャージが汗で濡れているのに変わりない。よく冷えたスポーツ飲料のペットボトルを両手に持った紗理奈が、縁側へやって来た。ツキノワも足下についてくる。

「二人とも、おっ疲れさまー。ほい、水分補給」

 ヒョイと目の前に出されたボトルをひったくった浩介は、一気にラッパ飲みした。

「ぶぅっはー!あー、生き返った」

 村主も受け取り、音を立てて飲み干す。そして、まだヘロヘロな浩介にニッコリと意地悪く微笑んだ。

「ふぅ〜、そんじゃ、休憩終わり!」

「えー?」

「文句言うなや。ほれ、今日も正拳突きからはじめンで」

 村主の力強い手に引っ張られ、浩介は強引に庭の真ん中へ連れてこられる。そして、見事に安定した足腰が生み出す拳で大気を貫く空手家の横で、情けない弱々しさのパンチらしきものを繰り返す。

 そんな様子を縁側に腰掛ける紗理奈が冷やかし混じりに応援する。その横でツキノワは昼寝していた。



「ンじゃ、次は明後日なー」

「またねー、次も兄貴をビシバシしごいてねー」

「な、夏休みだからって、朝から来るのは勘弁しろよな…」

 いい汗をかいて清々しい顔の村主を、涼しい顔の紗理奈と死にそうな顔の浩介が見送る沢渡家の勝手口。その村主が頭を屈めて扉を開けた時、丁度インターホンを押そうとしていた同級生達の姿を見つけた。

「おぅ、尾野に篠山やんけ」

「あら、こんちわー!直人は今帰り?」

「あ、村主君、こんにちわ」

 そこにいたのは白いワンピースにツバの広い帽子を被った尾野由奈と、ショートジーンズにピンク地のTシャツと野球帽を被った篠山朱美だ。

「お前等もツキノワ目当てやな?」

 ストレートに言われた二人は「えへへへ…」とモジモジして照れる。村主の鋭い目がチラリと浩介の方を向く。その浩介は家の北へ顔を向ける。何かと思って勝手口をくぐった来客二人に、紗理奈も浩介の視線の先を覗き込む。

 視線の先には大きな黒猫がいた。2mはある沢渡邸の高い塀の上に立つツキノワが、チラリと勝手口にいる二人と視線を合わせる。そしてすぐに塀の外へ、沢渡家に隣接している五月山国定公園の大森林へと姿を消した。

「はうぅ…また逃げられたぁ」

 尾野は肩を落として溜め息。

「ちょっと!ニャオ!あんたからツキノワになんか言ってやってよ!」

「いや、なんとかって」

「なーんで直人には平気で、私達だと未だに逃げるのよ!」

 いきなり詰め寄られて浩介も再び汗をかいてしまう。

「だって、村主にはマスコミが消えるまでご飯とか寝床とか世話になってたしな」

「わ、私だって頼まれればそれくらいやったわよ!それに、もうカメラ持ってきてもいないんだから!」

「だから、今、ちょっとだけ顔をみせてくれたろ?大進歩じゃないか。春から今までは後ろも見ずに逃げたんだから」

「だ、だからそうじゃなくて!もっとこう、近くに来て、撫でたりとかさぁ」

 ツキノワからの信用が得られない理由については口にせず、ひたすら待遇改善要求をする篠山。その後ろでしょんぼりする由奈に、村主がコッソリ耳打ちした。

「尾野が一人でくれば、きっとツキノワ会ってくれるで」

 その言葉に少女はパァッと表情が明るくなり、村主の顔を見上げる。

「尾野はツキノワをカメラで追い回した事は無いしな。今度、俺からも浩介とツキノワに頼んどくわ」

「う、うん…その、あの…お願い、できるかな?」

「ああ。明後日の昼にでも来ぃや」

 由奈は、未だに浩介へツキノワに会わせろーっと訴える朱美をチラリと見る。そして顔の前で小さく手を合わせて頭を下げた。

「お願いね、村主君」

「お、おう」

 ぎこちなく答えた村主は、ぎこちない動きで勝手口を出て行った。そして扉を閉めて周囲に誰もいないのを確認してから、力一杯ガッツポーズをした。



「へっへーん!どうよ、これ!」

 自慢げに沢渡邸のリビングへ入ってきたのは、小型カメラと暗視スコープ付きヘルメットを頭に被った朱美。

「やだ、しのちゃんヘンなの」

「朱美ちゃん、そういうの好きだねー」

「いやー、こういうの欲しかったのよぉ。やっぱアレよ、特ダネを狙うジャーナリストにスニーキングミッションは避けられないのよ!」

 嬉しげにスコープを装着する篠山の姿に、尾野も紗理奈も半ば呆れつつ笑っていた。

「そんでさ!そんでさ!コレ、ホントにもらっちゃっていいの?」

「いいよ。兄貴がこの前、覗き屋共を見逃す代わりに幾つもせしめたから。以前からネコ用の罠とか隠しカメラとか回収してて、沢山あるの。一つくらい構わないよ」

「うわあ。よかったね、しのちゃん」

「由奈ちゃんもいる?コレ」

 と言って紗理奈が押し入れから引っ張り出してきたのは自動小銃…のエアガン。

「…いらない」

 尾野は心底いらないらしかった。


 そんな女の子達のかしましい声は、沢渡家の塀の外にいる黒猫には聞こえていた。沢渡家のリビングに向けられた二つの三角耳が声を拾い続けている。沢渡邸のすぐ近くに立つ大木の枝に座るツキノワの頭には浩介の声が響く。

  《そろそろ、篠山のヤツも許してやろうか?》

  《ダメ》

 可愛い猫の声でも答えは厳しかった。ベッドに寝ている浩介が、部屋の窓から外を見ると、遠い木の上にいるツキノワの姿が見えた。

  《いくらなんでも、もうお前をネタにする気はないだろ》

  《そうは思うけどね。でも、それを言いだしたら、紗理奈ちゃんの友達とか、お父さんやお母さんの友達とか…きりがなくなるんだもん》

  《まぁ、なぁ》

 それは浩介も分かっている事だ。ツキノワを見たいという人は後を絶たない。会う人間が増えれば増えるほど、ツキノワの危険も増す。冷たいようでも厳しく対応しないといけない。

  《やれやれ、お前の方がしっかり考えてるんだな》

  《自分の人生だもん。真面目に考えないと》

  《ネコのお前が真面目に考えて、人間の俺が全然考えてないんだもんなぁ》

 浩介は、さすがにプライドが傷ついた気がした。

  《あ、でも、由奈ちゃんには久しぶりに会いたいな。あの人、すっごく優しく撫でてくれるから好きなんだ。僕みたいな大きなネコが膝に乗っても嫌がらないでいてくれるし》

 言われて浩介は想像する。白いワンピースを着た尾野由奈が縁側に座り、その膝の上にツキノワが寝る姿を。そして、ツキノワの触覚を通じて、女の子の太ももの上に寝転がる感覚が…。

  《Hだね》

  《おう、男だからな!》

  《ま、僕も男だし。でも、紗理奈ちゃんの上に寝た時は、何にも言わなかったね》

  《…妹に何を感じろっちゅーんだ。第一、あいつペッタンコだろ》

  《確かにねー。ま、いいか。でも、あんまりそういうのに僕を使わないでよ》

  《わーってるって。で、でも、ちょっとだけ、な、な!》

 青春まっただ中の浩介。その心は健全な十代男子そのもの。そして1階にいる健全な女の子から、「兄貴ぃー、この前ゲットしたカメラとか持ってきてよー」なんて声が響いてくる。兄は面倒臭そうに押し入れから小型カメラを引っ張り出して1階へ下りていった。

 

 そんな話をしていると、家の門が重々しい音と共に開く音がする。樹上のツキノワが門の方を見ると、軽自動車が入ってくるところだ。

  《お、母さん買い物から帰ってきた》

  《今日は何かなー?お刺身だといいなー》

 浩介の頭に、舌なめずりするネコの舌の感覚も届いてくる。





 次の日、午前。

 名香野第一中学校の体育館では、女子バトミントン部員が部活をしていた。ネット越しにダブルスでラリーが続いてたり、ネットやシャトルの手入れをしている。

「はーい、ここまで!あがりよー。お疲れ様」

 お疲れ様ー、ネット丸めるよー、という黄色い声が館内に響く。ポールを引き抜いたりシャトルを拾ってまわる部員達。

 一通り片付けてスポーツ飲料を美味しそうに飲む紗理奈に、タオルで汗を拭く他の部員達が寄ってきた。

「ねーねー!今日さ、これから紗理奈ちゃんちに行って良い?」

「ダーメ」

 即答する紗理奈に、女の子達は頬を膨らませる。

「もー!なんでよー」

「まだ沢渡さんの新しい家、行った事無いのよ?」

「いい加減、遊びに行ってもいいじゃないー」

 抗議する部員達へ、腰に手を当てた紗理奈が胸を張って言い返す。

「ツキノワが怖がるから、ダメ!」

 少女達は口々に、え〜いいじゃないのぉ〜、友達よりネコの方が大事だっていうわけ?久々にツキノワちゃん見たいわ、とか文句を言う。それでも紗理奈は頑として意思を曲げなかった。

「だって、ツキノワはあたしの命の恩人よ。そのツキノワが知らない人を怖いっていうなら、そりゃダメよ」

「も〜、そんなコト言うと、いい男紹介してあげないわよ」

「いらないわよ」 

 紗理奈はプイッとそっぽを向く。さすがに他の女の子達も、その態度に少し腹が立ってきた。

「何よ、やせ我慢しちゃって!あんた、彼氏いないでしょうが」

「ふーんだ!あたしはそこら辺の情けない男なんか、興味ないわ」

「へ〜、じゃぁどんなのが好みなのよ」

「え?好みって…」

 少し首を傾げて考える。あたしって、どんな男が好みかな〜と。しばらくウンウン呻って、ようやく思いついた言葉を並べてみる。

「えっとねえ…まず賢くて、勇気があって、でも普段は静かで大人しくて…えと、それで、あたしが何か困ったことあ危ない目に遭ったら、すぐに駆けつけて助けてくれる人…かな?」

 聞かされてる女の子達は、微妙な顔を見合わせてしまう。

「…あんた、高望みしすぎ」

「そ、そう?でも、これくらいは当然だと思うけどなぁ」

 もう一人の女の子が、ポンと手を打った。

「あ、いるわ。紗理奈のすぐちかくに、そんなのが」

「え!だ、誰だれ?」

 紗理奈含めたその場の全員がググッと顔を近づける。その女の子は、軽い感じでその名を言った。

「ツキノワ」

 全員ガクッ。紗理奈が目をつり上げて叫んでしまう。

「ネコ相手にどうしろっての!」

「じょ、冗談よ。…でも、一人いるじゃない。そんな人が、紗理奈のすぐそばに」

「…誰よぉ?」

 ジト目で睨んでくる紗理奈に、やっぱり軽い感じで答えた。

「紗理奈の、おにーさん」

 紗理奈の目がパチクリと瞬きする。

 他のコ達は、言われてウンウン頷く。

「あー、なるほど。確かに誘拐犯から紗理奈を助け出したんだよね」

「何度か見かけた事あるけど、そんな凄い人には全然見えないよー。普通で大人しい感じの人だったよ」

「でも、警察を超える実力あるんだね。ツキノワちゃんを連れて、あっという間に犯人捕まえちゃったし。なんというか、動物使い?びーすとていまーってヤツ?」

「あ!それじゃ、紗理奈ってお兄さんのコトが好きなんだ!」

「うわ、ブラコンだ、キモ」

「でも、妹を命がけで助けに来てくれるなんて、素敵なお兄さんだよ」

「つーか、もしかして、紗理奈ちゃんのお兄さんこそ当たりかも…」

 口々に語られる自分の兄の話に、思わず目が点になってしまった。開いた口が塞がらない。

 そんな紗理奈へ向けて、改めて女の子達が頭を下げた。

「と、言うわけで、紗理奈のお兄さんを紹介してくれない?」

 ようやく我に返った紗理奈の叫び、怒りで体育館を振るわすほどだった。





「おいこらクソ兄貴」

「帰って来るなり何だ。つかノックしろ」

 昼過ぎに部活から帰ってきた紗理奈は、ノックも無しに浩介の部屋の扉を開ける。そして開口一番に机に向かっていた兄へ憎まれ口を叩いた。

「うるさいわね!バカ兄貴のせいで、あたしは余計な恥をかいたんだから!」

「なんだよ恥って」

「な、なんでもないわよ!」

 部屋の入り口で腕組みしながら仁王立ちする紗理奈に突然怒られて、浩介は何が何だかわからない。

「んで、何の用だよ」

「バイク乗せてってよ。ちょっと買い物行きたいの」

「自転車で行けばいいだろ」

「遠いからイヤ。原付買ったンだから、活用してよね」

 浩介は原付免許を取り、スクーターを買っていた。もちろん学校にはナイショ。

「…ま、暇だからいいぜ」

「さんきゅー。んじゃ、下で待ってるからね」

 そんなわけで、妹を後ろに乗せて数キロ西の駅前へ向かってスクーターで走り出した。出発前にはツキノワから《ホッケ!ホッケの開き!削り節も!マグロの刺身ぃ!》なんて叫びも飛んでくる。



  《さかなーさかなー!ちゃんと買ってよねー!》

「わーってるよ、ウルサイっての」

 浩介の頭の中には、相変わらずツキノワの魂の叫びが届いていた。特に鮮魚を並べる魚屋やスーパーの棚を見ると声が大きくなる。

「どしたの?」

 そんなネコのテレパシーに声を出して答えてしまった兄を、小柄な妹が不思議そうに見上げてくる。

「あ、いや、何でもない。独り言」

「ふ〜ん…。ねぇ、最近、独り言が多くない?」

「え…あ、ああ、そうかもな。最近は悩み事が多くなったから」

「ふぅん。ま、確かにね」

 紗理奈は不思議に思う事もなく、スポーツ用品店で新しいウェアを見比べはじめた。

「いくら急に大金が手に入ったからって、浮かれて使いまくったりするなよ」

「わかってるわよ。それに、あたしは別に大してお小遣いもらってないもん」

「そりゃそーだ」

 確かに前の家が高額で売れたおかげで沢渡家は突然金持ちの仲間入りをした。おかげでツキノワが隠れる五月山の隣で、マスコミや野次馬に家を覗かれない高い塀を持つ家も買えた。浩介もバイクを買えた。でも、浩介と紗理奈の月々のお小遣いが突然数倍に増えたりはしなかった。

「母さん、ケチね」

「そういうなよ。…でももうちょっと欲しいよな」

「だからってツキノワの毛とか写真とか売ろうなんて考えてないでしょうね…?」

「それはこっちのセリフだ」

 そんな話をしつつ、妹は新しいウェアを、兄はホッケの開きや削り節等を買い込んで駐輪場へ歩いていく。


 そんな二人の姿を見つめる目があった。


 路肩に止められた車の運転席に座る男と、助手席に座る女。見た目四十代くらい。二人はバイクに乗って商店街を去る兄妹の姿を観察していた。

「春原さん、追いますか?」

「いえ、いいわ。木村君、もう十分よ」

 助手席にいるのは春原所長。運転席にいるのは、築島大学の会議室で解説をしていた男性だった。

 木村と呼ばれた男は膝の上に置いていた小型ノートパソコンを開いた。

「沢渡浩介、一六歳。小立高校一年生。いたって健康で健全な、普通の男の子です。思想的にも素行的にも何も無し。四月の誘拐事件以外、本人には全く目立った所はありませんね。

 一緒にいたのは妹の沢渡紗理奈、十三歳。名香野第一中学二年生。バトミントン部所属でして、やっぱり健康で問題なし。ちょっと気が短くて怒りっぽいという程度です。普通の女の子ですよ。

 父は沢渡博。現在は大鳥病院の看護師です。男の看護師とは珍しいですね。それも、以前に築島大学医学部付属病院で働いてたそうです。僕の同期で沢渡博を覚えてるヤツがいましたよ。驚きました。

 そして母が沢渡薫。旧姓は大場薫。これも驚いた事に、元築島大学生命科学研究所の研究員でした。研究所でも何人か大場薫を知ってる人がいまして。…もしかして、所長とも面識があるんですか?」

 春原所長は茶色の髪を横に揺らした。

「無いわ。私がアメリカに渡った後に入ったようね。入れ違いだわ」

「そうですか…」

 木村は横目で女を観察する。助手席にぼんやりと座ったまま、沢渡兄妹が走り去った道路の先を見つめている。

 彼は少し迷ってから、おずおずと尋ねた。

「あの…まだツキノワの出所について調査を続けましょうか?これ以上は…その…」

「言いにくそうだわね」

 素っ気ない女の一言に、木村は少なからず動揺してしまう。

「あ、あの…いえ、すいません」

 申し訳なさそうに謝った木村を見る事もなく、春原はぼんやりと道路の先を見つめ続ける。

 しばらくして、ぼんやりとしたままの所長が口を開いた。

「この前の説明会、秘密にしてくれてありがとうね」

「いえ…それにしても、御厨の件、どうしたもんでしょうね。いつか必ず嗅ぎつけられてしまいますよ」

 感謝の言葉をもらった木村だが、ますます申し訳なさそうにして困ってしまう。そんな様子に気をかける様子はなく、春原は話を続けた。

「アポは取れた?」

「あ、はい、どうにか。ウチの大学で沢渡夫妻と面識のある人が話を通してくれました。今夜、僕が行ってきます」

「私も行くわ」

「え!で、でも、あの…」

「築島大学の生命科学研究所所長が自ら行って誠意を示さないと、沢渡家の協力は得られないわ」

「は、はぁ…」

 答える木村は、不安を隠しようも無かった。それでもいつも通りに車を発進させた。





 夕方の沢渡家、その居間に沢渡家の一同が机を囲んでいた。浩介と紗理奈の間にはツキノワも座っている。

「・・・というわけでな、俺の恩師で元上司だったヤツから頼まれて。どうしても会ってやってくれっていうんだ。断り切れなくってな」

 あぐらをかいて座る父が、誤魔化すように頭をボリボリとかく。その隣で母も申し訳なさそうにする。

「政府の、というか色んな省庁からも協力して欲しいってうるさいの。とにかく会うだけは会って欲しいって」

 聞かされている浩介も紗理奈も露骨にイヤそうな顔をする。

  《僕、イヤだからね》

 浩介の頭にそんな声が響いてくると同時に、ツキノワはトトト〜と縁側へ歩いていく。そして閉められた縁側の前でニャンっと鳴いた。

「ツキノワは会いたくないってさ」

 そういうと浩介も縁側へ行き、ガラス戸を開ける。むっとする夏の空気が流れてくると同時に黒猫は夕暮れの山に消えていった。

「あたしもイヤ」

 紗理奈も部屋を出て行く。階段をトタトタと上がっていく音が遠ざかる。

「俺は、いとこうか?」

 長男の申し出に親たちは首を横に振った。

「いや、俺たちで断っておくよ」

「今日は築島大学生命科学研究所の人が来るそうなの。母さんが昔、働いてた所だから。父さんは築島大の看護科出身で、その大学病院で働いていたわ。だから、父さんと母さんで話した方が早いと思うの」

「あ、そうだったんだ。えーっと、築島大学って、南の方にある大きな大学だよね」

「あ、いやいや。そっちは本校だ。医学部とか病院とか生命科学研究所とか、理系の施設は東の方の、ほら、ここから十キロくらいのところにある、でっかい施設だ。以前、バスの窓から見たろ?」

「へー、知らなかったな。んじゃ、父さんと母さん、その大学で知り合った?」

「おう!その通りだ。その時の母さんは、そりゃあもう生意気でな!」

 と、両親の出逢いから話そうとしだす父の脇腹を母が肘でつつく。我に返った父親は慌てて咳払い。

「ぅおっほん!ま、まぁそういうワケだ。お前も紗理奈も部屋で待っててくれ。俺たちが話をつけるから」

「わかった。任せるよ」

 そういって浩介も部屋を出て、二階の自分の部屋へ行く。ベッドに寝転がり、頭の中で語りかけた。

  《ツキノワ》

  《分かってる。ここなら部屋の声が聞こえるよ》

 ツキノワの視界へ意識を移すと、家の近くの樹上から見下ろされた沢渡家の居間が見えている。三角の耳は左右とも居間の方へ向けられていた。

 ほどなくして、沢渡邸の門を一台の車がくぐった。



 テーブルを挟んで同年代の男女が座布団の上に座っている。

「初めまして。私は研究主任の木村といいます。こちらが所長の春原さんです」

「春原です。今夜はお忙しい中で時間を割いて頂き、ありがとう御座います」

 深く頭を下げるスーツ姿の所長と主任に、沢渡夫妻もペコリと礼をする。

「初めまして。沢渡博です。こちらが妻の」

「薫です」

 一言だけ名乗った妻が、メガネをかけた所長の姿を見た瞬間から顔を強張らせている事に、夫は気付いていた。重苦しい雰囲気に負けじと夫が口を開く。

「前置きは無しにして、本題に入りましょう。…それで、そちらの要望ですが…具体的には何でしょうか?」

「あ、はい。実はですね」

 唐突に本題に入られて少し面食らった木村が説明し始めた。

「こちらで飼われていたツキノワというネコなのですが、恐らく現在もこちらにおられると思います」

 沢渡夫妻は否定も肯定もしない。ただ黙っている。木村は気まずい空気を背負いつつも話を続ける。

「それで、CTやMRIなど、ツキノワの肉体に傷を与えない方法で医学的データを取りたいと思うのです」

「無理ですね」

 即答する父親に、研究主任は言葉に詰まる。

「あ、あの、確かに沢渡さんご家族にとってツキノワというネコは大事な家族だと思います。ですが、同時にこの国の財産にもなりうる存在であって」

「誰の財産か、ではなく、単純に無理なんです」

「いえ、単純にと申されましても…理由を教えてはもらえませんか?こちらとしても譲歩出来る点は譲歩する所存です。もし国が無理矢理に奪うのでは、と考えておられるのでしたら、それは誤解と」

「いえいえ、そういう事ではなくて、ですね…」

 ボリボリと頭を掻きながら、博は無理な理由を話す。

「ツキノワ自身が嫌がるんです。あいつが逃げるから、無理なんです。この数ヶ月、マスコミや野次馬から完全に逃げ切れるツキノワが、私らなんかに捕まえられるワケがないでしょ?

 というか、ネコが大人しくCTだのMRIだのの機械に乗ってジッとしているワケがないです。結局、薬を使わないわけにはいかないじゃないですか」

「あ、いえ、もちろん安全は最大限確保します。ですからこうして御家族の方に協力を依頼しているわけでして」

「だから、それが無理という話なんですよ。ツキノワは私達夫婦の命令を聞く訳じゃないんです」

「あ、はい、知ってます。息子さんと子猫の頃から一緒にいたとか。ですから、息子さんの協力があれば、ツキノワの更なる研究も可能と思います」

 父親は、深く溜め息をついた。

「それこそ無理ですね。息子も研究には反対しています。ツキノワを差し出す気は無い、と言ってますよ」

「あー、ですから、こうして御家族の方に私達の研究の意義を分かって頂きたいと思い、説明に参ったわけでして」


 男二人の議論は入り口の段階から平行線を辿ったままで推移している。その間、女二人は何も話さない。ただ、じっと男達の話を聞いていた。


 だが、ようやく春原所長が口を開いた。

「では、息子さんに直接会わせて頂けませんか?」

 その言葉に対して、男性二人は少し困った表情を浮かべただけだった。だが、薫の視線は鋭く春原所長を貫く。

「お断りしますわ」

 今度は母親が即答した。そして男達が口を開くより早く、所長がさらに言葉を続ける。

「ですが、やはり本人から直接お話を伺いませんと」

「必要ありません。あの子は未成年ですので、私達が対応します」

「確か息子さんは既に十六歳ですね。では、その自主性を認めて良い年だと思います」

「その自主的な意思で会いたくないと言っています」

「お、おい、薫…」

 妻の言葉は明らかに棘を含んでいる。事前に浩介が「いとこうか?」と話していた事もねじ曲げている。それを指摘しようとした夫の声に、妻は所長を睨み付けるだけで、答えようとしない。

「ですが、その点については、やはり本人から真意を伺いたいと思うのです」

「息子の意思なら私が聞いています。あなたには会いたくない、と言っていました」

「あ、あの、所長…」

 睨み付けられる春原所長が浩介へ会う事にこだわる事、木村主任も気付いていた。この点にあまりこだわると、相手を意固地にさせて話がこじれる…と指摘しようとした。だがそれを言う度胸が無かったようだ。睨みあう女性二人の間に口を差し挟む事が出来なかった。

「そんなに、浩介に会いたいのですか?」

「ええ。研究の為にも、ご子息とツキノワというネコの安全ためにも、是非に会いたいと思っています」

「息子を、研究対象にする気ですか?」

「いえ、息子さんにはあくまでツキノワ研究の協力を依頼するだけです」

「協力を依頼する…だけ、ですか?」

「はい。私共の目的は、あくまでツキノワという未知の動物を研究する事です。春に譲って頂いた旧沢渡邸から採取された体毛からでも相当の事は分かります。クローンも作れます。ですが、やはり成体そのもののデータは貴重なのです。

 なにより、息子さんとツキノワが協力に応じて下されば、今後生じうる無用なトラブルを事前に回避出来ます」

 所長を見据える妻の視線は、鋭さだけでなく冷たさまで増していく。これを受ける所長の表情は、あくまで冷静そのもの。全く動じる様子も何もなく、感情を表に出す様子はない。

「本当に、息子に、研究への協力を求めるためだけに、会いたい…そう、おっしゃられるのですか?」

「はい。それ以上は何も求めません」

「浩介を、ただ、利用するだけだ…そう言うのですか?」

「利用する、という言い方には語弊がありますね。ただ、協力して下されば沢渡家にも当研究所にも日本という国にも、ツキノワという未知のネコにも利益がある…ということを話しています」

 薫は、唇を噛み締めていた。母がだんだんと怒気をはらんでいること、男性二人も気付いていた。

「息子を、浩介を…あなたは当家に来る前に、事前に調査しましたよね?」

「はい」

 淡々と答える所長。その姿に目尻を釣り上げる母。

「おい、薫、落ち着けよ」

「しょ、所長…ここは私が話しますから…」

 男達が女達の間に入ろうとした。だが、遅かった。男二人が間に入るより早く、女性達の言葉は衝撃音によって破られてしまった。

 薫が突然立ち上がった拍子に、テーブルがひっくり返ってしまった。そして、畳の上で横倒しになるテーブルの音より、涙を流しながら叫ぶ母親の声の方が大きかった。


「出て行って!」


 突然の叫びに、男達は唖然として言葉が出ない。動きが止まる。そしてその叫びを受ける女は、ここにいたっても感情を表にしなかった。ただ黙って動かず、座布団の上に正座したままだった。

「あんたみたいな女!浩介に会わせるもんですか!出て行きなさい!浩介は、あの子は私の子です!出て行かないなら警察を呼びます!」

「あ、あの、奥様、落ち着い…」

 慌ててなだめに入ろうとした木村だったが、薫の剣幕に体がすくんでしまった。

「待てって!薫、お前、おかしいぞ?いったい何だって言うんだ?」

 妻の肩を抱いて落ち着かせようとする夫にも、薫はただ涙を流すばかりで何も答えようとはしない。

 春原所長は、静かに立ち上がった。

 泣き続ける薫と困惑する博に黙って深く礼をする。そして居間を後にした。木村主任はキョトキョトと両者の間で視線を左右させた後、慌てて礼をして玄関へ走っていった。


 逃げるように沢渡家の門を出て行くエンジン音がする。

 その音が聞こえなくなると、薫は泣きながら崩れ落ちた。

「お、おい…いったいどうしたんだ…?」

 尋ねる夫に、嗚咽混じりの声が帰ってくる。

「あたし、あたし…浩介に、なんて話したらいいの…?」

 その言葉に、博は息を飲んだ。音を立ててツバを飲み込みながら、恐る恐る尋ねる。

「まさか…あの春原って女が…あの…えと、み、みくりや?御厨っていったよな」

 妻は涙で畳を濡らしながら頷く。

「そうよ…浩介の本当の母親よ…あんな、あんなのが、浩介のお母さんだなんて…」

 泣きながら小さな声で答える。

 それは確かに小さな声だった。だが、居間の入り口に届くには十分だった。

 そこには、居間の騒ぎに驚いた紗理奈がいた。小さな体を震わせ、細い手で柱を握りしめる妹が。

 樹上から居間の会話を拾っていたツキノワも、言葉を失っていた。浩介の部屋でも、目を見開いたまま硬直した兄がいた。





 戻された居間のテーブル。そこには研究所の二人ではなく浩介と紗理奈が座っていた。

 二人の目の前には、父と母がいる…浩介にとっては、ついさっきまで実の父と母と信じていた二人が。

 四人の間には、さっきまで居間に漂っていたものより数段重い空気が漂っていた。

 溜め息を共に、父が口を開いた。

「本当は、お前達が成人した後に話したかったんだがな…いや、いっそ話さないままでいたかった」

「いや…いいよ。俺には何か事情があるって、前から気付いていたから」

 その言葉に、俯いて押し黙る母の体が強張る。

「浩介…もしかして、誰かから聞いたの?」

 感情を必死で押し殺す母親の言葉に、息子は精一杯の作り笑いをする。

「いや、そういうんじゃなくて。ほら、春に入院した時、俺とツキノワが出会った経緯とか、事故の事とか聞いた時、何か隠そうとしてたのに気付いたからだよ。

 でも、まさか、俺がこの家の子供じゃなかったとはね…はは」

 浩介の笑い声が虚しく響く。その力ない作り笑いには、他の誰も笑顔を返す事が出来なかった。

「もう、全部話してくれないかな?」

 夫婦はお互いを見る。そして、ゆっくりと頷く。



 全ては築島大学で起きた。

 当時、築島大学の生命科学研究所には御厨誠一郎という研究主任がいた。彼は現所長、当時は研究員の一人だった春原京子と結婚した。そして息子を授かる。


「その子が浩介…あなたよ」

 目を閉じて語る母を、息子は黙って見つめる。隣の妹は目を伏せたまま動かない。


 御厨夫妻は浩介を授かった後に離婚。春原京子はアメリカへ渡る。御厨は、その後研究員として研究所に来た大場薫と再婚する。だが、やはり結婚生活は長続きせず、ほどなくして離婚した。その際、浩介は薫が引き取った。


「あの人は確かに有能で、仕事をしてる時は凛々しくて、とても素敵だったの。だけど…典型的な仕事人間で、家庭人としては全くダメだったわ。春原という人が離婚した理由もソレでしょうね」

「…なんで俺を母さんが引き取ったんだ?」

「それは…だから、あの人は家庭人としては全くダメだったからよ。浩介、あのまま御厨の家にいたら、まともな大人になれなかったわ」

 頬に手を当てて呆れたように息を吐く母の姿に、いったい俺の本当の父親って…と、幻滅してしまう。


 その後、大場薫は大学病院で看護師として勤務していた沢渡博と再婚する。御厨は週に一度、浩介への面会が認められた。だが、仕事人間だけあって、会いに来るのは月に一度がせいぜいだった。


「だから本当の父親の事なんて覚えてないのか」

「ええ…。そのあと交通事故で脳にダメージを受けて、記憶も混乱しちゃったから」

 父親が頭をかきながら説明を加える。

「で、そんときにだ。母さんと相談して、もう本当の子供ってことにしちまえってな。それが一番良いと思ったんだ」

 浩介は何も答えない。だが両親の言うとおり、恐らくはそれが一番良い事だろうとは理解出来た。事実、自分は沢渡浩介として、本当に目の前の夫婦の子供として、何も不満や疑問は無かったのだから、と。

「あ、それじゃ結局、事故は何だったんだ?」

「事故?あ、ああ、それも話さないといけないか…そうだな」

 思い出したように父は語った。御厨誠一郎の最期を。


 ある雨の日、久しぶりの面会の時、御厨は浩介を連れて逃げようとした。それに気付いた沢渡夫妻が御厨の車を追いかけた。雨の中、スピードを出しすぎた御厨の車はスリップして横転。御厨はそのまま死亡した。この事故の時に浩介も頭蓋骨が割れる大ケガを負った。


「そっか…あの時、運転席で死んでいたのは本当の父親だったんだ…」

 義理の父と母は黙って頷く。

「あの、な…お前にとっては、その、ショックな事だったと思うんだが…」

「まぁ、なぁ…」

 正直、本当の父と言われてもピンと来ない。何しろ親子の記憶が全くないのだから。浩介にとって親子の記憶は目の前の、自分が父と母だと信じてきた二人との記憶だ。それが全てだ。


 だが、この事実を知った今、これからも目の前の二人を父さん母さんと呼べるのか?

 少なくとも、この父と母は素知らぬ顔で俺を実の息子にすると決めた。なら、自分も素知らぬ顔で父さん母さんと呼べばいいのか…?


 そんな堂々巡りの思考が頭を駆ける。不信と不安が心に広がる。真実を知った今、何も知らなかった時と同じように出来るか?俺はここにいてはいけないんじゃないか?そんな言いしれぬ恐怖と怒りまでもが首をもたげ始める。

 喉を冷たい汗が流れる。手の平がじっとりと濡れる。


  《浩介君》


 いきなりツキノワの声が頭に響いた。

  《僕が病院で言ったこと、覚えてる?》

 その言葉に引き寄せられたかのように、かつてツキノワが浩介に語った言葉が記憶の底から蘇る。


 ――僕は人間じゃない。でも、紗理奈ちゃんも父さんも母さんも、好きだよ。大好きな家族だよ。

 ――そして、浩介君も家族だよ。大好きな家族

――だから、みんな家族だよ。それだけは間違いないから、安心して


 まるで、今、耳元で言われているかのように鮮明な記憶が蘇る。病院で聞いたツキノワの言葉が再び聞こえてくるかのように。

  《思い出した?》

  《・・・ああ、覚えてる》

  《なら、何も怖がる事はないよ》

  《あ、あのな、そんな簡単な話じゃないだろ?》

  《簡単な話だよ》

  《簡単って、おま…》

  《だって、僕にとっては何も変わらないんだもん。だから、それでいいよ》

  《う、まぁ、そういわれても、なぁ》

 ツキノワに言われるまでもなく、浩介も頭では分かっていることだ。結局、それが一番正しい答だ、と。あとは家族全員が納得すれば、それで全てが丸く収まるんだ、と。

  《そりゃ、それで良いのかもしれないけど…何か納得出来なんだけど》

  《急な事だから納得する時間がない…というだけだと思う》

  《あ、うー。…なるほど…て、そんだけか?》

  《僕にはそれだけだと思う》

  《むぅ〜…それで、いいのか…》

 頭を冷やして考えてみると、確かにそんな気もする。なら必要なモノはただ一つ。落ち着いて納得するための時間。

  《というわけで、ちょっと頭を冷やしたいや》

  《そうだね。少し落ち着いてからの方がいいかもね》


 ツキノワと話していたのは、時間にしてみれば短かったろう。だが、今の沢渡家には何時間にも思えるものだった。

 暗い空気の中、浩介は重い体で立ち上がる。今日はほとんど体を動かしていないのに、自分の体が人生の中で一番疲れているように感じている。

「浩介…?」

 泣き出しそうな瞳で浩介を見上げる薫。自分を本気で心配してくれている、今までずっと母さんと呼んできた女性へ、浩介は答えた。

 作り笑いではない笑顔と共に。

「少し外に出て、落ち着いたら戻ってくるよ。母さん」

 母さん。

 母さんと呼ばれ、母は再び涙をこぼす。息子以上の笑顔と共に。

「え、ええ、早くしなさいよ。晩ご飯が冷める前に、ね」

「あ〜、その晩ご飯なんだけど…」

 チラリと浩介は、隣でずっと黙ったまま俯いている紗理奈を見た。

「肉にしてくれよ、紗理奈の身長が伸びそうなヤツ」

 いきなり話を振られた紗理奈が浩介を見上げる。そこには、いつも通りで普段通りな兄の姿があった。何の特徴もない、凡人を絵に描いたような兄の姿が。

  どすっ

 鈍い音が居間に響く。

 紗理奈の右フックが浩介の脇腹にめり込んでいた。

「余計なお世話よ!さっさと散歩でも何でもして帰ってこい!」

「て、手加減、しやがれぇ…」

 腹を押さえて兄は玄関に向かっていった。嗚咽と共に涙を流しながら台所へ向かう母の姿は、あえて見ないように出て行った。泣きそうな自分の顔を見られないために。





 フルフェイスヘルメットって便利だな、と浩介は心の底から感じていた。泣きながらバイクに乗っているのがばれないから。

「ふん…何で泣いてるンだか、わかりゃしない」

 本当に、悲しいのか嬉しいのかも分からない。

 頭の中がゴチャゴチャして考えがまとまらなかった。だから、浩介は路肩にバイクを止めて、山と田んぼに挟まれた道ばたで泣き続けていた。夏の夜、家も少なく人通りもない田舎道。おかげで泣きじゃくる自分の姿を誰にも見られない。浩介は周りを気にせず、スクーターにまたがったまま、遠慮無く泣き続けることにした。


 しばらくして嗚咽も収まり、涙も乾いた。

 ヘルメットを脱ぎ、赤くなった目をこする。そして、頬をピシャリと叩いた。

  《落ち着いた?》

「ああ。んじゃ、帰るとするか」

 スッキリした声と共にキーを回してアクセルを回そうとすると、ツキノワが少し困ったような声を届かせた。

  《浩介君…ちょっと、見てくれる?》

「ん?」

 浩介は意識をツキノワの視界に移してみる。そこは、浩介のいる場所から少し離れた所にある、コンビニの駐車場。コンビニの影に身を潜めるツキノワの視界には、車止めに腰掛け、膝を抱えてうずくまるスーツにメガネの女性がいた。

「お前、もしかして、あいつらの後をつけていたのか?」

  《うん…少し気になって》

 黒猫が気にしている春原は、さっきのりりしい姿がウソのように弱々しかった。



「あの、こんな所でどうしたんです?」

 駐車場を照らすコンビニの光の中、相変わらずうずくまっていた春原所長。彼女の前にスクーターに乗った浩介が来ていた。チラリとも視線を向けようとしない。

「…車がありませんので」

「ウチには車で来ていたでしょう?」

「木村君と、口論をしました」

 お互い、表向きは初対面のはず。だが、お互い名乗りはしないし名前を聞かない。

 浩介の本当の母である女は、顔を上げようとしない。ただ膝を抱えてうずくまったままだ。腹を痛めて産んだはずの我が子を見ようとしない。

 だが構わず浩介は、とりとめもない話を続けた。

「ケンカしたから、車を降りたんですか」

「そうです」

「ここ、バス停前ですけど、この時間だと、次のバスまで三十分近くあります」

「構いません。待ちますから」

 女は動こうとしない。そしてその様子は、バスが来たからと言って乗るようにも見えない。

「この辺は街灯も少ないし、人家も少ないです。夜はほとんど人が来ません。女性が一人だと危ないと思います」

 その言葉に、春原はチラリと肩越しにコンビニを見る。

「そんな場所で、よく営業できますね」

「五月山を登る人が目当てですよ。ハイキングコースの入り口です。あと、近くに大きなスーパーも無いので、近所の人が来るんです」

「田舎ですね」

「ええ。結構、田舎です」

「あなたみたいな若い子には、退屈な町じゃないですか?」

「そりゃ、ね。でも、俺も騒がしいのはあんまり好きじゃないんで、この町は気に入ってます」

「そう…」

 女は再び黙り込む。浩介も、次の言葉が見つからない。ツキノワは、何も言わずにコンビニの影から二人の様子を見つめている。

「あの…」

 ようやく、この場に相応しそうな話を見つけた浩介が口を開いた。

「近くの駅まで、送ります」

 女は、ようやく顔を上げた。驚いた表情を浮かべている。

「…いいのですか?」

 浩介はバイクを降り、シートの下からヘルメットを取り出した。

「妹のだから小さいけど、フルフェイスじゃないし。この辺はお巡りさんもほとんど来ませんから。首に引っかけてるだけで大丈夫ですよ、きっと」

 ヘルメットを目の前に差し出された春原は、じっと硬質のメットを見つめている。そして、チラリと浩介を見上げる。別に何の感情も浮かべていない、普段通りの浩介の顔を見つめる。

 彼女は黙って立ち上がり、ヘルメットを受け取った。



 後ろに春原を乗せたスクーターは、駅前のロータリーに停まった。とっぷりと更けた夜でも駅と商店街のライトが光っている。

「今の時間なら、まだ電車はありますから」

「助かりました。ありがとうございます」

 ぼんやりと照らされる光の中、春原は茶色の髪を上下させた。そして、そのまま背を向け、駅に入ろうとする。

「あの、一つ聞いて良いですか?」

 彼女の背に浩介の声が届く。背を向けたまま、黙って足を止める。


「ツキノワを作ったのは、御厨誠一郎ですか?」


 春原は答えない。夏の蒸し暑い夜風に茶色の髪が揺れる。

 浩介も何も言わない。自動改札口の前で、女と少年は立ち尽くす。

 ホームに電車が入ってきた時、ようやく彼女は振り向いた。

「私が所長になったとき、あの人の遺した資料を調べました。その中に、人工臓器開発に関する研究資料がありました。十年ほど前の資料です」

 浩介は何も言わず、ただ黙って聞いている。

 春原所長は話を続ける。

「当時はiPS細胞なんて無かったし、ES細胞研究も始まったばかりで…あ、こういう単語は分かるかしら?」

「…えっと、聞いた事はあります。ニュースとか授業で。良くは分からないけど、クローンを作る技術とかどうとか」

「そう、ちょっと違うけど、まぁそんな感じです」

 少し微笑んだ春原は、チラリと駅前のバス停を見る。そこにはベンチもある。

「長い話になります。座りましょう」

 電車は、誰も乗せずに駅を走り去った。


 息子はベンチに座る。

 実の母は自販機でコーヒーを二本買い、一本を息子に渡して隣に座った。

「現在でも臓器再生は夢の技術。まだ実用化には遠いです。まして十年前は、失われた臓器を取り戻す方法は限られていました。機械か、移植か…」

 女はコーヒーを開け、一口すする。赤い口紅を缶につける。

 浩介も蓋を開けて一口飲む。

「もちろん移植は難しいのです。何と言ってもドナー、つまり提供してくれる人が少ないから。ドナーが見つかっても免疫の問題があるし…。拒絶反応は移植医療では解決しがたい問題です」

 高校一年生の浩介でも、この辺の話は何となく分かる。授業やニュースだけでなく、マンガ・ドラマ・映画でもよく聞く話だから。

「拒絶反応を起こさない移植用臓器を大量に作る方法…その一つに、動物に人間の臓器を作らせる、というアイデアがありました。動物に人間の遺伝子を組み込んで、人間の臓器を作らせる、という」

「…けっこう、エグイ考えですね」

「そうですね。倫理上も技術上も問題が多すぎるし、今ではiPS細胞があるから、もう医療として主流ではありません。でも十年前、あの人はやっていた。大学にも研究所にも秘密で、こっそりと」

 空を見上げ、昔を思い出しながら語る春原。

 浩介は何も言わず、コーヒーをすする。

「本来、人間用の臓器を作らせるんだから、ブタみたいな大きな生物で人間並みの大きな臓器を…というのが本当。でもコッソリ個人的にやってた研究だったので、大きな動物では出来なかった。なので、その辺で拾ってきた猫や実験用のネズミで試したのです」

「結果は?」

 春原は、いきなり浩介に笑顔を見せた。

「もちろん大失敗!…の、ハズだったのよねぇ」

 初めて見せる、春原のおどけた笑顔。今までの科学者らしい冷静で理性的な態度を急に崩されたので、少し浩介は面食らう。

「資料によると、遺伝子を組み込んでも細胞分裂すら始まらないのが大半だったそうよ。そのうち、研究所へ彼の研究がバレそうになったから、全ての実験体を廃棄処分した…そう、資料にはあったの」

「ツキノワに関しては、何も?」

「サンプルナンバー318…この細胞だけは細胞分裂を開始した、とあったわ。その後、他の実験体と同じく廃棄処分した、と記録には残ってる。

 でも、私達が調べたツキノワの細胞には、人間の特徴が混じっていたわ。DNAを解読すれば、人間の遺伝子が見つかる可能性があります」

「やっぱり…」

 浩介は納得した風で頷く。その浩介の横顔を春原は見つめる。

「驚かないのね」

「ええ。僕の本当の父が科学者で、猫の遺伝子操作を研究してた。そして、どう見てもネコらしくないネコが僕の傍にいる。偶然では無いんでしょうね。

 すると、全部廃棄したというのはウソの記録」

「さぁ…?彼が死んで十年、遺った資料も少なくて、それ以上は分からないわ」

「そう、ですか」

 そこまで話して、彼女は立ち上がる。そして少しスッキリした顔で浩介に向き直った。

「ツキノワに関しては、これからも御厨の資料を探してみるつもり。でも、出来ればツキノワそのものを調べてみたいの」

「それはお断りします」

 即答してから浩介も立ち上がった。断られた春原は、別に残念そうにもしなかった。むしろ笑っている。

「それじゃ、しょうがないわね。でも、何か知りたい事があったらいつでも来てちょうだい。名刺、渡しておくから」

 そういって彼女は胸ポケットの名刺入れから一枚取り出して、浩介の手に押しつけるように手渡した。

「分かりました。…あの、もう一つ尋ねたいんですが」

「なにかしら?」

 微笑みを浮かべる女性に、浩介は真剣な顔で尋ねた。


「御厨は僕を改造しましたか?遺伝子操作とか」


 尋ねられた方は、キョトンとした。

 そして、プッと吹き出す。

 それは次第に大笑いへと変わっていった。

「あははっ!あはっ…な、何を言うかと思えば!」

「えと、真面目な話なんですけど…」

「な、無いわよ!あははは…い、いくらなんでも、SFの見過ぎよ!」

「本当に?」

「ええ、本当よ。それは保証するわ。あなたは間違いなく、普通に産まれた普通の子よ。産んだ私が保証するわ」

 大爆笑されて、さすがに浩介も恥ずかしくなった。照れ隠しに頭をポリポリと掻いてしまう。

「そ、そうですか。ならいいんです。すいません。それじゃ、僕はこれで」

「あはは…あは。え、ええ、遅くまで付き合わせてごめんなさい」

 そういって改札へ向かおうとした春原が、「あ!」と叫んで立ち止まった。そして慌てて振り返る。

「そうそう、一つ大事な事を忘れる所だったわ。これだけは伝えておかないと危険なのだけど、あなたの家では言いそびれたの」

「なんでしょうか」

 春原の顔から笑顔が消え、再び冷静で理性的な表情へと変わる。

「先日、セノラ・ジェノミクス社とフェイザー製薬の研究施設を狙ったテロが起きました。犯行声明はありませんが、過激な環境保護団体レッドビーズの仕業とFBIは見ているようです」

「あー、ニュースでやってましたね」

「その二つの研究施設に共通するのは、築島大学から最も早期にツキノワの体毛を購入した研究機関、という事です。そしてヨーロッパでも同様の事件が今朝から続いているそうです」

「え…」

 浩介の脳裏にも、不吉な予想が立つ。

 ツキノワには人間の遺伝子が組み込まれている可能性が高い。そのツキノワの毛を調べていた機関が狙われる。それも、環境保護団体の仕業かもしれない…。

 なら、ツキノワ自身は?


 そこまで話した所で、駅へ向かってくる電車のライトが見えた。春原は軽く頭を下げ、改札を越えた。

「彼等は日本国内では、さしたる活動拠点も人員も資金も持ちません。ですが、実働部隊が既に入国している可能性は否定出来ません。一応は気をつけておいて下さい」

 そう言い残して、彼女は電車に乗り込んだ。


  《ツキノワ、全部…聞いてたよな》

  《うん…難しくてよく分からなかった…けど…》

  《俺も、半分程度かなぁ》

  《そっか…》

 答えるツキノワの声は、さすがに元気が無かった。

  《ま、でもこれでハッキリしたじゃないか。》

  《そう、だね…》

 やっぱりツキノワの答えは弱々しい。

  《…お前だっていってたじゃないか。結局、みんな家族だって。御厨がお前を作ったなら、本当に俺とお前は兄弟だってことだよ》

  《あ!うん、確かに》

 ネコな弟の声が急に明るくなる。

  《ま、他にも色々と知りたい事はあるけどな》

  《だね。ま、それは後で、落ち着いてからでいいんじゃないかな?》

  《つか、晩ご飯食った後か…。帰るの、やっぱ、なんというか…》

 今から帰る事を想像すると、やっぱり緊張してしまう。ちゃんといつも通りに帰れるのか、不安になってしまう。

  《大丈夫!僕も一緒に帰るよ。何にも問題ないよ》

  《あ〜、う〜、まぁ…お前が一緒にいれば大丈夫だよな》

  《だね!それじゃ、帰ろうよ、お兄ちゃん》

  《そ、その呼び方はよせ。恥ずい》

 何だか鳥肌が立つのは忘れる事にして、浩介はスクーターに乗った。ツキノワもご飯が待つ家へと駆け出した。





「うんうん、レッドビーズの海外での情報ね。ちょっと待っててねー」

 次の日の昼、沢渡家の居間には二人の少年と三人の少女がいた。

 水色のシャツに青いスキニーデニムの女の子、篠山がミニノートPCを開いて検索し始めた。モニターには次々と英語のHPが表示されていく。

 その隣には、なにやら気まずそうにするメガネの女の子。ジーパンに白い長袖シャツの尾野が座ってる。その彼女がチラチラと視線を送るのは、いつにもまして不機嫌そうに見える灰色ジャージ姿の大男、村主。

 なにやら視線だけで会話してそうな村主と尾野を、篠山の釣り目が射抜く。

「…いっとくけど、抜け駆けは許さないわよ」

 その言葉に、二人は慌ててそっぽを向いた。

 そんな三人の様子を眺める紺色ジャージ姿の浩介と、Tシャツにショートパンツの紗理奈も、ちょっと困った顔だ。

  《さすが、カンが鋭いねー》

 沢渡家を見下ろす山の中腹の樹上でアクビをするツキノワも、呆れてる。


「んなコトはおいといて、どうだ?篠山、何か新しい情報あるか?」

「ん〜、ダメね、ニャオ。色々見てみたけど、日本で報道されてる以上のコトはないわ」

 沢山の英語の記事やブログを次々と切り替えながら、篠山は話を続ける。

「レッドビーズと言えば過激な環境保護団体として有名よね。捕鯨船に火炎瓶投げ込んだり、原発に車で突っ込もうとしたり、伐採予定の森の木にチェーンで体をくくりつけたりとか…。でも、日本での活動はほとんどないのよね。日本では全然支持が得られていないから」

 紗理奈もウンウンと頷く。長い黒髪が上下に揺れる。

「そういうの、よくニュースで聞くけど、ここしばらくの爆弾騒ぎはどうなの?」

「えっとね〜…」

 小さなキーボードを高速で叩き、幾つかのウィンドウを表示させる。

「日本の報道そのままね。アメリカ、イギリス、ドイツと立て続けに研究施設へ爆弾が送りつけられたり車が爆発したりしてるわ。FBIやMI5だけじゃなく、CIAとかも動きだしてるようね。

 共通するのは、バイオ関連の企業や研究施設ということ。レッドビーズの中でも、特に過激な一派が疑われてるっていうことね」

「ふぅ〜ん…それで、朱美ちゃん、ツキノワを直接狙ったりしそうかなぁ?」

「どっかな〜?狙いがツキノワ研究ならありうるけど…。理由は、そうねぇ…。生物兵器の開発を許すなー、とか。生命の尊厳を守れー、とか」

 篠山が首を捻って考え込もうとした時、浩介がゆっくりと立ち上がった。他の四人が不思議そうに見上げる。

「…どうやら、来たらしい」

 呟く浩介が居間のガラス越しに山を見上げる。村主も驚いて立ち上がる。

「お、おい、来たって、お前、何でわかんねん?」

「なーに、ツキノワの呼ぶ声が聞こえるんだ」

 振り返った浩介が、冗談めかしてウィンクする。

 居間にいる浩介以外の四人の中に、それが本当はテレパシーが通じている、という意味だと理解出来た者はいなかった。ただ、浩介とツキノワの長い付き合いのおかげで、ツキノワの鳴き声が良く聞こえる、という意味と思っていた。





 森の中、開けた場所に一台の軽トラックが停まっている。その横には迷彩服を着た二人の中年男。

 荷台に載せた檻からドーベルマンを引っ張り出す男と、腰のベルトにナイフの入った鞘とプラスチック製の筒を装着する男。ナイフを装着した男は、車の助手席から弓のような物を二つ取り出した。木製ストックと引き金が付き、先端には足を引っかける輪がついた弓、クロスボウ。

 一つを犬を連れた男に渡し、もう一つは自分で持つ。足輪に足先をひっかけて弓を引いて、腰に付けた筒から取り出した矢を装填した。

  カシュッ

 軽い音と共に、放たれた矢が近くの木に突き立った。二人の男は満足げに頷く。

「んじゃ作戦通り、その犬でツキノワを追い回してくれ。ネコは持久力がないから、追い回せば、すぐへばる。あとはボウガンで殺るとしよう」

「分かった。毛をくれ」

 言われた男は胸のポケットから、小さなプラスチックケースを取り出して手渡そうとした。


  ヒュヒュッ


 何かが風を切るような音がした。

  バシャッ!

 二人の男がそちらを見るより早く、彼等と犬の足下で何かが幾つも破裂した。とたんに犬が悲鳴を上げて暴れ出す。

「な!何だ?どうした!」

「うおぁっ!な、なんだこりゃぁ!は、鼻が!目が!」

 破れた風船を中心に、彼等の周囲に凄まじい刺激臭が漂う。目から涙があふれ出す。

  スパパパパパッ!

 軽い炸裂音と共に、大量の小さなプラスチックの玉――エアガン用BB弾が森の奥から放たれた。目と鼻を押さえて苦しむ二人と犬に当たり続ける。

「あたたた!痛っ!な、何だぁ!」

「くそ!逃げるぞ!」

 慌てて二人は車に取りつき、ドアを開ける。

  バタン!

 ドアは閉じられた。二人が入る前に。

 運転席側を浩介が、助手席側を村主が、ドアを蹴り飛ばして閉めたのだ。

「さてと、やぁ…オッサン共」

 凶悪な笑みを浮かべた村主が指をゴキゴキと鳴らす。

 慌てて男は腰のナイフに手をかけようとした。

  ドゴォッ!

 盛大な打撃音と共に、男の体が助手席のドアにぶつかった。村主の右上段蹴りをまともに頭にくらい、そのまま車に叩き付けられたのだ。意識が飛び、地面に崩れ落ちる。

「ひ!ひええ!」

 情けない声と共に浩介の前の男は逃げだそうとした。

  スパパパパッ!

 だが再び男の顔にBB弾が着弾した。動きを止めた男の前に立つのは、自動小銃のエアガンを向けた篠山だった。

「おほほほーっ!胡椒とタバスコと七味とハバネロに痴漢撃退スプレーも混ぜた特性爆弾は効いたでしょ〜?さーて、全部しゃべってもらいましょうかー!」

  《あ〜あ、調子に乗っちゃって》

 木陰から森の奥へ逃げていく犬を見送るツキノワが、ちょっと呆れた。



「いや、だから、俺たちはレッドビーズなんて知らないんだよ!」

「ネットの求人に応じただけで、全部の指示はメールで受けてたんだ。ツキノワを殺せって。で、金とツキノワの毛も送られてきたんだ」

 全ての装備品と車のキーを奪われ、地面に正座させられた男達。浩介達三人の前で惨めに言い訳していた。戻ってきた犬は車の上でしょんぼりしてる。

 襲撃者達を見下ろす三人の目は、限りなく冷たい。

 まだ銃口を男達に突きつけたままの篠山が、イヤそうに息を吐いた。

「はぁ〜、日本で活動できないからって、こう来たか…。おまけに、いくらツキノワが貴重な猫だとしても、悔しいけど猫は猫。こいつら警察でちょっと叱られる程度ですんじゃうわ」

 その言葉に村主と浩介は顔を見合わせて眉をひそめ、正座する男二人の顔は明るくなった。

「ま、なんだ…俺たちは別にツキノワって猫に恨みはないんだ。失敗した以上、もう成功報酬はもらえないし。むしろ、レッドビーズの爆弾事件に巻き込まれる方が損だぜ」

「そーそー。どうだろ?この場は俺たちを見逃してくれないか?警察には俺たちの持つ情報を伝えるから」

 そのセリフに、村主の眼光が二人を睨み付ける。その鋭さに、二人は「ひっ」と悲鳴を上げて縮こまってしまう。

  《どうする、ツキノワ…許してやるか?さすがにお前を殺しに来た連中ってのは、初めてだけど》

  《う〜ん…しょうがない。その二人の言うとおりだよ。警察に任せようよ》

 茂みの中からこちらの様子をうかがうツキノワの提案に、浩介も頭をポリポリ掻いて溜め息をつく。

「んじゃ、しょうがない…車だけは返してやるから、自分で警察いけよ。あんたらの顔と免許証は写メに撮ってあるからな。自首した方が罪は軽いんだから」

 そういって浩介はキーを投げ渡す。男二人は慌てて車に飛び乗り、ドライブウェイへと林道を走っていった。

 見送る村主は不満げだ。

「ええんか?」

「しょーがないって。これで全部済んだし」

 済んだ、という浩介の言葉を聞いた時、ゲットしたクロスボウやらナイフやらを上機嫌でリュックに詰め込んでいた篠山が考え込んだ。

「済んだ…かしら?」

 釣り目を閉じて疑問を口にする姿に、二人は首を捻る。

「レッドビーズの今までの犯行はほとんど、爆弾よ。それに、あいつら犬で追い立てたって、ニャオの家にツキノワが逃げ込んだら…おしま…い、て…え?」

 村主と浩介は、顔を見合わせる。

 そして浩介は、ツキノワがいる茂みの奥へ振り返った。

「ツキノワ!」

  《行ってくる!》

 瞬時にツキノワが体を捻り走り出す。沢渡邸を見下ろす山の斜面へ向けて。

「村主!」

「行くで!」

 二人もツキノワの後を追って、森の奥へ駆け出す。「ま!待ってよー!」という篠山の叫びに振り返る事もなく。



「しのちゃん達、しっかりやってるかなぁ〜、大丈夫かなぁ」

 居間のガラス越しに山を見上げる尾野。メガネ越しに不安げな瞳が見える。

「ま、大丈夫でしょ」

 紗理奈ののんきな声が居間の入り口から聞こえてきた。

「ツキノワがいる以上、兄貴達の勝ちは揺るがないわ」

「うん、そだね。直人君もいるしね」

「そーそー!今度は何をゲットしてくるか、楽しみだわ〜」

 楽しそうに居間に入ってきた紗理奈は、手に持っていた小包をテーブルの上に置いた。

「それ、お中元?さっきのベルって宅配便だったのね」

「かなぁ?中身は…あら、ハムって書いてあるね」

 尾野もガラスから離れ、小包に貼られた紙を覗き込む。

「冷蔵ね。早く冷蔵庫入れた方が」

「そーね。んじゃまず、開けるとしましょ」

 そういうと、紗理奈の細い指が小包を包む紙を破ろうとする。

  バンッ!

「わ!な、何?」

 いきなり尾野の後ろから、ガラスを叩くような音がした。慌てて二人がガラス越しに外を見ると、そこにはガラス戸に体当たりをしようとする黒猫がいた。

「あ!ツキノワちゃんだ!」

「ちょっちょっと!ツキノワ、どうしたのよ!」

 再びバンッと大きな音を立ててガラスに体当たりした黒猫の姿に、慌てて二人はガラスに駆け寄り戸を開ける。夏の蒸し暑い空気を貫き、ツキノワが居間に飛び込んできた。

「な、何?」「いったいどうしたのよ!」

 驚く二人に目もくれず、ツキノワはテーブルに飛び乗って小包の臭いを嗅ぐ。

 次の瞬間、黒猫の毛が全て逆立った。牙をむきながらテーブルを飛び降りる。

 そのいきなりな変貌に、居間の女の子二人は顔を見合わせてしまう。


  紗理奈ぁー!二人とも、逃げろぉー!


 山の斜面、森の中から浩介の声が響いてきた。

「え?何、兄貴の声?」

「なんか、逃げろって…?どういうこと?」

 まだ事情が掴めない二人は困ってキョロキョロと周囲を見回してしまう。

  バシュッ!

 突然、沢渡邸の高い塀を、大きな影が飛び越えた。

  ドスッ!

 そして鈍い音を立てて庭に着地したのは、村主の巨体だ。彼は山の斜面を一気に駆け下り、その勢いのままで2m近い塀に飛びつき、一瞬で乗り越えたのだ。

「ううおぉぉおおあぁああっっ!」

 重低音の叫びを上げながら、居間にいる二人めがけて突っ込んでくる。

「きゃあっ!」「ひゃっ!」

 女の子二人は吹っ飛ばされた。居間に飛び込んできた村主に腕を掴まれ、部屋から放り出されたのだ。

 目が血走り荒い息をつく村主の前に、ツキノワが小包に向けて牙をむく光景がある。

「これかぁ!」

 巨体が居間に飛び込み、小包を鷲づかみにする。

 即座に振り返り居間の外を、畑や田んぼが広がる無人の土地を睨み付けた。一瞬で部屋を飛び出して大きく振りかぶる。

 そして塀の向こう、田畑へ向けて小包を力の限りにぶん投げた。


 閃光が生じる。


 真夏の太陽がもう一つ、沢渡邸横の空中に生じたかのように輝く。

 鼓膜を破ろうかという程の爆発音が響き渡る。

 森の木々が揺れる。爆風に砂塵が舞う。田んぼや畑に火のついた破片が降り注ぐ。


 小包爆弾は、沢渡邸横の畑、その空中で爆発した。

「まぁ…間に合ったぁ…」

 斜面を慌てて下りながら、浩介が安堵の溜め息をつく。



「大丈夫かいな!二人とも、怪我ぁないか?」

 村主の怪力で投げ飛ばされた二人は、目の前で起きた突然の爆発に腰が抜けていた。言葉も出ない。そこへようやく浩介も、浩介のスクーターに乗ってリュックとエアガンを担いだ篠山も駆けつけた。

 二人とも、とりあえずは紗理奈と尾野の無事に胸をなで下ろす。そしてそれぞれに携帯を手にして叫ぶ。

「警察に電話するわ!」

「頼む!父さんと母さんへは…て、あ、あああ!」

 慌てて両親に電話しようとした浩介が、頭を抱えて悲鳴を上げた。

 やっと立ち上がった紗理奈が声を絞り出す。

「ど…どうしたのよ…まさか、父さん達にも?」

「ち、違う!そっちじゃない!そうじゃなくて!まさかっ!」

 浩介の脳裏に、さらに別の可能性が浮かぶ。レッドビーズの目的から予想される、次のターゲットが。

  《それだ!まずい、まずいよ!》

 ツキノワの叫びも浩介の脳裏に響き渡る。

「何なんや!ニャオ、いったい何に気付いたンや?」

 汗に濡れた手で携帯を押す村主に、浩介は頭を抱えたまま答えた。

「研究所だ!築島大学の研究所にも!」

 瞬間、血の気の引いていた全員の顔が、さらに青ざめる。

「まずいで!さっきの爆弾、宅配便や!もし同時に爆弾が送られたりしとったら…」

「く、くそ!」

  《こ、浩介君!どうしよう!》

「うぅ〜、あー!放っておけるかー!」

 大声を張り上げた浩介は、自分の部屋へ飛んでいく。そこには、昨日受け取った名刺が机の上に乗っていた。


『何ですって!?あなたの家に爆弾が?』

「そ、そうです!恐らく、そっちにも送りつけられています!」

『分かりました、すぐに調べます。警察へは?』

「今、下で友達が電話してます!すぐにこっちに駆けつけるはずです!」

『研究所に緊急放送を流し、全郵便物をチェックさせます。本当にありがとうございました』

 携帯の通話を切った浩介は、深く息を吐く。

 そして大きめのリュックを手にとってひっくり返し、中の物を全て出す。空っぽになったリュックを左手に持ち、部屋を出て階段へ向かう。

 その浩介の足が止まった。目の前に紗理奈が腕組みをして立ち塞がっていたから。

「どこ、行く気?」

 腕を組んで見上げてくる紗理奈の目は鋭い。

 浩介は、ちょっと後ずさってしまう。

「え、と…その、研究所」

「なんでよ」

「あー…なんでって、爆弾が…」

「だから、なんで兄貴が行くのよ?警察に任せればいいじゃない」

「あ…」

 言われてみればその通り。爆弾のことは携帯で伝えたのだから、これで十分なはず。何もわざわざ爆発に巻き込まれる危険を冒す必要はない。それ以前に、研究所に爆弾が送られると決まったワケでもない。

「う〜ん、確かに。その通りなんだ…けど、なぁ」

 困ってしまって浩介は頭をポリポリかいてしまう。

「ツキノワが、さっきので爆弾の臭いを覚えたから、もし爆弾があれば、すぐに見つけれるんだ。な、ツキノワ?」

 浩介の足下に来た大きな黒猫がニャンッと元気よく鳴く。

  《大丈夫、あんな強烈でおかしな化学薬品の臭いだもの。一発で分かったよ。もしあれば、絶対に分かるよ》

 自信一杯な声も彼の頭に響いてくる。

 だが、紗理奈は呆れて頭を振る。長い黒髪も左右にゆらめく。

「だーかーら、あんなおばさんに、そこまでしてやる義理はないってゆーのよ!」

「いや、義理は無いかもしれないけど、でも」

「でもも何も無いわ!」

 突然、小さな体から大声が飛び出した。驚いた浩介とツキノワが一瞬飛び上がってしまう。

「兄貴を捨てたヤツじゃないの!

 十年以上もほったらかしで!知らんぷりして!ウチに来たって、兄貴の事、気付いてたくせに!何が研究よ!兄貴を都合良く利用する事しか考えてなかったじゃない!あたし聞いてたんだから…カゲからこっそり全部聞いてたの!」

 空気が凍り付く。

 目の前の浩介も、足下のツキノワも、階段の下から見上げる村主と尾野と篠山も、体が固まる。肩で息をしながら怒りに震える妹の姿に、瞬きも出来ない。

「あんなの…兄貴の母さんなんかじゃない。兄貴の母さんは、ウチの母さんだけよ。あんなヤツ、死ねばいいっ!」

 紗理奈の瞳には涙が浮かんでいる。

 1階の三人は呆然とする。

  《浩介君…》

 ツキノワも見上げる。


 浩介は天井を見上げる。

 大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。


 そして、妹の肩に手を置いた。

「だからって、何もしなかったら、きっと後悔すると思う」

「いいじゃないの!ちょっとくらい後悔したって死にやしないわ。

 というか、さぁ…」

 細い指がビシィッと突きつけられる。

「似合わないのよ!」

「…え?」

 呆ける浩介に、紗理奈はたたみかける。

「兄貴には、んな熱血似合わないって言ってるの!何が、後悔したくない、よ。格闘マンガじゃあるまいし」

 ホントにそのとーり、と納得してしまう一同。言われている本人も含めて。

 それでも浩介は肩をすくめつつ、意思を曲げなかった。

「でもやっぱ、今の俺とツキノワには出来る事があるんだ。俺たちにしか出来ない事があるんだ。誰であっても、死人が出るよりは出来る事やったほうが良いと思う」

 妹も、意見を曲げない。

「カッコつけないで!全部、ツキノワのおかげじゃないの!第一、そのツキノワまで危険にさらす気なの?」

 言われたツキノワは、浩介の左手に握られたリュックの開け放たれたチャックを見る。ピョンッとジャンプしてスルリとリュックに滑り込む。そして頭だけをヒョコッと出してニャンと元気よく鳴いた。

「ツキノワは、行くってさ」

 紗理奈は両手を握りしめ、一粒の涙を流す。

「バカよ。あんた達、バカだわ。あの女が感謝なんかすると思う?ツキノワ見つけたら、解剖しようとするわよ!」

「大丈夫だよ、ツキノワが掴まるもんか。それに、別に何も事件とかなければ、すぐに帰ってくるから」

 紗理奈はグィッと涙を拭く。そしてギロリと兄を睨んだ。

「分かったわよ…さっさと行って来なさいよ!でも、危ない目に遭うんじゃないわよ!ヤバイのからはさっさと逃げなさいよね!」

「わーったわーった。警察の相手と、父さんと母さんへの連絡はよろしくな」

 そして浩介は階段を降り、家を出る。そこには、不安げな篠山と尾野と、ヘルメットを被りリュックを担いだ村主がいた。

「村主、お前まで…」

「後ろ、乗せてもらうで」

 彼は、まるで当たり前のように、スクーターに腰掛けている。

「悪いな」

「俺が好きで行くンや。気にすんな」

 浩介は後ろに村主の巨体を乗せ、その重量に苦しげなエンジン音を上げるスクーターを走らせた。背中に応援や無事を祈る女の子達の声を受けて。





 沢渡邸から東へ約十キロ、築島大学の分校。そこには医学部・医学部付属病院・各種研究施設が集まっている。五月山国定公園に連なる山林を北に眺め、緑の多い静かな学術都市という感じだ。

 いや、つい三十分前は静かだったはずだ。

 浩介と村主と、リュックに隠れたツキノワが大学の正門に着いた時、もう既に大量のパトカーが集結をはじめていた。車から飛び出してくる警官と刑事達が避難誘導し、学内放送はヒステリックな警報音と共に避難を呼びかけていた。

 ――…科学研究所にて爆発物が発見されました。全職員、全学生、その他学内におられる方々は、すぐに誘導に従って避難して下さい。繰り返します。生命科…――

 そんな放送に追い立てられるように、多くの学生や職員が学校の建物から飛び出してくるのが入り口から見えていた。

「なんや、どうやら発見出来たらしいわ」

  《らしいね。これなら僕達の出番は無しだね》

 半開きなリュックのチャックからちょっとだけ頭を出した黒猫が、小さな安堵の溜め息をつく。

「そだな。ふぅ〜、これで一件落着か」

 ようやく二人と一匹はヘナヘナと崩れる。スクーターから降りた二人がアスファルトに腰を降ろす。浩介が携帯を取り出すと、紗理奈など家族からの着信が並んでいた。村主も自分の携帯を開いてる。

「あとは警察に事情話してお終いやな」

「だな…やれやれ、また騒がしい毎日の再開か」

「やな。とりあえず、ジュースでも買ってくるわ」

 そういって村主は大きな体を面倒そうに起こし、少し離れた場所にある自販機へノロノロと歩いていく。

 浩介は、さてどこへ連絡をいれようか…と考え、履歴から春原の番号を選んだ。

「もしもし、こ」

『沢渡浩介君ね!春原です!爆弾発見しました!今、警察が来て待避をしてて!私は全職員を学外へ!木村君も誘導してて!』

 いきなり興奮した春原の声が飛び出してくる。

「あ、あの、落ち着いて下さい。僕らは今、その学校の正門にいます」

『せ、正門に?…あ、見えました!待ってて、今そっちへ!』

 浩介が正門から学内を見ると、確かに遠くから息を切らせて春原が駆けてくる。後ろに木村もついてくる。

 肩を上下させた所長が頭を下げた。

「あり、がとう、ございました…あなたからの情報で、不審な郵便物を見つけて、調べたら、確かに爆弾で…」

「あ、あの、今、研究所からの避難は完了して、警察が、研究所を封鎖して…爆発物処理班を、待っています。た、助かりました!」

 研究主任の木村も青ざめた顔で頭を下げた。その横を、さらにパトカーが学内へ向けて何台も走っていく。

「はぁ〜、よかったぁ〜」

 改めて安堵した浩介の手で携帯が鳴り出す。見ると、紗理奈からだった。ノンビリと耳に当てる。

「もしも」

『ああああ兄貴ぃ!そそっから逃げ逃げ逃げ!逃げてえーーーー!!』

 さっきより悲鳴に近い声が携帯から飛び出してくる。

「待て、落ち着け、爆弾なら発見されて」

『違うちがが違うぅ!犯人が、爆弾の!そっち!ねねねらねら!逃げて!早くそこから逃げてえぇ!』

「イヤ待て、お前、落ちつけって」

「なんや?そっちもかいな」

 関西弁に振り向くと、顔をしかめながら携帯を持つ村主が戻ってきていた。

「紗理奈が何か言ってるんだけど、何を言ってるのか分からないんだ」

「こっちは篠山や。逃げろと叫ぶばっかでサッパリわからん」

  《逃げろって言われても、爆弾なら見つかったんだけどね》

「何か慌てふためいてて、こっちの話を聞いてくれないなぁ」

 リュックに隠れるツキノワも呆れてしまう。

 浩介の携帯の向こうから、なにやら叫び声が遠くなり、ドタバタと足音が聞こえる。

『もしもし、こちら名香野警察署の垣元だ。電話を代わった』

 パニックな妹の声に代わって冷静な男の声が出た。

「あ、刑事さん。お久しぶりです。妹の誘拐事件ではお世話に」

『待て!そこはどこだ?周囲に警官はいるか?』

 またも話を遮られた浩介は、とりあえず大学の様子とかをかいつまんで説明した。

『よし、なら話は早い。その辺の警官を捕まえて、そこにいる全員を保護してくれるよう頼むんだ!』

「え?ええと、確かに警官もパトカーも沢山走ってますけど…え?」

『こちらからもそっちの警察に連絡を送る!急げ!』

「はぁ…?」

 隣をチラリと見れば、村主の巨体もポカンとしてる。同じ話を受けてるらしい。首を捻りながら、正門から見えるパトカーへ小走りで向かっていった。話を聞いていない春原と木村はキョトンとしたままだ。

「あの、今、友達が近くのパトカー呼びに行きました…いったい、何なんですか?」

 携帯の向こうから大きく息を吐く音が聞こえる。そして刑事の声が続いた。


『犯人が、その築島大学に向かっている可能性がある』


 一瞬、浩介の息が止まった。

『君たちの家に届いた爆弾。君の友達が放り投げてから爆発した。何故か分かるか?』

 浩介も、浩介の耳からの音を聞いてるツキノワも首を捻る。

『あれは時限式じゃない。遅配があれば配達車が爆発する。だから本来は、開けてボンッな爆弾だ』

「そりゃ、そうでしょう」

『だが、それではツキノワを殺しに来た連中との連携は出来ない。小包がいつ届くかは正確には分からないし、その時、君の猫が家にいるとは限らない』

「あ…」

 浩介もツキノワも、いまさら気が付いた。投げてから爆発なんて、出来すぎてる。有り得ない。

『つまり!あれは遠隔操作式でもあったんだ!犬に追われた君の猫が家に逃げ込んでから爆破する気だったんだよ!君の家の近くで、犯人は双眼鏡か何かで様子をうかがっていたんだ!』

 心臓の鼓動が高鳴る。

 頭から血の気が引く。

 携帯を持つ手に汗がにじむ。

 ツキノワは周囲の目を無視してリュックから頭を出した。その視界は浩介の背中側の視界。首の下に白い三日月模様の黒猫の猫を見て驚く春原と木村。正門の向こうで警官と話をしている村主。学内から出てくる沢山の人達。そして正門前の騒ぎで生じた渋滞の車列が映っている。

『家に届いた爆弾は、猫が家に戻った後、投げられてから爆発した!それは、コントローラーの電波が届く場所まで近寄るか、起爆コードを入力していたか、その両方によって生じた時間差だったんだ!』

 渋滞の車列から、何だ何だと人が下りてきている。正門から中を覗こうという人だかりもできはじめている。春原と木村はツキノワを近くで見ようと、浩介へ向けて歩いてきている。

『つまり!犯人は君の家の爆破に失敗したのを見て、すぐに次のターゲットへ向かったはずだ!築島大学の生命科学研究所へ!当然だが犯人は、そこの所長の顔も、そして、君の顔も予めチェックしている!』

 人だかりの中に、背広姿の男がいた。皆が皆、大学の方を眺めている中で、何故か別の方を見ていた。背中を向ける浩介達の方を、真っ直ぐに。

 男の腕が、背広の内側へ差し入れられる。


 ツキノワが、飛んだ。

 リュックから飛び出し、左へ着地する。

 浩介は右へダッシュ。

 男は、後ろも見ずにいきなり駆け出した浩介に驚く。その目には、正面に春原と木村、右に駆け出す浩介、左の地面に着地したツキノワ。胸ポケットから抜かれた銃口が、どれを狙うか迷い宙を一瞬さまよう。

 黒猫が左の地面を駆ける。男の左足に爪が突き立つ。布地を貫通した大きく鋭い爪が、ズボンごと一気に皮膚を切り裂いた。身をよじる男が何か悲鳴を上げる。日本語以外の、聞き慣れない言語の悲鳴を。

 腕が振り回され、拳銃の銃口が上を向く。

  バキィッ!

 浩介の右パンチが、男の顔面ど真ん中にめり込んだ。

 男の体が吹っ飛ぶ。拳銃が宙を舞う。勢いをつけたツキノワの体が、アスファルトに食い込ませた爪で急停止する。

 人だかりの中、悲鳴が上がる。吹っ飛んだ男の体が人だかりの中に突っ込んで、何人にもぶつかって、アスファルトの上に倒れ込んだ。浩介達の方へ歩いてた村主と警官達が、騒ぎに気付いて走り出す。

  《やった、やったよ!》

 浩介の頭にツキノワの勝利の声が響いた。

 浩介は大きく息を吐き、ツキノワの方を向く。

 そこには、得意げに浩介を見上げるツキノワがいた。

 そしてツキノワの後ろ、人だかりの中から、ツキノワへ銃口を向けるジーパン姿の女もいた。

「避けろぉっ!」

 浩介が叫ぶ。

 ツキノワが後ろを向く。

 女が引き金を引く。


 銃声が響いた。





 築島大学医学部付属病院、最上階。

 広くて綺麗な個室には、大きなベッド、テーブル、冷蔵庫に最新型TVがある。壁際の机の上にはパソコンやプリンター。窓際には固定電話と、紙が延々と出され続けるFAXがある。

 TVは報道特番を流していた。

『・・・この二件の爆弾事件について、たった今レッドビーズへ強制捜査が入りました!完全武装の特殊部隊も見えます!入り口で抵抗していた構成員は機動隊員に強制排除されました!この強制捜査は世界各国で同時に行われ、各国の捜査機関が連携して捜査体制を築いていると・・・』

 ネオンが光るビルの入り口、報道陣に囲まれた警官達が次々と突入していく。

 TVのチャンネルが切り替わる。報道陣を前にした背広の人々が書類を読み上げている映像が映った。

『・・・究所の御厨誠一郎氏個人による秘密研究であり、当大学は一切関与しておりません。また、御厨研究員が遺した資料には、サンプルナンバー318の廃棄処分が記されており、これが現在のツキノワであるという証拠は見あたらず、この点は今後の調査と研究が・・・』

 画面の下には『築島大学学長による記者会見。ツキノワ研究開発の真相発表』というテロップが流れている。学長が原稿を読み上げる間にも、記者達からは『ツキノワに組み込まれたのは、いったい誰の遺伝子なのですか!』『レッドビーズだけでなく、宗教団体や環境保護団体からもツキノワ研究に対する懸念が発表されていますが』『ツキノワは生物兵器として日本政府が開発したのでは、という周辺各国からの…』などの質問が飛び交っている。

 コントローラーを持つ手が、再びチャンネルを変えた。

 それは築島大学医学部付属病院の入り口を生中継していた。女性のレポーターがマイクを握りしめ、、深夜にも関わらず病院入り口に集まった群衆を背に大声で興奮した実況を始める。

『ご覧下さい!深夜なのに、この人だかりです!彼等は動物愛護団体のみならず、飼い主の兄妹が在籍する小立高校や名香野第一中学の生徒父兄の方々です!いえ、そして名香野市でツキノワと共に暮らしてきた、町の人達です!その上、ツキノワと飼い主の少年に命を救われた築島大学の職員や生徒達もいます!

 人々は口々に、ツキノワを救え!生命の尊厳を踏みにじるな!命の恩人を解剖するなんて許さない!と訴え・・・』

 椅子に座る女の手がコントローラーの電源ボタンを押す。とたんに部屋は静寂に包まれる。


 彼女が振り返ると、そこには少年がいた。白い布団を腰までかけ、ベッドの頭側を上げてもたれている。

「また、あなたの周囲はうるさくなるようですね」

 少年は何も答えない。だまって俯いている。

「ともかく、遅くなりましたが、お礼を言わせて下さい」

 女は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「沢渡浩介さん、あなたのおかげで築島大学に被害は出ませんでした。築島大学生命科学研究所所長として、心から感謝します。本当にありがとうございました」

 春原所長に頭を下げられても、浩介は何も言わない。ただ黙って顔を伏せ、自分の布団を見つめ続ける。

 沈黙が流れる。

 ようやく頭を上げた春原は、少し視線を泳がせ、言いにくそうに呟く。

「あ、あの、ツキノワの事は、本当に申し訳ありませんでした。私達の力が至らなかったばっかりに…」

「謝らなくて、いいよ」

 俯いたままの浩介は、ようやく呟く。

「でも、私達を守るために、ツキノワは撃たれたのです」

「それは…僕達が調子に乗って、ここまで来たせいです。警察に任せて家から動かなければ、そうすれば、ツキノワは撃たれたりしませんでした」

「あなた達がいなければ、間違いなく私が射殺されていました。それだけは確かです」

 俯いていた浩介は掛け布団をめくる。

「ただ、僕が言いたいのは…」

 布団をめくった浩介は、自分の太ももを見つめる。

 正確には、ふとももの上にある大きな物体を。


「こいつが重くて邪魔ってことです」


 そこには、首の下に三日月型の白線が走る黒猫がいた。

  《いーじゃないかー。お腹の傷が痛むんだから、優しくしてよー》

 彼の太ももの上には、大きな黒い体を丸めたツキノワがいた。お腹の毛が一部剃られ、包帯も巻かれている。

  《腹が痛いのはお互い様だ!お前が腹を撃たれた時とか、手術中とか、俺に届く痛みを隠すの大変だったんだぞ!おかげで気絶して、俺まで一緒に入院させられたじゃないか!》

  《なんだよー。それは僕のせいじゃないぞ。第一、撃たれたとかいっても、お腹を少しかすっただけじゃないか。手術で縫ったのだって、せいぜい五針くらいだし》

  《お、お前は麻酔で寝てただろうが…俺は、麻酔無しで、針を刺され糸が通ってく痛みがどんな凄いものか…感覚を切ろうとしても切れないほど痛かったんだぞ!》

 頭の中でケンカする浩介とツキノワ。だが、横で見ている春原には、膝の上のネコと睨みあってるだけに見える。


 窓際の固定電話が鳴った。受話器を取った浩介は、それを春原に手渡した。

「木村さんから」

 受け取った春原はしばらく話をする。そして受話器を置いて、浩介へ微笑んだ。

「ツキノワとあなたが一緒にこの部屋で入院しても良いって、特別許可が出たわ」

「助かります」

「さすがにドクター達とか、病院に猫を入院させるなんて衛生管理上…て、文句を言う人もいたけど、世論には勝てないわよ。大学の恩人でもあるのだし」

「いや、そんな…」

 頭を掻いて照れる浩介に、さらに話を続けた。

「で、自殺を図った犯人の二人組は命に別状はないそうです。あとは警察と、公安とかにも取り調べられるでしょう。

 マスコミへの会見には、あなたのお父さんが弁護士と一緒に出るそうです。今、下の会議室で準備中だそうです。

 お母さんと妹さんは、家に衣服とか取りに帰ったところでマスコミに囲まれて家から出れなくなってると。警察の増援が向かったから、大丈夫でしょう。

 あなたのお友達の、えと…」

「村主と篠原と尾野、ですか?」

「そうそう。その三人は、まだ警察です。話は終わったそうだけど、警察署もマスコミに取り囲まれて、パトカーすらも簡単には出れないほどだそうよ」

 浩介の口から、はあぁ〜…と、特大の溜め息が漏れる。

「まったく…また入院生活かぁ〜俺の夏休みがぁ〜」

  《おまけに今回は、傷が治るまで、僕までここから出られないよぉ》

 足の上の猫まで溜め息をつく。

 いったん話を切った春原は、FAX用紙の束を手に取り、浩介へ差し出した。

「これがツキノワの体毛を分析した中間報告書です。それと、ツキノワを手術した際に撮影したCT、MRI、レントゲン画像。血液の検査値表など。御厨の研究資料も入っています」

 出された方は、思いっきり眉をしかめてしまった。

「もちろん勝手にデータを取られて不愉快だとは思います。ですが銃撃を受けて倒れた以上、治療を行う為に検査データが必須で」

「あ、いや、それは分かってます。そういう事じゃないんです…その…」

 浩介の手が、まるでテストの答案を受け取るかのようにFAX用紙を手にした。そしてしかめっ面で内容を見る。

「読めないんです…難しくて」

 確かに紙面に記されているのは、専門用語が英語と日本語で入り交じり、複雑な化学式や数字が大量に並べられ、何を映したのか全く分からない画像など。高校生に読めるはずがない。

 そんな浩介に春原はニッコリ微笑んだ。

「安心して下さい。分からない所があるなら、私が詳しく教えます。夏休みは長いのですから」

 対する浩介は冷や汗が流れてしまう。

「結論は、簡単に言うと、ツキノワに組み込まれているのは貴方の遺伝子ということ」

「やっぱり…」

 驚かずに納得した浩介。それを見た春原の方も不思議そうにはしない。

「やっぱり…予想していましたか?」

「ええ、多分そうだろうな〜って」

「冷静で助かります。それでは、詳しく説明します。このデータは貴方とツキノワの免疫型なのだけど、これが完全に一致するなんて常識的には」

「あ、あの!ちょっと待って!」

 紙の束を指さしながら講義を始める科学者を、浩介は慌てて止める。

「そのぉ…また今度でお願いします」

「そうですね。私も緊急会議に呼ばれていますし、またにしましょうか。ではお休みなさい」

 軽く頭を下げた女は、部屋を出ようと背を向ける。

  《浩介君…》

 ツキノワの声が浩介の頭に響く。

  《言わなきゃ、ダメか?》

 黒猫が見上げてくる。

  《僕はしゃべれないから、代わりにお願い》

  《はぁ…ま、しょうがないな。言わないわけにはいかないか》

「あの、待って下さい」

「はい?」

「一つだけ、言わせて下さい。ツキノワも同じ事を言いたいようなので」

 春原は向き直る。メガネ越しに見えるのは、彼女をじっと見つめる浩介とツキノワの四つの瞳。

 人と猫が、同時に頭を下げた。


「治療してくれてありがとう、母さん」


「え…?」

 母さんと呼ばれた彼女は、呆然として立ちすくむ。

 呼んだ方は耳まで真っ赤にした顔を背ける。

「だ、だから、母さん、ありがとう…て。

 だって、春原さんは僕の、産みの親で、ツキノワにも僕の遺伝子が入っているなら、ツキノワと僕は兄弟で、やっぱり春原さんが母さんだから…まぁ、そういう事で…」

 だんだん小さくなる浩介の声。

 部屋が静寂に包まれる。

 最上階の部屋に、1階の入り口前に集まる人々の声が僅かに届く。

 母は顔を伏せ、何も言わない。

 息子の人間と猫は、照れ隠しに窓の方を見る。


 水滴が落ちる音がした。


 浩介とツキノワが振り返ると、俯いたままの春原が肩を震わせていた。両手は自分の服を力一杯握りしめている。そして両目から、止めどなく涙がこぼれ落ちていた。

「…ごめん、なさい」

 母は、声を絞り出す。

「ごめんなさい…本当に、ごめん…」

 こぼれ落ちる涙も拭かず、ただ誤り続ける。

「あたし、あなたを、浩介を捨てて、研究を選んで、でも、後で後悔して、だけど、今さら合わせる顔が、無くて…」

 浩介とツキノワは顔を見合わせてしまう。

「あ、あの…」

 かける言葉が思いつかず、とりあえず呼びかける浩介。

 弾かれるように母は駆け出した。恥も外聞もなく、ベッドの息子に抱きつく。

「ごめんなさい!浩介、…ごめん、うああ…会いたかった!ずっと!あなたに会いたかったの!でも、でも、今さら、まだ小さかった、あなたを捨てた、最低のあたしが、母だなんて!言えなかったの!ごめんなさい!本当に、本当にごめんなさい…あたし、母親失格だから、妻としても、人としても失格だから!もう、あたしには研究しか、残ってなかったから!だから…うあ…うう…」

 息子に抱きつき、泣きながら必死に謝る母。

 驚いていた浩介は、優しく彼女の背に腕をまわす。

「いいよ、母さん…もういいから」

 ツキノワも体を起こし、浩介に抱きつく彼女の体に頭をすりつける。

「ほら、ツキノワも気にするなってさ」

 母の泣き声が一際大きくなる。

 力一杯、自分の子を抱きしめる。

「ごめんなさい…ごめんなさい!本当に、ごめんなさい・・・」


 彼女は泣き続けた。

 病室の扉が開き、木村主任や医師達が入ってきた事にも気付かないほど泣き続けた。

 彼等は困った顔を見合わせて、そのまま黙って部屋を出て行った。

 人と猫の体を持つ子供達に慰められながら、母は泣き続けた。



                2  思い出話   終

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